《Diaspora:四散する・種をばらまくというギリシャ語を語源とし、バビロン捕囚後故郷を追われたユダヤ人を指す
転じて、強制的に故郷を追われ、もとの場所に戻れない人々も意味するようになった》
『・・・また来てしまった・・・・』
今日もオスカーは気がつくと、特別寮のドアの前にたち、チャイムを押していた。
執務室の机の上には未決済の書類が山ほどたまっている。
今日中に目を通してサインし、明日にはジュリアスにまわして決済を仰がなくてはならない書類の山が。
ジュリアスに再三催促されており、もはや引き伸ばしはどう考えても不可能だ。
いますぐ踵を取って返し、自分の執務室でたまった仕事をかたずけろ。さもないと、今日は徹夜だぞと、
頭の片隅で語りかけてくる声を、追い払うかのように軽く頭を振る。
もはや、オスカーには、ドアの向こうから聞こえてきた、いつも歌うように自分に語りかける愛らしい声しか耳に入らない。
勢いよくドアが開き、咲き綻んだ花のように可憐な笑顔がオスカーを出迎えてくれる。
「オスカー様、お入りください」
陽光を束ねたような温かみのある金の髪と、さわやかで生命力に溢れる新緑のような瞳の愛らしい少女、
オスカーの心に秘めた想い人、アンジェリークが立っていた。
「よう、お嬢ちゃん、ちょっと暇ができたんで誘いに来たぜ。俺と遊ばないか?」
まったく暇などないのだが、そんなことを言えるわけはないし、長年身につけたギャラントリーを駆使して
余裕のあるセリフを演出する。
アンジェリークが満面の笑みを浮かべ、オスカーの誘いに応えてくれた。
本当のところ、オスカーに余裕なんてまったくない。
アンジェリークの返事を聞くまでは不安に指先は冷たくなり、アンジェリークの笑顔とともに、心は安堵と歓喜に熱くなる。
『我ながら、なんてざまだ。まるで初心ながきみたいだ・・・』
初心な子供・・そう、最初はアンジェリークのこともそう思っていた。
いつからだろう、彼女のことで自分が一喜一憂するようになったのは。
きがつくと、彼女のことを考えている自分に気付いたのは。
そして、一度意識してしまったら、自分が身につけていると思っていた恋の手管も駆け引きもどこか遠い世界のことになってしまい、
あきれるほど不器用な自分がそこにいた。
オスカーの脳裏にアンジェリークと出会いが蘇る。
女王補佐官ディアに、女王試験の開始を告げられたとき、オスカーは守護聖としては大して深い感慨を抱いたほうではなかったと思う。
誰が女王になろうとも、自分のやるべきことが変わるわけではないからだ。
聖地と女王の警備責任者として近衛軍を統括し、執務においては、首座の守護聖をサポートする。
女王の望むままに、その身からサクリアを放出して宇宙に満たし、宇宙がつつがなく運行するよう守護聖としての任を果たす。
確かに自分の忠誠は女王に捧げていたが、それは女王個人にというより、
女王と言う存在に忠誠をささげることが守護聖としての義務であり、アイデンティティーだと思っていたからだ。
守護聖として生まれついてしまった以上、それを自分の存在理由として生きていく以外に道は残されていなかった。
女王という社会的存在に忠誠を捧げているのだから、その対象である個人が誰にかわろうと、自分の義務や責任、
ましてや運命が変わるわけではないと思っていた。
もちろん、忠誠の対象である女王はそれなりの人物でないと、自分の人生を捧げる意義を見出せなくなってしまう。
万が一、女王が自分の人生を捧げるに足りない人物だったとしても、自分が守護聖の責務から逃れられるわけではない以上
女王が尊敬に値する人物でなかったら、自分の人生は無為で虚しいものになってしまうだろう。それだけは避けたかった。
しかし、今回の女王試験では、忠誠の対象を自分たち守護聖が選ぶ余地があるという。
それならば、自分の人生を捧げるにふさわしい存在を、自分の納得のいく選択をしようとオスカーは思っていた。
守護聖が自由意思において選びうる選択など、ほとんどなきに等しいのだから。
そう言う意味に於いては、オスカーは女王試験というより、女王候補に多大な興味と関心を持っていた。
そして、初めてまみえた女王候補たちは、2人とも、とても愛らしい少女だった。
青い髪の女王候補ロザリアは、大貴族出身らしい落ちついた物腰と優雅な姿態を兼ね備え、自信と自覚にみちたその態度は、明日にでも
女王に就任できそうな雰囲気を漂わせていた。
一方、もう一人の女王候補アンジェリークも確かにとても愛らしい少女だった。
暖かな印象の金色のふわふわとした巻き毛に、くるくるとよく動く大きな緑の瞳、さくらんぼのようにほんのり色づいた小さな口元は
その名の通り、古い物語絵にでてくる天使のような印象を与えた。
しかし、ロザリアに比すると、やはり、愛らしいが普通の少女と言う感は否めなかった。
そう、かわいらしい『お嬢ちゃん』と呼ぶのがお似合いな・・・
そして、女王試験として、とある産まれたての大陸の育成が始まった。
オスカーはアンジェリークが、自分が思っていた以上に努力家でがんばり屋であることを
新鮮な驚きをもって、知らされる日がやってくることを、最初は予想だにしていなかった。
一介の市井の少女であった彼女は、特別教育を受けていたロザリアに育成の当初にのみおいて水をあけられていたが、
大陸の民の望みを、天性の感性で感じ取っては、それに呼応した育成を忠実に行い、めきめきとその差を縮めて行った。
それは、最初の定期審査がおこなわれた日のことだった。
アンジェリークは僅差ではあったが育成においてロザリアに勝り、女王から賞賛の言葉を賜った。
育成において、目に見える成果をあげただけではなく、
自分に足りないものや、知らないことを素直に謙虚に他人に教授を願えるアンジェリークの態度は、
他の守護聖たちからもおおむね好意をもって迎えられており、すでにアンジェリークと私的に会っている者も幾人かいるらしい。
オスカーは、それまで、執務室以外でアンジェリークと話した事はなかった。
アンジェリークはいつも、明るく元気に執務室を訪ねてきては、自分に育成を頼んでいったが、それだけだった。
その姿をかわいらしいとは思い、よくがんばっているなとは思っても、それ以上に興味を覚えてはいなかった。
だいたい、この日は定期審査があるため飛空都市にとどまっていたものの、普段の休日には、オスカーは一時の享楽を求めて
こっそり外界を訪れていたため、アンジェリークやロザリアと私的な時間を過ごそうなどと、考えたこともなかった。
彼女たちはあくまで女王候補であり、いつか女王になるというその存在はオスカーにとって個人的な接触を持つための対象ではなかったし、
年齢的にも、彼女たちは自分が興味を抱く対象外だったから。
しかし、この定期審査の結果、オスカーは初めてアンジェリークを意識した。
自分の第一印象では、ロザリアがすんなりと女王位につくだろうと思っていたからだ。
アンジェリークが、育成に勝ったのは偶然か、それとも、自分には今は見えない何か特別な資質が隠されているのか。
自分の人生を捧げても惜しくないと思わせる何かが、彼女にはあるのか。
彼女を誘っているものが他の守護聖にいる以上、後者と考えるほうが妥当だろうか。
愛らしいが、平凡な少女にしか見えなかった彼女になにか、特別な魅力や能力があるのなら、ぜひそれを確かめてみたい。
もしかしたら、この少女に自分の人生を捧げるかもしれないのだから、その人物を見極めないことには気が済まない。
オスカーはこの翌日の日の曜日、初めて特別寮のアンジェリークの部屋を訪ねた。
日の曜日を一緒に過ごさないかと言うオスカーの誘いにアンジェリークは素直にかつ、嬉しそうに応じた。
その飾らない笑顔にオスカーは、改めて、こんな年頃の少女とほとんど接した事のない自分を思い出す。
いつも、自分に向けられる微笑といえば、何か妖しい期待を含んで自分を誘いかけるものばかりだった。
こんな腹蔵も屈託もない満面の笑顔で迎えられ、オスカーは一瞬自分がどのようにこの少女に接したらいいのかわからなくなってしまった
『この少女はいつも自分が相手にしている女たちとは違う・・どんな風に俺は振舞えばいい?』
そんな戸惑いをひた隠し、本来の目的を思い出そうと努める。
そうだ、自分はこの一見平凡そうな少女が女王になるに値する人物か、見極めるためにきたのだ。
女王になる心構えができているのか、確かめてやらなくては・・
自分が一瞬でもこの少女にうろたえさせられた事実に、なにか許せないような気持ちになって
オスカーは少し意地悪な気分でアンジェリークを公園に誘い出した。
アンジェリークに公園で、大陸の育成や、守護聖どうしの関係について、突っ込んだ質問をしてみたが、アンジェリークはよどみなく答えていく
どうやら、まじめに試験に取り組んでいる事は間違いないようだ。
となれば、彼女が育成においてロザリアに優位に立った事は偶然ではなく、必然か?
しかし、まだ、確信をもつには至らない。
それでも女王試験はちょっと大変だというのは紛れもない彼女の本音だろうと思い、オスカーは少々可哀想になって
つい自分も『守護聖も結構大変だものな』と本音を漏らしてしまった。
特別な教育も受けてない彼女が、本来エリートであるロザリアに引けをとるどころか、1歩でも先に進んでいるのは
不断の努力を惜しまないからであろう。
その苦労は想像に難くない。
オスカー自身も守護聖であることに、つねに不断の自覚が必要だったから、アンジェリークの立場に共感を禁じ得ず
つい言わなくてもいい事までいってしまった。
ここは、弱音をはかずにがんばれと励ますのが、強さを司る自分が期待される役回りだろうと思ったにも拘わらずであった。
瞬間後悔が心をよぎったが、オスカーは平静を装いアンジェリークに疲れてはいないかと問いかけ話題を変えた。
そしてまた、試験の教官のように矢次速に質問を浴びせ掛けた事も、オスカーは後悔していた。
せっかくの休日なのに、彼女に息抜きさせてやるどころか、これでは、却って緊張させてしまったようなものだ。
それでなくても慣れない環境に疲れているであろう少女をいたわるどころか、追い詰めるように詰問してしまった自分に
オスカーは自分自身が驚いていた。
他の女には自分を殺して感情を見せずに優しくできるのに、なぜ、この少女にはそうしてやれなかったのか・・
決して他人の前で口に出した事がないことを、思わず口にしてしまったり、この少女の前では上手く自分を繕う事ができない自分に
オスカーは戸惑い自問した。
『なぜだ?彼女が女王候補だからか?とはいえ、年端もいかぬ少女なのだ。しかも慣れぬ環境でがんばっている・・優しくしてやってあたりまえなのに・・・』
それでも公園の一角にさく花を見て瞳を輝かせている少女の笑顔を見て、オスカーは少し救われた思いがした。
金の髪と、白い肌に光る金色の産毛が陽光に照り映え、その少女の命の煌きそのもののようにオスカーには輝いて見えた。
こんな明るいところで女性を見たのも、そして、こんなに明るい陽光が似合う女性を見たのも思い出せないくらい遠い昔だったような気がして
オスカーは軽い眩暈にもにた感覚を覚えた。
なんとなく別れ難い思いで、公園中を連れまわしてから、オスカーはアンジェリークを特別寮の部屋まで送っていった。
アンジェリークはなにかオスカーの心に引っかかる印象を残したが、オスカー自身にもその理由はよくわからなかった。
ただ単に自分がこの年頃の少女と接したことがないから、ものめずらしかっただけだろうと、オスカーは考えた。
どこか、無理に自分に言い聞かせているような気がした。
翌週、アンジェリークはオスカーの執務室に姿を見せなかった。
どうやら、他の守護聖の執務室を訪れて、なにやらいろいろとお喋りをしているようなのに、自分の執務室にはやってこない。
聖殿の廊下で出会ったときは、にこやかに挨拶をしてくれるものの、なんだかオスカーは奇妙な寂寥感と疎外感を味わっていた。
やはり先週の公園での詰問がアンジェリークには鬱陶しく感じられて、避けられているのだろうか。
しかし、自分も女王候補としてのアンジェリークの人となりを見てみたいと思ったのだし、それは守護聖として当然の興味だろう。
釈然としない思いを抱きつつ、これで嫌われたようなら、アンジェリークもそれだけの少女だったということだと、オスカーは思いこもうとしていた。
しかし、それは杞憂に終わった。
週の終わりの金の曜日にアンジェリークはオスカーの執務室を訪れ、育成を依頼していった。
アンジェリークが自分のところに顔をだしたことに、オスカーは思いの他安堵している自分を見出し、そんな自分に驚いた。
自分でも、アンジェリークに避けられているのかもしれないということに
これほど心塞がれていたとは、アンジェリークの訪れがあるまで気付かなかったのだ。
そのうえ、アンジェリークは退出してからオスカーに手紙をよこした。
『日の曜日はおひまですか?』と・・
これはつまり自分に会いたいということであろう。
してみると、アンジェリークは先週のオスカーの態度を不快に思って自分を避けていた訳ではなさそうだ。
この事実にオスカーは我ながら滑稽なほど心が浮き立っている自分に気付き、思わず失笑した。
アンジェリークと接していると、オスカーは今まで気付かなかった自分に気付かされ、驚かされることが多いような気がした。
そして、アンジェリークに執務室で待っている旨の返事を出してやった。
今週末も、これで外界の歓楽街で羽目を外す訳にいかなくなったなと、おもいながら。
だが、オスカーはそのことを、少しも残念とは思っていなかった。
むしろ心のどこかで、無理やり空白の時間を埋めなくてよいことに、安堵していたが、自分ではそれを意識はしていなかった。
というより、安堵している自分に気付きたくなかったのかもしれない。
そして日の曜日を心弾む思いでまっていた。
こんな心境で休日を迎えたことはついぞなかったように、オスカーには思えた。
アンジェリークは、オスカーが懸念していた様に、オスカーのことを避けていた訳ではなかった。
むしろその逆で、育成の傍ら、オスカーのことを他の守護聖に聞いて回っていたため、オスカーのところに
訪れることを失念していたという本末転倒な結果になっていたにすぎなかった。
女王試験が始まって約一ヶ月あまり。
試験開始当初は、なにがなんだかわからず、闇雲に行っていた育成もどうやらコツがつかめてきたところだった。
アンジェリーク自身は、なんの心構えもないまま女王候補に選ばれ、何も解らぬうちに飛空都市につれてこられたといったところが
正直な気持ちだった。
一生縁があるとは思えなかった現女王陛下や、女王と宇宙を支えているという守護聖の方々に
一目でも目通り叶えるということに、少女らしい好奇心はもってやってきたが、
ロザリアのように自分は女王になるのだという確固とした信念や、
女王になると言う事はどういう事を意味するのかという明確なヴィジョンがあったとは、お世辞にも言えなかった。
しかし、特別に帝王学ならぬ女王教育をうけたわけではないのだから、これを責めるのは酷というものであろう。
それでも、アンジェリークは育成に一生懸命励んだ。
自分の与えられた境遇で精一杯の努力をするのは、アンジェリークにとっては生来身についている自然な行動だった。
それに、宇宙を統べるなどということは、アンジェリークには感覚としてはピンとこなかったが
大陸を発展させる事は、アンジェリークの努力がまさにそのまま反映して目に見えて成果が現れるので、アンジェリークも努力のし甲斐があった。
自分が望まれる力を研究して、その読みの通りに力を送ってもらうよう守護聖に依頼すると、大陸は目に見えて発展していったし
望まれてない力を送っても、人口は増加せず、発展は遅々としたものになってしまった。
だから、アンジェリークは女王になりたくて育成に刻苦勉励していたというのとはちょっと違っていた。
自分の努力次第で大陸が発展することが嬉しかったのと、
なにより大陸の民がしあわせな様子をみせてくれることが、アンジェリークの励みになったからだった。
そして、育成をがんばったもうひとつの理由は、やはり守護聖の存在が大きかった。
アンジェリークは今まで親元を離れた事もなく、友達とも会えない飛空都市での生活は
アンジェリークにとって最初楽しいものとはとても言いがたかった。
今でこそ、多少は親しく話すようになったものの
特待生のロザリアは同じ学校の生徒と言っても口をきいたことはほとんどなかったし
アンジェリークのほうはたった二人きりの女の子同士、友達になりたいと思っていたのだが
最初ロザリアはアンジェリークの事を取るに足らない存在とみなしている様で、出会い頭に軽くあしらわれてしまった。
この年頃の女の子にとって他愛ない会話ができる友人がそばにいないというのは、とても辛く寂しいことだった。
だから、時折手すきの守護聖がアンジェリークの部屋を訪れてくれると、
自分の事を気にかけてくれたことが嬉しくて、アンジェリークはいつでも快く守護聖の訪問を受け入れた。
そして、何度か守護聖の訪問をうけるうちに、アンジェリークは、彼らの訪問の目的が一様でないことに気付いた。
単純にアンジェリークに息抜きさせようとしていたり、自分のことを話をしたがったりすることもあったが、
アンジェリークが女王候補としての自覚をきちんと持っているか問いただそうとすることも多かった。
アンジェリークは、そのことを、ことさら嫌だとは思わなかった。
もちろん緊張はしたが、自分が女王候補として招聘された以上、守護聖が自分の心構えを気にするのは当然と思ったからだ。
そして、いろいろ試されるようなことも聞かれたが、きちんと育成をしていることを知ってもらえると、
守護聖は大概好意を持ってアンジェリークの事をみてくれるようになるようだった。
9人の守護聖と初めて引き合わされたとき、アンジェリークは、こんな男の人たちを見た事がないと、しばし呆然としてしまった。
彼らはその司る力そのままのような独特の煌きをその身に纏っている様で、
やさしそうとか、厳しそうとか、それぞれの印象は異なっていたものの、どの守護聖もとても魅力的に見えた。
育成をがんばると、その守護聖が温かい目で自分をみてくれたり、誉めてくれたりする。
素敵な男性に誉められたり、優しくされて嬉しくない女の子はいない。
まして、今、アンジェリークはよく見知った人一人としていない場所で生活しているのだ。
守護聖たちに認められ、話しかけてもらったりするのは今のアンジェリークにとっては大きな心の支えとなった。
勢い、育成にも力がはいった。
ただ、育成を熱心におこなうことのその意味を、
それが自分の未来を決定してしまう事を、この時のアンジェリークはきちんと認識していたとは言えなかった。
大陸の民の喜ぶ様子と、守護聖に認めてもらえることが嬉しかったからという、いわば、動機は卑近なものであった。
だから、オスカーが日の曜日に自分の部屋を訪ねてくれて、公園に誘ってくれた事も嬉しいと思いこそすれ、嫌だなんて全く思っていなかった。
一人で休日をすごすと、会いたくても会えない友人の事や両親のことをどうしても思い出してしまうので、
オスカーの意図がなんであれ、オスカーが自分のことを気にかけて、誘いに来てくれたこと自体が純粋に、心から嬉しかった。
自分の事を『お嬢ちゃん』としか呼ばず、アンジェリークの事はただの女の子と見ているようで
あまり気にかけた様子のなかったオスカーが来てくれたのは、意外と言えば意外ではあったが。
そして、アンジェリークはオスカーと公園をそぞろ歩いている最中もっと意外に思ったことがあった。
女王候補は大変だと自分が言ったとき、オスカーもぽつりと
『守護聖だって意外と大変だからな』と自分の境遇に共感を示してくれたことだった。
アンジェリークは、てっきり弱音を吐くなとか、もっとがんばれと言われると思っていた。
強さを司っているオスカーが守護聖職を大変だというとは思っても見なかったのだ。
強さを司るオスカーが取り様によっては弱音と取られかねないことを言ったことがアンジェリークにはとても意外に思えたのだ。
飛空都市で暮らし始めて一ヶ月あまり、まだまだ守護聖たちの人となりをよく把握しているとは言えなかったが、
アンジェリークは、守護聖がそれぞれの司る力と似た雰囲気を醸し出している事には気付いていた。
リュミエールはやはり優しげだし、ジュリアスは誇り高く、ルヴァはいかにも学識の徒といった感じで
言葉を交わしてみると、ものの見方、考え方もそれに見合っており、つまり違和感や齟齬がなかった。
本人の司る力と違和感のある言葉をいったのは、オスカーだけだった。
オスカーは女性に優しくて人気らしい。
優しいから自分の置かれた境遇にあわせて同情を示してくれただけだろうか。
でも、アンジェリークには、オスカーの発した言葉が自分に合わせただけのものには、思えなかった。
なんとなくだが、あれはオスカーの本心のような気がした。
それに、そう言ったときのオスカーの瞳に一瞬ほの暗い焔が瞬いたように見えて、それがなんだかアンジェリークは気になった。
『オスカー様ってどんな方?』
オスカーと公園で語らった次の週、アンジェリークは回りの守護聖にオスカーのことを聞いて回った。
『自身過剰が人を傷つける』
『自信家過ぎてついていけない』
『照れるなんてことあるのかねぇ、一度見てみたいね』
と言う声がある一方で、
『話好き』
『周囲のことを気に掛かる』
『余裕があってまわりに気をつかえる』
と、正反対の評価もでてきた。
アンジェリークも守護聖が神様でもなんでもない、感情的にはまったく普通の人と変わらず、気の合う人もいれば、気の合わない同士
もいるのだとわかり始めていたので親しい、親しくないによって評価がわかれるのは仕方ないとしても
これはあまりに両極端な結果ではないかと訝しく思った。
本当に自信過剰な人が、回りの意見を気にかけたり、周囲に気をつかったりするものだろうか。
アンジェリークは余計にオスカーと言う人がわからなくなってしまった。
そこで、はっと、気付いた。回りの意見を聞くのに夢中になって、今週はオスカーにまだ会っていなかった。
こんなにオスカーの事がきになるのなら、自分で会いにいくのが一番だということに、今更ながら気付いたのだ。
でも、オスカーの話を聞く事にかまけて、今週はあまり育成をしていなかったから、オスカーのところに行っても
アンジェリークはオスカーに育成をたのまざるを得なかった。
でも本当は、オスカーと言葉を交わしてみたかった。人からの評価を聞くのではなく、直接オスカーと話してみたかった。
そこで、思いきって手紙を書いてみた。手紙を書くのは初めてだった。
それでも、『お会いしたい』とは書けず『おひまですか?』という表現に留めた。
自分は会いたいと思っていても、オスカーがそうとは限らないのだし、会いたいと正面切って言えるほどまだ親しい訳ではない。
忙しいといわれたら、それはそれで仕方ないと思いながら。
だが、オスカーからの返事は『日の曜日、執務室で待っている』というものだった。
安心すると同時に、返事をもらった今ごろになって、とても胸がどきどきしてきた。
アンジェリークは『どうか、明日は断られません様に!』と祈りながら、土の曜日の夜、床についた。
日の曜日の朝、アンジェリークはディアにオスカーと会いたい旨を相談した。
オスカーは執務室で誰かを待っているようだとディアが教えてくれた。
少なくともすっぽかされはしなかったとわかり、アンジェリークはほっとした。
オスカーは森の湖のような静かな場所が好きと教えてもらい、アンジェリークはオスカーをそこに誘うことにした。
オスカーの執務室を訪ねると、オスカーはいつもと変わらぬ砕けた、それでいて、優しい口調で自分を迎えてくれた。
アンジェリークは胸の動悸がオスカーに聞こえません様にと思いながら、オスカーを湖に誘った。
オスカーは自分の申し出を快く承諾してくれた。
『森の湖がなんてよばれてるのか知っているのか?』と自分に問い掛けてからではあったが。
アンジェリークは、オスカーがなんのことを言っているのかよくわからなかったが、
自分の誘いを断られなかった事がうれしくて、頬を上気させた。
二人は連れ立って、森の湖へと出向いた。
アンジェリークが執務室に現れたとき、オスカーもほっとすると同時に嬉しくなった。
アンジェリークが黙って約束を反故にするような女性でないとは思っていたが、それが確認できて嬉しかったからだ。
しかし、自分からは、さもたった今約束を思い出したような口調で、アンジェリークに自分への誘いかけを促した。
自分とどんな一時をすごしたいのか彼女自身に選ばせることで、アンジェリークがどんなつもりで自分を誘ったのか判断するつもりだった。
アンジェリークは、森の湖に自分を誘いかけてきた。
一瞬オスカーは、その大胆さにしらけたような思いを感じた。
まだ「恋人の湖」に自分を誘うのは時期尚早ではないだろうか。
思い込みを押しつけられるのはまだ距離のある人間関係では、うっとうしいだけだ。
そこで、オスカーは森の湖にどんな別称があるか知っているのかと粉をかけてみたが、アンジェリークはきょとんとしている。
どうやら、ただ単に静かな美しい場所という認識しか持っていないようだ。
それなら話は別である。
さほど親しくない異性をいきなり自分の部屋によびつけるのも押しつけがましく蓮っ葉な感じだし、女王候補のとして心構えは先週もう聞いてある。
アンジェリークは自分との距離感を的確に把握しているようで、オスカーにはそれはとても好ましく思えた。
意識的にせよ、無意識にせよ、それはアンジェリークが人の立場にたって物事を考えられる能力に長けている事を示すことだ思ったからだ
オスカーは、そうは思われないよう意識的に振舞ってはいたが、自身は比較的周囲を気にかけるほうなので、
他人が周囲に気を回すかどうかについても目利きがきいたし、女性に限らずこれみよがしでない気配りのできる人物が好みだった。
自分の承諾の返答をきくと、アンジェリークはさざなみが日の光に煌くような笑顔を見せた。
この笑顔をみて、オスカーは誘いを断らなくてよかったなと思った。それだけの価値のある笑顔だとオスカーは思った。
湖の辺に二人は佇んだ。
湖面に日の光がきらきらと反射している。
あるかないかの風が頬をくすぐると、その風に微かに湖面も波立ち、それにあわせて光の粒が湖面で踊るかのようにさざめく。
しかし、その光は目を射貫くような、きついものではない。
木々の間を縫って水面に零れ落ちるあいだに翠のヴェールをその身にまとったような柔らかな光となっている。
アンジェリークは大きく息を吸いこんだ。
澄んだ水の香りと、木々の緑のにおいが胸いっぱいにひろがり、強張った心を解してくれるような気がした。
ロザリアと競い合う日々は充実はしていたが、やはり、なにかにつけ比べられる日常に心は緊張を強いられていたのかもしれない。
オスカーがマントをはずして、草の上に敷き、アンジェリークにそこに座る様促した。
「オスカー様のマントが汚れてしまいます・・」
アンジェリークが躊躇う。
「女性をたたせたままなんてもの言語道断だが、地面に座らせるなんてこと、俺にできるはずないだろう?」
オスカーが、自分のポリシーにかこつけてアンジェリークが遠慮することのないように
気を楽にさせようとしてくれているのが、アンジェリークには感じられた。
自分が座らなければオスカーも座りそうになかったし、
過ぎた遠慮は却って失礼だと思い、アンジェリークは、それでもマントの端にちょこんとこしかけた。
オスカーもその隣に腰を降ろした。
そのまま二人は黙って湖面を見ていた。
オスカーもなにもいわなかったが、アンジェリークも敢えて言葉を発する気にならなかった。
しかし、その沈黙は居心地の悪いものではなく、むしろ、穏やかな心静まるものだった。
滝の上げる水音に、風に揺れる葉ずれの音、ときおり耳に入ってくる小鳥の声、それらの物音を包みこむような柔らかな午後の日差し。
目を閉じて、それらをからだ全体で感じ取ろうとする。何もかも胸に染み入るようだった。
隣に座っているオスカーからも穏やかで優しい・・いや、暖かいといったほうが的確だろうか、
そんな感情が発せられているようだった。
饒舌な言葉が介在すれば、かえって感じ取る事ができなかったであろう微かな感覚だった。
長い沈黙を破り、先に言葉を発したのはオスカーのほうだった。
「ここはいつ来ても美しい。自然は心を静めてくれる。お嬢ちゃんも試験の疲れは癒されたか?」
「あ、はい、オスカー様」
アンジェリークが自然の恵みに心を和ませているのを察して、オスカーはただただ静かに自分の心が弾力を取り戻すのを待ってくれたのだろう。
ほとんど言葉を交わすことはなかったが、アンジェリークにはもう十分だった。
幾百の言葉を重ねるよりも、アンジェリークにはオスカーの優しさや思いやりが、なによりも雄弁に伝わってきた。
『オスカーさまって、優しい・・さりげないけど、ほんとうに優しい・・炎は強さを表すっていうけど、強いっていうより・・暖かい?・・』
「・・部屋まで送ろう」
オスカーはすっとたちあがり、アンジェリークに手を差し伸べた。
その動作があまりに自然だったので、アンジェリークは迷わず小さな掌をオスカーの手に預けた。
大きい掌は乾いた感じで暖かく、指は意外と細く繊細そうにみえたが、それは指が長いからで、アンジェリークの手をとったその指は
やはり鍛え上げられ、ごつごつと骨ばった固い感触だった。
その手に触れられて、アンジェリークはオスカーに初めて男性というものを意識した。
同じ生き物とは思えぬほど、自分の手とはまるで違うその感触に戸惑ったが、それも一瞬の事だった。
アンジェリークがたちあがると、オスカーはすぐ手を離し、何事でもないかのように帰路についた。
指が触れただけで、動悸が激しくなってしまう自分はどうしようもなく子供なのだと言う事実と、
オスカーにとっては自分の手を取るなど、何の他意もない仕草で、
オスカー自身はなにも感じるところはないのだろうと思ったことが、アンジェリークを少し悲しくさせた。
オスカーはアンジェリークを部屋まで送り届けてからアンジェリークに
「また、俺との思い出を増やしにいこうな」と告げて帰った。
これは飾らぬオスカーの本心だった。
アンジェリークとの一時は、オスカーにとっても思いがけず、心休まるものだった。
アンジェリークが湖のほとりで大きく息をついているのを見て、オスカーはアンジェリークの心に凝り固まった精神的な重圧を感じ取った。
今日は静かに、アンジェリークが心の澱を洗い流せるようにしてやりたいと思った。
だから、あえて言葉はかけなかった。
アンジェリークにも自分の意図が伝わったのだろうか、彼女自身も黙ってただ静かに自然の癒しに身を委ねているようだった。
アンジェリークの小鳥が囀るような声音はいつも耳に心地よかったが、
今はアンジェリークがこの沈黙の意味を解してくれたようで、余分な言葉を発しないその賢さがオスカーには嬉しかった。
沈黙をむやみに恐れる必要はない。無意味な言葉の羅列より、よほど心地いい沈黙もあるのだ。
多くの女はこの事を理解しない。
思いのこもった沈黙よりも、うわすべりで実のない言葉を求め、また、沈黙を恐れ、自らもただ空間を埋めるだけの喧しい言葉を発する。
アンジェリークには心の伴わない言葉は必要ない。むやみに沈黙を恐れ、無駄な言葉を発する事もしない。
強さや自信家ぶりを演出する必要もなく、自分の本心を隠すためにわざとからかうような口調で話す必要もないと言う事実は
オスカーをこのうえなく平穏な感情に導いた。
不思議だった。誰か他人といて、心落ち着いた事などなかった。
今まで自分一人でいるときに、物悲しさやわびしさと対でなければ、こんな安らいだ気分になったことはなかったのに。
アンジェリークとなら、またこんな休日をすごしてもいい。
そんな気持ちで何気なく取ったアンジェリークの手は、とても小さくしっとりとやわらかで、
いつまでも握っていたいような気になってしまい、慌てて手を離した。
そのまま握っていたら、ほんとうに手放せなくなるような気がしたのだ。
女と指を絡めるなど、数え切れないほどしていることなのに・・
心の動揺を隠し、後ろ髪を引かれる思いで、オスカーはアンジェリークの部屋を後にした。