恋ぞつもりて・・・2

この後もオスカーは、ジュリアスとの生活の様子をアンジェリークに他にもいろいろ尋ねてきた。

オスカーはアンジェリークに質問するだけか、感想を述べるとしてもそれは常に自分達の生き方を簡潔に肯定してくれるようなものだった。

オスカーは自分とジュリアスが選んだ生き方を否定しないでくれた。

端から見て、解りやすい幸せを選ばなかった自分達を、愚かだとか、ジュリアスがなんと言おうとついていくべきだったとか言わずにいてくれたことが、アンジェリークにはありがたかった。

もし、最初にジュリアスのことを話題にしたとき、こんなことを言われていたら、アンジェリークの心は凍てつき、そのあと、いくら尋ねられても、なにも話す気にはなれなかっただろう。

自分の選んだ道に迷いがなかったとは言えないからこそ、第三者であるオスカーの肯定と承認はアンジェリークを力づけてくれた

オスカーになら、解ってもらえる。

オスカーは受け入れてくれる。

そう思えることが、アンジェリークの心を、温かく包みこみ解きほぐしていくかのようだった。

そして、アンジェリークは、オスカーの優しさと懐の深さに改めて感謝する。

おためごかしの忠告も、親切ぶった価値観の押しつけもせず、ただ、他人の心情をありのまま受け入れてくれることは、ほんとうに心が豊かでないと、できないことではないだろうかと、アンジェリークは思う。

自分が補佐官に在職中は、オスカーにこんな面があることに気付かなかった。

確かにオスカーは昔から女性に優しかったが、これほど許容力や包容力があるとは、知らなかった。

ジュリアスとのいつか来る永久の別れが常に意識の片隅にあった当時、ジュリアス以外の人間のことを気にとめる余裕は、アンジェリークにはなかった。

ジュリアスが逝ってしまったあとは、自分を聖地に残したジュリアスの遺志を思い、崩れ落ちそうになる自分を支えるので精一杯だった。

だから、オスカーのほんとうの優しさに気付かなかったのかもしれない。

自分が助けを求めていれば、オスカーは進んで自分を支え様としてくれていたのかもしれない。

でも、自分はジュリアスの生き方に恥じないようにと、必死に自分を叱咤激励してようやく一人で立っていた。

きんと張り詰めた糸の様だった自分は、例えオスカーが手を差し伸べてくれたとしても、それに気付かなかったか、もしくは、意固地になって助けも慰めも拒んでいただろう。

今なら、当時の自分の余裕のなさがよくわかる。

だから、余計にオスカーの心の広さもわかるのだ。

あるいは、オスカーも変わったのかもしれない。今の自分が聖地にいたときの自分とは違うように・・と、アンジェリークは思う。

ジュリアスとクラヴィスが守護聖を退いて後、聖地を実質的に束ねていたのは、オスカーとリュミエールだったと、先に退任してきた守護聖たちからアンジェリークは聞いたことがあった。

長い年月にわたる責任の在る立場と、自分の後進たちの指導などを司ってきたことが、オスカーに、人をそのありのままに受け入れてくれるような、暖かみのある達観を与えたのかもしれない。

オスカーが与えてくれた受容と共感。

これはアンジェリークがもっとも欲しかったものかもしれない。

自分自身、自分の選んだ道に、ほんとうにこれで良かったのかと、揺れるときもあったからこそ、オスカーが無条件に自分を受け入れてくれたことが嬉しかった。

オスカーに自分達の生き方に後悔はないと、アンジェリークは断言した。それは嘘ではない。

ただ、ジュリアスのとの別居生活において、たったひとつだけアンジェリークには心残りがあった。

澱のように心の奥深くに沈殿し、時折、意識の水面に浮上しては、アンジェリークの心を波立たせる心残りが。

それがなにかを、オスカーにはまだ話していなかった。

平常心で話せる自信がなかったし、そこで取り乱したりしたら、『後悔していない』と言った自分の言葉と生き方を、ひいてはジュリアスの人生を否定し、裏切ることになってしまうのではないかということアンジェリークは恐れたのだ。

『でも、オスカーになら、言えるかもしれない。ずっと心にわだかまっていたことを。』

誰にも言えなかった思いをはっきり言葉にすることで、そして、それをそのまま受容してもらうことで自分の心が真の意味で解放されるかもしれないということを、アンジェリークは無意識の内に察知していたのかもしれない。

オスカーはいつかは自分の前からいなくなってしまう人。それはアンジェリークにもわかっている。

でも、オスカーは自分を楽にしようとしてくれているのではないか。

自分にいろいろジュリアスのことを聞くのは、自分にジュリアスとの辛い思い出をも昇華させようとしてくれているからではないか

思いを言葉にして発露させ、それを受容することによって、自分に癒しを与えてくれている・・アンジェリークにはそんな気がしてならなかった

それがなぜか、突き詰めて考える勇気はこの時のアンジェリークにはまだなかった。

 

ある日、オスカーは珍しく一人で外出した。出かけるときにこんな言葉を残して。

「ちょっと、野暮用があってな・・夜には帰るから、俺に一人きりの夕食なんか取らせないでくれよ?」

冗談めかした口調の中に、オスカーの優しさがかいま見える。

自分が一人きりの味気ない夕食を取らないですむよう、気遣ってくれているのだろうと、アンジェリークは感じた。

嬉しいと思う反面、オスカーとの暮らしはいつまでも続くわけではないのだから、今の状態を当たり前と思ってはいけないと自分に言い聞かせようとした。

しかし、オスカーが留守のいま、自分が感じている空虚さと寂寥感にの大きさに愕然とする。

アンジェリークは、オスカーの存在がもはや自分の生活の一部になってしまっていることに否応なく気付かされた。

オスカーがいないと、家のことをなにもする気がおきない。

読書でもしようと思ったが、目は活字をおっても、内容が頭に入ってこない。

オスカーがくる前の日常に戻っただけのこと、これが今までの私の生活だったのだから、また、今まで通りになっただけのことなのよ、だから、なんでもない、そのはずよ、と思いこもうとする。

オスカーはいつかはいなくなる人、それはあたまでは解っていたつもりだったが、実際にオスカーの姿が見えなくなると回り中の景色が色あせてしまったかのようだった。

なにか言っても、答えてくれる人がいないから、口を開く気力も起きない。

その静けさを意識するのが嫌で、音楽でもかけてみたが、却って神経が苛立ち、すぐ止めてしまった。

オスカーがくる前の自分がどんな風に暮らしていたか、考えないと思い出せないくらい、一人で暮らしていた日々が遠い日々の事のように思えた。

一人でうつうつしているよりは、と思い、小間使いにお茶の用意をさせ、一緒にお茶を喫するよう勧めた。

小間使いと、取り止めのない会話を取り交わすうちに、小間使いの口からオスカーのことが出た。

「オスカー様がいらっしゃらないと、なんだかお屋敷がとっても静かで・・寂しいくらいですね。オスカー様がいらっしゃるまでは、これが当たり前でしたのに・・」

「そう・・・そうね。でも、また、この静かさに慣れなくてはね・・」

アンジェリークは誰に話しかける風でもなく、ぽつりと呟く。

しかし、小間使いはアンジェリークの言葉の端を捕らえ、意外そうにアンジェリークに尋ねかえした。

「え?だってミレディはオスカーさまとご結婚なさるのではないのですか?私はてっきりそうだと思ってましたけど・・」

小間使いの言葉にアンジェリークは紅茶のカップを落としそうになり、あわてて、受け皿で受けとめる。受け皿ががちゃりと耳障りな音を立てた

「な・・なにを・・言ってるの?あの方は、昔からの知り合いで、とてもお世話になった方・・そ、それだけよ・・」

「そうなんですか?でも、オスカー様がミレディをご覧になる目といったら、優しくて、でも、なんだか熱っぽくて・・オスカー様はミレディのことがお好きですよ、絶対!」

年若い小間使いは、ロマンスのにおいを嗅ぎ取って、瞳をきらきらさせている。

「そ・・そんなことあるわけないでしょう・・」

アンジェリークの言葉はどこか弱弱しい。自分の言葉を信じていないかのように。

「第一、私は未亡人よ・・」

「未亡人だからってもう二度と結婚しちゃいけないってわけじゃないでしょう?ミレディはまだ、こんなに若くてお美しいんですもの。あんな素敵な殿方に思われているのに、亡くなったご主人様だけを思ってすごされるなんてもったいないですわ。」

「そんな、もったいないとかそう言う問題じゃなくて・・・」

「でも、オスカー様が館にいらっしゃってから、ミレディはほんとうにお幸せそうですよ。わたし、ミレディが声をあげてお笑いになるのこちらでお世話になるようになってから、初めて聞きました。ミレディは、いつも微笑んではいらっしゃったけど、なんだかいつもお寂しそうで・・」

「・・・・私、オスカーが来るまで、笑ったことがなかった?オスカーが来てからのほうが幸せそう?」

「ええ、オスカー様と一緒にいらっしゃるときのミレディはほんとうに、まぶしいくらい明るく笑ってらして、それはもう輝いて見えますわ。」

うっとりと夢見るように、しかしきっぱりと断言してから、小間使いは更に言葉を続けた。

「私もミレディにはお幸せになっていただきたいんです。きっと亡くなったご主人様だって、寂しそうに微笑まれてるミレディより声をあげて笑うミレディの姿をご覧にいれたほうが、空の上で安心なさるんじゃないですか?」

ジュリアスのことを思って過ごす静かな日々に自分は満足していた、解ったようなことを言わないで欲しい、と思いながらもアンジェリークは小間使いの言葉を強く否定できなかった。

ようやく出てきた言葉は、自分にたいする戒めのようだった。

「・・だいたい、オスカーはなにも言ってないじゃない・・」

「きっと、ミレディにプロポーズするタイミングを見計らってるんですよ。」

「馬鹿なこと言ってないで、さ、もう夕飯の準備をしましょうか。オスカーも夕刻には帰ってくるって言ってたことだし」

半ば、無理やり話題をそらして、お茶の時間を終わらせ、アンジェリークは動揺する心をなんとか静めようとする。

台所に入って単純な作業を繰り返し、心を落ちつかせようとしたが、うまくいかない。

仕方なくアンジェリークは、料理の仕上げを小間使いにまかせ、自分の部屋に引っ込んだ。

入浴でもして、気分を変えようと思って・・

 

熱い湯に浸りながら、アンジェリークは先ほどの小間使いとのやり取りを反芻していた。

反芻するというよりは、心にとげのように引っかかってしまい、忘れたくても忘れられないと言ったほうが正しいかもしれない。

『私、幸せそうじゃなかった?端から見ても、今のほうがしあわせそう?ううん、なにも知らない子に何が解るって言うの?』

ジュリアスとの刹那のようだった幸せな日々を、辛く悲しい決意の後に、追いたてられるように焦燥に駆られ愛を確かめ合った日々をそしてジュリアスが逝ってしまった後の身を切られるような空虚な日々を乗り越え、やっとのことで手にしたと思った心の平穏。

ようやく、安らかに過ごせるようになった今を、幸せそうじゃないなんて、言われたくない。

私がどんな思いで日々を過ごしてきたか、そしてこれからも過ごして行かねばならないか、なにも知らない人間に簡単に断じて欲しくない。

そう思う一方で、ここしばらく、実際に心浮き立つような日々を過ごしていたのも事実なのだ。

そして、もうひとつ、心に引っかかった言葉。

『ミレディが笑って過ごすほうが、亡くなったご主人様も安心なさる・・』

そう、ジュリアスも聖地を去る前に言っていた。『笑った顔を覚えていたいのだ』と・・・

アンジェリークは自分では笑顔を忘れたつもりではなかった。

しかし、オスカーが来る前、声をあげて笑ったことがどれほど昔のことか思い出せないくらい遠い過去なことも確かだった。

いや、もしかしたらジュリアスが逝ってしまってからは、一度もなかったのかもしれない。

悲しい顔ではなく、笑顔を目に焼き付けさせていってほしいと言っていた、ジュリアスの願いを自分はいつのまにか裏切っていたのだろうか。

自分がジュリアスのことだけを思い、過去にだけ目をむけて生きる日々をジュリアスは望んでいない・・

言われてみれば、その通りかもしれないと思う。

『そう・・そうなの?ジュリアス。私が笑っていたほうが、ジュリアスもいいと思う?』

だが、自分が最近笑って過ごせていたのは、オスカーがそばにいてくれたからだとアンジェリークは気付く。

オスカーがいない今日、自分は一度も笑っていない。

でも、オスカーがそばにいると、自分は笑顔でいられる。ジュリアスも望んだ笑顔の自分で・・

そして、また、たった一日の不在が、アンジェリークの中でオスカーがどれほど大きな存在になっていたかを知らしめた。

それは畢竟、自分がオスカーに惹かれているということだと、アンジェリークは認めざるを得なかった。

今日一日、何かにつけ、オスカーのことが頭に浮かんだ。

オスカーの声、笑顔、氷青色の優しい光に溢れた瞳、燃え立つような髪、逞しい体躯。

ふとした拍子に、そこにいない人のことを考え、会いたいと思ってしまう状態・・惹かれているという言葉では、もう、足りないかもしれない・・

しかし、オスカーから直接なんの意思表示もない現状では、自分がオスカーに惹かれている事実を認めたところで、自分をとりまく現実は変わらないし、変え様がない。

小間使いは、オスカーもアンジェリークのことをにくからず思っているようなことを言っていたが、そんなことは、ロマンスに憧れる若い娘の戯言に過ぎないと、アンジェリークはおもう。

第一、オスカーの再構築した人生のなかに自分の居場所があるとは、アンジェリークには到底思えなかった。

自分はおそらくオスカーの人生よりなお長き時を過ごさねばならないだろう。

また、辛い別れを繰り返すこともいやだったし、年月をその身に刻まない自分が一緒にいれば、オスカーにも世捨て人のような生活を強いることになる。

オスカーには自分が築くことのできなかった極一般的な幸せを掴んで欲しいと、アンジェリークは思う。

幸せのかたちはひとつではないし、自分の選んだ道に悔いはない。

でも、もっと、流す涙の少ない幸せがあることも事実だと思うから。

そして、惹かれているからこそ、オスカーには、もっと穏やかな、涙の少ない人生を歩んで欲しいとおもう。

アンジェリークはこんなことを思いながら、湯からあがった。水滴を拭きバスローブを羽織って、ドレッサーの前に座る。

鏡に映る自分をみながら、やはり思考はオスカーのことで占められる。

オスカーは、今日一人で出かけた。

アンジェリークの屋敷に滞在するようになってから初めてのことだ。

これから、進む道が見えたのかもしれない。

程なくして、暇乞いを告げられるかもしれない。

寂しいと思う。でも、それでいいのだとも思う。これ以上オスカーに惹かれる前で良かったと思うから。

オスカーに惹かれることは、自分一人に愛を誓ってくれたジュリアスへの裏切りのような気がすることも否定できなかったし、、そして、万が一、オスカーが自分の事を思っていてくれたとしても、自分がいわゆる普通の幸せをオスカーに与えることができない以上なにも気付かなかった振りをして、自分の気持ちを葬りさるのがアンジェリークには一番いいように思えた。

自分がオスカーからもらった癒しと慰めは、そしてオスカーとの心弾む日々は、花火か、流れ星のようなものだと思うようにしよう。

しばらくは後に残るであろう寒寒とした寂寥感のことは考えず、この一瞬、楽しませてもらったことを、感謝しよう。

また、日常に戻るだけのこと。いままでもそうやって生きてきた。きっと、いきていける。宝石のような一瞬を抱きしめて。

『でも・・・』

すこしだけ、ほんの少しでもいいから、自分の存在をオスカーの記憶に留めたいとアンジェリークは考えた。

別れの予感を感じたからこそ、最後に自分をきれいだったと思ってもらいたい。

自分が“女”であることを意識させてくれたオスカーに、“女”である自分を覚えていてもらいたい。

こんなことを思うこと自体が、女の業なのかもしれないと思いながら、アンジェリークは普段より濃い目の紅を唇に引いた。

 

オスカーは約束通り、夕食に間に合うよう帰ってきた。

「ただいま」と、まるで自宅に帰ってくるように。

後、何度この声を聞けるだろうと思うと、アンジェリークの胸は錘を乗せられたかのように苦しくなる。

いつもは楽しいオスカーとの夕食も、今夜は言葉少なく、食欲も控えめになってしまう。

こんなことでは、オスカーに変に思われてしまう。オスカーに自分の印象を焼き付けたいとは思ったが、それは暗く沈んだ自分ではないのに。

そう思いながら、アンジェリークの瞳はオスカーを追う。

オスカーの姿を網膜に焼きつけたいのは、自分のほうだ、とアンジェリークは思う。

食事の後、小間使いを下がらせて、いつものようにオスカーとアンジェリークは居間に居を移した。

柔らかな間接照明の光量はぎりぎりにしぼられ、居室全体はぼんやりと薄暗い。

オスカーはアンジェリークと居間で語らうとき、自分で主照明を消して、明かりをいくつかのスタンドに限りこう言った。

「酒を飲むときは、あまり明るすぎないほうがいい。このほうが君も落ちつくだろう?」

この薄暗さが、かえって心を落ちつかせ、アンジェリークはオスカーに率直に自分の心情を語ることができたような気がする。

オスカーはアンジェリークに今夜は一緒にどうだと、グラスを差し出し誘いをかけてきた。

アンジェリークは今夜は素直にグラスをとった。

オスカーのために自分が用意したブランディーが自分のグラスに注がれる。

酒に弱いアンジェリークを慮ってか、ほんの少量だ。

ブランディーの甘く濃厚な香りが鼻腔をくすぐり、香りに誘われるまま、一口、口に含んでみたが、途端に喉が焼けつくように熱くなった。

苦しげに吐息を吐き出したアンジェリークに、オスカーは

「無理に付き合わなくてもいいぜ?」

といったが、アンジェリークはこう答える。

「無理するつもりはありませんけど、いつもオスカーがとてもおいしそうに召し上がってるから、ちょっと試してみたかったんです。でも、やっぱり、私には、強すぎるかも」

「ああ、そうだな。無理はするな」

こう言った後、オスカーは大きな掌でグラスを燻らせながら、しばらく沈黙していた。

瞳は揺れる琥珀色の液体に落とされている。

視線をあげないまま、オスカーが口を開いた。

「故郷の星を見に行こうかと思う・・・」

『ああ、やはり・・・』アンジェリークは鳩尾のあたりが締付けられるように苦しくなった。

予想していたとはいえ、その衝撃は相当なものだった。

なにか言うべきなのだろうが言葉がでてこない。唇を噛み締めたまま、オスカーを見つめるのが精一杯だった。

オスカーは顔をあげ、アンジェリークの沈黙に促されるように言葉を続けた。

「故郷を見に行く前に、君に聞きたいことがある。もちろん、答える義務はない。だが、できれば正直に答えて欲しい」

アンジェリークの瞳を、オスカーの氷青色の瞳が射貫いた。瞳の中に青白い焔が翻る。

「君は自分が幸せだといった。後悔はないとも言った。確かにそうなんだろう。しかし、本当に一つも後悔や心残りはないか?今でも心を痛めていることは、まったくないか?泣きたくても泣けないような気持ちがもしひとつでもあったら、俺に吐き出してくれないか?」

『なんで、そんなことをいうの?もう、さよならだから?二度と会えないから?』

アンジェリークはこう思うが口に出せない。

オスカーが自分を楽にしようとしてくれているのはわかる。

でも、なぜ、自分にそこまでしてくれるのか?

オスカーの気持ちを聞いてみたい。でも聞くのが怖い。

なにかを期待する気持ちがある一方、ジュリアスの腹心だったオスカーが別れの前に義務感や同情で言ってくれているのだとしたら?

そう思うと怖くてオスカーの気持ちを聞き出せない。

『オスカーの気持ちを問い詰める勇気が、私にはないわ』アンジェリークは思う。

それなら、どんな思惑であれ、オスカーが自分を楽にしようとしてくれているのは確かなようだし、オスカー以外にジュリアスのことを話せる相手などもう存在しないだから、オスカーの問いかけに自分の気持ちを偽らず答えようとアンジェリークは思った。

もう、オスカーと会えなくなるのならなおさらだ。

辛い話題でも、これがオスカーとゆっくり語り合える最後の機会なら、アンジェリークはオスカーと言葉を交わすことを選びたかった。

『ちょっとだけ・・弱音をはいてもいいの?私・・辛かったことを辛かったと言ってもいいの?オスカー・・』

アンジェリークは、心にひとつ残り、どうしても消せなかった後悔を打ち明けることを決意した。

オスカーには自分のことを包み隠さず伝えることが、オスカーの厚意に対する礼儀だと思った。

そして、オスカーはそれをきっと受け入れてくれると思ったから。

「・・・本当はひとつだけ、あるんです。心残りが・・」

アンジェリークはぽつりと呟いた。グラスを置き、指を膝の上で固く組んだ。顔は上げない。

「さようならが言えなかった・・あのひと、あまりに突然、逝ってしまったから・・あの人、私に何も言わずに逝ってしまったから・・私があの人を見送ることになるのは覚悟してました。でも、あの人が逝くとき、私そばにいられなかった・・いくら泣いても、そのときはつらくても、最後のときはそばにいて、見送りたかったのに・・それなのに!」

後はもう声にならず、嗚咽を押し殺すのが精一杯だった。

あふれ出る涙をこらえきれない。

やはり、こらえきれずに取り乱してしまった・・

泣き顔を見られたくなくて、顔を背けたまま、立ちあがって逃げるように部屋を出ようとした途端、手首を強い力で捕まれ次の瞬間、アンジェリークはオスカーの腕の中できつく抱きしめられていた。

一瞬何が起きたかアンジェリークは解らず、身動きができなかった。

しかし、オスカーの胸の広さが、その腕の力強さが、自分を包みこむ暖かさが自分の体を通して伝わってきた。

「・・一人で泣かないでくれ・・泣きたかったら俺の胸で泣いてくれ・・つらかったことは全部俺に吐き出してくれ・・もう、苦しむ君を手を拱いてみているなんてたくさんだ。俺は・・俺は・・」

オスカーがその腕に力をこめる。オスカーの声も泣いているかのように上ずっていた。

オスカーのその言葉に、アンジェリークは堰をきったように、オスカーの胸で泣きじゃくった。

泣きじゃくりながら、途切れ途切れに叫ぶように言葉を絞り出す。

「ジュリアス・・あなた・・どうして黙って一人で逝ってしまったの・・なんで、私にお別れもさせてくれなかったの・・あなたにいいたかったのに・・私、幸せだったって・・あなたに会えて、愛して、愛されて・・それなのに、ひどい・・何も言わずに、何も聞かずに、突然黙って逝ってしまって・・最後に一目でいいから、会いたかった・・声がききたかったのに・・」

ジュリアスの訃報を聞いたとき、アンジェリークは声をあげて泣かなかった。

どうしてもジュリアスがこの世にいないことを信じることができなかったからかもしれない。

いつかは・・と言う覚悟はしていた。

しかし、ジュリアスの死はあまりに急で、しかもアンジェリークはジュリアスの最後を看取っていない。

だから、ああ、やはり・・と言う諦念にもにた感情と、どうしてもジュリアスの死が実感できない、納得がいかない感情とに心は引き裂かれ二つの感情をうまく統合することができなかった。

周りの空気がジェリーにでも変わったかのように重苦しくまつわりつき、からだの自由がきかず、うまく歩けなかった。

主星におりて、棺に横たわり白い花に囲まれたジュリアスの顔をみても、眠っているようにしか思えず、何度も声をかけた。

棺の蓋が閉じられ、ジュリアスの遺体が埋葬された直後、アンジェリークは気を失い、その場に崩れ落ちた。

現実を受け入れるあまりの負荷の大きさに心が耐えきれず、意識を飛ばしたのだ。

「ジュリアスを連れて行かないで!!」

自分の声に目が覚め、一瞬やはり悪い夢だったのだと安堵した次の瞬間、ジュリアスの屋敷で、黒衣を着ている自分の姿が目に入り、これが現実だということを思い知った。

詳しい事情を知らないジュリアスの親族の詮索や悔やみの言葉に傷つき、アンジェリークはいたたまれず逃げるように聖地に戻ってきた。

聖地で執務に忙殺されていれる間はジュリアスのことを思い出さずにすんだ。

しかし、執務のない休日がおとずれたとき、もう主星に降りる必要はないのだ、もう主星にいってもジュリアスはいないのだと思い至った瞬間アンジェリークは初めて声をあげて泣いた。何度も何度もジュリアスの名を呼んだ。幻でも錯覚でもいいから、姿を見、声を聞きたかった。

自分の体は涙でできているかのように泣いても泣いても涙がでてきた。

泣きつかれてうつらうつらし、また泣きながらジュリアスの名を呼び、目を覚ます。

こんな一日を過ごすのが嫌で、休日に無理にでも執務の予定を入れた。

でも、人前では、絶対泣くまいとおもった。

涙を見られて、『だからジュリアスについていけばよかったのに』などと言われることは絶対嫌だったし、耐えられなかったから。

自分ではこの道しかなかったと解っていても、最後の別れを思い出すと、ぐらついてしまう。

だから、ずっと、考えないようにしていたことだった。考えてしまうと涙が留め止なく溢れてきてしまうから。

でも、オスカーは受け入れてくれた。泣いてもいいのだといってくれた。

心につかえていたことが、涙と一緒に流れて行く。これできっと、また、一人でいきていくことも耐えていける。

ひとしきり、涙を流し、アンジェリークはようよう、落ちついてきた。

しゃくりあげている間、オスカーはずっとアンジェリークを抱きしめ、髪を撫でていてくれた。

その手の大きさに、その胸の暖かさに、アンジェリークの心は柔らかく充たされる。

自分を慰め癒そうとしてくれたオスカーに、アンジェリークは謝意を示したかった。そして、なぜこんなにしてくれるのかやはり、聞こうと思った

オスカーの暖かい手が自分に現実を受け入れる勇気をくれたようなきがした。

オスカーの動機がただの同情であっても、実際自分は救われたし、妙な期待を抱かない為にも、オスカーの気持ちをはっきり聞きたかった。

くすんと、ひとつ鼻をならしてから、オスカーの顔をみあげ、アンジェリークはこう言った。

「オスカー・・ありがとう・・優しくしてくれて・・でも、どうして、こんなに優しくしてくれるの?」

「・・なんで?解らないか?俺は君が一番苦しんでいただろう時に、手を拱いて見ていることしかできなかった。もう、黙ってみていた挙句、後で後悔するのは嫌なんだ。 君の心にもはや一点の曇りも迷いもないならそれでいい。ただ、少しでも辛さが残っているなら、俺にもそれを背負わせてほしかった。一人で背負うより、きっと、軽くなる。君を楽にしてやれたら・・そう、思ったからだ」

オスカーの言葉に、アンジェリークは一瞬息を呑んだ。胸の鼓動が激しくなる。

「・・・・どうして、そんな風に思ってくださるの?どうして私にそこまでしてくださるの・・」

アンジェリークの心に嵐が吹き荒れる。まさか?ありえない!でも、本当に?これは自分の都合のいい夢?

言って欲しい、言わないで欲しい。心が二つにちぎれそうだ。

オスカーがシニカルに軽く笑む。

「それも、言わないと、解らないか?いや、君にだけ心情を吐露させて、自分の気持ちを言わずにいるのは卑怯かもしれないな・・」

オスカーは、一息呼吸を置いてから、アンジェリークを恐ろしいほど真剣な瞳で見つめ、真摯にそしてはっきりとこう告げた。

「俺は君としばらく一緒に暮らしてみて、自分の気持ちがはっきりわかった。いつも君の顔をみていたい。君の声を聞いていたい。君が好きだ。愛している。だから、君には笑顔でいて欲しい。君を幸せにしてやりたい。俺の、俺なりのやり方で・・」

「・・オスカー・・」

自分を求めるその真摯な表現にアンジェリークは一瞬目のくらむような幸福感に包まれた。

しかし、口から出たのは、自分の心を裏切るような言葉だった。

「・・だめ・・私じゃ、だめ・・」

オスカーの顔を直視できず、アンジェリークは俯いてしまう。

「なぜだ?君は俺が嫌いか?もし、そうなら、はっきり言ってくれ。」

オスカーがアンジェリークの腕を強く掴み、問い詰める

アンジェリークははっと顔をあげ、オスカーを見つめ返す。

オスカーが自分に示してくれた真剣な思いをはぐらかす事だけはしてはいけない。

自分も、オスカーがしてくれたように、自分のありのままの気持ちを伝えなければ。それは人としての誠意だ。

「違う!私、多分・・いえ、あなたが好き・・今日一日考えていたのはあなたのことばかり・・でも、私ジュリアスのことも忘れられない・・忘れることなんてできない。それなのに、あなたを好きなんて、私に言う資格はないわ!」

「忘れる必要なんかない。俺が愛したのは、ジュリアス様を愛しその辛い別れを乗り越えて強くなった今の君だ。ジュリアス様を簡単に忘れるような君じゃない。忘れなくていいんだ。」

アンジェリークを抱く手に力をこめて、オスカーは言葉を続ける

「ジュリアス様は照らし導く愛で君を高みに押し上げようとした。そして君はそれに充分応えた。もう、君は誰かに引き上げられる必要はない。なら、今度は対等なパートナーと肩を並べて供に歩くしあわせを味わってみてもいいんじゃないか?俺になら、それができると思うのは俺の自惚れだろうか・・」

アンジェリークは縋るようにオスカーを見上げる。オスカーがアンジェリークの瞳を見つめ返し、その細い頤を指で摘んだ。

「俺も幸せのかたちが一つじゃないことは知っている。ジュリアス様を思って暮らすのも一つの幸せだということは否定しないだが、なら、もっと毎日笑って暮らす事だってしあわせの一つじゃないのか?君がそう言う形のしあわせに包まれて暮らすことは、ジュリアス様への裏切りじゃない。むしろ、君が笑って過ごす事のほうを、ジュリアス様も望んでおられると、俺は思う・・」

アンジェリークは無意識のうちに、壁に掛けられたジュリアスに肖像画に視線をむけた。まるで許しを請うかのように。

だが、ジュリアスの肖像画を見て、脳裏に浮かんだ言葉は、ジュリアスのものではなく、その絵の作者、マイヨール画伯のものだった。

       「もしくは、年若いあなたを、先立ってしまうだろう自分に縛りつけたくなかったからか・・」
 
ジュリアスが、自分を手放し聖地に残したことを、あの老画伯はこう喝破したことをアンジェリークは思い出した。

ならば、自分がジュリアスの思いでだけを抱いて生きていくより、オスカーの手を取っていきていくほうがジュリアスも喜んでくれるだろうか・・

でも、アンジェリークはまだ、躊躇っていた。

オスカーと幸せな日々を過ごしたとして、また自分はいつかはオスカーが先立つのを見送らなくてはならない。

オスカーと過ごす日々が幸せであればあるほど、別れは辛いものになるだろう。

あの悲しみに、苦しみに、もう一度自分は耐えられるだろうか・・

そのことを考えたとき、またもや、脳裏に浮かんだのはマイヨール画伯の言葉だった。

常に、いつか来る別れのことが頭を離れなかった自分とジュリアスにあの画伯はこうも言ったのだ。

    「お二人とも、少々先を見すぎている。あなたもだが、ご主人もそうなのではないかな? 
     あなた方を見ていると、二人して遠くを見つめて足元を見ていない。そんな気がするのだがね
確かに、生きている時間は限られている。二人が一緒にいられる時間はもっと限られているだろう・・。
     いつかは永別という別れが来るのだから。・・それは、どんな人間でも平等に・・だ。
しかし、若い人は、もっと今だけを見つめて生きてもよいのではないか? 
     もっと、今という時間だけを大事にしてもいいのではないかな?」

画伯の言葉を思いだし、アンジェリークは今はっきり自覚した。

自分は、また、いつか来る別れのことを、その辛さだけを考えて、今を生きようとしていなかった。

傷つくのが怖くて、辛い思いをするのが嫌で、前に歩き出す勇気がなく、ずっと一箇所にたたずんでいた。

誰にでも、どんなものにでも別れは来るのだ。遅かれ早かれ。

ならば、その別れのときまで、力いっぱい生きるのでなければ、自分のこの生はなんの意味もないものになってしまう。

確かに立ち止まっていれば、転ぶ心配はない。

飛びたたなければ、地面に叩き付けられ、痛い思いをすることもない。

でも、痛みを恐れて、歩き出さなければ、頬を吹きぬける風のさわやかさも解らない。

飛び立たなければ、光りの暖かさも、その空の高さもきっと解らない。

そんな眠ったような人生を送ることを、ジュリアスは自分に望んでいたのではないと思う。

オスカーと一緒なら、きっと煌くような時を過ごして行ける。

例え、それが短い間であっても、だからこそ、一日一日をいとおしんで生きていける。

アンジェリークは、オスカーの体を腕を回し、自分からオスカーの厚い体躯を抱きしめた。

切なげな瞳で自分を見下ろすオスカーの顔を見つめる。

オスカーの真摯な思いに、自分も真摯に応えよう。

アンジェリークは、オスカーが自分に差し伸べてくれた手を取る決意を、オスカーに告げた。

「オスカー、私・・私もあなたが好き。あなたと一緒にいたい。あなたと一緒に生きていきたい。」

オスカーの瞳が一瞬驚いたように見開かれた。

しかし、アンジェリークは次の瞬間、今までよりも更に強く、苦しいほどにきつく抱きしめられた。

「・・アンジェリーク、ああ、一緒に暮らそう。これからはずっと一緒だ。放さない・・」

オスカーの固い抱擁に酔いしれながら、アンジェリークは自分に同じことを約束してくれたジュリアスの事を思いださずにはいられなかった。

永遠を誓ってくれたあの人は、自分を手放して先に逝ってしまった。

心から約束でも、運命の悪戯で、守れない事が在る。それをもう自分は知っている。

そして、オスカーも自分より先にいってしまうこともわかっている。

でも、もう黙っておいていかれるのだけは嫌だった。

守れないかもしれない約束でも、いまだけは、それを信じさせて欲しかった。

「本当ね。ずっと、一緒にいてね。私に黙って、どこにも行かないでね・・お願い・・」

「ああ、俺はどこにもいかない。命のある限り君のそばにいる。約束する。愛している・・」

オスカーはアンジェリークの唇にそっと口付けた。

涙の味のする唇を味わいながら、オスカーは心のなかで誓った。

ジュリアスとの暮らしでは味わえなかったであろう、涙を伴わないしあわせを、笑顔だけで過ごせる日々を、アンジェリークにきっと送って見せると。

そして、自分が先立つときは、アンジェリークに、自分がアンジェリークと過ごした人生がいかに充たされたものであったかを絶対に告げてから、旅立つと。

それが、アンジェリークを残していかねばならない自分の義務だ、とオスカーは思った。


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