スモルニィ学園高等部・非常勤講師にして、スモルニィ大学院生であるオスカー・クラウゼウィッツは、いくつかの二律背反的苦悩に陥っていた。
オスカーがいる場所は、大きなガラス窓からさんさんと早春の陽光が降り注ぐ、明るくカジュアルなカフェレストランの一角だった。店内は、穏やかな色調の壁紙に明るい木目のカントリー調の椅子やテーブルが配され、素朴、かつ、かわいらしい雰囲気でまとめられている。素直で純朴なカントリーガールをイメージした内装とでもいうのだろうか、いい年した大人がゆったり落ち着くには少々こそばゆい。
しかし、オスカーの苦悩は、自分が些かな場違いで居心地悪いカフェに逗留しているから、というような単純なものではなかった。
なにせ、オスカーは自ら望んでこのカフェに入り、午後のティータイムメニューの中で、自分でオーダーを決めたのだから。
時刻は平日の昼下がりのこととて、オスカーの周囲は俗にいう「お茶をする」カップルや、若い女の子の集団が多数見える。が、よくよく店内を見渡せば、オスカーのような男性客ーグループもいれば単独もいるーしかも、自分同様、どう見ても長逗留を決め込んでいるらしい男性客がチラホラ見受けられた。
この男性客たちが、オスカーの苦悩の源であった。ただし、部分的かつ間接的な。
それにしても、この店は、日を追って男性客の比率が増えているような気がするのは、俺の気のせいだろうか、気のせいであって欲しい…と、オスカーが思っているところに
「コーヒーのお替わりはいかがですか?」
柔らかな笑みと共に、優しい声がオスカーにかけられた。飛び切りかわいいウェイトレスさんが、コーヒーポットを片手にオスカーのテーブル脇に佇んでいた。春の陽光を浴びて誇らしげに咲き初めた花のように初々しく愛らしい少女、オスカーにとって何よりも大事で誰よりも愛しいこの少女…大切な恋人・アンジェリークが。
「あ、ああ、いただこう」
「かしこまりました。お注ぎいたします…はい、先生」
「ありがとう」
まろやかに愛らしいこの声に促されたら、胸焼けするほどコーヒーのお替りを所望してしまいそうだ。しかも自分には特別に愛くるしい満面の笑みと、オスカーの耳にだけ入るほどの小さな声で、語尾に『先生』という言葉が添えられているのだから。
オスカーは、自分の眼前でにっこりと微笑みながらカップを置くアンジェリークの姿を、それこそ眩しいものでも見るかのように目を眇めて見つめた。
『お嬢ちゃん…まったく君は…どうしてこんなにもキラキラと眩しく、奇跡のように愛らしいんだー!』
今、オスカーの目の前にいるアンジェリークはスモルニィ学園のものではない別の制服…この店のウェイトレスの制服である、スタンドカラーとパフスリーブの真っ白なブラウスに、ピンクの綿のミニドレスと、そろいの小さなエプロンを身につけていた。ミニドレスは細めの肩紐が極端にハイウエストの切り替えへと続く、胸のラインを強調するデザインとなっている上に、丈も思い切りのいいミニだ。女の子の足のラインをとてもキレイに見せるスカート丈であることは確かだが、いささか大胆な印象は否めない。しかし、足元の白スニーカーが、ややもすればお色気過剰になりそうなこの制服を、ギリギリのところで健全に見せている。ハート型のネームプレートもかわいらしい印象を強調するのに一役買っており、全体としてはコケティッシュではあるが、かわいらしさの勝るデザインに見える制服だった。
その上、この制服は、アンジェリークに誂えたようによく似合っていた。
元々アンジェリークが持つコケティッシュにして愛らしい雰囲気をいかんなく発揮し、より引き立てるのだ。ミニのエプロンはアンジェリークのインパラかレイヨウかというすんなりとキレイな足のラインをより生き生きとすっきりと見せているし、ブラウスとハイウエストのエプロンはアンジェリークのきゅっとくびれた腰のラインと形のいい胸の稜線を更に魅惑的に強調している。
そこに加えて、オスカーに向けられる極上に甘く蕩けるような笑みが、何より魅力的なトッピングとなっている。こんなにかわいらしいウェイトレスさんは、そうそういるものではない。
そして、そう感じるのはオスカーだけではないようだった。
「あのーすみません、ボクにもコーヒーを…」
「こっちもコーヒーお替りオネガイしまーす」
アンジェリークがオスカーのカップをテーブルに置いた途端、我先にと争うようにアンジェリークを呼ぶ野太い男性の声が店中のそこここから上がったからだった。
「あ、はい、只今お持ちいたします、少々おまちくださいませ…先生、また、後で来ますねv」
そして、アンジェリークは、またもオスカーにだけ聞こえる優しい言葉と極上の微笑を残して踵を返すと、別のテーブルに向かっていった。
もちろん、アンジェリークのこの極上の笑みはオスカー一人に向けられたものであるが、周囲にいる客にも当然その笑顔は目に入る。そして他の客には、その笑みが、オスカー《だけ》に対して向けられたものであることも、オスカーへの想いゆえに、アンジェリークの面(おもて)に自然と湧き出るように浮かんだものだということもわかる筈もない。勢い、アンジェリークの笑みにみとれた客の多くは「自分にもあの笑みをなんとか向けてもらえないものだろうか…」と、ついついぽーっと夢みてしまう。アンジェリークの笑顔には、それだけの力があった。そして、それゆえ、彼女はひっきりなしにあちこちのテーブルから呼びたてられることとなる。
オスカーは他テーブルに向かったアンジェリークの後姿を落ち着かない気持ちで見守る。アンジェリークの後姿も、これまた、格別にかわいらしい。ミニ丈エプロンが、やはり、アンジェリークのまろやかで張りのあるヒップラインをより魅力的に見せている。腰上で結ばれたエプロンの大きなリボン結びと、エプロンと色を合わせた髪のリボンが並んで揺れる様も、また、この上なく愛らしい。だからこそ、ますますオスカーは気が気ではない。
『前から見ても後ろから見てもこんなにも愛らしいなんて、どこまで罪作りなんだ、俺のお嬢ちゃんは…ルックスだけでも、ラブリーでプリティーでキュートの極みだというのに、その上、あの笑顔ときたら…まったく…反則だぜ…晴れやかに明るくて、楚々として清潔で、少しはにかんだ雰囲気がまた、なんとも愛くるしくて…。だから、周囲の若造どもが見惚れてのぼせあがっちまう…あれは俺に向けられた笑顔だというのに…勘違いしておかしなヤツがストーカーとかにならなきゃいいんだが…』
オスカーは、とあるカジュアルレストラン&カフェでアルバイトを始めたアンジェリークの身が心配でならなかった。短期間とはいえ、客商売に従事することになったアンジェリークのことが気にかかり、働き始めた初日から今日まで、店に通い詰めで、アンジェリークの働きぶりを見守っていた。
ことの起こりは一月ほど前に遡る。
年度末試験も無事終了し、明日から試験休みのアンジェリークは、同じく試験の終了を待ちかねていたオスカーの部屋に招かれて…というより、放課後になるや、オスカーの部屋に拉致されるように連れていかれ、オスカーからの愛情表現をこれでもかといわんばかりにねっちりたっぷりじっくりと味合わされていた。
「お嬢ちゃん、ほら、ご褒美だ、試験をよく頑張ったからな…」
「あぁっ…だめ、そんな激しく…あっ…あんっ…」
「いや…いくらあげても足りないくらいだ…それくらいお嬢ちゃんの成績は抜群だったぜ?…だから…な」
「あぁっ…すご…奥まで…やっ…あぁああっ…」
実際は、アンジェリークのすべすべのミルク肌、芳しい香、蕩けるように柔らかな唇の感触に、愛らしい囀りの声…と、アンジェリークの全てに飢えていたのは、オスカーの方だった。とにかくオスカーはアンジェリークの何もかも、くまなく余さず堪能しつくさずにはおれなかった。
とりあえず駆けつけ1ラウンドだけでも終えないと、とてもではないが落ち着いて話もできない心境だ。
なにせ試験期間中は、アンジェリークの勉強の妨げ及び集中を乱してはいかんと思って触れることを自粛していたし、自分自身もテストの作成やら採点やら成績付けやらで目が回るように忙しかったので、オスカーはアンジェリークに触り放題キスし放題が解禁となるこの日をずーっと待ちわびていたのだ。
アンジェリークはスモルニィの大学部進学への学内推薦も優秀な成績で通り、新年度からはオスカーの専攻する学部の学部生になることも既に決まっている。
そして年度末の試験が終わってしまえば、明日から3年生は卒業式まで自由登校の日々となる。
同様に、3年生の年度末試験が終ったということは非常勤講師としてのオスカーの仕事もほとんど終わりである。よほどの成績不振者に補習と再試験を準備するくらいなので時間に余裕ができる。大学院の方は既に休みに入っており、その前に、当然、自分の方の論文も提出してあるので、オスカーも新年度が始まるまでは、暫く、のんびりできる日が増えるのだ。
この日が来ることを…正確にはアンジェリークの高等部卒業の日が来ることを、オスカーがどれ程切実に熱烈に待ちわびていたかは、とても一言では言い表せない。
高等部・男子のアンジェリークへのモーションを、彼女にはそれと悟られぬうちに、いつも教師権限で水際で食い止めてこられたのは、ある意味役得ではあった。が、一方で非常勤とはいえ教職の身であるゆえに『お嬢ちゃんは、頭の天辺からつま先まで、髪一房まで俺のものだぁあ!』と大声で叫びたい衝動を、渾身の努力で押さえ込んでこずばならなかった。そんな抑圧の日々がもうすぐ漸く終わりを告げる。これからは、かわいいかわいいお嬢ちゃんは俺のディアレスト・スィーテスト・マイ・プリティエストラバーだ!と何の遠慮もなく、万人に宣言できるのだ、と思うと嬉しくてならない。
何より、誰の目も気にせずおおっぴらにデートができる。白日の下、どこにでも、お嬢ちゃんを連れて出られると思うと幸せでたまらない。
いくら学生としてのアンジェリークの立場を慮ってのことであったとはいえ、アンジェリークのご両親には真剣な交際している旨きちんと挨拶もしてあるとはいえ、周囲に内密の交際を続けてきたことをオスカーは、ずっと心苦しく思っていたのだから。
そして、折りしも明日からアンジェリークは年度切り替えの長期休暇の日々が始まり、オスカーの方も今の時期は時間にゆとりがある、となれば、オスカーに張り切るなというのは無理な相談であった。
アンジェリークにたまりにたまっていた情熱を注いで、漸く人心地がついたオスカーは、自分もベッドに横たわりアンジェリークの華奢な肩を抱き寄せ、愛しげに柔らかな巻き毛に頬ずりする。すぐさま2ラウンドめに突入する気力も体力もあるオスカーではあるが、まだ息を荒げているアンジェリークに暫しのインターバルを与えるのは、男の甲斐性であり優しさである。
オスカーの情熱をありったけ注がれた方のアンジェリークは、ほわほわと雲を踏むような気分のまま、快い脱力感にたゆたいつつ、オスカーの胸に頭を預け、呼吸を整えていた。
そんなアンジェリークの髪を玩ぶようになでながら、オスカーは
「明日からお嬢ちゃんは楽しい休暇だな、さ、どこに遊びに行こうか、お嬢ちゃん。俺と一緒に行きたい所はどこだ?どこにでも連れていってやるぜ?」
とウキウキと弾む心とやる気マンマンの意気込みで尋ねた。まさか、アンジェリークからこんな答えが返ってくるとは予想だにせず。
「あ…先生…それが、私、卒業式の前日までバイトをすることになってしまったんです。だから、あまり…遊ぶ時間はないと思うんです」
「………なんだって!お嬢ちゃん!バイトって…アルバイトのことか?」
オスカーは心底びっくりして、アンジェリークの肩をがっしと掴んでその顔を覗きこんだ。
「はい、先生」
アンジェリークは、屈託なくにっこりと微笑み頷いた。
「って、職種はなんだ、お嬢ちゃん!いや、それより、いきなりバイトなんてどうしたんだ!何か、欲しいものでもあるのか?」
『お嬢ちゃん、欲しいものがあるなら、俺が何でも買ってやる!』と、思わず言いかけたオスカーだったが
「いえ、そういう理由じゃなかったんですけど…最初は…」
と返されてしまい、用意したせりふを言えなくなった。
「それなら、何でいきなりバイトを始めようとなんて思ったんだ?はっ…まさか、道端でスカウトされたとかの、胡散臭い、妖しい危ない仕事じゃないだろーな、お嬢ちゃん!そんな仕事には絶対就いてはいかーん!」
「あ、いえ、レストラン?ていうか、カフェ?でのウエイトレスなんです」
「カフェ?…夜にオープンするようなカフェじゃないのか?」
「ダイジョブですよぉ、お昼からティータイムにかけての時間帯ですし、第一、同じクラスのジェーンの紹介…っていうか、代理なんですもん」
アンジェリークが説明し始めた事情は、こういうことだった。
スモルニィ学園には寮があり、地方在住の子弟や親の転勤で一時的で寮に住まう生徒が各学年に何割かいる。そして、アンジェリークのクラスメイト・ジェーンも寮生の一人だった。ジェーンは大学部への内部推薦を取り付けた後、早々とアルバイトを始めていたのだが、年度末試験後の自由登校となるこの一ヶ月は親元に帰りたいと考えた。しかし、せっかく採用されたアルバイトを辞めたくはない、が、1ヶ月も休んだら職場は新しい人を雇いたいというだろう。
「それで、ジェーンが帰省する1ヶ月間だけ…卒業式の前日に学園に戻ってくるまで、バイトを替わってくれない?って頼まれたんです」
「で、そのバイトを引き受けたのか、お嬢ちゃんは…」
「はい、最初はウェイトレスさんなんて、私にできるかなぁって思ったんですけど、ジェーンに『アンジェならバッチリよ、私も責任上、信用できる人しか推薦できないし』って強く言われちゃって。それで『面接だけでも受けてみて、ダメなら諦めるから』とまでジェーンが言うので、とりあえず面接を受けにお店までいったら、店長さんが、お会いした途端、何故か、ものすごく熱心に誘ってくださって…そのまま、1ヶ月間の代理採用がその場で決まっちゃったんです」
「そういうことか…」
オスカーはううむと唸った。優しいアンジェリークなら級友の頼みをいきなりムゲにはしないだろうし、彼女と面接すれば接客業の採用者なら、それは一目で採用だろうと得心してしまった。
「で、そのバイトは何時からで、週に何日通うんだ?お嬢ちゃんは」
「明日のお昼から…あの、週5日です」
「そりゃまた随分張り切って仕事をいれたもんだな」
「あ、でも、馴れるまではランチタイムか、ティータイムのどちらかですし。ただ、最初はジェーンのお手伝いというだけだったんですけど、いざ、バイトが決まったら、ちょっと自分のお金で買いたいなっていうものを思いついて、つい、欲張ってシフトをいれちゃって…」
『お嬢ちゃん!無理にバイトなんかせずともいいじゃないか、欲しいものは俺がなんでも買ってやるから!』
と、重ねて喉元まで出かけたオスカーだったが、ここは大人の分別で、ぐっと堪え
「そうか…お嬢ちゃんは、じゃあ、これから卒業式までは忙しいんだな」
とだけ言うに留めた。
せっかくお嬢ちゃんが、自立して、大人への第一歩を踏み出そうとしているんだ、その心がけを喜んであげなくてはな。俺はお嬢ちゃんを世間知らずのまま囲いこんで、精神的成長を妨げるような、我侭で自分勝手な恋人にはなりたくないし、色々な面で彼女の成長を願っているのも本心なのだ。だからこそ、視野や見聞を広めるためにも大学部への進学を勧めたわけだし…
オスカーは、アンジェリークと思いきり遊ぶという当てが外れて、正直、ちょっぴり寂しいなと思った。だが、忙しいのは1ヶ月間だけだというし、彼女が大学に入学すれば今までと違っていつでもおおっぴらにデートはできる、そう思いなおして
「自分で働いて、お金を稼ぐことは、きっとお嬢ちゃんのいい社会経験になるだろう。この時期なら学業の妨げになる心配もないし、1ヶ月間というのも、大学生になって本格的にバイトを始める前のシミュレーションとして丁度いいかもな」
と、物分りのいい、分別溢れる大人の台詞までをも付け加えた。
「はい、せっかくの機会だからがんばってみますね」
「その意気だ。職場はカフェ&レストランか…なら、俺もちょくちょく様子を見にいってやるからな、お嬢ちゃん」
「うふ、先生が来てくださったら、すっごく嬉しいです。でも、先生に見つめられてると思ったら緊張しちゃうかも…」
するとオスカーはアンジェリークの小さな頤を指先で掬うようにつまんで、軽く口付けてから、その花のような顔を優しく熱っぽく見つめた。
「ふ…こうすると…緊張してしまうのか?お嬢ちゃんは…」
アンジェリークが潤んだような瞳で、オスカーをじっと見つめ返す。
「…はい、先生がとても優しく…熱く私を見つめてくださるたびに…私、胸が…心臓が破裂しそうにドキドキします。切なくて、幸せすぎて、苦しい程で…」
「震えているな…」
「先生…」
「わかっている。君のその震えを収めてやれるのは、この俺の腕だけだってな…」
というや、オスカーはアンジェリークを自分の体躯で押さえ込むようにして再度シーツの海に沈みこませた。そして、もう1ラウンド終えて、失神するように寝入ってしまったアンジェリークのかわいい寝顔を見入っていた時は、オスカーは心底アンジェリークの成長を願う鷹揚な大人の男だったのだ。寸分の迷いもなく。
その翌日、アンジェリークのアルバイト先のカフェを訪ね、その制服姿を見るまでは。
アンジェリークの、そのウェイトレス姿を初めて見た時の衝撃は、曰くとても一言では言いつくせない。
あまりのスカートの短さと、魅惑のバストラインを強調するエプロンのデザインに度肝を抜かれた。まじまじと見つめてしまった後、思わず眩暈を感じた。その制服は、ある意味危うげなデザインである筈なのに、アンジェリークが着るとこの上なくかわいらしく見え、しかも、どうしようもないほど似合っていたからに他ならない。
しかも、アンジェリークは、オスカーが入店してきたことに気づくと、ぽ…と頬を紅潮させ、はにかんだ嬉しそうな笑みを浮かべて、オスカーにそれとなく会釈してきた。そのかわいらしさと言ったら、鉄壁というか、最強というか、無敵というか…とにもかくにも筆舌に尽くしがたい可憐さだった。このカフェの制服は、アンジェリークの魅力を余すところなく発揮する、セーラー服とはまた違った意味で恐ろしいものである、とオスカーは握りこぶしで確信した。
『お嬢ちゃんをこのバイトに推薦したという、ジェーンの人を見る目は確かに確かだった』…とオスカーは思わず少々間の抜けた感慨に浸ってしまったくらいである。
だが、この似合いすぎるほど似合う制服が、オスカーの心配の種を増殖し繁茂させたことは否めない。
この制服姿を見るまでのオスカーの懸念といえば、アンジェリークが、テーブルや椅子の足に蹴躓きはしないか、皿やカップをひっくり返しはすまいか、変な客にからまたりはしないか…という客商売には付き物の普遍的な心配でしかなかった。が、こんなにも愛らしい姿を見せられては、あまりの愛らしさに客や従業員からナンパされたり、ストーカーされたり、給仕するたびにセクハラされたりしやしないかと、そっち方面の心配がいきなり怒涛の如く噴出してしまった。
実際、店に入る直前まで、オスカーは『お嬢ちゃんの気を散らしてはいかんから、軽くコーヒーでも飲んで様子だけ見たらすぐ帰ろう』と思っていたのだ。が、これでは、到底、そんな気になれない。特に、スカートが短すぎる気がして、何かの拍子にかわいいヒップがチラっと見えてしまいそうなことが、気が気ではない。でも、その制服姿は見れば見るほど、かわいいのだ、似合うのだ、魅力的なことは事実なのだ。だから、オスカーは尚更ハラハラしてしまう。
なので、オーダーを他のウェイトレスが聞きに来たとき
「なんでもいい…」
と、視線はアンジェリークの方に向けたままーどうやら、仕事に慣れないうちはオーダーは任されないらしいーと、アンジェリークの動向を見守ることで頭は一杯、心ここにあらずで受け答えし、困ったウェイトレスからの「では、本日のパイセットなどいかがでしょう」という提言を検討もせず
「じゃあ、それで頼む」
と、即答してしまった。
何も考えずにオーダーした「本日のパイセット」は(オスカーの主観的味覚には)極甘ホイップクリームてんこもりのチョコレートパイであったが、それすら何ら問題ではなかった。テーブルに供されたものを見て一瞬絶句したのは事実だが。
だが、オスカーには、この偶然は、オスカーが店に長逗留をする尤もな理由を供してくれたように思えた。いや、そうポジティブシンキングすることにした。なにせ辛党のオスカーには、目前のパイ攻略は時間をかけ複数杯のコーヒーの手助けを借りねば為しえない困難事であったからである。もちろん、食べられないと思うなら手をつける前にテイクアウトにしてもらえばよいし、それくらいオスカーとてわかっていたが、包んでもらってしまったら、店に長々とは居座れないではないか。それでは、アンジェリークの様子をつぶさに見守ることができない!というわけで、オスカーは、健気にもチョコレートパイを完食した。もちろん、ものすごく時間がかかったし、その晩の胸焼けは、いかんともしがたかったが。パイと格闘しながらオスカーは、この試練を願掛けだと思うことにした。アンジェリークが何の問題もなしにこの仕事を終えられるのであれば、これがグリンピースのパイだって、俺は黙って完食するぜ、してみせるぜ!と心に誓ったほどであった。
オスカーの願掛けが功を奏したのか、アンジェリークのお運びは日に日に危なげなくなっていった。アンジェリークも仕事に慣れていくにつれ、緊張で固くなりがちだった表情が和んできた。それは喜ばしいことであり、見守るオスカーもほっとしたのだが…毎日、ほぼ決まった時刻にオスカーが様子を見に来てくれることがわかると、アンジェリークも、どうにも嬉しくて、ついつい、どうしても、オスカーの訪れをそわそわと待ちわびてしまう気持ちになる。となると、オスカーが店に入ってきた時は、まさにピンクのバラがいきなり満開になったような極上の笑顔が意識せずとも溢れてしまう。そして、当然、オスカーが店にいる間は、アンジェリークは、その花のような笑顔をオスカーに向け頻繁に見せることとなった。
それは、もちろんオスカー個人に向けられた笑顔であっても、客商売で感じのいい笑顔は大歓迎されるし、アンジェリークの笑顔を見ると、大抵の男性客は目を見張り、次いで見惚れる。こんなにも明るく純真で屈託なく、それでいてただ幼いわけではなく、初々しいはにかみを湛えた艶のある笑顔など、そう、滅多にあるものではない。たまたま、アンジェリークの立ち位置とオスカーの座席の延長線上にいた多くの客が、このアンジェリークの笑みが、自分に向けられたものかと勘違いして、一目で虜になった。その笑みが最高の恋人へと向けられた熱い想いのこもったものであることなど一般客にわかるわけもないので、こうして、アンジェリークの笑顔のファンは倍々ゲームの勢いで増加していった。
オスカーがアンジェリークを案ずるが故に店に足しげく通い、しかも、なるべく長い時間、店にいようとするので、アンジェリークがオスカーに対して、蕩けるような、花が香立つような笑みを見せる回数も比例して多くなる、而して、アンジェリークの笑顔の虜になる男性客が増加の一途を辿ってしまうという、悪循環というかスパイラルが、いつの間にか形成されていったのである。
そして、店に日参しているオスカーが、アンジェリークを熱っぽく見つめる男性客の増加に気づかぬはずがない。が、その原因が自分にあることに気づかぬまま、オスカーは、男性客の増加を警戒し、アンジェリークの身を心配して、学園で成績不振者への補習を終えるや、必ずカフェに行き、アンジェリークが退けるまで店に居座っていた。
というのも、男性客の増加に伴い、極たまにではあったが、いかにも悪さを仕出かしそうな客も見受けられたからだった。そして、そういう悪い思念に、いつもアンジェリークを見守っているオスカーは、ことのほか敏感だったので、ことが起きる…つまり、アンジェリークが嫌な思いをする前に、身体を張って考えうる限りの予防策を講じた。アンジェリークがそういう雰囲気の客の傍を通らなくてはならない時は、用はなくとも席をたって、わざとアンジェリークとその卓の間を割り込むように通ったり、なるべく用を作って、頻繁にアンジェリークを自分のテーブルに呼んだりもした。もしかしたら、オスカーの心配しすぎという場合もあったのだろうが、アンジェリークがセクハラされて、心に傷を負ってからでは遅いので、とにかく専守防衛に努めたオスカーなのであった。
が、オスカーがアンジェリークの身を案じれば案じるほど、何故か、アンジェリークへ熱視線を投げる男性客が増加していく…ような気がすることをオスカーは感じた。何故だ…お嬢ちゃんは魅力的だから、男性ファンがつくのはある程度想定内ではあったが、それにしてもこの増加ぶりは極端にすぎないか…一体何が原因なんだ…と、深く考えた時、オスカーは、はたと、ある可能性に気づき、愕然とした。
『…彼女はいつも魅力的な笑みを絶やさない、だからファンがどんどん増える、そして、彼女がかわいい笑みを惜しまず見せるのは、俺が毎日この店に通っていたからではなかろうか…もしや…』と遅ればせながら感づいたのだ。そして、当然だが、この事実にオスカーはものすごいショックを受けた。
彼女のためにと思ってやっていたこと…それは彼女の身の安全には確かに貢献していたから本来の目的は果たしているのだが、一方で自分で自分の首を絞めてきたのだと、判明したからだ。
しかし、オスカーがこの事実に気づいた時、アンジェリークのアルバイト期間は既に半ばを過ぎていた。つまりオスカーは気づくのが遅かった。これだけアンジェリークのファンが増えてしまった今となっては、今更自分が日参をやめても有益なことは何もなかった。しかも、カフェに出向かなかったとして、その間、アンジェリークの身が心配でヤキモキ悶々として、自分が何も手につかないだろうことも目にみえていた。ならば、アンジェリークの退勤時刻まで店に居座り、不埒な客がアンジェリークのかわいいお尻を通りすがりにぺろんと撫でたりしないか目を光らせている方が、良いのではないか、いや、きっと良いに違いないと、オスカーは半ば無理矢理自己正当化に走った。
が、彼女を見守りたいと思うほどに、彼女のファン=ストーカー予備軍を自分が生産してきてしまい、それら不逞の輩から彼女を守ろうと意図して店に居座る程に、重ねて彼女のファンを更に再生産してしまっていたらしいことは、どうしようもない失態であった。しかも失態とわかっているのに、今更日参を辞められない…これが、オスカーが陥った第一の二律背反的苦悩であった。もちろん『彼女のウェイトレス姿はあまりにかわいい!いつまでも飽かず見ていたい、でも、俺以外の男には本当は見せたくない!』という、単純な苦悩が第2のそれである。
そして、オスカーには、更に、もう一つ、ささやかな頭痛の種があった。
『そろそろ、来る頃だ…』
オスカーは若干苦々しい心境で、店の入口にそれとなく目を向けていた。こういう時のオスカーは、傍からはいかにも苦みばしった渋めのいい男に見えるのだが、当のオスカー本人にはなんの自覚もない。意識は常にアンジェリークの方に向いているからだが、そんな折りも折り、自動ドアがぷしゅーと開いて、3人の少年たちが賑やかに店に入ってきた。そして、きょろきょろと店内を見渡し、立ち働いているアンジェリークを見つけるや、嬉々として声をかけてきた。
「よう、アンジェ、今日もおめーがドジしてねーか、見にきてやったぜぇ」
「アンジェ、気にしなくていいからね、こんなこと言ってるけど、ゼフェルったら、アンジェがあんまりかわいいから、他のお客さんに誘われり構われたりして困ったりしてないか、心配で仕方ないんだよ、ははっ」
「ばっきゃろ!男の内幕バラすなって、何度言えばわかるんだよ!このタコ!」
『…やはり今日も来たか…』
オスカーはどやどやと入ってきた男子学生の集団…しかもそのうち二人はオスカーの授業を選択していた教え子の姿を認め、ため息をついた。
オスカーは、自分としてはさりげない様子を装い、濃い目のレンズが入った眼鏡で容貌を隠し、手元に置いておいた本に目を落とすふりをした。自分がアンジェリークの様子を見守っていることも、彼女と自分とが恋人同士であることも、本当は誰にも隠したくない、むしろ悪い虫避けに「お嬢ちゃんは俺の恋人だー!」と大声で宣言したいくらいだが、いかんせん、彼女は今はまだ高校生、自分は非常勤といえど教職の身だ、彼女の立場を考えたら、迂闊なことはできない、とにかく卒業式が済むまでは、オスカーはおとなしくしているしかないのであった。
当たり前だが、そんなオスカーの苦悩など全く知らず、若者達は若者特有の遠慮のなさで、アンジェリークを呼びつけた。自分たちのテーブルで彼女を独占したい観が見え見えだ。
「いらっしゃいませ。何になさいますか?ゼフェル、ここのところ、毎日来てくれてるけど、お小遣いは大丈夫?」
アンジェリークが水を並べながら小声で懸念気に尋ねると、つんつんと銀髪を立てた紅眼の少年ーゼフェルが得意そうに鼻の天辺を指先でこすった。
「俺は、色々な発明品のパテント料で、こう見えて結構金持ちなんだぜ、細かいこと、気にすんな」
「そーそー、どうせコーラ1杯でアンジェのアガリの時間まで粘るつもりだしさぁ、はははっ」
「って、それはおめーのことだろうが!俺は、ちゃんとおまえの売り上げに貢献してやっからな!おう、今日のキッシュセットをもらおうか」
この少年は、店の売り上げシステムをキャバクラか何かと間違えているようだと、オスカーは耳をそばだてながら嘆息する。もっとも、当のオスカーも、アンジェリークのバイト初日に「ウェイトレスの指名制度なんてものはないんだろうか?」と心配半分期待半分で店の責任者に尋ねて、冷たくあしらわれたことは、誰にも言えない秘密であった。
「はい、キッシュセットお一つですね、かしこまりました。ゼフェル、本当に無理しなくていいのよ、最初来てくれた時は、ものすごく嫌そうな顔してたじゃない?むすーっと黙りこくって、怖い顔してたもの…」
「あれは、その、おめーの格好があんまり…」
「ゼフェルはねぇ、アンジェ先輩があんまりかわいいから鼻血ふきそうになっちゃんたんだよ、それで、すっごく無口だったってわけ」
「そーそー、ここの制服、ホントにかわいいもんなぁ。俺たち、先に席についててよかったよ。もし、立ちっぱだったら、席に案内された時、前かがみで上手く歩けなかったかもしれなかったよなー、ははっ」
「前かがみ???」
「ばっきゃろ!言うにことかいて、何いってやがる!あ、あぁ、なんでもねー、おめーには関係ねーこった」
「関係大有りじゃないか、ゼフェル。しかも、動転して、正気失ってたから、よりによって1番苦手なチョコバナナパイ頼むしさー、はははっ!マルセルが替りに全部食べてくれたから、無駄にならずに済んでよかったけどなぁ」
「また、アンジェ先輩に見惚れて間違ったオーダーしてくれても、ボクは一向に構わないよ?」
「…おめーら、これ以上余計なこと言ったら、マジでぶっころす…」
「それもこれもアンジェの制服姿がかわいいからだよなぁ、ゼフェル。…できれば、ロザリアも、ここでバイトしてくれないかなぁ…くれたら嬉しいよなぁ…ロザリアが着るならあっちの制服も似合いそうだなー…」
(あくまで、ランちゃんの妄想の中のロザリンです)
「…おめーがそう言ってたって、ロザリアに言っておいてやるよ」
「え?やめてくれよ、ゼフェル、そんな、恥ずかしいじゃないかぁ!」
「だったら、おめーも、金輪際よけーなこと、言ってんじゃねぇ!」
「え?俺、なんかよけーなことなんて言ってた?はは」
「…えーっと、私、ゼフェルたちの言ってること、なんだか、ちっとも、わからないんだけど…こほんっ、で、では、ご注文を復唱させていいただきます…ゼフェル、飲み物だけでもいいからね。それに、毎日来てくれなくても、私のことなら、ほ・ん・と・うにっ!心配ないのよ?」
「って、そういう訳にもいかねーよ、おめーのアガリを待って、送っていってやらないと、ここの客の誰かに後つけられたり、無理矢理暗がりに引きずりこまれるかもしれねーじゃんか」
「アンジェがあんまりかわいいから、ゼフェルは心配でしょうがないんだよ、ねー、ゼフェル?」
「おまえ、真剣に、その口縫われたいか、ごるぁ」
「コーラがお一つ…そ、そんな心配いらないのよ、ほんとに…」
「うんにゃ、おめーの後ろにいる変なおっさん見ろよ、ずっとおめーのこと気にして見てるみたいな…あれ?あの派手な赤髪…どっかで見たような…」
「アイスココアとボストンクリームパイがお一つ…ゼ、ゼ、ゼフェル、じゃあ、やっぱり今日も私の終わりまで待って送ってくれるつもりなの?」
アンジェリークがあわてた様子でさりげなく動いて、斜め後ろのテーブル席を遮るように立ち、まくしたてるようにゼフェルに話かけた。
ゼフェルが、一転、気のよさそうな、得意そうな笑顔を見せた。
「ああ、なんたって女の子の一人歩きはぶっそうだからよー、俺たちが一緒に帰ればおめーだって安心だろ?」
アンジェリークが、申し訳なさそうに、ちらっとオスカーのいるほうを盗み見た。オスカーは内心は不承不承仕方なく、しかし、動作だけは鷹揚な感じで頷いた。
「キュッシュセットがお一つですね、かしこまりました、少々おまちくださいませそ、そう…じゃ、今日は5時に終るけど…本当に無理しなくていいのよ、私を待たずに先に帰ってくれてていいからね?」
と小声で急いで付け加えたものの、ゼフェルが終業まで居座るのは自明だったので、アンジェリークとオスカーは二人同時に小さなため息をついた。
彼ら少年達を、初めてこの店で見た時も、アンジェリークの制服姿を見た時とは全く別の意味で、オスカーは衝撃を受けた。
最初、彼らの声が耳に入ってきた時、妙に聞き覚えがあったので変だなとは思った。そして、嫌な予感にそろりと顔をあげたオスカーは、3人の少年がどやどやと店に入ってきたのを見て「!」と声無き声をあげると、あわてて、手元の学術書で顔を隠した。
少年のうち二人はオスカーのよーく見知った顔…つまりオスカーの授業を選択した生徒だったからだ。会話のロールプレイで、アンジェリークと同じ班だったから、よく覚えていた。ゼフェルにランディだ。もう1人は外観からいって同じスモルニィの学生ではあっても、中等部の生徒のようだった。
彼らは何も気づかぬ風に、オスカーのはす向かいの席についた。聞くとはなしに彼らの会話が、オスカーの耳に入った。
「おいおい、この店でアンジェがバイトしてるって本当なのかよー」
「うん、ボク、ここのパイが好きでよく食べにくるんだけど、この前来た時、アンジェリーク先輩がウェイトレスさんやってたよ。あれ、絶対アンジェリーク先輩だったよ」
「もし、それが本当なら、ちょっと俺様が様子を見てやらねーとな。躓いて皿ひっくり返したりしてねーか、あいつじゃ危なっかしくてしょーがねぇもんな」
「アンジェがここでバイトしてるってことは…もしかしたらロザリアも一緒なんてことはないかなぁ、…いや、それは何でも虫がよすぎかな、はははっ」
オスカーは、彼らが、アンジェリークがここでアルバイトをしていることを知って来たらしいと察し、更にいやーな予感を覚えた。
そして朗らかに会話していた三人であったが、実際、アンジェリーク本人がこのテーブルにオーダーを取りに来て、彼らが初めてアンジェリークのウエイトレス姿を目にした時の様子…正確には三人のうち二人の若者の様子といったらとても見られたものではなかった。
ゼフェルは、まず口があんぐり開きっぱなしになり、次いで耳まで真っ赤になり、失語症に陥ってしばらく何もオーダーできなかった挙句、思い切り裏返った声でどもりながら『本日のパイセット』を頼んでいた。ランディは、そわそわと落ち着きなく、視線を1秒とおかずあちこち明後日の方向へと向けながら、レーダーよろしくぐるぐると顔を絶え間なくまわして、いかにも挙動不審だった。目のやりばに困ったのだろうが、もう少し、さりげなく視線を泳がすとかできないものか。一人、中等部らしい少年だけが、落ち着いてオーダーしていたのが救いだったが。
『まったく、わかりやすすぎなんだよ、おまえら…』
少年達の上ずった様子に、恥ずかしさといたたまれなさに、頭を抱えたくなったオスカーであった。もしかして、自分もこの店でアンジェリークのウェイトレス姿を初めて見た時はあんな風にキョドっていたのかと思うと…恐ろしくて考えたくはないが思い当たるところがないでもない…思わず大声で叫びだしそうになってしまった。とてもではないが、見ていられないイタイタしさだった。
そして、アンジェリークの制服姿にノックアウトされた若者たちは、オスカーと同じ懸念を感じたのであろうー無理もないことであるがーアンジェリークのアルバイト日に必ず顔を出すようになり、しかも、やはり自分同様、アンジェリークの退勤時刻まで居座るようになり、あまつさえ、仕事が退けた彼女を最寄り駅まで送っていく、どうしても送らせろと、しつこく主張したのである。毎日、オスカーが車で彼女を自宅まで送り届けていることを、彼らは当然知らなかった。
こうして、少年達にアンジェリークのバイト先がばれてからというもの、オスカーは仕事の終ったアンジェリークと、即、一緒に帰途につき彼女を家まで送り届けるという騎士としての務めが、ストレートに果たせなくなってしまった。
もちろん、オスカーとしては、これは面白くない事態だし、業腹である。しかし、一方で、この事態はオスカーにとって悩みというほど深刻なものではなかった。オスカーは、内心、若者達の主張と行動は無理もないと諦観する気持ちがないでもなかったからだ。
だって、それだけアンジェリークが魅力的なのだから、仕方ないと思うのだ。
オスカーは、忙しそうに立ち働くアンジェリークの姿を…特に最近は、単にハラハラするだけでなく、感心して見守ることも多かった。
アンジェリークは、職場で、いつも一生懸命で、見ていてとても清清しく気持ちよかった。てきぱきはつらつと動くので小気味よく、一方で、元々人当たりも話し方も優しく柔らかいので、周囲は声がかけやすい。実際、彼女は、いつ客に呼ばれても、にこやかに相対していた。
彼女のかわいらしい雰囲気や、柔らかな物腰が、こういう職場では更に遺憾なく発揮されるのが、オスカーにはよくわかったし、彼女の美点がストレートに評価されることも嬉しく感じた。
アンジェリークは元来優しい性格だし、人の立場で物事を考えられる聡明さもある。それが、こういう場では自然に暖かなホスピタリティとなって表に出るので、周囲の雰囲気が和む。客も同僚も、アンジェリークがいるといないとでは、同じ店でも、場の空気や明るさが違うと感じるのではないかとオスカーは思う。
オスカーは、アンジェリークがアルバイトを始めてからというもの、日々、アンジェリークの魅力を再発見している気分であった。
俺は、ここで、学校にいる時とは違う、君の生き生きキラキラした面に改めて気づくことができて…一層惚れ直しちまってる。君の姿が眩しいと感じるのは、君の外見が殊の外かわいいからってだけじゃないぜ?君の何事にも一生懸命なところ、頑張りやなところ、いつもにこやかで、誰にでも親身で、という愛くるしい君の魅力が、改めてはっきり見えてくるからだ。
これも、君が友達に協力するためウェイトレスというアルバイトをやってみようと、何事にも前向きに懸命に取り組む気持ちがあったからだし、実際、前向きに取り組んでいるからだろう。未知の環境や状況にも、君は気負わず、臆さず、精一杯誠意をもって取り組むから、何事からも良い面を吸収し、良い経験を積んで行けるんだ、ってことが、傍から見ているとよくわかる。
こうして、新たな環境で新たな経験を積むほどに、君は、きっと、もっともっと多面的な輝きを増していくんだろうな。
だから、俺は…君を、俺1人の腕の中に閉じ込めておきたいとも思うのに…そうできないんだ。
君を一つ処に閉じ込めておけば…俺の手元に縛り付けて、俺しか見ないようにしておけば、それは安心だろう。だが、それは、君の輝きを損ない、君の可能性を狭めてしまうことにも通じる。俺は、君にもっと輝いて欲しいし、新たな輝きを身につけて欲しい。君は聡明で、心は柔らかく開かれているから、何事も糧にできる力があるのだから。だから、君はどんどん広い世界に出ていって、色々なものを見聞きし、様々な経験を積んでほしいと…俺は願ってしまう。
少しばかり、強がりも入っているが…な。
オスカーは、生き生きと立ち働くアンジェリークを優しく見守りつつ、小さく嘆息した
この心境…アンジェリークを閉じ込めたいのに閉じ込めておけない、閉じ込めてはいけないと思うことが、オスカーの最も根源的な二律背反的感情かもしれなかった。
オスカーは、自身の矛盾する感情に苦笑すると、アンジェリークにこっそり目配せして席を立った。
彼ら教え子と帰り時が重なると色々とやっかいだし、自分にとってはお邪魔虫とはいえ、彼らが送ると言いはる最寄駅まではアンジェリークの身の安全は保たれる。
なので、最近のオスカーは、その最寄り駅でアンジェリークを拾うため、前もって車を回しておくようにしていた。
少々面倒だが、仕方なかった。彼女と一緒に電車で帰ることもできるのだが、オスカーは、そうするには忍びなかったからだ。
ずっと慣れない立ち仕事で、しかも、彼女は進んでよく動くから脚が疲れて痛むことが多いことも、オスカーは知っている。仕事を始めた当初は、家まで送っていく車の中、助手席に座るや寝入ってしまっていたくらいだ。だから、彼女の身の安全のためにも、彼女の自宅までは、自分の車で送り届ける、とオスカーは決めていた。
我ながら過保護かな…と思わないでもなかったが、彼女は、なんと言ってもまだ高校生なのだし、一生懸命なお嬢ちゃんに、これ位のエールがあってもよかろう…と、オスカーは、自己弁護しつつ、日々を過ごしていた。
しかし、この苦労も、もう折り返し地点を越え、残すはあと3分の1という道程まで辿りついた。
オスカーは、アンジェリークのアルバイト満了日を指折り数えて待っていた。
彼女の働きぶりを見ているうちに、ある計画を実行に移す…というか前倒しで実行すること、満を持していたからであった。