汝が魂魄は黄金の如し 16

オスカーのサクリアは自分のすぐ傍らに…いや、自分を覆い隠し包みこむかのように満遍なく周囲にたゆたっている。

そのサクリアが、体と心を暖めてくれるかのようで、アンジェリークは激しく泣いているのに体が震えずにすんでいた。

どうしようもない哀しさや苦しさに喘いで、泣きそうになった時、実際に泣いてしまった時、いつも心が寒々として体が押さえ様もなく震えた。

その寒々しさを忘れさせてくれるのはジュリアスの温もりだった。

震えを止めてくれるのはジュリアスの力強い腕だった。

でも、暖めてもらうのは、自分の心がどうしても留めておけなくて溢れ出した哀しみに凍えた分だけ。氷室の氷のように溶けない哀しみがいつも自分の内側にあったから、心の内側にたまってる哀しみが霧消する訳ではなかったから…いくらジュリアスが自分を暖めてくれても、自分はいつも、いつまでも寒くて、温もりが欲しくて、飢えているみたいに際限なくジュリアスを求めた。

でも、私が凍えたままだったのは、ジュリアスのせいじゃない。ジュリアスはいつも私に一生懸命応えてくれた。文字通り、誠心誠意私を暖めようと、求めるものを与えようとしてくれていた。

なぜ、私はいつまでも寒いの?いくらジュリアスに暖めてもらっても、またしばらくすると凍えてしまうの?

それは…泣いている時も自分の心の扉を開け放すことができずにいたから?

私が自分で勝手に氷室の扉を固く閉ざしてあけないから…だから、心も体も寒いままだった。そう…そうなのね、きっと…

いつもありのままの気持ちで泣くこともできなかった…悲しいことを悲しいと言えないから、辛いことを辛いといえないでいたから…ジュリアスが心配しているとわかっているのに、本当のことを言えなかったから…

だって…誰にも知られまいと思っていた。知られること自体が辛くて、怖くて、仕方なかった…自分の身に起きた事を知られるのは、どうしようもなく自分が惨めな気がした。自分は被害者だって思ったとしても、自分に非はなかったとしても、でも、それで私の惨めさが消える訳じゃない。自分は被害者だって認めること自体が、惨めで、嫌で、辛くてしかたなかった。

でも…今、何も隠す必要がなく、泣くことにいい訳も説明も要らずに、ただ泣くことを受容してもらえることで確かに私の心はいつもより楽になってる…

ああ、私はどこかで、誰かに知ってもらいたかったのかもしれない…何も説明はしなくていい状態で…涙を不審がられることなく泣きたかったのかもしれない…泣く…本当ならそのこと自体が感情を解放することなのかもしれない…私は今まで本当の意味では泣けていなかったのかもしれない…単に涙を零していただけで…

どれほど凝り溜まっていたものでも一度放出することができれば、その勢いは徐々に納まっていく。

思いきり泣いたことでアンジェリークの心はようよう落ち着いてきた。

落ち付きを取り戻してきたことで、オスカーのサクリアにずっと身を任せていたことが恥かしくなってきた。

全面的に自分を預けてしまったことが、何やら気恥ずかしく、そして、申し訳なかった。

私に『辛かっただろう』って、言ってくれたオスカー。

私の身に降りかかったことに、自分が泣きそうになってくれたオスカー。

泣いてばかりいる私を、そのサクリアで暖める様に包んでくれたオスカー。

優しいオスカー、オスカーは自分を責めていた…自分と同じ姿をしたものが私を苦しめたからって…それを防ぐ事ができなかったって…自分を責めて苦しんでいた。でも、それはオスカーのせいじゃない。

だけど…私はどうして、うまく切りかえられないのかしら。なぜ、わからなくなってしまうのかしら…あれはオスカーじゃないって…同じ姿をしていてもオスカーじゃないって、私は知っているのに…今、オスカーの姿を見ないでそのサクリアだけ感じていれば、これは確かにオスカーで、オスカーは私のことを守ろうとしてくれる気持ちがしっかりわかるのに…

オスカー、自分を責めないで、あなたは何も悪くないのに…私のために苦しまないで…

アンジェリークはぐっと涙を手でこすると、顔をあげた。

オスカーはアンジェリークを痛ましげな瞳で、自分が泣きそうになりながら、じっと見つめていた。

アンジェリークは、まだ涙声だったが、それでも、なんとかオスカーに言葉を告げ始めた。それはまず謝意を表す言葉だった。

「…オスカー、こんなに泣いちゃってごめんなさい。オスカーが何も言わずに泣かせてくれたから、私少し楽になったみたい…あなたのサクリアがずっと私を暖めてくれていたから…泣いても寒くならなかった…いつも泣いた後はどうしようもなく寒気がして辛いのに…ありがとう、心配してくれて…」

「アンジェリーク…」

俺は…感謝されるようなことはしていない…何もできないんだ…昔も、今も…俺は君が泣いているのに…目の前で泣いているのに…何もできない…一人で泣かないでくれ…泣くならせめて俺の胸で泣いてくれと言いたい…本当は抱きしめたい、髪をなでてやりたい…でも、そうすることはできないから…俺はサクリアを君に捧げることしかできないから…その程度しか俺にできることはないのに…君は俺にありがとうと言ってくれるのか…

オスカーの胸に一言では言い表せぬ思いが渦巻いて錯綜する。溢れかえる思いに胸が詰まってしまってうまく言葉がでない。

「オスカー、あなたは何も悪くないの、誰も何も悪くないの、だから、自分を責めないで。私のことで苦しまないで。それはあなたのせいじゃないのだから…」

「しかし……あれは、俺の写し身だ…その俺の偽者がしたことは…俺たちが…俺たちの甘さが招いてしまったことだ…そしてあなたを…あなたを助ける事ができず…」

オスカーの懊悩が押さえ切れずに言葉の端々に滲みだす。起きてしまったことはどうやっても取り返しがつかない、贖う方法など実際にはない、という苦く避けようのない認識がオスカーを苦しめる。

「でも、、あれはあなたじゃない、あなたと同じ姿をしていても、あなたじゃない。あなたが責任を感じることはない…あんな…あんなものがこの世に作りだせるなんて…そんな力が存在するなんて…誰もしらなかった…誰も予想だにできなかったことなのだもの…誰にもどうしようもなかった。誰も何も悪くないの…だから、オスカー、謝らないで。あなたは何も悪くないの…」

「しかし…しかし…」

なおも頷きかねているオスカーに、どうしようもない苦悩を滲ませるオスカーに、アンジェリークは一瞬躊躇った素振りを見せた後、なにか決意したように、一息呼吸を置いてから静かに話し始めた。

「あのね、オスカー。私、あなたたちに感謝してる…本当に感謝してるの。もう、全部知ってるオスカーだから言うけど…私、あの後、一瞬、ほんの一瞬だけど、こんな自分をなかったことにしてしまいたいって思いに取りつかれた瞬間があったの…」

「アンジェリーク…まさか…それは…」

オスカーは氷の刃で胸を射し抜かれたような衝撃を受けた。いや、考えてみれば、まさかではない。その時のアンジェリークの心の痛み、衝撃を思えば…『魂の殺人』と称されるあの行為の残酷さを思えば…

凍てついたような顔でオスカーはアンジェリークを見据えた。今、アンジェリークはここに在る。にもかかわらず、視線を反らしたら彼女が消えてしまいそうな気がして、オスカーはアンジェリークから目が離せない。

アンジェリークは僅かに視線を落としたまま、話を続ける。オスカーがショックを受けた話の内容にもかかわらず、その様子は落ち付いており危うげな所は実際の彼女に今はなかった。自分が全て察してしまったことをはっきり告げた時、オスカーはアンジェリークが目の前で粉々に砕け散ってしまいそうな恐怖を覚えたのだが、今は、逆にそんな危うさは彼女から感じられなかった。

「はっきり死にたいって思ったわけじゃない。でも、こんな目にあった自分を消してしまいたいとふっと思った一瞬があったの…だけど、そうしなかったのは…あなたたちが…守護聖たちが、きっと私を救い出そうとがんばってくれてるって思ったから。きっと皆が迎えにきてくれると信じてたから。せっかく迎えに来てくれたその時に、私がいなかったりしたら、皆がどれほど悲しく、辛く感じるか、私が皆を信じて待っていなかったことに悲しい憤りを覚えるか…そう思ったから。だから、私が今、ここに在るのは皆のおかげなの…あなたたちがいてくれたから、私は生きていられたの。オスカー、あなたにも、皆にも本当に感謝してる…いくら感謝してもしたりないくらいに…」

俺たちに感謝こそすれ、非難する気持ちなど毛一筋ほどもない…だから、自分を責める必要などないのだと、アンジェリークは俺に伝えたくて敢えてその当時の辛い心境を語ってくれたのか…だが、それは…あなたにそう思わせたのは恐らくジュリアス様の存在だろう。守護聖たちとあなたは言い、実際に我々のことを思ってくれたのは事実だとしても、最も強くあなたの心の中で輝き、あなたの魂を呼んだのはジュリアス様の存在に他ならない。

そして、実際ジュリアス様があなたを案じ、あなたを一刻も早く救い出そうとする真摯な思いは、旅の間、周囲を圧倒するほどの物理的な力さえ感じさせるものだった…

ジュリアスの想いは間違いなく、欠ける所なくアンジェリークに通じていた。アンジェリークが絶望に足を掬われることなく踏みとどまってくれたのはジュリアスの想いを信じていたからだ。オスカーはこの二人の想いの強さに、その絆の強固さに、羨望を覚えずにはいられなかった。

アンジェリークは、顔をあげてまっすぐにオスカーを見た。その瞳の清冽さにオスカーは言葉を失う。

「オスカー…ありがとう、私は何も悪くないって言ってくれて…私を辛かっただろうにって労ってくれて…でも、それでも、私はあなたに謝らなくちゃいけないの。私があんな目にあったからって、あなたを傷つけていいわけないわ。それは許されるわけじゃないから…」

「アンジェリーク、そんな…あなたの被ったことを考えれば、それは仕方ない、無理もないことなのだから…」

「いいえ、私が、あなたを本当にあいつと勘違いして力をぶつけてしまったのなら、まだ、そういって大目にみてもらってもいいかもしれない。でも、私は、あれはあなたじゃないと知ってた…頭では、理性ではずっとわかっていたことなのに…なのに、突然のことに動転して、度を失って、何がなんだかわからないうちに思わず、勝手に力を…力を思いきりぶつけてしまって…」

「いい!もういいんだ、アンジェリーク。あなたは俺に謝らなくていいと言ってくれた。俺も同じだ。謝らなくていい、あれはあなたが悪いんじゃない!」

「いいえ、いいえ、謝らなくてはいけないの!だって……もしまた、同じような状況になったら…私…私また、同じように振舞ってしまうかもしれない。またオスカーを、もしかしたら、今度はランディを傷つけてしまうかもしれない!オスカー、私、また動転して、もっと酷いことをしてしまうかもしれない!」

そう、多分今でも、突然側にいられたり、思いもかけないところで会ったりしたら、私は息を飲んでしまう…多分体は凍りついてしまう。

もう大丈夫かも…って思ってた…この頃、普通に接する事ができるようになってたと思ってた…だのにランディと一緒にいる所を見たら、その上、二人が笑いながら私に近づいてきたら…もうだめだった…同じようなことがあったら、私、また、逃げ出してしまうかもしれない…

逃げるだけならまだいい。この前みたいに体が動かなくなって…その恐怖から、それから逃れたい一心で、またオスカーを傷つけたりしたら…今度はランディを傷つけたりしたら…どうするの?

オスカーが単なる打撲ですんだのも偶然だもの、もっと酷い…命に関わる大怪我をさせてしまうことだって在りうるのよ。

オスカーの前ではもう、説明もいい訳もいらない。

それは確かに救いだった。思いきり泣けたことは私を楽にしてくれた。

でも、それ以上ではない…楽にはなったけど、そこまでなの…

どうして?どうして私の心はうまく動いてくれないの?

「アンジェリーク…」

苛立たしげに、しかし、この上なく悲しそうに首を振って顔を覆ってしまったアンジェリークにオスカーはかける言葉がみつけられない。

「オスカー、オスカー、許して…私、自分でもどうしたらいいかわからないの。普通にこうして話してれば、オスカーはオスカーなんだってちゃんとわかってるのに!なぜ、うまくそう思えない時があるのか…あなたとあいつらは違うって理性では、頭ではわかってるのに、私はわかってたのに、勝手に体が動いて…びっくりして逃げたくなってしまうだけでも、本当はとても失礼なことだとわかってるの。なのに、私の体は何か思う前に勝手に動いてしまうことがあるの。もう二度としないって言いきる自信がないの。またあなたから逃げ出すかもしれない。それだけじゃない。またあなたを傷つけてしまうかもしれない。今度はもっと酷い怪我をさせてしまうかもしれない。ほんとはそんなことしたくない。私が怖いのは、私が払いのけたいのは、あなたじゃない。それがわかってるのに…自分でもどうして、うまく切り離して考えられないのか、どうしたら、うまく切り離して考えられるのか、わからない…わからないのよ…」

アンジェリークの語尾が震えている。また泣き出しそうになるのを必死に堪えているのだ。オスカーはアンジェリークになんといってやればいいのかわからず、自分の無力さに途方にくれる。

「だから…ごめんなさい、オスカー。私の側に近づかないほうがいいかもしれない…ううん、そのほうがいいんだわ。私、またいつあなたを傷つけてしまうかわからない。そんなことしたくないのに、傷つけてしまうかもしれないから…もっと酷い怪我をさせてしまうかもしれないから…」

「…………いやだ…」

「オス…カー…?」

アンジェリークがびっくりしたように顔をあげた。

「いや…だ…アンジェリーク、嫌だ!そんなことを俺は望まない。あなたが、俺の身を案じてくれること、俺を傷つけまいとしてくれるその気持ちは嬉しい。だが、それで何が変わる?あなたは救われるのか?楽になるとでもいうのか?」

腑抜けたようにアンジェリークの言葉を聞いていただけだったオスカーの瞳に光が戻っていた。自分を案じるあまり、彼女は俺を遠ざけようとしている。それでは以前と何も変わらないではないか。彼女が一人で苦痛に耐えるだけで、俺は傷つかない所にいる…そんなことができる訳ないじゃないか!

オスカー、しゃんとしろ、オスカー。彼女は自分の傷をさておいても、俺を、俺たちのことを案じてくれている。傷ついている、苦悩している彼女に自分が労られ、慰められてどうするんだ。

俺はどうしたいと思っていたんだ?もう一度思いなおせ。俺は炎の守護聖、女王の騎士だ。それなら、それに相応しい働きをしてみせろ。名前だけの騎士に何の意味がある?自分の役割を、自分の為すべきことを思い出せ。例え今はいい方法が見つけられなくても、諦めては、逃げていては何もかわらない。途方にくれて何もしないのは愚か者の結論だ。

その氷青色の瞳はしずかだが、熱い意志がふつふつと滾っていた。

「アンジェリーク、お願いだ。俺を傷つけることを怖れて俺を遠ざけないでくれ。一時それで事無きを得ても、そんなものはまやかしでしかない。それで、今もあなたの抱える苦痛が減じるわけでもない。それに、そのまやかしには終わりがみつけられない。俺を、俺たちを遠ざけたとして、それが終わる保証がいつある?俺の在位がすぐ終わればいい。しかし、ランディは?ランディはどうする?ランディもいつまで在位するかわからない。あなたの在位もだ。その間、ずっと訳もしらないランディを遠ざけておくことなど…そんなまやかしを果てなく続ける事など不可能だ。それに何より、そんなことをしてもあなたは何も楽になどなれない。あなたの苦悩は苦悩のまま残ってしまう。」

「だって…だって、どうすればいいの?誰も傷つけたくないのよ!でも、でも、私、何をしてしまうかわからない!どうしたらいかわからないのよ!」

アンジェリークが悲痛な叫びをあげる。

「アンジェリーク、アンジェリーク、誤解しないでくれ。責めているんじゃない。俺に…俺に手伝わせてほしいんだ。あなたがまやかしを行わなくてもすむように。もっと、根本的なところで、心の痛みを減らす事ができないか…俺に何かできることはないか、考えさせてほしいんだ…」

「オスカー…」

アンジェリークはオスカーが何をいわんとしているのかわからないようだ。オスカーは、滾々と諭す様に言葉を続ける。

「酷な事を言うようだが…あなたの傷を完全に消す事は難しいと思う…完璧に忘れ去ることはとても難しいと思う…しかし、なんとか、今開いてしまっている傷口だけでも塞いでやりたい。生傷から血がいつも吹出しているようなその状態をなんとかしてやりたい。今はまだ見つけられていないが…その方便を…考え、見つけ出したいんだ、俺は。全てを知っている俺だからこそ、できることはないか…それを一緒に考える事を許してもらいたいんだ…少しでも、あなたの痛みが減ずれば、あなたはまやかしを行う必要なんかなくなると思うんだ…」

アンジェリークが信じられないといった面持ちでオスカーを凝視した。

「だって…オスカー…いいの?あんなにひどい事をした私なのに…また酷いことをしてしまうかもしれない私なのに…私が楽になれるよう、一緒に考えてくれるっていうの?」

「あなたが俺にそれを許してくだされば…もう、何もできず、何もせず、あなたが涙するところを黙って見ていることなど耐えられない。俺は…俺は炎の守護聖、女王を守る剣であり盾であると、女王を守る騎士を自負していながらあなたが最も助けを必要とした時に救う事能わなかった…あの無念、あの轍を二度とふみたくないんだ…」

「オスカー…」

「一人で考えてもどうしていいかわからないことでも、二人で考えるようにすれば、何か…何かみつかるかもしれない。どうすれば少しでもあなたの心が痛みを忘れることができるか、わかるかもしれない…いや、どうせなら三人で考えられればもっと…」

「三人?三人って?なに?…どういう…こと?」

オスカーは覚悟を決めた。今一緒に話してしまったほうがいいと思った。

「ジュリアス様のことだ。ジュリアス様はあなたのことを、大層案じておられる。あなたが何かに苦しんでいることはわかるのに、その理由がわからずジュリアス様自身も苦しんでいる。そして、俺があなたの懊悩に何らかの関わりがあることを見越されたのだろう。昼間、俺のところにいらして、あなたの様子で何か気付いたことはないかと、俺に尋ねられた…」

「………」

アンジェリークが蒼白になった。

 

 

ジュリアスは漸く三日分の書類に目を通し終わった所だった。

昼間は王立研究院で現況のチェックに追われ、育成が少し足ぶみしていることに気付いたので、他の守護聖のところにコレットが育成にきているかどうか尋ねたり、教官たちのところに話を聞きにいくことで終わってしまった。

育成は一本調子の上り坂で進む物ではないことくらいジュリアスもわかっている。育成するためには力を補充しなければならず、多くの力を溜める為には、教官の教育が欠かせない。補充と学習を繰り返している日はまったく育成できないということもある。

しかし、最早日限は折り返し地点をすぎつつある。そのことがジュリアスの焦燥を煽っていた。

これが女王試験なら、ジュリアスは一も二もなくコレットを呼び付けるか、彼女の許に赴いて、育成をきちんと行っているかを正し、ゆめゆめ自分に課せられた役目、義務を忘れることのないように、気を引きしめておくようにと訓戒したことだろう。

それで、いじけたり、膨れたりするような女王候補なら適性なしと断じて、もう一人の候補を指導すればいい。やる気のない者にもともと女王のサクリアは花開かないのだから。

しかし、このアルカディアの育成は違う。

育成ができるのは一人コレットだけであり、代替者は存在しない。彼女がやる気をなくしてしまったら、根本的に全ての物事が手詰まりになってしまうのだ。

それがわかっているので、ジュリアスはおいそれと彼女にプレッシャーを与える訳にいかない。子供に何かさせるように、宥め、すかし、ねぎらい、褒賞をあたえ…ありとあらゆる手段を通して彼女のやる気を維持しなければならない。それでなくとも霊震が、彼女を竦ませているようなのが気にかかっていた。

明日当たり自分もコレットを励まし、勇気付けねばならぬか…

本音を言えば、アンジェリークの事が気懸かりでならない。アンジェリークの側にずっとついていたいと思う。

しかし、自分が私情に流され、本来の職務をないがしろにするようなことになれば、結局アンジェリークの最も切なる願い…皆で一緒に聖地に帰るという…を遠ざけてしまうことになる。

だから、とにかく今はコレットを育成に集中させねばならない。アンジェリークとの問題はある意味袋小路に入ってしまっていたから、余計に執務に没頭して気を紛らわせたかった。

ジュリアスは昨日のオスカーとのやりとりを反芻するように何度も考えなおしていた。

まずは、オスカーがアンジェリークの警備に行きたがらない本当の所を探ろうとした。

オスカーに『警備が負担になっているのか?』と問うことは『警備と執務の両立もできないのか』という言外の意味があるから、取り様によっては侮蔑にも聞こえる。その挑発にのってくれればと思ったが、オスカーはつまらないプライドに拘泥せず、あっさりと凡庸と思ってくれて構わないとばかりに引いてしまった。

アンジェリークの名を出し、オスカーが参内しないことを気にしていると敢えて言って(もちろんそれは真実でもあるが)なんとか本当の訳を言わせようとした。女王が気にしていると告げることで、今度は逆にオスカーの自尊心をくすぐろうとしたのだがこれも軽くいなされた。アンジェリークがそんなことを気にしているはずがないと言いきられてしまってはとりつく島もない。

ひたすら凡庸を装うことで、オスカーは何もつかませまいとしていた。どうにもオスカーが隙を見せないので、ジュリアスは仕方なく、ここまで言うつもりはなかったのだが、アンジェリークが戦争後不安定になっていること、それにオスカーが関係しているのではないかということ、しかし、その関連がわからないことまで第三者に仮託してオスカーの反応をうかがった。オスカーを直接問いただす訳ではないから、これならオスカーも第三者のこととして、話しやすいだろうと水を向けたつもりだった。

しかし、逆にそう思う根拠は何なのか?と切り替えされてしまった。ジュリアスは自分とアンジェリークの関係を言う訳にはいかない。なんとなく彼女が激することが多くなったような気がするといった、勢い答えは歯切れの悪いものにならざるを得ない。

オスカーの返答もそれに相応しい一般的かつ常識的なものしか返ってこなかった。

ジュリアスはもう、どうやってもオスカーから情報は引き出せないと諦めざるを得なかった。

オスカーはアンジェリークのことに関しては、口を裂かれても自分から何も言う気はないのだ。自分自身の問題ではないからこそ、おいそれと第三者である自分には告げられないという鉄のような信念がジュリアスの前に提示されただけだった。そして、それは人間として、男として賞賛すべき資質であるからジュリアスはもう何も言うことができなかった。

ただ、オスカーが自分に告げた最後の言葉…アンジェリークの様子に留意し、何か事あれば自分にも相談する、とにかくアンジェリークの事を何より第一に考えるといったオスカーの言葉に嘘はないと感じた。オスカーの誠実さが伝わってきた。

実際、オスカーが論点を擦りかえるのも、わざと凡庸ととられかねない返答に終始したのも、それは保身のためではなく、偏にアンジェリークのことを思ってのことではないかとジュリアスは理屈でなく感じていた。ジュリアスはオスカーがアンジェリークの為に良かれと思って行動することは何の曇りもなく信じられた。だから、黙って引き下がったのだ。

しかし、それは結局、オスカーの線からも、アンジェリークの線からも、情報の糸は断ち切れてしまったことをも意味する。どちらにしろ、本人が告げる気になってくれねばジュリアスにはどうにも動き様がなくなってしまったのだ。

それがどうしようもなくわかったから…無意味にアンジェリークの側にいるよりは、今は執務に精励して未来への道筋を少しでも確かなものにしようと思いなおしたのだ。いや、無理やり自分に言聞かせたのだ。

自分が焦慮にいたたまれず、情報を無理にでも引き出そうとしたのは、偏に存在する時間が限られているから、この一点に尽きる。しかし、この大陸から脱出できれば…問題を解決する事にもっと時間がかけられる。先送りにするという意味ではない。今問題の所在があきらかにできなくても、時間的な猶予があれば、焦って問い詰めたりする必要もなくなる。そのためにも私は自分たちが生き延びる可能性を少しでも高める方向で尽力するしかない。それしか今の自分にできることはない。

それに…力づくや不本意な形で解決するより、ゆっくりと時間をかけることができるのなら、きっとその方がよい結果をうむような気がするのだ。それが心の問題なら…感情の問題なら…きっと時間をかけたほうが固く絡みもつれた糸を解くのにはいいような気がするのだ。

だから、今はとりあえず、私は執務に励む。そなたとの未来をより確かなものにするために。

今できぬことで焦るより、遠回りなようでも、できることから少しづつ距離を縮めていこう。皆で聖地に帰りたいというそなたの望みをかなえるために。

そんなことを自分に信じこませるように言聞かせて、今日一日無理やりのように執務に没頭した。それに、アンジェリークの望みを叶えられれば、最後の日というものを迎えなくて済むようになる。それは最後の日にアンジェリークは誰と過ごしたいのか、尋ねずに済むという事も意味していた。ジュリアスは自分の感情としては尋ねたくはなくとも、真実最後の日が来てしまった場合、きっとアンジェリークに『今日、一緒に過ごしたい者がいるなのなら、その者の所に行くがいい。私のことは気にするな…』と言ってしまいそうな自分を予感していたから。だからこそ、最後の日はこないでほしい。それも正直な気持ちだった。

ずっと書類を見つづけて流石に神経が疲れていた。私室に戻って就寝しようと思った時、ふと宮殿の様子を少し見に行こうと思いついた。

デスクワークに倦んでいたので、少し外の空気を吸ってから休みたい。アンジェリークが安らかに眠っていることを確認できれば、それでいい。そんな軽い気持ちでジュリアスは執務室から外にでた。

しっとりと水気を含んだひんやりとした空気が心地よかった。

 

「なぜ…なぜ、ここでジュリアスの名前をだすの…?」

「すまない。俺は…あなたとジュリアス様が公私ともに支えあうパートナーであることを知っている。」

「………」

アンジェリークが否定も肯定もできず絶句している。

「心配には及ばない。誰にも話してはいないから…アンジェ…あ、これは失礼しました。俺は今までずっと陛下に心安い口をきいて…」

オスカーは女王と臣下の枠を超えて素の状態でアンジェリークに接していたことに、今漸く気付いた。自分の苦悩を生(き)の状態で吐露してしまっていたので、無意識のうちにそのまま接していたのだ。

アンジェリークの緊張がこの一言で緩んだ。

「あ、いいの、そんなことは…オスカーが私の名前を真面目に呼んでくれたのは初めてだったから、嬉しかったわ、こんな時だけど…あなたはいつも私を肩書きでしか呼ばなかったから…昔はお嬢ちゃん、今は陛下って…アンジェリークって呼んでもらえて嬉しいわ。だからそのまま名前で呼んでくれてかまわないわ?」

ちょっとだけはにかんだようにアンジェリークの口元が綻んだ。オスカーは眩しいものでも見たかのように思わず瞳をすがめてしまった。

アンジェリークがほうと溜息をついた。

「そう…知っていたの…私とジュリアスのこと…でも、ほんとうに不思議…オスカーには隠し事ができないのね…なぜなのかしら?」

遠くを見るように視線を泳がせながらアンジェリークは問うともなしに問う。

それには応えずオスカーは、ふ…と軽く笑った。

その答えは知らなくていい。知らせる必要はない。知ってしまったらアンジェリークが困るだけだ…あなたの名前を呼ばずにいたのも、あなたの名前を呼ぶときに愛しさが我知らず滲み出てしまいやしないか、心配だったからだ…

オスカーは軽く頭をふって、そんな思いを振り払った。

「では、今はご無礼のほど、ご容赦を…ジュリアス様は、大層あなたのことを案じていらっしゃる。あなたが何か苦しんでいるのはわかるのに、何もできずにいることが、ジュリアス様の心をも苦しめているんだ。そして、僅かな手がかりを求めて俺のところにいらした…俺は…俺はジュリアス様の気持ちが痛いほどわかってしまった。ジュリアス様は何よりあなたを案じておられる。でも、何もしらないから、何もできない自分がもどかしくてならない。何か知っていることはないかと、俺はいろいろ尋ねられた…」

「オスカー……あなた…」

アンジェリークの表情が強張った。

「いや、何も話してはいない。俺が言っていいことではないと思ったので…」

アンジェリークの顔にあからさまな安堵が走った。

しかし、オスカーはここでアンジェリークには酷い要求をしなければならなかった。

「アンジェリーク、あなたには酷なことだと承知で言おう。ジュリアス様にあなたの苦悩のその訳を告げることは考えられないか?」

アンジェリークは黙っている。オスカーのこの言葉を予想していたのかもしれない。

「あなたが言いづらいことは理解できる。しかし、ジュリアス様のお気持ちを考えると…下手に今のままの状態でいると何か誤解なさる怖れもある。アンジェリーク、それに俺はジュリアス様は真実に押しつぶされる方ではないと思う。」

「でも…でも、あなたも自分を責めて、苦しんでいたわ…私を助けられなかったって…ジュリアスも、このことを知ったら、どれほど苦しむか…自分を責めて止まないか…自惚れみたいに聞こえるかもしれないけど、本当に私のことを心配しているのがわかるから…言えない…言えないのよ…今更言ったって、彼を苦しめるだけだと思うと余計に…」

「あなたの気持ちはわかる。しかし、それでもジュリアス様は真実を知ったときに、知らないでいるよりは知ってよかったと思うと…俺は思う。男とはそういうものだ。愛する女性の苦悩に知らない振りで自分が楽をしようなどとは思わないものだ。泥沼でのた打ち回るほど苦しんだとしても、それでも何も知らないよりはよかったと…少なくともジュリアス様ならそう思う…そういう方だ…」

俺がそうだから…とは生涯言えない言葉だった。

「そう…そうなのかしら…だけど…」

「それに現実的な問題もある。先ほどあなたが自分でおっしゃったことだ。」

アンジェリークはオスカーに話を続けてほしくて、先を促すように首をかしげた。

「あなたが今生々しい傷を抱えて苦しんでいる。俺はそのことを知っているから、例えば公式行事以外あなたと顔を合わせないようにすることも可能だし…」

アンジェリークが気色ばんで何か言い募ろうとしたのをオスカーは手で制した。アンジェリークはそんな事望んでいないし、するつもりもないと言いたかったのだろうが、今問題なのはそういう次元ではなかった。

「俺がいる間はランディがあなたの傷を触れないよう気を配る事も可能だ。しかし、俺もランディもいつ退位するかはまったくわからない。寂しいが、あなたが俺たちより先に退位することになれば、それは最も無難な結末になるだろう。一度退位してしまえば今生で再びまみえることは奇跡に等しいから…しかし、その保証もない。」

そのほうがいいのだろう、それはわかっているが、退位してしまえば二度と見えること能わずと口に出すのは辛かった。しかし、今は酷い可能性をひとつひとつ告げて検証・認識しなくてはならない。

「ジュリアス様がいてくださって、あなたを支えてくだされば、時間はかかっても、あなたの傷は少しづつ癒えていくかもしれない。しかし、万が一、ジュリアス様があなたより先に退位を余儀なくされたときはどうする?」

「オスカー…そんな…そんなこと…」

アンジェリークの顔がくしゃくしゃと歪んだ。一番考えたくないことなのだ。それは百も承知でオスカーはこの過程を推し進めなくてはならない。

「ジュリアス様もいない、その時、俺もいるとはかぎらない。そして、いつ果てるともしれない在位にあなたとランディだけが残る可能性もある。その頃ランディは俺の後を継いで聖地の警備を一手に掌握する立場にあるかもしれない。その時までにあなたの傷が癒えていればいい。だが、そうでなかったら…ランディを永遠に遠ざけておくことなどできるのか?ランディが自分が避けられていることに気付いてあなたを問い詰めてきたら?その訳をあなたはランディに告げることができるのか?」

「やめて!やめて!オスカー!」

アンジェリークが耳を塞いで狂った様にかぶりをふる。

「酷なことを言っているのは承知の上だ。しかし、可能性としては否定できない事実でもある。いつかはあなたの傷も癒える日がくるかもしれない。いや、きっとジュリアス様の厚情に癒される日がきっとくる。希望をもつのは大切なことだ。希望なくて人は生きられないのだから…」

ふっと一瞬穏やかな顔になったオスカーだが、またその表情は峻烈といっていいほどの厳しいものになる。

「しかし、同時に根拠なき楽観、根拠なき希望はただの無鉄砲であり、無定見でもあると俺は思う。なんとかなるだろう…で何とかならなかった場合、どうなるのか?それを何も考えず、何も手をうたないでいることは、とても危険なことだと思う。」

「………」

「いつか忘れられるだろう、ジュリアス様がいてくれれば大丈夫だろう、確かにそうだろう。しかし、もし、ジュリアス様がいらっしゃる間に忘れることができなかったら?その時、あなたはどうするのか?だから、俺は思う。もし可能ならば、あなたの傷を少しでも塞いだほうがいいのではないかと…そってしておくだけでもいつか傷は塞がる、もちろんそれも真実だ。しかし、傷が閉じ切る前に、また傷が開いてしまったら?その繰り返しでなかなか傷が閉じなかったら?残酷な事を言うようだが、今のあなたの状態は、それに近いのではないか?ジュリアス様が側にいることで少しづつではあるけど、傷が塞がりそうになる。しかし、俺やランディの存在が刺激となって閉じかけると思うと傷が開いてしまう…」

アンジェリークが苦しそうに身を捩る。だが、オスカーはまだ手綱を緩めることはできない。

「俺とランディがあなたとジュリアス様より先に聖地を去れればいい。それが一番いい。そうすればあなたはジュリアス様に見守られながら自分の力で傷を塞げるだろう。でも、そうでなかった時のことは?何も考えなくてもいいのか?都合の悪いことは有得ないこととして捨ててしまって大丈夫なのか?」

あまりに辛いのでなるべく考えないようにしていたが、オスカーの言葉は全て真実だった。そして、真実だと認識できる明晰さが、尚更アンジェリークを苦しめる。

「アンジェリーク、あなたを無意味に追い詰めてる訳じゃない。あなたを苦しめようとこんなことを言っているんじゃないんだ。俺は…俺たちはあの戦争の時、『すぐ脱出できるだろう』『すぐ陛下を救い出せるだろう』『陛下は自分の身は自分で守る力もあるから大丈夫だろう』こんな、なんの根拠もない楽観につかまっていた。これはただの希望的憶測でしかなかった。そして、実際はどれもこの憶測と異なっており…その結果、あなたは…あなたに筆舌に尽くし難い苦しみを味あわせてしまった…そして、この問題も同じことだと俺は思う。各人の退位の時期も、忘れられる可能性も、ランディを遠ざけずに済むだろうというのも、こうであればいいのに、という憶測にすぎないんだ。そして、その憶測が外れてしまった時は…『こんなはずではなかった』という時にどうなってしまうのか…何もわからないんだ。もちろん、俺と対でなければランディが残ったとしても、リスクは少ないかもしれない。でも、あなたが俺1人の姿でも怯えたように、ランディへの蟠りをどうしても捨てられなかったら?その時、あなたを支える手がなかったら?嫌なことを言ってすまない。しかし、取り返しのつかないことになってからでは遅いんだ…危機管理とは常に最悪の事態を想定し、前もってその対応を考えておかねば役にはたたないんだ。あのくその役にもたたない戦争で俺がたったひとつ学んだことだ…」

万が一、ランディが自分が避けられていることに気付き、あの直情的な態度でアンジェリークにその訳を迫ったりしたら…その時、アンジェリークがパニックのあまり全ての力を叩き付けでもしたら…オスカーは自分の怪我が打撲程度で済んだのは、アンジェリークの力がバリアの維持で相当削がれていたためではないかと思っている。もし、彼女が万全の体調で抑制の効かない力を放ちでもしたら、もみ消しもできぬほどの大怪我を負わせるか…もっと最悪の事態すらありうるのだ。しかも、もしその原因までもが周囲に知れ渡りでもしたら…その時、俺もジュリアス様もいなかったら…彼女は…彼女はどうなってしまうのだ?俺にこの程度の怪我をさせたというだけでも、彼女はこんなにも心痛を覚えているのに…万が一そんなことになったら…彼女の自責はいかばかりか。サクリアがある間は退位もできず、いつ果てるともしれない在位中、際限のない自責に苛まれ、永劫の生き地獄をのたうつのか…そして退位とともに贖罪する、させられる…こんな最悪の状況すらないとは言えないのだ。あまりに酷いので口にはださなかったが、オスカーは最悪の状況とはここまで起り得ると考えていた。

戦争時、自分たちに都合のいい状況しか考えていなかった。口当たりのいい状況だけを考えて悪い可能性には目を瞑り行動していたつけが今目の前にある現実だ。最悪の事態を何も考えていないかったからこそ、全てにおいて後手に回り、結果として彼女に取り返しのつかない傷を負わせてしまった。もう、こんな思いはごめんだ。彼女にこれ以上苦しまないで欲しいんだ。そのためなら多少治療が痛いものであっても、なるべく早く傷を塞いだほうがいいと俺は思うんだ…

「俺は…だから、できることがあるのなら、あなたの傷が塞がる方便を積極的に探したほうがいいと思う。傷を早く直す為に縫合をするようなものだな。放っておいても確かにいつか傷口は塞がる。しかし縫合をほどこせば、治りかけの傷が再び開く危険も減じれば、治り自体も早くなる…縫う時は痛むかもしれないが…」

アンジェリークは蒼白のまま絶句している。わなわなと全身が震えている。一生懸命オスカーの言葉を自分のものにするため考えようとしては、その思い知らされる現実の辛さにすべて投げ出したくなり、それでもぎりぎりの所で、泣き叫んでヒステリーを起こしそうになっている自分を律していた。

オスカーの言っていることはみんな本当だ。私を苦しめる為に言っている訳でないこともわかっている。だから、ちゃんと話を聞かなくちゃ。そんなこと考えたくないって言って耳を塞ぐのは簡単だけど…その方が楽なのもわかっているけど…

「尤も今は、その縫合の道具もやり方もわからないような状態だが…でも、その方法をみつけるためにも、本当ならジュリアス様には全てをお知らせしたほうがいいと、俺は思う。あの方ほど、真摯に、真剣にあなたのことを考えてらっしゃる方は他にいない。あの方と相談する事で今は見えない方策が何か見えるかもしれない…」

オスカーがふっと自嘲するように笑んで頭を軽く振った。

「いや、これはいい訳かもしれない。本音を言えば、俺は同じ男としてジュリアス様の懊悩を見るに耐えないんだ。ジュリアス様の気持ちが手に取るようにわかるから…別にあなたを救う手立てを相談はできなくてもいい。ジュリアス様は、あなたに手を差し伸べたくて、しかし、どこでどのように手を差し伸べたらいいのかもわからなくて、懊悩している…問題の所在がわからないからだ。そのやるせなさ、もどかしさがわかり過ぎるほどわかるので、できれば、ジュリアス様には告げてさしあげてほしい…そう思う…勝手な言いぐさだとは百も承知の上だ…」

「オスカー…、オスカーの気持ちはわかる…わかったと思う…そんなに、ジュリアスや、私のことを考えてくれて…それはありがたいと思う…でも、お願い…少し、考えさせて…」

アンジェリークが苦しげに考え考えこう告げた。オスカーはアンジェリークを労わるように見つめる。

「今すぐ結論を等というつもりはない。それにこれはあくまで俺の考え方を言っただけだ、あなたが従う必要はない。もし、言ったほうがいいと思うが、直接言いにくいというなら、俺が言ってもいいんだが…あまりこれはいいこととは俺は思っていない…」

「そう…そうね…私も…これは私が…言うにしても、結局言えなかったとしても、自分でしたほうがいいと…私も思う…わ…」

「結論は急がなくてもいい。ただ、臣下として俺はこれをお願い申し上げたい。できますことならばこれからも俺に何か手立てを考えさせてやっていただけませんか…」

「オスカー、オスカー…私、頼ってもいいの?一人じゃどうしていいかわからないことを一緒に考えて?って頼んでしまって本当にいいの?」

「俺はそのために…そのためだけに守護聖として生を受けた…そう思っています。アンジェリーク、あなたを少しでも、支え守り力になることこそ、俺の使命、俺の生きている意義だと…そう、信じています。」

「ありがとう…、ありがとう、オスカー…」

丁度その時、時計が11点鐘を鳴らした。二人とも話に夢中でこんなに時間が経っていたことに気がついていなかった。

「いつのまにかこんなに夜がふけていたのか…」

オスカーははっとした様子でアンジェリークを見た。

「アンジェリーク、あなたがここにいることは…」

「もちろん、誰にも言ってないわ。くる時もこっそり部屋の窓から抜け出して、ベッドには予備の布団を丸めて押しこんできたから…誰も気付いてないと思うんだけど…」

「いかん、宮殿にすぐ戻りましょう。もし霊震があったり、巡回であなたが部屋にいないことがわかったりしたら大変な騒ぎになってしまう…」

オスカーは反射的にアンジェリークの肩を抱いて部屋を出ようとし、その一瞬アンジェリークの体に緊張が走ったことに気付き、慌てて腕を降ろした。

やはり、これだけ落ちついているように見える時でも、まだだめなのだ…どうすれば、俺は俺だとアンジェリークに心底納得してもらえるのだろう。もしそれができれば…少しは…少しはアンジェリークも楽になるのではないだろうか。少なくとも俺やランディを見るだけで怯えなくてすむ。俺のためじゃなく…毎日自分を脅かすものがすぐ側にあるなんて、、凶獣と一つ檻のなかに無理やり共棲させられているような今の状態が、そんなことが幸せなわけがないのだから。

 

ジュリアスは宮殿を外から見て帰るだけのつもりだった。扉は施錠されているだろうし、今夜は訪れると告げていないから、アンジェリークはもう寝ているかもしれない。

もし部屋に灯りがついていたら、窓から声だけでも掛けて帰るか…と思っていると、アンジェリークの部屋の灯りは落ちていた。

少し寂しい気もしたが、あれに安らかな眠りが訪れているなら、それでいい。それが一番いいのだ。

踵を返して帰ろうとしたとき、宮殿に向って歩いてくる2つの影があった。

『今ごろ何者だ?』

賊というのは考えにくいが、正体がわからぬうちは油断できない。二対一では片方を取り押さえてもその間にもう一人に逃げられてしまうかもしれない。

しかし、今宮殿内にいる警備に声をかければ、あの者たちに気づかれるかもしれない。まだ怪しのものときまった訳ではないのだから…とも思い、ジュリアスは自分からは宮殿の入り口が見えるが向こうからは見えにくい植え込みの影に身を隠した。

2つのうち1つの影は小さく華奢だった。

『女性のようだ…』

単なる住民の逢引だったのか?と思った瞬間、夜目にも鮮やかな金の巻き毛が揺れた。あれは…あの金の髪は…いつも自分が掌に掬い口付けるふわふわと柔らかな金糸の束は見間違え様がなかった。

そして、あの堂々とした体躯、隙のない身のこなし…何より燃え立つ焔を体現した髪、こちらも見間違えようがなかった。

『アンジェリーク…オスカー…』

この場になどいたくない、すぐに立ち去ってしまいたいと思いながら、ジュリアスはその場を動けなかった。

彼ら二人は足早に宮殿の前までやってきた。

二人の話声が否応なしにジュリアスに聞こえてきた。

 

「馬があればよかったのですが…申し訳ありません、急がせてしまって…お疲れではありませんか?」

「私は平気、くる時だって歩いて行ったんだもの。それより、オスカーこそ、平気?怪我した所が痛んでいない?あの…無理してまた怪我の治りが遅くなってしまったら…あ!」

「どうなさいました?」

「オスカー、私、忘れてたわ。あの薬草だけど、それぞれ鎮痛と抗菌と抗炎症効果があるものなの。そのままでもいいけど、できたら、乳鉢か何かですり潰してペースト状にしてから怪我した所に塗るとより効果があるらしいの。あの…オスカーは許してくれたけど、私があなたを怪我させたのは本当だし…本当にごめんなさい…それに、また、怪我させないとも言いいきれないから…あの薬草は持っていて…」

アンジェリークが泣き出しそうな顔でオスカーを見上げている。

『なんだ?アンジェリークは何を言っている?オスカーに怪我をさせた?何のことだ?』

ジュリアスはアンジェリークとオスカーの会話に神経を集中させようと努めた、少なくとも、これは人目を忍んだ逢瀬ではないような気がした。その類の甘い口調ではなかった。

「あなたのくれた薬草なら女王のサクリアで効果倍増でしょう。それに、もし同じようなことがあったとしても気になさらないでください。あの時は不意をつかれましたが、そうとわかっていればむざむざまともに力をくらったりはしませんから。伊達に鍛えてはおりません。」

オスカーは笑むとアンジェリークにウインクしてみせた。

「もう…オスカーったら…」

つられてアンジェリークも軽くではあったが微笑み返した。オスカーがなるべく自分の心を軽くしようとしてくれているのが、また、混乱してオスカーを傷つけるようなことが起きても気にするなと言ってくれているのがわかって、アンジェリークは別の意味で泣きたくなった。

オスカーが一転真面目な面持ちにかわった。

「それに俺は…あなたに力をぶつけられてよかったと思ってる…」

「え?」

「あなたが、俺をあいつと勘違い…いや、勘違いじゃないな、混乱・混同して力をぶつけてくれおかげで、その後、あなたが『あれは俺じゃない』と言ってくれたおかげで…俺はあなたが何に怯え苦しんでいるのか、なぜ俺を避けようとしていたのか、知ることができた。」

「オスカー…」

「確かに俺は真実を知って自分の迂闊さを呪った、あなたを救えなかったことを思うと今でも胸が抉られるような後悔に襲われるのも確かだ。でも、それでも知らなかったほうがよかったとは思わない、むしろ知ることができてよかったと…心から思っている…断言できる…」

オスカーがアンジェリークを愛しみに満ちた瞳で見下ろす。

「アンジェリーク、何も知らないままで避けられていたら、怪我するようなことはなくても、俺は何もわからず、何もできず、ただ煩悶していたことだろう。それに比べたら、今、何をしたらいいかわからなくても、あなたの為に何かできると思えることは喜びなのだから…俺にとって、この負傷は勲章だ…」

アンジェリークの顔が泣きそうに歪む。

「だから…この思いは恐らくジュリアス様も同じだと思う。真実を知れば…あなたを救えなかったことを後悔するかもしれない、自責にも苛まれよう…それでもきっと知らないでいるよりはよかったとジュリアス様ならそう思うと、俺は思います…」

「オスカー…あなたのいいたいことはわかるわ…でも、でもね…私の気持ちは?」

オスカーがはっとしたようにアンジェリークを見た。

「あなたは事情を察してくれた…だから、私は自分から何があったかはっきり言葉にしなくて済んだ…でもね、言葉にするってことは、自分でそれを認めるってことなの…自分がそんな目にあったんだって…改めてつきつけられることなの…ジュリアスには…何もしらないジュリアスに言うってことはそういうことなの…そして、私…まだ、それを自分の口から言うことが…また、改めて、自分はそんな目にあったんだって思い知らされることが…自分があれに…あいつらにりょ…う…うぅっ…」

皆まで言わぬうちにアンジェリークはまた嗚咽が込み上げてしまった。口を覆って俯く。気を張っていないとしゃがみこんでしまいそうだった。

「すまない!すまなかった!アンジェリーク!言わなくていい!無理に言わなくていいんだ!」

オスカーはアンジェリークを思わず抱きしめようとして体が一瞬動いた。しかし、渾身の力でアンジェリークに伸ばした腕を降ろした。

「オスカー…ごめんなさい…あなたの言うことはわかるの…私もそうしたほうがいいって何度も思って…でも、できなかったの…ジュリアスにも心配かけてるってわかってて、何度も言おうとして、その度に胸が抉られる様に痛くて…どうしても言えなかったの…これも…どうしたらいいのか…わからないことのひとつなの…」

「済まなかった、本当にすまなかった、軽率だった…あなたの気持ちも考えず…」

「ううん、わかってる…あなたが私のこともジュリアスのことも、私たちに良いようにって考えてくれてることはわかってるから…だから…」

アンジェリークは改めてオスカーを見上げ、オスカーの意図を問うた。

「オスカー、本当にいいの?私、これも相談していいの?どうしたらいいのか、私、どうしたら、言えるようになるのか…一緒に考えてくれるの?」

「できれば一足飛びにあなたを楽にしてさしあげたい…でも、俺はそれができるのはやはりジュリアス様だけだと思います。そして、そのための1歩を踏み出す場所がないか一緒に探してみましょう…」

「オスカー、ありがとう…」

「もう夜も遅い、人気のある時間ではありませんが、誰かに見られないとも限らない。もう宮殿にお戻りください…」

「ええ…」

アンジェリークが宮殿のドアを開けようとして、首をかしげている。

「?…あっ!やだ、私窓から抜け出してきたんだから、ドアはかぎがかかりっぱなしなのに!忘れてたわ!」

オスカーは思わず失笑した。彼女に、この天性の明るさがあるかぎりきっと大丈夫、大丈夫だろうと確信する。それはオスカーにとっても救いであった。

「では、その窓の下までお送りしましょう…女王陛下。」

「うー、恥かしいからここでいいわ、オスカー。私が窓から部屋に入る所はみられたくないもの。」

「仰せの通りに…もっとも、ちょっと残念ですが…窓から侵入する宇宙の女王を見られないのは。」

「内緒よ?当たり前だけど、内緒にしてね?あと、ちゃんと薬草を塗ってね。お願いよ…」

最後に神妙な顔をしてから、アンジェリークは少女の様に軽やかな足取りで宮殿の裏側に駆けていった。

それを見送り、オスカーも帰路につく。

一人ジュリアスだけが、今聞いた会話の内容を整理しかねて呆然と立ち竦んでいた。

『オスカーとアンジェリークはいったい何を…何について話ていたのだ?』

何か、とてつもなく大変な事実の情報が切れ切れの状態で見えたが、その全貌がよくわからない。

次から次へと涌き出る疑問が渦巻いてジュリアスの思考を揉みくちゃにしてしまい、ジュリアスは混乱の極みにいた。


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