アンジェリークは、自分の肩に置かれているオスカーの手を強く意識していた。
優しくされると、もっと涙が出そうだったので、ただ、黙って自分の肩を抱いてくれているオスカーの気持ちが嬉しかった。
その腕の温かさ、力強さにようやく波だった心が落ちついてきた。
オスカーにもそれがわかったのであろう。
「・・・送ろう」
オスカーはアンジェリークの肩を抱いたまま、黙って帰途についた。
寮までの道すがら、二人は何も話さなかった。ただ、オスカーは部屋につくまでずっとアンジェリークの肩を抱いていた。
オスカーの手の触れた部分が、熱かった。
この手の熱さがなかったら、アンジェリークはまた、オスカーに見捨てられたような気になって、不安に苛まれたかもしれない。
でも自分の肩を抱いた手から、オスカーの暖かい気持ちが伝わってくるかのようだった。
部屋までアンジェリークを送り届け、オスカーは何事もなかったかのように、
「今夜はゆっくりやすむといい。またな。おじょうちゃん」
と言って、帰っていった。
なぜ泣いたのかを詰問するようなこともせず、その上、『またな』と言って帰ってくれたオスカーの気遣いが胸に染みた。
例えオスカーに問い詰められても、うまく説明できずに、また途方にくれてしまっただろう。
アンジェリークは自分でも、なぜあんなに涙がでたのか、わからなかった。
オスカーにあきれられたと思ったときのほうが、辛かったのに、でもそのときは涙を我慢できた。
オスカーに優しくされて、安心したら、逆に堰を切ったように胸の奥から感情が迸って、それがそのまま涙になって止まらなくなってしまった。
この感情はなんなのだろう。こんな、胸が熱くて締付けられる様に苦しくて、でも、甘く痺れるようなこの気持ちは。
気持ちは高ぶったままで、床についても眠りはなかなか訪れてくれなかった。
そのせいで、翌朝、アンジェリークは少し寝過ごした。起きるとオスカーから手紙が来ていた。
オスカーから来た手紙と知って、アンジェリークは胸をどきどきさせて封を開けた。
昨日自分がプレゼントした短剣に対する簡素な礼状だった。
「お嬢ちゃんの心と一緒にありがたく受け取っておく」とだけ書かれた・・・
これを読んで、アンジェリークの胸はまた締付けらたように苦しくなった。
短剣のことしか書いていない文面が、昨日のことにあえて触れないことがオスカーの優しさだと思った。
心を受けとったのは、自分のほうだ、オスカーの暖かい心を・・
オスカーの一見なんの変哲もない素っ気無いほどの手紙をアンジェリークは自分の胸に大事そうに押し当てた。
眠れない思いを抱いたのはオスカーも同様だった。
私邸に帰り熱いシャワーを浴び、ローブを羽織ったものの、そのまま休む気にもなれず、自分の私室でブランデーの封を切った。
安楽椅子に体を沈みこませ、琥珀色の芳醇な液体を掌で暖める様に燻らせると、濃厚な甘い香りがたちのぼる。
口をつけるでもなく、グラスの中で揺れている液体に目を落とす。オスカーの心に浮かぶのはアンジェリークのことばかりだ。
彼女は女王候補だ。
女王になるために、懸命に試験に励んでいる。俺はそんな彼女がいじらしくて、慰めてやりたかっただけだ。
それは、確かにかわいいと思った。でもそれは、いうならば、愛玩動物をかわいいと思うようなものだと、自分では思っていた。
そう、それだけだ。決してそれ以上の気持ちではないはずだった。
いつか女王になるかもしれない、聖殿の奥深くに住まい、めったに人前に姿を見せない厳かな存在に。
もし女王にならなくても外界に帰ってしまうかもしれない、そんな女王候補に
必要以上にいれこんで、どうするつもりだ?どうにもなりはしない。
オスカーの脳裏を、クラヴィスのことがふとよぎった。
クラヴィスがただ生きているだけといった風情で無為無気力に日々をやり過ごしているのは現女王との確執が原因であると聞き及んだことがある。
確執といっていいのかどうかわからないが、感情のもつれがあったことは確からしい。
どの程度かは定かではないが、どうやら二人は互いに惹かれあっていたらしい。
だが、結局女王が即位したことで二人の仲はそれ以上のものにはならず、クラヴィスは女王の即位を裏切と受け取り手酷い心の傷を負ったのだと。
女王はめったに聖殿から外に出てこない。クラヴィスも自分の執務室や私邸から外にでたのをオスカーはほとんど見かけたことがない。
一度こじれ、絡んでしまった情念の結び目のその固さに、オスカーは却ってこの二人の間にあった思いの深さ、激しさを感じずにはいられない。
そして今また、おそらく一方ならぬ情熱を注いだのであろう存在が、自らの意思ではどうすることもできないサクリアの衰えに
自分の前から姿を消そうとしていることを手をこまねいてみていることしかできないクラヴィス。
彼の胸中を去来する感慨はいったいどんなものだろう。オスカーには想像もつかない。
現女王が女王に即位した時点で、どちらが先になるかはわからないが、この避け様の無い別れを予感していたから
二人は、同じ聖地に住まう身でも、同じ時間上を生きていても、互いに互いの視界から身を隠すように過ごしてきたのだろうか。
ただ、互いの姿を目にするのがつらかったからと言うだけでなく・・
『・・これ以上はだめだ・・』
なにがだめなのか、オスカーはわかっていたが、わからない振りをした。
自分の心を占めつつある存在に気付かないふりをしなければと自分に言い聞かせた。
クラヴィスと同じ轍を踏むことはできない。
もし、この思いを突き詰めて、それを彼女にぶつけたとして、彼女が女王位を選んだら、自分は平静な態度で彼女に接する事ができるだろうか。
顔を合わせることが辛くても、女王も守護聖も聖地から逃げだすことはできないのに。
彼女自身もオスカーの思いに答えないことを負い目に思って、今の女王の様に聖殿の奥深く引きこもってしまったりしないだろうか。
それに、彼女が女王位につくことを選んだら、結局はつらい別れしか有り得ない。
そんな行きばのない思いを育てていったいどうなるというのだ。
オスカーは、グラスの中の液体を一気に煽った。焼けつくような胸の熱さは、強いアルコールの所為にした。
翌週、アンジェリークはオスカーの執務室を訪ねてこなかった。
アンジェリークはオスカーに涙を見られてきまずいのだろうか。
アンジェリークの訪問がないことは、それは寂しかったが、オスカーは心のどこかで安堵もしていた。
そして、オスカーも自分の執務室に閉じ込もりアンジェリークの部屋に行こうとしなかった。
『これ以上会ったら、俺は、多分、引き返せなくなる・・』
だから、寂しかったがこれでいいと、思っていた。
このとき、アンジェリークが他の守護聖と仲睦まじく過ごしている様子でもオスカーが見かけていたら、寂寥感だけではすまず、
オスカーはもっと身を焦がすような焦燥感を味わっていたかもしれない。
だが、オスカーはたまった執務の処理に没頭することを名目に、執務室から外にでようとしなかったので、
他の守護聖がアンジェリークと一緒にいる姿を見かけずにすんだ。
だから、まだ余裕があったのだ。アンジェリークと会わずにいても、そんなに辛くはない。これなら大丈夫かもしれないと。
オスカーは意識はしていなかったが、余裕はあって当然だった。
自分にとってつらい事実を目にしなくてすむよう自分から外出を控えていたのだから。
しかし、そう思った矢先、アンジェリークから手紙が来た。休みの日に会いたいと・・
そうだ、先週、短剣のお返しをやるから、また来いと約束してしまっていた。
もちろんそれだけが目当てではあるまいが、おかげで断ることができない・・
オスカーは、仕方ないなと思い、待っていると返事を出した。
自分では、本当に仕方なくだと思っていた。もう会わないでいようと思ったのに、約束してしまっていたのだから、仕方ないと・・
でも、アンジェリークのほうから、自分に会いたいと言ってきてくれたその事実に、恐ろしいほどに心は浮き足だっていた。
ただ嬉しいのではなく、どこか、なにか、恐いような気持ちも一方であり、オスカーはそわそわと落ちつかなかった。
そして、オスカーは、例え約束が無くても、アンジェリークからの誘いを自分が断ることが出来たかどうかという自問には眼をつぶった。
アンジェリークが日の曜日にオスカーの執務室にやってきた。
「オスカー様、こんにちは」
「よう、お嬢ちゃん、今日も元気みたいだな」
オスカーは、約束していたプレゼントだけ渡すつもりだった。
それで、義理は済むから、その後は適当に理由をつけて今日の誘いを断るつもりだった。
オスカーが、「お嬢ちゃんに・・」と話しかけた途端、アンジェリークがすごい勢いでオスカーの言葉をさえぎった。
普段、そんなことをする子じゃないのに、それだけ余裕が無いというか、無我夢中の様だった。
「オスカー様、この前は、ううん、いつもいつもやさしくしてくださってありがとうございます!私、オスカー様にお礼を申し上げたくて
いつも、オスカー様にとっても親切にしていただいてるので、私も、自分にできることで、なにかお礼がしたくって・・
お口に合わないかもしれませんけど、どうか、受けとってください!」
差し出されたものは、手作りのクッキーだった。
形は不ぞろいだが、セロファンに包まれピンクのカールリボンでかわいらしくラッピングされている。
執務室には不似合いな蜂蜜の甘い香りが漂う。
オスカーは、面食らっていた。アンジェリークが、また自分にプレゼントを差し出すとは予想外の出来事だった。
アンジェリークは、必死の面持ちですがる様に自分を見つめている。受けとってもらえるかどうか、判決をまっているような気分なのだろう。
多分手作りにこだわったのは、自分が優しくしてやったから(少なくともアンジェリークはそう思っているらしい)
彼女も自分の労力を使ったお返しじゃないとお礼の価値というか、意味が無いと、彼女なりに一生懸命考えた結果なのだろう。
相手の好みのものだったとしても、ただ買ったものでは、自分の気が済まなかったのだろう。
ただ、手作りのものというのは、送る側は相手への情念が込めやすい一方、相手との距離がかなり縮まっていないと、
受け取る方には重荷だったり、極端な場合、薄気味悪がれることもある。
だから、アンジェリークも自分の贈り物がひとりよがりでなかったかどうか、不安そうなのだろう。
オスカーとアンジェリークの距離は相当縮まっている。オスカーなぞ、意識して距離を保とうと感情を制御せざるをえないほどに。
オスカーは、それでもアンジェリークが手作りでも後に残らないものを選んだことに少しおどろいていた。
手作りで自分の思いを表しながらも、消えるものだから、その思いは相手に負担になりにくい。
自分に近寄ってくる。だが、決して不快に思うほど踏みこんでこない。さりげなく一歩引いて、でも自分に近づきたいということは意思表示する。
おそらく無作為であろうが、オスカーは、アンジェリークのこの対人関係の距離の測り方というか、バランス感覚に舌を巻いた。
「・・・まいったな・・食い物に釣られるには俺はすこしばかり大人なんだがな・・」
この言葉にアンジェリークの顔がなきそうになる。オスカーは慌てて言葉を続けた。
「しかし、手作りとは恐れ入ったぜ、ほんとうにうまそうだな。あとでゆっくりいただくからな」
といって、アンジェリークからクッキーを受け取ってやった。あんな顔をされて断れるやつがいるはずがない、とオスカーは思う。
泣きそうになっていた顔がみるみる明るく晴れやかになった。高速度撮影で花の開花をみているかのようだった。
その嬉しそうな顔をもっと輝かせてやりたいという衝動に抗えず、オスカーは自分もこう言った。
「そういえば、お嬢ちゃんに、俺もお返しをやる約束だったな。」
「え?あの・・私に?ですか?」アンジェリークは戸惑っている。
「なんだ。忘れてたのか?」喜ぶと思ったのにと、少々鼻白むオスカー。それを期待して来たのではなかったのか?
「だって、先週短剣のお返しは・・縁を切らない為のお返しはいただきましたよ。あの・・手の甲にキスを・・」
アンジェリークは自分で自分の言葉に頬を薔薇色に染めた。
オスカーは一瞬言葉を失い、その後眩暈でもしたかのように額に手をあてた。
「・・まいった、本当にお嬢ちゃんには敵わない。」
オスカーは、自分の迂闊さを笑いたくなった。完全に一本とられたと言った気分だった。
考えてみれば、アンジェリークがそんなさもしい動機で自分を訪ねる筈が無いのに。
しかも、自分の悪戯に気が動転していた上に、レディにはまだまだだと言った自分の言葉に心を痛めていた彼女は、
そのことで頭がいっぱいで、自分が別のお返しをやるといったことも耳に入っていなかったのだろう。
今日、彼女がここに来たのは純粋に、自分にこの手作り菓子をうけとってもらう為のようだ。
アンジェリークはなにがなんだか、訳がわからないようできょとんとしている。
彼女の精神はどこまでも、高潔かつ無心だ。これも彼女が女王候補だからなのだろうか。
そう思うとオスカーの心は悲しいような、やけつくようなやりきれなさに苛まれた。
それを気取られぬように、わざと陽気に振るまい、
「いや、いいんだ、なんでもない。お嬢ちゃん、お嬢ちゃんの笑顔がもっと輝く様に、俺からもプレゼントがある。受け取ってくれ」
といって、アンジェリークに、リボンにばらの蕾のモチーフが散りばめられたコーム型の髪飾りを差し出した。
リボンの色はアンジェリークの瞳に合わせた若葉を思わせる鮮やかでいながら柔らかな印象の翠緑色だった。
つや消しのシルクタフタの風合いがかわいらしさにの中に上品な趣を沿えている。
何ヶ所も結ばれたそれぞれのリボンの所々に小さな野薔薇の蕾のモチーフが縫い付けられいる。
コームは自在に曲がるので、カチューシャのようにも、シニヨンに添えることもでき、薔薇の花冠を髪に頂いたように見えるだろう。
本当に義理と思うならなんでもよさそうなものなのに、オスカーはアンジェリークの来訪の知らせに、
アンジェリークに似合いそうで、なおかつ喜びそうなものを、かなり真剣に吟味したのだ。自分はいったいなにをやっているんだと思いながら。
アンジェリークがこれを受け取ったときの顔を想像すると、楽しみで、でも僅かに不安もあって、アンジェリークもこんな気持ちで
自分に手渡すものに悩んだのだろうかと、オスカーはその心情に思いを馳せた。
「え、いいんですか?こんな素敵な髪飾り・・オスカー様!ありがとうございます。私、大事にしますね!」
うっとりとした様子のアンジェリークの顔が、一瞬後にぱぁっと綻んだ。
春の光が湖の水面にきらきらと反射して舞っているような、見るものの心を弾ませ、暖かい思いで満たすようなそんな笑顔だった。
ああ、俺はこの笑顔がみたかったんだ、とオスカーは思い知った。
よく一週間もこのかわいい笑顔を見ずに過ごせたものだとも、今更ながら思った。
だめだ・・・このまま、会わずにいるなんてやはりできそうにない。
オスカーは自分が心に作った垣根をいつのまにか踏み越えていた。
「お嬢ちゃん、今日はどうしたいんだ?」
「あの・・今週あんまりお話できなかったので、私の部屋で一緒にお話していただけませんか?」
アンジェリークが、おずおずと尋ねた。そういえば、アンジェリークが自分から部屋に誘ったのはこれが初めだったかもしれない。
「じゃ、行くか」
「はい!」
アンジェリークが、また取っておきの笑顔を見せてくれた。
部屋に落ちつくと、アンジェリークはオスカーにカプチーノを淹れた。
いつものことなのに、取り止めのない会話をしながら、アンジェリークはなんとなく落ちつかない。
アンジェリークはオスカーに聞きたいと思っていることがあったのだが、なかなかそれをどう切り出したらよいかわからなかったのだ。
どうして、オスカーはこんなに自分に優しくしてくれるのか。
嫌われてはいないと思う、でも、それはどんな意味合いなのだろうか。
オスカーは、誰にでも優しいから、特に意味はないのか。
自分が子供だから、保護者みたいな気持ちになっているだけ?
それとも、ただ単に守護聖だから、義務感で女王候補である自分に親切にしてくれているのだろうか。
なぜかはわからないけど、オスカーの優しさの根底にある気持ちがしりたくて、でもなんだか聞くのが怖くて躊躇っていた。
オスカーが自分の浮ついた態度に、少し怒ったように、アンジェリークに逆に問いかけてきた。
なにか話があって、自分を呼んだのではないのかと。
アンジェリークは、その強めの口調に一瞬度を失い、あまり考えずににとっさにこんなことを聞いてしまった。
「オスカー様は・あの・・女王候補のことをどう思われますか?」
違う、自分が聞きたかったのは、一般的な女王候補への考えなんかじゃなくて、自分のことをどう思っているかなのに。
どういうつもりで、オスカーが自分に優しくしてくれるのか、知りたいと思ったのに。
でも、あからさまに「自分のことをどう思っているか」なんて、聞けるものではない。
つい、女王候補と言う単語が口をついて出たのは、オスカーが自分が女王候補だから親切なのかもという懸念が頭にこびりついていたからだった。
しかし、その《女王候補》と言う言葉にオスカーは驚くほど激しく反応した。
オスカーは、部屋についてからアンジェリークの態度がいつもと違うのにきがついた。
自分から部屋に誘ったのに、いやにそわそわしていて、なにかに気をとられているようだ。
自分としては、一大決心でアンジェリークに会うことを承諾したのに、当のアンジェリークは心ここにあらずといった感じで視線が落ちつかない。
目の前に自分がいるのに、他のことに思考を占められているアンジェリークを見るのはっきりいって不愉快だった。
これでは、彼女は女王候補だから、深入りしてはいけないと自分の心を戒めようとしていた自分がばかみたいではないか。
アンジェリークが自分のことを思って流したと思った涙も、もしかしたら彼女自身には深い意味はなかったのだろうか。
自分が悩んでいたことなどアンジェリークが知る由も無いのだが、自分の逡巡をないがしろにされたような気がして
オスカーはそんなアンジェリークに少し苛ついた。
そこで、少し言葉に力こめて尋ねた。
「お嬢ちゃん、お嬢ちゃんは、俺になにか話しがあるんじゃないのか?それで俺を部屋に呼んだんだろう?」
アンジェリークは、オスカーの強い口調に驚いた様に、なんの前触れも無く『女王候補をどう思うか?』と尋ねてきた。
『女王候補だから』『女王候補なのに』その言葉がオスカーを縛るくびきになっているのを、当たり前だが、アンジェリークは知らない。
だが、オスカーにとって、その言葉は今、一番聞きたくない言葉だった。
忘れたいのに忘れられない、意識の片隅に常にあり、オスカーの心をがりがりと逆撫でする一番嫌な言葉だった。
なんだって、今日に限ってこんな話題をもちだすんだ。オスカーは黒雲のように沸き起こる怒りと苛立ちを押さえられなかった。
「女王候補?女王候補をどう思うかだって?いいか、お嬢ちゃん。守護聖ってのは大変なもんだ。辞めたくても辞められない
聖地からでたくても出られない。もっとも出たところで、会いたい人間がいるわけじゃなし、年をとらない俺たちは
奇異な眼で見られるだけだから、聖地以外居場所が無いんだがな。
守護聖には基本的人権ってやつは適応されないんだ。職業も居住権の自由もない。人間以外ってことなんだろうな。
ああ、だから家族も持てないな。自分以外の家族がみるみる年老いて死んで行き、後に一人とりのこされちまう。
そんな目にあっても耐えるだけの精神力があれば別なんだろうが、あいにく俺にはそんな度胸はないな。
そして、守護聖以上に女王は、もっともっと大変だぞ。宇宙を一人で支え、その孤独に耐えなければならない。
守護聖には拒否権がない。だが、女王は違う。少なくともある程度は自分でなる、ならないが決められる。
それなのに、わざわざ好き好んで、こんな立場にたちたがる女王候補ってのは、ほんとに物好きだ。俺には理解できんな。
それとも、9人もいる守護聖と違って、宇宙で唯一の至高の存在ってのは、そんなに魅力的にみえるものなのか?」
強烈な皮肉たっぷりに、オスカーは、はき捨てる様にまくしたてた。
決して誰にも語ったことの無い心に淀んでいた澱をアンジェリークにぶちまけた。
しかし、苛立った心情を一気に吐露したことで、荒れ狂った嵐のような心はすっと潮が引くように落ちついた。
そして、怒りが引いたその部分をかわりに埋めるように、オスカーに怒涛のような後悔が押し寄せた。
『これはただのやつあたりだ。自分が守護聖でいることを心底納得できないからといって、女王になりたいという人間を
非難誹謗する資格や権利は、俺にはない。こんな辛い立場に自ら立とうと言うその自己犠牲の心は賞賛されこそすれ
俺が、その気持ちを価値の無いもののように貶めていいはずが無い・・』
オスカーは女王に忠誠を捧げていた。それは確かだった。世俗での一切の幸せを自らの意思で
(ここがオスカーと決定的に違うとオスカー自身は思っていた)
棄て、宇宙の安定のためにその身を捧げる決意を抱くその慈悲の心、自己犠牲の精神はオスカーには決して到達できない境地だったから。
アンジェリークは、呆然と自分を見つめていた。
あきれたのか、憤っているのか、自分の目指すものに価値が無いように言われて悲しいのか。
終わりだな・・オスカーは思った。アンジェリークが自分の許を訪ねる事も、自分がこの部屋に来る事ももうないだろう。
これでよかったんだ。自分の気持ちがのっぴきなら無いところに行く前に、幕がひけて。
ただ、そのために、謂れの無い理由でアンジェリークを傷つけていい訳ではない。
アンジェリークが女王を目指すことに変な罪悪感を抱かせてはいけない。
「・・すまない。今言った事は忘れてくれ。お嬢ちゃんが女王になりたいという気持ちは崇高なものだ、
俺には真似ができないっていうだけで、お嬢ちゃんを傷つけるつもりじゃなかったんだ。
立派な女王を目指してくれ。お嬢ちゃんならきっとなれるさ、きっとな。俺は、心から応援しているよ。」
アンジェリークの大きく見開かれた瞳から、ぽろぽろと涙が零れ落ちてきた。
『ああ・・・泣かせてしまった・・俺は・・俺は最低だ・・・』
オスカーは自分に舌打ちをした。自分など消えて無くなればいいのにと思った。
アンジェリークの涙を見るのは二度目だが、この涙が前回の様に暖かい涙でないことなど、わかりすぎるほどわかっていた。
自分が何を言ってもいい訳にしかならない。自分など彼女のそばにいないほうがいいだろう。
アンジェリークの涙を見せられるのも辛く、このまま、オスカーは立ち去るつもりだった。
「すまなかった。心から謝る。こんな事、俺が言えた義理じゃないが、泣かないでくれ。お嬢ちゃんにはいつも笑っていて欲しいんだ。
俺がいると、気分が悪いだろうから帰る。ほんとうに済まなかったな・・」
「だめ!まって!帰らないで!オスカー様!」
椅子からたちあがり、ドアの方にむかったオスカーにアンジェリークが後ろからむしゃぶりついてきた。
オスカーの腕をしっかと抱えこんでいる。
「・・お嬢ちゃん?」
俺の心無い言葉に傷ついて泣いている君がどうして、俺を引き止める?
オスカーは戸惑ったが、これ以上泣かれてはと思い、振り払うようなことはせずに、アンジェリークに向直った。
アンジェリークは、オスカーの顔をみあげる
翠の瞳は涙に濡れていても一遍のくもりもなく、逆にその涙に洗われたように清冽な光を湛えており、こんな時でも、アンジェリークの瞳は美しいなと
オスカーは一瞬見惚れた。
しかし、次の瞬間、アンジェリークの言葉に、オスカーは頭をがんと殴られたような衝撃を受けた。
アンジェリークはしゃくりあげながら、こう言ったのだ。
「オ・・オスカー様・・ごめんなさい・・ごめんなさい・・私、オスカーさまが、そんなにお辛かったなんて・・お寂しかったなんて
ちっとも、知らなかった・・気付かなかった・・嫌なことをいわせちゃって・ほんとうにごめんなさい」
アンジェリークはオスカーの激しい言葉の銃弾をただただ呆然とその身に受けていた。
こんな激抗した、よくも悪くも感情を露にしたオスカーを見たのは初めてだった。
オスカーの言葉は、わざと自分をきずつけようとしているかのように、痛烈な皮肉がこめられていたが、
アンジェリークはオスカーの話し方ではなく、言葉の内容に、衝撃を受けていた。
守護聖であることを呪うような言葉の数々に。
オスカーの血を吐くような言葉に、アンジェリークは自分がまったくオスカーを理解していなかったことを嫌と言うほど悟った。
自分はオスカーの何をみていたのだろう。
オスカーは、守護聖である自分自身をまったく受け入れていない。
彼にとってサクリアを与えらたことはいつ果てるともしれない緩慢な拷問のようなものでしかないのだ。
オスカーはそんな自分の運命を今でも、呪い、足掻き、もがいているのだ。
守護聖であることのやりきれなさを、他のなにかにのめりこむ事で忘れたり、唯一無二の自らの責務に誇りを持つことで自分を納得させたり
自分の心の中で折り合いをつけたり、ましてや昇華などしていなかったのだ。
アンジェリークはなにが、オスカーの逆鱗に触れたのか、自分ではよくわからなかった。
だが、自分の態度か言葉のなにかが、オスカーの最も触れて欲しくないところに触れたのはわかった。
それは、心が赤剥けのまま、ひりついているような部分で。
その赤剥けの部分を触られた痛みに、オスカーは苦しがって暴れた。
手負いの獣が、傷の痛みに耐えかねて、咆哮するように。
自分がオスカーを傷つけた・・いや違う、傷はいつもオスカーの心にあったのだ。
塞がることなく血を流して疼いている場所に自分は不用意に触れてしまったのだ。
オスカーは怒っているのではない。もがき苦しんでいるだけだ。
どうしよう、どうしたらいい?
オスカーの苦しみを思い、涙が押さえきれず溢れ出す。
自分がオスカーの心の傷をさらけ出してしまったことに、申し訳ない気持ちでいっぱいになる。
オスカーが膿をだしきったように、一瞬沈黙した後、放心したように、力なく自分に謝りはじめた。
違う、違う、あやまらばければいけないのは自分なのに!
オスカーが部屋を出て行こうとする。
だめ!行かせてはだめ!今オスカーをいかせたら、きっと自分はオスカーと二度と会えなくなる
眼はオスカーを見ることはあっても、心はオスカーと二度と向き合えなくなる!
根拠は無い、が、それは確信だった。
アンジェリークは無我夢中でオスカーに追いすがり、オスカーの腕をしっかりと捕まえた。
手を離したら、オスカーは自分の元から永遠に去ってしまうような恐怖に襲われた。
そして、アンジェリークはオスカーにひたすら謝罪の言葉を繰り返した。
オスカーの心の傷を暴き立ててしまったことを。
多分自分に知られたくなかったであろう、オスカーのやりきれなさを、知ってしまったことを。
そして、それらに今まで気付かずにいた自分の迂闊さを。
「俺が・・寂しい?」
自分の声が遠くから聞こえる様で、しゃべっているのが他人の様なきがした。
「な・・なにを言ってるんだ、お嬢ちゃん・・」
なんでもないふうに、しゃべりたいのに、オスカーはうまく声がでなかった。
「オスカー様・・私・・守護聖の皆様がみんな・・みんなお寂しい気持ちを抱えて、それでも、がんばってらっしゃるのを知って・・
皆様、その寂しさを、自分なりのやり方で自分に納得させてらっしゃると思って・・・皆様のこと解ったような気になって・・・・
でも、ちっとも解ってなかった・・オスカー様が今も、お辛い気持ちで、寂しいのをこらえて、でもそれを我慢なさってたなんて・・」
「・・お嬢ちゃん、俺は・・」
そんな事は無い、と笑い飛ばしたかったが、できなかった。顔は能面のように強張り、声を震わせずに話すので精一杯だった。
「私が・・私が・・オスカー様に思いだしたくないことを、思い出させちゃったんですね。
あんな・・あんな、お辛いこと、いつもは考えないようにしてるようなことを口に出させちゃったんですね・・
ほんとうに、ごめんなさい・・」
アンジェリークは涙で顔中を濡らしながら、オスカーの瞳を見つめた。
「私が、オスカー様にひどい事しちゃったのに、なのに・・オスカー様・・私のこと心配してくださって・・
オ・・オスカー様はその寂しさがわかるから、その辛さがおわかりだから・・だから、私にあんな風におっしゃったんですね・・
女王になったら、同じ寂しい、つらい立場になってしまうんだぞって・・
ならなくて済むものなら、ならないほうがいいって・・
・・私が・・あんなつらい事、言わせてしまって・・思い出させてしまって・・それなのに、私のこと思ってくださって・・
ありがとうございます・・でも、ごめんなさい・・本当にごめんなさい・・」
「違う・・俺は・・」
女王になんてなるなと思ったのは事実だ。でも、それはアンジェリークを思ってのことではない。
『君のことを心配して言ったんじゃない。自分の動かし様の無い運命への苛立ちを君にぶつけただけだ・・なのに・・なのに・・・
君は俺に謝る、あまつさえ、感謝さえする。・・君の涙は、俺のためか?・・俺の苦しみを思って君は涙しているのか・・・』
彼女は、自分の冷たい物言いに傷ついて泣いたのではなかった。
彼女は自分がオスカーを傷つけたと思って、オスカーの気持ちを慮って泣いていた。
自分の考え無しの言葉が、オスカーの心に隠しされた、見ないふりをしていた闇の部分を表に引きずり出してしまったと、
そのことを謝罪しながら泣いていた。
そのうえ、自分の腹たち紛れの言葉を優しさと勘違いして。
自分はそれほど立派な人間じゃない。考えているのはいつも自分のことだけだ。
自分が不幸だと思っているから、彼女も傷つけていいと思ったどうしようもない人間だ。
だが、彼女の涙はどこまで美しいのか。自身を哀れむ涙など流したことがないのではないか。
彼女の瞳が悲しみに濡れるのは、己ではなく、あくまで他人の悲しみに涙するときだけではないのだろうか。
そのどこまでも深い慈愛の心に痛いような憧憬の思いを禁じ得ず、
その一方でアンジェリークには自分という人間の汚さ、醜さは決して理解できないのではないかという絶望に
オスカーは眩暈を覚え一瞬ぐらりとよろけた。アンジェリークによりかかるようにからだが傾ぐ。
アンジェリークが、とっさにオスカーの体を支えようとした。
が、当然それは果たせず、二人は床に倒れた。
反射的にオスカーはすんでところでアンジェリークの頭を腕でかかえてかばい、もう片方の手を床について、アンジェリークの上に
倒れこまないように自分の体を支えた。
アンジェリークの体が自分の腕のなかにあった。
びっくりしたのだろう、瞳は零れ落ちそうに見開かれているが涙はとまり、逆に唇はきゅっと噛まれている。
オスカーは、衝動的に腕に力を込めてアンジェリークを抱きすくめたくなったが、克己心を奮い起こして自分の体を離し、ついでアンジェリークを抱き起こした。
オスカーに支えられ立ちあがるアンジェリーク。真摯な瞳で、唇をまだ微かに震わせて、オスカーを見上げる。
自分のためにアンジェリークが泣いていると言う事実に喜びと苦痛がないまぜになり、
オスカーは改めてアンジェリークに告げた。
「もう、謝らないでくれ。君は謝らなければならないようなことはしていない。謝らなくてはいけないのは俺の方なんだから。
それに、俺は君が思うような立派な人間じゃない。」
そう、自分に与えられた運命を心から受け入れられずに足掻いている弱い人間だ、強さを司る守護聖が聞いてあきれる。
オスカーはアンジェリークの顔を見る事ができずに、視線をそらせながら、
「俺の言ったことは忘れてくれ。無理かもしれないが、忘れてくれると嬉しい」
そういってマントを翻し、オスカーは再びアンジェリークの部屋から出て行こうとした。
アンジェリークは出て行こうとしたオスカーの手を両手でつかみ、きつく握り締めた。
これだけは言わなくては、これで終わりにしてはいけない、アンジェリークは夢中だった。
だから、普段なら絶対いえないようなことを、オスカーの瞳を見据えながらはっきり訴えた。
「オスカー様っ!待って、オスカー様がそうおっしゃるなら、忘れます。でも、それなら、どうか私のことを避けないでください。
これで、私と会うのを止めないでください・・もう、どうしようもなく嫌われちゃったのなら・・・仕方・・・ありませんけど・・・」
最後の言葉はさすがにオスカーの瞳を見つめながら言う勇気はなく、アンジェリークは目を伏せた。
オスカーの切れ長の瞳が、驚愕に見開かれた。
「また・・会いに来てもいいのか?本当に?ああ・・そうか、今日のことは忘れるなら・・なかったことになるんだものな・・」
僅かな間をおいて、オスカーが低い声で呟いた。
「なら・・これも忘れてくれていい・・」
「?え?」
一瞬アンジェリークはなにが起きたのか、わからなかった。
弾かれた様に、強い力で自分の体がぐいと引き寄せられ、
きがつくと、オスカーの顔が恐ろしいほど間近にあり、自分の唇が温かく柔らかいもので塞がれていた。
しかし、それはほんの一瞬のことだった。現実感のない夢のようだった。
「約束だ、お嬢ちゃん。じゃ、またな」
オスカーは立ち竦むアンジェリークに手を振って出ていった。もう、いつも通りのオスカーだった。
アンジェリークは、呆けたようにオスカーの後姿を見送った。もう引きとめはしなかった。オスカーが『またな』と言ってくれたから。
でも、さっきのはなに?本当にあったことなの?春風に盗まれたような一瞬のできごとは・・
アンジェリークは我知らず、自分の指先で唇にそっと触れた。熱かった。
アンジェリークは今、はっきりとわかった。
オスカーと二度と会えなくなるかもと思ったら、息もできなかった。体が勝手に動いていた。
オスカーの孤独を知って、血を流しつづける魂の慟哭を知って、アンジェリークはもうオスカーから目をそらせない自分に気付いた。
自分はみんなのそばにいたいのではない。オスカーのそばにいたい。ずっとずっとオスカーだけのそばに、オスカーの隣にいたい。
オスカーを自分が救えるとは思わなかった。アンジェリークはそんな不遜なことは考えていなかった。
オスカーの苦しみを目の当りにして、なにもできない自分の無力さを思い知ったばかりだ。
ただ、オスカーの孤独に苦しむ心を知ったら、余計に同じ立場に立って、理解したいと、分かち合いたいと思った。
その悲しみを消すことはできなくても、寄り添い支えることで、軽くできないかと思った。
オスカーから離れたくない。オスカーと一緒にいたい。
自分になにができるかはわからないけど、自分の力は小さくても、オスカーの孤独を少しでも和らげ、楽にはしてあげられないだろうか。
アンジェリークはもう女王にはなれないと、そのときはっきり自覚した。
宇宙よりも、大陸の民よりも、自分は大切なものを見つけてしまった。
自分の心はもう、オスカーを選んでしまったのだと。