アンジェリークとオスカーとの間に産まれた、金の髪・氷青色の瞳の女の子の命名はマルセルとオスカーに委ねられた。2人はそれぞれ苦心惨憺して幾つもの名前を考えた。
ただ、2人にとってそれはとっても楽しい苦労ではあったが。
そしてアンジェリークと赤ん坊が無事退院して約一週間後、そろそろアンジェリークもおちついたであろうかというときを見計らって守護聖一同はアンジェリークの見舞いがてらオスカー邸に集まり、2人がそれぞれ考えた名前を比較検討し協議した上で赤ん坊に命名することになった。
当然の如くその場はジュリアスが仕切ることとなった。
「あ〜アンジェリーク、身体の具合は如何ですか〜?赤ちゃんのほうはと…あ〜よく眠ってますね〜」
「おかげさまで、私もこの子もとっても元気です。夜の授乳はやっぱりつらいけど、この子ってばとってもおりこうさんで、おなかのすいた時とおむつの濡れた時しか泣かないでくれるから、私みたいな新米ママでも、なんとかやっていけてます〜」
「それはよかったですね〜。疲れると母乳の出に影響しますから、休める時はきちんと休息を取るんですよ〜。ミルクもいいですけど母乳が出るならそれに越したことはありませんからね〜」
「はい、ルヴァ様、実際ミルクを毎回作るより母乳のほうが私も楽ですし。それに赤ちゃんの世話以外の仕事は館の皆さんがやってくださるんで、私、今でもとっても楽させていただいちゃってるんです。普通のお母さんなら赤ちゃんの世話以外に家事もしなくちゃならないのに、申し訳ないみたいです。」
「気にすることは無い。聖地にいる以上おまえもオスカーも身内という者には頼れぬのだからな。だからこそ、ここにいる我々全員を身内と思って甘えるがいい。我らとて助力は惜しまぬ。なにせ聖地で初めての子供なのだからな。」
「ジュリアス様…ありがとうございます」
アンジェリークの瞳がうるうると潤んだ様子にジュリアスはぎょっとした。
「ど、どうしたアンジェリーク!どこか痛むのか?気分でも悪いのか?」
「あ、ご、ごめんなさい。なんでもないんです。ジュリアス様のお優しいお言葉になんだかジーンとしちゃって…この頃情緒不安定で、ちょっとしたことですぐ涙ぐんだりしちゃうんです。」
「あ〜、それは出産に伴う急激なホルモンバランスの変化のせいですから、おかしいことではないんですよ〜。ストレスをためこまずにおおらかに構えていればそのうち、ホルモンの状態も安定してきますからね〜」
「でもよー、このおっさんがわがままいったり、赤ん坊にやきもち焼いたりしておめーをこまらせてねーか?」
ゼフェルが笑いながら冗談混じりにアンジェリークに放ったセリフにオスカーは、脈拍数が倍増し、アドレナリンと冷や汗が汗腺という汗腺から一挙にふきだしたような気がした。
実を言えば、オスカーは心の奥のそのまた奥底に、アンジェリークが赤ん坊のことばかりかまけているようで寂しいなと思う気持ちがほんの少し、本当にほんの僅かだがあったのだ。
夜中に赤ん坊が泣く。
アンジェリークがばね仕掛けの人形のようにがばと起き上がる。
おむつをかえて、乳房を含ませ、赤ん坊がまた寝つくと、アンジェリークもばねが切れたようにベッドに沈みこむ。
その間オスカーが「おむつは俺がかえてやろうか?」と声をかけたこともあったのだが、アンジェリークはオスカーに答えるどころか、オスカーの方を見ようともせずに黙々と赤ん坊の世話をしていた。
そんなことが数回続くうちにオスカーは、『もしや、お嬢ちゃんは頭は眠ったままで身体だけが条件反射で赤ん坊の世話をしてるんじゃなかろうか…』という疑念がむくむくと沸き起こり、一度わいた疑念をどうにも振り払えなくなってしまった。
しかも、どう考えても自分の声は聞こえていないようなのに(余裕がないだけだ!とオスカーは何度も思い込もうとした)赤ん坊の泣き声には恐ろしいほどの素早さでアンジェリークは反応する。
まさに、脳を通さないでおこる脊髄反射なみの反応速度だとオスカーは半ば感心しつつも、ほんとうに僅かであるが一抹の寂しさを覚えていたのだ。
しかし、一番大変なのはアンジェリークであることは、オスカーは重々承知しているし、もちろんなんとなく寂しいなんてことを言って、それでなくても余裕の無いアンジェリークを困らせる気は毛頭なかった。
だが、自分の隠していた本音をずばり掘り起こされたような気がしてオスカーは心底うろたえた。
そして、『なんだってこいつはこう、変なことに勘が働くんだ!』とゼフェルをきっと見据えつつ、アンジェリークに向けられた会話を自分が引き取った上に、後ろめたさを誤魔化す為にいわなくていいことまでぺらぺらとしゃべり出した。(人間とはやましいことがあるときは饒舌になるものである)
「ばばばば、ばか言うな!ゼフェル!俺がお嬢ちゃんを困らせたりするわけないだろうが!赤ん坊が泣けば、すぐだっこしてるし、おむつを変える事だって進んでやってるぜ。母体の回復を待たなきゃいかんから夜だって一ヶ月も我慢しなくちゃならんのだが、お嬢ちゃんの身体の事を思えばそれくらいの禁欲もなんてこともない。なにせ妻が大変な時に苦労をわかちあってこそ、夫婦の真価が問われるわけでだなぁ…」
アンジェリークはオスカーが夫婦の私生活についていきなり薀蓄をたれ始めたのにぎょっとして、得意げなオスカーがこれ以上おかしなことを言う前にとめなくては!と思ったものの、
「お、オスカーさま、ななな…」
と驚きのあまり口篭もっていたらオスカーを制する機会を逸してしまった。
しどろもどろしているうちにまた会話をゼフェルに奪われたのだ。
「このおっさんが一ヶ月も禁欲生活を送るなんて、昔だったら信じられねーところだがよー、それが嘘くせーとか不自然だっておもわせねーのがすげーよな。つくづくおっさんも立派な真人間に更正したもんだよなー、これも皆アンジェリーク、おめーの力なんだから、大したもんだよ、ったく」
「俺は犯罪者か!」
「昔のあなたの行状を考えると、そういわれても仕方のないような気もいたしますが…」
水の麗人がさりげなく、だが、言いにくいことを邪気のない顔でずばっと明言する。この麗しい男性は、いついかなる時であれオスカーをやり込める機会は決して逃がさない。
だが、この攻撃には慣れっこのオスカーは、こちらには余裕のカウンターを返す。
「ふ…それはだな、俺はお嬢ちゃんに出会うまで魂の流離い人だったからさ。俺は長い長い時をお嬢ちゃんに会うために生きていたんだ。お嬢ちゃんに出会い、真実の愛を知って俺は変わった。おまえにはわかるまいがな、リュミエール、男ってやつは真実の愛と、真実の愛の営みってやつを経験しちまうと、まやかしの関係なんかになんの未練も感じなくなるもんだ。第一お嬢ちゃんを一度でも味わったら、他の女性では満足できなくなること請け合いでだなぁ…」
水の麗人はこのオスカーの得意げなセリフを聞いて、微笑みを口元に張りつかせたまま、さりげなくこめかみをひくつかせ始めた。
「おっしゃることがよくわかりかねますが…アンジェリークを味わうなどと下世話な表現は私の理解の範疇を超えております…」
夢の守護聖がぴゅーと口笛を吹く真似だけをして、おもしろそうに成り行きを見守っている。
オスカーのセリフをしばし吟味してからその意味するところを察したジュリアス・ルヴァ・ゼフェルは真っ赤になって絶句した。
クラヴィスは泰然とした余裕を崩さず、さもありなんといった笑みを口元にうかべうむうむと頷いている。
マルセルも2人の間に流れる不穏な空気を感じ取っておろおろしているが、一人ランディだけはそんな空気もどこ吹く風で(さすがに風の守護聖である)
「うわぁっ、ちっちゃい爪だな〜、こんなにちっちゃいのにちゃんと全部揃ってるなんてなんかすごいよな〜」
と当たり前のことに感心しながら赤ん坊を覗きこんでいる。
水の麗人がアンジェリークに岡惚れしていることを知りぬいているオスカーは、リュミエールにいかに効果的なカウンターを食らわせるかだけに目を奪われていて、アンジェリークが今ここにいるのを失念して、さらに暴言(本人はそうは思っておらずむしろ、自慢したいだけであるのでさらに始末におえない)を重ねていく。
「判らなければ、教えてやろう。お嬢ちゃんを味わうってのは、文字通り、お嬢ちゃんのありとあらゆるところを堪能することだ。なにせお嬢ちゃんの身体はどこもかしこも、白くて、やわらかくて、そのくせ瑞々しい張りがあって、敏感で、いいにおいがして、出るとこは出てて、締まる所はこれまたこれ以上ないってくらい良く締まっててだなぁ特にあそこの感触と言ったら…」
自分で言っているうちにオスカーはしばらくご無沙汰のアンジェリークの裸体とその感触を改めて思いだしたのか、半ばイっちゃってるような瞳でうっとりとアンジェリークの美点を並べ立てて留まる所をしらない。
黙ってオスカーのアンジェリーク礼賛を拝聴していたジュリアス・ルヴァ・ゼフェルの3人は、オスカーがアンジェリークを誉めるたびに頭の中でその様子をリアルに思い浮かべてしまうのか、だんだんと顔の赤みが増していき、しまいには全身ゆでだこのように真っ赤になってしまった。
オリヴィエはにやにやしているだけで、もっと言え言え〜とばかりにタイミングのいい相槌を打っている。
あてつけられるポイントが増えるたびに、リュミエールのこめかみに張りついたむかむかマークもそのポイントにあわせて数をましていき、リュミエールの背後にはごごごごごぉっという音が聞こえてきそうな大津波のような凶悪なオーラが立ち上ってきていた。
マルセルはこれがランディとゼフェルの喧嘩なら「やめてよ〜」と仲裁に入れるのに、オスカー様とリュミエール様にはそんなこといえないよ〜と困りきっている。
「あははは、ほんとにオスカー様はアンジェにめろめろなんですね〜」
どこまでも場の空気を読まないランディだけがひたすら朗らかだ。
「おおおお、おすおすおすかーさまっ!ななななにを言って…」
狼狽しきってオスカーの暴走をとめられないアンジェリークにかわって、さりげなくクラヴィスがエスカレートする一方のオスカーを制した。
「その辺にしておけ。アンジェリークがことの成り行きについていけずにパニックに陥っているぞ、オスカー、愛妻自慢もいいが、アンジェリークがそれをこの場で聞いていることをよく考えてみるのだな。アンジェリークが恥ずかしがるのではないか?リュミエールもアンジェリークの心を波立たせるようなことをあえてこの場でいうこともあるまい?ストレスを避けておおらかな心でいないと、まずいのであろう?」
「ああ〜そ、そうですよ〜動揺するのは母体によくありませんからね〜」
コブラ対マングースのように《きしゃぁっ!》というような書き文字を背負って対峙していた2人が同時にはっと我に帰った。
2人は同時にアンジェリークの元にかけより(この辺も互いに一歩も譲らない)口々に弁解の言葉を連ねた。
「…これは…わたくしとしたことが…アンジェリーク、なんでもないのですよ、私の言ったことは忘れてくださいね。」
「そそそそそうだ、お嬢ちゃん、俺はお嬢ちゃんがいかにすばらしい女性かということを言ってただけでだな…」
今度は狼狽しきっているのはオスカーの方である。
顔面蒼白で油汗を垂らしながら、なんとかうまく取り繕わねばと必死であった。
『あんな恥ずかしい事を皆さんの前でおっしゃって!もうオスカー様なんて知りません!』とアンジェリークにあとでどれほど怒られるか、今可能なキスとからだのタッチも許してもらえなくなるかも…もしかしたら、医者の許可が下りてもさせてくれないかも!と想像するだけで、1度止まっていた冷や汗がどっと吹出してくる気分だった。
しかし、アンジェリークは話題の展開についていけずに目を白黒させていた。
リュミエールとオスカーの会話に思考がついていっていなかった…というよりは、改めて考え直すことを本能的に避けていた。
冷静に考え直してしまったら、ここにいたたまれないくらいオスカーはなにかとんでもないことを言っていたような気がしていた。
とにかくクラヴィスのおかげでこれ以上オスカーが困ったことをいいだすのだけは避けられたらしいことだけはわかった。
しかし、今の会話のあまりと言えば余りな展開に、今日皆が自分の家に来てくれたのはなぜだったのだろうかという基本的なことが、アンジェリークの頭からすぽんと抜けおちてしまった。
「えっと…あのぉ、ところで、皆さん、今日は赤ちゃんをみにいらっしゃったんでしたっけ?」
「あははは、アンジェリーク、何言ってんだよ、今日は俺達みんなで、マルセルとオスカー様の2人が考えたこのこの名前をくらべて決めるために集まったんじゃないかぁ」
『よしっ!うまいぞ、ランディ!よくぞ話の流れを変えた!』
周りの空気をよまないこともたまには役にたつじゃないかと、オスカーはランディに心の中でエールを送った。
一本勝ちを許す気などさらさらないが、今度の剣の稽古で多少は花をもたせてやってもいいという寛容な気分になった。
アンジェリークがああ、そうだったと納得したようにランディの言葉を次いだ。
「そうでした、今日はこの子の名前を皆さんで決めてくださるんですよね?」
「おお、そ、そうであった。マルセルとオスカー、それぞれ考えてきた名前を披露するがいい。」
何を想像していたのか真っ赤になってしばし失語症に陥り、その場を仕切るのを忘れて年中組の暴走を許してしまったジュリアスは忸怩たる思いを抱きつつ、あらためて場の主導権を握りなおした。
この場を落ち着かせたのがクラヴィスであることが若干気に食わなかったが、そんなことは言っていられなかった。
油断すると、『どこもかしこも白くて柔らかくてみずみずしい張りがあって敏感で…』というオスカーのセリフが頭の中をぐるぐると渦まいてしまい、思わずアンジェリークの胸元に視線がいきそうになるのを、渾身の精神力で押さえこんでいたのだ。
それでなくとも、授乳のためか大きく前の開いた服から、出産で一段と豊かさを増した胸元が垣間見え、そこからそこはかとなくたち登ってくるようなアンジェリークの甘い香りに、ジュリアスはくらくらしていたのだから。
マルセルもほっとしたように、そして意気揚揚と進み出た。
「あ、は〜い!あのね、僕の考えた名前はね〜、フローラ。フローラっていうのは大昔の花の女神の名前なんだよ。僕お花がすきだから、この子にも花の女神みたいに、綺麗で優しい子になってもらいたいな〜と思って。」
「花の女神かぁ、かわいい名前だな。」
「うむ、では、オスカー、そなたはどのような名前を考えてきたのだ?」
「マルセル、奇遇だな。実は俺も古代の神話の女神の名前に肖ろうと思ってな。やはり父親としては、娘には美しく気高く誇り高くそだってもらいたくてな…」
「ごたくはいいからよー、おっさん!だから、なんていう名前なんだよ?」
「月夜の晩に産まれた娘だから月の加護を受けられるようにと思い、月の女神ダイアナの名をもらおうと思ったんだ。ただ母親であるお嬢ちゃんの名前がフランス語系なのでそれにあわせて呼び名はディアンヌだ。月の女神は狩猟の女神でもあるんだ。俺は娘には、ただかわいいだけの女性にはなってほしくないんでな。もちろん俺とお嬢ちゃんの娘なんだから、美しく愛らしいのは当たり前だろう?だからそれにくわえて、美しいだけではなく、気高くりりしく誇り高い女性になってもらいたくてな。」
「オスカーらしい考え方ですね〜」
「うーん、どっちの意見もそれなりに説得力あるからえらぶのがちょっと難しいね〜」
「アンジェリーク、そなたはどちらが良いと思う?」
「ディアンヌもフローラもかわいくて素敵な名前ですね、語感もきれいだし…あの、いっそのこと2つくっつけちゃうっていうのはどうでしょう?ディアンヌ・フローラって。ミドルネームってあってもいいんじゃないでしょうか…」
「あ、なるほどね〜、それいいかも!月の女神のように気高く、花の女神のように愛らしくって、いいじゃない〜!」
「オスカー。マルセル、どうだ、折衷案といえるかもしれぬが、良い名前ではないか?」
「俺はお嬢ちゃんがいいなら異存はないぜ。美しさと愛らしさを兼ね備えた俺達の娘に相応しい名前だしな。」
「僕も、僕の考えた名前使ってくれるんなら、すっごく嬉しいよ〜」
「では、きまりだ。このみどり児の名は以後ディアンヌ・フローラとする。みなのもの、よいな」
「異義なーし」
「いい名前をつけてもらったわね…」
アンジェリークが眠っている赤ん坊の頬にそっと触れると、赤ん坊がうっすらと微笑んだ様に見えた。
「オスカーさま、この子今笑ったみたい。きっと戴いた名前が気に入ってくれたんだわ。」
「そいつは良かったな。名前って言うのは一生の財産であると同時に親が子に与えることのできる最初の贈り物だからな。俺も結構真剣に考えたんだぜ。」
「僕も、僕も、僕も〜!僕は本当のパパじゃないけどやっぱりアンジェの赤ちゃんにはいい名前をつけてあげたくて、一生懸命考えたんだよ!」
「ありがとうございます…オスカーさま、みなさん、ほんとうに皆さんによくしていただいて、私幸せです…」
アンジェリークがぽろりと涙を零した。
「あ、やだ、また情緒不安定になっちゃった…」
「いいんですよ〜、人の厚意を素直に受けとれ感謝できるあなたのいつまでも無垢な心は立派なものでこそあれ、はずかしがるようなものではないんですからね〜」
「うむ、陛下もそのご身分ゆえ気軽に見にくるということはできぬが、そなたの身と赤子のことを案じていた。私から、陛下に子供の名がきまったことと、2人とも息災であることをつたえておこう。」
「ありがとうございます。ろざ…いえ、陛下にはこの子の首が座って外出できるようになったら、こちらからご挨拶に伺いますとお伝え下さい。」
涙を眦にためながら、アンジェリークはにっこりとジュリアスに微笑んでから頭を下げた。
「さーさ、お邪魔虫は退散、退散、涙に濡れる妻をいたわることこそ、夫の本領発揮だろ?オスカー。」
「いわれるまでもないぜ、極楽鳥。」
オスカーがアンジェリークの肩をそっと抱き寄せると、アンジェリークが黙ってオスカーにその身を預ける。
その様子を見た守護聖たちは、夫婦と赤ん坊を残して静かに立ち去って行った。
こうしてアンジェリークとオスカーの娘は『ディアンヌ・フローラ』と命名されたのである。
ディアンヌ・フローラが生後2ヶ月をすぎ、体つきもかなりしっかりとしてから、アンジェリークはロザリアに親子揃っての謁見を申し出た。
オスカーも一緒に行くと言い張ったのだが、アンジェリークは女同士の話があるからと言ってオスカーの同行は断った。
馬車で聖殿まで送ってもらい、アンジェリークが赤ん坊と供に謁見の間を訪れると、ロザリアは茶だけ用意させてから早速人払いを命じ友人の出産を喜ぶ女友達の顔に戻って2人を出迎えてくれた。
ゆったりとしたソファに母子を座らせてから、ロザリアは赤ん坊をよくみるために差し向かいではなく赤ん坊を抱くアンジェリークの隣に自分も腰掛けた。
「このこがオスカーとあなたの子供なのね、名前はディアンヌだったわね?」
「そう、ディアンヌ・フローラ。オスカー様はよくディーって呼んでるわ。ロザリアも抱いてみる?」
「なんだか、ちっちゃすぎて恐いみたいだわ。」
ロザリアがアンジェリークから恐る恐る赤ん坊をうけとって抱いた。
赤ん坊は澄んだ薄青色の瞳でじっと宇宙の至高の存在を見つめている。
「瞳の色はオスカーで、全体の雰囲気はあなた似ね。今でもかわいいけど、瞳の印象が強いから美人になるタイプよ、きっと。」
「やだ、まだこんなに小さいんだもの、そんなことわからないわよ。」
「私もなんだか姪っ子ができたみたいで嬉しいわ。わくわくしちゃう。でも、いいこと。私のことをおばさんなんて呼ばせたら承知しないわよ。」
「やーね、もちろんよ、ロザリア。」
2人は顔を見合わせて笑う。女王候補時代そのままのような笑顔で。
アンジェリークが赤ん坊を受取りなおし、居住まいを正してロザリアに向き直った。
「ところで、ロザリア、真面目な話なんだけど、私この子が在る程度大きくなったら補佐官職に戻りたいの。この子ができた時、産休を戴いたけどそれからなし崩しに育休にはいってしまうのって、なんとなくけじめがつかないからよくないと思うの。きちんと時期をきめて復帰しないと…それでなくてもずっとお休みして皆さんに迷惑おかけしてるんですもの。」
「あなた、そんなこと考えていたの?いいのよ、無理に復帰しないで、育児に専念しても。それにオスカーはなんて言ってるの?」
「そんな訳にはいかないわ。私が聖地にいられるのは補佐官という役職を戴いたからなんですもの。オスカー様にはまだ言ってないけど、きっと反対はしないと思うわ。」
ただし、絶対に無理はしないことという条件は付くだろうとアンジェリークはおもっていた。
「それに、ロザリア、私じゃ頼りないかもしれないけど、少しでもあなたの手助けがしたいのよ、嘘じゃないわ。宇宙を支えるあなたの責任や重圧を私は本当の意味では理解できないかもしれない。でも、私、少しでもあなたの力になりたいと思ってるの。私一人結婚して子供まで産んでおいて、今更なにを言ってるのかって思われちゃうかもしれないけど…」
申し訳なさそうなアンジェリークをロザリアは軽くいなした。
「おあいにくさま、余計な心配は無用よ。だって私、結婚も出産もあきらめたわけじゃないもの。わたしたちだっていつかは聖地を去るわ。そのあとに普通の人生をいくらでも送れるのよ。あなたの夫みたいに素敵な人を私も探してみせるわよ。それにもともと私は女王になるべくこの聖地にやってきたのよ。本来の希望を実現させた私に変な同情はいらないわ。」
「ロザリア…ごめんなさい、私、思いあがってた?そう聞こえたのなら、ごめんなさい。」
アンジェリークは自分1人が女としての幸せを手にした事で、ロザリアに犠牲を強いたような気がしてロザリアに申し訳なく思ったのだが、その考え自体が傲慢だったかも知れなかったと思い、別の意味でロザリアに申し訳なく思った。
求める幸せの形は人それぞれ異なる。
自分の物差しで他人の幸せをはかり断ずる事は、自分だけの価値観を押しつけ強要する事に通じてしまうと気付き、アンジェリークは恥ずかしくなった。
そして、こうも思った。
ロザリアの言っている事は確かに本心かもしれない。
でも、自分を思いやっての発言であることをアンジェリークは確かに感じたし、自分の現在のしあわせはロザリアや他の守護聖の協力なしではありえなかったことも忘れた事はない。
だから、自分も精一杯の事をしたいとアンジェリークは思っていた。
「でも、皆さんのお役にたちたいと思ってるの。それは本当よ。」
「あなたの気持ちはわかってる。わかってるつもりよ。補佐官に復職しなくちゃ気が済まないと言うのなら、そうなさいな。本音をいえば、私だって嬉しいし、多分ジュリアスも助かるはずよ。ただ、復職するっていってもあなた、いつ頃仕事にもどるつもりなの?それに執務時間中、この子はどうするつもり?聖地には保育園なんてないし…」
「それを、ロザリアと相談したかったの。このこの面倒は、ナースっていうか、ナニーっていうか、とにかく保育の資格のある専門家を個人的に雇おうとおもってるんだけど、いつからにしようかと思って…」
そのとき、アンジェリークの膝の上の赤ん坊がふげふげとぐずり始めた。
「あ、ちょっとおなかが空いたかな?ロザリア、ちょっと失礼」
アンジェリークは服の前をあけて片方の乳房にタオルをあてがった上で、惜しげもなく豊かに張った乳房を晒して赤ん坊に含ませはじめた。
「はぁ〜、あなた、本当におかあさんになっちゃったのね。なんか堂にいってるわよ。でもなんで、胸にタオルなんて当ててるの?」
「やーね、そんなにまじまじとみないでよ。こうしておかないと、この子が吸ってる刺激で吸われてない方からもおっぱいが吹出して服をぬらしちゃうのよ。」
「そうなの…こういうことって産んでみないとわからないわねぇ。それなら、アンジェ、あなた復職するのはいいけど、すくなくとも母乳を上げてる間はやめておきなさいね。補佐官服ははっきり言って授乳には向かないわ。タオルあてがう為に一々上半身全部裸にならなくちゃならないわよ。そんなに焦る必要もないんだし。」
「そうね、そう言ってもらえるなら、このこが母乳を飲ん出る間は育児に専念させてもらおうかしら。せっかくでてるのに、ミルクにするのももったいないものね。」
「そういうつもりで言ったんじゃないけど…」
ロザリアは苦笑した。
授乳室なんて聖殿にあるわけではないし、万が一授乳中の様子を守護聖がみてしまったりしたら、例えアンジェリークは気にしなくても守護聖のほうが慌てふためくか、気もそぞろになるか、鼻血でも出すかで仕事になるわけがないし、第一オスカーが目の色を変えて授乳の度にアンジェリークの張り番でもしかねない。
それじゃ、聖殿が毎日開店休業になっちゃうわと、ロザリアは思ったのだった。
「じゃ、とりあえず、どんなに早くても授乳の必要がなくなってから執務に戻る、なにか不都合があったら、そう、適当な乳母がみつからなかったりした場合は、この限りに在らずってことでいいわね?でも、あなた、乳母が見つかったとして、この子はどこに置いておくの?」
「それは、うちに置いておくにきまってるわよ。」
「でも、執務の間中この子を私邸に置きっぱなしなんて心配じゃなくて?それに、朝と晩しかこのこの顔を見られなくなっちゃうわよ?」
「それは仕方ないわよ。そのためにナースも雇うんだし…それに、その分一杯かわいがってあげるつもりだし。もし、このこがちょっと大きくなって、寂しいとかいいだしたら、きちんと説明するわ。そしてこの子にもわかってほしいの。今自分がいるのは、周りの皆さんの暖かい協力があってこそだから、ママも自分のできることでそのお返しがしたいのよって…」
「アンジェリーク、あなたの気持ちは嬉しいし立派な物だと思うけど、このこにとってももっといい方法があるんじゃないかしら?…私にちょっと考えがあるの。だから、本当に復職するまではこのことはあなたたちだけで勝手に決めちゃだめよ。いいこと?」
「ロザリア、それ、どういう…」
「このこは、確かにあなたとオスカーの子よ。でも、あなたが言った通り、私も守護聖たちもこの子のことをとても気にかけてるわ。とてもじゃないけど、他人の子だなんて思えない。だから、私にも、あなたとこの子のために良かれと思うことを何かさせて欲しいのよ。」
「ロザリア…」
「あなたはこの聖地で私のたった一人の友人であり、もう姉妹以上の存在だわ。あなた以上に私を理解してくれる人なんていやしない。あなたの子供なら、わたしにとっても身内と一緒よ。姪っ子でもできたみたいって言った言葉は嘘じゃなくてよ。あなたはさっき、私のために、私の力になりたいっていってくれたわね?どうして、私が同じ気持ちじゃないと思うの?」
「…ありがとう、ロザリア、その気持ちだけで十分私もこのこも幸せよ。でも、あなたに何か考えがあるなら、このこの面倒をどう見るかの結論は待つわ。」
「そうね、そんなに長くは待たせないですむと思うわ。ところで、アンジェ。このこにサクリアがあるかどうかなんて、わかる?いくらなんでも、まだ小さすぎてわからないわよね?私なにも感じないもの。」
「私も何も感じないわ。ロザリア、あなたは小さい時から女王の素質を認められてたわよね?」
「小さい時っていっても5才くらいにはなってたと思うわ。それに資質が認められたからと言って、前女王陛下がいらっしゃっていた間はサクリアは顕在化しなかったし…」
「私なんか、もっとそうよ、女王候補に選ばれるまで、サクリアが自分の身に眠ってるなんて思いもしなかったわ。」
「でも、このこはオスカーとあなたの子、現守護聖と補佐官の子よ。サクリアを受け継ぐとしてこれ以上ふさわしい人材はないんじゃないかしら。実際、守護聖を多数輩出している血統と言うものが存在している以上、遺伝は無視し得ない要素よね?」
「確かにロザリアのご実家やジュリアス様のご実家みたいなところもあるけど、私なんかはその例には当てはまらないわよ。」
「ふふ、まあ、多分大丈夫でしょう。アンジェはなんにも心配しなくていのよ」
ロザリアはなにか含む所のある笑顔を浮かべていた。
おなかが一杯になったちいさなディアンヌは、アンジェリークに背中をさすられて小さなげっぷをするといつのまにやらアンジェリークの腕の中ですうすうと寝息をたてていた。
「かわいいわね、ほんとに天使みたいだわ。ねえ、本当に執務に戻るの?この寝顔を見ているといつまでも見ていたいっていう気にならない?」
「そりゃあね。でも、決めた事だし。今すぐじゃなくてもいいって言ってもらえたら、気が楽になっちゃった。ただ問題はいいナニー、乳母やさんがみつかるかどうかなんだけど。いい人がみつからなければ復職するっていうのも計画倒におわっちゃうから。ロザリアのばあやさんみたいな人がいてくれたらいいなって私は思ってるの。」
「ばあや…そう、私の側にもいつもばあやがいてくれたわ。私が女王になったのを見せて上げられてよかった…」
ロザリアが一瞬懐かしそうな遠い目をした。
下界の容赦無い時間の流れに、ロザリアをだれよりかわいがり「私のお嬢様ですよ、当然ですとも」と泣きながらロザリアの即位を喜んでくれた穏やかな瞳の老婦人はとうに鬼籍の人だった。
ばあやは絶対に自分が女王になると信じていた。
自分はばあやを喜ばせてあげたくて女王になった気持ちも確かにあったのだと、ロザリアは思っていた。
「そんな人をみつけなくてはね、アンジェ。それも、よかったら私にまかせて、いいわね?」
「でも、そこまでしてもらったら…」
「私に考えがあるっていったでしょ?それに個人でさがすより王立研究院の人材検索で探した方が多分確実だもの」
「ありがとう、ありがとう、ロザリア、私、なんていってお礼を言ったらいいか…」
「友達でしょう?当然じゃないの。そのかわり、そうね、退位した後、私が子供を産んだら、そのときはあなたに乳母をやってもらおうかしら?子育ての先輩としてね?ばあやになってなくても私はかまわなくてよ?」
「ロザリアったら…」
アンジェリークが泣き笑いの表情になった。
2人の女王候補の間に培われ花開いた友情は、例え2人が女王とその補佐官になっても、補佐官が結婚し出産しても変わってはいなかった。
アンジェリークは自分が女王候補に選ばれた事を、心から天に感謝した。
掛け替えの無い友人、掛け替えの無い伴侶、聖地にこなければ得られなかったもの。
失った物も確かにあるけれど、それを補って余りある宝を自分は手中にできた。
そして、今ひとつの宝物はアンジェリークの腕の中で静かに眠っていた。