汝が魂魄は黄金の如し 14

オスカーに会いたい…会って謝罪しなければ。体の具合を聞かなければ。でも、周囲にはそれと気取られぬように…

自分のため、というより、オスカーの気遣いを無駄にしないために。

心はその思いで占められていたが、アンジェリークは自分の立場上これがなかなかに困難なことをすぐに思い知った。

女王である自分はあまり仮宮から外に出ることがない。守護聖や他の人間に公式の用事があるときは、その人物のほうが自分の元に呼びつけられてしまう。

自分から会いに行っていいと思っていても、ロザリアに立場上それはお慎みくださいとやんわりといなされる。上に立つものとして求められる型式というものがあるからだ。

尤も私的な用件ならこの限りではない。

アンジェリークはその出自の故もあって、気さくで飾らない女王だった。ただ、お茶を飲む、話をする、そういう用件なら自分から守護聖の執務室に赴いたし、ロザリアも私的な訪問なら、やれやれといった顔はしてもそれを止めだてはしなかったので、アンジェリーク自身も気軽にいろいろな守護聖のところに息抜きや遊びに出かけたものだ。

ただし、それは誰に見られても、だれに知られても困らない用件だったからだ。

アンジェリークはオスカーに会いたかったが、オスカーと会うことを周囲に知られたくはなかった。

聖殿は棟続きで守護聖たちの部屋も訪ない易かったし、それほど人目にも立たない。だが、ここアルカディアでは各守護聖の執務室兼私邸はそれぞれ独立して建っている上に、宮殿からも皆それなりの距離がある。

人目につかないよう守護聖の執務室を訪ねるのはほぼ不可能だろう。

それでなくても、このアルカディアでは自分たちは異彩を放つ異邦人であり、かつ、住民達を守り導く指導者でもあるから行動の一つ一つが耳目を集めやすい。住民達が守護聖たちの噂に詳しいことといったら驚くほどだ。

だから普段めったに外出しない自分が守護聖の執務室を訪ねたりすれば、すぐにそれは人の口の端にのぼるだろう。

その理由が推測されることがなかろうと、『オスカーのところに赴いた』という事実自体をできればアンジェリークは周囲に知られたくない。

女王としてオスカーを呼び付けるのは更に論外だった。

自分は私的にオスカーに謝罪したいのに、謝る側が立場を利用してその当人を呼び付けたりしたら謝る意味がない。

それでなくても、昨日倒れたせいでロザリアもジュリアスも今日は決してアンジェリークを一人にしないように気を配っている。本当はアンジェリークが執務室に出ることも、二人ともにいい顔をしなかったのだが、アンジェリークは自分はもうなんともないし、周囲に心配をかけないためにもいつも通りに執務に出ると言い張って出てきたのだ。

2人の心配も無理ないことだったが、自分を決して一人にしないその協力体勢は蟻一匹逃げる隙もないほどがっちりと強固でアンジェリークは溜息がつきたくなった。朝からずっとロザリアかジュリアスのどちらかが側に控えるか、その2人がどうしても席を外す場合は必ず誰かに声をかけてアンジェリークを絶対一人にしないよう厳命していた。アンジェリークの身を案じるという点に関してこの2人は恐ろしいほど強力なタッグといえた。そして、そのことが今アンジェリークの身を縛っている。

オスカーの許に、この2人に気付かれずにこっそり行くことはどう考えても不可能だった。かといってオスカーを呼びたてしては謝る意味がないし、オスカーに会いたい気持ちを周囲に気付かれるのも嫌だった。

例えオスカーを呼んでもロザリアは心配して2人にはさせてくれないかもしれないし、それでは何も話せない。何の用件でオスカーを呼ぶのかとか、オスカーと2人で話す事ができても会見の内容を問い詰められるのも避けたかった。嘘をつくのも心苦しいし、ロザリアにうまく嘘がつけるかどうかの自信もなかった。

ロザリアも含めて人払いをして話をすれば、わざわざ人払いしてまでオスカーと2人きりで他人には聞かせたくない話をしていたらしいということをいわれかねないし、それも本意ではない。

自分の決心が萎えないうちにオスカーと話がしたいのに…アンジェリークはじりじりとしていた。先送りにしてしまえばしてしまうほど、言出しにくくなることをもう、嫌というほど知っているから尚更焦燥感は強かった。

この分じゃ昼間はどうしても私から会いにいけそうにないわ。オスカーにも昼間は執務があるし。

それなら、夜は?オスカーは今夜警備に来てくれるかしら?それならまだ話しかける機会があるかもしれない…

でも、オスカーは今夜来てくれるかどうか…オスカーの体の具合もわからない。警備どころか執務に支障をきたすほどのダメージを与えてしまったかもしれない。自分が負わせてしまった怪我の具合をなんとかして知りたい。

オスカー、オスカーは今どうしているのかしら?怪我の痛みで苦しんでいないかしら?どうして怪我をしたのか誰にも知られないためにお医者さまにもかかっていないんじゃないかしら?ああ…心配でたまらない…

それにアンジェリークはもう1つ懸念があった。あの時は私のことを気遣ってくれていたが、改めて考えなおして、自分のうけた酷い仕打ちにオスカーは憤っていないだろうか。怒って当たり前の仕打ちをしてしまっているのだ。

あんな目にあうのはもうこりごりだと…オスカーが自分の事情を察したとしたら、人違いとわかっているのに怪我をさせられたということもきっと察しているだろうし…もう、私の側になんて近づきたくないかもしれない…

だから、本当なら尚更自分から会いにいって謝らなくちゃいけないのに…でも、どう考えても今日はできそうにないから…どうか、警備に…ううん、警備でなくてもいい、宮殿まで来てくれれば話しがしたいって声がかけられるのだけど…

アンジェリークは夕刻になるのを待った。

時計の針が進むのが遅く思えてならなかった。

存在が許される時間が限られたこの地で、時間が早く過ぎてほしいと思ったのは初めてだった。

オスカーに会わなければ、という気持ちで頭は一杯だったから、ロザリアに促された書類の決裁もうわの空だった。昨日の今日であまり煩雑な執務はまわさないでくれていたのは幸いだった。

ようやく執務終了の時刻となった。

オスカーが警備に立つときは、この頃一度顔を出しに来る。尤も直接報告にこなくても、アンジェリークは自分を包むようにはり巡らされる炎のサクリアの気配を感じて、オスカーが自分を守ってくれていることをいつも察していた。

が、今日はオスカー自身の姿はおろか、いつもつかずはなれず自分の周囲にある炎のサクリアの感触も感じられない。

『オスカー…来ないの?…』

アンジェリークがその理由を考えるほどに重苦しい気分に捕まりそうになったその時、ジュリアスがアンジェリークの許にやってきた。

「陛下、陛下ご自身の夜の警備ですが、今宵も私が宮殿に詰めます。」

「…そう…ジュリアスがいてくれるの…」

ジュリアスが今夜も一緒にいると予めオスカーと打ち合わせをしていたのかもしれない。だから、オスカーは自分のところに顔をださなかったのかもしれないと思おうとしたが、アンジェリークの心は晴れなかった。

いつもなら、一も二もなくうれしいジュリアスと過ごせる夜なのに、それも二晩続けてなどめったにあるものではないのに。なのに、この時アンジェリークの心にさしたのは喜びよりも動揺だった。失望したと言ってもいい。

それに気付きアンジェリークは愕然とする。きっとジュリアスは自分を案じてかなり無理をして時間を作ってくれたに違いない。そう思い動揺や失望を表にだしてはいけないと自分をきつく戒めた。

『オスカーはどうしてるの?どうして今日はオスカーが警備に来ないの?』

喉許まで出かかったが、これはジュリアスには決して問えない疑問だった。

自分を心配して尽力してくれたのであろうジュリアスの厚意に後足で砂をかけるようなことはできないし、なぜ、そんなことを聞きたがるのかをジュリアスに訝しがられるのは嫌だった。

ジュリアスが、自分を案じて進んで警護を買ってでてくれたのか、それとも、オスカーが警護を辞退したのか、知りたくてたまらなかった。

なんとかジュリアスからオスカーの様子を少しでも聞き出せないだろうかとアンジェリークは思案を巡らせた。

ジュリアスはそんなアンジェリークの様子を黙って見ていた。

 

夜、ジュリアスはアンジェリークとロザリアと夕食を供にした。

ジュリアスが宮殿に詰める時にアンジェリークに請われる形で自然とできあがった習慣だった。

オスカーが警備に立つ時はこの限りではない。普段アンジェリークの警備はオスカーがほぼ一人でまかなっていたが、オスカーは警護する時は決して宮殿内に入ろうとはせず(アンジェリークが声をかけない限りは)宮殿の周囲を巡回したうえで、炎のサクリアを張り巡らせて帰るのが常だったから、一緒に食事をとるような事はなかった。

アンジェリークはそれでも何度かオスカーを食事に誘ったことがあるのだが、オスカーはそれを必ず固辞したので、アンジェリークも食事に誘うのはいつしかあきらめていた。アンジェリークが無理して誘っていると思ったのかもしれない。そして、アンジェリークはそうではないと自信を持って言うことができなかった。

食後は女王も補佐官もそれぞれの私室に引き上げる。ジュリアスがアンジェリークと夜を過ごす時は、棟続きの客間に一度引き上げてからアンジェリークの私室を訪れるようにしていた。

今夜もアンジェリークの身の回りの世話をする者が引き上げた頃を見計らってジュリアスはアンジェリークの部屋を訪った。アンジェリークは寛いだ部屋着に着替えており、落ちついた様子でジュリアスを迎え入れてくれた。

ジュリアスは部屋に入って扉を閉めるとアンジェリークの腰を抱き寄せ軽く口付けた。

「今日は大事なかったか?見ていた限りでは大丈夫そうに思えたが…」

「ええ、今日はもう平気…ジュリアス、心配かけてごめんなさい。もう大丈夫だから。なんともないから、私…」

アンジェリークは心配そうな顔つきでジュリアスを見上げて言葉を続けた。

「あの…今夜も私といるためにかなり無理をしたのではなくて?私がまだ目が離せないと思って警護を自分から買ってでてくれたの?」

できればそうだと言ってほしい。ジュリアスが自分から警護に立つと言ってくれたのなら、オスカーは怪我のせいで自分の警護にこられなかった訳ではないかもしれないから。アンジェリークは祈るようにジュリアスを見つめる。

ジュリアスはしばし口を噤んだ後、言葉を選ぶようにゆっくりと話し始めた。

「それももちろんある。昨晩は幸い霊震はなかったが、そなたがまだ本調子でないのに霊震に襲われ、その精神的負担でまた人事不省にでも陥ったら、その時に側にいられぬのはたまらぬと思ったのは確かだ、だが…」

ここでジュリアスは一度言葉を切り、アンジェリークをまっすぐ見つめなおして言葉を発した。

「オスカーが今日は所用がたまっていてどうしてもそなたの警備につきかねるので、ヴィクトール当たりに警護をまかせたいのだが…と言ってきたこともある。今宵は私も急ぎの執務はなかったから、それなら私が今夜もそなたを見守ろうと思ったのだ。」

アンジェリークはこのジュリアスの言葉に大きく目を見開いた。一瞬視線が落ちつきなく動き、そして黙りこくった。その表情は仮面のように固く強張った。

 

ジュリアスは、やはり…という思いに心中で溜息をついた。

ジュリアスはこの自分の言葉にアンジェリークがどう反応するのか知りたくてわざとオスカーのことを告げた。問われてもいないのにオスカーの言を告げたのには訳がある。

『なぜジュリアスが今夜も来てくれたのか?』と言うことをアンジェリークは知りたがっていた。だが、ジュリアスはその質問を額面通りには受取れなかった。『自分ジュリアスが来る』=『オスカーは来ない』という表裏の事実において、アンジェリークが真に知りたがっているのは、自分が来た理由ではなく、その背後にあるオスカーが来ない理由なのではないかと思った。

アンジェリーク、私がそなたと夜を供に過ごす理由を、そなたがわざわざ聞いたりしたことなど今までにあっただろうか?私たちは愛し合っている。そういう者たちができる限り長い時間をともに過ごしたいと思い、実際そうするのに理由なぞいらないのではないか?なのに、そなたは今夜に限ってその理由を尋ねる。私はその意味を考えずにはおられぬ。だから尋ねられもしないのに、『オスカーが執務を理由に自分から警護に立てないと言ってきた』という事を告げたのだ。それを知りたかったのだろう?違うか?アンジェリーク。

アンジェリークは今日一日確かに感情を激することはなかった。何の発作も起こさず体調を崩すこともなかった。しかし、何か人待ち顔でしばしば外を気にしていたことを気付かぬジュリアスではなかった。

自分が今夜もアンジェリークと供添いすることを告げた時も、彼女の反応はあっけないほど淡白だった。むしろ感情を押さえ様としているかのようだった。

普段なら、その場で何がしかの喜びとか、人目を忍んで訪れる自分への気遣いを見せるアンジェリークなのに、今日に限って反応は薄く、むしろ意図的に感情を押し殺そうとしているような気配をジュリアスは感じていた。

二晩続けて供添いできることなど、めったにない。今は警備と言う名目があるからまだ仮宮に来やすいが聖地にいたときは人目があるので連日宮殿に泊まるのはリスクが大きかったからだ。

なのに、今日は訪いを告げても、明確な反応が返ってこなかった。彼女は何か他のことに気を取られているように見えた。その気をとられている事実…彼女は『自分がくる』という事実の裏面である『オスカーは来ない』という事実のほうに心を奪われているのだということが苦々しい思いをともなって込み上げてきた。彼女の態度を見て、彼女の問いを聞いて否応なくそう思った。

今、オスカーが自分から来られないと言ってきたという事をわざわざ告げたのも、アンジェリークの思考を占めているものを再確認するためにほかならなかった。自虐的だとジュリアスは自分を嘲笑った。アンジェリークの反応は嬉しくない事にジュリアスの予想通りだったから尚更だった。

オスカーが自分から来られないと言ってきたその事を告げてもアンジェリークの表情に変化はなかった…というより、表情自体が仮面のように無機質なものになった。常日頃はそのくるくるとよく変わる表情が春風のような印象を与える彼女だからこそ、表情がなくなるということが何を意味するのか、これもジュリアスには痛いほどわかってしまう。

オスカーが来ないことがそんなにショックなのか?アンジェリーク…そのショックを無理に隠そうとするから、そなたの顔から表情が失せた…

普段なら私が夜も供にいられると告げた時は綻びそうになる口元を必死に押さえて謹厳な表情を保とうとし、それでも、綺羅星の如く輝く瞳の光に如実に感情が見えてしまう…そんな所もたまらく愛しいのに…だが今隠そうとしている感情が、喜びではないことくらい私にもわかる。私に気付かれたくない感情が芽生えたのだろう?それは何だ?失望?落胆?そのようなものか?…私と供にいるより、今宵はオスカーに来てもらいたかったのか?ところがオスカーが来ない事がわかって落胆したのか?それを隠そうとして、感情を抑えるから、そなたの豊かな表情は仮面のようになってしまったのだろう…

そなたはオスカーを待ちわびていながら、それを私には気付かせまいと思っている。

それは私のことを気遣ってくれているからだというのはわかる。だが、だからこそやるせなく苦しいのだ。

なぜオスカーを待つ?オスカーが来ない事に落胆する?そなたがオスカーに抱いている感情は恋情ではないと思う、そう思いたい。だが、それならそなたとオスカーの間にあるものは何なのだ?なぜ、そこまで私に隠そうとするのだ?

それに…オスカーがアンジェリークの警護に来ない理由がオスカーの言葉通り溜まった執務であるなどと、ジュリアスはさらさら信じていなかった。彼の腹心はそれほど無能ではないし、無能な者を自分は頼りにはしない。ましてやオスカーは今まで万難を排する勢いでアンジェリークの警護にあたっていた。他の者とも分担しているであろうと思っていたアンジェリークの警備を自分と分かち合う以外はほぼ一人で行っていたらしいことをランディとの会話で知り驚いたほどだ。それほどアンジェリークの身を案じて自分自身で動こうとするオスカーが仕事が片付かないからといって警備を放棄するとは信じられない。

なにか…オスカーが警護にこられない理由は別にある。それも公には言えないような理由が。そして、アンジェリークにはその理由がわかっているのではないか?だから、オスカーが来られないことを気に病み、でも、それを周囲に知られたくはないから感情を殺す…私にも知らせたくない理由が何かある……アンジェリークが恋情ゆえ待ちわびたオスカーが来られない事に落胆しているのでないなら、オスカーが来られない理由にこそアンジェリークの動揺の原因がある。それしか考えられない。

オスカーが警護に来られない理由、それは今、何も情報のないジュリアスにとってアンジェリークの情緒不安定の原因に辿りつく鍵のような気がした。やっと見つけた手がかりの小さな糸口のような気がした。これを辿っていけばアンジェリークが心に抱えこんでいる問題の輪郭くらいは見えるやも知れぬ…

アンジェリークの心の問題でオスカーが関わっているという認識はもはや確信にまで高まっていた。

ただ、その関連がどうしても掴めない。

ジュリアスにも考える時間が必要だった。

自分はアンジェリークが言出すまで待つと決めた。だが、アンジェリークが言出さないまま、心に問題を抱えたまま、万が一我らの生が絶ち切られたとしたら?私はそれを悔やまないと言いきれるだろうか?

彼女に聞き出すことはすまい。だが、彼女の抱える問題の正体を知りたいと思うことも罪なのだろうか。

アンジェリークもジュリアスも今夜は言葉少なだった。

二人どちらともなく寝室に向い、供に伏したが今夜は情を交さなかった。どちらも求めようとしなかった。

互いに黙って床に横たわってはいたが、二人ともぐっすりと眠ったのかどうか、お互いに知らずにいた。

 

「オスカー、今、少し時間がとれるだろうか?」

「これはジュリアス様…どんなご用件でしょう?」

「いや…用というほどのものではないのだが…少々話したいことがあってな…」

明けて翌日、ジュリアスはアンジェリークの世話をロザリアに任せ、執務室で育成の依頼がなかったことを確認してから、オスカーの執務室を訪ねたところだった。

ジュリアスはアンジェリークの胸中に秘められた事柄は自分からは何も尋ねまいと心に決めている。昨晩も改めてそう思いなおした。

しかし、それはアンジェリークの心の憂いに目をつぶるということではないし、その事実を気にしないでいられるということでもない。

ジュリアスはアンジェリークの愁眉を開いてやりたいとの思いを結局捨てる事ができなかった。それでなくても様様な重圧を背負っている彼女だ。その重圧の大半は他人が肩代わりしてやりたくてもできぬ代物だ。だからこそ払える憂いならできる限り払ってやりたい。

ただ、彼女自身はその問題に触れられたくないと思っていることは明白だった…それなら、もう1つの突破口をついてみよう…ジュリアスはそう結論つけた。

お節介かもしれない、余計なお世話かもしれない。

そっとしておいてやるほうがいいのかもしれないと何度も考えた。

だが、今自分たちの置かれている状況を思い、その限られた時間を思った時、万が一、自分たちの生が約2ヶ月後にぶっつりと絶ち切られた時のことを考え、その時、アンジェリークの憂いをそのままに生を終わらせてしまったら、自分は恐らく激しく後悔するだろうとの結論にジュリアスは到達した。

アンジェリークが心に抱えている問題を少しでも軽くしてやりたい。

その問題が万が一、本当に万が一、オスカーへの恋情だというのなら…終わりが来る前にせめて想いを告げたいと思うのが人情ではないだろうか。もしそうなら、私のことは考えずともよいと背中を押してやらねば……私だとてアンジェリークを手放すことなど考えられぬ。だが、もし最後の日が来たとして、彼女が誰とその日を過ごしたいと思うのか…何にも捕らわれない心で彼女自身に決めさせてやりたい。アンジェリークを自分に縛りつけて手元においておきたい、その一方で彼女の好きなようにさせてやりたいと思う気持ちにも嘘はない。いつかは必ず終わる命だからこそ、悔いなきように過ごさせてやりたいとも思うのだ。

手を尽くしてみて、それでもだめならまだ諦めもつこうが、自分は彼女が何かに思い悩んでいる事を知りながら今は何もしていない。同じ終局を迎えるなら、気休めでもいい、彼女の心を少しでも晴らしてから逝きたいというのは単なる自己満足かもしれぬ…とも思った。

だが、自分自身が嫌なのだ。なにもしないで、只、座して終わりの時を迎える事に耐えられないのだ。

今の状況だって同じことだ。状況は決して明るくない。自分たちの行動が正しいかどうかもわからない。情報はあまりに少なく、できることもあまりに少ない。育成を進めたとてこの地を救う保証も、聖地に帰れる保証もない。

しかし、自分を始めとして皆誰一人投げやりになっている者はいない。希望は捨てていない、あきらめてはいないではないか。自分のできることでそれぞれが力を尽くしているのは、アンジェリークの言葉を、彼女と築く未来を信じているからだ。

そう、自分はじっくりと自分の今の状況を鑑みて思った。不安は拭い様がなくとも、自分は根本的な部分で未来への希望は捨てていない。アンジェリークと生を重ねて行く事への希望は捨てていない。捨ててしまっていたら、このように力を尽くす道理もない。

問題の全容が見えないから、情報が少ないからといって手を拱いてみていても事態は何ら進展しない。それなら、手探りでも、見える先が足もとの1歩だけでも進むことにも意味があるのではないだろうか。ただ時が過ぎるにまかせても解決しない問題があるのなら、今積極的に手を差し伸べてもいいのではないだろうか。

自分たちの未来がある一点で突然終止符を打たれないために今我々は手探りではあってもできる限りのことをしている。自分たちの努力次第で運命を切り開けると信じているからだ。アンジェリークの憂いにも同じように対処することが悪いこととは思えない。

だが、アンジェリークがどうにも言いだしにくい事なのだということも、もうわかっている。それなら尚更、彼女が見ていないところで、彼女を手助けできないだろうか。知られたくないというなら、知らないふりを通しながら、彼女に手を差し伸べられないだろうか。

ただ、その憂いの正体がわからなくてはどうにも動きようがない。しかも本人からその問題に触れないでくれといわれている。かといって目の前に問題があるとわかっているのに、何もしないでいることはジュリアスの性格上どうしてもできない。

自分は確かに未来への希望を捨てていない。だがそれは、今、何もしなくていいということではない。希望を持つということは、万が一の事態を想定しないということではないのだ。どんなに手をつくしても終局が避けられなかった時の事は考えておかねばならない。その時、アンジェリークの憂いを少しでも払えてやれ、彼女の生を少しでも満たしてやれたと信じることができれば、それは自分にとり、僅かではあっても救いとなろう。

いや、そんな理屈抜きにしても、ジュリアスはアンジェリークに穏やかで安らかな心持ちであれかしと願っている。そのためならなんでもしたいのだ。そのためにも彼女の抱えている問題の断片でも欠片でもいい、情報が欲しかった。だからオスカーの許を訪れた。

オスカーから情報を得るということはアンジェリークを問いただす事と違い心中にハードルはない。オスカーがどう言う形でかはわからないが、なにかアンジェリークの憂いに関わっているという疑念は拭い様がない。オスカーなら何か…全てではなくとも何かを知っていると思うのだ。

だが、オスカーは自分が問い詰めたとして、素直にアンジェリークのことを話すだろうか。そんなはずはあるまい。なぜ、オスカーは一昨日ランディに緘口を強いていたのだ?なにかアンジェリークのことを隠したいと思ったからだ。あの時はオスカーの言に理ありと素直に頷いてしまったが、あとでオスカーとアンジェリークの態度を思い返してみて、オスカーがなにかを隠そうとしたからだと思うほうが自然だった。自分に報告するつもりだったという言葉も今となっては怪しいものだ。

しかし、何か隠しているだろうと問うたとて、素直に口にするわけがない。それが自分自身の問題ではなく、アンジェリークの問題なら尚更明かす訳がない。ジュリアスはオスカーの信義を重んじる心の強さに関しては絶大な信頼を寄せていた。そして、オスカーが隠したいと思うことなら、ほぼ完璧に隠す能力の持ち主であることも、自ら認めているところだ。それが情報へのアクセスをこの上なく困難なものにしている。

それでも、今はオスカーしか手がかりはない…僅かでも何かわからないか…そう思いオスカーの許を訪れた。一筋縄でいかないであろうことは承知の上だった。それでも、情報が欲しいと思うのは、アンジェリークの抱える問題がオスカーへの恋情なのかどうか、どうしても確かめたい気持ちが根底にあるからかもしれない。そうではないという一縷の希望にすがりたいのは自分ジュリアスのほうなのだ。だから、隠された事実をこれほどまでに明かしたいのだろうということもジュリアスは自覚していた。それを明かにしないでいることのほうが苦しくて耐えられないのだろうとも思った。

オスカーが昨日アンジェリークの警護を他人に任せようとした理由。

それがアンジェリークが抱える問題の手がかりになるはずだとジュリアスは感じていた。

「では、こちらへ…」

オスカーが執務机から立ちあがり、落ち付いて話せる奥の間にジュリアスを案内して椅子を勧めた。

その時ジュリアスは何かオスカーの態度にいつにない違和感を感じた。

オスカーは男から見ても逞しい体躯の持ち主だが、体の動きは滑るように優雅でしなやかだ。印象として大型の肉食獣といった感がある。それは普段の鍛錬の賜物ゆえ、筋肉に無駄な動きがないからであろう。動作に隙や無駄がないから、何気ない所作にも豪胆でいながら踊るように優雅な印象を与えるのだ。

ところが何やら今日はオスカーの所作に流れるような滑らかさがないように思えた。体の動きがどこかぎこちなく、錆びた機械が動いているようなぎくしゃくとした目障りさを感じた。

それが何か神経に引っかかったが、ジュリアスはとりあえず勧められるまま腰掛け、オスカーが自分の向いに座るのを待って口を開いた。

 

「最近、街の様子に異常はないか?」

「は…近頃は幸い霊震もおきていないので、特に街に問題はありません。霊震で恐ろしいのはその揺れより、過剰なエネルギーが放電するように事物に引火して火事を引き起こす事ですから…」

オスカーはいぶかしがる。ジュリアスはこんな当たり前のことを話にわざわざ自分の所にやってきたのか?

「そなたは昨晩執務の遅滞を理由に陛下の警備を辞退してきたな?そなた一人に陛下だけでなく街の警備まで責任を負わせてしまったのが負担になっているのだろうか?」

「いえ、そのようなことは…ありませんが…」

オスカーはジュリアスの意図が汲めず、言葉を濁す。ジュリアスは無駄な世間話をするタイプではない。今はそんな状況ではないし、常のジュリアスを考えれば一昨日倒れたアンジェリークの容体で頭は一杯ではないのか?この程度の会話をしにわざわざ執務室に来る訳がない。一体なにが目的なんだ…

不用意なことを言ってはまずいという警戒心からオスカーの言葉は滞った。

構わぬ様子でジュリアスは会話を続ける。

「そなたから、陛下の警護をほかに頼みたいという旨を聞き、執務に支障をきたすほど日々の警護が負担になっているのかと心配になってな…正直な所を聞かせてほしい。昨晩その旨奏上申し上げたら、陛下がそなたの参内がないことをひどく気に病まれている様子だったのでな…」

オスカーは耳を疑った。俺がいかなかったことを気に病む?アンジェリークが?…昨晩アンジェリークの許にいかなかったことが、彼女を気鬱にさせてしまったというのか…オスカーは信じられなった。ジュリアスが気づいたということは端から見て相当消沈していたということか。

オスカーはアンジェリークが自分の顔もみたくないのではないかという懸念が捨て切れず、自分から仮宮に赴くのを躊躇った。その上、やはり胸部の疼痛甚だしく、これでは万が一の時アンジェリークを守り切る自信がなかったので警護を他に任せざるをえなかった。有事に役にたたない警護などいないより悪い。専任の警備がいることで却って周囲の油断を誘ってしまうから。

だが、オスカーはアンジェリークが自分を待っていたらしいと言うことをジュリアスから聞いて、耳を疑いながらも心が浮き立った。少なくとも顔もみたくないということはないと思っていいのか…そう思うだけで歓喜に圧倒されそうになり、我ながら度し難いと思った。誤解するな、オスカー。彼女は俺を恋焦がれて待っていたわけではない。恐らく、俺の容態を気にしていただけだ。

それでも…それでも声を掛けてもいいのかと逡巡しているよりはマシだった。アンジェリークと話ができるかもしれない。彼女の問題をなんとかしてやりたいと伝えられるかもしれない。そう思うだけで暗闇に光明が射す思いだった。

その感情を表に出さぬよう努めて冷静な声を出した。

「いえ…宜しければ陛下にお伝えください。陛下の身辺をお守りするのは私にとって喜びです。私の執務が滞ったとしたら、それはあくまで私の能力不足が原因ですので、陛下がお気に病まれるようなことは何もないと…」

「それはそなた自身が伝えるがよかろう…陛下はそなたの参内を待ちわびているように思えた。よほどそなたを頼みにしているのであろう…」

「いえ、そのようなことは…私などいかほどの者でもございません。陛下が第一に頼み、信頼されているのはやはりジュリアス様だと思います。私など多少体術や武器の扱いになれているだけで…それでも陛下が本当の窮状を置かれた時、お助けする事能わず、そのことが今でも悔やまれます…」

オスカーは絞り出すように言った。声を震わさずに話すのが大層困難だった。

そうだ、どれほど武器の扱いに長けていようと、素手でも敵を倒せる能力があろうとも、いざという時側にいなければ何の役にもたたない。彼女は普段なら自分の身を自分で守る能力もある。大の男である俺を吹っ飛ばせるほどの力だ。だが、それはあくまで彼女が普通の状態であればこそだ。彼女が一番弱り、力を失い、何より側にいてやらねばならない時にいられなかったのが心の底から悔やまれた。彼女が一番辛かった時に助ける事ができなかったのは痛恨の極みであった。

操られている住民を傷つけまいという守護聖の信条など綺麗事だった。おかげで何より大切な存在は生涯消える事のない傷を負わされてしまった。誰を傷つけようと彼女の許に駆け付けるべきだった…彼女は一人でも自分の身を守れるという過信も徒になった。あの時点で敵が彼女の力を悉く吸収するなどとは守護聖の誰一人として想像していなかったのだ。いくら悔やんでも悔やみ切れぬ思いに口中が苦いもので一杯になった。我知らず顔を落とした。組み合わせた指はわなわなと震えた。

「それを言われると辛いな…私だとて陛下をお助けできなかったのは同じことなのだから…」

一瞬視線を泳がせたジュリアスは改めて顔を上げるとオスカーを見据えて言葉を続けた。

「だがそなたを頼みにしているからこそ、そなたの参内がないことを陛下が気になさったのだろう。陛下の警備が負担でないと言うならその旨直接申し上げるがよい。そなたの所用とやらはもう片がついたのか?陛下の許に参内できぬほどの所用とは一体…」

「陛下が私の参内を待ちわびていたということ自体が考え違いではありませんか?ジュリアス様。そう言っていただけるのは光栄ですが…」

オスカーは無作法を承知でわざとジュリアスの言葉を遮った。ジュリアスは自分が警護に行かなかった訳を怪しんでいるのか?…なんとかこの話題から離れねば…オスカーはわざと苦笑してみせ、故意に話題の論点をずらそうとした。アンジェリークが自分の事を気にしていたのは事実だとして、それをジュリアスに気付かれるのは望ましくない。なんとか事実無根の思い違いとジュリアスに思ってもらわねば…

「そうか?私から見ると陛下はそなたが昨晩溜まった執務を理由に警護に来ない事を大層気にしておられるようだったのでな…」

「仕事が遅いのは偏に私の能力不足ゆえですから…警備が負担な訳ではございません。」

アンジェリークが自分を気にしていたのは彼女の警護のしわ寄せで執務が遅滞を来しているのを気にしたためと、疑念を払拭できないなら、どうしてもそう思ってもらわねばならなかった。

ジュリアスが軽く頭を打ち振った。

「それなら、そういうことにしておくが…だが、先日陛下が昏倒された時も、そなたがそばにいたからこそ、陛下も大事なく済んだのであろうし。謙遜することもあるまい。陛下がそなたを頼みにするのも当然だと思うが…」

「守護聖なら誰でもするようにしただけです。でも、そう思っていただけているのだとしたら身に過ぎる喜びです。」

「なのにあの時は、そなたの行動を詰問するようなまねをしてすまなかった。私も陛下の失調に動揺していたようだ。そなたが陛下の容体を隠蔽しようとした意図がわからなかったので、つい詰問口調になってしまった…」

「もったいのうございます。それにジュリアス様の懸念も尤もな事でございましたし…」

ジュリアスはあきらめたような溜息をひとつこぼすと、何か決心したように頭をあげてオスカーにこう言った。

「…オスカー、実はそなたに尋ねたいことがある。あの場にいたそなただから聞くが、そなたは先日の一件からも陛下が最近何か精神的に不安定であると思ったことはないか?…いつも警護についていて陛下の御身で何か変わった点に気付かないか?」

オスカーは暫時口を閉じたまま、ジュリアスの言葉の意図を探ろうとした。

ジュリアス様は何が知りたいんだ?どこまで気づいてらっしゃるんだ?字義通りアンジェリークの体調の変化を憂いてその原因を現場にいた自分に相談したいだけなのか?それとも俺はジュリアス様になにか不審がられるような言動をとってしまったのだろうか…

オスカーはジュリアスの言外の意図を探るべく、当たり障りのない、誰が見ても当たり前の解釈だけを口にした。

「それは、無理からぬことでしょう…今の陛下の身心の負担を思えば、そのストレスや、先行きへの不安から、心が揺れるのはむしろ当然のことではないでしょうか…まことにお気の毒とは思いますが…」

凡庸と思われてもかまわない。むしろそう思ってほしかった。

「ああ、それは当然だ。だが、私には陛下の心が不安定になったのは、ここアルカディアに来る前、戦争が終わった直後からのような気がしてならぬのだが、オスカー、そなたは何も気付かなかったか?」

ジュリアスは先日のアンジェリークの精神失調だけを憂いているのではないと、これでわかった。

当然と言えば当然だ。自分でさえアンジェリークの何か不可解な態度に気づいたほどだ。誰より一緒にいる時間の長いジュリアスがアンジェリークの身心の変化に気づかぬはずがない。

しかし…俺にその原因がまったく見当が付かなかった以上に、ジュリアス様には更に想像の範疇を超えたことだろう。俺だって、アンジェリークがああいう行動にでなければ未だに原因がわからなかっただろう。

ジュリアス様もアンジェリークの精神の不安定さがわかっているのに、その原因も手立てもわからず、苦しいほどの焦燥に駆られ、僅かでも手がかりを求めて俺の許にきたのだろうか…

オスカーは逆にジュリアスの手持ちの札を探ろうと決めた。ジュリアス様はどこまで事実を察していらっしゃるんだ?俺に何を確かめたいというのだ?ジュリアスがある程度の事実を察しているのならこちらからアンジェリークの事で相談ができるかもしれない。しかし、何もしらないのだとしたら?

「ジュリアス様はなぜ、そう思われたのです?戦争が終わったあと明かに陛下に何か変わった点でもございましたか?」

今度はジュリアスが黙る番だった。上手い返答を探しているのだろうとオスカーは推測する。自分たちが特別な関係であることを言える訳もないから、私的な逢瀬の時の態度の微妙な変化を言及するわけにはいかないからだろう。

「…具体的にどうこう…というのではないのだが、戦争が終わってから、明かに感情を激させることが増えたように思えるのだ。以前はそのように激しやすいお方ではなかったような気がするのだが…」

「それは俗に言う心的外傷というものではないでしょうか。陛下の虜囚時のご苦労は想像に難くありません。その時の心の傷が、陛下を精神的に不安定になさっているのではないでしょうか…」

恐らくは女性にとって最大のトラウマになる経験だ…自分で口にして更にオスカーの心は重く塞がれた。

「私も最初はそう思ったのだ。だがな…ある時ふと思いついたことがあってな…陛下が感情を激される時には、必ずある一人の人間のことが話題に上ったり、その場にいる時のような気がするのだ…」

オスカーの心は凍りついた。表情を変えないためにありったけの精神力を振り絞らねばならかった。

「ほう…私には見当がつきかねますが、それは一体誰なのです?」

「私も確信はない。気のせいかもしれぬ。それにこの際、それが誰かは大して問題ではない。大切なのはなぜか?だと私は思っている…どんな些細なことであれその者が陛下に害を為すような人間ではないことは私が誰よりもよく知っている。だからその者がそばにいるからといって陛下の身心が不安定になる原因が私にはわからぬのだ…」

オスカーは確信した。ジュリアスは賢明な人間だ。明察も思慮も深い。俺がアンジェリークの心の問題に何らかの形で関わっていることまでは察しているのだ。だが、ジュリアスは自分がアンジェリークをどんな形であれ損なうようなことはないということも信じていると言ってくれているのだ。だからこそアンジェリークの不安定さの訳がわからないと…

ジュリアスは自分を責めにきたのでも詰問に来たのでもない。

アンジェリークが何かに苦しんでいることに気づき、それをどうにかしてやりたいという思いだけで、微かでも関係のありそうな俺にあたってきたのだろう。

ジュリアスの思いは自分と寸分違わず同じだ。その気持ちが痛いほどオスカーにはわかる。

この場で全て打明けてしまいたい、アンジェリークの苦しんでいるその問題の全容を。その上で自分たちがどうしたらいいのか、何かできることはないのかをジュリアスと相談したかった。

その誘惑は強烈だった。一人で考えていても埒のあかないことを打開するのにこれほどいい相談相手は二人といなかった。しかし…

「実は…陛下が戦争の後、精神的に不安定になられていることは私も気付いておりました…その原因はわからなかったのですが…」

オスカーは『わからない』ではなく『わからなかった』とわざと過去形で言葉を締めくくった。そしてジュリアスの瞳をまっすぐに見詰め返し真摯な面持ちで言葉を続けた。

「私も陛下のご様子は気にかかっておりました。ですが、自分の気のせいであれば余計なご迷惑を陛下におかけすると思い、このようなことをおいそれと他者に話す事もできずにおりました。私も陛下のご様子に更に心を配り、何か気付いたことがあったらジュリアス様に相談申し上げます。…必ず…あくまで陛下の御為を第一に考えることをお約束します。」

オスカーはこう告げるのがやっとだった。

アンジェリークの問題を明かしていいのはアンジェリーク本人だけだ。必死で隠しとおしてきたであろう事実を第3者の俺からジュリアス様に告げていいものではない。そんなことをしたら、それこそ俺は二度とアンジェリークの目を見て話せなくなる。顔を合わすこともできなくなる。

アンジェリークが話してもいいと思わなければ、決して告げていい問題ではない。

だが、自分もアンジェリークの事を案じている。もしこの事を明かしてもいい時期が来た時は必ずやジュリアスに善後策を相談したいと思っている…アンジェリークに良いように…そんな思いを言外に匂わせたつもりだった。

これしか言えないのがもどかしくてならなかった。

同じ女性を愛する男としてジュリアスの気持ちが手に取るようにわかるからだ。アンジェリークが何かに苦しんでいる。それはわかるのに、その原因もわからなければ、何とかしてやりたくても手立ても打ち出せぬそのやるせなさ、無力感、焦燥の全てが…胸にひしひしと迫ってくる。

その気持ちがわかりすぎるほどにわかるから、男としてのオスカーはジュリアスに全てを知らせたかった。何もわからないまま置いてきぼりのような状態でいることほどつらい事はないのだ。真実を知って苦しみ後悔するとしても、それでもオスカーは知らなければよかったとは思っていなかった。それはジュリアスも同じだろうと思う。ジュリアスは真実の重さに押しつぶされたりはしないとも思う。だから余計に真実を知らせてやりたかった。

だが、やっとのことで思いとどまった。今、これは自分の口から告げていいことではないと思ったから。

「…そう…か…では、何か気付いた事があったら、知らせてほしい…」

ジュリアスは何かに耐えるように首を打ち振りながら、ふと思いついたようにオスカーに尋ねた。

「そう言えば…まだ答えを聞いていなかったな…そなたの仕事の進み具合はどうなのだ?今夜の警護はそなたが行えるのか?」

オスカーは本当ならアンジェリークの許に飛んでいきたかった。しかし、今の俺の状態では何かあった時にアンジェリークを守りきれないかもしれない。能力に欠けるのに意地を張って無理をしてアンジェリークを窮地に落し入れるくらいなら、他人に任せたほうがいい。鎧がコルセット替りになって痛む胸部を支えてくれているのでなんとか普通に振舞えているが、切った張ったとなるとまだかなり心もとない状態だった。自分が直接守りに行きたくて心は焼け爛れそうだったし、今夜も行かなければアンジェリークが心配するとわかっている。なんとかして伝えたいこともある。が、どうしようもなかった。アンジェリークを危険に晒す可能性を僅かでも増やす訳にはいかない。

「いえ…それが今夜はまた街の巡回にあたっておりまして、今夜も陛下の許に参内するのは少々難しそうなのです…」

アンジェリークには言いぬけだと見ぬかれてしまうだろうからもう執務をいい訳にはできない。二晩続けて執務が片付きませんでしたではジュリアスにも不審に思われ、その内容を追求されよう。街の巡回といっておけばアンジェリークも自分の容態を心配して心を痛めることもないだろう。今日の担当に頼んで後で替ってもらわねば。本当なら安静にしておいたほうが治りは早いのだろうが…

「あまり無理はするな…もともと住人たちの安心のための歩哨だ。霊震の防ぎようなど本来ないのだから体に負担のかからぬようほどほどにな…陛下のご心痛の種を増やさぬためにもな…」

自分がわざと歩哨に立つことを見透かしたようなジュリアスの言葉に冷や汗がでる思いだった。自分がアンジェリークの許に行けない訳が他にあることを気付いているのだろう…

「…肝に命じておきます…」

「陛下の警護には今夜も私がつくと申し上げよう。ついでにそなたが警護に立てぬ訳もな…」

「は…」

返事の仕様がなかった。ジュリアスに申し訳なかった。アンジェリークの身を憂い案じている気持ちは恐らく自分と同等かそれ以上に強いだろう。アンジェリークもそれはわかっているはずだ。だが、一番近しいからこそ、言うに言えぬこともあるというアンジェリークの気持ちもわかる。ジュリアスの気持ちもアンジェリークの気持ちもお互いを思いやってのことだとわかるのに、端からはその事実も指摘できないのがもどかしくてたまらなかった。

「ジュリアス様、私は陛下のおそばで陛下をお守りするのは、やはりジュリアス様が一番適任であると思います。陛下が誰より頼みにし、誰より信頼なさっているのは、ジュリアス様です。俺にはわかります。」

「そうか?そなたにはそう見えるのか?そうだと嬉しいのだが…」

ジュリアスが幾分寂しそうに微笑んだ。

「忙しいところ邪魔をしたな…」

「いえ…」

ジュリアスが立ちあがって暇乞いを告げた。

オスカーは慌てて立ちあがってジュリアスを先導しようとして、そのジュリアスの体とぶつかってしまった。痛みに一瞬息が止まり汗が流れた。

「つ…」

「どうしたオスカー?顔色が悪いぞ?どこか具合でも悪いのか?」

「…いえ、なんでもありません。ではお気をつけて…」

「ああ…執務の邪魔をしてすまなかった…」

ジュリアスはそれだけ言うと黙って去っていった。

オスカーは深い呼吸を繰り返して、どうにか心を落ち着かせた。アンジェリークとなんとか早急に話がしたい…ただし、周囲に知られないように。ジュリアスがどれほどアンジェリークの事を憂いているか、男なら辛くとも真実を知りたいと…少なくとも自分やジュリアスならそう思うだろうとアンジェリークに伝えたかった。

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