アンジェリークと過ごす穏やかな時間が思いのほか心地よく、オスカーは、無理に時間を作るというほどではなかったが
特別用事のない平日にも、アンジェリークの部屋を訪れるようになった。
執務が暇になってしまい、ぽっかりと時間が空くと、なんとなく特別寮に足がむかってしまう。アンジェリークとたまにすれ違いになることもあったが、在室のときは、アンジェリークはいつでも快くオスカーを迎えてくれた。
アンジェリークはオスカーが訪れる度に、『来てくださって嬉しいです』と真実、心から嬉しそうに微笑んだ。
その笑顔にはまったく飾り気がなく、言葉も紛れもない本心なのだろう。
親も友人もいないこの場所で、寂しい日もあるに違いない。
自分のおとないが幾許かでも彼女の慰めになればよいのだが、とオスカーは思い、アンジェリークの元を訪れていたのだ。
幼い時から女王の資質を認められ、それ相応の教育を受けてきたロザリアは女王候補に選ばれた時点で
見知った世界から切り離されてしまうことに対する知識も覚悟もあっただろう。
しかし、アンジェリークには恐らくなんの心構えもなかったはずだ。
ある日突然、慣れ親しんだもの全てに別れを告げなくてはならないその寂しさを、守護聖なら誰しも感じたことがあるはずだ。
その気持ちが痛切にわかるだけに、オスカーはアンジェリークの寂しさを少しでも紛らわせてやりたいと思った。
また、アンジェリークは、オスカーにそのように思わせるだけの甲斐のある少女だった。
自分の訪問を心から喜んでくれ、自分の話はなんでも興味深げに生真面目に真剣に聞き入ってくれる。
そして、一度話してやった事は、決して忘れないようだった。
オスカーはアンジェリークをびっくりさせてやろうと、
守護聖だけが休息に使用できるカフェテラスにアンジェリークを連れて行ってやった事があった。
案の定アンジェリークは、大きな瞳を更に大きく見開いて周りを見まわし、「こんなところが・・」と心底驚いた様だった。
そんな素直すぎる反応に、オスカーは悪戯が成功した子供のように嬉しくなってしまった。
「驚いたようだな。連れてきた甲斐があったぜ」
思わずにやりと笑って、アンジェリークを席につかせ、好きな物を頼むよう促した。
アンジェリークがカプチーノを選んだ事にオスカーは少し驚いた。てっきり甘いジュースかココアでも頼むのかと思っていたのだ。
「お嬢ちゃんがカプチーノを好きだったとは意外だったな」
「ほんというと、飲むの初めてなんです。でも、オスカー様がお好きだっておっしゃってたから、きっとおいしいんだろうなって思って・・」
この言葉にオスカーはさらに驚いた。
自分がそんなことを話した事があったことも忘れていたのに、アンジェリークは
なんの気なしに自分が言った言葉をきちんと覚えていて、しかも自分もそれを試そうとしてくれるとは・・
自分の好きなものを、頭ごなしに否定されたら、誰だっていやな気分だろうし
逆に、自分の好きなものがどんなものか知らなかったとしても、それを契機に試して見るといわれれば、なんとなく嬉しいものだ。
これは、天性のものなのだろうか、アンジェリークは、そういう人を心地よくさせる言動を無作為にさりげなく行える少女だった。
カプチーノが運ばれくると、アンジェリークはカップを小さな手で包みこむように傾げ、やはり小さな口元にカップを運んだ。
「初めて味わうカプチーノのお味はどうかな?」
「・・おいしいです。シナモンの甘い香りとオレンジの香りがとても爽やかで、クリームもはいってるから、苦くないし・・」
「俺の好きなものが、お嬢ちゃんのお気に召して、俺も嬉しいぜ」
「・・あの、でも、お砂糖いれてもいいですか?下のほうはやっぱりちょっと苦い・・」
おずおずと尋ねる仕草がかわいらしくて、オスカーの口元もしらずしらずのうちにほころぶ。
「やっぱりお嬢ちゃんはまだまだ子供だな。甘くないと飲めないのか?」
「んん〜そんなことはありませんけど・・あっ、クリームを先にたべちゃうから苦くなっちゃったんだわ!
クリームと一緒に飲めばいいんだわ。オスカー様、やっぱり、私、お砂糖無しでも大丈夫です。」
だから、子供じゃありませんとでもいいたげな、とても得意そうな様子が、またかわいらしくてオスカーはつい笑ってしまう。
カプチーノ程度で苦くて飲めないのでは、ジュリアスの好きなエスプレッソでも知らずに頼んでしまったらどうするのだろうと、
想像したら、さらにほほえましい気分になった。
くっくっと笑いながら、
「そりゃ、えらいな、お嬢ちゃん」というと、
「・・オスカー様、全然、そう思ってらっしゃらないでしょう。いくらなんでも、わかります!」
と、一瞬、ぷっと膨れそうになって、しかし、すぐ、思いなおしたように、オスカーに花のような笑顔を見せた。
「オスカー様、ありがとうございます。オスカー様からお好きって伺ってなかったら、私カプチーノがこんなにおいしいって
きっと、ずっと知らないで過ごしちゃったと思います。」
「礼をいわれるような事じゃないが・・」
オスカーは顎に手を当てて、苦笑する。
礼を言われて悪い気はしないが、こんなことで礼を言われるとは思っても見なかったオスカーは、お嬢ちゃんには驚かされる事ばかりだと改めて思う。
しかも、アンジェリークのもたらす驚きは、いつも嬉しかったり、快いものを伴っている。
めまぐるしく変わる豊かな表情も、心底見ていて飽きない。
「その笑顔を見るために、きっとまた誘うぜ、お嬢ちゃん」
「はい、オスカー様」
更に嬉しそうに、アンジェリークが微笑んだ。
こんな笑顔を惜しげなく見せて、自分の示した厚意を素直に心から喜んでくれるだけでも誘い甲斐があるというのに、
アンジェリークは更に礼状までオスカーによこした。
人の厚意を素直に喜び、そのうえ礼儀正しくきちんと謝意を示せる愛らしい少女。
しかも、その少女は頼るものとてない、今は寂しい境遇に置かれている
にもかかわらず、自分の与えられた課題に懸命に取り組み、きちんと成果を上げている。
こんな健気な少女を慰めてやりたい、さらに喜ばせてやりたいと思うのは、男として至極当然の感情の流れであった。
オスカーは自分でも知らず知らずのうちに、アンジェリークを訪れる回数が増えて行った。
ただ、自分のこの感情はいといけな少女を保護してやりたいという、父とまではいかなくても兄のような気持ちからでているものだと
自分では思っていた。
そして、このような感情をアンジェリークに抱いたのは、どうやら自分だけではないらしいということもわかってきた。
他の守護聖がアンジェリークと一緒の姿をみかけることも、間々あったが、
『あのかわいいお嬢ちゃんは、なにかとこう、目をかけてやりたくなるところがある。皆にかわいがられるのも当然だな。』
ぐらいに思っていた。守護聖から嫌われるより、かわいがられた方がいいに決まっていると。
自分が誘いに行った時、彼女が不在で、仕方なく帰路についたら、
ほかの守護聖が彼女といっしょにいるのをみかけたりしたきは、もちろん一抹の寂しさは覚えたが、
ただ、間が悪かったと思うくらいで、胸が痛むと言うほどではなかった。
オスカー自身はアンジェリークの部屋でおしゃべりすることも、どこかに出かける事もデートだと思ったことはなかった。
ただ、アンジェリークの部屋は、なにか居心地がよくて落ちつくので、時間ができると、つい、足が向いてしまうのだった。
自分が好きと知って、アンジェリークが手ずからいれてくれるカプチーノも美味かったので、
『一人でカフェテラスに行くよりは、お嬢ちゃんの小鳥の囀るような声を聞きながらの息抜きのほうが楽しいからな』
くらいの気持ちで、オスカーはアンジェリークの部屋を訪ねているのだと自分では思っていた。
そして、オスカーはしらずしらずのうちに、いろいろなことをアンジェリークに話していた。
趣味や、好き嫌いというありきたりな話題から、自分の持っている剣のこと、自分の生まれた故郷の事や、守護聖になる前の事など
自分の深い部分に沈殿していることも、いつのまにか、自然にアンジェリークに告げていたりした。
自分でも忘れていた遠い昔の事を思い出して、懐かしい気持ちになったりもした。
なんとなくアンジェリークには自分と言う人間を知ってもらいたいような気に、オスカーはさせられた。
アンジェリークが醜聞的な興味ではなく、オスカーのことをもっとしりたい、と思っていることが感じられたからかもしれない。
真剣に話を聞く様子や、タイミングのいい相槌、話の内容を理解した上での、的を得た問い返しなどで、
人が自分を理解しようとしているのか、ただの好奇心を満たすためにいろいろ聞いてくるのかは、なんとなくわかるものだ。
好奇心をむきだしにして、無理にいろいろ聞き出そうとされていたら、オスカーは適当に返答をはぐらかしたことだろう。
人の内面にずかずかと踏みこんでくるなどということは、アンジェリークにとって最も遠い所に存在する行為のようだ。
そんなことをしたがる心理を想像すらできないかもしれない。人は自分にない感情は理解できないものだから。
ただ、純粋にアンジェリークはオスカーのことを理解したいとおもってくれているようだった。
自分のことを、知りたい、わかりたいという人がいてくれることは、心が満たされることだ。
オスカーとて例外ではない。
今まで、そう言う人間付き合いとはとんと無縁だった。
外界で一夜の享楽に付き合う相手には、そんなことを言う必要もないし、わかってもらおうと思ったこともない。
だから、アンジェリークが自分という人間を知ろうとしてくれることが余計に嬉しかったのかもしれない。
オスカー自身ははっきりと、そんな自分の気持ちを自覚していたわけではなかったが
もう週末も外界に抜け出す事もなく、俗に言う悪所通いもぴたりと収まっていた。
そういった場所にまったくいきたいとおもわなくなってしまった自分がオスカーは不可解だった。
ネオンに照らされ、アルコールと脂粉と香水の香りに包まれてすごす週末よりも
日の光を浴びて、木々の緑の香りや、水の香り、花の香りに包まれて過ごす週末が待ち遠しかった。
アンジェリークと一緒に過ごすことが、自分の心に豊かな何かをもたらしてくれているから、
表層だけの享楽は不要になったのだということが、このときのオスカーはまだわかっていなかった。
ある日オスカーは、公園の一角に咲く花に囲まれて、自らも花のように微笑んでいたアンジェリークの姿を思い出し、
森の湖の奥にひっそりと咲く花園にアンジェリークを連れていった。
あの花の群れを見て、瞳を輝かすアンジェリークの姿を想像すると、心が浮き立った。
アンジェリークは最初
「え?そっちは立ち入り禁止じゃ・・」
と躊躇っていたが、オスカーが
「大丈夫だお嬢ちゃん、こっちにおいで」
というと、素直にオスカーに付き従ってきた。
オスカーが花園に連れてくると、アンジェリークは瞬間棒立ちになって、零れそうに瞳を見開いた。
視界を埋め尽くす一面の花、花、花、に声も出ないようだった。
一瞬の後「うわぁっ!すごい!」と感嘆の声を発した。
その反応がまた予想通りで、オスカーは嬉しくなってしまう。
だが、「ここには、一人で来ないと約束してくれ、お嬢ちゃん」と、アンジェリークにくぎをさすのも忘れなかった。
この場所は地磁気に異常があるのか、普通の人間は方向感覚を失って出口がわからなくなる心配があり、そのため立ち入り禁止になっていた。
だからこそ、花々は誰にも踏み荒らされる事なくそれぞれの美しさを競い合う様に咲き誇っていられるのだが。
しかし、どんな花よりも愛らしく輝いているのはアンジェリークの姿だった。
色取り取りの花々にかこまれ、陽の光を浴びて無邪気に喜ぶ彼女自身が可憐な花のようだった。
なるべく花を踏みしだかない様に、注意して歩を進めている姿も彼女らしい。
花を踏むのを厭うていやがるだろうが、花園の真中に座らせたら、花の精そのもののように見えるだろう。
そのまま花の褥に横たえたら、眠りから覚めるのを待つ春の妖精だろうか。いったいなにが妖精を目覚めさせるのだろう。
オスカーはその姿を想像し、慌ててその考えを打ち消した。彼女はまだまだ子供だ。褥に横たわるような姿は似つかわしくなく思えた。
なにかに急き立てられるように、オスカーはアンジェリークに帰途を促した。
アンジェリークが花園に横たわる姿が脳裏に浮かんでしまい、なんだか落ちつかなくなってしまったのだ。
それでも、アンジェリークはかなり嬉しかったようで、律儀に礼状をよこした。
『ほんとに、いつも、あのお嬢ちゃんはかわいい事をする・・』
オスカーは、アンジェリークの喜んでいた顔が脳裏に浮かび、今度はどこに連れて行ってやろうかと、考えた。
オスカーは、今やアンジェリークを慰めるためにというよりは、いや、もちろんそれもあるのだが、
自分がアンジェリークの喜ぶ顔がみたくて、アンジェリークを誘っていることを自覚せざるを得なかった。
二人の女王候補は育成にいそしみ、守護聖たちと親交を深め、女王試験は滞りなく順調にすすみ、早数ヶ月が経過していた。
大陸の育成は、半ばまで達するかどうかで、今の時点では二人のうちどちらが女王になるかはまだわからない。
ロザリアとは抜きつ抜かれつといったところで、アンジェリークのがんばりに、ロザリアもアンジェリークの事を
競いがいのある好敵手と認めてくれるようになり、今では、友人であり、ライバルと言った関係になっている。
守護聖たちと過ごす時間も増えて、守護聖たちのそれぞれの人となりもよくわかってきて、アンジェリークには
その誰もが、みな等しく大切におもえるようになっていた。
最初は怖いと思ったジュリアスも、その厳しさは自分のことを思う優しさだとわかり、努力をきちんと評価してくれたうえで
その結果見せてくれる笑顔は、とても暖かくまぶしいものだと知った。
無口で近寄りがたいと思っていたクラヴィスは、その静かな胸に溢れるような情を秘めている人だとわかってきた。
逆に優しい印象のリュミエールは芯はとても強く、自分の信念は譲らない人に思え、
ぶっきらぼうなゼフェルは不器用で感情の表現がうまくできないだけで、とても純粋なのだとか
好き勝手にやっているように見えるオリヴィエは、実は周りにかなり気を使っているのだとか、
いろいろな事が見えてくるにつれ、アンジェリークはますます守護聖のみんなが好きになっていった。
みんなが大切、みんなが好きと思った気持ちの根幹に、
アンジェリークは守護聖たちが多かれ少なかれ抱える寂しさとか、悲しさに気付いたからということがあった。
今は試験期間中だから、外界と聖地の時間は同じ速さで流れていると聞いたが、
一度聖地に召還されたら、それは、自分の属する世界との今生の別れを意味するのだということが
大陸の育成を進めるうちに、アンジェリークにも、ただの知識ではなくようやく実感としてわかってきたのだ。
試験開始当初、育成はただ、ものを生み出すだけでよかった。だが、大陸の民は恐ろしいほどの早さで育ち、年をとっていく。
自分にとってはたかだか数ヶ月で人間の一生が終わる時間が過ぎ去って行きそうだ。
その過酷なまでの時間の流れを見ることは、個人的なつながりを持たない大陸の民の様子でさえ、空恐ろしい気がするのに、
この時間が、自分の知っている人の上に流れていくのを見るのは、どんなに恐ろしい事だろうと気付いたのだ。
自分はほとんど年をとらないのに、外界では、自分の親しい人たちが、恐ろしい早さで年をとり、いつのまにか姿を消す。
自分にとって僅かな時間のうちに、自分の事を知る人も、自分が知っている人も誰一人として存在しなくなってしまうのだ。
その過程を直視する勇気が自分にあるだろうか。
それくらいなら、まだ、知らぬうちに百年単位で時間が過ぎ去ってから、諦念をもって事実を受け入れる方が楽かもしれない。
そして、今、ここにいる守護聖たちは、皆そのような思いを味わってきた人たちなのだ。
この飛空都市は、聖地のレプリカのように作られていると聞いた。
ここに来た当初、この地は清浄な空気に満ち、景色はどこも美しく、いつも清冽な明るい光に溢れて、これほど輝かしい場所はないと思った。
でも、今、この地にひっそりと流れる悲しさにアンジェリークは気付いてしまっている。
この場所が、明るければ明るいほど、美しければ美しいほど、アンジェリークには、却って悲しさが感じられる。
これほど美しく明るい場所に作らなければ、この地に秘められた悲しみを覆い隠せないのかもしれないと、思ってしまう。
そして、守護聖たちは皆、それぞれのやり方で、この悲しみと添い伏しているようだった。
ある人は、自分の使命感に誇りを見出すことで、ある人は自分の興味の対象に没頭して好きなものを極め様とすることで、
ある人は、やりきれない感情を時折あからさまに爆発させることで。
みんな、えらいと思った。立派だと思った。決して他の人には理解できないだろう悲しみを抱えて、それでも、生きているみんなが。
おこがましいようだが、そんな守護聖たちが、愛しかった。みんなのことが大好きだと思った。
このとき、アンジェリークは、自分も聖地に残りたいと初めて切望した。
女王になりたいというのとは、少し違う。補佐官でも女王でもどんな形でもいいから、守護聖たちと離れたくないと思った。
それは、もちろん、聖地に残れば、自分を待っているのは、守護聖と同じように、世界に取り残される寂しい生き方しかないとわかっていたが、
守護聖たちがこんな悲しみを抱えて生きているのを知って、きっとやりきれない切なさに耐えながら、それでも世界を支えてくれているのを知って
自分だけ元いた世界に戻り、なにも知らなかったように安穏と生きて行く事はもうできないと、アンジェリークは思った。
あんな人たちを知ってしまったら、もう忘れる事なんて絶対できないだろうと思った。
自分もその悲しさを知ってしまった以上、自分に何ができるかはわからなかったが、少しでも守護聖たちを助けたいと思ったし、
同じ立場にたって、彼らの悲しみを同じように理解し、わかちあいたかった。
こんなことを思う事自体が、世界のすべてを慈しみたいと思う女王のサクリアの現れだったのかもしれないが、アンジェリークには
このとき、自分を奥底から突き動かす衝動がなにに由来しているのかの自覚はなかった。
ただ、守護聖たちと離れたくない。そのために聖地に留まりたいと思っていた。
『ロザリアが女王になったら、ぜひ補佐官にしてもらおう。一緒にいてロザリアの寂しさを少しでも和らげてあげたいし。
でもロザリアが嫌と言ったらどうしよう。それなら、自分が女王になってしまったほうがいいのかな。なれるかどうかまだわからないけど。
そうしたら、ロザリアは補佐官になってくれるかな。無理強いはできないけど、私と一緒にいてくれてら嬉しいな。』
そんなことを漠然とかんがえていたが、とにかくアンジェリークの心の根本にあったのは
守護聖の皆様が好き、皆様と一緒にいたい、その気持ちだけだった。
そして、守護聖の中でも、アンジェリークは、優しいオスカーのことはやはりかなり好きなほうだった。
育成を始めたばかりの頃、守護聖とまだ親しくないときは、あからさまに冷たくあしらう人もいた中でオスカーは最初からやさしかった。
それは、誰にでも向けられる優しさだとわかったが、それでも心細い思いでいたアンジェリークは嬉しかった。
そのうち、自分の事を気にかけてくれて、しばしば、顔を見せてくれるようになって、もっと嬉しくなった。
でも、オスカーは、自分の優しさを表に出したり、他人に悟られるのを厭うているようだった。
それがなぜかは、アンジェリークにはよくわからなかった。
『強さを司る方だから、優しいと思われたくないのかな』
実際、オスカーの優しさは、さりげなくて、周りから見てわかりやすいものではないようだった。
いつもからかうような口調で他人に接したり、自信満々な様子で振舞ったりするのだが
実は、それは優しさを相手に重荷に感じさせないための方便であるような気がアンジェリークにはするのだが、確信はなかった。
でもアンジェリークは、オスカーは守護聖の持つ悲しみを、優しさに変えて昇華しているような気がした。
辛い思いを知っているからこそ、他人にやさしくできる、そんな人に思えた。
そんなところが、アンジェリークにオスカーをとても大人と思わせた。
オスカーはアンジェリークに優しくしてくれるばかりなので、それがなんだか申し訳なくて、
アンジェリークはちょっとでも感謝の気持ちを伝えたくて親切にされたときには、できる限りの謝意を伝えていた。
自分にできる事と言ったら、それくらいしか思いつかなくて、そんなところも自分が子供に思えた。
そしてアンジェリークは、確かに優しいオスカーのことが好きだったが、それは守護聖の皆さんが好きという気持ちと質的には同じで
その量が、他の守護聖にくらべて、ちょっと多いだけだと自分では思っていた。
ある週の日の曜日にアンジェリークはオスカーの執務室を訪れ
「オスカー様、あの、これ、受け取ってくださいますか?いつも、素敵な場所に連れて行って下さるお礼です」
とオスカーになにか差し出した。
包みをあけてみると美しい彫金の飾り柄のついた短剣だった。
「・・こりゃあ、驚いた。嬉しい贈り物だな。まさに俺好みってやつだ。ありがたく受け取らせてもらう」
「・・あの、ほんとうは、短剣を贈っていいものかどうか、ちょっと迷ったんです。刃物を贈るのって、その方との縁を立ち切ってしまう
って言い伝えがあって。そんなのは嫌だったんですけど、でも、オスカー様のお好きそうなものをやっぱりさしあげたくって・・」
縁を立ちきりたくないなどと、さりげなく大胆な意思表示をしていることに、アンジェリークは気付いていないのだろうか。
それでも、生真面目なアンジェリークはきっといっぱい悩んで真剣にこれを選んでくれたのだろうと思うと
オスカーはアンジェリークの心情が心からうれしかったし、その悩みをなんとかしてやりたかった。
「じゃ、刃物をプレゼントしてもその人と縁を切らないためにはどうすればいいんだ?お嬢ちゃん」
「形だけ、僅かなお金でその方に買っていただくというふうにすればいいらしいです。でも、ここにはお金ってあるんですか?」
「俺も、お嬢ちゃんの気持ちを、例えあったとしても金銭には換算したくないな。要は、ただで受け取らなければいいってことだろう?
ただ、今は替わりにあげられるものは用意してないから・・ああ、そうだ、お嬢ちゃん、ちょっとこっちにおいで」
「あ、はい、オスカー様」
素直にそばにやってきたアンジェリークの手を軽くとると、オスカーはその手の甲に恭しく口付けた。
「!!!・・・オ、オスカー様っ!」
思いがけないオスカーの行動にアンジェリークは、耳まで真っ赤になって、立ち竦んでしまった。
オスカーはなんでもないといった風情でアンジェリークの顔を覗きこんだ。
「お返しは、俺が貴婦人だけに捧げるキスだ。どうだ?値千金だろう?」
オスカーはまだアンジェリークの白い指を支えるように自分の手を沿えていたが、名残惜しそうにその手を離した。
オスカーの手が離れる瞬間、アンジェリークはオスカーに自分の指をそっと撫でられたような気がして、
一瞬腰から力が抜けて、自分がその場に崩れ落ちるかと思ってしまった。
渾身の精神力でなんとかそれは免れたものの、アンジェリークは一言も言葉を発することができずに、自分の胸の前で
オスカーのキスを受けた手をもう片方の手で握りしめたまま、ただ、立っていた。立っているのがやっとだった。
オスカーはそんな自分の様子をおもしろそうに見ている。
「お嬢ちゃんには、まだ、レディとしての扱いは早かったか?ふ・・なら、来週また来るといい。
お嬢ちゃんにお似合いのお返しを用意しておこう。さ、今日はどこに行くんだ?」
「・・オ、オスカー様のお好きなところで・・」
アンジェリークはこれだけの言葉をやっとのことで、絞り出した。
「じゃ、森の湖にでもいくか」
そう言葉をかけても、まだアンジェリークが動く様子のないのを見て、オスカーはアンジェリークの肩を抱いて、執務室を出た。
少々からかいすぎたかと、ちょっと反省したオスカーだったが、アンジェリークの予想以上に劇的な反応に
ついつい笑みが零れてしまう。これだから、アンジェリークと付き合うのは辞められないのだ。
まだ、心ここにあらずといったアンジェリークは自分がオスカーに肩を抱かれている事も気付いていない様だ。
『短剣も嬉しかったが、このほうが役得だな』
アンジェリークの甘い髪のにおいに鼻腔をくすぐられながら、オスカーは湖につくまでずっとアンジェリークの肩を抱いていた。
オスカーに肩を抱かれていることにも気付かず、アンジェリークは、ぼうっと考え事をしながら、ただオスカーに促されるままに歩いていた。
どうして、自分はオスカーの前だと、木偶の坊のようにつまらない反応しか返せないのだろう。
いつも優しくしてくれるオスカーになんとか、感謝の気持ちを伝えたくて、オスカーの好きそうなものを一生懸命考えた。
オスカーが自分からのプレゼントを受け取ってくれたのは嬉しかったが、
おもっても見なかったお返しをされて、ただ、ばかのように突っ立っていることしかできなかった自分が
アンジェリークはとても悲しくて、情けなかった。
もっと、気の利いた受け答えができれば、それは無理でも、せめてきちんと落ちついて振舞えれば・・・
オスカーが言った通り、自分はレディとして扱われるだけの準備も心構えもできてない。
だから、オスカーにお嬢ちゃん扱いされても、それは仕方のない事だとおもっていた。
ただ、今日までそれを悲しい事だとはあまりおもったことがなかった。
オスカーはいつも、とても優しく親しみを込めて、自分をお嬢ちゃんと呼んでくれていたし、
ロザリアのように、半人前扱いされる事をあからさまに憤る気持ちもおこらなかった。
アンジェリークから見たオスカーはとても大人におもえた。子供扱いされても仕方ないと思えるほど大人に見えた。
ただ、自分より年が上だからということではなく、気持ちのあり様が、大人だとおもった。
守護聖という人たちが多分必ず抱えている寂しさを、人に対する優しさに変える事のできるオスカーのその気持ちのあり様が・・
でも今日は、そのオスカーと自分を隔てている大人と子供の差に心底悲しくなってしまった。
そんなことをかんがえているうちに、いつのまにか、湖についていたようだ。
今日は湖に自分たち以外に人はきていないようだった。
いつも湖では、オスカーもアンジェリークもあまり言葉はかわさない。
でも、今日はいつにも増して、アンジェリークは言葉を発する事ができなかった。
オスカーのキス、しかもただ、手の甲にされただけのキスに、無様にうろたえてしまった自分は、オスカーに
なにを話せばいいのか、考えれば考えるほど、途方にくれた。
今更、ありがとうでもないし、怒るのは論外だ。泣くのはオスカーを困らせるだけだし、笑ったらばかみたいだ。
情けないが、アンジェリークは、あの時も、そして今もどうすればいいのかやはりわからなかった。
たとえ、背伸びをして無理に淑女らしくふるまっても、そんな付け焼刃はすぐオスカーにみやぶられてしまうだろうし、
オスカーはそういった偽りを嫌うような気がアンジェリークはした。
オスカーはあきれてしまうか、自分にがっかりするかもしれない。
それはとても辛かったが、やはりアンジェリークは自分が途方にくれてしまったことを正直に謝らなければと思った。
表情を強張らせて、真剣に何か考えこんでいる様子のアンジェリークの横顔をみながら、
オスカーはこれはこれで、困ってしまっていた。
アンジェリークがなにも言わないのをいいことに、その細い肩をなんとなく手放しがたくて、ずっと抱いたままだった。
オスカーに肩を抱かれているのが嫌なのだが、はっきり嫌と言えなくて困っているのだろうか。
それだと、ちょっと寂しいがな、と思いながら、これでは埒があかないと思ったオスカーはアンジェリークに声をかけた。
「お嬢ちゃん、なにをそんなに考えこんでいるんだ?よかったら、俺に話してくれないか?
俺と一緒にいるのに、お嬢ちゃんが俺以外のことを考えるのが、俺にはおもしろくないんでな」
わざと、こんなことをいって、アンジェリークの考え事を話させようとした。
こういうふうにいえば、心優しいアンジェリークは自分を不快にさせまいと、絶対話してくれるはずだから。
「・・オスカー様、私、オスカーさまに・・・」
ほんとうに困ったような顔でアンジェリークがオスカーを見上げた。
『まずい、やはり肩を抱いたのがいけなかったのか。これほどいやがるとは思っても見なかった・・』
あわてたオスカーに、アンジェリークが機先を制した形でオスカーにあやまった。
「オスカー様、ごめんなさい。わたし、せっかくオスカー様がレディとしてあつかってくださろうとしたのに、どうしていいか
わからなくなっちゃって、こんなに子供で、オスカー様のご厚意にきちんとお答えできなくてごめんなさい」
オスカーは一瞬アンジェリークがなにをいっているのかわからなかくて、ぽかんとした。
アンジェリークの言葉が、オスカーの頭の中で実像を結ぶと、オスカーは悪いとおもいつつ、ぷっと吹出してしまった。
アンジェリークが、オスカーの振る舞いに洗練された対応などとれなくて当たり前だ。
そんなことはわかっていて、わざと、アンジェリークにキスをしたのだ。
オスカーが期待していたのは、わかったふりで、大人っぽく振舞うアンジェリークではない。
まさに、期待通りの、いや予想以上に初心で無垢な反応で答えてくれたのだから、これ以上の返答はなかったというのに。
でも、レディとしてはまだまだ扱えないといった自分の言葉にオスカーの期待を裏切ってしまったと、アンジェリークは真剣に悩んでしまったのだろう。
多分、ありったけの勇気をふりしぼり、考えに考えたうえでの謝罪の言葉だったのだろう。
それなのに、自分は、そのアンジェリークの真剣な言葉に吹出してしまった。
そして、オスカーがこらえきれず笑ったことに、アンジェリークはかなり傷ついたようだった。
こんなにうちひしがれたアンジェリークを見るのは初めてだった。
泣きそうな顔をして、でも必死で涙をこらえているのがよくわかる。
育成がうまくいってないときでも、こんな顔をしたことはなかったのに。
オスカーは、このとき、心からアンジェリークに悪いことをしたと思った。
いくら、反応がかわいいからといって、悪戯が過ぎたと思った。
「すまなかった、お嬢ちゃんが、あまりにかわいいことをいうもんだから、つい、我慢できなくて・・」
だめだ、これじゃ、フォローになってない。オスカーが、ああいったお子様な反応こそ待っていたなんて知ったら
アンジェリークは更に傷つくか、からかわれたことを知って、激怒するかもしれない。
ありったけの精神力で、真剣かつこれ以上はないというくらい優しい表情をつくる、つくったつもりだった。
「お嬢ちゃん、俺はお嬢ちゃんがレディじゃないと言った訳じゃない。お嬢ちゃんは今レディへの階段を上っているところだと
いいたかっただけなんだ。お嬢ちゃんはまだ、17才だろう?今レディとして振舞えなくても、心を痛めることはない。
これから、いろいろなことを勉強して、自分を磨く努力を怠らなければきっと飛びきりのレディになる。この俺も夢中にさせるくらいのな。
2、3年後が楽しみだ。お嬢ちゃんはいうなれば、そう・・真珠貝の中で眠るパールプリンセスなんだ。
素敵なもの、すばらしいことをどんどん身にまとっていって、少しづつ自分を輝かせる準備をしている、小さな真珠なんだ。
それは、まだ、小さくて輝きも微かかもしれないが、お嬢ちゃんの輝きは本物だ。絶対誰もが眼を見張るようなすばらしい真珠になれる
俺が保証する。だから、何もきにしなくていい。そんな悲しそうな顔をするな。」
よし!我ながら、うまい例えだ!さすがだぞ、オスカー!と、オスカーは自画自賛する。
その一方、今自分の口から出た言葉が全く本心であることに今更ながら気付き、自分でも驚いた。
そうだ、彼女は確かに原石だ。ただ、彼女を慰める為に口からでまかせを言っているんじゃない。俺は心の底からそう思っているんだ。
アンジェリークの愁眉が少し晴れたようだ。 それでもまだ心配そうに、
「オスカーさま、私のこと、あきれちゃったんじゃないんですか?どうしようもない、つまんない女の子だって思ったんじゃないですか?」
そんなこと、考えたこともなかった。いつもいつも、アンジェリークはオスカーを楽しませ、心を晴れやかにしてくれる。
アンジェリークの純粋さ、容姿だけではない、内面から滲み出るその愛らしさは、いつもオスカーの心をきれいなもので満たしてくれるようだった。
「そんなこと考えたこともなかったぜ。言っただろう?お嬢ちゃんは、小さな真珠なんだ。だが、小さくてもその輝きは本物だ。
そして、いつか、誰かがその貝殻を明けてくれるのを夢見ながら、待っているところなんだ。
だから、その日まで、自分を豊かにきれいに磨いておいてくれよ?
願わくば、その役目が俺であることを祈ってるぜ。」
オスカーのその言葉を聞いて、アンジェリークの瞳から、大粒の涙がぽろぽろと零れ落ちた。
だが、アンジェリークの顔は悲しみに曇ってはいない。むしろ表情は晴れやかだ。
「あ、あれ、なんで?・・」
「ど、どうした、おじょうちゃん!」
やはり、傷つけてしまったのか?オスカーは慌てふためいた。
「オスカー様にあきれられたんじゃないって、嫌われたんじゃないってわかったら、なんだかほっとしちゃって・・。そしたら、涙がでちゃって
「悲しいとか、辛いとか、俺のことを酷いと思って泣いているんじゃないんだな?!」
慌てたオスカーは畳み掛ける様にアンジェリークに尋ねる。
「違います!違います・・オスカー様・・嬉しいのに、ほっとしたのに、涙が止まらないんです・・」
オスカーがアンジェリークのこの言葉に真っ先に思ったことは『まずい・・』ということだった。
酷いといって泣かれたほうがよかったかもしれないとさえ、思った。
アンジェリークが、自分に嫌われたと思って悩み、そうでないとわかって、嬉しいと言って涙を流している。
晴れやかな表情で、それこそ真珠の様に美しい涙を流している。
その涙にオスカーはみぞおちのあたりを思いきり掴まれたような、重い衝撃を感じていた。
なにか、自分の根源にあるものが、アンジェリークの涙に奪い取られたような気がした。
その涙を唇ですいとってやりたい衝動に駆られ、オスカーは渾身の力でそれを踏みとどまると大きな掌でアンジェリークの頬を包み
やさしく微笑みかけながら、細く長い指で涙をぬぐってやった。
「・・そんなに泣くな、おじょうちゃん・・」
「はい・・やだ、どうしよう・・とまんない・・」
オスカーに優しく涙をぬぐわれたことで、さらに歯止めがきかなくなってしまったらしく、後から後から涙が溢れてくる。
ただしずかに、こんこんと、アンジェリークの双眸から涙が溢れてくる。
オスカーは、アンジェリークの肩をきつく抱きしめた。アンジェリークの涙が止まるまで、ただ肩を抱いていた。
かわいくて、いとしくて、たまらなかった。
本当は胸にかき抱いてしまいたかったが、肩を抱くだけでこらえた。
肩をだきながら、オスカーは、自分の言った言葉を反芻していた。
アンジェリークは今はまだ貝の中で眠る真珠だ。貝殻をひらきその眠りを覚ますのは誰だ?その真珠を手に入れるのは誰だ?
2、3年したら・・オスカーは自分でそう言ったのだ。そのとき、アンジェリークはどこにいるのだろう。
自分は聖地にまだいるだろうか?そして、アンジェリークは?
そう、あと2、3年もしたら、その間、彼女がこの純粋さや、何もかも吸収しようとする向上心を失うことなく、自分を磨いていけば・・
金の髪はもっと艶々しく輝き、澄んだ翠の瞳に思慮深さと知性が煌き、体はふっくらと丸みを帯びて成熟した豊かさを感じさせるようになるだろう。
大粒の真珠となり、誰をも魅了する存在になった彼女を俺は見ることができるのか?
貝殻を明けるのが自分であることを祈っている・・ただのリップサービスと思った言葉は、自分の本心か?
『・・だめだ・・俺は・・捕らわれては・・だめなのに・・』
そう思いながら、細い肩を抱く手を離せないのは、オスカーの方だった。