Diaspora 4


変な客だった。
黒ずくめの服に燃えるような赤い髪と氷のような冷たい瞳が印象的な美丈夫だった。
体もいい。
金で女など買わなくても、この男なら喜んで身を投げ出す女には事欠かないだろう。
でも、だからこそ、却って後腐れなく遊びたいのかもしれない。
客の意図などどうでもいいことだった。
料金はたっぷりと前金でもらってるし、ハンサムで若い客はむしろ歓迎だ。
娼婦はその男を商売用の部屋に案内すると、服を脱いでいいかどうか、尋ねた。
自分で脱がせたがる客もいるからだ。
男は気の無い風に、勝手にしろといった。自分の服を脱ぐ気配もない。
娼婦は自分の着衣を脱ぎ捨ててから、男の服を脱がせた。
褐色の逞しい体躯が現れた。
しかし、男は自分から動こうとしない。女の体に手も伸ばしてこない。
たまにいるのだ。女にだけ奉仕をさせ、自分からは指一本動かさず、快楽を求める男が。
金で買ったのだから、その料金分のサービスをしろということなのだろう。
それは商売だからと思い、娼婦はその男のモノを手と口で愛撫し始めた。
『モノも立派だけど、とんだ見掛け倒しだ。
こんなにやる気がないんじゃ、普通の女は抱けないね、怒っちまう。
でもだからこそ、お客になってくれたんだから、感謝しなくちゃね』
娼婦はこんなことを思いながら奉仕を続ける。
なかなか男のモノは役に立つ状態にならなかったが、ようやくそれなりの硬度になったので、感染予防の避妊具を被せてから
娼婦は自分の商売道具にもローションを塗りつけた。
男が何もしないので濡れているわけもなく、このままでは挿入できない。
娼婦は男にまたがって、自分の中に男のものを収めた。圧倒的な量感だった。
本当に、もったいないねと思いながら娼婦は腰をゆする。
これじゃ、たからの持ち腐れだよと。
それでも、モノは立派だから、うまく動けばそれなりに自分もいい思いができそうだった。
娼婦は懸命に腰をくねらせる。
すると、まったくやる気の無い風情でただ横たわっていたその男は突然上体をおこすと、逆に娼婦の体を組み敷いた。
そして、娼婦の足を抱えこんで、狂った様に腰を打ちつけ始めた。
その律動の力強さと、元々男のモノがよかったために
娼婦はいつしか商売だということを忘れてよがり狂わされ、幾度も達してしまった。
客にこんなに乱れさせられたのは初めてだった。
事が終わって、シャワーを浴びてきた男に、娼婦はあからさまな媚態を振りまいて、これからも贔屓にしてくれと強請った。
この男なら、商売抜きで情夫(イロ)にしてもいいとさえ娼婦は思っていた。
この体でこの顔だ。女の喜ばせ方などじっくり教えて行けばいい。
男は娼婦の言葉に皮肉げに口の端を歪めると、もう二度と会うことはないし、会っても俺のことなんかそっちで忘れてると言った。
こんな男をわすれる筈がないと娼婦は思ったが、また、ここに来ることがあったら、ぜひとだけ言って男を送り出した。
黒衣の男が夜の巷にかき消すように紛れていくのを見送ってから、娼婦はまた商売に戻った。

アンジェリークの部屋を後にしてから、オスカーはたぎる血の熱さをどうしても押さえきれず、久方ぶりに主星に降りた。
別れ際、自分でもどうしようもないほどの情動の高まりに押され、アンジェリークの唇を一瞬の隙をついて盗んだ。
同意の上でないのだから、盗んだとしか言えない。
その唇の甘さ、柔らかさを反芻するうちに、体中を狂気のような欲望が駆け巡り泡立って、オスカーを苦しめた。
とにかく、どうにかしてこの欲望を鎮めないと、アンジェリークと次に顔を会わせたとき自分が何をしてしまうか自信がなかった。
そうだ、次がある、自分はアンジェリークにこれからも会えるのだ。
その事実をあらためて噛み締め、オスカーの胸中は歓喜に満たされる。
彼女に自分のどろどろとした未消化の感情をぶつけてしまい、その直後押し寄せた後悔の中、オスカーはもう、彼女と顔を合わせられないと思った。
彼女に自分の情けない部分を知られたことへの恥ずかしさと、彼女に氷のような皮肉な言葉を浴びせ傷つけた悔恨。
こんな自分がどの顔さげて、彼女に会いにいけるというのだ、とそのときは思った。
だが、アンジェリークは自分の愚かな振る舞いを蔑みも怒りもせず、ただ許容してくれた。忘れると言ってくれた。
その上、アンジェリークは自分が彼女に会いに行くことを自分に許し、いや、望んでさえいるようだった。
もちろん、今日のできごとを完全になかったことになどできる筈はない。
アンジェリークもオスカーが吐き出した言葉の意味を本当に忘れる筈がない。
オスカーにもそれはよくわかっている。
ただ自分は彼女に既に最も弱い部分を曝け出してしまったのに、彼女は自分の愚かさも弱さも知った上で、また会いたいと言ってくれた。
オスカーを離すまいと、小さな手で懸命に自分の手を握りしめながら・・・
そのこめられた力の強さに、それはオスカーにしてみれば簡単に振りほどける力であったが、
オスカーはアンジェリークが、社交辞令ではなく真剣に心から、自分とまた会いたいと思ってくれているらしいことを知らされた。
アンジェリークが自分を丸ごと、とでもいうのか、嫌な部分を拒否せず受け入れてくれた事が自分に与えた衝撃と、
その一瞬後に体中を駆け巡った歓喜にオスカーは圧倒された。
そして、その歓喜に突き動かされるままに、オスカーは彼女に触れたいという衝動を如何ともしがたく、
彼女の細い体を抱き寄せ、自分の唇で彼女の存在を確かめてしまった。
ほんの僅かな一瞬であったが。
しかしその一瞬に彼女の感触はオスカーの腕と唇にしっかりと刻みこまれた。
信じられないほど華奢で、しなやかな柔らかいその体。触れた唇はまさに甘露だった。
そのことを思い返すたび、体は駆け出したいほど浮き足立ち、オスカーはなんとかこの血のたぎりを抜かなくてはと歓楽街に来たのだ。
一夜の相手を求める男女が集うバーに赴き、手ごろな相手を物色する。
自分が少し微笑みかけ、グラスを上げればそれで交渉は成立だ。
オスカーは自分が目をつけた女に断られたためしがない。
後はホテルに行って、相手の服を脱がせ愛撫を与え・・
そこまでシミュレートして、オスカーはそれはつまりアンジェリークに触れたこの唇で、他の女の肌に触れることだと言うことに思い至った。
アンジェリークの温もりが、感触が残る唇の記憶を他のどうでもいい女のものに塗り替えることに今まで感じた事のない嫌悪感を覚えた。
しかし、やはり体の中心で欲望は渦巻き、オスカーをいたたまれなくさせる。
オスカーは、歓楽街でも娼婦の集う一角に足を向け、とりあえず目に付いた許せる範囲の女の仕事部屋に上がりこんだ。
商売で体を売る女なら唇は求めないし、愛撫がおざなりでもいいと思ったからだ。
しかし、そこで、オスカーは自分の思い違いをいやと言うほど思い知った。
自分で、これなら許せると思った女のつもりだった。しかし、まったくやる気が起きない。
それなのに、やはり欲望は自分の中心に狂おしいまでに厳然と存在している。
自分はどうしてしまったかのか途方にくれているオスカーをよそに、娼婦はオスカーがただ受身の享楽を求めに来たと思ったのだろう。
オスカーの服を脱がせ、愛撫を与え始めた。
毒々しいほど赤い唇とマニキュアの指に自分のものが弄ばれている。
しかし、オスカーのものはなかなか熱くならない。
いつもなら、女とベッドインした時点で猛る凶器と化す自分のものが。
それでも、さすがに商売をしている女の技術で、オスカーのものはどうやら役にたつまでになった。
女が自分の上にまたがり自分のものを収めた。
女の肉壁の感触にもオスカーはなんの感慨も抱けない。
女が情感を高めようと淫らに腰を振り、自分の襞でオスカーのものを擦ってもまったくオスカーには快楽が伝わってこない。
『俺はいったいどうしてしまったんだ・・』
自分のありさまが信じられず、オスカーは弾かれた様に体を起こすと、娼婦を自分の下に組み敷き、狂った様に腰を打ちつけ始めた。
自分にいい様にと思ってしている律動でも、そこには、なんのたかぶりも生じず、ただ女だけが絶え間なく声をあげつづけた。
物理的な刺激にようやく射精が訪れ・・女はただ単に持久力がいいと思ったのだろうが、
この射精もオスカーにはかなり意識的に交合を終わらせる為のものだった・・・オスカーはようやく息をついた。
これが、こんなものが快感か?俺が今まで快楽と思っていたものか?
ただ、排泄の感覚しかないものが快感と呼べるなら、これも快感なのだろうが・・・
オスカーは、ものうげに女から体を離し、体を清めた。
女の匂いがわずらわしい。
女は物欲しげに、オスカーに媚を振りまいている。
自分が抱いた女がみせるいつもの反応だった。
今までのオスカーならこういった女の様子にほくそえむ。
商売女に仕事をわすれさせることに、後ろ暗い喜びを覚えたことも、一度や二度ではない。
己の肉体で女に忘れられない快楽の楔を打ち込むことに、暗い情念を持って勤しみ、そこに達成感を見出していたというのに。
しかし、今、オスカーはなにも感じるところがない。
あるのは虚無感だけだった。
オスカーはけだるい体で、女の部屋を後にした。
もう、他の女で試す気もなかった。
自分が欲望をいだいたのは・・自分の欲望を開放できるのは・・・
オスカーはその自覚に戦慄を覚える。
自分が欲しいと思う相手は、欲望を覚える相手はもうこの世に一人しかいないのではないかと。
そして、ここで初めて、オスカーは自分が好きで行っていたと思っていて行為の味気なさに、そのつまらなさに気付かされた。

オスカーは今まで無数と言えるほどの女と関係を持っている。
そして、今初めて、戯れで抱いた女たちとの事後が心穏やかなものではなかったことに気付いた。
むしろ、行為のたびに、オスカーは自分の心が錆や澱のようなものでじわじわと蝕ばまれていたのだろう。
女を自分の肉体の虜にした後で、『俺は一人のものにはならない』とうそぶく。
ならないのではない。時間に取り残される身ではなれないだけなのに。
忘れられないほどの強烈な快楽を刻み付けるのは、ひとえに自分がそこに存在した証を残したいがため。
結果、自分に執着する女を冷たく振り切るたびに、自分の全能感を感じて満足し、氷のような笑みを浮かべる。
こんなやり方でしか自分の存在理由を確認できなかった自分の心は、深く病んでいたと、今なら断言できる。
だから、その行為は喜びをもたらすものでは決してなかった。
あったのは一瞬の放出感とそれに倍化するような虚無感。
自分の命の一部を、自分の生の証を無為に迸らせることは、一回ごとに小さな死を経験するようなものだった。
むしろ、精を無駄に費やすことで、オスカーは緩慢な死すら望んでいたのかもしれない。
その行為は生きながら自分を葬るような行為であり、自身は生きながら腐っていくようだった。
そんな行為でもなぜ自分は強迫的に繰り返さずにいられなかったのか。
アンジェリークに自分の孤独を言い当てられた今ならそれもわかる。
誰も、真実の自分を欲してはいない。理解することはできない。
その事実を直視して認めることができなかったからだ。
守護聖としての自分は、サクリアの器として、崇められ、必要とされているにすぎない。
器であるということは、裏がえせば、自分は空洞であるということだ。
自分自身の努力や実力で、人から評価され、必要とされているわけではない。
しかも、サクリアの器が自分である事の必然性がオスカーには感じられない。
自分が身分を隠してつきあう女たちが自分に求めるのは、
口当たりのいい甘いことばに、見栄えのよい自分の肉体が与えるであろう快楽だけ。
ハンサムでSEXの上手い男であればそれでいいのだ。
自分でなくてはならぬものなど、どこにも、なにひとつもなかった。
それでも、オスカーは人肌を求めずにいられない。いや、だからこそ人肌を求めずにはいられなかった。
幸か不幸か、自分の容姿と肉体は女たちにとって、この上なく魅惑的で、誘蛾灯に蛾が群がる様に、オスカーは女たちから求められた。
それが刹那のつながりでも、偽りの希求であると知っていても、
その一瞬、女たちが自分の名をよび、自分を求めてくれれば、オスカーは自分自身が必要とされているという錯覚に酔うことができた。
それは、酒や薬の酔いと同じで、決して根本から自分を充足させてくれるものではないとわかっていても、
酔いが覚めた後は、さらなる寂寥感と虚無感に苛まれるとわかっていても、
オスカーは他人から求められると言う一瞬の快楽に酔うことをやめることはできなかった。
まさにそれは薬物への嗜癖と同じであった。
しかし、アンジェリークとのやりとりの中で、オスカーは初めて自分の根底にある押さえがたい願いがあったことに気付かされた。
一人の人間と、人と人として対峙し、支え、支えられながら、別ち難く生を全うしたい。
守護聖であるとか、容姿とかの、自分を飾っているすべての虚飾を剥ぎとってもなお
自分という人間を必要としてくれる人と出会い、供に生きていきたい。
一人でいい。
自分と同じ時を生き、互いに理解しあえる存在をオスカーは切望していた。
自分の求めるつながりに最も近いものはジュリアスが自分に与えてくれる信頼だったが、
それは、守護聖としての自分の力によるものであったし、
ジュリアス自身は、自分のように、時の流れに取り残され、誰とも真の意味で交流し合えないことへの虚しさは感じていないか、不満を持ってはいないようだった。
オスカーは守護聖としての、そのジュリアスの迷いのない生き方に惹かれ、崇拝もしていたが、
それは自分が理解され、共感されるということは意を異にしていた。
ジュリアスは自分にとって憧れを持って眺めるだけの、決して到達し得ない虹の端のような存在だった。
ともに歩んで行けるパートナーではなかった。
第一、どちらかのサクリアが衰えた時点で、ジュリアスと築きあげた関係もあっけなく霧散してしまう。
自分が守護聖に就任してからも、何人かの守護聖が聖地を離れる姿を目の当りにしてきた。
最も、互いの立場を理解しあえる近しい存在とすら、いつ永久の別れが訪れるやも自分たちにはわからないのだ。
すべては、きまぐれなサクリア次第。
守護聖とは、宇宙から祝福を受けた存在などではない。
これはのがれられない呪縛でしかない。しかもいつ果てるとも知れぬ・・
オスカーにはそうとしか思えなかった。
サクリアがこの身中から消滅しない限り、自分はどんな人間とも魂のつながりを得ることはできない。
望んでも決して与えられることはないと諦念に支配されていたから、それを求める心に気付かない振りをしてきた。
だからオスカーは、その場限りの、偽りの人間関係で自分を誤魔化しつづけるしかなかった。
自分が欲していても、それを与えてくれる存在はいままでいなかった。
だが、オスカーはこのときはっきりと気付いた。
女王候補である彼女なら、女王のサクリアを身中に持つ彼女なら、聖地で同じ時間を生きていける。
あの金と碧でできた天使なら自分と同じ時間軸を歩めるはずだ。
永劫と思われるときを自分と供に一緒に生きることが出来るのは、無限地獄のようなこの孤独に寄り添ってくれるのは彼女だけだ。
聖地に生きることの悲しさを、
使命感に紛らわせて気付かぬ振りをしなければならないこの呪われた宿命を
理解してくれるのは、あの少女だけだ。
もちろん女王候補なら誰でもよかったというわけではない。
慈愛の心に溢れ、人が生きていくことの寂しさを本能的に察知できる優しさと賢さを天分として持つ少女。
ただ一人、偽りの生をいきている自分に気付いた、いや、気付いてくれた、気付かせてくれた少女。
自分の弱さを認められずに、苛立ちをぶつけてしまったにも拘わらず、オスカーを軽蔑もせず臆することもなく、その弱さを認め、許し、共感を抱いてくれた少女。
もう手放せない。
この天使無しでは、自分はもう生きていくことはできない。
ずっと目をそらしつづけていた自分の孤独と向き合ってしまったから。
この天使がいてくれれば、自分は孤独を束の間埋めるための偽りの愛の行為に、さらに孤独を募らせる必要もない。
この天使なしでは、もはや自分の生を全うすることすらおぼつかない。
オスカーははっきり確信した。
自分の魂はもはやアンジェリークと言う存在に捕らえられていたのだと。
自分が欲しいのはこの宇宙にアンジェリークただ一人だと。
だが、アンジェリークを無理やり手に入れるのでは、だめなのだ。
肉体や形が欲しいのではないのだ。
それは、オスカーが真に欲しいものではない。
オスカーが欲しいのは、アンジェリークが自分とおなじように、自分のことを思ってくれる心だった。
そうでなければ、自分のために何もかも捨てて自分と供に生きていくれなど、オスカーには到底言い出せない。
その辛さをなによりよく知っているオスカーが、自分にとって最早掛け替えのない存在といえるアンジェリークに
そんな辛い生き方を自分のために選んでくれと、あだやおろそかで言えるものではない。
だが、もし、アンジェリークが、自分がアンジェリークを思うのと同じくらい自分のことを思ってくれたら。
比翼の鳥のように、連理の枝のように、隔絶された世界ででも二人で支えあって生きていってもいいと思ってくれたら。
オスカーは、その想像に恍惚としながら、次の瞬間不安に襲われる。
だが、彼女がそこまでは自分のことを思っていなかったら?やはり女王位を選んだら?
そう思ったとき、オスカーは初めて心からの恐怖と言うものを覚えた。
どんな犠牲を払おうと、心のそこから手に入れたいものがあり、
それがもし手にはいらなかったらという、IFは心底オスカーを恐怖させた。
それを自覚したとき、オスカーはこの上なく臆病になってしまった。

そして、次の日からオスカーは無理やり時間をやりくりしてでも毎日のようにアンジェリークのもとを訪れるようになった。
アンジェリークは約束通り、自分の激情の発露に触れないでくれたので、オスカーも何もなかったのようにアンジェリークに再三会いに行けた。
でも、オスカーもアンジェリークも今までとは違うどこかぎこちない緊張感が二人の間に流れていることを互いに感じていた。
二人の間にはぴんと張り詰めた、でも、その感触は絹布のように滑らかで柔らかな空気が流れ、二人は互いにそれを意識しつつ、
それをどうやって手繰り寄せ、距離を縮めるかを、手探りしているような状態だった。
自分の心ははっきりと相手に捕らわれており、相手もどうやら自分の事を特別に思ってくれているらしい。
それはなんとなく解るのだが、確信が持てず、相手の何気ない仕草に一喜一憂して、あと一歩が踏み出せない。
駆け引きを行いたくても、作為を用いることに躊躇いを覚え、あえてこの不安定な状態にいることすら妙に心地よい。
これはまさしく『恋』だ。自分は恋をしているのだ。
オスカーは最早自分をごまかすことはしなかった。
目を瞑ろうともアンジェリークの存在はあまりにまぶしく、無視しようにも恋焦がれる心はあまりに熱い。
ほんの些細なことにも、恍惚と不安に心は振り子の様に揺れ動く。
アンジェリークの部屋で、カプチーノのカップを受け取るとき、軽く触れ合う指先に電流がはしる。
そのまま白い指を捕らえようとすると、アンジェリークは頬を朱に染め、さっと逃げてしまう。
たったそれだけのことなのに、自分に触れられるのが嫌なのだろうかとオスカーは不安に寄る辺無い思いを抱く。
しかしアンジェリークが含羞の表情で微笑んでくれると、再びこの上ない喜びを感じ、夕方の別れにはその倍する寂しさを味わった。
愛馬を駆り、湖を見渡せる高台へ遠乗りに出かけた事もある。
自分の私邸に食事に招き、先祖伝来の自分の剣を見せ、その由来を話した事もある。
自分以外でこの剣に触れたのはアンジェリークが初めてだった。
外出の後でアンジェリークを自室まで送ろうとすると、彼女の瞳が自分と同じように別れを惜しんで潤んでいるように見え、
日が暮れるまで、二人きりで聖殿裏のテラスで夕空や星をただ眺めてすごしたことも一度や二度ではない。
茜の空に徐々に紫紺の帳が降りてゆき、日が暮れきる直前のほんの刹那、地平線のあたりが青みがかった薔薇色に染まる。
昼が夜に屈服するその瞬間は、ある意味昼と夜の婚姻の瞬間のようで、最初に瞬き始める星は誓いの証のようで、
オスカーはアンジェリークと二人でながめる移り行く空模様にも胸が締付けられそうになる。
立ち始める夜風から守る様にそっと肩に手をおくと、俯きかげんによりそってくる仕草がいじらしかった。
彼女の事を思って眠れず、突然夜遅くに部屋を訪ね、庭園まで連れ出した事もあった。
夜半過ぎの訪問に戸惑いをみせながらも、自分の誘いに快く応じてくれたことにアンジェリークの自分に対する信頼が感じられ
オスカーは却って、迂闊な事はできないなと自分を戒めた。
東屋から庭園の方向には光源がないので、なににも邪魔されない星の光を見る事ができる。
オスカーは星を見ると、心が落ち着くとアンジェリークに語る。こんな自分は意外か?とも訊ねる。
アンジェリークはだまってふるふると首を横に振る。
オスカーの口元が綻ぶ。アンジェリークは解ってくれると思っていたから。
星を見ると心が落ちつくのは星の姿に自分の越し方行く末を重ねていたからだ。
星の光が自分たちのところに届くまで、その星の上には、何十年、何百年というときが流れている
今、自分たちが眺めているのは星の過去の姿なのだ。
ここに至るまでの星の光の孤独な旅を思い、オスカーは慰められていた。自分だけが孤独なのではないと。
だが、今は違う。アンジェリークと見上げる満天の星空は、ただ、それだけで美しい。
寂しさも切なさも一緒に感じてくれる人が隣にいれば、その痛みすら甘くなることもオスカーは初めて知る。
自分が星空に心癒されることを、慰めを必要とする心の弱さを理解してくれる人の存在がもたらす安らぎも・・
自分が恋だと思って今までしかけてきたものはただの情事、ラブアフェアだったというのが今はいたいほどわかる。
そこには、心が痺れるような甘さも、緩やかに吐息をつくような居心地のよさもなかったから。
星月夜の中、寄り添って佇む。そっと手を握ると、一瞬アンジェリークの体が強張るが、逃げ出すようなことはしない。
「冷たいな・・気がつかなくてすまん」
その手が夜の空気に冷たくなっているのを察し、オスカーはアンジェリークの体を自分のマントですっぽりと覆ってやる。
アンジェリークが恥らいを含みながら、しかし、感謝の意を示す為にかオスカーにほんのりとした笑顔で微笑みかける。
その笑顔は、ただ天真爛漫なだけでなく、羞恥とともに、はっとするような艶を含んでおりオスカーを落ちつかない気分にさせる。
自分の体温をアンジェリークに感じさせたい、アンジェリークの温もりを自分が感じたい、だが、それはこらえて肩を抱くに留める。
きつく抱きしめてしまったら、きっともうそのまま放せなくなる。
第一、まだ自分はアンジェリークに自分の気持ちをはっきりと打ち明けていない。
アンジェリークからきちんと承諾を得るまではだめだ。
力で彼女を支配したいのではないのだから。
ここで好きだといってしまおうか。愛していると・・・
アンジェリークの甘い髪の香りに酔い、きっと自分に答えてくれると思いながらも、結局オスカーはそれを果たせなかった。
彼女に告白して、もし女王位を選ぶといわれでもしたら、自分はその行きばのなくなった激情をこの場でアンジェリークにぶつけてしまうかもしれない。
一度既に押さえきれずに激情をぶつけてしまっているのだ。
自分が一番やりたくないと思っているやりかたで、アンジェリークを自分のものにしてしまうかもしれない。
オスカーは自分の自制心にまったく信頼をおいていなかった。
そんなことをして、永遠にアンジェリークの心を失うくらいなら、彼女が自分に微笑んでくれる今をできるだけながびかせたかった。
だから彼女の肩を抱いたまま、部屋まで送り届けるだけで、今夜も黙って帰った。
自分の告白に対する彼女の答えが不安なのはもちろんだったが、
オスカーは初めて経験するといっても過言ではない、この甘く切ない、恋の陶酔を少しでもながく感じていたいという
ずるい計算が心のどこかで多少働いていたのかもしれない。
恋の入り口の、お互い思い思われていることを感じてはいても、それを確認しあう前の、浮き立つような、弾むような気分を
オスカーは楽しみ、少年のような恋をしている自分に酔っていたのかもしれない。
長い長い年月を生きる事に倦んでいたオスカーが、恋のもたらす高揚を貪欲に味わいたいと思ったとしても、それは仕方のない事かもしれなかった。
しかし、それほど人生経験をつんでいる訳ではなく、恋を楽しむ余裕など端からないアンジェリークにはオスカーのこの態度がどう映っていたのか。
オスカーは自分が恋を堪能することに夢中でそこまで考えがまわらなかった。

オスカーはアンジェリークに育成をさせないためにも、どんなに執務がたまろうと、アンジェリークの元に日参せざるを得なかった。
もちろん純粋にアンジェリークと一緒にいたいというのが第一義の目的であったのは確かだし
他の守護聖たちに、アンジェリークの時間を使わせたくないのも事実だったが
アンジェリークが女王にならないよう、育成を依頼する時間を与えないというのも理由の一つだった。
それでも、自分が育成を故意に停滞させているのだし、自分の所為でロザリアにまけたら可哀想だと言う気持ちと、
ロザリアにあまり急いで女王になられても困ると言う気持ちで
オスカーは育成に差が生じそうになると、ロザリアにまけない程度に、アンジェリークの大陸にサクリアを勝手に送った。
ロザリアが顕著にリードした場合は、ロザリアに恨みはないが、すまんと思いながら、サクリアを引き上げる妨害も辞さなかった。
元来宇宙のすみずみまで満たすだけのサクリアをオスカーだけでなく、守護聖は皆体内に漲らせている。
そのオスカーにとって、たったひとつの惑星のそのまたひとつの大陸に作用するサクリアなど、自分の小指の先ほどの量でもなかった。
その気になれば、一晩で育成を終わらせてしまう、もしくは大陸を壊滅させてしまうことも、
オスカーに限らず、守護聖ならだれでも皆やろうと思えばできることだった。
ただ、大陸の育成は試験だから、当然女王候補が自分たちから引き出せるサクリアの量は制限されており、どのようにそれを効率よく、有効に育成に反映することができるかが、いわば、女王になって宇宙をサクリアで満たすための模擬演習なのだ。
そして、守護聖たちは、自分たちが良いと思った候補には、女王候補が一回の育成に使うことを許されているのを多少上回るくらいのサクリアは
自由に送ったり、引き上げたりしてよいという権限を与えられていた。
この裁量の部分が、守護聖に許された女王を自分たちが選べる余地だった。
オスカーはこれを利用して、これはただの執行猶予だ、モラトリアムだとわかっていても、育成への干渉をやめなかった。
アンジェリークがすぐさま女王になる心配がなければ、それだけアンジェリークと過ごせる時間はながくなる。
自分が思いきって告白することを先延ばしにできるから、結果をつきつけられる恐ろしさも先送りすることができる。
王立研究院で、ロザリアの育成の達成度に注意し、常にロザリアとアンジェリークが
肩をならべるように、オスカーは夜になるとサクリアを送ったりひきあげたりの微調整に余念がなかった。

そして、今日もオスカーはアンジェリークの元を訪れたのだった。
机の上にたまった書類も予想されうるジュリアスの怒声も、アンジェリークの笑顔の前に忘れ去られた。
お嬢ちゃんのために時間を使いたいというセリフに嘘はない。自分にある時間すべてをアンジェリークに使いたいのだ。
アンジェリークが自分の誘いに応じてくれると、止まっていた血流が一気に流れ出すような気さえする。
オスカーはアンジェリークを連れて、今日は森の湖に向かった。
今日は先客がいて2人きりと言う訳にいかなかったが、それはそれで、オスカーには気が楽だった。
木漏れ日を浴びながら微笑むアンジェリークはまさしく光に戯れる天使のようだったし、滝の水で遊ぶ彼女はあどけなく、愛らしかった。
そのまま光にとけていってしまいそうで、思わず後ろから羽交い締めにして腕の中に閉じ込めた。
「オスカー様?」
きょとんと自分を見上げる仕草に愛しさが募る一方だった。
「ああ・・いや、水に落ちるんじゃないかと思ってな・・」
「やだ、いくらなんでも、そこまで不注意じゃありません」
ころころと笑うその無邪気さに眩暈すら覚える。人目がなかったら、自分が何をしたか、オスカーは本当に自信がなかった。

アンジェリークと過ごす時間は瞬く間にすぎた。
夕方アンジェリークを部屋に送り届けた別れ際、アンジェリークがなにか訴えかけるような、すがるような目でオスカーを見あげた。
「どうした?お嬢ちゃん、なにか言いたそうだな?」
「・・いえ、いいんです。なんでもありません」
アンジェリークは小さく吐息を漏らし、視線を外してしまう。
「そんな目で見られたら、帰りたく無くなっちまうな・・・俺とわかれるのが名残惜しいのか?心配しなくてもまた会いに来る。
 お嬢ちゃんの部屋にあがっちまったらほんとうに帰れなくなりそうだから、今日はここで、さよならだ。
 またな、お嬢ちゃん。夢の中でも俺を登場させてくれよ?俺も夢の中でお嬢ちゃんに会えるのを楽しみにしているぜ。」
「・・おやすみなさい、オスカー様・・」
アンジェリークはポーチでオスカーの姿が見えなくなるまで見送ってくれていた。
オスカーは背中にアンジェリークの視線を感じていた。
何度も振り向きたいと思ったが、未練がましいので、やめた。
また明日も会えるのだし・・・と、このときのオスカーは思っていた。 

しかし、今回極限まで仕事をためてしまったことが、オスカーに思ってもみなかった悪い結果をもたらした。
アンジェリークとのデートを終えて帰ってきたオスカーのところに、ジュリアスから呼び出しが入っていた。
『・・まずい』
と思ったものの、無視できる道理もなく、オスカーは死刑囚にでもなったような気分で、
控えめに言っても、警察に出頭する犯罪者のような気分でジュリアスの元に出頭した。
ジュリアスの執務室に入るや否や
「なぜ呼び出されたかは、おまえのほうでよくわかっているだろう」
と、あくまで冷静な口調で告げられた。
冷静過ぎるほどの口調がかえって、ジュリアスの怒りの深さを伺わせ、オスカーは絶対零度の寒風にでも晒された気分になる。
「王立研究院から、再三にわたり苦情がきている。おまえの所で、書類が滞り、政務に支障を来していると。
 私からも、幾度か遅滞なく執務を遂行する様に通達を出したはずだが、その間おまえは何をやっていたのだ。」
アンジェリークとの逢瀬に耽っていましたなどと言える筈もなく、オスカーは沈黙せざるを得ない。
しかし、ジュリアスは当然最近のオスカーの職務怠慢の原因を知っていた。
「聞けば女王候補をみだりに連れ歩き、育成を滞らせているというではないか、女王試験をおまえはなんと心得ているのだ。
 女王候補はおまえの交際相手として、ここに召還されたのではないのだぞ。 
 もっともおまえの誘いにのるアンジェリークもアンジェリークだが。まったくあのものも、女王候補としての自覚があるのか・・」
自分のことは何を言われても仕方ないが、アンジェリークのことを悪く言われるのは、耐えられなかった。
このジュリアスの言葉に、オスカーは思わず気色ばみ、言わなくてもいい反論をしてしまった。
「彼女は悪くありません、私がむりやり誘いだして・・」
ジュリアスの形のいい眉がぴくりと動いた。
「ほう?なら、おまえが誘いに行かなければ、アンジェリークも本来自分がやらねばならぬことを思い出すであろう。
ちょうどいい
 オスカー。おまえに自宅待機を命じる。期間はおまえが怠っていた職務をすべてかたずけるまでだ。」
「しかし・・お言葉ですが、アンジェリークの育成は滞ってはいないはずです」
ジュリアスがシニカルに軽く口の端を上げた。
「それはそうだろう。おまえはアンジェリークから依頼された以上のサクリアを送っているようだからな。
 もっとも、あれを女王の座に推すには、中途半端な量のようだがな・・勝ちすぎず、負けすぎずといったところか?
 要は炎のサクリアは十分地に満ちているから、しばらく使えなくとも、育成に支障はあるまいということだ」
ジュリアスの皮肉を込めた言葉にオスカーはぐっとつまる。
「反論は許さぬ。女王試験期間中ということで、職務怠慢については、たまった仕事を処理すればとがめだてはせぬ。
 いちいち、処分を下していては、ますます執務に差し障りがでるからな」
職務怠慢で処分をくだすとなると、オスカーの前に問題にせねばならぬ人物がいるので、処分を下すに下せないと言う事情もある。
処分を下したら執務が滞りなく処理されるようになる、というわけではないのだから、処分自体にも意味は無いのだ。
その点、ジュリアスはあくまで実務的で合理的だった。
ジュリアスは、小さく嘆息してから、真面目な顔でオスカーを見据え、こう言った。
「オスカー、私がおまえの少々放縦に過ぎる私生活に目を瞑っていたのも、おまえが為すべきことは為す人間だからだ。これ以上私を失望させるな。 
 それから、おまえはアンジェリークに女王になってほしいのか、そうでないのか、おまえの思惑がよくわからぬが、
 女王候補は、普段おまえが外界の女にしているように扱っていい相手ではないのだぞ。気紛れや戯れで彼女を惑わすようなことは慎め。
 おまえの中途半端な育成は、女王候補の意欲や努力を損なうだけのような気が、私はするのだ」
「・・・はっ」
オスカーは顔を伏せ、唇を噛み締めていた。
ジュリアスもオスカーがアンジェリークを日々連れまわしている事を苦々しく思っていたところだったので、その叱責には多分に感情的なものも含まれていたかもしれない。
しかし、実際執務をためにためていた事は覆し様のない事実なので、オスカーはこの決定に異を唱える事ができなかった。
オスカーはジュリアスの言葉に衝撃を受け、忸怩たる思いを抱いていたが、それはジュリアスから咎をうけたからではない。
自分の育成への干渉をアンジェリークがどう思うか、ジュリアスに指摘されるまで、迂闊にもオスカー自身は気付かなかったからだ。
確かに、サクリアを送ったり、止めたり、オスカーの行動は、端からみたら一貫性が無い。
オスカー自身には、そうせざるを得ない理由があったが、何も言ってないのだから、アンジェリークがその訳を察せらる訳が無い。
アンジェリークはオスカーが自分をどう思っているのか混乱しているかもしれない。
自分の行動をただの気紛れだと思っていたら、いや、それどころか、自分が彼女の行く末を弄んでいるとさえ受け取られかねない。
即刻、彼女に会わなくては!
彼女に会って誤解を解かねば!
その結果自分の気持ちを打ち明ける事になるだろうが、もう自分の受けるかもしれない傷を恐れて逃げている場合ではない。
自分の臆病で曖昧な態度が彼女を傷つけているかもしれないと思ったら、いたたまれず、身を焼くような焦燥感にオスカーは苛まれた。
だが自分はたった今残務処理に蟄居を命じられてしまった。
仕事を怠っていたのも、突き詰めていえば、自分の運命の宣告を受ける勇気がなかったからだ。
自業自得とはいえ、自宅謹慎の処分は今、オスカーに最も過酷な処分と言えた。
今のオスカーにできるのは、睡眠時間を返上してもたまった書類の山をかたずけることだけだった。  


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