始まりの日 1


「痛っ・・・」
下腹部に走った鈍痛にアンジェリークは目を覚ました。
部屋のなかは薄暗く、日はまだ登ってはいないようだ。
ベッドサイドの時計を見ると、時刻は間もなく午前五時になろうとしていた。
アンジェリークは、問いかけるように自分の大きくふくらんだお腹に掌をあてた。
『まさか・・・?』
アンジェリークが「おめでたです」と告げられてから、約9ヶ月あまり。妊娠週数は39週目に入っていた。
最終月経から数えた予定日にはまだ間があったが、いつ陣痛がきても不思議はない時期に差しかかっていた。
お腹に手をあてたまま、しばらく静かに様子を伺っていたが、何事もなかったように、お腹は沈黙してしまった。
『きのせいだったのかしら・・・』
まだ、起きるには早いので、もう一眠りしたいところだったが、なんだか目がさえてしまった。
みるとはなしに、自分のとなりで安らかな寝息をたてている、オスカーの顔を覗きこんだ。
アンジェリークはオスカーの寝顔をみたことは、実はそれほど多くない。
寝起きのいいオスカーは、大体アンジェリークより先に目覚めており、
アンジェリークが起こされることのほうが、圧倒的に多かったし
夜は夜で、大体アンジェリークのほうが先にダウンしてしまうので(何でとは言わないが)
アンジェリークがオスカーの寝顔をみることができるのは、このように、就寝中にアンジェリークが偶然目覚めた場合に限られていた。
めったにない機会なので,アンジェリークはここぞとばかりに,愛しい夫の寝顔をまじまじと観察した。
形のいい鼻梁に、厚すぎず薄すぎない締まった口元、意思の強そうな顎の線が大人の男を感じさせる。
その一方、秀でた額に寝乱れた前髪が掛かった様が、どことなく少年ぽい印象も醸し出しており、なんだかかわいいとアンジェリークは思ってしまう
『・・オスカー様ってほんとにすてき・・でも、自分の夫の寝顔に見惚れるなんて、変かしら・・』
オスカーの寝顔はとても魅力的だったが、軽く閉じられた瞼の下に隠れているオスカーの瞳が、実はアンジェリークは一番好きだった。
情愛をこめて自分を見つめる氷青色の瞳がその印象と裏腹にどれほど暖かな光に溢れているかをアンジェリークはよく知っている。
今,その瞳を見られないのが少し寂しくて、アンジェリークは、その寂しさを埋める様に、オスカーの胸に寄り添った。
よく眠っているから無意識の動きなのだろうが、オスカーは添い伏すアンジェリークの肩を力強く抱き寄せた。
その仕草に、アンジェリークの胸がほわんと暖かく満たされる。
心が暖かくなると同時にその安心感からか、また心地よい眠気がアンジェリークを包んだ。
とろとろと眠りに引きこまれていく瞬間アンジェリークはこんなことを考えていた。
『私・・こんなに甘えん坊で・・ちゃんと・・おかあさ・・に・・なれるのか・・な・・・』

「おはよう、お嬢ちゃん、朝だぜ、気分はどうだ?」
そして、今朝もやっぱりアンジェリークはオスカーに起こされた。
妊娠してからというもの、アンジェリークが朝目覚めると、オスカーは開口一番いつもアンジェリークの体調を気遣ってくれる。
「う・・ん、おはようございます・・オスカー・・さま・」
明け方下腹部に一瞬はしった鈍痛のことを、この時点でアンジェリークはすっかり忘れていた。
朝の身支度を整え、オスカーを聖殿に送り出す際、いってらっしゃいのキスをすると、オスカーが
「いいか、お嬢ちゃん、なにかあったら、すぐ連絡をよこすんだぞ。すぐに帰ってくるからな」
と、とてつもなく心配そうな口調でアンジェリークに告げる。
これも、妊娠してから、毎朝繰り返されているルーティンワークのようなものだった。
「大丈夫ですよ,オスカー様、オスカー様こそ,お気をつけて。でも、寂しいから、なるべく早くに帰ってきてください、ね?」
斜め下30度の角度から、上目使いにかわいらしく強請られて、オスカーが否と言う訳がなかった。
「なるべく早く帰るからな。じゃ、行ってくる」
後ろ髪を引かれる思いでオスカーが出仕して行った。
ほっと一息ついたアンジェリークは、安楽椅子に座り、オットマンに足を投げ出してマタニティ雑誌をぱらぱらとめくっていた
アンジェリークは体重管理には関しては模範的な妊婦で、体重増加は7kg前後に押さえていた。
これ以上太ったらアンジェリークの細い足では体重が支えきれなくなってしまうからだ。
それでも、短期間の間に増えた体重はどうしても足腰に負担をかけるので、アンジェリークはこのごろいつも、座るときはオットマンに
足を預けて、すこしでも膝やくるぶしに掛かる負担を軽くしていたのであった。
そのとき、また鈍い下腹痛をアンジェリークは感じた。
『やだ・・・もしかして、これ,陣痛?』
朝方感じた鈍痛をアンジェリークは思い出した。だが、まだ確信はもてない。
『痛みの間隔が短く規則的になってきたら、そうだって本にも書いてあったけど・・』
一瞬心細さを感じて、アンジェリークは思わず、オスカーに連絡しようとして、すんでのところでそれを踏みとどまった
『だめ、まだそうと決まったわけでもないのに、オスカー様を心配させちゃ!それに、今ごろきっとお忙しい時間だもの。
もし陣痛でなかったら、ただお仕事の邪魔したことになっちゃう・・』
本にも、病院への連絡は陣痛の間隔が10分くらいになってからとかいてある。
これは自分の夫への連絡もそれに順じてよいのだろうと思い、アンジェリークは痛みを感じた時間をはかり始めた。
忘れた頃に痛いと思ったら、一時間経っていた。
次にいたたたと思ったら、30分経っていた。
それが20分に一度となり、なにか下着が濡れたような感じがして浴室に駆け込むと、下着に薄桃色のしみがついていた。
『これ・・おしるし・・ってやつかしら。』
子宮口が開く拍子に、ほんの少量の出血があることが多いと、やはり本に書いてあったことを思い出しアンジェリークは確信した
『生まれるんだわ・・まちがいない』

一度確信してしまうと、逆にアンジェリークはもう動じなかった。
入院してしまう前に、やることを済ませておこう思うと、度胸がすわった。
ここでオスカーに連絡しても,オスカーにできることは何もないし、
慌てさせるだけだと思ったアンジェリークは連絡するのは
入院の直前の方がいいだろうと思い、あえて今連絡するのはやめた。
そして、入院用品をひとつずつ指差し確認したあと、階下に降りて、昼食の用意をしているシェフに声をかけ
今日の昼食のデザートに、イチゴタルトとイチゴのパルフェをつけてくれるよう頼んだ。
シェフはアンジェリークの願いに目を丸くした。
「いいのですか?奥様・・太らないように摂生されていたのでは?」
「あ、もう、いいの。食事制限は・・(どうせ、入院しちゃったらまたお菓子はしばらくお預けだもの、今日位いいわよね)」
陣痛と言っても、20分ごとに、一分間くらい生理痛のような痛みがあるくらいで、それが収まってしまえば後は、まったく何ともない
アンジェリークは、ひさしぶりに、シェフの心づくしのデザートを平らげ、一時の至福を味わった。

午後三時をまわるころ、いよいよ、陣痛の間隔が10分刻みくらいに狭まってきた。
だんだん痛みの度合いも増してきたような気がする。
あと2、3時間も待てばオスカーが帰宅するだろう。
まだ生まれるには間がありそうだったし、オスカーの帰宅を待ってから告げても遅くはなさそうな気もしたが
アンジェリークは思いなおして、ヴィジフォンに向かい、オスカーの執務室への直通ナンバーをプッシュした。
初産で勝手がわからないし、あんまりオスカーに遠慮しても、オスカーが却って,水臭いと言って傷つきそうなきがしたのだ。
私だけの赤ちゃんじゃないのだもの、オスカー様と2人で迎えてあげなくちゃ・・
そんなことを考えながらコールを待っていると,モニターがぱっと明るくなりオスカーのまぶしい笑顔が全面に広がった。
「どうした?お嬢ちゃん、寂しくて俺の顔がみたくなっちまったか?もう少しで帰るから、あとちょっと待っててくれよ?」
見なれていても、見惚れてしまう魅惑的な笑顔だった。アンジェリークは自分も微笑み返し
「違うんです、オスカー様・・あの・・陣痛がきたみたいなんです。」
「え、なんだって?お嬢ちゃん?」
オスカーは一瞬アンジェリークの言葉が理解できなかったようだ。
「ですから・・あの、生まれそうなんです・・赤ちゃん・・」
オスカーの口があんぐりと開いた。アンジェリークはオスカーのこんな顔を見たのは初めてだった。
と、次の瞬間、オスカーの顔がモニターからふっと消えたかと思うと、がたがたぐわらどがしゃっとものすごい音がした。
なんとなくアンジェリークには何が起きたのか察せられた。
おそらく執務室の机に座っていることを忘れていきなり走り出そうとでもしたのだろう。
程なく、オスカーがもう一度モニターに現れた。髪の毛が心なしか乱れ、顔面蒼白である
「いいか、お嬢ちゃん、落ちつけよ、落ちつけよ」
全然落ちついてないのはオスカーの方なのだが、自分では全く自覚がないらしい。
「いますぐ、帰るからな、そこから一歩も動くんじゃないぞ」
「あの・・オスカーさま」
私はまだ大丈夫ですから、とアンジェリークが言おうとした途端、モニターが一方的にぶつっと切れた。

オスカーとの通話が切れてしまったので、アンジェリークはしかたなく、病院に陣痛が10分おきにあることを連絡した。
病院が、では入院の支度をして、おいでくださいといったところで、玄関のドアがばったーんとものすごい音をたてた。
オスカーと話してからまだ五分も経っていない。
「え?まさか、オスカー様、もうお帰りになったの?」
聖殿からどのような手段を使ったのか、加速装置でもついているかのごとき素早さでオスカーが帰宅したようだ。
どん、どん、どん、と重い音が等間隔に聞こえてくる。
『あ、階段を三段飛びに上がってるんだわ。』
アンジェリークには音でオスカーが何をしているか、手に取るようにわかった。
と思うと、どすっと一際低い重低音が鳴り響いた。
『・・踏み外したんだわ、きっと・・』
きっちり三秒後、再び床を踏み抜くような音をがっがとたてながら廊下を走ってくる重い足音がきこえる。
『3・2・1・・』
「お嬢ちゃんっ!無事か?!子供は?俺たちの子供は?!今すぐうまれるのか!」
予想通りのタイミングでオスカーが夫婦の私室に息せき切って駆け込んできた。
形のいい鼻の頭が赤くなっていた。きっと階段を踏み外したとき、顔から突っ込んだのだろう。
「オスカー様、いえ、まだ、そんなすぐには生まれないと思います。でも、これから病院に行きますからいっしょにきていただけますか?
 一人だと心細いので・・」
オスカーがアンジェリークをぎゅっと抱きしめた。
「もちろんだ!俺がお嬢ちゃんを一人にする訳がないだろう!すまない。心細かっただろう?
 だが、よかった・・俺が帰るまでの間にお嬢ちゃんにもしものことがあったらと思ったら,俺は生きた心地がしなかった・・」
アンジェリークがオスカーを安心させるように微笑んだ。
「オスカーさま、大丈夫ですよ、みんな、普通にしていることですもの。それに、陣痛もまだ間隔があいてますし、
 まだちょっと生まれるまで時間が掛かりそうなんです。早く連絡しちゃってごめんなさい。まだ執務時間中だったのに・・」
「・・そういえば、そうだった・・」
「やだ、オスカー様,黙って帰ってきちゃったんですか?」
「お嬢ちゃんのことで頭がいっぱいで、それどころじゃなかった。」
「それに、すごくお早いお帰りでしたけど、どうやってかえってらしたんですか?」
「いや、聖殿の外に止めてあったエアバイクをちょっと借りて・・」
「・・それって、ゼフェル様のエアバイクじゃないんですか?黙って乗ってきちゃったんですか?」
「いや・・それが・・実はそうだ」
はああぁ〜とアンジェリークは溜息を付いた。
「オスカー様。まだ私は大丈夫です。破水もしてませんし。だから、一緒に病院に行く前に、ジュリアス様とゼフェル様に連絡なさってくださいますか?」
「・・わかった」
オスカーがしぶしぶヴィジフォンのスイッチをいれ、ジュリアスに通話をいれた。
ジュリアスの仏頂面がモニターに大写しなった途端、
「このばっかもの〜〜!執務を放り出してどこに行きおった〜〜!」
ジュリアスの怒声が部屋中に響き渡った。
その雷に打たれて、オスカーは硬直してしまった。しどろもどろに弁解する。
「いや、あの、その、ですから・・」
アンジェリークがヴィジフォンに割って入った。
「ジュリアス様、ご無沙汰しております。」
ジュリアスの瞳が大きく見開かれた。
「アンジェリークではないか?息災にしておったか?アンジェリークがいるということは・・そこはおまえたちの私邸か?」
「申しわけありません、ジュリアス様、私に陣痛がきて、子供が生まれそうなもので、つい心細くて、オスカー様をおよび立てしてしまったんです」
「なに?いよいよ生まれるのか?オスカー、それならそうと、早くいわぬか!初産のアンジェリークが不安なことくらい私にもわかるぞ。
 オスカー、私があとは、なんとかしておく。アンジェリークのそばについていてやれ」
「はっ、申しわけありません、お言葉に甘えさせていただきます」
「うむ、いい子を産めよ、アンジェリーク」
ジュリアスがやさしげに微笑むと、通話が切れた。
「ジュリアス様って、本当はお優しい方ですよね。オスカー様。ちょっと厳しいところが誤解されがちだけど・・」
「・・あ、ああ、お嬢ちゃんはジュリアス様のことがよくわかってるんだな」
「さ、あとはゼフェル様にエアバイクのことちゃんと、謝ってくださいね」
「ああ・・」
オスカーが今度はゼフェルの執務室の直通ナンバーをプッシュした。
ゼフェルの顔がモニターに映る。こちらも、ものすごく機嫌が悪そうだった。
「あっ。オスカー!おっさん、てめぇどこにいる!俺のエアバイク勝手に乗りまわしてどこにやったんだ!ちゃんと目撃者がいるんだ。
 ネタは上がってんだぜ!さあ、きりきり白状してもらおうか!」
今度もアンジェリークがさっとモニターに割りこんだ。
「ゼフェル様、お久しぶりです」
「よう!アンジェリークじゃねぇか!元気にやってっか?」
「すみませんでした、ゼフェル様、私赤ちゃんが生まれそうなんです。それで、心細くてオスカー様をお呼び立てしてしまったものですから
 オスカー様が一刻も早く私のところに来ようとして、ゼフェル様のエアバイクをお借りしてしまったんです。
 私が悪いんです、すみません」
「お、おい・・赤ん坊が生まれるのか?そっか〜、そういうことじゃしかたねえな。怒っちゃいねぇから安心しな。アンジェリーク」
「ありがとうございます、ゼフェルさま」
「無事生まれたら、すぐしらせんだぞ、いいな?見舞いにいってやっからよ。」
「はい」
「ところで、おっさんよ〜、ぼけっとしてねぇで、さっさとアンジェリークを病院連れっててやれよな。ったく、とろくせぇったらねえぜ」
「おまえにいわれなくても、わかってる!なんのために俺が急いで帰ってきたとおもってるんだ!」
「へっ、じゃ、がんばれよ、アンジェリーク」
「はい、ゼフェル様。いろいろご迷惑をおかけして申しわけありませんでした。」
「いいってことよ。じゃな」
モニターが一瞬砂嵐になってから、ブラックアウトした。
「まったく言いたい放題言いやがって・・」
「それは、仕方ないですよ、オスカーさま・・っつ・・」
「おい、お嬢ちゃん、大丈夫か?」
「すみません、オスカー様・・私もあんまり余裕がなくなってきちゃったみたいです」
このやり取りの間に、アンジェリークの陣痛は、もう、5,6分間隔になっていた。
「お嬢ちゃん、しっかりするんだ!今、救急車を呼ぶからな!」
「オスカー様・・妊婦には救急車はきてくれないんですよ、出産は病気じゃないから・・」
「なに〜!お嬢ちゃんがこんなに苦しんでいるのにか!よし、それじゃ、今俺がエアカーを出すからな!
 ちょっとの辛抱だぞ、すぐ病院に連れて行ってやる!」
アンジェリークは正直言って、相当、地に足のついてないオスカーの運転で病院に行くのはちょっと不安だった。
自動操縦のエアカーとは言え、座標軸の設定は人が行う領域だからだ。
そこで、アンジェリークは
「や、だめ、オスカー様・・オスカー様には私、手を握ってていただきたいんです。運転なんかしないで・・」
と、必殺の斜め下30度からの目線で真摯に訴えかけた。
「そ、そうか!そうだな!俺としたことが迂闊だったぜ、お嬢ちゃん、運転は誰でもできるがお嬢ちゃんを励ましてやれるのは俺だけだものな」
「はい、オスカー様、私、オスカー様におそばにいていただきたいんです」
嘘ではない。ちょっとばかり誇張はしたが・・
「すぐ全自動のハイヤーを呼ぼう。執事に言ってくる」
オスカーがインタホンで執事にてきぱきと命令を下す。アンジェリークはほっとした。
「お嬢ちゃん、転ぶといけない。玄関まで俺が連れて行ってやる」
「そのまえに、オスカー様も着替えてください。す、素敵ですけど、守護聖の正装のままじゃ、目立ちすぎます・・あいたた」
「じゃ、甲冑とマントだけはずすから、ちょっと待っててくれ」
オスカーは,急いで、黒のアンダーだけになるとアンジェリークをひょいと抱き上げた。
多少体重が増えたと言ってもオスカーにはほとんど差異は感じられない程度の変化だ。
「あの、荷物・・入院用の・・」
「ああ、使用人に玄関まで運ばせるから,気にするな」
こういうと、オスカーは、壊れ物を扱うように大事に大事にアンジェリークを階下に運んで行った。
ホールに下りると、執事がドアを開けて待っていた。もうハイヤーは玄関前に到着していた。
「俺はこれから,アンジェリークの出産に付き添ってくる。帰りは何時になるかわからん。今日はもう仕事はないから、
 適当に戸締りして、皆を休ませていいぞ」
「はい、かしこまりましてございます。奥様、どうかご無事で・・」
「大丈夫ですよ、執事さん、オスカー様が一緒にいてくださいますから・・」
その点に関しては、一点の曇りもない信頼をアンジェリークはオスカーに寄せていた。
「奥様、旦那様、お待ちください〜」
エアカーに乗ろうとした2人をシェフが呼びとめた。バスケットを手にしている。
「今日のディナーを大急ぎでお詰めしました。食べやすいようにしてありますので、どうか奥様これで、力をお付けになってください」
「気が利くな・・ありがたく受け取っておこう。」
荷物をうけとって、オスカーはアンジェリークとともに、エアカーに乗りこんだ。
2人を乗せたエアカーは一路出産予定の病院にむけて音もなく発進した。

病院に着いて,受付を済ませると、アンジェリークはすぐ出産控え室に案内された。
看護婦が、アンジェリークに前開きの綿製のローブを手渡し、これに着替えるようにアンジェリークに告げた。
「奥さん、もう、かなり辛そうね。この分なら、今夜中に生まれそうだわね」
「・・そうだと、いいんですけど・・」
アンジェリークには、もう微笑む余裕はなかった。陣痛は、2,3分おきにアンジェリークを襲っている。
もう痛くない時間のほうが少ないくらいだ。
「すぐ内診しますから、下履きも脱いでおいてくださいね」
「あ、はい」
「旦那さんはずっと一緒にいらっしゃいますか?」
「あ、あたりまえだ!苦しんでる妻を一人で放っておくような男じゃないぜ、俺は!」
「じゃ、旦那さんも感染予防の為、これを着けておいてくださいね」
看護婦は、オスカーの力説を全く無視して、滅菌済みの大判のローブと頭につけるキャップをオスカーに手渡して出ていった。
「お嬢ちゃん、大丈夫か?一人で着替えられるか?」
「オスカー様、大丈夫ですよ。痛くないときは、ほんとに、何ともないんですよ。」
これは事実だったが、その間隔がどんどん短くなっているのがオスカーにもわかった。
アンジェリークがうっと詰まるように手が止まってしまうときは、陣痛がきているときだし、
はぁと息をついて,急いで着替えているときは、痛みが引いているときだと言うのが、傍目にもありありとわかった。
オスカーは自分も急いで滅菌済みのローブとキャップをつけた。かなり情けない格好だが、このさい4の5の言ってはいられない。
「お嬢ちゃん、俺になにかしてもらいことはないか?そうだ、シェフが持たせてくれたバスケットがあったな。なにか食べるか?」
「・・・お腹がいたくて、なにもたべたくありません・・ごめんなさい。オスカー様、よろしかったら、どうぞ」
「俺も、苦しんでいるお嬢ちゃんを横目に食事なんてできないぜ。痛いのはどこだ?さすってやろう」
「ありがとうございます、オスカー様、じゃ、ちょっと腰をさすってくださいますか?」
アンジェリークが控え室のベッドに横になった。
オスカーがせっせと腰をさすってやる。
こんな状況でなければ,アンジェリークの肌に触れるのはオスカーにとってなによりの楽しみなのだが、
さすがに、痛みに息を止めて体を硬直させているアンジェリークに、邪な気持ちは沸いてこなかった。
看護婦が、アンジェリークの様子をみにきた
「あらあら,奥さん、息を止めて我慢しちゃだめよ。お腹の赤ちゃんに酸素がいかなくなっちゃうわよ。母親学級でやったでしょ。
 呼吸法で痛みを逃すのよ。ほら、ひっひっふ〜って2度短く息を吸って、長く吐き出すの。はい、やってみて」
「ひっひっふ〜、ひっひっふ〜、あ、ほんと、ちょっと楽になったみたい」
「はい、旦那さんも、奥さんの手を握って一緒に呼吸法をやってあげてくださいね」
「こ、こうか?ひっひっふ〜。ひっひっふ〜」
「そうそう、上手ですよ、じゃ、陣痛が一分間隔になったら、呼んでくださいね」
看護婦が、控え室を出ていった。
オスカーはアンジェリークの手を握り、二人で、まさしく呼吸をあわせて、ひたすらひっひっふ〜と呼吸法を繰り返していた。
オリヴィエあたりには絶対みせられない姿だと、オスカーは頭の片隅でちらりと思ったが、
苦しんでいるアンジェリークに対して、あまりに不謹慎だと慌ててこの考えを打ち消すと、前にも増して熱心にひっひっふ〜とやった。
自分にこの苦しみは本当の意味で理解も肩代わりもできないとわかっているから、せめて自分のできることをしてやりたかった。

「いたい・いたい・いたい・いたい・いたあい〜」
アンジェリークが堪えきれずに、わめき出した。
陣痛はもう、間断なくアンジェリークを襲っている。
アンジェリークはたったり、すわったり、ベッドにねてみたりとまったくおちつかない。
どういう姿勢が一番痛みが少ないのか探ってみたが,結局どんな格好でも痛いのは同じだと悟ったらしく、ベッドに転がった。
「お嬢ちゃん、しっかりしろ、今看護婦をよんでやるからな」
オスカーはこんなに苦しんでいるアンジェリークになにもしてやれない自分がもどかしく、
同じくなにもしてくれない医療関係者にだんだん腹が立ってきた。
「そ、そうですね、こんなに痛いんだもの、もう分娩室に行ってもいいっていわれるかも・・」
アンジェリークがナースコールのボタンを押した。
ほどなく看護婦が入ってきた。
「奥さん、どう?」
「もう、ずっと痛いです〜」
アンジェリークがべそをかく
「こんなに苦しがっているんだ、なんとかしてやれないのか?もう、いっそのこと腹を切ってだしちまうとか・・」
あきれたような顔で看護婦がオスカーを見た。
「骨盤と子宮口が開ききるまでが一番辛いんですよ、でも、開いちゃえば、いきんで産めますからね。
 やっぱり帝王切開より自然分娩のほうが、結果として後が辛くないからいいのよ。帝王切開だとどうしても、術後の傷が痛むし癒着の危険もあるから、
 安易にはお勧めできませんけど・・切りたいの?奥さんは」
「産んじゃえば後は楽になるんでしょう?いいです〜、がんばって産みます〜」
「そうそう、その意気よ。旦那さん、奥さんの痛がる様子をみるのが辛いのはわかるけど、本当に辛いのは奥さんなんだし、その奥さんが
 がんばるって言ってるんだから、応援してあげなくちゃ。見てるのが辛いなら、産まれるまで自宅で待機していてもいいんですよ?」
アンジェリークがすがるような瞳でオスカーを見た
「そ、そんな無責任なことができるかっ!お嬢ちゃんが苦しんでいるのは俺の子供を産もうとしてくれてるからなのにっ!」
「ちゃんとわかってるじゃないですか、旦那さん。奥さんが苦しんでる元もとの原因を作ったのは旦那さんなんだから、ちゃんと責任は取らなくちゃ」
オスカーはぐぅの音もでなかった。言われてみればその通りなのだ。
「お嬢ちゃん、すまなかった・・俺が、お嬢ちゃんを苦しめる元凶だったとは・・・言われてみればその通りだ・・」
オスカーは可哀想なほど、しおれてしまった。
看護婦はうるさい旦那を黙らせようとした薬がちょっとききすぎちゃったかしらと、少し反省した。
しかし,心配は無用だった。アンジェリークが陣痛を押してがばと起きあがると、オスカーの手をぎゅっと握りしめた。
「お、オスカー様、何をいうんですか!私、オスカー様の赤ちゃん産めるなんてこんな幸せなことありませんっ!
 いま、ちょっと(ほんとはかなり)つらいけど、きっと、これは、私たちがもっと幸せになるためのちょっとした試練なんです、絶対そうです!
 もう、私、痛いなんて言いませんから、オスカー様もそんなことおっしゃらないでください〜」
「・・アンジェリーク」
「はいはい、じゃ、ちょっと子宮口見ましょうね」
2人の世界をつくろうとしたアンジェリークとオスカーを無視して,看護婦が、アンジェリークの股間にぐいと手を突っ込んだ。
オスカーが声にならない叫びを上げる。
『お・おれの大事なお嬢ちゃんのあそこに、あんなに無造作に手をつっこんでぇ〜〜!』
「ああ、もうすぐ全開ね。あとちょっとの辛抱よ、奥さん」
「全開?全開ってどれくらい?」
「もうすぐで子宮口が10cmくらい開きますよ。そしたらいきんでいいですからね。」
オスカーは衝撃を受けていた。未だに自分の指一本すらきついアンジェリークのあそこが10cmも開いているなんて完璧に想像の範疇を超えていた。
実際は開いているのは子宮口であって、オスカーの想像しているところとはちょっと異なっているのだが(こちらは膣口である)
オスカーに、厳密な区別がつけられようはずもなかった。
アンジェリークのそこがどうなっているのか、ちょっと見てみたいという誘惑に一瞬かられたが、やはり、不謹慎だっ!と自分を慌てて諌めた。
「ああ、いきむ前にアレをしておかなくちゃ・・旦那さん、ちょっとそとに出てもらえますか?」
オスカーは内心の動揺を見透かされたかのように、あからさまにうろたえた。
「な、なぜ俺を追い出すんだ?お嬢ちゃんの苦しみから、目をそらさず、俺は俺の責任をまっとうする覚悟だぞ!」
またもや、看護婦がやれやれというかおをした。
「奥さんがいきむとき,出ちゃわないように、しておかなくちゃいけないんです、奥さん見られたくないわよね?」
「だーかーらーなんのことだ?」
「浣腸です、か・ん・ちょ・う!」
オスカーの頭にその言葉が染み渡るまでたっぷり10秒は掛かった。オスカーがぼんと音を立てそうな勢いで赤面した。
アンジェリークの顔は、もはや、余す所なく真っ赤だった。
「わかったなら、でていってください。ほらほら」
看護婦に押されるまま、オスカーは一度部屋をでた。
『不謹慎だ、あまりに不謹慎だぞっ!オスカー!自分を恥ずかしく思えっ!』
廊下で棒立ちしながら、オスカーが必死に自分を責めていた。
アンジェリークが浣腸される姿が脳裏に浮かんで、オスカーは図らずも興奮してしまったのだ。
『アンジェリークがあんなに苦しんでいると言うのに、こんなことで欲情してしまう俺って・・』
オスカーは、アンジェリークのいる控え室に戻る前になんとか自分の高まり鎮めねばと、一生懸命九九の暗唱を始めた。

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