「・・幸せ・・なのかな? ・・考えたことがなかったから、よくわからないんだけど・・。
でも、自分が可哀想とか、そういう風に思ったことはないから、 やっぱり幸せなんじゃないでしょうか・・」
「君は幸せなのか?」
オスカーの問いかけに対する、これが彼女の答えだった。
これから先、気の遠くなるような年月を一人ですごしていくことに、彼女は静かな、しかし、確固とした決意をしているようだった。
その表情から、彼女の心は風のない湖水の面のように冴え冴えと澄み切っている事がうかがえた。
「そうか・・」
オスカーは微かな吐息を漏らし、顔を伏せた。
彼女が今の境遇に満足しているのなら、自分はこれ以上何も言うべきではないのかもしれない。
しかし、自分の心のほうに、なにか、いいようのないわだかまりをオスカーは感じていた。
こんな思いを抱いたまま、彼女の元を辞してよいのだろうか。オスカーは考える時間が、心の整理をする時間が欲しかった。
オスカーは、ふと、思いついたように顔をあげた。
「アンジェリーク、俺はジュリアス様に退任の報告をしてこようと思うんだが・・・」
「墓所にいらっしゃいます?ご案内しましょうか?」
「いや、いい。多分すぐわかるだろう。」
椅子から立ちあがったオスカーに、アンジェリークが声をかけた。
「じゃ、ご報告がお済みになったら、今日は、お夕食をご一緒していってくださいね。よろしかったら、そのまま、うちに、お泊りになってらしてください。」
「ああ、そのことは、また後でな」
「きっとですよ、オスカー様」
アンジェリークに見送られながら、オスカーは丘を登っていった。
ジュリアスの墓石の前にオスカーは立った。
苔むした墓石が、アンジェリークの過ごしてきた一人の時間の長さを否応なくオスカーに知らしめる。
「ジュリアス様、私もようやくお役ご免となりました。 あなたが聖地を去られてから、ここにご報告に来るまで、これほど時間がかかるとは、私も予想してませんでしたよ。」
オスカーは墓石の前に跪いた。
「あなたの奥方は、今までも、そしてこれからもあなたへの愛と思い出に生きていくつもりのようです。彼女はそれで、しあわせだと言う・・しかし、ジュリアス様、それが、あなたが彼女に望んだ幸せの形なのですか・・」
オスカーは、ジュリアスが聖地を去る前に、自分に残して行った言葉を思い出していた。
「もし、アンジェリークがひどく悲しむようであれば、
そなたが、あれを支えてやってはくれまいか?」このジュリアスの言葉は、見えない楔のようにオスカーの胸に深く打ちこまれ、オスカーの心をアンジェリークに繋ぎ止めていた。
彼女が悲しむようなら、自分が彼女の支えにならねばと、ずっと彼女の事を気にかけていたようなきがする。
しかし、彼女は決して人前では涙を見せなかった。自分の前でも、おそらく、その他の守護聖の前でも。
目を真っ赤に腫らして出仕したことはあっても、他人の前で、その凛とした態度は常に崩れる事はなかった。
ジュリアスが聖地を去るときも、ジュリアスの早過ぎる死の知らせをうけた、その時でさえも・・・
常に補佐官としての立場を優先する事こそジュリアスの願いであり、それに答える事がアンジェリークのジュリアスへの愛の証であったとしても、ジュリアスの葬儀の後も痛ましいまでに気丈に振舞うアンジェリークに、オスカーは、何度も
「辛かったら、辛いと言っていい。俺の前では泣いてもいいんだ」
と言いかけては、遂に、それをいいだすことができなかった。
なぜ、そんな事をいうのかと、アンジェリークに問い返されたら、ジュリアスの残して行った言葉を告げざるを得ない。
しかし、ジュリアスの遺志を継ぐことを誇りとし、その誇りを心の支えに、自分一人で歩きつづけようとしている彼女に、ジュリアスが聖地を去るとき自分にアンジェリークの今後を託して行ったことを、オスカーはアンジェリークに告げるべきではないと、思っていた。告げてはいけないと思っていた。
その言葉がアンジェリークの将来を憂いてのものであっても、最後の最後でジュリアスがアンジェリークの力を信じていなかったのではないかと、アンジェリークが受け取りかねないし、ジュリアスも、この言葉をアンジェリークに伝える事は望んでいなかったと、思うからだ。
結果として、オスカーは何もできない自分にもどかしさと苛立ちを募らせながら、今にも倒れそうでいながら、しかし、決して崩れおちないアンジェリークの姿を見守り続ける事しかできなかった。
手助けも、慰めも拒否しているような彼女に、あからさまに泣き崩れてくれれば、自分が手を差し伸べても不自然ではないのにと、彼女が泣き出す事を望むような倒錯した思いまで抱いた。
そして、黙って彼女を見守るうちに、やっとの事で一人で立っているような危うさがアンジェリークから少しづつ、薄れていった。
容赦無く移ろいゆく歳月と、執務に忙殺される日々が彼女の悲しみを潮が引くようにゆっくりと、しかし着実に減じていったのだろう。
たまさか、微かな微笑みさえ見せるようになったアンジェリークに、オスカーは安堵と一抹の寂しさを覚えた。
結局自分がしてやれる事は何も無かったと・・・
『ジュリアス様、あなたの奥方は、誠、光を司る方の伴侶としてふさわしく、力強く、誇り高く生きてこられた。だが、思いでだけに目をむけ、過去を抱きしめて徒に時を重ねて行くことが、あなたの望んだ伴侶のありかたでしょうか・・・』
オスカーとて、幸せの形がひとつではない事、幸せが人によって異なることは重々承知している。
そして、彼女が自分は幸せだと言う以上、黙ってここを辞するべきなのかもしれない。
しかし、言葉にしなければ分からないことがある一方、言葉というものが往々にして、真実を覆い隠す道具になることもオスカーは知っている。
そして、オスカー自身、自分の気持ちを見極めてみたいという思いがふくらんでいく。
このままでは、帰れない。彼女の事も、自分の気持ちも、納得のいくまで見つめなおさねば。
彼女が最も苦しんでいたときに、自分は何もしてやれなかった。今も、してやれることはないのだろうか。
そして、なぜ、自分は彼女の事がこんなに気がかりなのだろうか。
ジュリアスの言葉に縛られているだけなのか。
それとも・・・
オスカーはジュリアスの墓所からアンジェリークの家に戻り、今夜の夕食と滞在の招待を正式に承諾した。
そして、アンジェリークにこう、付け加えた。
「アンジェリーク、正直言って、俺はいまのところ、今後の身の振り方が決まっていない。故郷には一度は戻ってみたいが、ジュリアス様のような大貴族出身で無い俺には、もはや係累が残っているかどうかも分からんし、たとえ、残っていたとしても、快く迎えられるとは限らないしな。幸い、元守護聖は生活は保証されていることだし、今後の身の振り方が決まるまで、ここに滞在させてもらってもかまわないだろうか。 いろいろと、昔がたりも、したいしな」
アンジェリークは快く、この申し出に応じた。
「女所帯で何かと行き届かない事もあるかもしれませんが、オスカー様さえよろしければ、いつまででもいらっしゃってください。私のほうは、いっこうにかまいませんから。」
「俺の図々しい願いに、快く答えてくれてありがとうよ、お嬢ちゃん。でも、俺以外の男からこんな申し出をされても決して承諾しちゃあ、いけないぜ。お嬢ちゃんを食べようとする狼かもしれないからな?」
昔のオスカーそのままの、軽いコケットリーに溢れた言いまわしに、アンジェリークの口元が懐かしそうに綻ぶ。
「ふふ、そのオスカー様が一番狼なんじゃないですか?忘れてました。お泊りになってなんて、言わないほうがよかったかしら?」
可笑しそうに話すアンジェリークに、大仰に肩をすくめながらオスカーは
「俺みたいな紳士を捕まえて何を言うんだ?お嬢ちゃん。だいたいジュリアス様のお膝元じゃ、紳士にならざるを得ないだろう?」
「そうですね、オスカー様は、ジュリアスの前では、いつも、いい子でしたものね」
「いい子はないだろう、お嬢ちゃん。それに、オスカー様はやめてくれ。俺はもう、ただのオスカーだ」
恐ろしいほどの真剣な瞳で見つめられ、アンジェリークは、どぎまぎしてしまう。
そんな心の揺れを見透かされないように、自分も強気にでる。
「私だって、もうお嬢ちゃんじゃありません。もう、アンジェリークって呼んでいただいてもいいでしょう?」
「確かにこんな立派なレディを捕まえて、お嬢ちゃんは失礼だったな。では、アンジェリーク。ご招待ありがとう。謹んでお受けする。」
こういいながら、オスカーはアンジェリークの手をとり、その甲にそっと口付けた。
突然のことに、アンジェリークは真っ赤になって、慌てて手を引っ込めてしまった。
「もう、突然びっくりするじゃないですか、オスカー様・・オスカー」
「手の甲へのキスは女主人への当然の挨拶じゃないか。こんな事で慌てふためいてるようじゃ、やはりお嬢ちゃんといわれても仕方ないな?」
といって、アンジェリークにウインクを投げた。
「もうっ、知りません!」
ますます、真っ赤になって、アンジェリークはぱたぱたと、台所に駆け込んで行ってしまった。
でも、駆けこみながらも
「お夕飯、オスカーの好きそうなもの、考えますからね」
と言う事を忘れない。
そんなアンジェリークの心遣いに、オスカーは、今まで感じた事の無い温かいものが胸に満ちていくような感覚に軽い戸惑いを覚えた。
その日の夕食はアンジェリークにとって、予想以上に心浮き立つ時間となった。
オスカーには、「こうして、聖地を出た皆様が、訪ねてきてくださったり、
庭の世話をしたり毎日ジュリアスのお墓まで登っていったり・・。
結構、忙しく過ごしてるつもりなんですけど」
と、告げたアンジェリークではあったが、実際のところ、リュミエールが退任の際立ち寄ってくれて以来、来客らしい来客は何年も迎えていなかった。
時の流れに取り残されている自分の身では、真の意味で他者との交流は不可能だったから、この屋敷からなるべく外に出ず、人目を避けて世捨て人のように暮らしていた。
住み込みの小間使いは、長くても数年おきに替えていたし、多少気心がしれても対等の友人になれるわけではなかった
だから、自分の置かれた特殊な状況を好奇や不審の目でみられることもなく、言い訳もごまかしもいらない気のおけない旧知の相手との会話は本当に、久しぶりだった。
まだ聖地にいるランディやマルセルの様子、ジュリアスの子孫で新たな闇の守護聖となったアレクシスの消息など、聞きたい事はいくらでもあり、オスカーはその一つ一つに丁寧に答えてくれた。
夕食の後で、オスカーは、文官の長ヘンドリックから言付かってきたジュリアスの肖像画をアンジェリークに手渡した。
「オスカー、これ・・・」
「そのタッチに、見覚えはないか?」
「マイヨール画伯の・・・」
守護聖の肖像画の執筆を請け負っていた老画伯とは一度主星で出会ったことがあった。
そして、オスカーはこの肖像画が聖地の宝物庫に仕舞い込まれていたいきさつをアンジェリークに話してくれた。
この画伯にしては、荒く鋭いタッチが、ジュリアスの意思の強さと気高さをよく現していた。
アンジェリークは、その肖像画を飽くことなく見つめていた。
そして、オスカーはジュリアスに思いを馳せているアンジェリークのその横顔を、じっとみつめていた。
その思い出は、幸せなものなのか、切ないものなのか、いや、おそらく一言では言い表せないような錯綜とした思いなのだろうと、アンジェリークの表情を見ながら、オスカーは胸の奥に感じたちりりとした微かな痛みに、また戸惑いを覚えた。
次の日から、オスカーとアンジェリークの暮らしが始まった。
オスカーは自分は客ではない、居候か、下宿人とでも思って遠慮ももてなしも要らないといいはり、アンジェリークが日々どのように暮らしているのかを知りたがり、アンジェリークと行動をともにしたがった。
最初は遠慮もあって、オスカーに頼み事など思いもよらなかったアンジェリークであったが、アンジェリークが何かしようとするたびに、声をかけてくれるオスカーの気持ちを無下にするのも申し訳なく感じて、庭仕事や、買い物などに、付き合ってもらう事にした。
庭の手入れも二人でいろいろしゃべりながらやっていると、あっという間に時間がすぎるし、普段小間使いに任せている買い物も、オスカーの好みの物を買い揃えるのは、アンジェリークにとっても思いのほか楽しい一時になった。
考えてみれば、自分の物でなく人のためのものを買うという行為自体、どれほど前に行ったかわからないくらい昔の事だった。
そして、オスカーは必ずアンジェリークに付いてきて、なにくれとなく気を使ってくれた。
アンジェリークとの買い物や、その途中で、お茶を飲むことなど、アンジェリークとの外出自体を楽しんでいるようだった。
アンジェリークは1度オスカーに
「お買い物に付き合うのなんて、退屈じゃありませんか?オスカーさ・・オスカーはオスカーで好きな事をなさってくださっていいんですよ」
と言ったことがあったのだが、オスカーはこう答えた。
「いや、俺も守護聖の生活が長かったから、君と町へ出て、回りの様子を見ること自体リハビリみたいなものなんだ。ただ人としてのな。だから、君さえ迷惑じゃなかったら、俺のほうが付き合わせて欲しいくらいなんだ」
アンジェリークはオスカーのその答えに、それ以上もう何も言わなかった。
ジュリアスや、クラヴィスほどではないにしてもオスカーの在位も守護聖としてはかなり長きにわたったほうだ。
生活に支障はなくても、これから先の人生をどうやって生きていくか、自分の中で再構築が必要なことはアンジェリークにもよくわかった。
ただ、オスカーがひとつだけアンジェリークと行動をともにしないことがあった。
ジュリアスの墓参である。
アンジェリークは毎日、ジュリアスの眠る墓所へ丘を登っていって、その日の出来事をジュリアスに語りかけていた。
オスカーはその時は何気なく散策にでたり、読書に勤しんでいた。
オスカーが自分からなにか言ったわけではなかったが、アンジェリークにはオスカーが自分とジュリアスの二人きりの時間を尊重してくれているのが、よくわかった。
他の事に関しては、なにくれとなくアンジェリークに声をかけるオスカーが、ジュリアスの墓参に行くときだけは何も言わなかったから。
そんなオスカーの気遣いもうれしく、アンジェリークの報告は日一日とオスカーの事が増えて行った。
ジュリアスの肖像画をすぐに飾ってくれた事、外出のときはさりげなく車道側にたったり、人ごみから庇ってくれること、無聊をもてあます暇もないほど、いろいろな遊びを知っていて、誘ってくれる事、そして、自分とジュリアスの思い出をいろいろ聞いてくれる事・・・
オスカーが滞在するようになってから、アンジェリークは食事が楽しみになった。
自分一人のときは、小間使いと簡単にすませてしまっていたが、今は、材料の買い物から始まって、自分が台所にたつことも格段に多くなった。
最初オスカーは台所でも、自分にできることはないかと、聞いてきたのだが、この屋敷の台所は体格の良いオスカーが動き回るには手狭で、オスカーがいると、アンジェリークや小間使いが台所で身動きが取れなくなってしまうので台所仕事だけは丁重にお断りした。
オスカーはアンジェリークの作ったものはなんにでも旺盛な食欲を示し、その健啖家ぶりは見ていて気持ちいいくらいだった。
そして、アンジェリークは自分がこんな暮らし方を経験したことがなかったことをいまさらながらに思い出す。
誰かとなんでもない会話をしながら、一緒に町を歩く。
人のために料理をし、それを喜んで食べてくれる人の姿を見る。
大貴族出身のジュリアスとの、しかも聖地での暮らしでは体験できなかったことばかりだった。
他人との生活は、お互い自分の背後に積み重ねてきた家庭の文化をすりあわせていくことだ。
生粋の貴族であるジュリアスと、元々庶民であるアンジェリークの心に描く家庭のモデルは結婚当初、相当隔たりがあった。
貴族の当主として長い年月を一人で暮らしてきたジュリアスが、自分と言う他人と初めて生活を共にする精神的な困難と労苦を察し、アンジェリークは自分のほうが、貴族としての生活習慣を受け入れ様と努力し、実践していった。
ただ、夫婦別々の寝室などは、頭ではわかっているつもりでも、感情が納得できず、泣いてジュリアスを困らせたこともあったりしたが。
ジュリアスはジュリアスで戸惑いながらも、徐々に自分により添った生活を試みようとしてくれていることがアンジェリークにも解った。
こうして、お互い異なった生活を送っていたもの同士がそれぞれに寄り添って納得できる新しい生活を作り上げて行く。
自分たちの結婚生活も、本質は多分自分の両親が培っていったものと大差はなかっただろうと、アンジェリークは今でも思っている。
ただ、その二人の生活は本来長い時間や,様様な衝突を経て、擦りあわされて行く筈だった
しかし、ジュリアスの急激なサクリアの衰えと、その結果、二人が別れ別れに異なった時間軸を生きていく決意をしたことで、退任間際のほんの一時だけ、ジュリアスの大幅な譲歩で、二人の生活はアンジェリークの望む家庭のあり方に近いものになった。
その、ジュリアスの譲歩が、まもなく訪れる別れをアンジェリークにより強く意識させ、ジュリアスが思いやりを示せば示すほど自分の心がどんどん脆く不安定になってしまった時期もあったことをアンジェリークは思い出す。
本来ジュリアスの望んだ夫婦のあり方は、夫婦で別々の私室を持つことに代表されるように、家事などの目に見える部分が自分の生育環境と大きく異なっているものだった。
ジュリアスと暮らしていた頃は、補佐官の執務に忙殺されていたし、多数の使用人がいたから家の切り盛りとは、すなわちいかに使用人を使うかであって、自分では家事をする余裕も必要もなかった。
補佐官職を退いてからは、自分一人の身の回りを整えておけば良かったので、小間使いが一人いてくれれば家事はそれですんでしまい、自分がすることは庭いじりや、刺繍や、菓子つくりなど趣味性の高いものだけだった。
だからオスカーとの生活がアンジェリークには、ままごとのようで珍しく楽しく感じられたのかもしれない。
アンジェリークはオスカーと過ごす日々に、自分の両親もまたこんな風に暮らし、生活を積み重ねていったのではないかと想像した。
オスカーとの暮らしは、アンジェリークにとって、昔日、自分が漠然と頭に描いていた普通の夫婦の生活そのもののように感じられ、アンジェリークに生活することへの新鮮な喜びをもたらした。
毎晩、夕食後、オスカーは居間で軽くアルコールを嗜みながら、アンジェリークといろいろな事を話した。
自分より先に退任したリュミエールの来し方をアンジェリークから聞いて、
「リュミエールは芸術に生きるという道があったから、俺のように何をしようかなんて、考える必要もなかったんだろうな」
と、呟いた。
アンジェリークはその言葉を聞いて、オスカーにこう尋ねた。
「うちはいくらいていただいてもかまいませんけど、オスカーはやってみたいこととかないんですか?」
オスカーはにやりと笑うと
「俺は芸術しか能がないリュミエールと違って、多芸多才な人間だからな。何をやらせてもうまくこなしちまうからこそ、何をするか迷うのさ」
と答えた。
「ただ、なんでもできるが、やりたいことが決まらないんじゃ、ただの器用貧乏といわれても仕方ないな?」
と、軽くあしらうように自分のことをコメントするのも忘れない。
アンジェリークはオスカーの答えにくすくす笑った。
軽い口調のなかにこれ見よがしでないオスカーの優しさが、アンジェリークには感じられる。
クラヴィスのことを聞いたときは、こんなことをいった。
「俺は自分の想像力に限界があることを認めざるを得ないな・・クラヴィスさまがどんな家庭を築いたのか、どうしても想像がつかない」
「クラヴィス様は、生涯の伴侶を得てからは、それはもうその方を慈しまれて、天に召されるその日まで 穏やかで心安らかな日々をお過ごしになったようですよ」
光と対をなす闇の守護聖はジュリアスより聖地にとどまった時間は更に長く、その間、瞳に虚無を映していた時もそれに呼応して、長いものであったろう
しかし、彼は退任してからは愛する人と、共に歩む生涯を送れたのだ。
後悔はしてはいないし、比較は無意味だと知りつつも、自分の境遇と、そして自分の伴侶の生涯とつい比べてしまいそうになりアンジェリークは、その考えを振り払うかのように軽く頭を振った。
そして、オスカーのことを見るともなく見つめて、心の中でこんなことを思う。
『オスカーもいつか自分の家庭を築くのかしら。生涯の伴侶を見つけて・・』
そして、その見知らぬ女性と、今自分としているように、オスカーは暮らしていくのだ、そう思ったときアンジェリークはなぜか胸が痛んだ。
自分は、いつか現れるオスカーの伴侶のアンダースタディだと思うと。自分は借景のなかの登場人物に過ぎないのだと思うと。
オスカーはオスカーで、なにか言いたげにアンジェリークの顔を見つめ返す。
一瞬二人の視線が絡み合う。その視線を先に反らしたのはアンジェリークのほうだった。
「ごめんなさい、ちょっと疲れたみたいなので、今夜はもう休みますね」
目をそらしたまま、オスカーに告げ、自分の居室に向かうため居間をでようとする。
その背中に、オスカーが声をかけた。
「・・・ああ、おれも、もう休むとしよう。お休み、アンジェリーク、また明日・・」
オスカーが『また明日』と言ってくれる。
一度失ったから、この言葉の重みが、この言葉の表す幸せが今のアンジェリークにはいたいほどよくわかる。
聖地を去ったときからジュリアスは自分にこの言葉をいえなくなった。
自分もジュリアスに、この言葉を言えなくなった。
たまさかの逢瀬でも自分たちの「明日」はあまりに不確かで、言葉にすることは躊躇われた。
何気なくこの言葉を口に出せるオスカーはやはり、未来に向かって生きていく人なのだと、思い知る。
過去だけに目を向けている自分にこの言葉は、いままで無用のものだった。
でも、今だけは、オスカーが自分にこの言葉を掛けてくれる。
オスカーと未来をこの一瞬でも共有できるような気がして、アンジェリークは忘れていた明日への希望に胸が暖かくなった。
一通りの守護聖の来し方を聞いてしまったある日、オスカーは躊躇いがちに、
「ジュリアス様のことをきかれるのは辛いか?もし、そうなら、無理にとは言わないが・・・」
と、前置きした上で、ジュリアスの話題を持ち出してきた。
今でも、ジュリアスの事を思うたびにその胸に若干の痛みを覚える事は否めなかったが、それは耐えられないほどのものではなくなっているのも事実だった
むしろ、もう生前のジュリアスの事を覚えてくれていて、ジュリアスの事を話せる人など今現在他には存在しないのだから、ジュリアスの事を聞いてもらえ、わかってもらうことはアンジェリークにとって喜ばしいことと言えたかもしれない。
オスカーは生前のジュリアスと最も親しい存在だったのだから、オスカーがジュリアスの事を聞きたがることは当然とも思ったがその一方、オスカーのほうがある意味自分よりジュリアスと接していた時間の長さや密度は濃かったかもしれないと思い、こう言った。
「いえ、辛くはありません、もう・・でも、ジュリアス様のことなら、わたしよりオスカー様がご存知の事のほうが多いかもしれませんよ?」
「いや、ジュリアス様はプライベートなことはほとんどお話にならなかったからな。」
「じゃ、私にもジュリアス様が執務のご様子とか、私と結婚する前はどんなだったかとか、私が知らないジュリアス様のことを教えてくださいね」
「ああ、俺が知っていることなら、なんでも教えてあげよう。ジュリアス様が俺からはどう見えたかもな・・」
と、オスカーは言ったが巧みなオスカーの誘い掛けに、気がつくとアンジェリークは自分ばかりがジュリアスのことを話していた。
結婚してからも、ジュリアスは執務においては、厳しく自分に仕事のやり方を教えこんだこと。
それというのも、自分たちの結婚をよく思っていない人たちが存外に多く、それらのものたちに足下を掬われないよう、執務においてはまったく気を抜けなかったからだということ。
「ああ、俺の耳にも2,3入ってきたな・・おしゃべりすずめはどこにでもいるものだと思って気にも留めてなかったが・・君とジュリアス様の結婚をとやかく言うものがそんなにいたとは俺も知らなかった。」
「私が補佐官として頼りなかったのは事実ですし、だから、私がいろいろ言われるのは仕方ないと思ったんです。でも、私のせいでジュリアス様が謂れのない中傷を受けるのは私には耐えられなかった・・最初はその気持だけで、意地みたいなもので必死に執務を覚えたんです。私とジュリアス様は、生徒と教官みたいだった。それも、とびきり厳しい・・あ、でも、二人きりのときには、優しかったんですよ、ジュリアス様・・」
少し照れたように話すアンジェリークの顔をみながら、オスカーは痛ましいような思いを抱いた。
『でも、それはジュリアス様も同じだったんじゃないか?自分と結婚したことで君が悪く言われるのは耐えられない。だから必要以上に自分にも、そして君にも厳しく接したんじゃないだろうか。自分の庇護がなくても君が一人で立派にやって行けることを、そいつらに示すために。君が謂れのない非難を受けない為に・・』
そして、さらに考えをめぐらせ、オスカーはこんなことを思い至る。
『君とジュリアス様はお互いにお互いを思いあい、守ろうとする気持ちが強すぎたのかもしれない・・だから、誰にも頼らず、自分たちの力だけで互いを支えあおうとして、ジュリアス様はかなり無理をなさったのかもしれない・・そして、君も・・・・』
ジュリアスは生前、自分に、そんな非難を受けていることは一言も言わなかった。
ジュリアスの性格から、自分のプライベートな問題を自分に打ち明けたとは思えないが、それでもオスカーは打ち明けて欲しかったと思った。
知っていればジュリアスの負担を軽減する手助けが幾分でもできたかもしれない。
そうしていれば、ジュリアスのサクリアがあんなに速く衰えることも、もしかしたら、防げたかもしれない。
一瞬頭に浮かんだそんな考えをオスカーは、即座に否定する。
考えても詮無いことだし、サクリアの衰えが宇宙の移動に伴って課せられた激務に直接の原因があることは確かだったからだ。
あの当時、古い星々を受け入れた若い宇宙はまだまだ不安定で、星々を安定させる為に、守護聖は皆それぞれのサクリアの調整に気を抜く暇がなかった。
宇宙の綻びを繕う為に放出したサクリアも、歴代の守護聖に比して、皆、格段に多かったはずだ。
だから、宇宙の移動を経験した守護聖の多くは、在位期間も歴代の守護聖たちに比べて、短かかったようだ。
ジュリアスのすぐ後に退任したルヴァしかり、オリヴィエや、ゼフェルもそうだった。
クラヴィスや自分の在位が比較的長期にわたったのは、やはり、聖地を預けるに足る若者の成長を無意識のうちに待っていたからかもしれない。
「オスカー?」
黙ってしまったオスカーをアンジェリークが訝しがる。
オスカーは顎の下で手を組み、言葉を探し探し、ようやくこれだけ、話した。
「・・・君が補佐官になったとき、君はまだ学業半ばのほんの少女と言ってもいい年齢だった・・ジュリアス様は筆頭守護聖として、そしてなにより、そんな年若い君を自分が聖地にとどめた責任感から、君の人間としての成長を、自分に課しておられたんだろうな・・」
ジュリアスとの愛を選んだことで、アンジェリークはそれまで当たり前に享受していたものをすべて捨てることになった筈だ。
両親からの庇護、対等な友人たちとのつきあい、学生生活。
アンジェリーク自身がジュリアスとの愛をより掛け替えのないものとして選び取ったとはいえ、謹厳実直なジュリアスが、アンジェリークの捨てざるを得なかったものに対して、責任感や罪悪感を抱いたとしても不思議はない。
そして、それに替わる物をジュリアスがアンジェリークに与えようと考えたことは、至極当然のことだったのだろうと、オスカーは考えた。
アンジェリークも言葉を捜すように考えながら答えた
「・・・そうですね・・ジュリアス様はわたしより、ずっと大人で、なんでもできて、わたし、あの方に認めてもらおうと一生懸命でした。最初は導いていただくばかりだったけど、いつかはあの方に対等と認めていただいて、肩を並べて歩いて行きたいと思ってました」
「君はよくやっていた。ちゃんとジュリアス様の期待に応えたし、ジュリアス様も君のことは認めていたさ」
「そうだと、うれしいんですけど・・」
軽く笑ったアンジェリークの笑顔はどこか寂しげだった。
「いてもいなくてもいい補佐官なら自分の退任後も聖地に残留させたりしない。君が補佐官として優秀だったから、聖地になくてならない存在だったからこそ、ジュリアス様は君を残したんだろう」
そうだ、だから、ジュリアス様は彼女を聖地に残したんだ。オスカーは思う。彼女もそれはわかっているのだろう。
ジュリアスの期待に応えようと努力した結果、聖地になくてはならぬ存在になってしまい、聖地への残留をジュリアスから望まれた。
彼女が、補佐官として優秀でなかったら、ジュリアスも彼女を聖地に残さなかったかもしれない。
「だったら、私、あんまり執務をがんばらなければ良かったのかしら・・そうしたら、ジュリアス様は私をおそばに置いてくださったのかしら・・」
オスカーに聞かせるでもなく、独り言のようにアンジェリークは呟いた。
でも、彼女自身、そんな仮定は無意味なことは知っているのだ。
ジュリアスが愛したのは、どんな困難にも真っ向から取り組み、努力して克服する彼女だったはずだ。
そんな努力家で前向きな彼女だからこそ、ジュリアスは愛し、自らの光でその道を照らし、導こうとした。
そして、ジュリアスを愛したからこそ、ジュリアスの期待する人間へと成長しようとし、実際に大きく花開いた彼女。
しかし、また、それゆえに離れ離れにならねばならなかった2人。
オスカーは運命の皮肉を思わずにいられなかった。
「・・・そんなことを言って、君は自分でもわかったいるんだろう?君がそんな人だったら、ジュリアス様は君を愛さなかっただろう・・」
そして、オスカーは一呼吸置いてから、言葉を続けた。
「ただ、俺もジュリアス様の決心を聞いたときは自分の耳を疑ったのも確かだ・・それにジュリアス様が退任される日まで、君が日に日にやつれて行く姿を見るのも辛かった・・いっぱい、泣いたんだろう?でも、君は俺達の前では決して涙は見せなかったな・・・」
「そんなことは、ありません。ロザリアやルヴァ様の前では、私、恥ずかしいくらい取り乱してしまって・・あの頃は自分の辛さばかりに気を取られていて、周囲の方が私たちのことを心配してくださってその思いも、私には良く見えていませんでした・・」
『陛下やルヴァには君は涙を見せたのか・・』
一瞬疎外されたような寂しさにオスカーは捕らわれた。しかし、すぐ思いなおす。
陛下は彼女にとって唯一の同性の友人だったし、ルヴァはジュリアスとほぼ同時に退任が決まっていたから、同じ立場として相談しやすかったのだろう
「そんなことで、君を責めるような奴はいない。気にしなくていい。君がそれだけ、辛い思いをしたのは事実なんだしな・・ジュリアス様の決意は守護聖として、これ以上考えられないくらい立派なことだとは思う。俺には、守護聖として、そこまでの覚悟はなかった・・なかったと思う」
そして、オスカーはアンジェリークの顔をじっと見据えてこう尋ねた。
「それに、こう言ってはなんだが、君が聖地に来た当初、君は本当に普通の女のこに俺には見えた。いったい、君はどうして、そんなに強くなれたんだ?ジュリアス様はわかる。あの方が自分の感情より、立ち場や義務を優先させたのは。でも、君はどうやって、自分の運命を受け入れたんだ?どうやって、自分に辛い別れを納得させたんだ?」
アンジェリークは考え考え、ゆっくりと言葉を紡いでいく。
「それは、もちろん、悩みましたし、最初はジュリアス様のお気持ちが解らなくて、いっぱいなきました。でもジュリアス様はある日、私に、せっかく身につけたものを自分一人のために無駄にするなとおっしゃって・・ それで、ジュリアス様が守護聖としての責任感だけでなく、私のためを思って、別れようとなさったことが、私にもようやく解って・・あの方は、ジュリアス様にとっては『Noblesse oblige』とでもいうんですか?高貴な生まれに伴う義務を果たすことは、呼吸をするように自然なことだったんだと思います。だから、逆に、それに逆らっていきることは、とてもあの方にとっては辛い人生になってしまったと思うんです。一時の感情に流されて、自分の果たすべき義務を果たさなかったと、忸怩たる思いを抱えて生きていかなければならないとしたらそれは、あの方にとって、満足のいく人生ではなくなってしまったと思うんです。そして、私のわがままで、あの方にそんな生き方を強要して、あの人が苦しむ姿を見なければならないとしたら私もきっと自分が幸せとは思えなかったと思うんです。端から見て、夫婦が一緒にいられて、幸せそうにみえたとしても、です。だから、そんな、運命を受け入れるとか、そんなすごい心構えだったわけじゃないです。それに、一度決めた後も、あの方に会うたびに、時間の流れの違いに、苛立ったり戸惑ったりもしました。でも、私達が不幸にならないためにかんがえたら、やっぱりこの道しかなかったと思うんです。幸せな結婚生活だったは言えないかもしれないけど、少なくとも不幸にはならないで済んだと、言えると思うんです。だから、後悔はしていません。」
「君も、ジュリアス様も自分の納得の行く人生を送れたのだな。しあわせの形は、目に見えるものだけではないということを・・君は自分で考え、自分で納得してその答えを導き出したんだな」
オスカーが瞳を閉じて、噛み締めるように言った。
「あの方を愛して、愛されて、あの方にふさわしくなりたい、あの方に恥ずかしくない生き方がしたい・・それだけだったのかもしれません」
「いや、君はジュリアス様の生き様から、誇りの何たるかを学んで、それを自分のものにして生きてきたんだな・・しかし、やはり、俺には真似はできないな・・俺はそれほど、強くない。愛するものを自分から手放すようなことは・・その人の成長を願ったとしても、俺のほうが辛くて耐えられん。だからこそ、俺はジュリアス様に惹かれたのだろうな。あの方の誇り高さに、そしてそれを裏付ける強さに・・」
そして、オスカーは言葉にできない独白を続ける。
『そうか、ジュリアス様を愛し、ジュリアス様の生き様を見て、自分で体得していった君のその誇り高さと心の強さに惹かれていたのかもしれない、俺は・・』
オスカーは自分がアンジェリークのことが気にかかるのは、ジュリアスの残した言葉の呪縛故ではないと、今、ようやく断言できると思った。
そして、アンジェリークの強さと誇り高さに惹かれている自分を自覚しながらも、こんなことも思う。
『でも、もういいんじゃないか・・少し楽になっても・・君はもう充分がんばってきた。俺は・・俺は君を楽にしてやりたい』
オスカーの胸中に気付くはずもなく、アンジェリークが言葉を続ける。
「でも、そんなオスカーのことがジュリアス様は羨ましいと思うところもあったみたいですよ。 『私はプライドや立場を捨てて生きることはできないが、あのものはそんなものにまったく頓着せず、生きることもできるのだろうな』って、おっしゃってたことがあったような気がします。」
「確かに、俺は人を愛したら、自分の立場や義務なんかより、その人との愛を選んでしまうだろうな・・」
オスカーがアンジェリークを見据えるように答えた。
「それなら、オスカーだったら、妻が補佐官だったら退任するとき、一緒に退任させましたか?」
「ああ、俺はわがままな男だからな。彼女の人間的成長より、自分の正直な感情を優先させるだろうな」
「じゃあ、オスカーと結婚してたら、私の人生変わってましたね」
ふふ、とアンジェリークが微かに笑う。「今からでも、遅くはないかもしれないぜ、お嬢ちゃん?」
「もう、またふざけて・・・」
何気ないふうを装いながら、アンジェリークはなぜ、自分からこんなことを言い出してしまったのだろうと、戸惑った。
オスカーが軽く浮け流してくれたことが救いでもあったが、オスカーの答えに動悸が高まる自分にまた戸惑いを禁じえないアンジェリークだった。
オスカーはそんなアンジェリークの顔を眩しいものでも見るかのように、目を細めて見つめていた。