The Robe Of Feathers 1
『…ん、まぶし…』
閉じた瞼の裏を刺激する白色光を感じ、アンジェリークはその刺激から逃れようと無意識のうちに体を半転させた。
ふわふわとした羽枕にあらためて頭を沈みこませ、その穏やかな眠りの恩寵に包まれている時間を体は少しでも引き延ばそうとする。
意識は次第に覚醒へと向かっており、それを自覚している自分もいるのだが、だからこそ、このうつつと夢路の狭間をたゆたうまどろみの時間は何物にも変え難い至福の意味合いをもっている。
手のひらから水がこぼれていくように夢が指の隙間からすり抜けて行く。あまい愛惜の念をもってさらさらと零れておちて行く夢を見送る。
とてもとても、幸せな満ち足りた夢を見ていた。
だが、その夢から覚める事がなぜか惜しくない。微かな胸の痛みはあるものの、夢を手放すまいと見苦しく追いすがろうとする気はまったくおきない。
夢がその嵩を減らして行くに連れ、現実がひたひたとアンジェリークに近寄ってき意識をゆさぶる。
声が聞こえる。よく知っている声が。
「…ワインは…そうだな、口当たりの良いやつを頼む。だが、ワインだけじゃなく、よく冷えた水もピッチャーに汲んできてくれ。それが済んだら今夜はもういい。明日は俺が呼んだとき以外、一切この部屋に人を近づけるな。来客も誰一人として取次ぐな。たとえジュリアス様からのお呼び出しでもだ。俺は早朝から遠乗りに出かけてしまっていつ帰るかわからないとでも適当に言いつくろえ」
いつでも、いつまでも聞いていたい声。聞いているだけで、身も心も甘い疼きに震えてしまう声。その声をもっと聞きたい。心を焦がす思いと、その声の自分を導くような力強さにアンジェリークの意識はうつつの世界へと一気に浮上した。
『…ここ、どこ?』
開けた瞳にはいってきた見知らぬ天井。
『私、なぜ、眠ってたの?今はいったい何時?』
自分をくるんでいる夜具はさらさらと肌に滑るようで、とても心地よい肌触りだったが、なぜこんなに陶然とするような香りもするのだろう。
なじみのないようでいて、それでいて包まれているとうっとりとしてしまう、懐かしいようでいて心がざわめくこの香り。男の人のにおい…男の人…?
「お嬢ちゃん、目が覚めたか?」
ビロードで頬をなでられるような、これ以上ないというほどの優しい声にアンジェリークははっとして体を起こし、声のした方向に顔をむけた。
「オスカーさま…」
誰よりも愛しい、何よりも大切な自分の想い人がこの上なく優しい微笑みを湛えて自分を見つめていた。
幾分瞳を細め、眩しいものでもみるかのような顔でアンジェリークの側に近づいてくる。
オスカーの姿と声に、アンジェリークの脳裏に意識を失う直前までの嵐のように激しく、めくるめくほどにあまい記憶が洪水のようになだれこみ、一瞬アンジェリークはパニックに陥りかけた。
あれは夢?それとも、今が夢?なにが本当にあったことなのかよくわからない。あんな幸せな時間が現実だったなんて、信じてもいいの?でも、でも、オスカー様が私のそばに近づいていらっしゃる。私を見てる。なんだか切なそうな、でも、とても優しい瞳で私を見てくださってる。どうしよう、そんな瞳で見られたら、私、心臓が破裂しちゃう。
オスカーがアンジェリークの隣にこしかけた。ベッドがオスカーの重みで幾分沈みこむ。と、途端にその広い胸にかき抱かれた。
ナイトローブの合わせ目から浅褐色の胸板が覗いている。その厚く温かい胸に自分の頬が押し当てられる。
オスカーの大きな手がアンジェリークの髪から背中を何度も何度もなだめるように優しくなでさすっていく。
オスカーの手が髪を梳き、背中をすべっていくごとに、アンジェリークの波立っていた心は凪の海の様に穏やかな暖かさにみちていく。
『ああ、あたたかい…なにもかも預けてしまいたくなるこの手の力強さ…やさしさ…私、よく知ってる…夢…じゃないのね…オスカー様は本当に私のそばにいてくださるのね…』
その腕の力強さと胸の温かさが、先ほどすごした二人の時間が幻では無いことをようやく実感させてくれた。
片時も離れたくない、離さないでほしいと願う激情の赴くままに体を重ね、肌を合わせたあの時間は夢ではなかったのだ。
悦びと愛しさとほんの少しの哀しみににた感情が、胸の奥底から滾々と泉のように湧き出してくる。
溢れ出す思いのままにアンジェリークも自分からオスカーの背に腕を回して、精一杯その体をだきしめた。
いくら力をこめて抱きしめても溢れ出す思いが伝えきれないような気がして、なんだか目頭の奥がつーんと熱くなった。
みるとはなしにオスカーをみあげた。
オスカーはふ…と、柔らかく微笑んでアンジェリークを見つめかえした。
翠緑の瞳に儚げな光が揺らめいていた。安心させてやりたい、何も心配することはないのだとの思いをこめてオスカーは細い体を抱きしめ髪をなでてやった。
そのまま髪にキスをおとす。アンジェリークは瞳をそっと閉じる。
額に、閉じた瞼に、白桃のような頬に、かわいい鼻の天辺にキスをおとしてから、どうしようもなく愛しくてそっと頬を摺り寄せた。
今、アンジェリークは深い口付けを求めているのでないと、直感的にオスカーは感じていた。
アンジェリークが緩やかに吐息をついていく。心の凪がオスカーに伝わってきた。頬を擦り合わせては静かに抱きしめあっていた。
ほどなくして軽いノック音がきこえた。
アンジェリークがはっと瞳を見開いた。
オスカーはアンジェリークを安心させる様に軽く口付けてから、優しく耳元でささやきかけた。
「お嬢ちゃん、腹が減っただろう?軽い食事をもってこさせた。ちょっとだけ待っててくれよ?ああ、ただ、そのかわいい胸をみせるのは俺だけにしてもらいたいな?」
こういうと、アンジェリークの白い乳房の先端に咲く桜色の蕾をちゅっと軽く吸い上げた。
アンジェリークはこの時始めて、自分が全裸のままベッドから体を起こしていたこと、そのため乳房をずっと露にしたままオスカーの胸に抱かれていたことに気付いたのだった。
「きゃぁっ!」
アンジェリークは慌てて上掛けを頭から引きかぶってベッドの中にもぐりこんでしまった。
恥ずかしくて恥ずかしくて死んでしまいそうだった。
オスカーはそんなアンジェリークの心境を知ってかしらずか、上掛けの上からぽんぽんとアンジェリークの体を軽く叩いてからドアのほうに向かった様だった。ベッドの傾きが一瞬軽くなったのが体に感じられたからだった。
恥かしくてたまらないのに、でもオスカーの気配が一瞬でも遠のくと、アンジェリークはそこはかとなく不安がつのる。
そっと布団から顔をだしてオスカーの背中を目でおった。
オスカーがその気配を感じたのか、アンジェリークの方に向直ってなだめるような瞳で微笑んだ。
置いてきぼりをくらった子供のような振るまいをオスカーに見られた気恥ずかしさに、アンジェリークはまた上掛けを頭の上まで引き上げてしまった。
『あ〜ん、もう、オスカー様の顔が恥ずかしくて見られない…こ、こんなとき、どんな顔をしたらいいの?』
いくら考えても答えはみつかりそうになかった。
「お嬢ちゃん、ほら、出ておいで。もう誰もいないから。」
オスカーがベッドの脇まで手ずからワゴンを押してきた。
使用人は当然セッティングまでしていくつもりだったのだが、オスカーにドアの所で追い返されたのだ。
アンジェリークがおずおずと顔をだした。胸の膨らみを上掛けで隠しながら上体を起こした。
恥ずかしさが減じた訳ではないが、恥ずかしがってばかりいていつまでもお篭りしていたらオスカーだって困ってしまうだろうということは、いくらなんでも予想がついた。
「お嬢ちゃん、ほら、少しでもいいから、何か口にいれた方がいい」
オスカーはワインのコルクにコルク抜きを突き刺していた。
どう振舞ったらいいかわからず、ただオスカーの手元を見ていたアンジェリークは、この時漸くオスカーがナイトローブを羽織っている事に気付いた。
『オスカーさまったら、いつのまに……』
使用人といえども全裸で対応するわけにいかない以上オスカーが何かを羽織っているのは、当たり前と言えば当たり前なのだが、アンジェリークは自分だけが上掛けの下は何も身につけていないことに、重ねて気恥ずかしさを覚えた。
上掛けで胸を隠しているだけでは、食事すると言ってもいつ胸が露になるか気にしながらでは落ちつかないし、第一手が不自由でしょうがない。
オスカーはもしや、他人ではなくオスカーに見せる分にはそんなことまったく気にならないのかもしれないが、あいにくアンジェリークは食事中に胸を露にして平気でいられる神経は今までも、そして多分これからも持ちあわせてはいなかった。
アンジェリークは一生懸命ベッドに入る前のことを思い出していた。また顔が熱くなりそうだったが、それはこらえて、即物的な記憶をのみをなんとかたぐりよせようとしてみた。
『えっと、オスカー様に抱っこされてベッドまでつれてこられたから(きゃっ)そのときはもう何も着てなかったし、そうだ、シャワーを浴びた時脱いだ服はそのまま浴室に置いてきちゃったんだわ。』
となると、なんとか浴室まで服を取りにいかねばならない。
オスカーの前を全裸で横切るなんて恥ずかしくて論外だし、かといってオスカーに下着まで取ってきてもらうのはもっと困る。
『そうだ!一応バスタオルだけは体に巻いてたんだわ、私』
注意して周りを見てみると、ベッドの脇に毟り取られたバスタオルが無造作に投げ捨てられていた。
アンジェリークはオスカーがワインのコルクを外している間に、さっとタオルを取り上げて素早く体にまきつけると
「オスカー様、ごめんなさい、先にちょっとバスルームお借りします」といって、ベッドからおりたとうとした。
と、膝に力がはいらず『え?やだ?なんで?』と思ったまま、がくりと床にへたりこみそうになった瞬間、オスカーにその腕をとられ腰を支えられた。
「おっと、足許に気をつけろよ、お嬢ちゃん。腰にきているだろう?初めてのお嬢ちゃんに結構無理をさせちまったからな。体がつらいんじゃないか?バスルームを使いたいなら、俺が運んでやるぜ?」
オスカーのこの言葉に、アンジェリークは紅葉を散らしたように耳まで真っ赤になってしまった。
立ちあがろうとしたとき初めて気がついた。下腹部に微かに残る鈍い痛み。胎内からじわりと溢れ腿を伝わる液体の感触。笑ってしまう膝頭。そして確かに股間にまだ存在する異物感。まるでまだオスカーの物がそこにあるかのような…
愛を交わした確かな証拠が体の隅々に残っていた。
愛しあった記憶が鮮明に蘇ると同時に胸の奥から下腹部にかけて走ったきゅぅんと閉めつけられるような甘い衝撃が、アンジェリークの体から更に力を奪い、へなへなと腰が崩れ落ちそうになる。
でも、いくらなんでもまたバスルームまで抱きかかえられて運ばれるのは、恥ずかしさもここに極めりといった感があって、とうてい良しとはいえなかった。
「だ、大丈夫です、オスカーさま、あ、歩けますから、私…」
「といっても、こんなふらふらしているお嬢ちゃんを俺も放ってはおけないぜ。」
というと、オスカーは半ば強引にアンジェリークの肩と腰を抱いてバスルームの前まで連れて行った。
「あ、ありがとうございます」
「お嬢ちゃんの足腰がたたないのは、俺のせいだからな、当然だろう?」
といってにやりと笑ったオスカーにアンジェリークはもうなんと答えていいかわからず、頭がくらくらしてしまった。
瞳を伏せ、自分の胸を抱きかかえてバスルームに逃げ込むように入っていったアンジェリークの背中を愛しげに見つめてから、オスカーはテーブルセッティングに戻った。
「…ない」
アンジェリークはバスルームで2度目のパニックに陥りかけていた。
シャワーを浴びる前に脱いだはずの自分の服がどこにも見当たらないのだ。
靴下が片方とか、ショーツがないとか(これはこれで困るのだが)小さなものがどこかに紛れてしまって見つからないというのならまだわかる。
だが、それほど大きくないバスルームのどこを探しても、下着類はおろかなくなりようのないブラウスやジャンパースカートまで見つからないのだ。
「わ、私、絶対ここで服を脱いだわよね?だってシャワーを浴びたんだもの。でも、ここからどこかに服を持って行った覚えはないわ。だって、出る前にオスカー様が私を迎えにいらしたんだもの。なのにどうして私の服はここにないの?一体全体どこにいっちゃったの?」
これでは、またまたシャワールームから出るに出られない。
いや、オスカーは自分がバスタオル一枚のままでもおそらく気にしないだろうが、どちらにしても永遠にバスタオル一枚でいるわけには行かない以上、なんとかして自分の服をみつけださないわけにはいかない。
「ああ〜ん、もうどうしたらいいの〜?」
アンジェリークが半べそをかいていると、軽いノック音とともに気遣わしげなオスカーの声が聞こえた。
「お嬢ちゃんどうした?料理が冷めちまうぜ?…まさかどこか、具合が悪いのか?」
「あっ!ははははい、オスカー様、大丈夫です。なんでもありません。なんでも無いんですけど…」
どう考えても、このままでは埒があかないと思ったアンジェリークは思いきって浴室のドアを小さくあけて、バスタオルで包んだままの半身をするりと覗かせた。
「あの、オスカーさまぁ。私、私、どうしても服がみつけられないんです。だから、ここからなかなかでられなくって…お風呂で脱いだ服が見つからないなんて、ばかみたいとは思うんですけど、ほんとにみつからなくて困ってるんです〜」
アンジェリークが心底困ったような顔でせつせつとオスカーに訴えると、オスカーは瞬間瞳を見開いて沈黙したあと、くっくっと可笑しそうに笑い始めた。
「こりゃあ、お嬢ちゃんには悪いことをしちまったな。お嬢ちゃんの服はみつからなくて当然なんだ。俺がさっき洗濯するように屋敷の者に言いつけて手渡しちまったからな。今ごろはランドリーの中だろう。」
今度はアンジェリークが一瞬ぽかんとした顔をしてから、恐る恐るオスカーに訊ね返した。
「あの、オスカー様…それって、私の服全部ですか?その、し、下着も?」
「ああ、そこにあった衣類一式全部だ。」
平然とした顔でしゃあしゃあと答えるオスカーにアンジェリークが泣きそうな顔になった。
「オスカー様、そんな…お館の方たちに私のし、下着まで洗っていただくなんて、私、私、恥ずかしくてもう、皆さんと顔あわせられません。それに、お洗濯終るのっていつなんですか?私、その間ずっと裸でいなくちゃいけないんですか?」
アンジェリークの悲しそうな顔を見て、オスカーはぎょっとして『これはまずいことになった』とうろたえた。
「いや、それは、そのお嬢ちゃんも綺麗な服を着たいだろうと思ったし…そ、そうだ!それにお嬢ちゃんは、俺と結婚して遠からずこの屋敷の女主人になるんだ。そうなったら、どのみち洗濯は使用人にまかせることになるんだから、恥ずかしがることはないんだ、なっ!」
なんとか必死に言い繕い、アンジェリークの気をもりたてようとする。
女主人になる、と言う言葉にアンジェリークの頬にぽっと朱が差し、悲しいだけでない含羞を湛えた物に表情はかわったが、なおも困ったような表情も消えず
「わ、私は自分で洗濯するのが当たり前だったから、その感覚って正直言ってよくわかりませんけど…それは、オスカー様のおっしゃる通りかもしれませんけど、それはそれとして、でも、でも、あの、その、私の服はいつ帰ってくるんですか?」
「それが…月の曜日の朝までは帰ってこない」
アンジェリークのすずを張ったような瞳が極限まで見開いたと思うと、その瞳からじわぁっと涙が滲みだした。
「じゃ、オスカーさま、私、月の曜日までずっと裸のままでいなくちゃいけないんですか?そ、それに、どうしよう、どうしたらいいの?裸じゃ寮に帰れない…」
しくしくと泣き出してしまったアンジェリークを見て、オスカーは心底動転した。
アンジェリークを泣かせるなんてことがオスカーの本意であったわけがなく、アンジェリークを手元に留めておきたいと言うほんの軽い気持ちで行ったことがアンジェリークをこれほど哀しませるとは思ってもいなかったのだ。
オスカーは慌てて浴室のドアを勢いよく開けると、途方にくれたように佇んでいるアンジェリークの体をぎゅっと抱きしめた。
「お嬢ちゃん、すまなかった、頼む、泣かないでくれ。お嬢ちゃんを帰したくなかった、それだけなんだ。服を着たら、お嬢ちゃんが帰るといいだしそうで、それで勝手に服を隠すような真似をしちまったんだ。お嬢ちゃんがこんなに困るとは思わなかったんだ。」
「で、でも、私、一度寮に帰らないと…」
相変わらず困ったように自分を見上げるアンジェリークを、オスカーは更にきつく抱きしめた。
「だめだ、帰さない。お願いだ。帰るなんて言わないでくれ。今度は俺が頼む。俺の側にいてくれ。月の曜日の朝、寮に帰る時は俺が送っていく。そのまま二人で聖殿に出仕すればいい。だから、その時までここに、俺と一緒にいてくれ。お嬢ちゃんを1人で帰しちまったら、二度とあえなくなるようで、不安でたまらないんだ。」
「くすん…オ、オスカーさま、でも、私が寮にいないってわかったら、オスカー様のところにいるってわかったら、オスカー様がお咎めをうけるなんてことになりませんか?もともと、わ、私がわがまま言ってオスカー様のお家までついてきちゃったんですもの。私が怒られるのはいいけど、もしオスカー様がジュリアス様からお叱りを受けたり、ご迷惑がかかったりしたら、私、私…」
「アンジェリーク…」
オスカーはアンジェリークの言葉にと胸をつかれ絶句した。
アンジェリークは自分がオスカーの私邸に滞在することで受けるかもしれない咎を、しかも、自分ではなくオスカーが受けるかもしれない咎を怖れて帰らなくてはと言っていたことに、オスカーは魂をゆすぶられるような衝撃を受けていた。
自分こそわがままでアンジェリークを離したくなくて、姑息なまねをしようとしたのに、アンジェリークは自分自身のことよりオスカーのことを案じていた。
アンジェリークの優しい心情を思ってオスカーは自分がとても恥ずかしくなると同時に、そのアンジェリークの気持ちに胸のなか一杯にあたたかなものが満ちて行くのを感じた。
炎のサクリアが身中を満たし居たたまれないほどに体が熱くなることは稀にあったが、これは自分が今まで感じたことのない穏やかな温もりだった。
「お嬢ちゃん、俺のことを心配してくれてたのか…だが、大丈夫だ。俺が前もって寮に連絡はしておいた。今夜は食事に、明日も朝から俺が遠乗りに連れ出すから寮にいなくても心配しないようにと言付けておいた。だから、俺だけじゃなく、お嬢ちゃんも叱られたりする心配は無いんだ。」
アンジェリークはしゃくりあげるのをやめ、オスカーをびっくりして見上げた。
いったいいつ、そんな采配を振るっていたのかとオスカーの手回しのよさに心から驚いていた。
「ほ、ほんとですか?オスカー様、オスカー様がお叱りを受ける心配はないんですか?私、ここにいても大丈夫なんですか?」
「ああ、俺がお嬢ちゃんにここにいて欲しかったから、お嬢ちゃんが行方不明だと思われたりしないように寮に連絡しておいた。」
オスカーはアンジェリークの体を改めて抱きしると、切なげな口調で訴えた。
「本当はお嬢ちゃんは俺のものだと、今すぐ世界中に叫んでしまいたいくらいなんだ。やましいところは欠片も無いから、堂々としていたいところだが、女王陛下のご裁可を仰ぐまでは、一応表ざたにしないほうがいいだろうと思って姑息な真似をした。でも、それも月の曜日までの辛抱だ。女王陛下に報告さえしてしまえば、本当になんの心配もなくなる。だから、それまでの時間一緒にいよう。いや、頼む、ここで俺の側にいてくれ」
「わ、私も…私のほうがオスカー様のお側においてくださいってわがままいったんですもの。私もずっとオスカー様と一緒にいたいです。でもオスカー様のご迷惑になったらいけないと思って…」
「ああ、お嬢ちゃん、本当にすまない、お嬢ちゃんは俺のことを案じてくれていたのに、俺は自分のことしか考えてなかった。君は白銀の翼をその背に持てる天使だ。たとえ、今一時俺のものになってくれても、君は女王になる資格を失ったわけじゃない。君を1人にしてしまったら、気が変わってやはり女王になるなんていいだしやしないかと、心配でしかたなかったんだ。」
アンジェリークがこの言葉を聞いて、打ちひしがれたような、今まで見たことも無いほど悲しそうな顔になった。
「オスカーさま、そんな…」
「悪かった、お嬢ちゃん、俺のわがままを押し付けて…」
アンジェリークが、彼女にしては強い調子でオスカーの言葉を遮った。
「違います!そのことじゃありません!オスカー様、私がオスカー様と一緒にいたいっていったこと、その、お慕いしてますって言ったこと、そんなあやふやな、いい加減な気持ちだと思ってらっしゃったんですか?私、オスカー様より大事なものなんてありません。オスカー様のことで胸が一杯なのに、こんなに1人の人のことしか考えられなくて女王になんかなれるわけ無いのに。なのに、私の気持ちを信じてくださらなかったの…?」
オスカーは、アンジェリークの小さな体から自分に向かって小波のようにひたひたと迫ってくる哀しみにまたも無様なほどうろたえた。
慌ててアンジェリークの体をきつく抱きしめなおし、
「い、いや、そんなつもりじゃないんだ。お嬢ちゃんを信じていないんじゃなくて…なぜか、すごく不安だったんだ。なんで、俺はこんなに不安だったんだろう…」
オスカーは懸命に記憶を掘り起こす。
アンジェリークとひとつになったとき、その翼を手折り、アンジェリークの全てを自分の色に染めたと思い歓喜に打ち震えた。
なのに目覚めた後、自分の腕の中のアンジェリークの寝顔を見つめていたらじわじわと黒雲のような不安が自分を浸潤していった。
安らかで、どこまでも清浄な可憐さに満ちたその姿を限りなく愛しく感じながらも、自分が抱いたからといって、アンジェリークの本質は何も変わってなどいないことも感じた。
彼女が自分のものと思えたあの至福の一瞬が錯覚だったかのように頼りなく思えた。
彼女はその翼を失ってなどいない。抱くことなどなんの枷にもならない。一度抱いたからといって彼女を失う恐怖が滅したわけでもない。
どんなばかげた行いでも、彼女を自分の元に留めておけると思うなら自分はなんでもするだろう。
子供じみていると判っていても、服を隠したりしたのはその所為だ。
自分が結婚をすぐ口にしたのも、ジュリアスや陛下に対して二人の仲に説得力をもたせるためというのはひとつの建前であったことに今気付いた。
もちろんアンジェリークを心の底から愛しているから結婚したいと思ったし、自分の真剣な思いをアンジェリークに示したかったから求婚したのだ。
ただ、たとえ結婚が単なる形式にすぎなくても、彼女と自分をつなぐ鎖をひとつでも多く、強固にしておきたかったから、焦燥に駆られたように結婚を急いた部分も確かにあったのだとオスカーはここで漸く思い至った。
「お嬢ちゃんを信じてないんじゃないんだ。君は至高の存在に成り得る掛け替えのない存在だ。だが、俺にとっても、何よりも掛け替えの無い存在なんだ。そんな君が宇宙に比して俺を選んでくれたことが、夢のようで、信じられなくて…だからお嬢ちゃんを失うかもしれないというほんの僅かな不安にも胸がつぶれそうだったんだ…」
オスカーはアンジェリークの髪に顔を埋めて、アンジェリークの存在を確かめるように何度も自分の頬をアンジェリークに摺り寄せた。
『オスカー様も不安だったの?私がオスカー様とさよならしちゃったら、もう会えなくなっちゃうような気がしたみたいに?…』
アンジェリークは信じられない想いだったが、オスカーの抱いた不安自体は痛いほどわかった。
明日会いに来るといったオスカーに無理を言って今日ついてきてしまったのも、同じ気持ちだったからだ。
あまりに大切であまりに愛しいから、何の根拠も理由などなくても、その存在を失うかもしれないと考えただけで、恐怖に心が凍てついてしまう。
だから、一時でも離れると不安に押しつぶされそうで、ここまでついてきてしまったのだ。
オスカーの想いが自分と等分らしいと知り、アンジェリークの心が震えた。
同時にオスカーを責めるような言葉を発したことに深い悔恨を覚えた。
「オスカー様、ごめんなさい、ごめんなさい、責めるようなことを言ってしまって…私、私もオスカー様と離れ離れになるのがちょっとの間でも不安だったのに。なのに、オスカー様の気持ちがわからなくて…」
そういいながら、アンジェリークはオスカーの体をできうる限り硬くだきしめた。
オスカーはアンジェリークの華奢な体を自分も抱きしめているにも拘わらず、自分の方がアンジェリークに包まれ守られているような錯覚を覚えた。
「アンジェリーク…俺を笑わないでくれ。いや、笑ってくれてもいい。こんなに情けなくて弱いやつとわかっても…こんな勝手なやつでも…それでも、俺の側にいてくれるか?…どこにもいかないでくれるか?…」
アンジェリークが懸命に背伸びしてオスカーに自分から口付けた。
オスカーがびっくりしたように瞳を見開いた。
「オスカー様、そんなことおっしゃらないで。私だってオスカー様のおそばにいてもいいのか、とっても不安です。オスカー様からみたら子供だし、ロザリアみたいに美人じゃないし、貴族でもないし…でも、私はオスカー様のお側にいたいの。オスカー様と一緒にいたいの。オスカー様にふさわしい女性になりたいんです。そのためならなんでもします。それだけじゃだめですか?その気持ちだけじゃ…」
「お嬢ちゃん…ああ、そうか、そんなことを言い出したら、キリがないな…俺のそばにいてくれ、どこにもいかないでくれって、俺は卑怯にも君に要求してばかりで…自分の我をおしつけてばかりだったな。俺のほうこそ君の側にいたいというのに、自分からは何も示さず、与えず…俺が君の側にいたい。こう言えばよかったんだな…俺は自分が恥ずかしい…」
求めるばかりだから、不安が強くなる。いくら、与えられても受動でいる限りその不安には際限がない。
愛してくれ、癒してくれとアンジェリークの愛を乞うだけでは、男として人間として、余りに情けない。
自分がしてやれることより、してもらうことばかり考えていた自分の精神の有り様が心から恥ずかしかった。
「そんなこと!もう、何もおっしゃらないで、私、オスカー様のおそばにいられれば、それでいいんです。オスカー様の腕の中でオスカー様の温もりを感じていられれば幸せなんです。だから…このまま…離さないで、抱きしめていてください…」
「お嬢ちゃん、俺も、俺も君が腕の中にいてくれれば、それでいい。それ以上望むことなんてない。いつでも君の温もりを感じていたいんだ…」
オスカーがアンジェリークに覆い被さるように激しく口付けた。
力強く舌をねじ込んで口腔を貪った。アンジェリークも頬を紅潮させながらその口付けを受けた。
オスカーの情熱に応えたいのだが、まだどうしたらよいのかよくわからないことがもどかしかった。
ひとしきりアンジェリークの舌を堪能した後、オスカーはアンジェリークの耳朶を唇で食みながら、やるせなげな吐息混じりに囁いた。
「お嬢ちゃん…だめだ、俺は本当に辛抱がきかない、君が欲しくてたまらない。君の体のことを考えたら、休ませてやらなくてはと思うのに…君が欲しくて気が狂いそうだ…」
アンジェリークは頬を朱に染めて俯いてしまった。
「や、そんなオスカー様…恥ずかしい…」
「いやか?体が辛いか?」
アンジェリークがふるふると小さく首を振った。
「大丈夫です。多分…それに…嫌じゃ…ないです…」
思いつめたようにそういうと、アンジェリークはオスカーの胸に顔を埋めてしまった。
オスカーは嬉しそうに微笑むとアンジェリークの体を軽々と抱き上げ、再度ベッドに戻した。
即座に自分のローブを脱ぎ捨て、引きむしるようにアンジェリークのタオルもとりさると、その美しい裸身に覆い被さり組み敷いた。
白い裸身に先刻の情事の痕跡がそこここに咲き乱れる様は、散り敷く花吹雪がその身を飾りたてているかのようだった。
既に寝乱れたシーツの上で、のびやかな肢体は妖しいまでに輝いていた。
「優しくする…」
「オスカー様はいつもお優しいです…」
アンジェリークがはにかむように微笑んだ。
その微笑みに弾かれたように、オスカーはアンジェリークの唇を再度塞いだ。
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