<薔薇の花言葉>            Presented by 合歓さま




 宮殿の奥には、ひときわ見事な薔薇の庭があるという。
 それは、女王だけが憩う、女王のための庭。補佐官も守護聖も、女王の側仕えの女官ただ一人を除いては誰も足を踏み入れることの許されない、至尊の冠を戴くひとのためにだけ在る、薔薇だらけの庭だった・・・。



 馥郁と香る薔薇の中から、ひときわ甘く芳しい香りが立つ。
 その香りを辿ると、庭の最奥に小さな濃いピンク色の花弁をたくさんつけた、一群の薔薇の茂みがある。
 執務室にも、私室にも、奥宮のどこにも女王の姿が見あたらないときは、その薔薇の茂みを探すとよい―――女王の側仕えに必ず引き継がれる事柄の通り、今も女王はその場にふうわりと座って、漂う甘い香りの中にいた。
 裾の長いドレスではあったけれど、女王として宮殿に出る衣装よりも質素な、軽い素材の服に真白いエプロンをつけている。つばの広い帽子も白。エプロンのポケットには植木ばさみが一つ入っているところを見ると、花でも摘みに出てきていたのだろうか。
「陛下、光の守護聖さまが謁見を申し出られておられます」
 補佐官からの伝言を、まだ若い新任の彼女は暗唱でもするように、宙をにらみながらそう告げた。
 女王は、一言一句間違えないようにと懸命になっている女官の様子がおかしくて、口元にほほえみを浮かべる。
「・・そう、ご苦労さま。すぐ行くって、補佐官に伝えて」
 光の守護聖が謁見を申し出る―――ということは、捜しものが見つかったのだ。
 案外早かったこと・・・。
 女王は、もう一度その小さな薔薇の香りを胸一杯に吸って、立ち上がった。
 庭の奥から、私室のサンルーム目指して薔薇の中を歩む。いくつかの花弁を慈しむように撫でながら・・。
 ふと立ち止まって植木ばさみを取り出すと、黄薔薇を何本か切った。淡い黄色の、だが輝くような色味の薔薇だった。
 サンルームから私室に戻る。すでに、女王の謁見の際の衣装を広げて待っていた側仕えに、その黄薔薇を渡した。
「棘をとって、レースペーパーで包んでおいて。首座の守護聖に持っていってもらうから」
 そして自身は鏡台に向かい、額に浮かんだ汗を拭いて化粧を始めた。
(あのころは、お化粧なんてしなくてもよかったのにね・・)
 こんなに長く女王の座を占めているとは思いも寄らなかった。肩の辺りで踊っていた髪は、丈長く伸びて、今では腰にかかるほど・・。伸びた髪の分だけ、齢も重ねたのだろうか―――この、私が時までをも統べる聖地にあっても―――。
 感傷を振り払うようにかぶりを振ると、女王は長い髪をさっととかしただけで、女王の冠をつけた。そして、普段着を肩から滑らせて脱ぎ、重い衣装を取り上げる。
 とうに黄薔薇の支度を終えた側仕えがドレスを引き上げて手伝ってくれ、背のファスナーを上げてベールを纏わせた。
 乙女おとめした体型が変わっていくたびに、もう何度仕立て直したことだろう・・。重くて歩くのにもふらついた衣装の裾さばきも、危なげなくなった。
(・・ああ、今日は何かにつけて、私に流れた時の長さを思い知らされてばかり・・)
 衣装も冠ももう重くない。
 重いのは己の気分だけだ。
「陛下」
 物思いの淵から、側仕えの声で引き上げられた女王は頷くと、黄薔薇を捧げた側仕えを従えて、私室を出た。


 やはり、光の守護聖の用とは、守護聖の交代に関わることだった。
 在位が長きに渡れば、送り出す知り顔も多かった。何人か、試験の頃から支えてくれていた守護聖を見送った。
 そして、今度は、あの―――。
「陛下、ご気分がお悪いのですか?」
 憂い顔を隠しきれないでいると、光の守護聖の心配そうな声がかかった。だが、その瞳は眼光鋭く、蒼い空さながらの輝きで女王を見ている。
「・・いえ、大丈夫よ、ジュリアス」
 一瞬ためらった後、女王はジュリアスに尋ねた。
「・・・・、すぐ聖地を出ることになるの?」
 誰を指しているのかは、ジュリアスにも、傍らに控えている女王補佐官にもすぐわかった。
「いえ、陛下・・。しばらくは、交代する守護聖の教育に従事することになるでしょう・。ですから、いますぐということはございますまい」
「・・そう・・・」
 その語尾がか弱く震えるのを、筆頭守護聖も補佐官も、気づかないふりをした。
 彼も彼女も、女王の胸の内は痛いほどわかる立場にいたから・・・。
「・・もう、用は済んだのかしら・・?」
 女王が玉座から立ち上がった。
「御意」
 光の守護聖が短く答えるのへ頷いて、女王は側仕えに持たせた薔薇の花束に視線を投げた。
「ジュリアス、使いだてして申し訳ないのだけど、この花を渡してくれる―――あのひと、炎の守護聖に・・・」
 花束を受け取って、ジュリアスは重々しく頷く。
「確かに、承りましたぞ、陛下」
 微かに、女王は微笑んだ。
「よろしく・・つたえて」
 膝を折ったジュリアスの耳に、衣擦れの音が聞こえ、女王はそのまま退出した。
 補佐官が顔を上げたジュリアスに目線で問うて来たが、あわてて女王の後を追って謁見の間を出ていき、後には、黄薔薇の花束を抱えたジュリアスがただ立ちつくしているだけだった。


 女王の波立つ心を映してか、その日の聖地は荒れ模様だった。
 雨こそ降らなかったが、激しい風が草花を、木々を揺らして吹きすぎ、時折、折れた小枝が窓を叩く・・、そんな夜になった。
 女王の私室とて例外でなく、轟々とうなる風の音に包まれていた。
 女王は、心配する側仕えを下がらせると、一人小さな灯りだけを残して、文机に向かった。手元に本は広げていたが、目は活字を追っておらず、目の前に広がる闇を凝視しているばかりだ。
 バチバチと、サンルームの広い窓ガラスに、風で折れた薔薇の小枝がぶつかる音がする。
 聞くともなしに聞いていたが、その中に別の音が混じるのに気がついて、女王ははっと立ち上がった。
 サンルームに通じるドアを開け、暗闇を透かすようにして薔薇の庭の方を見た。
 闇の中に、短く燃え立つような深紅の髪を乱した、炎の守護聖が立っていた。
「・・・!」
 衝撃の後、女王の唇が「うそ」と動く。
 炎の守護聖の頬には、飛んできた小枝で傷つけたのか、一筋の血が流れていた。彼の髪と同じ、赤く燃えるような血の色・・。
 その血を見たとき、女王の手は我知らず、バラ園に通じるドアのノブにかかっていた。
「陛下!」
「オスカー、何故、こんなところへ・・!」
 女王の手によって開けられたドアが風で大きな音を立てる。
 オスカーは、急いでドアを閉め、それからゆっくりと女王に向き直った。
「・・なぜ、あの薔薇を俺に・・?」
 オスカーは憤っている・・。女王はぼんやりとその乱れた顔を眺めている。
 なぜ・・? どうして、オスカーは・・?
 彼の手が、ぼうっとしている女王の肩を揺さぶった。
「・・なぜ、お嬢ちゃんの好きなこけバラを贈ってはくれなかったのか? あの香り高い、お嬢ちゃんのようなバラ・・、あれをジュリアスさまに言付けられたのだったら、俺は、ここまでやって来はしなかった」
 いつも、庭の奥で憩うのはその薔薇の茂みで、だった。まだ女王候補の頃、庭園であの薔薇をみかけたオスカーが“お嬢ちゃんのようなバラ”と評したこけバラ。
「あのバラを見るたびに、俺は謁見の間でしか見られなくなったお嬢ちゃんの顔を思い出していた。小さいくせに人を酔わせる芳香を持ち、どこにいてもその存在がわかるような・・」
「・・私だって・・、あの薔薇をオスカーさまだと思って・・、オスカーさまがいなくなってしまっても、あの薔薇があれば女王を続けていける・・、そう、思って・・」
 だから、あの薔薇を摘みたくなかった。私の心の支えの薔薇。ことある毎に、いえ、心に掛かる何もなくても、女王はあの庭の、あの薔薇の茂みで座っているのだ。
 女王たることは自らが選んだこと・・。でも、オスカーに対しての気持ちを殺してしまったわけではない。
 いつか、女王のサクリアが尽きたら、女王の御位を降りたら、私はあのこけバラを腕いっぱいに摘んで、オスカーの元を訪ねよう・・。それを頼みに女王のつとめを続けてきたのだ。
 だが、運命の意地悪な手は、私より先にオスカーのサクリアを取り上げてしまった・・・!
 そう、だから・・。あの薔薇は私だけの、恋の墓標。一枝たりとも、あの庭から出すつもりはなかったのだ。
 頬を伝う血をその白い指で拭う。小さなみみず腫れが頬に残った。
「でも、あの薔薇でないからといって、どうしてこんな危険を冒すの!? 風もひどいし、見つかったら、たとえ炎の守護聖といえど、ただではすまないわ」
 血のついた指でその傷をなぞった。オスカーがほんの少し頬をゆがめる。痛いのか、それとも苦笑しているのか・・。
「お嬢ちゃん、あの黄薔薇の意味を知っていて、ジュリアスさまに渡したのか?」
 顔を撫でる小さな手をとらえ、女王に近く顔を寄せてオスカーは尋ねた。
 女王は、間近にせまる思い人の顔に鼓動を早くしながら、きっぱりと首を振った。
 オスカーは深いため息と共に
「・・だろうな・・」
甘くて苦い笑みを刻む。
「俺のお嬢ちゃんは、ひどくおっちょこちょいだったんだ。・・今も、昔も・・な」
「・・あれにどんな意味があるんですか? 今、私の庭で一番綺麗に咲いている薔薇だから、ジュリアスさまに言付けたのに―――」
 その言葉を最後まで言わせず、オスカーは女王を抱きすくめてその耳に囁く。黄薔薇の花言葉を。
 みるみるうちに赤くなった女王を抱いたまま、彼はまたため息をついた。
「ふつうは、女の方がこういうことには詳しいものだがな・・」
 ますます赤くなる女王の耳に、もう一度オスカーは囁く。
「・・・」
 短い愛の言葉とともに、女王がかつて呼ばれていた名が、彼の声で蘇った。
 女王がはっと顔を上げた。その瞳に涙の膜が盛り上がって、やがてつうと頬を伝った。
 今度はオスカーの浅黒い指が、その滴を拭う。そして、涙の跡に沿って、その手を滑らせた。
「・・俺を、近衛の衛兵でも何でもいい・・、お嬢ちゃんの側に置いてくれ。肩書きも地位もいらん。ただ、聖地で君の側にいられるように、はからってはくれないだろうか」
 女王はまだ彼の腕の中で震えていた。
「リュミエールのように楽器でも扱えれば、女王を慰める吟遊詩人・・なんて言えたかもしれんが、生憎、俺のできることと言えば、この身体を使うことだけだ。サクリアをなくした俺になど、何の価値もないかもしれんが―――」
「いいえ!」
 女王が叫んだ。
「・・もう、誰も呼んでくれなくなった私の名前を、呼んで下さるのはオスカーさまだけです・・。それだけで、私には価値があるの・・。オスカーさまがいてくれるだけで・・」
 オスカーの大きな手が、女王の白い頬を包んだ。
「・・ここのバラ園の管理を、お願いしてもいいですか? こけバラを、大事に育ててくれる人を捜していたんです。私だと思って大事に大事にして下さる方を・・・」
 また、女王の頬を涙が流れる。その滴を掌で拭って、オスカーはそっと口づけた。こけバラの蕾のように可憐な女王の唇に。
「・・大事に、してくれますか?」
 オスカーは不敵に微笑んだ。
「それだけは保証できるぜ・・、俺の、お嬢ちゃん・・」



 強大な力をもって、長く君臨したその女王の在位を支えたのは首座の守護聖と女王補佐官。
 だが、女王を支えたのは、彼女のバラ園を守る、赤い髪の偉丈夫だったという・・。



 今は昔。香り高いこけバラを誕生花に持つ、ある女王の御代のお話・・・・。

                                             FIN


(黄色い薔薇の花言葉にはいくつかありますが、ここでは「私の愛はだんだんさめてきた」を採っております)


私が心酔してやまないの合歓様から、いただいたお話です。
とあるイベントで合歓様のお話をいただく権利をGETしたときは、(ちょっと、手加減していただいたのですが・笑)まさに、天にも登る心持でした。
創作とは、かくありたい!と私が理想とするかたちが、まさにここに具現化してます。
甘く切なく叙情的でにおいたつような華麗な文体、しかも先を読ませない構成の巧みさ。見習いたいと思いつつ、足許にも及びません。
このたび、合歓様が私のところへの掲載を快く承諾してくださいまして、皆さまにご覧戴くことができて、誰より私が幸せですー                                     
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