Mature Moon Night 1

色とりどりの花やリボンで麗々しく飾り立てられた馬車がとある館の門扉前に止まり、御者が一瞬の遅滞もなく、しかし、忙しさは感じさせない恭しい態度で扉をあける。

長身の男性がまず馬車から降り立ち、今日この館のミ・レディとなったばかりの女性の手を優しくとって馬車から降ろそうとしていた。

これ以上ないほどの優しさを黒水晶の瞳に湛え女性を見つめている。

すべるような優雅さで音もなく馬車のステップを降りてくるその女性は、すんなりと伸びやかな肢体に少女の趣を色濃く残している。

しなやかな指先でドレスの裾を軽く摘み上げ、足許に纏わりつくスカートを綺麗にさばくその仕草は水の流れの様に滑らかで自然体であり、この女性の育ちのよさが滲みでていた。

館の主である闇の守護聖クラヴィスと炎の守護聖の息女であるディアンヌ・フローラはこの日華燭の典をあげ、たった今自分たちの私邸の門前に到着したところであった。

結婚式から続いた午餐パーティーは夕刻まで続けられていたが、新郎新婦は月の出と供に進行を司るオリヴィエの計らいでパーティーを辞してきたのだった。

 

パーティーは日が暮れなずんでいくとともに、昼間の賑々しさ、陽気な晴れがましさを潜め、しっとりと杯をかたむけあう小グループが三々五々庭園にちらばるのみとなっていた。

とりあえず祝辞を奉げにきたそれほど近しくない人々はあらかた引き上げつつある。

そろそろ主役が退場しても差し支えあるまいと断じたオリヴィエは庭園を見まわし、夕刻の風から野の花を守るように佇んでいる長身のシルエットを見出しそちらに近づいて行った。

この日の主役であったクラヴィスは自分の花嫁の身体を包みこむように抱き寄せて、何か小声で囁きかけていた。

「はあ〜い、お二人さん、お疲れじゃないかな〜」

「あ、オリヴィエさま、いえ、平気です。今クラヴィス様にも同じ事を聞かれましたけど…あの、今日はなにからなにまで本当にありがとうございました。こんな素敵なパーティーを開いてくださって…」

「ふ…私からも礼を言おう、これが終始楽しそうにしていたのもおまえのおかげだな。」

「そんな風にあらたまって言われると照れるじゃないさぁ。でも、私だけの力じゃない、あんたたちを祝福したいっていう気持ちを皆がもってたからさ。でも、そろそろ月がのぼるよ。月の出は闇と月の婚姻の合図だみたいな気がしないかい?闇がそのかいなに月の光りを抱き、月は優しく闇を照らす…これからはあんたたちの二人の時間だよ。」

「オリヴィエさま…」

「もう、祝福も十分受けただろう?さあ、早く引き上げないと、夜が終わっちゃうよ。やっかんでる一人ものに捕まって結婚初日から二人きりになれなかったなんてことになったら笑うに笑えないからね。もっとも、真っ先に邪魔にはいるかと思った花嫁の父は意外と冷静だったけどね。」

「パパ…父はそんなことをする人じゃありません、オリヴィエ様…」

ディアンヌが控え目に父を庇うと、オリヴィエはふふと微笑んでディアンヌの頭を軽くぽんぽんと撫でた。

「…ああ、そうだったね。あいつが娘を取られた腹いせにあんたたちの大事な夜を邪魔するはずがなかったね。あいつはあれで愛の大切さ、本当の優しさを今は誰より知っている。そしてそれをあいつに教えてやったのはあんたのママなんだよ。あいつもほんとに変わったよ。なにせ天使がいつも側にいるから知らずと清い心になっちゃうんだろうねぇ。」

冗談めかした軽口を叩いてから、オリヴィエはクラヴィスにむきなおり、心持ち真剣な顔でこういった。

「でも、あんただって大したモンだよ、クラヴィス。なんたって月の女神を娶っちゃったんだからね。しかも、このこは物心ついたときから極上の愛に囲まれて大きくなった掛け値なしに極上のレィディだよ。ディアンヌは私たち守護聖みんなの娘みたいなものなんだからね。大事にしないと承知しないよ?」

「ふ…私がこれを大事にしないとでも思うのか?」

クラヴィスは言葉と同時に背中から花嫁の華奢な腰に手を回し、抱え込むように抱き寄せ髪に口付けた。

いきなり背後から抱きかかえられたディアンヌは真っ赤になって大きく瞳を見開き言葉を失ってしまった。

やれやれといった感でオリヴィエが肩を竦める。

「はいはい、聞いた私がばかだった。それなら、尚更その思いと誓いはきちんと形に現さなくちゃね!馬車を庭園の入り口まで呼んでくるからちょっとまっててよ〜」

オリヴィエの姿が見えなくなっても、クラヴィスは相変わらずディアンヌの腰を背中から抱いたままだった。

ディアンヌは顔を少し後ろに回して遠慮がちにクラヴィスに尋ねた。

「あの、クラヴィスさま、思いを形に表すってどうすればいいんでしょう。私もクラヴィスさまをお慕いしている気持ちを目に見える形でお伝えしたいのに…でも、どうしたらいいのか…」

もどかしそうなディアンヌにクラヴィスが覆い被さるように耳元に唇を寄せてこう囁いた。

「案ずるな。あとで私が教えてやろう。二人きりになってから、ゆっくりとな…」

ディアンヌはこのクラヴィスの言葉に全身が痺れてその場にへたりこみそうになった。

クラヴィスの熱い吐息と甘い囁きを耳に感じて身体が蕩けそうになりながらもディアンヌがその場に崩れ落ちずにすんだのは、そのクラヴィス本人に腰を支えられていたからこそであった。

まるで、こうなることを予想していたかのようにクラヴィスはディアンヌの身体をしっかりと抱きかかえていた。

「く、クラヴィスさま…それって、その…あの…」

「もう、義理は十分果たした。おまえは私と二人きりになりたくはないか?私はおまえと早く二人きりになりたくて仕方がないぞ?」

クラヴィスにとって今日の一連の儀式は自分のためのものではなかった。セレモニーというのは形式にすぎないし、有体に言ってしまえば彼自身はディアンヌとの結婚に際し他人から祝福を受けようがそしりを受けようが、それはどうでもいことだった。

大切なことは自分が何よりも掛け替えのない存在を手にいれるというその事実だけだった。

それでも、クラヴィスが何事にも不満を漏らさず儀式のすべてを粛々と受け入れたのは、そのほうが、ディアンヌが喜ぶだろうと思ったこと。

そして、ディアンヌは紛れもなくクラヴィスのものになってしまうのだということを他人が、つまり父親やディアンヌに心を寄せていた者が諦念とともにその事実を受け入れるための方便として儀式が必要なのだとクラヴィスは思っていた。

往々にして儀式とは、祭り上げられる当人ではなく、その周囲の者が自分たちの心の波立ちを鎮めるためや新しい状況を受け入れるために必要なものだからだ。

しかしもうそれも十分だろう、とクラヴィスは思っていた。

今は気が張っているから当人は感じていないだろうが、もともと控え目な性質の彼女が衆目に晒され続けていて疲れていないわけがないとクラヴィスは案じていた。

ディアンヌが明かな疲労を見せないうちに引き上げさせてもらおうと思っていた矢先のオリヴィエの申しでだった。

「オリヴィエが言い出さずともそろそろ引きあげさせてもらうつもりだったが、あれが仕切ってくれるというなら、その方がよかろう。私も皆からおまえを返してもらってもいい頃合だろうと思っていたのでな。おまえはもう私のものなのだから。そうだろう?」

くっくっと含み笑いをこぼしながらクラヴィスはディアンヌの耳朶を食むように囁きかけた。

ディアンヌのなよやかな腰を抱く手に一層の力をこめて。

ディアンヌは身体の中心にずしんと重く響く何かを感じた。

いたたまれず逃げ出してしまいたいような、それでいて全身の力を抜いてクラヴィスにもたれかかってしまいそうな相反した衝動が身中に巻き起こりどうしていいかわからず、ただ、身体を固くすることしかできなかった。

新婚用に花とリボンで飾られたいささか気恥かしい馬車が二人の前に迎えにくるまで

ーもともとは鳴り物も馬車のそこここにつけられていたのだが、静寂を愛するクラヴィスは当然それを全部外させていた。本当は装飾は一切いらないと思ったのだが、またも「花とリボンだけは外せないね、ディアンヌが喜ぶからね、それにいつもと同じ馬車じゃディアンヌががっかりするかもしれないよ?」のオリヴィエの一言でクラヴィスは音のでない飾りには、目を瞑ることにしたのであるー

クラヴィスはおとなしくなってしまったディアンヌの髪を撫でながら、耳朶に唇で触れるか触れないかの微妙な接触を繰り返していた。

ディアンヌはクラヴィスの腕の中で固く瞳を閉じて彫像のように固まってしまっていたので、馬車が到着した事にもすぐには気付かなかった。

クラヴィスがディアンヌの身体をとりあえず手放し、掌を取り直して馬車にのるよう促したところで漸く馬車の存在が目に入ったくらいだった。

新居に引き上げる2人を見送りに守護聖たちが集まった。

守護聖たちに静かに見送られ、初々しい花嫁とどこまでも泰然とした花婿とは馬車に乗りこみパーティー会場から立ち去っていった。

残された守護聖たちは、僅かな物悲しさをそれぞれ胸中に感じつつもわざと陽気に振舞った。

在る意味本日の影の主役である花嫁の父の屋敷に場所を移して飲みなおすこともなんとはなしにきまった。

「幸せそうなご様子でしたね。あのように満ち足りたご様子のクラヴィス様は初めて拝見いたしました。」

「クラヴィス様は明日から執務はしばらくお休みですよね、慶休っていうんでしたっけ。俺もいつかとれる日がくるかなぁ。くるといいなぁ。」

「あれはもともと勤勉とは口が裂けても言えぬが、新婚ボケではさらに使い物にならぬだろうから、休みをとらせただけだ。」

「きゃははは!まったくそんないい訳しなくたってみんなわかってるって、ジュリアス!」

「いいよな〜、クラヴィスのやろーこれからディーと…」

「こ、こら、それ以上克明な想像をするのは父親である俺が許さん!」

「そーはいってもよー、あのクラヴィスがちゃんとできるかどうか心配じゃねーの?おっさん。やり方をしらねーとか、逆にアブノーマルな嗜好があるかもしんねーじゃん。なにせクラヴィスだからな〜」

「ぐわぁあああ!だから、そういう事を俺にいうなあああ!できたらできたで、できなきゃできないでどっちにしろ俺は胸がつぶれそうなんだからな〜!」

「もう、ゼフェル様ったらあんまりオスカー様をいじめないでください。オスカー様、心配しなくても大丈夫ですよ、きっと。クラヴィス様はディーに優しくしてくれますよ。」

「そうですよ〜。心配はいりませんよ〜私が控えの間でディアンヌの仕度を待っているクラヴィスに花婿の心得はきっちりレクチャーしておきましたからね〜。その1、花嫁にはあくまで優しく、その2、決して無理強いはしないこと、その3、最初からうまくいかなくても決してあせらないこと、あせると余計にうまくいきません…」

「おおお、おいルヴァ、おまえ、それ意味わかっていってんのかぁ?」

「ルヴァさま、焦ると何がうまくいかないんですか?俺にも教えてくださいよ〜」

「いいからおめーはすっこんでろ!話がややこしくなるからよー!それにおめーには当分かんけーねーよ!ま、おっさんもよけーなこと考えなくてすむように、今夜は俺たちがつきあってやっからよー。寂しいだろうからな。」

「余計なお世話だ!俺は今夜はアンジェと二人でディーの思い出をしみじみ語り合おうと思っていたのに…」

「ディーのことなら、みんなで話した方が楽しいですって!オスカー様!」

「そうかもしれませんよ、オスカー様、皆さんから親の私たちが知らないディーの様子が聞けるかもしれませんよ?」

釈然としなさそうな花嫁の父を無視して守護聖たちは無理にでも場を盛りあげながら、居を変える為一塊になって庭園から姿を消していった。

 

「足許に気を付けるのだぞ。」

「あ、はい、クラヴィスさま…きゃ…」

クラヴィスの気遣いの言葉に生真面目に答えようとディアンヌが顔と神経の両方をそちらに向けた時、丁度地面についた足は履きなれない高いヒールを持て余してかくんと崩れた。

ディアンヌがよろけて思わずなにかにすがりつこうとする前に、クラヴィスはしっかりと彼女の腰に腕を回してその身体を抱きとめていた。

「は…びっくりした…クラヴィスさま、ごめんなさい、ありがとうございます」

「ああ、すまぬ…私のかけた声がかえっておまえの気をそらしてしまったようだな…しかし、なぜそのように不安定な履物をはかねばならないのだ?危なっかしく見えて仕方ないのだが…」

ゆうに7センチはある踵の高さがクラヴィスには不可解で仕方ない。

ディアンヌはクラヴィスの腕の中で頬を染めてもじもじしながらこう答えた。

「あの、あの、だってオリヴィエ様がこのほうが足の線が綺麗に見えるし、クラヴィス様と並んだ時もバランスがいいからって…」

自分に綺麗と思ってもらいたかったというディアンヌのいじらしさにクラヴィスは口元を綻ばせたが、

「ふ…おまえの足をしげしげと見たわけではないが、そのようなものを履かずとも私にはそのままで十分美しく見えるぞ?それに転んで足に傷でもつけたら逆に足を綺麗に見せるどころではなくなってしまうではないか…かといって靴を脱がせて裸足にさせてはおまえの柔らかい足にそれこそ傷がつくな…」

こういうと、ひょいとディアンヌの身体を横抱きにしてすたすたと歩き出した。

「きゃ!く、クラヴィスさま、おろして、歩けます、私…」

「だめだ。その靴のせいでおまえの足が傷つく所など見たくないからな。それに花嫁が嫁ぐ家に入るときはこのように夫に抱かれて玄関をくぐる慣わしらしい。おまえの仕度が終わるのを待っている間にルヴァが花婿の心得をいろいろ講釈してくれたのでな。このまま、おとなしくだかさっているがいい。子猫は抱かれるのは嫌ではなかろう?」

「い、嫌じゃないです…」

俯いてしまったディアンヌにクラヴィスが含み笑いを交えながらさらに囁きかけた。

「そういえば、おまえの足をじっくり見たことはなかったような気がするな。おまえの足にこのような靴が必要かどうかは私がじっくりと見定めることにしよう。もっとも、おまえの足はなにもつけていない時が一番美しく見えると私は思うがな…」

ディアンヌが耳まで真っ赤になってしまったのはいうまでもなかった。

馬車の到着を受けて、執事は主人が花嫁を抱いてドアを入ってくるのを恭しく控えながらまっていた。

執事が玄関先で出迎えてくれているのを見たディアンヌは、恥かしいから降ろしてくれと再度クラヴィスに請うたが、クラヴィスは柔らかく微笑んで黙ったまま首を横に降りそのまま屋敷の中に入ってしまった。

クラヴィスが控えている執事にこちらから呼ぶまでは気遣いは無用な旨を告げようとする前に、執事は最敬礼して『館の者には徹底しておりますのでどうぞお心安らかにごゆるりと』と答えたので、クラヴィスは満足そうに微笑み花嫁を抱いたまま私室にあがっていった。

主人の腕の中で身じろぎしながら花嫁が恥かしそうにぺこりと執事に会釈してくれた。

自分の目の黒い内に、この館にこんな晴れがましい日が迎えられるとは想像だにしていなかった執事は主人の堂々として、それでいて眩しいほど満ち足りた姿を見送り目頭が熱くなった。

 

クラヴィスはほとんど使っていなかった屋敷の二階全部を続き部屋の夫婦のプライヴェートスペースに改築させていた。

主寝室にディアンヌを運び入れ、クラヴィスはディアンヌを床に降ろした途端に覆い被さる様に抱き寄せて口付けた。

ディアンヌがいきなり降ってきた口付けに瞳をまんまるくして身体を強張らせ息も止めてしまうと、クラヴィスはくっくっと笑いながらいったん唇を離しこう告げた。

「口付けるときは息をとめてはならぬといったであろう?それでは思う様おまえの唇を味わえぬからな。」

ディアンヌがはぁと小さく吐息を漏らす。

「あ…いきなりだったから、びっくりしちゃって…」

「では、もう一度だ、よいな?」

答えを待たずにクラヴィスは再度ディアンヌを包みこむように抱きしめながら唇を食んだ。

何度も何度も角度を変え、甘くやわらかなディアンヌの唇をあます所なく味わいつくそうとする。

髪を撫でながら上下の唇を交互についばみ軽く吸ううちに、ディアンヌの身体から生硬さが減じていくのを感じ、それから漸くクラヴィスはディアンヌの口中に舌をさしいれた。

舌先で歯列をなぞって応える事を促すと、ディアンヌがおずおずと歯列に隙をつくる。だが、そこまでがまだディアンヌのできる精一杯だ。クラヴィスを拒む事など思いもよらないが、積極的に応えるにはどうしていいかわからずまだ戸惑うばかりだった。

クラヴィスの舌が口腔の隅々まですべて探ってから、漸く最後に宝物をみつけたかのようにディアンヌの舌に絡みついてきた。

ディアンヌはただ、そこにたっているだけで精一杯だった。

自分も軽く唇を吸い返す程度ならできるようになっていたが、舌を絡ませあい積極的に応えるのはまだまだ気恥ずかしさが先にたってどうしたらよいのかわからなくなってしまう。

進んで応えられないのでのみこみきれない唾液を持て余し、でも決してそれがいやなのではなく、それどころかもっと深くそしていつまでも口付けていたいような気分が身体の中にふくれあがっていく。

口付けが深まるに従い、唇が触れ合い抱きしめられていてもなお、なにか物足りない、うまく言えないけれどもっともっとクラヴィスに触れたい、触れて欲しいといういたたまれないような思いがわきあがりディアンヌは途方にくれることがしばしばあった。

もう、隙間のない程抱きしめられていて、どうしてこれ以上触れて欲しいなどと思うのか、これ以上どうやって触れあうというのか。

自分でもわけのわからぬ衝動を持て余し、率直にそれをクラヴィスに投げかけてみたこともあった。

キスすればするほど、抱き合えば抱き合うほど、もっと抱きしめて欲しくなってしまうのだと。そんな自分はおかしくないかと。

クラヴィスは柔らかく微笑むと、それならおまえがもういいと思うまで、いくらでも口付けよう、いくらでも抱きしめてやろうと答え、事実そうしてくれた。

しかし、ディアンヌはおぼろげに感じていた。いくらキスを繰り返していてもからだの奥底から沸きあがるこの奇妙な渇望は埋められないことに。

むしろキスをすればするほど、何かを求める渇きはいや増すようなような気がした。喉が渇いた時に飲めば飲むほどにかえって渇きを助長させる甘い飲み物を飲んでいるようだった。

でも、きっと…きっと今日はこの渇きを癒してもらえる。

私の中で熾火のように燻る獏とした不可解な感情をきっとクラヴィスさまがきれいに払ってくださる。

いつも受けていたものとは異なる口付けの感触にこんな取り止めのない直感が脳裏を交錯する。

クラヴィスがいつのまにか背中のファスナーに手を伸ばしてそれを降ろしていた事にも気付かぬほどに自分のすべてを飲みこもうとするような口付けに酔わされいた。

ふぁさと軽い音をたてて、ドレスが床に落ちた音を耳にして漸くディアンヌは自分がランジェリーだけにされたことに気付いて身じろぎした。

床に落とされたドレスはディアンヌの足の周りにそれこそ綻んだ花びらのように広がっていた。

突然ディアンヌのなかに躊躇いと怯えが生じた。

「や…クラヴィスさま…まって…」

「ふ…何を待つのだ?」

唇を離し横を向いてしまったディアンヌを逃さぬように、クラヴィスの唇は耳の下から首筋に滑り出す。

クラヴィスの唇がうなじに触れると、今まで感じたことのない悩ましいような情感が身体の奥底からわきあがりさらにディアンヌを戸惑わせた。

「あ…あの…シャワーを…お願いです、シャワーを浴びさせてください…」

とじた睫が小刻みにゆれている。

細い頤はクラヴィスの唇から逃げ出すそうとでもするかのように心持ち上向きに突き出されているが、それが却って首のラインを水鳥のように伸びやかに美しく見せ、更なる口付けを落とさずに入られないような無意識の媚態を見せている。

消え入りそうな声で震えながら訴えるディアンヌの中には怯えと意図せぬ媚態が混在し、それがより激しくクラヴィスの情動を刺激した。

このままディアンヌを荒荒しく組み敷いてしまいたいという焼け付くような衝動がクラヴィスの心中に一瞬激しく燃えたった。

が、それを無理やり押さえこみ、努めて冷静な声でクラヴィスは

「おまえはこのままで十分綺麗だと思うが…そのほうが、おまえがいいというのなら…」

と言ってディアンヌを名残惜しげに手放した。

ディアンヌに心の準備ができていないなら、結婚したという事実にかかわらず自分は待てると思っていたが、それがただの錯覚に過ぎなかったこと、心は押さえていた分激しい反動を持ってディアンヌのすべてを求めてやまぬことを、クラヴィスは今いやというほど思い知った。

しかし、自分の激しい情熱を『好きだから』『結婚したのだから』という言葉をいい訳に一方的に押しつけるような真似をクラヴィスはするつもりはなかった。

ディアンヌはあからさまにほっとした表情を見せると胸元を手で隠しながらにじにじと数歩後ずさりし、クラヴィスの腕から完全に逃れる距離までくるとぱっと身を翻して浴室に駆けこんで行ってしまった。

一瞬あっけにとられたクラヴィスは楽しそうに微笑みながら、自分も服を脱いで無造作に長椅子に放りなげはじめた。

ディアンヌが自分から逃げだした様子の愛らしさを思い返し口元が綻ぶ。

「ふ…だからおまえは子猫だというのだ…あのように逃げると却って腕にとじ込めてしまいたくてたまらなくなるぞ?戻ってきたときはもう放しはせぬからな…」

礼服をすべて脱ぎ去り、白皙の素肌に銀灰色の繻子のローブを羽織って紐をゆるく締めながら、クラヴィスは誰にきかせるでもなく、くっくとたのしそうに笑っていた。

 

ディアンヌはシャワーを浴びながら、大きな溜息をついていた。

いきなり逃げ出すような真似をしてしまい、クラヴィスは気分を害したりしなかっただろうか。

ディアンヌだとて結婚する事の意味は知っている。

結婚するということはすなわちその日から肌を重ねるということが既定の契約に含まれているようなものだ。

恋をしている男女が徐々にその距離を縮めた末に肌を重ね合うこととは意味合いが若干異なる。

しかもクラヴィスのものになることを自分も確かに望んでいた。

婚約期間中自分をはっきり求めないクラヴィスに不安を募らせるほどだったのに、なぜ今いきなり怖気づいたように振舞ってしまったのか。

「だって、クラヴィスさま、いつもと違う…」

自分で自分に呟きかけた。

そう、今日のクラヴィスは今までになく直情的で、なにやら大胆だった。

今までは逢瀬のときにあんなに激しい口付けを突然くれたりしたことはなかった。

いつも優しい口付けをそっとくれるだけ、しかも、それもディアンヌがおねだりした末のことが多かった。

そう言えばパーティーを辞する前に言われた『二人きりになりたい』なんて率直に言われたのも初めてではなかっただろうか。

当然服を脱がされたのも初めてだった。

「やだ…私…クラヴィスさまにドレス脱がされてそのまま来ちゃった…」

思い返すと頬が熱くなる。

クラヴィスがこんなに積極的に振舞うとは予想だにせず、その戸惑いからディアンヌはクラヴィスの腕から逃げ出してしまった。

そして、もうひとつ、ディアンヌがあのまま流されてしまうのを躊躇った理由があった。

ディアンヌの脳裏を掠めたのは自分はきれいかということだった。

クラヴィスにすべてを曝け出して愛されるのかと考えたら、自分は身奇麗かどうか突然不安でたまらなくなった。

どうせなら一番綺麗な自分を知ってもらいたい。どこに触れられても恥かしくないように…

いつもいつもこの人の事しか考えられなかった。そのクラヴィスに、少しでもいい、自分を綺麗と思ってもらいたい、綺麗と思ってもらえたら…ボディウォッシュでからだの隅々まで清めながらディアンヌは祈るような気持ちで一杯だった。

シャワーで身を清めた後タオルで水滴を拭い浴室の鏡に自分の姿を映して見た。

自分の様子をつぶさに見る。

ディアンヌのことを綺麗だと父も母も言ってくれた。

でも、自分ではよくわからない。母ほど肌は白くないし、ちょっと目尻の切れ上がった父親似の瞳もきつめの印象でかわいげがないような気がする。

ディアンヌは母のことをまるでピンクのボンボンのようだと思っていた。身体の内側からピンクの光りが透けて見えるような透明感のある肌を翡翠の瞳と金色の髪が彩る母は存在自体が砂糖菓子のように甘かった。

気高く崇高な女王陛下は犯し難い気品に満ち、それでいて慈愛に満ちた眼差しをもっておりディアンヌは陛下ほど美しい女性はいないと心から思っていた。

でも、自分は母ほど愛らしくはない、陛下ほど美しくはない、中途半端な気がして仕方ない。

こんな私でもクラヴィスさまは愛してるって言って下さった。

私のすべてをみてもその気持ちはかわらないで下さるだろうか。

せめて、少しでもいいから綺麗と思ってもらいたい…それがだめならせめて見苦しくないように…

浴室に続くクロゼットにはオリヴィエと母が二人で侃侃諤諤と議論してディアンヌにもたせてくれた心づくしの衣装がすでに溢れるほどに収められていた。

その中からクリームアイボリーのシルクの夜着を取りだし、袖を通す。

雪のような白よりこの色があんたの肌に映えるんだ、一番肌色が綺麗にみえるよとオリヴィエが選んでくれた色だった。月の光りを撚り集めて布にしたみたいだろう?あんたにぴったりだよと…

うねる波のような光沢を放ち、さらりと冷たい絹の感触が肌をすべる。肩と胸元を覆うレースは触れれば霧散する霞のようだった。

丹念に髪をくしけずり、もう一度鏡を覗く。

これが今の私。精一杯の今の私。どうか、どうか受けとめてください、クラヴィスさま…

 

ディアンヌは恐る恐る浴室のドアをあけた。

だが、ディアンヌはその瞬間黙ってその場に立ち尽くしてしまった。

部屋の燈火はいつのまにか絞れるだけ絞られ、あえかな間接照明のみがうすぼんやりと壁を照らしている。

部屋の光量が絞られているので、晧晧と輝く月の光がカーテンの隙間からさしこんでいるのがはっきり感じられ、その月の光りはソファで寛いでいるクラヴィスの後背を飾っていた。

クラヴィスはディアンヌの姿を認めると、ソファから立ちあがりディアンヌに微笑みかけてくれた。

流れる黒髪は降りて行く夜の帳そのもので、緩やかに羽織った銀鼠色のローブはそれこそ月の光を具現化したようで、クラヴィスはディアンヌの目にはそのまま月の光と同化して天に昇ってしまいそうなほど美しく思えた。

ローブの合わせ目から見える胸板は陶器のように滑らかそうなのに意外なほど厚い。

こんな素敵な人に私は似つかわしいの?こんな綺麗な方に綺麗と思っていただきたいなんて思ったの?

自分がとてつもなく身のほど知らずなような気がした。

「美しいな…」

「え?」

ディアンヌは今聞いた言葉が信じられなかった。

私のこと?まさか、そんなことあるわけない…

どうしたらいいかわからずにいるのだと思ったのだろうクラヴィスがディアンヌの側に静かにやってきて頬を両手で優しく包みこんだ。

「どうした?泣きそうな顔をしているぞ?」

「だって…こわい…」

思わず口をついて出た言葉だった。自分で言ってみて気付いた。確かにディアンヌは怯えから泣き出したいような気持ちになっていた。

「何が怖い?わたしか?それともこれからおこるであろうことか?」

クラヴィスの声音はどこまでもやさしい。不審がっている様子も責めている様子もない。

「いいえ…いいえ…」

ディアンヌはゆっくりと首を振る。その優しさにかえってこらえきれずに瞳が潤む。

「クラヴィスさま…好きです…どうしていいかわからないくらい好きなんです…でも、クラヴィスさまは素敵すぎて、綺麗すぎて…私、私、クラヴィスさまに相応しくないような気がして…クラヴィスさまに幻滅されちゃいそうな気がして…不安で…こんなに好きなのに…好きだから…」

突然息も止まるほど固く固く抱きすくめられた。

「おまえは美しい…私などにはもったいないほどに…おまえの愛らしさ、可憐さ、私などに手折る資格があるのかと何度考えたか知れぬ…おまえに似つかわしいものはもっといくらでもいるのではないかと…明るい陽光の下微笑みを交し合うような若者こそ、おまえに相応しいのではないかと…」

「クラヴィスさま…」

ディアンヌはクラヴィスが何を言っているのかよくわからなかった。

だが、クラヴィスの剥き出しの感情がこの腕の力の強さから伝わってきた。そして、こんな強い感情をクラヴィスからぶつけられたのは初めてだと、そんなことを思わず考えていた。

「おまえのまぶしいほどの命の煌きを私の無明を照らすことに費やしてもいいものかと罪悪感を覚えぬ日はなかった。だからおまえを自由にしておいてやらねばならぬと思っているのに、かといっておまえを完全に手放すこともできなかった。おまえのいない日々を思うと心が凍てついてしまいそうだったからだ。私のそのどちらつかずの態度がおまえを悩ませていたことも知っていた。許して欲しい。」

「クラヴィスさま…それは私をあの、欲しいと思ってくださっていたから?放したくないと思ってくださっていたの?私だけがクラヴィスさまを好きで好きでしかたないんだとおもってたのに…」

クラヴィスは迸る愛を自分にぐいぐいと押しつけてくるような事は一度もなかった。

だからディアンヌは自分だけがクラヴィスを求めて止まないのだと思っていた。

もちろん愛されているとは思っていたけれど、クラヴィスは積極的に自分を求めてくれているというより、自分の愛にこたえてくれているという気持ちが強いのだろうと思いこんでいた。

だが、クラヴィスは真剣に思うが故に情熱をぶつける事を躊躇っていたのだと、踏みとどまっていたのだといってくれている?

やはり、いつか母が言った通りだったのだ。クラヴィスはディアンヌを大切に思ってくれているからあえて性急には求めないのだろうと。

その時は心から納得できたわけではなかったが、相手を大切に思うからこそむやみに走り出さない愛もあるのだ。若く幼い自分にはよく理解できない感情だったけれど。

「そうでなければ悩みはせぬ。おまえを求める気持ちと、おまえのことを思えば手放すべきかと思う義務感のような気持ちに私の心は千切れそうだった…おまえこそ、本当に私でいいのか?私はおまえにこれほど慕われるほどの男でない。おまえの方こそ私に幻滅するやもしれぬぞ。」

「そんなことない!クラヴィス様だけです。今もこれからも、ずっとほしかったのはクラヴィスさまだけです!私を自由にしなければなんて考えないで!そんなことしないでくださって本当によかった…」

「ああ、今は、はっきりといえる。私もおまえがほしい。今までずっとその気持ちを押さえてきた。だがこの思いをもう押さえる事は叶わぬ。おまえを愛している。おまえのすべてを私のものに、私だけのものにしたい…私の子猫よ…」

「クラヴィスさ…」

ディアンヌの言葉は熱いクラヴィスの唇に塞がれた。だが、その唇はすぐに離れた。

「白いドレスのおまえも、花の装いのおまえも美しかった。どのおまえも私にはもったいないほどの美しさだった。今この月の光のような薄衣を纏った姿も…だが、私はなにもつけぬおまえの姿がみたい…誰もみたことのない、誰にもみせたことのないおまえを見せてくれ…私に、私だけに…」

クラヴィスがディアンヌの身体をそっと抱き上げてベッドまで運んだ。

そのままディアンヌをベッドに下ろしてから静かに優しくその身体を横たえた。

「あ…」

ディアンヌが僅かに身をこわばらせ身体を隠そうとする手を捕らえて口付けた。

「おまえは今私のものだ…そして、私もまたおまえのものに…」

頬を包み込むように大きな掌でなでてから、クラヴィスはディアンヌにゆったりと覆い被さっていった。

クラヴィスの顔を間近に感じ、口付けの予感にディアンヌは自然と瞳を閉じた。

しゅる…とローブの紐を緩める音がディアンヌの耳をついた。

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