汝が魂魄は黄金の如し 15

今夜もジュリアスが一緒にいてくれた。

なのに素直に喜びを現せなかった自分がアンジェリークは嫌だった。

ジュリアスが夕刻仮宮に現れて、今宵も宮殿に泊まっていくと言った。そして、アンジェリークが何も尋ねないうちに『オスカーは今夜も街の歩哨に立つそうだ』と静かに付け加えた。紺碧の瞳に諦めたような悲しそうな色があった。

アンジェリークはそのジュリアスの言葉になんと答えてよいかわからなかった。なぜ、ジュリアスはわざわざこんなことを言うの?まさか…私がオスカーと会いたがっていることに気付いてる?もしかしたら、その理由を何か誤解しているのでは?

『違う、違うの!ジュリアス』と言いそうになって慌てて口を噤んだ。

だって…何を言えるって言うの?逆にジュリアスに『何が違うのだ?』って尋ねられたらなんて答えればいいの?オスカーに会いたいことは本当だもの。でも、その理由を言えないんだもの。オスカーに会って謝りたい、私が怪我をさせてしまったからって言っても…なぜそんなことになった?って重ねて問われたら…私はその訳を言えるの?……だめ、言えない…ジュリアスがどんなに驚くか、どんな顔で私を見るのか…怖い…そして真実を知ってどれほど自分を責めるか…それを考えたら……とても言えない…何も答えられないのに『違う!』って言ったって、信じてなんてもらえない。余計にジュリアスに惑いと不審を与えるだけ…

勘違いしても無理ない。だって、ジュリアスは私がオスカーに会いたい訳が見当もつかないだろうから。私がオスカーを傷つけてしまったことも思いもよらないだろうし、その理由は尚更わからないと思う。そうしたら、女が男に会いたがる理由で一番それらしいことを考えてしまったとしても仕方ない。

あれからジュリアスは私を抱かない。今夜も抱かなかった。手を握って一緒に眠ってくれるけど、抱こうとはしない。あの晩の性急な求めが嘘のように…

まさか…私の心が他の人に向いていると、向きかけていると思っているの?そう思って、あなたは自分から私の手を離そうとしているの?

違うの!そんなことないのに!手を離さないでほしいのは私のほうなのに!

ああ、どうしよう…どうしたらいいの?あの事を話せれば…だからオスカーに会って謝りたいのだと言えれば…でも、でも…

わかってる、このままじゃいけない。

ジュリアスに誤解されたまま、私は大事な物をなくしてしまうかもしれないなんて…そんなのは嫌!絶対に嫌!

オスカーは今夜も街の歩哨に立つって言ってた…だから私の所にこられないって…それは本当?歩哨に立てるってことは怪我はそれほど酷くなかったのかもしれない。もし、そうなら、それは嬉しいけど…もしかしたら、やっぱり私ともう二度と関わりたくないから、街の方にばかり行くようになってしまったのかもしれない…

明日…明日こそオスカーに会いに行こう、会ってもらえないかもしれないけど…もう待っているだけじゃだめ!オスカーに謝れたら…オスカーのことで頭は一杯ってことはきっとなくなるわ。そうしたら、ジュリアスの誤解も解けるかもしれない。他力本願だけど…とにかく謝ることができれば何か見えてきそうな気がするの。今は曲がり角の先がわからないけど、どうしたらいいか、次の1歩がみえてきそうな気がするの。でも、このまま、うやむやにしてたら、ジュリアスは本当に誤解して…私の手を離してしまうかもしれない。だって、あの人はそういう人だもの。自分が辛くても、その人のためになると思ったら敢えて辛い選択をしてしまう人だもの…

とにかく、オスカーに会いにいこう。もう、誰にもみつからないようになんて言ってられない。そんなことを気にしてたら、いつまでたってもオスカーに会いにいけない。あからさまにする必要はなくても、でも、どこかで思いきらないと何も変わらない…そう、なにか変われるかもしれない…オスカーと話ができたら、なにかが変わるかもしれない…そんな気がするの…

ジュリアスに手を握られて床にいて、だが、眠らずにアンジェリークが考えたことだった。

 

「ロザリア、私ここしばらく宮殿の外に出てないから…ちょっとお散歩に行きたいんだけど、だめ?」

アンジェリークはロザリアの顔色をうかがい、強請るような上目遣いでロザリアを見上げた。

ロザリアはしばし思案する。ここ数日間、アンジェリークにずっとついていたけれど、あれから倒れるようなことはないし、確かに顔色もいいわ。部屋の中に閉じこめておくよりは、屋外で気持ちいい風にあたらせたほうが彼女の体にはいいかもしれない…

ロザリアは戦争が終わった後、しばしば体調を崩すようになったアンジェリークが心配でならなかった。

今、サクリアを定期的に放出しなければならないことが、アンジェリークの心身ともに多大な負担になっているのは明かであり、そのことがロザリアの心を塞いでいた。戦争が終わった後もアンジェリークはなかなか虜囚時に受けたダメージから回復できず、ロザリアはずっと心を痛めていた。ジュリアスがわき目も振らずにアンジェリークに献身してくれ、漸く彼女が回復してきたと思った矢先にこの地に召還され、更に過酷な重荷を背負い込む羽目になったことが、ロザリアの心配の種だった。

かといって、それを替りに行える者はいない以上、アンジェリークの負担をできる限り軽くし、身心をきちんと管理するのが自分の務めであり、義務であるとロザリアは思っていた。

アンジェリークの身心の安定にはジュリアスの存在が一番効果的であることも明らかだったので、ロザリアは2人の逢瀬を知っていながら、そ知らぬ振りを続けていた。もっとも、そろそろ『私は知ってるから、私の前では隠さなくてもいいわよ』と言ってやりたかったのだが、アンジェリークはともかくジュリアスはそれをいやがるかもしれないと思ったので黙っていた。

アンジェリークに外出させるのはいいとして、一人ではやはり出せないわ。ジュリアスも今日はいないし…アンジェリークがおちついてきたので、今日はジュリアスも執務室に戻っていた。流石に三日も宮殿にほぼ詰めっぱなしだったジュリアスは今日はたまった執務の処理でこちらに来られないようだ。

「陛下、外の風にあたるのはいいですけど、一人ではだめです。誰か供の者をつけるというなら、許してさしあげますわ。ジュリアス…は今日は無理みたいですから、オスカーでも呼びますか?」

ロザリアがオスカーの名を口にしたのは、アンジェリークのSPとして考えるなら最も信頼できる能力の持ち主だというそれだけの理由で他意はなかった。

アンジェリークが少し思案を巡らせた上で、こう答えた。

「…あのね、お花を摘みにいきたいの。だから、アルカディアの植物に詳しそうな…そう、マルセルにお願いできないかしら?もちろん無理にとはいわないけど…」

遠慮がちにいうアンジェリークにロザリアは艶然と微笑みかけた。

「あなたの誘いを断る守護聖なんていなくてよ、アンジェリーク。」

仮宮から人が呼びにだされ、ほどなくしてマルセルが、ひょっこりと言った感じで顔を出した。

「陛下、ご機嫌いかがですか?お散歩に行きたいんですって?僕でよかったらお供します。」

「マルセル、無理言ってごめんなさい。ロザリアが一人じゃだめだっていうし、私、今日はお花を摘みたいの。でも、公園の花壇からお花を取る訳にはいかないし、マルセルなら、自由に摘めるお花の咲いているところも詳しいかなって思って…」

「まかせてください。僕にわかるお花のことなら、なんでもお教えしますよ!」

まだまだ公式の場では責任ある立場を任せてもらえないマルセルは、ここぞとばかりに張りきっていた。

「いろいろお花のことを聞くかもしれないけど、教えてね?マルセル。」

「よかったですわね、陛下、じゃ、マルセル、陛下の事をよろしくお願いいたしますわ。陛下、いいですか?あまりはしゃいで走って転んだりしないように。それから、夜露や夜風は体に毒ですから、夕方までには帰ってきてくださいね。それから、あまり強すぎる日差しもいけませんわ。貧血を起こすといけないし、そばかすになりますからちゃんと帽子をかぶって…」

「はいはいはい、ロザリアったらお母さんみたい…大丈夫よ、そんなに心配しなくても…ね?」

「そうですよ、補佐官どの、世話のやける女王様は僕がお預かりしますから、その間にお仕事なさっててください。」

「んもう、マルセルまで…」

ちょっぴりむくれながらも楽しそうにアンジェリークとマルセルはさんざめく日差しのなかに歩いていった。

ロザリアは二人を見送りながら安堵の溜息をついた。アンジェリークのここ数日の思いつめたような顔がずっと気になっていたのだ。これで少しでも気が晴れてくれれば…と祈るような気持ちだった。

アンジェリークが出かけてからほどなくして、宮殿に来客があった。陛下のご機嫌伺いに来たといって謁見の取次ぎを頼まれた。

ロザリアはアンジェリーク不在の旨を伝え、その人物にこのまま待つか、伝言でもおいていくかを問うた。

 

 

マルセルはアンジェリークを約束の地へと連れていった。

この離れ小島のような小大陸は、他の庭園と違い、なるべく手をかけずに最低限の保守だけが住人達の手で施されている。人工庭園の極みのような浮島やガラスの花園とは対照的だった。

「ここには自然のままの植物がここを盛りと咲き誇っているんです。自生なのか、人が植えたのかわからないんですが…半々くらいなのかな?でも、他の公園の花園と違って柵で覆われたり、植え込みになってる訳じゃないから、ここのお花なら摘んでも大丈夫ですよ、陛下。」

「ありがとう、マルセル。私、ここにはほとんど来たことがなかったわ。飛空都市の森の湖の奥にあった花園みたいね…」

「陛下もあの花園をご存知だったんですね?飛空都市の花園のことは守護聖しか知らないはずなのに…女王候補の時は一人じゃ行けなかったでしょ?誰に連れていってもらったんですか?」

「ふふ…内緒…」

一番多く連れてきてくれたのは、ジュリアスではなくオスカーだったことをアンジェリークは思い出していた。女王試験に疲れた時、ジュリアスの期待になかなか答えられなくて落ちこんでいる時、さりげなく外に誘ってくれ、鬱屈した気分を晴らしてくれたのはいつもオスカーだった。

これ見よがしの励ましの言葉を言われたことはなかった。むしろ軽口でからかわれるような態度の事が多かった。『がんばれ』といわれても、これ以上どうしたらいいの?というくらい余裕のない日々もあったので、それはそれでありがたかったけど、こんなにからかわないでくれればいいのに…と思ったことも事実だった。オスカーの優しさは目に見えにくいものだと気付き、心から感謝したのは女王試験も終わりに近い頃だったように思う。当時はオスカーのその優しさに気付く余裕もなかった。オスカーのさりげないが、思いやりに満ちたサポートがあればこそ、自分は厳しいジュリアスの指導にもついて行けたのかもしれない。

『あの頃から、私、オスカーに助けられてばかりいたのね…』

改めてアンジェリークはこう思った。なのに、私のしたことといったら…恩を徒で返すようなことばかりだわ…本当に申し訳なくてたまらない。アンジェリークはここ数日、オスカーの炎のサクリアを身近に感じられないことで、かなり寂寞とした心細さを感じていた。普段見えない所でオスカーがいかに自分をさりげなく支えていてくれたのかをしみじみと感じるようになっていた。

オスカーにきちんと謝っていないことが心に刺のように引っかかったままだった。体の具合もどうなのか、はっきり聞きたい。そのことに気を取られてばかりいるから、それがわかるのだろう、ジュリアスにも余計な心配や不安を抱かせてしまっていて、それもまた申し訳なくてならなかった。

アンジェリークはマルセルにアルカディアに咲く花の種類を教えてもらいながら、色とりどりの花を摘んだ。色鮮やかな薔薇の群生も目に付いたが、今、花切り鋏みは用意していなかった。手では茎の丈夫な薔薇は摘めないし、それに…薔薇は相応しい花じゃないような気がする。まるで求愛するみたいだもの…木陰を選んであちこちを散策しながら目についた野の花を、花束にできるほどに集めた。

歩きながら、マルセルとこのアルカディアのことについていろいろ話した。

「このアルカディアってほんとに不思議な場所よね。すごく人工的な所なのに、住んでる人たちはすごく素朴っていうか、自然のままの暮らしをなるべく意識して保とうとしてるっていうか…公園や庭園もここみたいになるべく手をかけないところもあれば、わざわざ植物も動物も全部ガラスで作った人工庭園なんてものもあるし…」

「もともと未来の新宇宙にあった大陸だから、テクノロジーは僕達の宇宙より進んでるところも一杯あるみたいですよ。僕はよくわからなかったけど、ぜフェルが興奮して話してたから。王立研究院もその辺協力してもらってるみたいですし…」

「でも、人々の暮らし方は敢えて不便さを楽しんでるみたいなところもあるのよね。衣装は皆手作りみたいだし、お店も露店みたいなものばかりで自分たちの作ったものを物々交換してるようなものだし…大きな病院とかも見当たらないし…」

「うん、僕も病気になった時とかどうしてるのかな?って思ってたんです。聖地と違って病気がないなんてことないだろうし、病気じゃなくても怪我することもあるし…抗生物質とか抗菌剤が必要な時はどうするのかなって。」

「で、どうするんですって?」

「僕、お花に興味があるじゃないですか。新宇宙の植生が僕達の宇宙の植生とどの辺が共通しててどの辺が違うのか調べたことがあったんです。そのなかで、この大陸は自生してる薬草の種類が凄く多いってわかったんです。この大陸ってどう見ても人工的なもので、住んでる人たちは多分移民でしょ?だから、最初の世代が意識していろいろ薬草を持ちこんだんじゃないかと思うんですよ。遺伝子操作もしてるかもしれませんね。で、大抵の病気や怪我は薬草の組み合わせで対応できてるみたいなんですよね。」

「遺伝子操作した薬草で怪我や病気を治しちゃうの?やっぱり不思議な所だわ、ここ…最先端の技術と土着的なものとがまぜこぜですもんね。」

「なにか宗教的なコミュニティだったのか、実験施設だったのかもしれませんね、もともとは。そうでなければ自給自足に近い純朴な生活と、浮島みたいなすごい技術が共存してる理由がわかりませんものね。」

「じゃ、マルセルは、この大陸の薬草も見たらわかるの?それなら…あのね…実は薬草がわかるなら探してもらいたいものがあるの…」

「陛下、どこか具合がお悪いんですか?」

マルセルが顔を曇らせ、アンジェリークを心配そうに見たので、アンジェリークは慌ててそれを否定した。

「あ…ううん、そうじゃないんだけど…あ、あのね、ロザリアもさっき言ってたけど、私ってよく転ぶのよ。でも、簡単な怪我で人を呼んだりしたら心配かけるから、怪我や打ち身や捻挫なんかによく効く薬草でも常備してれば、皆を煩わせないですむかなぁって思って…」

「ふふ…そんな所はかわってないですね。僕でよかったらお教えしますよ。じゃ、薬草も探しましょう。」

マルセルに教えてもらって、アンジェリークは鎮痛、抗炎症、抗菌効果のある薬草を集めた。

「これだけあれば、大抵の怪我に効くわよね?」

「陛下が100回転んでも大丈夫ですよ。」

「いくらなんでも、そこまでは転びたくないわ。」

くすっとアンジェリークは微笑んだ。笑えたのは何日ぶりだろう。陽光の下で花々に囲まれるのは、純粋に気持ちよかった。草の匂いや花の香りを胸一杯に吸いこむと、心の内まで晴れ晴れとするような気がした。

うん…大丈夫、私、きっと大丈夫…

摘んだ花々が萎れないうちにと、それに、ロザリアのお目玉をくらわないようにアンジェリークは早目に帰路についた。

 

仮宮にアンジェリークを送り届けマルセルは自分の執務室に戻っていった。ロザリアがアンジェリークを出迎え、ヴィクトールが謁見の間に来ていることを告げた。

「まあ、将軍、めずらしいこと。変わりなくて?」

「将軍はよしてください。陛下…本日は私が陛下の警備を仰せつかったのでそのご挨拶にと思いまして…」

「そう…今夜はヴィクトールが宮殿に詰めてくれるの…あまり無理はしないでね。夜は客間で休んでてくれていいのよ。寝ずの番なんかしないでね。」

「いえ、俺のような不調法者にできることはこの体を張ることだけですから…それでなくとも俺のような唯人が、守護聖様をさしおいて女王陛下の警備など、おこがましいとも思ったのですが…」

「もし、人手がないのなら、私よりコレットに…アンジェリークについていてあげて?私は一人でも大丈夫だから…」

「あ、いえ、そういうことでは…」

「陛下!何をおっしゃるんです!ヴィクトールも陛下の部下なんですから、陛下をお守りするのは当然の義務です。王立宇宙軍が何のために存在していると思ってらっしゃるんですか!まったくもう…」

勢い込んで割って入ってきたロザリアをアンジェリークがやんわりと窘めた。

「だって…ロザリア、私にはあなたと守護聖たちがいるわ。でも、あの子にはまだ守護聖もいないし、今はそばにアルフォンシアもいないわ。レイチェルは、エルンストと一緒に研究院に詰めっきりだし…きっと心細い思いをしてるに違いないもの…」

「あ、陛下、これは言葉が足りませんで…本日アンジェリークの方にはランディ様が警備にあたってくださるそうです。なんでも昨晩街の歩哨をオスカー様と交替したそうで、その替りだとおっしゃってました。」

「昨晩、オスカーはランディと街の見まわりを替ったんですって?そう…そうなの…」

アンジェリークは何かショックを受けたように見えた。

ロザリアはロザリアでヴィクトールの言葉に何か思い出したような顔をしてアンジェリークにこう告げた。

「あ、そうそう、陛下、そのオスカーなんですけど、陛下が散策に出られてしばらくしてから、お目通りを願いに宮殿に参ったんです。陛下が出かけられてる旨をお伝えして、伝言でもあるかと聞いたんですが、ご機嫌伺いに来ただけだからと言ってそのまま退出してしまいましたわ。」

「え?オスカーが?オスカーが宮殿に来ていたの?」

「ええ、すみません、今ヴィクトールが名前を出してくださらなければ、忘れるところでしたわ。特に伝言というほどのものはなかったので…」

「オスカーが…」

アンジェリークは何か考えるように俯き、自分が手に花を持ったままなのに気づいた。

「あ…いけない、お花…」

女王としての顔を取り戻してアンジェリークはヴィクトールに告げた。

「アンジェリークの方にも人がいるのなら問題ありません。じゃ、今夜はよろしくね、ヴィクトール。でも重ねて言っておくけど、霊震とか何か異常事態が起きない限りは、警備に詰めてもらうといっても宮殿の客間で休んでいてね。そうしないと明日の執務に差し障りがでてしまうから。ジュリアスも宮殿に詰める時があるけど、ジュリアスも何もなければ客間で休むから、気にしないで。そうよね?ロザリア。」

「たしかに…仕事に緩急は必要ですわね。次の日のことも考えなくてはなりませんし、何もない時に気を張り続けていざと言うときに疲れてしまっていてはどうしようもありませんものね。」

「は…承知しました。」

無骨だが違え様のない誠実さを滲ませ、ヴィクトールが一礼した。

「じゃ、ごめんなさい、せっかく摘んできたお花が萎れちゃうから、私は一旦失礼させていただくわね。ロザリア、後はよろしく。」

「おまかせください、陛下。」

アンジェリークはぱたぱたと軽い足音を響かせて私室に去っていった。アンジェリークの去った後にその手から零れたのであろう野の花が一輪残されていた。

アンジェリークの顔色が少しよくなったことにロザリアは安堵していた。散歩にいかせてよかったとロザリアは思った。

 

日が暮れて暫時経った頃であろうか。球体でないこの世界の日没はいつも唐突だった。次元の狭間にあるといっても本来花の惑星があった周回軌道に次元を隣接して出現したこの大陸は、星も見えるし、日の出、日の入りも普通の惑星のようにあった。ただ、見えているだけでその宇宙への道筋が王立研究院ではいまだみつけられていない。ガラスの檻に入れられているようなものだった。

オスカーは自分の私室で溜息を付いていた。

育成の依頼をされなかったのを幸いに、今日は早々と自室に引き上げていた。

自分たちの身の回りを世話してくれている大陸の民はみなそれぞれの生活を持っているので、いわば通いの使用人たちだった。彼らは食事の用意だけして、やはり、自宅に引き上げた後だった。

オスカーは血肉を補うために食物を無理にでも口に押し込まねばと思いながら、今日はそれが果たせないでいた。一刻も早く体力を回復しなければいけないのはわかっているのにだ。

ジュリアスに疑念を差し挟まれないために無理して街の歩哨に立っていたのが災いして、胸部の疼痛は一向におさまらない。医者にもかかれないので、野生動物のようにひたすらじっとして回復を待つだけだ。

きちんと治して万全の体調に戻る事ができなければ、いつまでたってもアンジェリークの警備に赴くことができない。だから、アンジェリークの事が気にかかってしかたなかったが、今日も自分が警護につくのは諦め、ヴィクトールに依頼した。ランディをアンジェリークに近づけるのはリスクが大きすぎた。自分と対でなければあまり危険度は高くないかもしれないが、それでもわざわざ火薬に火種を近づける事もない。そして自分は今日一日きちんと静養してなんとか早急に体調を整えねばと思っていた。

しかし、昨日、アンジェリークが自分が警備に行けない事を気に病んでいるようだったとジュリアスから聞き、今日も警備にいかないと、またアンジェリークに心配をかけるかと思い、少なくとも宮殿に顔は出すつもりだった。アンジェリークは恐らく俺の体を心配して気もそぞろだったのだ。あの事後で警護に行かなければ体調が悪いと思うにきまっている。ジュリアスにもアンジェリークの様子が不審がられているのは明白だったし、なんとか、アンジェリークに簡単でいいから、自分は大丈夫だからと伝えたかった。

もっとも、ジュリアスにアンジェリークが俺のことを気にしているようだといってもらわえば、自分から宮殿に赴く勇気は今日もなかったかもしれない。

しかし、昼間思いきってアンジェリークを訪ねてみたら、アンジェリークは久しぶりに外の空気を吸いたいといって丁度外出してしまったということだった。

オスカーはロザリアに、まさか一人で外出したのではあるまいかと、アンジェリークには誰がついているのか、心配になって尋ねた。

ロザリアは、陛下が花の事を聞きたいからと言ってマルセルに供を依頼したことを告げた。『本来護衛としてなら、あなたのほうがいいと私は思ったんですけどね…オスカー。』とロザリアが付け加えた。

でも、アンジェリークはマルセルを敢えて選んだのか…オスカーは少なからず傷心した。自分の容態を気にしているのだろうとは思っていた。恐らくそれだけであって、彼女は俺に会いたい訳ではないのだということも理性ではわかっていた。

しかし、合法的に俺の様子を見る機会があっても、それを選んではもらえぬ程度の関心だったのだろう。俺の容態さえわかればやはり本当は敢えて顔はあわせたくないのかもしれない…

そう思ってしまったら、伝言は愚か、再度宮殿に赴く気力も萎えた。俺が宮殿に行ったことをロザリアから聞けば、俺の怪我は大した事はないことも推測できよう。それがわかればアンジェリークもジュリアス様に不審がられるほど俺の参内がないことを気に病むこともなくなるだろうし。

だが、オスカーには、どうにかしてアンジェリークに伝えたい事柄がもうひとつあった。そのジュリアスのことだ。

ジュリアスはアンジェリークの事を心底心配している。しかし、アンジェリークの情緒不安定の原因が断片しか見えないので、その憂慮や焦燥も並大抵でない。

アンジェリークの気持ちもわかる。が、同じ男の立場としたら、辛くとも真実を知りたいと思うのではないかということをなんとかアンジェリークに伝えたいと思っていた。しかし、彼女は俺と会う機会があっても、俺を選んではくれなかった。やはり、あえて、俺と顔をあわせたくはない…ということなのだろう。

これでは、こちらからお話したいことがあると言っても聞いてもらえるかどうか…ジュリアス様に関することだと最初から告げてしまうのは、なんだか彼女を脅迫するみたいで、無用に怯えさせてしまいそうで嫌なのだが…だって、これでは、自分はアンジェリークの秘密を全て握っていると言っているみたいではないか。曰く、君に起きた悲劇を知っている。君の秘めた恋人も知っている、その恋人に関することで話がしたい…これじゃまるで恐喝するみたいだ。俺の意図がまったく伝わらず、アンジェリークを警戒させるだけの怖れの方が大きい。しかし、ジュリアス様が真摯に君を想い、だが、あまりに情報が少ないゆえに迷いや、誤解を抱かせてしまう恐れがあることを告げたいという気持ちもどうしようもなくある。

やはり、早く体調を戻して護衛に立ち、その時を利用して声をかけ、少しでもいいから時間を割いてもらうのがいいのか…

オスカーがいい善後策が思いつかず頭を抱えていると、古式ゆかしいノッカー音が部屋に響いた。

「ちっ…誰だ、今ごろ…」

当たり前だが執務の時刻はとっくに過ぎているから育成の依頼ではありえない。使用人たちはもう帰っているので、オスカーは自ら玄関のドアを開けにいかねばならない。一瞬無視しようかとも思ったが…万が一、またジュリアスが何か…アンジェリークの事に関して相談にでも来たのだったら出なければまずい、と思いなおして不承不承ドアを開け、その場に凍りついた。

「アンジェリーク…」

そこには、今の今までオスカーの脳裏の全てを占めていた存在が立っていた。あまりに予想外のできごとにこれは自分の心が望んだ幻かとも思い、敬称も忘れてその名を呼んだ。

しかし、その姿は幻ではなかった。夜風をしのぐ為か彼女は暗色のケープで華奢な体を包んでいた。オスカーの呼びかけに金の巻き毛を揺らして彼女が顔をあげた。熱のあるように潤んだ翠緑の瞳がオスカーをこれ以上はないほど真剣に見据えていた。オスカーはその視線に射すくめられたように動けなくなった。

「オスカー…私、私、オスカーに謝りに来たの…どうしても謝らなくちゃって思って…それで…」

そこまで言うとアンジェリークは緊張に堪え切れなくなったようにぽろっと一粒涙を零した。

オスカーは動転してしまい、とにかく誰かに見られてはまずいという一念だけで慌ててドアをしめ、アンジェリークを家に招き入れた。

ドアを閉めて、自ら自分たちを二人きりの空間に閉じこめてしまったことに気付き、アンジェリークの様子を慌てて伺った。俺と2人きりになってしまったことに恐怖から恐慌状態を起こしたりしていないか?しかし、アンジェリークは子供のように玄関先で不安げに佇んでいるだけだった。

その消え入りそうな様子に痛ましさを押さえ切れず、このままにはしておけない気持ちから、オスカーは「こちらへ…」とだけ言うとアンジェリークの肩と腕をそっと取って、彼女を客間に導いた。アンジェリークは身を強張らせたり、逃げ様とする素振りも見せず、おとなしくオスカーのリードに従った。

 

オスカーはなんと声をかけていいかわからぬまま、とりあえず、アンジェリークをソファに座らせた。

アンジェリークがかちかちに緊張しているのがありありとわかったので、なんとか落ちつかせなくては…と思い、

「少しお待ちください。」

と言うとキッチンに引っ込んで大急ぎでミルクを温め香り付けに愛飲のブランデーを少量たらした。ミルクを温めながら、アンジェリークが自ら訪ねてきてくれたことに若造のようにどぎまぎしてしまっている自分を自覚した。気分を落ちつかせなくてはいけないのは、これでは俺のほうだ。彼女はなんと言った?謝りに来た…とそう言っていた。何を謝りに来たのか、オスカーには察しがついた。どれほど勇気が必要だったことだろう。謝る必要などないのだ…それを告げねば。彼女が俺を避けていると思っていたが…そうではなかったのか…そう思うだけで心が軽くなったが、しかし、これから出されるであろう話題のことを思うと、彼女の来訪は手放しで喜ぶものでないこともわかっていた。

大ぶりのカップにミルクを注ぎ、アンジェリークの前に供した。

「どうそ…落ちつきます。」

「あ、ありがとう、オスカー…」

アンジェリークはくすんと鼻をひとつならすと、カップを両手で抱えて一口ミルクを啜った。

「おいしい…あったかい…」

アンジェリークはほうと吐息をつくと、カップを一度テーブルに置いて、様子を覗うようにアンジェリークをじっと見ているオスカーに視線を向けた。

「オスカー…あの、これ…」

アンジェリークがケープの内側から差し出したものは、色とりどりの花をアレンジした小さな花束と、様様な草の葉が小分けにされたパウチだった。

「これ…は?」

「オスカー、私…私ね、あなたに怪我をさせてしまったことを謝りに来たの…あの時きちんと謝れなくて…なかなか謝りにこれなくてそのことも申し訳なくて…どうやってお詫びしたらいいか考えて…せめてもと思ってお花と…それから、怪我によく効くっていう薬草をマルセルに教えてもらって…摘んできたの…こんなことで許してもらえると思っていないけど…せめてものお詫びにと思って…」

「陛下…これを俺のために?…」

オスカーは呆然としていた。これだけ言うのがやっとだった。アンジェリークが今日マルセルと出かけたというのは、まさか、この為か?

言葉を失ったオスカーに、アンジェリークは堰を切ったように息つく間もなく続けざまに謝罪の言葉を発しはじめた。

「ごめんなさい、オスカー、本当にごめんなさい。私、あなたに酷い事をしたわ…こんな物、持ってきても…謝っても許してもらえないかもしれないけど…本当にごめんなさい…」

「陛下…それは…そんなことは…」

アンジェリークにそんな必要はないといいかけたオスカーの言を遮り、アンジェリークは迸るように謝罪を続ける。

「私、前にあなたの心を傷つけた…なのに、今度は体まで…私、あなたに怪我をさせてしまって…あの時、私、思いきり力をぶつけてしまったもの…あなた血が流れてたもの…あなたは何もわるくないのに…なのにあの場でちゃんとあなたに謝れなくて…ちゃんとあなたに謝らなくちゃってずっと思ってた…今更だけど…今ごろになってしまったけど…本当にごめんなさい…っ…」

アンジェリークはここまで言うと嗚咽がこみ上げてきたのか俯いてしまった。ぎゅっと自分の膝を握った手の上にぽたりと涙が降った。

オスカーは身を乗り出して、慌ててアンジェリークの言葉を否定した。自分と彼女の間を隔てるテーブルの距離がどうしようもなくもどかしい。

「陛下、陛下、俺はなんともありません。どうか、顔をあげてください。泣かないでください。俺はなんとも思っていませんから!あなたは何も悪くないんだ!」

「だって…だって…オスカー、怒ってないの?私、あんなに酷い事をしたのに…今まで謝りにも来なかったのに…それに、あんな目にあうのはもうこりごりだと思ったんじゃない?だから、宮殿に来てくれなくなったのかって…私、私…ぅっ」

「違う!違います、陛下!俺は…」

オスカーは一度深呼吸して、心構えを固めた。俺が負傷してダメージを負っているのは確かだし、彼女もそのことはわかっている。あからさまな事実は誤魔化したり隠さないほうがいい…

「正直に言います。確かに今の俺は負傷しており体調は万全ではありません。陛下のおっしゃる通りです。だから何かあったときに陛下を守り切る自信がなかった…だから護衛を他に任せたほうがいいと思っただけです。警備を辞退した理由はそれだけです。有事に陛下を守り切れない時のことを恐れたのです。」

「ほんとに?怪我をしてたから来れなかっただけなの?でも、その怪我は私が…ああ…オスカー、怪我は…怪我はそんなにひどいの?お医者様には…」

アンジェリークが、また今にも泣きそうな顔でオスカーを問う。オスカーはアンジェリークを安心させようと微笑んでみせる。

「大したことはありません。怪我自体は単純な打撲です。骨には異常はありません。警備にいかなかったのは、あくまで俺自身が陛下をお守りするのに万全を期したかったからです。医者には行っていませんが…」

「ごめんなさい…私のせいで…私、あなたに怪我をさせたのがわかっていたのに、その場で謝ることもしないで…」

「何も言わなくていいと…無理に口止めしたのは俺です。陛下は俺に何度も謝ってくださいました…ご自分よりも俺のことを先に医者に診せようとなさってくださった…皆わかっています。俺が無理やりに陛下を黙らせ、勝手に医者にかからなかったのです。陛下のお気持ちはわかっています。だから、どうか、お心を痛めないでください。」

アンジェリークが一瞬息を飲んだ。

「……オスカー…あなた…どうして…あの時…何もなかったことにしてくれたの…誰にも、何もいわずに…それに…あなたに怪我をさせたのに、なぜ訳を聞かないの?…私を責めないの?…なぜ…」

本当はわかっている。でも、オスカーの口から聞きたかった。

「陛下は…何度も俺に謝ってくださいました。あれは俺でないと…悪いのは俺ではないと…わかっているのに俺を傷つけてしまったと、あなたは何度もおっしゃった…それで俺は…あなたは俺を傷つけようとしたのではないと…あなたが怯え、よせつけたくなかったのは俺ではないと…それは俺であって俺でないものと…わかったからです…」

オスカーは思わず顔を背けた。アンジェリークの顔が見られなかった。アンジェリークが身も世もなく泣き崩れるかと思った。もし、そんな様子をみたら、俺は…俺は恐らく黙ってみていられない…先ほどは邪魔で仕方ないと思ったテーブル一つ分の距離が、今オスカーに残された最後の砦だった。

だが、泣く声は聞こえてこず、オスカーの耳に響いたのは、恐ろしいほどに淡々としたアンジェリークの静かな声だった。

「そう…やっぱり、オスカーにはわかっていたのね…オスカーにはいつも隠し事ができなかったもの…私に何があったのか…私が何に怯えていたのか…私が何を振りほどきたかったか…みんなわかったのね…」

「陛下…」

オスカーはその静か過ぎる口調に心臓を氷の手でつかまれたような気がした。

「それなら、なおのこと…あなたは怒って当然なのに…私はあなたを払いのけたかったんじゃない…あなたは人違いで怪我をさせられたってわかったでしょう?…あなたには何の責任もないことで、私からやつ当たりのように力をぶつけられて…とばっちりでひどい怪我をさせられて…だから、怒って当たり前なのに…なのに…」

「違う!あなたは何も悪くない!」

オスカーは思わず立ちあがり、アンジェリークの肩に手をかけようとして、渾身の力でそれを踏みとどまった。

「あなたは自分を守ろうとしただけだ!蘇る恐怖を、苦痛の記憶を払いのけようとして…自分を守ろうと必死だっただけだ!あなたは何も悪くない!悪くないんだ!」

オスカーはそこまで言うと、どっかとソファに座りなおし、自分の顔を掌で覆った。罪悪感に押しつぶされそうで呼吸がうまくできない。

「責められるべきは…不用意にあなたを追い詰め、あなたに忌まわしい記憶を鮮明に思い出せてしまった…俺たち…俺だ。いや、もとはといえば、あなたを守り切ることのできなかった俺が…俺たちが…すべての元凶だ…」

「オスカー…そんな…違う…」

アンジェリークは泣きそうな顔でいやいやと首を振る。溺れるもののように苦しげに喘いでいる。

オスカーは顔を隠すように俯いたまま、声に絶望を滲ませ悔恨を迸らせる。今まで胸の奥に留めていたあまりに苦い後悔の箍が外れて抑えがきかなくなっていた。

「アンジェリーク、アンジェリーク…俺は、俺はあなたに何と言って詫びればいいんだ…どうやってあなたに償えばいいんだ…あなたが一番助けを必要としている時に側におらず、あなたを助けることができず…その上、あの時まで、あなたがいまだどれほど傷つき、どれほど苦しんでいるかも、まったく気付いていなかった…」

オスカーが顔をあげた。目を眇め、痛みに耐えるような顔でアンジェリークを見た。

「俺の顔を見るたびに、どれほど嫌な思いをしていたことか、俺の姿がどれほど怖かったことか…俺の顔も姿も目にする事自体が嫌だったろうに…苦痛だったろうに…それでもあなたは、なるべく俺に微笑みかけようとしてくれた。俺に普通に接しようと懸命になっていた…それなのに、俺はそんなあなたの気持ちに何も気付かず…あなたの態度の意味も考えず自分のほうが一方的に傷ついたような顔をして…俺は…申し訳なくてたまらない…恥かしい…俺はあなたにどうやって詫びたらいいんだ?アンジェリーク…」

「オスカー、違う…そんなことない…そんなこといわないで…」

「アンジェリーク…俺は、俺はあなたになんと言って詫びたらいいんだ…あなたを苦しめ傷つけたのは、すべて俺の…俺たちの甘さだ…驕りと油断だ…しかも…あなたを苦しめたそいつは俺の…俺の一部を使って作られた忌まわしい代物だ…俺と寸分違わぬ複製だ…俺は…俺たちは皇帝の正体にも気付かず、みすみす複製の材料を提供すらしてしまっていた…その結果、あなたに…あなたの被った苦痛は…」

アンジェリークが大きくかぶりをふった。発せられた声は涙に覆われた叫びだった。

「オスカー、違う、違うわ!あなたが悪いんじゃない!誰も悪くないの、誰にもどうしようもなかったことなの。どうか…自分を責めないで…」

そこまで言うとまたがっくりと力を失ったようにアンジェリークはソファに沈みこんだ。

「悪いのは私…私なの…いつまでたっても忘れられない私が…私が悪いの…私が忘れられていれば…あなたとあれは違う物だって本当はわかっているのに…なのに混乱して、混同して、怯えて…あなたを傷つけてしまって…どうして…どうして私…忘れられないの…あれはあなたじゃないってわかってるのに…どうしてあんなことをしてしまったの…」

「そんなことは気にしなくていい!あなたは何も悪くなんかない!あなたの受けた仕打ちをおもえば、怯えるのも、自分を守ろうとするのも当然だ!あなたを踏みにじった同じ顔がすぐそばにあったのだから!怖いと思って当たり前だ!あなたは何も悪くない!悪くないんだ!」

「オス…カ…」

「あなたの受けた苦しさに比べれば…その辛さに比べれば…こんなものはなんでもない。体の傷なんてすぐに治る。でも、あなたの受けた苦痛はいかばかりか…なのに、あなたは一人でずっと、この辛さにこの苦しさに耐えていたのではないのか?苦しいとも辛いとも恐ろしかったということも誰にも言えず、一人でずっと耐えてきたのではないのか…」

「ああ…オスカー…オスカー…」

アンジェリークが首を振りながら苦しげに身を捩った。瞳からは涙が一条、二条と静かに零れ透明な軌跡を頬に残し始めた。

オスカーがアンジェリークに手を伸ばした。しかし、濡れた頬に触れる直前で手をとめた。オスカーの眦にも光るものがあった。

「可哀想に…アンジェリーク、どんなに辛かっただろう…苦しかっただろう…怖かっただろう…かわいそうに……なのにそれを一人でずっと我慢して…誰にも心配をかけまいと…誰にも何も言わずに、一人でずっと我慢して…今も…怖いことも悲しいこともたった一人で我慢して…苦しかったと、怖かったということもできずに一人でじっと耐えて…辛かったろうに…どれほど辛かったろうに…アンジェリーク…」

「あ…う…ぅあああっ…」

もう堪え切れなかった。

アンジェリークは泣いた。顔を覆って声をあげて泣いた。とめどもなく涙が溢れ出た。

ひたすら声をあげて泣いた。ジュリアスの前でも泣いたことはある。しかし、それはどうしようもなく降り積もった悲しみが器から溢れてしまった時だった。これ以上哀しみが溜めておけず溢れた時だけ、どうしようもなくて泣いたのだ。

でも、今は違う。自分の方から、溜めていたもの降り積もっていたもの全てを解き放った。

辛かったことを知ってもらい、苦しかったことを知ってもらった。オスカーは自分の苦痛と恐怖を認めてくれた。何も包み隠す必要がないわかった途端、自分の内側に凝って溜まっていた哀しみが自然と涙という形で迸った。とまらなかった。

全てを知り、全てを受容してもらったとわかって流す涙は、堪え切れない悲しみが溢れて流す涙とまったく違う物だった。

その時アンジェリークは体の奥深い部分に火が灯ったような気がした。じわじわと温もりが体の中心から体表に広がっていく。体中に広がった温もりはそのまま真綿のように自分を包みこむ。

『オスカーの…サクリア…』

アンジェリークは僅かに顔をあげた。オスカーの手がすぐ側にあるのを感じた。しかし、髪一筋の差でオスカーは実際には自分には触れていなかった。

オスカーの包みこむようなサクリアが自分を案じていることを何より雄弁に伝えてくれた。

直接は触れようとしないこともオスカーの優しさだと思った。

また新たに涙がどっと溢れた。


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