1年最後の月は、なにかと気ぜわしい中に、そわそわウキウキとした空気が満ちる。その年を無事終えられることへの喜び、新たに迎える年への期待、聖人の生誕祭をにぎにぎしく行う国も多い。そして、アンジェリークにとっても、12月は心浮き立つ特別な月だ。多くの人が祝う宗教行事があるからではないーそれを否定するものではないがー自分にとって1番大切な人の誕生日がある、という意味で、特別の月だった。アンジェリークにとっては、自分の誕生月より、一番特別で重要で張り切ってしまう大イベント月だ。
わけても今年は、特別の誕生日だとアンジェリークは思っていた。オスカーと結婚して初めて迎えるオスカーの誕生日だったからだ。
無論、これまでもオスカーの誕生祝いを欠かしたことはない。
そして、まだ一緒に暮らしていなかった頃から、オスカーが最も欲し、喜ぶものは、嬉しく面映ゆいことに、自分アンジェリークと2人きりで過ごす甘く密な時間だと再三言われていた。交際を始めて以来、それはずっと変わらない。
「お嬢ちゃんと2人きりで過ごす時間、お嬢ちゃんそのものが、俺には何よりのプレゼントだ」
と、オスカーは毎年のようにアンジェリークに告げてきた。
その言葉は、まごうことなきオスカーの本音・本心であること、というのも、多忙なオスカーにとって、最も貴重で、融通の利きにくいものが時間だからということを、アンジェリークはよく理解していた。特に、結婚前は、一緒にいられる時間が限られているので、2人きりで過ごす時間が何より貴重なものと思えるのは道理だった。
また、その言葉が真実である証拠に、これまで、オスカーは「誕生日くらいは、ちょっと自分を甘やかして、思い切りお嬢ちゃんに甘えさせてもらうのもいいよな」と笑いながら、誕生日をはさんだ一両日は必ず完全なオフ日にし、誰にも何にも邪魔されない2人きりの休日としてきた。
そして、こういう誕生日の過ごし方、祝い方をアンジェリークも心から喜んでいた。オスカーと2人きりで過ごす時間が自分自身も嬉しい、という以上に、いつも多忙なオスカーが、この日だけはー自身の誕生日をエクスキューズとして、100%息抜きし、心からくつろいでくれる、それがアンジェリークはとても嬉しかったのだ。
誕生日が特別な日である、という理由なしには、もしくは、自分へのご褒美というエクスキューズがないと、オスカーはあまり自分から休もうとするタイプではないので、アンジェリークは、オスカーが、この日ばかりは、オリヴィエもしくはリュミエール辺りに見られたら「よくもまぁ、これだけ、だらけ切り、緩みきれるものだねぇ(ですねぇ)」と呆れられそうな位、身も心も休め、くつろいでくれるだろうことを嬉しく思い、少なからず安堵もしていた。
ビジネスの一線に出るようになってからのオスカーは、当然といえば当然かもしれないが、学生時代以上に多忙そうに見えたからだ。当のオスカーは『休息は過不足なく取っている、きちんと体調管理しないと、後の仕事に差しさわりがでるからな』と言っていたのでーオスカーが体を必要なだけ休めている、というのは本当なのだろう、とは、アンジェリークも思う。
でも、それって、いわば「次の仕事のために、きちんと休むのも仕事のうち」ってことじゃないか、とアンジェリークは思うのだ、それでは、オスカーは根本的なところではリラックスしてない、体を休めていても、それは次の仕事への準備だとしたら、心は休まっていないのではないかーよくてリフレッシュはできているという位でーと心配なのだ。
それでなくとも、常に高邁な理想ともいうべき目標を抱いているオスカーは、学生時代は勉強しすぎ、今は働きすぎ、と何かと「○○すぎ」が日常化常態化しているようにアンジェリークには思えてならない。
けど、ただ休めといって休むオスカーではないし、無為に休んでも仕事が気になってしまうようでは、気が休まらなくて却って逆効果だろう。
だからこそ、オスカーの誕生日は、常日頃、多忙なオスカーに、何もかも一時忘れて休んでもらう格好の口実だった。そして、こういう口実でもないと、オスカーの性格だと、何もかも一時棚上げして休息するということがないんじゃないかともアンジェリークは思っていた。
こんなわけで、オスカーの誕生日は、アンジェリークにとって、色々な意味で特別に大事な日だった。特に、1年の疲れの蓄積がそろそろピークに達しようかという12月の半ば過ぎにオスカーの誕生日があるのは、神様のお計らいか思し召しか、とにかく天祐のように、アンジェリークには思える。
「誕生日」というだけなら、無論、オスカーはアンジェリークの誕生日もオフ日として仕事を入れないようにはしてくれていた。が、自分が祝う方と祝われる方なら、祝われる方が受け身になれるから、より、リラックスできる度合いも高いだろうと思うのだ。だから『オスカーの誕生日は大切、大事に過ごさなくちゃ。いつも忙しいオスカーが、遠慮も後ろめたさも無く、堂々と自身に休息を許し、英気を養い完璧にリフレッシュできる日、それがオスカーの誕生日なんだもの』と、アンジェリークは認識していた。
普段、限界まで頑張ってしまうオスカーだからこそ、何もかも忘れて、怠惰駘蕩とも言えるとろとろの時間を過ごすことが、オスカーの心身に良い、いや必須ではないかと思うのだ。この日は、張りつめ、強張った心と体を思い切り和らげ、ほぐしてほしい。いつの間にかたまってしまう諸々の澱を綺麗に洗い流して、爽やかですっきりした気持ちになってもらいたい、と、アンジェリークは思う。
また、オスカーと一緒の時間を過ごせることは、アンジェリークにとっても大層嬉しいことなので、アンジェリークがその嬉しさを満面の笑みと態度で表すことで、オスカーの気持ちも幸福感でいっぱいに満たされる、ようだった。オスカーが幸せそうだと、アンジェリークも嬉しくなるので、その気持ち、感覚はアンジェリークには、よくわかる。自分と一緒に過ごす時間を、オスカーは幸せだと感じてくれ、アンジェリーク自身も幸せだと思う、そしてアンジェリークが嬉しそうで幸せそうだと、オスカーもますます嬉しく幸せな気持ちになる、その嬉しく幸せな気持ちのスパイラル自体が何よりのプレゼントになるのだ、きっと。
オスカーが「お嬢ちゃんと2人で過ごす時間が、なによりのプレゼントだ」と言ってくれるのは、そういう意味だ。漫然と、ただ一緒の時間を過ごすだけでは、贈り物としては不十分だ。嬉しく幸せな気持ちの積み重ね、惜しみなき限りない愛情と感謝を表し伝えたいという思いあってこそ、2人一緒に過ごす時間が贈り物になるのだ。
そう考えていたから、アンジェリークは、毎年、12月になると、オスカーの誕生日に照準を合わせて、いつも以上に肌を磨き、ボディラインを意識し、その時々のおしゃれに気を配ってきた。オスカーにとって魅力的な女性であれるようにと。オスカーが自分と過ごす時間を好ましいものと感じてくれるようにと。
けど結婚して共棲みを始めたことでー忙しいオスカーは、出張も多くて、毎日同じベッドで眠れるとは限らなかったし、帰宅してもアンジェリークが寝入った後であることも多かったけど、それでも一緒に居られる時間は格段に増えた。何より、同じ家に帰ってくるという、同じ家に帰れるという安心感は、他に比べる物が思いつかなった。けど、それは「2人一緒に過ごす時間」自体の価値は減じたというか、目減りしたことにもなるんじゃないかしら、とアンジェリークは、ちょっと考えてしまった。
それでなくとも、2人で過ごす時間自体は、ある意味、毎年同じものをプレゼントしている、ということでもあるわけだから。
無論、2人で楽しく、居心地良く過ごせるようーどうしたら、オスカーがくつろげ、楽しく、心弾む時間が過ごせるか、アンジェリークはリネン類の肌触り香り、飾る花や照明も、考え、工夫し、準備しようと思ってはいる。
だけど、せっかく、結婚して迎える初めてのオスカーの誕生日なのだもの、多少なりとも、見た目や雰囲気や目先を変えないと今まで過ごしてきた誕生日と替わり映えしないような気がしてしまうのは、なんだか、寂しい、物足りない、つまんない、何か、こうスペシャルなものをトッピングしたい。プラスアルファが欲しい、というか、そうしないと、自分としては、オスカーの誕生日を祝う気持ちが十分じゃないような気がしてしまう。
そう思って何を差し上げようか、秋の終わりごろからずっと考えていた、服とか、装身具とかーネクタイ?−ありきたりすぎるわ…靴?…靴は履いてみないとわからない…鞄?財布?カフス?香水?ーうーん、どれも悪くはない、けど、どこか、やっぱり、ありきたりな気がしちゃう。
と、こんな感じで、これといった決め手に欠ける気がして、アンジェリークは、プラスアルファのプレゼントをどうにも決めかねていた。
使える物とか、何が何でも「後に残る物」を贈らなければいけないわけじゃない、こだわるつもりもない。お酒やお花やお菓子、その時その場で楽しめる「消え物」でもいいと思う。
「そうだとしても…どのお花にするかとか、どんなお酒にするかは、大事よね…何がいいかなー…オスカーは赤ワインとブランデーが好き、そこまでは、私もわかるんだけど、でも、私、お酒の銘柄はよくわからないし、お酒好きな人こそ、好みの味じゃないと嬉しくないかもだし…」
と、悩み困ってしまったアンジェリークは、いっそ、誰かに相談してみようかと考えた。
オスカーの好みを良く知ってそうな人といえば、ジュリアス?オリヴィエ?でも学生時代ならいざ知らず、もはや社会人の彼らに、こんな相談を持ちかけるのは気が引けるし…なんとなく、呆れられつつ「オスカーなら、そなたの選んだ物なら、何でも喜ぶだろう」とか「あんたのくれる物なら、何でも喜んで受け取るって、あいつなら」と、いなされて終わりそうな気がしないでもないし…だって、私の相談って結局、惚気?にしか聞こえないんじゃない?こんな、傍から見たらバカバカしい相談にお忙しい先輩方に真面目にのってもらうのも申し訳ないし…要はお買い物の相談なのよ、イマドキのデパートの化粧品売り場にはコンシェルジュがいて、こんな物が欲しいっていうと、お勧め品を見つくろったりしてくれるって聞いたことあるわ、そういう人がいてくれたら良かったのに…
と、ここまで考えが及んだ時、アンジェリークは
「あ!そうだわ!クラウゼウィッツのお家には、確か、お買い物相談してくれる人がいたんだったわ!」
と、オスカーに紹介されたある人のことを、思い出した。
これは「お金持ちの御曹司」と結婚したことで、初めて身近になったことなのだが、オスカーの実家には老舗小売り店から「外商」という人がやって来て、大抵の買い物はこの「外商」を通じて行うそうなのだ。
最初、その話をオスカーから聞いた時、アンジェリークは「がいしょう?がいしょうって何ですか?」というレベルだった。
庶民のアンジェリークにとって買い物というのは自分の足で店まで出向き欲しい物を探す、もしくは、ネット通販で、自分自身の目で時間と手間暇を割いて探すものだった。
けど、オスカーの実家では「この程度の予算で、こういったものが欲しい」という曖昧な希望ーこれをお買いもの相談というらしいーを「外商」という人に伝えると、その時々の担当者が「これ」といったお勧め品を見つくろってーここがアンジェリークには一番の驚きだったがー向こうから自宅を訪ねてきて、品物を見せてくれるのだという。持ってこられたからといって、即決する必要もないらしい。気にいらなければ更に詳細な注文を出して、何度か持ってきてもらうし、結局買わずに終わることもある、とオスカーはさらっと言ったので、アンジェリークは目を丸くした。
アンジェリークが「わざわざ物を持ってきてもらった上で、そんな、申し訳ないっていうか、気の引けちゃうこと、とても私にはできそうにありませんー」と反射的に思ったのが顔に出ていたのだろう、オスカーは苦笑しながら、更にこう付け加えた。
「クラウゼウィッツの一族は、我儘気まぐれ悪ふざけで外商を困らせて楽しむようなバカは1人もいないってことは、向こうもわかってるから、1度や2度断っても気分を害したりはしない。むしろ、妥協して、満足しない物をしぶしぶ買われたりしたら、彼ーウチの担当者なら不本意に思うだろう。彼らは自分の目利きと顧客の満足にプライドを置いているからな。俺たちのビジネスも同様だが、1回目で商談成立するのはむしろ珍しい、売る側も買う側も、実際に物を見て何度か折衝して初めて本当に欲しい物、その客にふさわしい絶対のお勧め品がわかることも多いから、その点は気にしなくていい。それに、外商に来てもらうのは、安全保障上の問題でもあるんだ。今の君の立場で、1人で繁華街に買い物に行かせるのは、俺には不安だ。俺が休みの日なら一緒に行けるからいいんだが、そうでない日はSPをつけてもらいたい。けど、君にも内緒で買いたい物があるかもしれんし、SPの手配がつかない、もしくは、SPについてきてもらう程じゃない、と思うこともあるだろう、そういう場合に、むしろ、進んで外商を使ってほしいんだ、俺のためにもな」
「そ、そういうものなんですね、今、お話を聞いて外商さん?って、恐れ多いとか贅沢とか一概に言えないっていうか、クラウゼウィッツのお家みたいなところには、なくてはならないもの、だっていうのが、わかったような気がします」
「ああ、所謂「御用聞き」だと思えばいい、こういっちゃなんだが、カタルヘナの姫君も、ジュリアス先輩のご実家も、オリヴィエ自身はともかくデュカーティの実家でも普通に何気なく使ってるシステムだから、本当に気がねしなくていい…とはいっても、いきなり見も知らぬ年配男性を外商として使いだてするのは気が引けそうなら…担当を気心の知れた、俺の友人にやってもらうってのはどうだ?」
「オスカーのお友達に、そういうお仕事をなさってる方がいらっしゃるんですか?知りませんでした」
「ああ、留学先で知り合ったヤツでな、本人は手広く事業をやってる、青年実業家なんだが、ちょっと風変わりというか、風来坊じみた処があって…とにかく、そいつも俺たちの結婚式に招待してたんだが、お嬢ちゃんの愛らしくも色香漂う花嫁姿に参ったらしくてな、先方から再三「外商使うんやったら、そん時は俺が直々に担当する、いや、させろ」と言われてたんだ。気に入った顧客に対しては、半ば趣味で、そういう仕事もするらしい。『ドレス、靴、バッグ、アクセサリー、化粧品…の類は、オリヴィエ・デュカーティんとこから提供独占されてまうのは道理やから、しゃーない、けど、ご婦人が入り用なもんはそれだけやないやろ。服飾雑貨以外のもんは、俺に扱わせぇ』ってな」
「ぷっ…なんだか、楽しそうな方ですね…あ、もしかして、その方、結婚式に参列してくださってたのなら…育ちがよさそうで、陽気で朗らかで人当たりのいい、緑の髪を後ろで束ねてたあの方ですか?確か、結婚披露会場のホテルのオーナーさんだったって、紹介されたような覚えがあるんですけど…色々なお仕事を手掛けてる方なんですね、えっと、チャーリーさんっておっしゃいましたっけ」
「覚えていたか?本名はチャールズ・ウォン、華僑の大富豪ウォン財閥の嫡男、かなりのやり手だが、それにしては気易い感じだったろう?結婚式で君を見て以来、君のファンになったとしゃあしゃあと俺に言ってきて、前から俺に「おまえのお嫁はんの担当は俺がする、他のもんにはさせへんからな」と、うるさかったんだ。ヤツなら素性も人となりも信用できるいし…ハンサムではあるが俺ほどじゃないから、君にあわせても俺も安心してられる」
「ふふっ、オスカー程素敵な男性は他にいないって、私、いつも思ってるのご存じでしょう?」
「ああ、そして君ほど魅力的で愛らしくコケティッシュな奥さんもな」
そう言って、オスカーにとろけるようなキスをされてぽーっとしてしまったアンジェリークは、自分にはなじみがなかったこともあって「外商」のことも、その担当者がオスカーの旧知の人物であることも、今の今まで失念していたのだった。
「そうだわ、何で、今まで思いださなかったのかしら、オスカーのお友達なら、オスカーの好きな銘柄のお酒とか、きっと、私より詳しいかもだし、プロなんだから商品知識は、絶対私よりあるはずだし…そうよ、チャーリーさんにお買い物相談、お願いしてみよう、えっと、連絡先、控えておいたかなー」
一応PCをみてみたら、ちゃんとアドレスには「チャーリー」の連絡先ー携帯ナンバーとメールアドレスがっていた、その気になれば、いつでも連絡、呼び出しできるようになっていたとわかって、ますます「もっと早く思いだしていれば…」と思ったアンジェリークだったが、とにかく、今はまず目の前の問題ー誕生日プレゼントにお勧めの物に関して助言が欲しいと気持ちを切り替える。
まずメールで連絡をとるのがいいかな、けど、メールだと返信くるまで時間がかかるかもだし、その場で聞きたいことがすぐ聞けて、やり取りできるほうがいいかな、と思い、アンジェリークは
「オスカーのお誕生日のプレゼントの相談にのってもらいたいって、用件をまずメールして…けど、色々相談したり教えていただけるよう、こちらから電話さしあげたいので、コールしてもいい日時を教えてくださいってお願いしてみよう」
『これも商談のアポになるのかな』なんて思いながら、挨拶と用件をしたためたメールを送信した。と、驚くほど早くレスがきた。そういうことなら、好みに合いそうなお勧めの品物を実際に見せられるので、PCのネットを使ったTV電話回線で、明日の午後にこちらからコールすると、チャーリーは言ってきてくれた。その迅速かつ親身な対応に、アンジェリークは驚き感心した。
「本当に気の利く、親切な方なのね、直接、お勧め品を持ってきてもらったら…ちょっと違うと思っても、また持って帰ってもらうのも、私だったら、気が引けちゃったかもだし、かといって、口頭で言葉だけの説明だと、どんな品物なのかぴんと来なかったかもしれないし…TV電話回線で、品物を見せてくれるなら、わかりやすいし、何より、私専用のTVショッピングみたいで、ちょっと楽しいかも!」
いきなり、問題解決、もう、どうして私ったら、もっと早くチャーリーさんのこと、思い出さなかったのかしらーと、アンジェリークが心弾む気分になった、その良いタイミングにオスカーからこれから帰宅する、というメールが入った。
* * *
「お帰りなさい、オスカー」
両手を広げて、オスカーを迎えると
「ただいま、お嬢ちゃん」
といって、オスカーはアンジェリークを抱き寄せ、笑いかけ、キスしてくれる、それがいつもの帰宅風景だった。そして、アンジェリークがいかにも嬉しそうだったりすると「何かいいことでもあったのか、お嬢ちゃん、可愛い顔がいつも以上に輝いてるぜ」と、すぐ、アンジェリークの変化に気づいてくれる。アンジェリークはアンジェリークでオスカーの様子ー自分に向けてくれる笑顔に、疲れが多少見えるが、さっぱりした様子だから仕事が一段落した処かな、など、なんとなくわかるのだが、今日のオスカーは「ただいま」と言いながら、アンジェリークの顔を直視しなかった、あれ、オスカーの様子、なんか、変?とアンジェリークが感じたとほぼ同時に
「すまん、お嬢ちゃん、俺は君に謝らねばならないことがある…」
と、オスカーはかなり沈痛な声と申し訳なさそうな顔で告げてきた。
アンジェリークはびっくりし、即、何事かと、気を引き締めた。オスカーの携わる仕事の性質を考えればいつ何があってもおかしくない…その覚悟はできているから落ち着いて「どうなさったの?」と尋ねる。
「20日から海外出張が決まった…帰国予定は24日だ」
と、いうことは21日、オスカーはここに…国内にすらいない?と考えがいたり、オスカーが申し訳なさそうな理由が、アンジェリークにようやく理解できた。
一瞬、黙ったアンジェリークが、酷くがっかりしてると思ったのだろう、そして、その様子を見るに忍びないと思ったのだろう、オスカーはアンジェリークの顔から微妙に視線を外したまま、急きたてられるように説明し始めた。
「新規の取引先との契約に関する交渉が、ここ最近、俺が手掛けてた仕事なんだが…契約前に工場視察をしておきたいと打診したら、先方もぜひ生産ラインを見てほしいということで、その日程調整をしてたんだ。できれば、年内に契約に関する詳細を詰めたい、という点で双方一致してたんだが、その日程調整の話しあいの最中に、先方がクリスマスは工場と従業員を休ませたいし、かといって年末は別の仕事の予定が入ってると言いだして…しかも、俺に向かって「クラウゼウィッツ氏も新婚だし、クリスマスは奥さんと一緒にすごしたいでしょう」なんて、妙に気を回されちまって…それで、こういう日程になっちまった、すまん、本当にすまん、お嬢ちゃん」
そのオスカーの言葉を聞くうちに、アンジェリークは落ち着きを取り戻し、オスカーの手に自分の手を重ねて、務めてゆったりとした口調で、こう言った。
「はい、オスカー、出張のことはわかりました、大丈夫です、そんな、謝らないで、ね?今、説明してくださって、事情もよくわかりましたし。お仕事っていうか、取引?契約が上手くまとまるよう、祈ってます。それにしても、何か、大変な事件とかじゃなくて良かったです」
「いや、まぁ、それはそうなんだが…けど、お嬢ちゃん、君は毎年、俺の誕生日をとても大事に思ってくれて、それを俺はわかっているから…だから、すまん、やっぱり、すまん」
だって、お仕事で誕生日を当日お祝いできなくなるのはオスカーなのに、そんな、申し訳なさそうなお顔、なさらないで…そんな気持ちをこめて、アンジェリークはオスカーの背に腕を回して、その身をきゅっと抱きしめた。
「大丈夫ですよ、オスカー、済まないこともないですよ、だって、クリスマスは誰もが知ってる祝祭日で、家族親族が一緒に過ごすもので…先方もそう思って、気を使ってこの日程にしてくださったのでしょう?お仕事は、お取引先あってのものですし、そういう事に気を回してくれるお取引先って、良いー誠意あるお相手じゃないかとも思いますし。オスカーのお仕事なら、メールや通話だけでは決められないことが多いのも、ご自身の目で確かめたいことが多いのもわかりますもの」
アンジェリークはオスカーを安心させるように微笑んだ。
誰かに傍聴されるかわからない電話ー有線でも無線でもーどこから情報が漏れるかわからないネットでのやり取りでは心もとない、危うい、そんな警戒をせねばならない業種だし、このネット全盛の時代でも、首脳会談や先進国経済相会議など、各国要人が直接出向いての会談がなくならないのは、直に顔を合わせ、言葉を交わしてこそわかること、信頼して交わせる契約、オフレコで決めたいやり取りがあるからだ、ということも、アンジェリークはよく知っていた。
そして、仕事とオフ日の兼ね合いで…多くの人が大切な人と過ごしたく考える祝祭日と、自分とパートナーにとってのみ重要な自分個人の誕生日…自分1人の都合なら、どちらを優先するか決めるのは簡単だが、仕事は取引先あってのもので、取引先には多数の従業員が在籍しており…無論、祝祭日に就労する人はたくさんいる、けど、平日に設定可能な会議や視察の日程を、自分個人の都合で敢えてずらして祝祭日にかぶせろ、などとオスカーは言い出さないだろうことは容易に想像できた。
「それに、誕生日のお祝いをその当日にできないのはオスカーなんですもの、私に謝ったりなさらないで、ね?替わりにお帰りになってから、お誕生日のお祝い、私にさせてくださいね。日にちが過ぎちゃったから、今年は何もしなくていいなんて、言わないでね?それだけ約束…ううん、そう、お願いしてもいいですか?」
「ああ…ああ、約束する、約束するとも。それでも、やっぱり、すま…」
あからさまにがっかりした風ではないアンジェリークの様子に、少しほっとしたように、けど、それでも申し訳なさそうな顔をしているオスカーの首に腕を回して、アンジェリークはオスカーの言葉を遮るように自分からキスをした。そしてすぐ、軽く触れるだけのキスを解くと
「本当に優しいオスカー、私、そんなオスカーが大好き、心から愛してるわ…」
と、告げてからもう1度口づけた。と、それまでアンジェリークの背に回され添えられていただけのオスカーの手にぐっと力がこめられ、次の瞬間、アンジェリークは苦しいほどにきつく抱きしめかえされていた。アンジェリークから仕掛けた触れるだけのキスは、いつのまにか、とてつもなく深く熱い物に変わっていた。
* * *
明けて翌日、出張の当日まで普通に仕事のあるオスカーはこの日も定時に出社した。
一方、アンジェリークのモデルの仕事ーオリヴィエブランドの専属なので、出勤日は不定期な上、そう多くもないーは今日は入っていなかった。だから、この日の午後のお買いもの相談は都合が良かった。とはいえ、お祝いは早くて24日の夜に順延になったから、ちょっと気は抜けちゃったのは否めないけど…当日、おめでとうを言えないのはちょっと残念だけど、その分、帰って来たオスカーが家で疲れをいやせるよう、そういう準備ができるよう、男性の視点から改めてお買い物相談にのってもらおうっと、とアンジェリークは気持ちを切り替え、アポの時間を待ってPCの前に座った。と、時間ぴったりに通話の呼び出しがかかり、アンジェリークはすぐ回線をつなげた、途端に陽気な声が耳に飛び込み、陽気な笑顔がモニタいっぱいに広がった。
「まいどー!ウォン商会のチャーリーです。このたびは、ご用命、おおきに。若奥さんと、こうしてお話するんは、結婚式以来ですなぁ、実のところ、お呼びがかかるんを、今か今かとまっとったんですわ、もー待ちわびて、まちくたびれてたつーてもええくらいに」
「こんにちは、チャーリーさん、それは、すみません…でし…た?……あの、チャーリーさん、ですよね?」
と明るい挨拶には明るいお返事をしようとしたアンジェリークは一瞬絶句した後、モニターに映る人物を誰何せずにはいられなかった、だって、こんな人、見覚えがない…いや、違う、この緑の髪、整った顔立ち、陽気な人好きのする笑みは確かに記憶にある人物と同じ、ような気がする、けど、アンジェリークの知っているチャーリーは、白のしゃれたスーツに身を包み、長い髪をきちんとなでつけて束ねてた…モダンでソフトで、でもきっちりしてる、いかにもちゃんとした青年実業家だったはず…で、こんなゆるふわウェーブを無造作に括って、コミカルとおしゃれの境目みたいな丸メガネをかけて、オリヴィエにも負けない位色鮮やかなタンクトップとストールを重ね着して、じゃらじゃらアクセサリーをつけた人じゃなかったんだものー!
まじまじとモニターを凝視しているアンジェリークの表情に気付き、チャーリーは「あちゃー」といいつつ、照れ笑いを見せた。
「しもた、オスカーの実家や思うて、よそいきのカッコせんで通話してもうた…若奥さん、俺のこういうカッコ、初見でしたっけ?」
「あ、私のことはアンジェとおよびくださいな…やっぱり、チャーリーさん、ですよね?結婚式の時のスーツ姿しか拝見したことがなかったので、ちょっと驚いてしまって、すみません、不躾に見つめてしまって…失礼いたしました」
「いやいや、こちらこそ、驚かせてすんません。けど、これから長くお付き合いさせていただくんやったら、早めに俺の素の様子、わかってもろうといた方が好都合やったかも。俺、品物の買い付け行く時は、大概、こんなカッコですねん。こういう風体の方が情報ー地元価格とか、穴場の市場とかの情報を手にいれやすいんですわ。で、こうして、俺が体張って、ええもん、安く買いつけてますから、俺の扱う品物は品質確かで、お値段リーズナブルなんですわ。そこんとこは誰にもどこにも負けない自信ありまっせー。で、今回はオスカーの誕生祝い好適品をお探しちゅーことですね?となると、21日の朝までにご自宅にお届けできる物でないと、あかんちゅーことですよね?」
「あ、そのことなんですけど、オスカーに、当日、出張が入ってしまって、なので、プレゼントは24日までに準備できればいいことになりました」
「あーあいつも俺ほどじゃないにしろ、世界中、飛び回ってますから、若…アンジェさんとしても、色々、気のもめることですなぁ」
「いえいえ、けど、なら…チャーリーさんも出張が多いということなら、あの、出張から疲れて帰ってきた時、あったら嬉しいもの、差し出されてほっとする物とかあります?あったら、参考までに、教えていただきたいんですけど」
「それはもう、アンジェさんの笑顔に勝るものはおへんでしょう!それに強いて付け加えるなら、部屋には好みの花が生けられーオスカーが好きっていうなら、やっぱ、バラでしょうなぁ、それも、情熱的な大輪の紅バラ、で、部屋には花の良い香りがたゆたい〜そこに綺麗でかわいい奥さんが好みの酒をもってきてでもくれれば、もう、言うことなしやと思いますよ、男なら。で、オスカーの好きそうな酒なら、これ!ですわ!俺の一押しです!昨日のメール拝見して用意してましたんや」
「わ、嬉しい、私もお酒がいいかなーと思ってたんですけど、自分では何がいいのか選ぶ自信がなかったから。じゃ、チャーリーさんお勧めのお酒を何本か、届けていただけるよう、お願いしてもいいですか?あと、お花の手配も一緒に…それと、ルームフレグランスのお勧めはありますか?」
「バラ飾るんやったら、部屋には他の香りはいらん思いますよ、俺は。それより、アンジェさんご自身にお似合いの香水をまとうことを、俺としてはプッシュしたいですなぁ。それも考えて用意しておいたのが、これ、ですわ。部屋に漂うバラともマッチする愛らしい花の香りの中にちょっとエキゾチックでセクシーなミドルノートが立ち上るちゅー香水で…うーん、モニターショッピングではボトルはみせられても香りはお届けでけへんのがネックやなぁ、なんとかでけへんもんかなぁーというのは置いておいて、マジで、これ、俺のお勧めです。アンジェさんとお話するのは結婚式ん時含めて、まだ2回目やけど、やっぱ第一印象通り、愛くるしいちゅー例えがぴったりのお方やなぁ思います、で、そういう可愛い人から、ほんの少しセクシーな香りが漂うてくるギャップとか意外性ってのは、結構、オスカーに受けると思うんですわ。それに、これ、そっちでは、まだ流通してない商品なんで、新鮮で珍しいのも、ええと思いますよー」
「へぇ、こちらでは未発売の香水、いいですねー…ってことは、チャーリーさんも、今、海外出張中ですか?あ、そういえば、こっちより外が暗いような…もしかして、もう、そちらは夜ですか?」
「ええ、今日で買い付け3カ国目です。時差伴う移動が多いんで、たまに、今、何日の何時か、よう、わからなくなる時、ありますわ、世界を股にかけるビジネスマンで、特に自分の車でヨーロッパ各国間移動したりやと、国境越えても、飛行機とちごうて、現在時刻のアナウンス、ありませんからなぁ」
「まぁ、それなのに、私との通話開始時刻は、お約束の時間ぴったりでしたよ、流石ですねー、こちらとの時差が国ごとに全部頭に入ってるんですか?」
「もっちろん!さもないと、出張中の指示やら連絡やら、本社での時刻まちごうたら大変なことありますからなぁ…と自慢したいとこやけど、そんな、とっさに計算ようしませんわー。実は、俺には秘密道具がありますのんや、どの国のどこにいても、本国・本社が今、何日の何時かわかる、便利な秘密道具が」
「秘密道具?」
「お見せしましょうか?ちゃらららっちゃちゃー!」
と口でファンファーレを言いつつ、チャーリーがモニタを通して見せてくれたものはーアンジェリークが想像したような計算尺でもデジタルな世界時計でもPCの自動計算プログラムでもない、一見、極普通の腕時計だった。が、そのギミックにアンジェリークはかなりの感銘を受け、次の瞬間、良いことをおもいついた。
「チャーリーさん、チャーリーさん、さっきのお酒とお花と香水に加えて、もう一つ、こちらはできれば20日までに手配していただきたいものが、ある…っていうか、今、思いついたんですけど………」
* * *
オスカーの出張の日がやってきた。
出張出発当日の朝は、軽くパンとカフェオレだけの食事を取ってオスカーは家を出ることにしている。体温と血糖値をあげ、けど、出先でビジネスランチを取ることも多いので、それに影響しない程度に腹を満たそうとと思うと、これ位がちょうどいい。出発までの時間は長めに取って、アンジェリークとゆったり別れを惜しむのも、いつものことだ。
「今回の出張は、日数としては少ないほうだから、すぐ会える…と言いたいが、やはり、出がけはいつでも名残惜しいぜ、お嬢ちゃん」
「それは、私も同じです、オスカー。お体に気をつけて、ご無事にお帰りになってね。待ってます、それで、あの…オスカー、ちょっと早いけど、これ、受け取っていただけませんか?」
アンジェリークがはにかんだ様子で、金のリボン包みの小さな箱ー高さがあって形状としては立方体に近いーを差し出した。これは何か、などと、野暮なことを尋ねるオスカーでは、無論なかった。
「1日早いプレゼントか?俺にはお嬢ちゃんさえいてくれればそれで十分なのに…だが、君の気持、ありがたく受け取らせてもらおう」
「はい、ぜひ」
小さな箱を開けると、金のスクエアフレームに白の文字盤、数字は見やすいアラビア数字で、ベルトは黒のクロコダイルという至極正統派の腕時計が入っていた。オスカーが着用することが多い黒系のスーツによくマッチする色とデザインだった。
「ジャガー・ルクルト(注・スイスの実在時計メーカー、創業1833年の老舗)じゃないか、奢ったな、お嬢ちゃん」
「オスカー、このブランド、ご存じでした?」
「名前とここが老舗時計メーカーだということ位だがな、ここの時計のムーブメントは幾つも特許を持っていて、発想や着眼点がかなり独特だと、ゼフェルから聞いた覚えがある。それで、かなり独創的な職人技のブランドなんだろうと思って、社名が記憶に残ってた」
「そ、そうですか」
何故か、ちょっとほっとしたように、嬉しそうにアンジェリークは微笑むと
「あの、よかったら、今日の出張にこの時計をつけていってくださいません?そうしていただけたら、私、嬉しい…」
と、愛らしくおねだりした。当然、オスカーとしても、そのつもりだった。出張前に手渡してくれたアンジェリークの気持ちを汲まないはずがないだろう?と、言わんばかりに
「もちろん、そうさせてもらう、お嬢ちゃんからの心づくしだ、それにお嬢ちゃんからもらった時計を身につけていると、いつもお嬢ちゃんと一緒にいるような気分になれそうだしな」
と優しく笑みを返しながら、即、腕につけてみる。クロコのベルトは見た目より柔軟で肌なじみがよい。角型のフレームがシャツの袖のラインに綺麗に沿う。これ見よがしに存在を主張することなく、袖元を彩るそのデザインは、オスカーには大層好ましかった。
「ああ、いいな、この時計は…見るからにいいものだとわかったが、つけてみると、一層いい」
「そう思っていただけたら嬉しいです。よくお似合いだし…よかった」
「ありがとう、お嬢ちゃん、大事にさせてもらう」
「ふふ、こちらこそ、すぐ身につけてくださって、嬉しかったです…それじゃ、オスカー、いってらっしゃい、お気をつけて」
アンジェリークがキスといっしょに、オスカーを送り出してくれた。
オスカーの腕には彼女からの贈り物の金の腕時計が光っていて、アンジェリークもオスカーが出張に出かけてしまう、というお見送りにしては、寂しそうでないのがー今回は一緒に誕生日を祝うという積年の約束を反故にしてしまった上での出張だったので、出がけにアンジェリークに寂しい顔や悲しい表情をされたら、オスカーとしてはいたたまれない処だったろうが、アンジェリークは、晴れやかな笑顔で送り出してくれた。
この笑顔が、オスカーが彼女からの贈り物を身につけて出たから、というのもあるとしたら、出発前にプレゼントをくれたアンジェリークの気持ちーでかけるオスカーを笑顔で見送れるようにとの気遣いでのこのタイミングを選んで贈り物をくれたアンジェリークの気持ちにオスカーは感謝した。出がけにあの晴れやかな笑顔が見られて、よかったと思いながらオスカーは出立した。
* * *
出張第一目の夜、接待の夕食を終え、ホテルの部屋に戻って、ネクタイを緩め、オスカーはほっと一息ついたところだった。出張の成果は期待以上のものになりそうだった。良い結果が得られそうだという手ごたえ故か、長時間のフライト後、即、視察、交渉、接待とハードスケジュールをこなした後だったが、疲労はさほどでもなく、むしろ充実感が大きかった。
工場の品質管理、生産ラインは先方がぜひ見てほしい、そして品質に納得した上で契約して欲しい、と言ってきただけのことはあるレベルだった。先方としては契約の条件を少しでも良くするための術策だったかもしれないが、アルテマツーレの製品は誤作動が限りなく少ない、という信用を維持するため、精度の良さを保証するため、部品メーカーの吟味は欠かせないし、オスカーは品質への妥協はしない、許さない、だから直に現場を見に来て正解だった。その技術の高さを認め、敬意を素直に表明したことで、商談もスムースに運びそうだ。先方は、初め、俺の若さに失望と侮りを僅かに匂わせた、が、どんな態度で出られようと、俺は見るべきものを見、判断するべき基準で判断するだけだと落ち着いて交渉を進めることができた。初めての契約先との交渉としては、ほぼ満点のデキだったと自分でも思う。
これも、お嬢ちゃんが、お嬢ちゃんの思いが、俺に寄り添い、支えてくれたからのように思う。
腕時計は、仕事中、常時身につけておくもの、そして日に何度も見るものでもある、意識して文字盤を覗かなくても、ふとした拍子に目にも入りやすい、その度に、アンジェリークを思い、送り出してくれたアンジェリークの笑顔を思い出し、力をもらった、オスカーはそんな気がしてならなかった。
毎年、プレゼントは特にいらない、君さえいればいい、といってきた言葉と気持ちに、嘘いつわりも強がりもなかったオスカーであったが、こうして離れて過ごしていると、身につけるものをプレゼントされるのもいいものだ、と素直に思えた。その物を目にし、身につけていることを意識する度に、贈ってくれたアンジェリークのこと、彼女の思いが感じられて、嬉しく幸せな温かな気持ちになれるから。
それを知ってか、異国への出張前に、こんなプレゼントをくれたアンジェリークに、オスカーの胸に一層強い愛情と感謝の念が湧き上がる。
その、プレゼントをされた時計を見れば、この国では、もう夜半すぎの時刻だった。が、アンジェリークのいる我が家は、今、何日の何時頃だろう、もう、日付が変わった頃合いか、それとも、まだ俺が出発した20日のままなのか。帰ったら、俺の誕生日を祝ってくれると言っていたアンジェリーク、君の声が今、無性に聞きたい。君のおかげで、今度の仕事も上手くいきそうだと告げたい。けど、彼女はもうベッドに入って休んでいるだろうか。この国へは初めての訪いだったので、時差がとっさには計算できない。今、電話しても大丈夫な時間帯だろうか?
と、そんなオスカーの気持ちが通じたかのようなタイミングで、オスカーの携帯から着信音が鳴り響いた。この音は、アンジェリークからだ!考えるより先に体が動き、オスカーは携帯を開き耳にあてていた。
「オスカー、誕生日、おめでとうございます」
「お嬢ちゃん…」
たった今、声が聞きたいと、切実に願っていた、その願いどおりに、優しく愛らしく澄んだ声音がオスカーの耳朶をくすぐるように響いた。その嬉しい驚きに、オスカーは一瞬、言葉を失い、一呼吸おいてから、しみじみと応えた
「ありがとう、お嬢ちゃん。丁度、俺も、君の声が聞きたい、そう思っていたところだったんだ、俺の願いが君に届いたみたいで、驚いた」
と、ここまで話して、オスカーは、アンジェリークの第一声が「誕生日おめでとう」だったことを思い出した。
「そうか、君が、今、コールをくれたってことは、そちらは、ちょうど、日付が変わったところ、なのかな?」
「はい、そうです、こちらの日付で21日になってすぐに電話しました。そちらの国でも、この時間なら、オスカーのお仕事も終わってる頃じゃないかなって思って、それで、電話しても大丈夫かなって思って…万が一、まだお仕事中で、直接お話できなかったとしても、メッセージにでもいいから、オスカーに、どうしても、お誕生日当日に「おめでとう」って言いたかったから」
「嬉しいぜ、お嬢ちゃん。俺は…君の声を聞きたい、無性に聞きたくてたまらない、丁度、そんな気持ちだったんだ。誕生日は、いつも君と一緒に過ごすのが当たり前になっていたからかもな。けど、俺の方は、今、そちらに電話をかけても大丈夫か、すぐには判断できなくて、PCで時差を調べて計算してからコールしようかと考えたところだったんだ」
「オスカーもこちらに電話したいと思ってくださったの?」
「当り前じゃないか、お嬢ちゃん、こうして異国で仕事に励んでいると、無性に君の声が聞きたくなる時がある、時折、衝動的ともいえる渇望に襲われる。時差を考えて、電話していいものか迷った揚句、しない場合も多いんだがな、だから、尚更、声が聞きたくなるんだろう」
「なら、なら、オスカー、これからは迷わず電話なさってください、時計を見れば、こちらの時刻が確認できますから…」
「時計?いや、こっちの現地時刻に調整しちまってあるから、時計を見ても、そちらの時間はとっさにはわからないが?」
「あのね、差し上げた腕時計には、実は、ちょっとした秘密?っていうか仕掛けがあるんです。時計の文字盤の部分、そこに横から力をいれて、押すようにしてみてください、文字盤がスライドしますから」
「え?なんだって?」
「サイドを押すと、文字盤が横にスライドして動くんです、その時計。そして、スライドさせたら、くるりと反転できるようになってますから、反転してみてください、裏面にもダイアルー文字盤がありますでしょう?」
「本当だ…黒の文字盤が出てきた…この時計、文字盤が2重構造になっていたのか…この時刻は…こちらの現地時刻じゃないな、零時ちょっと過ぎ…21日になったばかり…そうか、この裏面の黒いダイヤルは、そちらの…君のいる場所の現在時刻を表しているんだな」
「はい、そうです。その時計、文字盤が2重になっているので、時差の異なる2か所の時刻を同時に設定、確認できるんです、なので、出張先がどこでも、文字盤を反転させれば、こちらが今、何日の何時なのか、すぐ、わかります。そっちは朝だ、もう起きた頃かなとか、昼さがりだから電話しても大丈夫だなとか…時差を計算しなくても、すぐ、わかるんです、だから、この出張中、もし、私の声を聞きたいと思ってくださった時は…その時計で時刻を確かめて、遠慮なくコールしてください、オスカー」
「君が出張前にこの時計をくれた訳が今、ようやくわかったぜ、お嬢ちゃん、お嬢ちゃんは見かけによらず、悪戯好きだったみたいだな?この時計にこんなギミックがあることを、今の今まで内緒にしておくなんて…」
「ふふ、オスカー、そのブランド名をご存じだったから、この時計の仕掛けも知ってるか、すぐ、お気付きになるかな、とも思ってたんです、そしたら、すぐ、その場でこの仕掛けのこと、言うつもりだったんですけど、普通の腕時計だとお思いのまま、オスカーはお出かけになられたから、当日のちょっとしたサプライズにしようって思って、内緒にしちゃいました。でも、真面目な話、そのWフェイスの時計は、移動の多いビジネスマンには、本国や本社の現在時刻がすぐわかって、便利だそうなんです。なので、私に電話するためだけでなく、お仕事にも役だてていただけたら嬉しいです」
「お嬢ちゃん、君の心遣い、君の気持ちに、俺は心の底から感謝する。そこまで考えて、この時計をプレゼントしてくれたなんだな…正直、驚いた…この時計があれば、異国の空の下にいても、今、君が何をしているだろうと、俺はすぐ思いを馳せることができるんだな、この時刻なら、お茶の時間だろうから電話できるなとか」
「はい、お待ちしてます、私も、PCでそちらの時間帯を調べて、大丈夫そうな時間を見計らって、また、電話しますね」
「てことは、君は、俺と同じWフェイスの時計は持ってないー一緒に買ったりはしてないんだな?」
「え、はい、だって、それはオスカーへのプレゼントで…私は海外…時差のある処に仕事で行くことはまずありませんから、必要だと思わなかったっていうか…出張の多いビジネスマンに超お役立ち腕時計ってキャッチフレーズだったから…」
「なら、帰ったら、俺から同じタイプの時計ーもちろんレディスデザインのものを君にプレゼントにしよう」
「え?え?ええー?」
「クリスマスプレゼントってことで、どうだ?そしたら君も、一々世界時計で俺のいる場所の時刻を計算しないで済む、裏の文字盤を俺の出張先の時刻に合わせておけばいいんだからな。何より、同じブランドの時計をさり気なくペアでつけるってのもいいじゃないか。同じルクルトの時計でも、全く同じデザインでなければ、これ見よがしじゃないだろうし…だから、デザインは俺に任せてくれるか?お嬢ちゃん、期待しててくれよ」
「は、はい、オスカー、嬉しいです。ありがとうございます、腕時計をペアにするって…そうですよね、こうして離れてても、オスカーのいる処では、今、何時頃、じゃ、こんなことしてるかしらって想像したら、楽しいし、それがペアの時計を見てできることなら、なんか、とっても幸せな気持ちになれそうな気がします…あの、寂しいって気持ちも、まぎれる、そんな気がします…」
「ああ、俺も君に会いたい、会えなくてさびしい、けど、互いの存在を感じあえ、今頃、どうしてるだろうと思いを馳せることができたら、その寂しさも無駄じゃないさ。そして、この時計が会えない時間を豊かなものに変える手助けをしてくれるだろう、良い物を選んで俺に贈ってくれたこと、改めて礼を言わせてくれ、ありがとう、お嬢ちゃん」
「オスカー…どういたしまして、オスカー…大好き!」
「俺もだ。愛してる、お嬢ちゃん、仕事が終わり次第、いや、なるべく早く終わらせて、可能な限り早く帰るようにするからな」
「はい、お待ちしてます、早く「お帰りなさい」って私に言わせてね、オスカー」
「ああ、俺も君に「ただいま」を言えるのを心待ちにしてる、そして…会えずにいた時間を埋めわせする以上に、思い切り愛してやるからな、覚悟しておけよ、お嬢ちゃん」
「それ…その、私には、覚悟じゃないです、だって、楽しみにしてますから、きゃ…」
「…参った…今すぐ飛んで帰りたい気持ちになっちまったじゃないか…やっぱり覚悟しておけ、お嬢ちゃん、そんな事を言われたら、優しくしてやる余裕がないかもしれないからな」
「いやん…でも、オスカーなら…いい…です」
「ぅ…どこまで俺を誘惑するつもりなんだ、お嬢ちゃんは…」
まずい、下半身が熱くなりかけていた、これ以上、この甘い声を聞いていたら、本当に辛抱できなくなりそうー悶々として眠れないか…まさかとは思うが、下手すると、いい年して寝起きに寝具を汚しかねない気さえした。
「あぁ…いや…そちらはもう遅い時刻だろう、いい子はそろそろお休みする時間だぜ、お嬢ちゃん」
「はぁい、そうですね、じゃ、そろそろ、お休みなさいにします?オスカー」
「ああ、お休み、お嬢ちゃん、今のうちにたっぷり寝ておくんだぜ、俺が帰ったら、そう十分には寝かせてやれないかもしれないからな」
「ふふ、それって幸せな睡眠不足ですね。けど、じゃ、おっしゃる通り、今夜は早めに寝ます、オスカーの夢を見られるよう…あ、でも、それだと却って目が覚めた時、寂しくなっちゃうかも、だから…わかってるけど、わがままだってわかってるけど、やっぱり、早く帰ってきてね、オスカー」
「っ…ああ、できる限り早く。また、電話する、お休み。お嬢ちゃん」
「はい、私からも電話しますね。じゃ、お休みなさい」
名残惜しい気持ちはあったが、きりがないこともわかっていたので、オスカーは思い切って通話を切った。のぼせかけた頭を冷やす必要も感じてのことだった。
ただ、電話を切ったとたん、静けさが我が身に押し寄せてきたように感じた、静けさにその身を包まれた気がした。
その静けさが、今年、自分の誕生日を俺は異国で1人で、この国では数時間後に迎えることになるのだな、と改めて思わせた。
けど…オスカーは自分の気持ちを探ってみる…不思議と、酷くわびしかったり、さびしかったりはしない。オスカーの耳朶には甘く響くアンジェリークの声の余韻が残っているようで、寂しいよりも、幸せな満ち足りた気持ちの方が勝っていたからだ。
だって、家には俺の誕生日を祝い、俺の帰りを待ちわびている愛しい大切な人がいて。その人が、今、この瞬間も自分を思ってくれている、そして、俺が思いをはせる縁となる贈り物を持たせて送り出してくれていたのだ、こんな幸せな男、世界中探したって、そう、いやしないさ。
つつがなく一緒に過ごせる誕生日が嬉しく幸せなのは言うまでもない、けど、その当日に一緒にいられずとも、思いあう気持ち、信頼、絆…そういうものが俺たちの間には確かにあって、今日?明日?とにかく、今、離れた場所から祝ってもらって、そのありがたさ、嬉しさを改めて感じられた、教えてもらった。
その絆、信頼、愛情あってこそ、この不確かな、中々思い通りに事が運ばなかったり、理想の実現が程遠いと時折思い知らされる残酷な現実世界でも、俺は顔をあげて、胸を張って、常に前を向いて突き進んでいけるのだ。
「こんな誕生日もいいものだ」
半分は強がりだな、と苦笑しながらオスカーはひとりごちた。
数日後には自分を待っている人がいる家に帰り、その家では数日遅れの誕生祝いの準備を、愛しい人がしていてくれる、そう分かっているからこそ、思えることだとオスカーにはわかっていたから。
さぁ、彼女への土産は何にしよう、無論、ペアの時計とは別にだ。土産とクリスマスプレゼントは別物だからな、仕事が片付いたら、取引先にいい店を教えてもらおう、アンジェリークは「オスカーが無事、帰ってきてくれたのが何よりのおみやげ、一番嬉しいことです」って言うだろうけどな、と思いつつ、オスカーは鼻歌を歌いながらシャワールームに向かった。明日も元気に仕事できそうだと、心から思えた。
FIN
2010年度のオスカー様お誕生日創作です。
今回のオスカー様へのプレゼントは、本文中にある通り、実在する時計メーカーの実在する時計です。
この「ジャガー・ルクルト(http://www.jaeger-lecoultre.com/ao/ja/)のグランドレベルソのピンクゴールドフレームを作中ではイメージしております、興味をお持ちになった方は公式サイトで画像を見てみてください。
このメーカー、180年弱の歴史を持つ老舗なのに、現CEOは33歳の若さというあたりも個人的に萌えです、というのは、本筋に関係ないからおいといて(笑)
この時計メーカーのWフェイスウォッチは、表裏2つのダイアルで2重の時を刻める時計です、なんとなく2重の時(聖地時間と外界時間)のWスタンダードで生きていく守護聖様の存在と通じるものがあるなーと思い、この時計のことを知った時から「これをオスカー様への誕生日プレゼントにした創作を書こう」と思ってました。
でも聖地時間と外界時間の2つを刻む時計だと、どちらか片方の時計の針は、目にもとまらぬ速さでぐるぐる回るホラー時計、もう片方は動いてるんだか動いてないんだかわからん時計になってしまう、これではどんなシチュで創作書いてもギャグかホラーになってしまう…ロマンチックなお祝い創作にならない!と聖地ネタで途中まで書いてみたのですが、どうにも料理しきれず、すっぱりきっぱり聖地ネタでの創作を1度断念。
そして小道具としての時計が似あうっていったら、やっぱり、現代パラレルだよね、それならしっくりくるよねーと思って書きなおしたのがこの作品です。
時間的には2010年末現在連載中の「Before…」の後「Fair Wind]の前というか、その間のお話になりますね。
ともかく、今回の小道具として使ったレベルソは多忙なエグゼクティブの仕事にも役立だちーの、プライベートに恋人に連絡を取るのにも役立ちーの、特に役に立たなくても、黒の御地盤と白の文字盤、ファッションに合わせてスイッチチェンジするだけでもおしゃれでいいらしいです(笑)
現実にはお高すぎて、私レベルでは絶対プレゼントに使えない時計ですが、創作は夢と妄想の産物ですし、オスカー様にはやはり世界の一流品を身につけてほしい!しっかりお似合いだと思うしねー(^^)
そして一流品ナビゲーターとして、こっちのパラレルでも、チャーさんに活躍してもらいましたv彼ほど、ある意味、真の青年実業家・エグゼクティブは他にいませんしねー。
そして、マジな話、パラレルでも聖地ネタでも、オスカー様の立場なら、出張に出てて、お誕生日当日にリモちゃんにお祝いしてもらえない状況ってのは、かなりの確率でありうると思うんですね。
その時、オスカー様はどうするか、リモちゃんはどう思い、どう行動するかを考えた時、当日お祝いできないのは残念でも、一言おめでとうは言いたいだろう、とか、後日、お祝いさせてねとリモちゃんなら言うだろう、その気持ちを知っていれば、当日出先でもオスカー様の心は暖かい炎がともっているだろう、なんて想像して、このお話を書いてみました。
なので、舞台装置としてはパラレルですが、物語の根幹にあるオスカー様とリモちゃんの間に通じる思いというのは、聖地の2人と同じだと思ってます。
ただ…あまあまHな展開を期待してた方にはごめんなさい〜!
オスカー様が帰ってきてから、メチャ甘アチチな時間をこの2人はすごしたんでしょーねーと後はあなたの心の中で想像してください(爆)
ある意味、ちょっと絡め手というか斜め方向なお誕生日お祝い創作でしたが、こんなお話でも、楽しんでいたただけたら幸いです。