「よう、アンジェリーク、暇してるんじゃないかと思って遊びに来てやったぜ。」
「ゼフェル様…」
チャイムの音に弾かれるようにドアにかけより、勢いよく開けたそこには細身の少年が所在なげに佇んでいた。
どことなくバツの悪そうな顔で頬を微かに赤らめ、アンジェリークと視線があうと一瞬ぱっと目をそらした。
だが、アンジェリークがドアを開け放したまま、それほど長い時間ではなかったが来訪者に応対するでもなくぽーっとしていると、ゼフェルは突然真剣な表情でアンジェリークに向き直り、
「だーっ!俺を部屋にいれるのか、断るのかはっきりしろよ!こんなとこ誰かにみられたら、こっぱずかしいだろうが!」
と、怒ったような声で一気にまくしたてた。
アンジェリークはその剣幕に一瞬瞳を大きく見開いたものの、特に驚いた様子もなく極普通の態度で
「失礼しました、ゼフェル様、どうぞお入りください。」
と言って、ゼフェルを部屋に招き入れた。
慣れているので驚くほどのことではないという余裕のようなものが態度に現れていた。
「ったく、おめーは相変わらずとろくせーったらねぇな。」
ゼフェルが仕方ねえなという顔つきで、猫のような優雅な身のこなしで部屋に入ってきた。
『だから、ほおっておけねぇんだよ…』
という言葉を心の中だけで呟いていた。
「ごめんなさい、ゼフェル様。」
アンジェリークは素直に詫びる。
ゼフェルの言葉は額面通りに聞くときつく感じられるが、その口調にはどこか自分をいたわるような優しさが滲み出ていることに今のアンジェリークは気付いている。
自分が人恋しい気持ちでいるから余計にそう思うのかもしれない。
ゼフェルのせっかちともいえる対応に待ち人のこない切なさ、やるせなさが今この時は軽減していることも、はっきりと感じる。
しかし、だからこそ、ドアを開けたときに失望を感じたことにアンジェリークはより一層のやましさを覚えた。
『あの方じゃなかった…』
アンジェリークがゼフェルの来訪に機敏に応対できなかったのは、失意に心が一瞬空白になってしまったからだった。
ゼフェルがアンジェリークの鈍い応対につい激発してしまったのは、自分が女子寮の前にいつまでも佇んでいる事を誰かに見られることを、少年らしい潔癖さで厭うたからだろう。
その過剰なまでに尖った自意識の繊細さ、簡単にいえば『照れや』なところはいつも変わらない。
ゼフェルのいつもと変わらない態度が、アンジェリークをなんとなくほっとさせてくれる。
だがゼフェルはその照れを自分に気付かれること自体がまた気恥ずかしくて、それを隠そうとつい声を荒げてしまうのだろう。
そのゼフェルの心情を思ってアンジェリークは素知らぬ風を装った。
飛空都市にきた当初、アンジェリークはゼフェルの感情の激発や乱暴な言葉使いにいちいち驚いたり怯えたりしていた。
自分の父が声を荒げることなど物心ついてから見た事がなかったアンジェリークは、ゼフェルのぶっきらぼうな態度それ自体がなんとなく恐かった。
時折、いきなり大声をだされることもあって、でもアンジェリークはそのわけがわからず、ゼフェルにどう接したらいいか戸惑う事が多かった。
だが今はゼフェルのこういった反応が少年らしい羞恥の現れや、本人も持て余し気味の豊かな感情の発露であることがわかってきた。
アンジェリークはゼフェルの乱暴な言葉使いや、ぶっきらぼうな態度の裏にある優しさを感じ取れるようになってきていた。
あの人のことを思い続けた時間が、人の心の内側を推し量る力を与えてくれたような気がするとアンジェリークは思う。
表面に現れる態度だけがその人の全てではないこと、心の中に本当のその人が隠れている事があるということを、あの人との出会いが教えてくれた。
どんな考えも、どんな事象もすべてがあの人に繋がってしまい、またアンジェリークの胸が苦しくなりかけたとき、
「おい、どうした?ほんと、おめー、いつにも増してぼーっとしてるぜ、大丈夫か?」
とゼフェルに声をかけられた。
我に返ったアンジェリークは慌てて
「あっ!すみません、ゼフェル様、お席もお薦めしないで失礼しました。いま、すぐお茶をおいれしますね。」
と小走りに簡易キッチンに向かおうとした。
それをゼフェルが押し留めた。
「いいから、ここにいろ。おめー、この頃マジでなんか元気ねーぜ。ぼーっとしてることも多いし、育成もあまりやってねーだろ?」
アンジェリークははっとして、身を縮ませしょんぼりとうなだれてしまった。
「すみません…ゼフェル様…」
今度はゼフェルが慌てた様子で手を振りながらこう言った。
「だーっ!誤解すんな、俺は説教しにきたんじゃねー!ジュリアスじゃあるまいし、おめーを責めてるんじゃねぇんだ。ただ、なんかおめーが塞いでるみたいだから、なんか気晴らしでも…と思っただけだ。」
アンジェリークがえ?と言う顔で、ゼフェルを見返した。
ゼフェルは天を仰いで、人差し指の先ですっと筋の通った鼻先を形ばかりかきながら、
「なんか育成する気もおきねーんだろ?だったら、今から俺の執務室にこねーか?おめーに見せてやりたいメカとかあるんだ。ま、気分転換ってやつになるんじゃねーかと思ってよぅ。」
「ゼフェル様…」
アンジェリークは、なにか泣きたいような気持ちになってしまった。
自分はゼフェルの気持ちも知らないで、自分の待ち人ではなかったことに失望したのに、ゼフェルは気鬱に陥っている自分に気付いてなんとか気分を盛りたてようとしてくれていることに、強い感謝の気持ちが沸き起こった。
優しくされるとなぜか鼻の奥がツンと痛くなってくる。
このところ、特にそうだ。人の優しさがよくわかる。よくみえるようになっている。そしてその優しさに触れると、嬉しいと思うと同時に、胸が締め付けられるような気がして、涙がでそうになる。
『でも、泣いちゃだめ! ゼフェル様は女はすぐぴーぴー泣くから嫌だっておっしゃってたもの。優しくされてるのに泣いたりしたら、もっとゼフェル様が困ってしまう…』
ゼフェルは優しい。優しいから女性の涙に戸惑うのだ。どうしてよいかわからず、なす術のない無力な自分に苛立つから、涙を見せられる事を嫌うような気がアンジェリークはしていた。
来ない人を待って鬱々としていたら、自分がどんどんみすぼらしくなる様で、そんな自分をあの人は喜ばないだろうと思った。
せっかくのゼフェルの厚意も無にしたくなかった。
「ありがとうございます、嬉しいです。ゼフェル様さえよろしければ、お邪魔させていただけますか?」
「ほんとか?へへっ、じゃ、今すぐいこーぜ。夕方には部屋まで送ってやるからよー。でも、このことはジュリアスのやろーには内緒だぜ?守護聖だって、執務する気がおきねー時もあるし、息抜きしてぇ時もある。女王候補だっておんなじだよな?でも、そういう気分をあのコチコチやろーは理解しやがらねーからな。」
ゼフェルが心から嬉しそうに破顔したあと、悪戯を一緒に企む子供のような顔でアンジェリークに話かけてきた。
「はい、ゼフェルさま。」
アンジェリークはうっすらと微笑んでゼフェルに頷いた。
実際はジュリアスもこのところよく自分の部屋を訪ねてくれることは黙っていた。
育成を滞らせている自分をやはり責めるわけでもなく、黙って森の湖に連れだしてくれたりしていた。
『守護聖さまが、皆様この頃とてもお優しい…なぜ?私、端から見てもそんなに落ちこんでいるのがわかるのかしら…』
その原因を考えると、また溜息がでそうになるので意識してその考えを頭の中から追い出し、アンジェリークは促されるままに、寮の部屋を出てゼフェルとともに聖殿にむかった。
「ちょっと、待ってろよ…」
執務室に入ると、ゼフェルは奥の棚から銀色に光るハンドボールくらいの直径の球形のものを取りだしてきて、アンジェリークに手渡した。
「?」
アンジェリークが、これはなにかしら?と首を捻っていると、突然そのボールの上弧がぱかっと開いて顔のようなものが現れた。
目なのだろうか。レンズの嵌った大きめのビー玉のようなものがくりくりと周囲を見まわすように動いている。
「!」
アンジェリークがびっくりして声も出せずにそのボールをみていると、そのボールから今度は先端がマジックハンド状になった手らしきものが側面からにゅっと伸びてきて、その手を上下に軽く振りたてながら、音声を発した。
「コンニチハ・コンニチハ・ハジメマシテ」
アンジェリークは一瞬あっけに取られたあと、
「うわぁっ!かっわいい!」
と思わず歓声をあげた。
ゼフェルが会心の笑みを浮かべる。
「どうだ、すげーだろ?」
アンジェリークが興奮したように、ゼフェルに向き直った。瞳がきらきらと輝いていた。
「いや〜ん、すっごくかわいいです、これ!どうなさったんですか?このロボット」
「どうなさったもなにも、おめー、俺が作ったに決まってるだろーが!前にも見せてやったことがあるだろう?もっと角張ったやつだったけどよ、あれの応用だ。おもちゃみてーなもんだが、簡単な受け答えはできるようにプログラミングしてあるから、おしゃべりもできるぜ」
「すごぉい…、すごいですねっ!ゼフェル様!」
「そんな大したモンじゃねーけどよ、照れるじゃねーか…」
アンジェリークの素直すぎるほどの賛嘆の言葉に、ちょっと居心地悪げな様子でゼフェルは瞳を伏せる。
最後のほうの言葉は、ぼそっと聞き取れるかどうかという低い声で呟かれた。
と、ゼフェルはふと何か思いついたように顔を上げると、
「おい、そいつをここにちょっと降ろしてみな」
と、自分が寄りかかっていた執務机を指差した。
「あ、はい」
アンジェリークがロボットを持ってゼフェルのそばに近づいてきた。ふうわりと微かに甘い香りが漂ってきてゼフェルの鼻腔をくすぐった。
ゼフェルのすぐ目の前にきらきらふわふわとした金の髪が揺れている。
甘い香りはその髪から仄かにくゆっているようだった。
石鹸?ヴァニラ?あまり人工的でない清潔感のある甘い香りが自分の体を満たし、その分ゼフェルの頭の中は空っぽになっていく。
どこまでも柔らかそうなその髪の手触りは、実際に見た目通りなのか確かめたいという抗いがたい欲求だけが鮮明に浮かびあがってくる。
無意識のうちにつばを飲みこみ、その髪に触れようとそろそろと手を伸ばしかけたとき、
「ゼフェルさま?」
いぶかしげに自分の顔を覗きこんだアンジェリークの声にゼフェルははっと我に帰り、空中で止まっていた手を慌てて引っ込めた。
「ぅわっ!いや、ほら、ぼーっとしてねーで、机の上にそいつを置いてみろって!」
ボーっとしていたのは自分のほうなのだが、それを悟られたら俺は死んじまう、と真剣にゼフェルは思った。
自分の心臓の音がアンジェリークに聞こえるんじゃないかと思い、一度気になりだすとさらに自分の鼓動が部屋中に大きく響き渡るような気がした。
口の中はからからに渇いていた。
アンジェリークはゼフェルの動揺に気付いた様子も無く、言われるままにその球形のロボットを机の上にちょんと乗せた。
するとその下弦の部分からこれまた小さな足がにゅっと伸びてきて、そのロボットはよちよちと危なっかしい足取りで歩き始めた。
「きゃ〜〜〜!歩いた!歩いたわ!これ!や〜ん、なんてかわいいの!」
アンジェリークが更に歓声をあげた。ゼフェルはそのアンジェリークの反応に救われた思いだった。
「気に入ったか?それ」
「私、こんなかわいらしいロボットみたの初めてです!ゼフェル様ってほんとにすごいです!こんなすごい物お作りになれるなんて!」
アンジェリークがゼフェルを尊敬の眼差しで見つめていた。
そのてらいも迷いも無いまっすぐな視線が眩しくてゼフェルのほうはつい目をそらしてしまう。
金色に輝く髪も緑柱石の瞳もなにもかもが眩しくてゼフェルの目を眩ませる。
アンジェリークがロボットのほうに目を戻し、その頭らしき部分を白く小さな手でそっとなで始めた。
嬉しそうな顔で咲き開いた花のように笑っている。心の底から自然と溢れ出てくる笑みだった。
その横顔にゼフェルはまた見惚れていた。
こんな明るい笑顔を見るのは久しぶりのような気がした。
がんばってあれを作った甲斐があったと思った。アンジェリークが喜んでくれてよかったと、思った。
アンジェリークに笑顔を取り戻させてやれたという自負に胸が熱くなった。この笑顔が見たかったんだと、今更ながら思い知った。
アンジェリークが最近暗い沈んだ顔をしていることにゼフェルは気付いていた。
周囲に人がいるときは微笑んでいたが、無理して笑っているのがゼフェルには見え見えだった。
気付かれないようにアンジェリークを見ていると、時折長い溜息をついたりもしていた。
それがなぜかも大方の察しはついていた。
なんとかして、偽りでない心からの笑顔を思い出して欲しくって、自分のしてやれることを考えたのだった。
「ようやっと、笑ったな…」
「え?」
「いや、なんでもねーよ…」
自分の言葉が聞こえなかった事に、半ば安堵、半ば落胆したような気分になった。
アンジェリークがロボットを撫でたり、その手に自分の指先を摘ませたりしていると、ロボットが手を振り振り、アンジェリークに話しかけてきた。
「ダレ?ダレ?」
「私?私はアンジェリークっていうの。アンジェでいいわよ。」
「アンジェ・アンジェ・ゲンキ?」
「ふふ、かわいい…私は元気よ。えっと、あなたは……ね、ゼフェル様、この子の名前はなんて言うんですか?」
ゼフェルが眩しいものでもみるかのように目を細めながら答えた。
「まだ、ねーんだ。名前はおめーがつけてやってくれ。」
「え?だってそれじゃ…」
「その足だからそんな遠くにはいけないけどな。おめーの部屋の中をおめーにくっついて歩くくらいのことはできるはずだぜ。」
「え?あの…」
ゼフェルの意図が汲めずに戸惑っているアンジェリークに、ゼフェルが声を荒げた。
「だーっ!もう、鈍いやつだなー!おめーがそれ気にいったんなら、おめーにやるって言ってんだよ!」
「え?そんな、あの、だって…」
『ったく、言わなくてもわかるだろうってのは、ぜってーこいつには通用しやがらねー!こんなこっぱずかしいこと、俺に言わせてんじゃねーよ!』
と思ったものの、ゼフェルはこれを作った理由を一気にアンジェリークに告げた。
「いいんだよ!おめーは黙って、それを持って帰れば!女ってのは、なんでかしらねーけど、丸っこい物が好きだろー?おしゃべりも大好きじゃねーか!なんかしらねーけど、いっつも小鳥みたいにぴーちくしゃべってやがる。だからよー、こんなやつでもしゃべり相手になれば、一人でいたくねーときでも少しは気が紛れるんじゃねーかと思ったんだっ!」
勢いに乗らなければ面と向かって理由を告げられるとは思えなかったし、理由を告げなければ、アンジェリークが黙ってこれを受け取りそうになかったので、思いきって話した。
照れくささから口調は畢竟荒荒しくならざるをえなかったが。
さすがのアンジェリークも、ゼフェルがこれを単なる手慰みで作ったわけではないのがわかったようだった。
「ゼフェルさま…これ、わたしのために…?」
アンジェリークが瞳を零れ落ちそうなほど見開いて、ゼフェルを見つめていた。
「ば…ばかいってんじゃねぇっ!おめーの、おめーのためなんかじゃ…」
図星をさされてゼフェルの顔が瞬時に耳まで真っ赤になった。
アンジェリークのためだということをわかってもらいたい気持ちがなかったと言えば嘘になる。
しかし、実際に自分の意図が伝わり、それをアンジェリークがどう受け取るかと思ったら頭の中が真っ白になった。
動転したゼフェルは反射的にアンジェリークの言葉を否定しようとしたが、アンジェリークのどこまでもまっすぐな視線に気付くとぐっと言葉を詰まらせた。
この綺麗な瞳を前に自分を誤魔化すことが、いきなり、とてつもなく苦痛になった。
「…ああ、ああ!そうだよ!おめーが喜ぶんじゃねーかと思って作ったんだ。おめーこの頃、よく溜息とかついてるじゃねーか。なんか、落ちこんでんだろ?そういう時ってよー、昼間はいいんだよ。周りに人もいるし、やりたくねーことでも、やることがあれば、その間は嫌なことでも忘れてらっれだろー?でもよー、夜一人でいたりすると、たまんねー時ってねぇか?そういう時によー、こんなおもちゃみたいなモンでもそばにいたら、ちょっとはましなんじゃねーかと思ったんだ、俺は!」
ぷいと横を向いたまま、自棄のような口調で一気に話しきった。
アンジェリークの目を見て話すことはできなかったが、こんな率直な感情を告げたのは初めてだった。
アンジェリークの沈んだ表情を見ていると、ゼフェルは自分が無理やり聖地に連れてこられた時のことを否応無く思い出してしまうのだ。
心を落ちつけて好きなことのできる夜が自分は好きだった。
夜空を見ると心が落ち着いた。
そんな自分でも、なにもする気になれず、そのくせどうしても一人でいたくない夜もあった。
そういうとき、自分は主星におりて夜通しあてもなく夜の街をさまよったり、エアバイクを思いきり走らせたりした。
だが、今のアンジェリークにはやり場のない孤独をぶつけ、紛らわせる術はないのだ。
女王候補が主星に脱走できるとは思えなかったし、そんなこと自体思いもよらないだろう。
でも、それはどんなに寂しくても、アンジェリークは一人寮の部屋で夜が過ぎるのを待たなくてはならないということだ。
そう思ったら、いてもたってもいられなくなって、アンジェリークが喜びそうな物を考えて他のことは一切返上してこのロボットを組みたてていたのだ。
『こいつ、俺と同じだ…』
アンジェリークを初めて見たときゼフェルはそう思った。
なにもわからないうちに、望むと望まざるとに拘わらず、無理やり自分の属する世界と隔絶させられた存在。
だが、女王試験が始まってすぐに、アンジェリークと自分はまったく似たところはないことを思い知らされた。
アンジェリークは自分の投げこまれた境遇から逃げようともせず、拗ねる事もなく、なんにでも精一杯、一生懸命真正面からぶつかって行った。
ゼフェルはアンジェリークを見ると苛立った。ただの能天気な女だと思っていた。何も考えていないから自分の背負わされた運命の重さも気にならないのだと思った。
「女なんかばかばっかしだ。なんも考えてやしねー。お気楽なもんだぜ。」
見ていると苛立つのに、なぜかその存在が気になった。
あちこちの壁にぶつかりながら、時には転び、涙をこらえ、それでも前に進もうとしているアンジェリークが不可解だった。
ロザリアのように幼い時から女王の適正を認められ、その心構えを持つよう教育されたわけでもないのに、なぜ、突然投げこまれた運命に疑問も抱かず、こんなに一生懸命がんばれるのか、理解できなかった。
だが、アンジェリークを見ているうちに、拗ねている自分がだんだんばかみたいに思えてきた。
たとえ、逃げたくても逃げることが適わない以上、自分の運命にまっすぐぶつかって受け入れることの方が、難しい、勇気のいる事だと本当はわかっていた。認めたくないだけだった。
それを否応なしにみせつけるから、最初アンジェリークを見ていると苛立ったのだ。
そして、なぜアンジェリークはこんなに強いのかと驚嘆した。その明るさが眩しく思えた。
眩しいのに目が反らせず、逆に引き寄せられるかのようだった。
気がつくと目でアンジェリークを追っていた。だから、すぐに気付いた。
アンジェリークの顔がこのところ輝きを失っていたことに。
明るく振舞ってはいたが、無理に笑おうとしているようにしかゼフェルには思えなかった。
見るもの皆を温かい気持ちで満たしてくれるような、心からの眩しい笑顔を取り戻してほしかった。
アンジェリークから本当の笑顔を奪ったあいつが憎かった。
「…いいんですか?ゼフェルさま…ありがとうございます…」
アンジェリークの大きな瞳からぽろっと一粒だけ涙が零れた。
「うわっ!泣くな!泣かせる為に作ったんじゃねー!泣くならやんねーぞ、それ!」
「あっ!ご、ごめんなさい、嬉しいんです。泣きたいんじゃないんです。なのに…」
「だから、泣くなっつてんだろーが!それから、あやまるんじゃねーよ!」
ゼフェルは、ハンカチを探して体のあちこちをひっくり返した挙句諦めて、その繊細な細い指先で頬を伝う涙を拭ってやった。
「寂しくなったら、こいつに遊んでもらえ」
「はい、ゼフェル様」
アンジェリークが懸命に笑おうとしていた。その作られた笑顔が痛々しく見えた。
「無理に笑わなくてもいーんだよ。おめーが自然に笑える様になるまで、無理すんじゃねー。…でもいいか?いくら寂しいからってそいつに『オスカー』なんて名前つけるんじゃねーぜ…」
こいつが悲しそうな顔で無理に笑おうとするのもあいつのせいだ、そんな思いがついその名前を口に出させてしまった。
しまったと思ったが、後の祭だった。
「…ゼフェルさま…」
アンジェリークが驚愕に瞳を見開いた。表情が硬く強張った。
『やっぱりあいつの所為なんだな』
アンジェリークの反応に間違い無いと思った。問い詰めてもどうにもなるものでないとわかっていても、言葉が止まらなかった。ずっと胸に抱いていた懸念をぶつけないことには気が済まなかった。
「ほら、そんな悲しそうな顔をするのは、あいつのせーだろ?わかってんだよ。おめーが笑わなくなったのは、あいつが聖殿に出仕してこなくなってからだ。なんでそんな悲しそうなんだ?あいつに一体何されたんだよ?」
アンジェリークが顔色は蒼白にも拘わらず、すごい勢いでゼフェルに食って掛かってきた。
「そんな!オスカー様はなにもしてません!私が…、私がわがままなだけなんです。オスカー様はなにも悪くないんです!」
「なんで…なんで、あいつのことを庇うんだよ!?何でもないなら、なんでしょっちゅう溜息付いてるんだよ?俺はそんなおめーは見たくねぇんだよっ!」
ゼフェルの胸中に音をたてて怒りが込み上げ、その心を支配した。
こんな辛そうなのに、それでもオスカーを庇おうとするアンジェリークにゼフェルは激しく苛立った。
「もう、あいつのことなんか忘れちまえよ!」
言葉と同時に体が動いた。その華奢な体を腕の中に閉じこめて、細い背骨をおれよとばかりに抱きしめていた。
「俺だったら…俺だったら、ぜってーおめーにあんな顔させねー!」
そうだ、俺だったら、こいつにあんな顔させねー、絶対いつも笑っていられるようにしてみせる!思えば思うほど腕にこめられた力も強くなった。
アンジェリークは抱きすくめられたまま一瞬呆然と身を硬くしていたが、我に返ると懸命にゼフェルを押しのけようとした。
「や…ゼフェル様、離して…くるし…」
「だめだ!あいつの事を忘れるって言うまで離さねー!」
アンジェリークの瞳からぽろぽろと涙が零れ落ちてきた。
「や…いや…オスカー様の事を忘れるなんて…まだ、なにも言ってないのに…なにも聞いてないのに…それなのに諦めるなんてできない…」
ゼフェルはアンジェリークのこの言葉に自分の耳を疑った。
どういうことだ?アンジェリークが沈んでたのは、オスカーになにか酷いことを言われたとか、振られたからとかじゃないのか?
ゼフェルは腕の戒めを緩めるとアンジェリークの二の腕を掴みなおし、アンジェリークの瞳を見据えて激しく問い詰めた。
「おい、アンジェリーク!おまえ、オスカーになにか酷いことされたとか、その、告って振られたとかじゃねーのか?!それで落ちこんでたんじゃねーのかよ!」
アンジェリークは驚愕に唇をわななかせ、ぱくぱくと陸にあげられた魚のようにしばらく口をあけているだけで言葉を発せずにいたが、擦れた声でようやくゼフェルに答えた。
「ち、違います…オスカー様にまだ、自分の気持ちも言えて無いんです。だから…」
自分のはやとちりと先走りにゼフェルは漸く気付いた。
途端にあまりの恥ずかしさ頭にかぁっと血が上り、アンジェリークにきつい口調でやつあたりを始めてしまった。
「この…この…大馬鹿やろうがっ!おめーが思わせぶりな溜息ついたりするから、すっかりそうだと思っちまったじゃねーかっ!まだ、振られてもいねーのに、これみよがしに落ちこんでんじゃねーよ!心配してた俺がばかみてーじゃねーかっ!」
このゼフェルの言葉に、アンジェリークの顔がくしゃくしゃっと崩れたと思うと、アンジェリークは床にぺったりと座りこんでしくしくと泣き出してしまった。
「ふぇ…そんな…そんな…思わせぶりとか、これみよがしに落ちこむなんてしてないもん…一生懸命我慢してたもん…オスカー様に急に会えなくなっちゃて…いつお会いできるかわからくて…寂しかったけど、一生懸命我慢しようとしてたのに…なのに…」
あとは声にならず、えっえっと泣きじゃくりながらアンジェリークは童女のように自分の掌で涙を拭っていたが、それはなんの甲斐もなく涙は溢れ続けていた。
またやっちまった…ゼフェルは額に手を当てて激しい自己嫌悪に苛まれていた。
そう、アンジェリークは一生懸命普段通りに振舞おうとしていた。少なくとも人目のあるところでは、懸命に明るく振舞っていた。いつもアンジェリークを見つめていた自分だから、その不自然さに気付いたのだ。その原因が自分の予想と違っていたからといって、アンジェリークを責める権利があるわけない。
自分のはやとちりが恥ずかしくて死にたい気分になったからといって、アンジェリークに当たっていいというものではないのだ。
「悪かった、すまねぇ、アンジェリーク。おめーががんばってるのはわかってた。でもよー。俺には落ちこんでるのも見え見えだったんだ。だから、俺はてっきり……あの野郎と会えないからってだけで落ちこんでるとは思ってもいなかったんだ…それっくらいのことであんなにおちこんでんじゃねーよ、まったく…」
自分で言った言葉にゼフェルの胸は激しく疼いた。
『こいつがまだオスカーをすっげー好きだからって、なんで…なんでこんなに苦しくなるんだよっ!俺は!』
アンジェリークが、オスカーに思うにまかせず会えないというだけであれほど沈んでしまうということが、オスカーへの思いの深さをそのまま現しているということを、自分で言葉にすることで改めてはっきりと思い知らされた。
「だって…だって…お、オスカー様に気持ちを打ち明けるんだって決心した途端に会えなくなっちゃったんだもの…いつお会いできるかもわからなくて…だんだん決心もぐらついてきちゃうみたいで不安で…ふぇ〜〜」
座りこんだまままた泣き出してしまったアンジェリークに、ゼフェルは手を差し伸べて立たせてやりながら、優しい声で訊ねた。
「おめー、あいつがそんなに好きか…」
鼻をすすりあげながら、アンジェリークはそれでもはっきりこくんと頷いた。
「今度会えたらあいつに、気持ち、うちあけるんだな?どんな結果になっても…」
なんの躊躇いもなく頷き、アンジェリークはしゃくりあげながら堰を切ったように訴え始めた。
「だって…こんな気持ちのままじゃ、育成なんてできない…女王になることなんて考えられない…でも、でも、エリューシオンの人たちのためにも、このままじゃいけないと思って…きちんと伝えらたらけじめがつけられると思って…だから、だから、勇気を出そうと思ってたのに、でも、でも、それもオスカー様にお会いできなくちゃ…」
ゼフェルは黙ったまま、泣きじゃくるアンジェリークを今度は柔らかく胸に抱きとめて髪を撫でてやった。
アンジェリークもゼフェルの手を拒もうとはしなかった。
ゼフェルの薄い胸に触れるか触れないかという距離に体をおき、閉じた瞳から静かに涙を零していた。
アンジェリークをその細いかいなで支えながらゼフェルの胸は激しく疼いていたが、一方で『こいつには、まったくかなわねーや』と心から思ってもいた。
なんで、こう前向きなんだ。結果を恐れず飛び込んで行けるんだ。
でも、だからこそこいつには後悔がない。力を尽くしきるからどんな結果になれ、後ろを振り向かずにまた前へ進んで行けるんだ。
アンジェリークの髪を撫でながら、ゼフェルは髪の一房を掌ですくいあげ、気づかれぬようにその巻き毛にそっと唇を寄せた。
艶やかでやわらかで少し冷たい巻き毛の感触に一瞬だけ酔ったのち、ゼフェルの心にもある決心が生まれた。
「アンジェリーク、いいか、よく聞けよ」
ゼフェルがアンジェリークの頬を両手で挟みこんで自分のほうに向かせた。
「?」
アンジェリークが瞳を見開いてゼフェルを見つめ返した。
「おめーがオスカーに気持ち打ち明けて、うまくいけばそれでいい。でもよー、もし玉砕しちまったら、いいか、すぐ俺ンとこに来い。んで、俺ンとこで思いっきり泣け。好きなだけ、気が済むまで泣け。我慢するんじゃねーぜ。もう、おめーの気持ちは知ってるんだ。俺の前ではなんも無理するな、なんも隠さなくていい。わかったな?」
「ゼフェルさま…」
アンジェリークはぽかんとしてゼフェルの瞳を見つめた。
ルビーレッドの瞳は優しい光を湛えて自分をみているのに、どこか切なげでもあった。
すると、次の瞬間ゼフェルがくっと苦笑しながら、こう言った。
「あーあ、しかし、おめーもまったく男を見る目がねーよな。あんな野郎好きになったら苦労するのが目に見えてるのによぅ。でも、おめー以上にあのやろうに女を見る目がなかったら…いいか?その時は仕方ねーから、おめーは俺が引き取ってやる。いいな?」
アンジェリークがたっぷりと10秒は沈黙した。
ゼフェルの言葉を頭が噛み砕いて理解すると、アンジェリークは更にパニックに陥りそうになった。
「え?え?だって、そ、そんなゼフェルさま…」
オスカーがだめだったら、ゼフェルだなんてそんなムシのいいことできるわけない…第一ゼフェルに失礼だと言い募ろうとした矢先に、ゼフェルの人差し指が鼻先につきつけられた。
「俺がいいっつってんだから、いいんだよっ!おめーは、なんも気にしなくていいんだっ!ったく、俺みてーないい男がおめーをもらってやってもいいって言ってんだから、厚意は素直に受け取れよな!素直だけがおめーの取り柄だろ?」
アンジェリークは瞳を零れそうなほど大きく見開いた。まだ、心の整理がつかないのだろう。自分の気持ちもアンジェリークにとっては寝耳に水だったろうから。今はそれでも仕方ないとゼフェルは思った。
「だから、安心してぶつかってきやがれ、骨は俺がひろってやらー。」
「え、えっと…は、はい…」
ゼフェルの突然の告白にまだ思考がおいついていなかったが、アンジェリークはゼフェルが自分を応援してくれるらしいことだけはなんとか理解できた。
理解すると同時に心に灯がぽっと燈ったようで、じわじわと胸が温かくなるような気がした。
おりしも執務室の中は暖かな朱色の光で満たされつつあった。
「お、そろそろ日も暮れるな。んじゃ、部屋まで送っていってやらー。さ、こいよ。」
「あ、はい、あの、これ…」
アンジェリークが机の上にちょこんと座ったままのロボットを手にとった。
それは二人のやりとりをおとなしく見守っていた。
「だから、それはおめーにやるっていってんだろうが!かわいがってやってくれよ。」
「あ、はははい!」
アンジェリークが何度もこくこくと頷いた。
「いくぜ」
ゼフェルはそのまま後ろも見ずにすたすたと歩き出した。
アンジェリークが黙ってあとからついてくる気配を感じた。背中が熱かった。
寮へと帰る道すがら、二人はなにも話さなかった。
アンジェリークはもらったロボットをしっかり胸にだきしめたまま、顔を伏しがちに歩いていた。
ゼフェルは考え事をしながらアンジェリークの半歩先を歩いていた。
『俺は…俺は本当はどうしてーんだ?なにを望んでいるんだ?』
ゼフェルは自分の心からの望みは何なのかを必死に見据えようとしていた。
自分は多分、いや、絶対アンジェリークの事が好きだ。
アンジェリークが自分の胸に飛び込んできてくれればもちろん嬉しいだろう。
だが、それはアンジェリークがひとしきり泣いて辛い思いをした上でなければ有り得ない。
アンジェリークが辛い思いをした上で自分のもとに来る事と、最初からアンジェリークが幸せになれること。
自分はアンジェリークが幸せで笑っていてくれるならそれでいいと思っているような気がした。
ただ、つらい時は逃げ場があることを伝えてやりたかった。
ああ、これが自分で決めて、自分で結果を引きうけるということなんだなとゼフェルは思った。
自分の率直な気持ちを打ち明けたられたのだ。ならば結果がどうあれ、多分自分は納得できるだろう。やることはやったのだから。
アンジェリークが心から微笑んでいてくれること、それがまず基本なんだな、俺の…と思ったときにゼフェルは今までになく心が穏やかに澄んでいくような気がした。
ちらりとアンジェリークに目を向けると、アンジェリークはゼフェルのやったロボットをきつく抱きしめて懸命に自分の後についてきていた。
手の力を緩めたら、それが逃げ出してしまうか、誰かに奪われるかと心配しているかのような必死の面持ちだった。
ゼフェルはふっと微笑んだ。
『俺の替わりに…いや、あの野郎の替りにこいつのお守をしばらく頼むぜ。ったく、泣き虫でとろくて危なっかしくて、ほんと目がはなせねーんだからよー』
ゼフェルの心を読んだかのように、ロボットのセンサーがちかちかと瞬いた。
「お嬢ちゃん。寮から運びこんだ荷物はこれだけか?」
オスカーが特別寮の部屋から私邸に運びこまれたアンジェリークの荷物を使用人に私室まで運ばせるべく指示をだしていた。
「はい、オスカー様、それで終りです」
「とかいいながら、お嬢ちゃんもなにか荷物を抱えてるじゃないか。俺が持ってやろう」
アンジェリークが小さな包みを抱えているのをみて、オスカーが手を差し伸べた。
「重くないから大丈夫です。それに、ここいるのは、私のお友達だから私がお部屋まで持っていって仕舞ってあげたいんです。」
「なんだ、お嬢ちゃんの大事なぬいぐるみか?」
「ふふ、オスカー様にお会いできなくて寂しかった時に私の話相手になってくれたかわいい子なんです。」
「俺の替わりにお嬢ちゃんの無聊を慰めた人形とは、ちょっと妬けちまうな。だが、今日からは俺がいる。いつでも、いつまでも君の側にいる。だから、もう人形を話し相手になんかしなくていい、そんな寂しい思いはもう決してさせない。」
「オスカー様…」
オスカーがアンジェリークを抱きしめてそっと口付けた。
アンジェリークはオスカーの甘い口付けに酔いながら
『ありがとう……さよなら』
と、心の中で呟いていた。
カウンター10001番ゲッター白文鳥様のリクエストで、初ゼー様です。リクエストの内容は『ベタベタ、あまあまなオスアンに、泣きを見るゼフェル君のトッピング』ということだったのですが、私はとにかく泣くゼー様のことしか頭になくて、「Diaspora]の番外編という形なら、無理なくゼー様が泣くシチュエーションになるな〜と思ってこの話を考えました。(覗きで恋が破れるのははもう、「秘密の花園」でマルセル様が幼い恋を散らしているし、「ビタースイート…」でゼー様自身覗きをやってるし、さすがに同じパターンは使いたくなかったので)時間的には、第5話でアンジェがオスカー様と会えなくなったいた期間の一こまです。でも、改めてリクエスト読みなおしてみたら、これ全然リクエストに答えてない…オスアン最後にちょっとしか出て無い上、ゼー様の泣きはトッピングどころかメインの食材になっちゃってて、冷や汗かきました。幸い白文鳥様がこの内容でOKだしてくださったので、事無きを得ましたが(笑)
私なりにゼー様を掘り下げてみたつもりですが、ゼー様1stとか2ndの方から見て、不自然じゃないかどうかが、気になるところです。うそ臭かったらごめんなさい〜。ちなみに、この話にもテーマBGMがあります。でも、今回はクイズなし(笑)隠しBGMは近藤マッチの『振られてバンザイ』です(核爆)20代のお嬢ちゃんは知らない歌でしょう、すみません。それからゼー様作のロボットは『ガンダム』のハロと『ジュブナイル』のテトラをイメージしてます。