汝が魂魄は黄金の如し 17

ジュリアスは自分がどうやって私邸まで辿りついたかよくわからなかった。

無意識の内に歩をすすめていたのか気付いたら自分の私邸の自室にいた。今は自室の椅子に脱力した様にその身を預けている。形のいい指は秀でた額に当てられては煩そうに時折髪をかきあげていた。

あまりにいろいろな情報が一時に、しかも断片的に流入してきたので、それが頭のなかで混濁してしまい、物事の全容がかえってよくわからない。

アンジェリークとオスカーの会話が耳に入る内に、次から次へと溢れてきた疑問の数々、やりとりから推測された過去の出来事、現在の状況。それは全て、ジュリアスが懸念しているアンジェリークの精神状態に関係していることは、混乱している頭でもどうにか理解できていた。ただ、自分が耳にしたのは問題の核心ではなかった…しかし、とても重要な手がかりが随所に含まれていたような気がする…だが、一つの事を考えようとするたびに、次から次へと疑問が湧いてはその答えがみつからぬ内にまた新たな疑問が生まれ、何もわからないまま手付かずの疑問だけが山積していく。そのすべてがごちゃまぜになってしまい、ジュリアスの頭のなかはどこから手をつけたらいいかわからない状態だった。

かといって、考えずにはいられない。自分は今考えることを放棄などできない心理状態であり、そういう内容の話だったことはわかりすぎるほどにわかっている。

『いかん…少し冷静になって、物事を整理せねば…』

ジュリアスは1度立ちあがるとキッチンに赴いた。

自らコーヒーメーカーをセットし、エスプレッソに目盛りをあわせる。

聖地であれば自分ではほとんど行ったことのない単純な作業。夜遅くまで、仕事をしていることも多い毎日。深夜にふと口寂しくなって何か飲みたくなった時、使用人の手をわずらわせまいと自分でコーヒーを抽れようとしても、主人の意向に敏い使用人たちはほとんどこんなことをさせてはくれなかった…少しづつ抽出されていく黒褐色の液体を眺めながらぼんやりと思う。単純な作業を黙々とこなし、その結果である深い香りが鼻腔を満たすうちに、ジュリアスの波立つ心と混乱した思考を整理するための沈着さが戻っていく。

そうだ、こんな単純で簡単な行為ですら、きちんとした手順を踏まねば結果はでない。粉をセットする前に水をいれてもコーヒーにはならないのだから…

『オスカーが怪我をしている?そんなことは初耳だ。しかも、アンジェリークがオスカーに怪我をさせた?どういうことだ?なぜそんなことになった?なぜ、オスカーはそれを隠していた?』

『アンジェリークがオスカーを避けていた?あれはオスカーに会いたがっていたのではなかったか?』

『何を言っている…アンジェリークを救えなかったとはどういうことだ?…幽閉から…皇帝からは救い出したではないか…何から救えず、何を後悔しているというのだ、オスカー…』

『なぜ、ここで私の名前がでるのだ…』

『アンジェリーク、なぜ、そんなに辛そうな顔をする…あいつらとは誰だ?一体何があったというのだ!』

こんな調子でありとあらゆる疑問が無秩序に意識の表層にあがっては、それを検証するまえに、次の疑問に意識が飛んでしまう。あちらこちらに思考が飛んでしまうから、結局何も考えられず、焦りと混乱に心かき乱され、何も結果がでないのだ…

何から考えればいいのか、それすらわからないというなら、とりあえず、順を追ってみるがいい。重要度、優先度がわからないのなら、時間軸にそって思考を進めろ…自分で自分にいいきかせ、ジュリアスはオスカーとアンジェリークの姿を見たときのことを最初から思いだし、考えなおしてみようと思った。

 

ジュリアスは自室に戻りエスプレッソのカップを机に置くと、要点の整理を行うべく、先刻見聞きしたことを最初から順に思い返していた。

オスカーとアンジェリークが二人そろって宮殿の前に現れたのを見た。最早深夜といっても刻限だ。人目を忍んだ逢瀬…普通ならそう思う、そして激しい衝撃とともに、ジュリアスもそう思った。

その時の気持ちは到底一言では言い表せない。比喩でなく、呼吸が止まった。このまま息絶えてしまうのではないかと思ったほどにその衝撃たるや凄まじかった。

なぜ、こんな時刻に人目を避けて二人で会っていたのか…会っていることを人に知られては困るからだ。その理由は…明白だ…

なぜか、裏切られたというような怒りの感情はなかった。もしや…と覚悟をしていたつもりであった事だからか。しかし、それでも、目の前につきつけられた現実に、自分の覚悟の程など綺麗事だと思い知らされた。ただただ胸が痛くてたまらなかった。この場で二人の睦言など聞きたくないと思ったのに、あまりの苦しさにかえって体は金縛りにあったように動かなくなった。そして聞こえてきた二人のやりとり…

最初は、女王の体を気遣う守護聖とエスコートに謝意を示す女王の会話としか思えない内容だった。こんな時刻に人目を忍んでかわされてさえいなければ、いつ、どこで聞いても不思議ではないような普通のやりとりだった。アンジェリークがオスカーに『怪我は痛まない?酷くなっていない?』と尋ねるまでは…

『怪我?怪我とはなんのことだ?オスカーが負傷しているなどとは聞いていない…』

そう思ったことが、衝撃に空白となっていたジュリアスに思考を取り戻させたのだ。

人目を忍ぶ逢瀬の別れのセリフにはまったく不似合いなその言葉が…

それと同時にジュリアスは先日会った時のオスカーの常ならぬ動作のぎこちなさを思い出した。悪い顔色、苦痛に耐えるかのごとき表情と声、そして、アンジェリークの警護に突然立たなくなった訳は…もしやこれが原因か…?

しかし、オスカーはいつ怪我などしたのだ?ここ数日は霊震も起きていなかったし、目だった出来事といえばアンジェリークが体調を崩したことくらいだ。自分だってこの大陸で起きた全ての事を知っているわけではないが、何らかの事故でオスカーが負傷したとしても、それを隠す必要などないではないか。堂々と治療を受ければいいではないか…なぜ、自分は怪我をしているから警備に立てないと私に本当の理由をいわなかった?負傷した理由を知られたくなかったから…か?

続くアンジェリークの言葉。自分の持っていった薬草を使ってくれと言っていた。なぜ、わざわざアンジェリークが薬草をこんな時刻に自分で届けねばならない?そう思った矢先、オスカーを負傷させたのは自分なのだからとアンジェリークが言った。どういうことだ?私の知らない間に何があったというのだ?なぜ、アンジェリークがオスカーを傷つけねばならない?いったいどんな理由で?

なにもかもわからないことだらけだった。

だが、ジュリアスは懸命にこの不可解な会話から、まずはわかったことだけを抜き出すことにしてみた。ひとつはオスカーは負傷しているらしいこと、しかも、その怪我はアンジェリークが負わせたらしいこと。この時点での疑問は、なぜアンジェリークがオスカーに怪我をさせるようなことになったのか、そして、その事実をアンジェリークとオスカーの双方が隠していた理由。この2点だ…机の上のレポートパッドにそれぞれ箇条書きで書き記しておく。

心配そうなアンジェリークに、オスカーが多分に作為的な自信とウイットに満ちた答えを返した。ジュリアスはその様子より言葉の内容が気になった。

『力をぶつける…?アンジェリークがオスカーに力をぶつけたということか?』

ジュリアスは、はっと思い至った。

数日前、アンジェリークが昏倒した時、王立研究院のバリアのホロが激しく動揺した。それを見て自分はアンジェリークの様子が気になり、宮殿に駆けつけたのではないか。

あの時…アンジェリークの力がバリアを張る以外に向けられたから、バリアがあんなにも激しく揺らいだのだ…そして、その力の向った先が…オスカーだと言うのか?

しかも、続くオスカーの言葉で、ジュリアスはアンジェリークがオスカーに力をぶつけたことは確信した。まちがいない。オスカーの負傷はアンジェリークがそのサクリアをオスカーに集中して叩き付けたからだ。しかし、なぜ、アンジェリークはオスカーにそんな事をしたのだ?しかも、なぜ、それをオスカーもアンジェリークも隠していた?この点がまだわからない。

オスカーが更に言葉を続けた。力をぶつけられたおかげで、アンジェリークが自分を避けていたわけがわかったと言った。あれは俺じゃないと言ってくれたから、本当は俺を避けていたわけじゃない、アンジェリークが何を退けようとしていたかがわかったから、むしろよかったと…

そうだ、この言葉にあまりに多くの疑問が詰まっているので、ジュリアスは混乱したのだ。問題の質が違うのに一時に全て考えようとしたから、どうしていいかわからなくなったのだ。

整理してみろ、ジュリアス。

まず、自分はアンジェリークがオスカーに会いたがっていると思っていた。陳腐な言いぐさだが最近のアンジェリークの様子はどうみても『オスカーのことが気になって仕方ない』としか言えないようなものだった。実際この時アンジェリークはオスカーと二人で会っていたのだから、この推測自体は間違っていなかったと思う。アンジェリークはどうしても非公式かつ秘密裏にオスカーに会いたかったのだ。だが、アンジェリークがオスカーに会いたがっていたその理由は…それは自分が考えていたようなものではなく、アンジェリークが負傷させたオスカーに直接謝罪し薬草を届けたかったから…だったというのか?しかし、なぜ、人目を避けて会って謝罪し、薬草をこれもこっそりと手づから届けねばならない?オスカーの怪我を人知れず治したかったから…そういうことか…

アンジェリークがオスカーに会いたがっていた訳は恐らくこれで間違いないだろう。自分はアンジェリークとオスカーが密かに情を通じていたのかとも思ったが、この甘さの欠片もない会話の様子といい、内容といい、今ではこの可能性はほぼなくなったと思えた。

しかし、ここでも結局は最初の疑問に収斂する。なぜ、オスカーが負傷したことを隠さねばならないか、そしてなぜアンジェリークはオスカーを負傷させたのか…

そして、疑問とともにもう一つ判明した事実。

元来はアンジェリークはオスカーを避けていたらしということ。少なくともオスカーはそう思っていたようだ。

そういえば…ジュリアスは、以前、オスカーのことを言及した時のアンジェリークの激昂ぶりを思い出した。彼女はオスカーの事を話題に出すといつになく苛つき、神経質な態度をとる事が多かった。だからこそ自分は、アンジェリークはオスカーに惹かれているのだがそれを認めたくないから神経質になるのかと思っていたのだが…アンジェリークは本当に単純にオスカーを避けたかったのか?それに…そうだ、アンジェリークが呼吸困難を訴えた時もオスカーが側にいた。では、やはり、もともとアンジェリークはオスカーを遠ざけ様としていたのか?しかし、意に反してオスカーがアンジェリークに近づいた…それを嫌うか…動転したアンジェリークが本来バリアにまわすべき力をオスカーに叩きつけたということか?それがアンジェリークがオスカーに怪我をさせた原因か?

しかし、ここでまた新たな疑問が生じる。なぜ、アンジェリークがそこまでオスカーを退け様としたのか、まったく訳がわからない。オスカーがアンジェリークの信を損なうような真似をしたとはどうしても信じられない…

もし、万が一、オスカーが何か無礼な振るまいをしたというのなら、オスカー自身を公の場で叱責すればいいだけだ。彼女は女王なのだから…はっきり理由を告げて蟄居なり謹慎なり処分を下せばいい。しかし、アンジェリークはそうはしなかった。動転して力を迸らせ、オスカーを傷つけてしまったのだとしても、元々オスカーに非があったのならその旨公表して、自分の行為は正当であると示せばいい。しかし、アンジェリークがオスカーを近づけたくはない理由は公にできるものではなかった?…だから、オスカーを退けようと力を放出してオスカーを怪我させたことも隠さねばならなかったのか?

もし理なくしてオスカーを怪我させたのなら、この事実をアンジェリークが隠すのはまだわかる。彼女が自己保身の為の糊塗に走るとはどうしても考えにくいが…しかし、怪我をさせられた方のオスカーも積極的に事実を隠そうとした理由がわからない。自分の負傷を誰にも悟られまいと秘していただけではない。ランディに口止めしていた事実、いくら誘いをかけても決してアンジェリークの事を言及しなかった事実からオスカーは自ら進んでアンジェリークの秘密を守ろうとしている。

オスカーを怪我させた事実を二人がともに隠す理由と、アンジェリークがオスカーを退けようとした理由、この、今はどうにも答えがみつからない疑問にまたも謎は収斂してしまった。

そして、更に訳のわからないあのオスカーの言葉。

『あれは俺ではない』とアンジェリークが言ってくれたおかげで、避けられているのは自分ではないとわかったと言った。

これは一体どういう意味だ?

アンジェリークはオスカーを退けようとして、恐らく夢中で力を放ち、オスカーを負傷させた。

しかし、本当に退けようとしたのは…避けたかったのはオスカー自身ではないということか?

では、それは誰なのだ?アンジェリークはオスカー本人を退けたいのではないのに、結果としてオスカーを退けようとして負傷させた…そうだ、オスカーは『勘違いして』と言ったか…いや、『混乱』か『混同』だったか、とにかく人違いでオスカーに怪我を負わせたということか…それならアンジェリークが自責にかられ、自ら薬草を持ってでも謝罪したいと思ったわけもわかる。

しかし、またも疑問は最初の一点に収斂してしまった。

なぜ、それを隠さねばならないかだ。

そして、この時点で生まれた新たな疑問。

人違いとは、いったいオスカーを誰と間違えたのかというのか。

そして、思いきり力をたたきつけて怪我をさせるほど、その人物を退けたかった理由…オスカーになぜ怪我をさせたのかは、この疑問へと姿を変えたので、ジュリアスは疑問点を書きなおした。

そして、続くオスカーの言葉を思い出す。

オスカーは避けられているのが、自分自身ではないことを知った。しかし、真実を知ったあと、オスカーは激しい後悔に襲われたと、確か、そう言っていた。なぜ後悔したのか…それはアンジェリークを救えなかったからだと…

この点もまったくわからない。我々は確かにアンジェリークを救出している。だからこそ、今彼女はここにいるのではないか…救出が遅れたことは自分にも忸怩たる思いはある。しかし、オスカーは確かに『助けられなかった』とはっきりそう言ったのだ。

一体彼女を何から助けられなかったというのだ?

しかも、この次に自分の名前が出た事でジュリアスは更に仰天し動転した。なぜ、オスカーがここで私の名前を出すのだ?そう思ったせいで、思考の混乱にさらに拍車がかかってしまった。

その時は突然自分の名前が話題に出たショックで、このことにばかり注意が行ってしまい、思考が散漫になってしまった。しかし、今考えてみれば、このこと自体は大した疑問ではない。

恐らく…オスカーは自分がアンジェリークと私的な関係にあることを知っているのだ。いつ頃からかはわからぬが、我々の関係に気付いたものの、見て見ぬふりを通していたのだろう。

そして、このこと自体は今は大して重要ではない。問題はオスカーが、真実を自分ジュリアスにも告げたほうがいいとアンジェリークに提言していたことだ。この真実とは、今の時点で二人がひた隠しに隠そうとしていることだろう。そして、自分が真実を知ったら、激しい後悔と自責に襲われるだろうと、それでも、自分はそれを知らなければよかったとは思わないだろうと、オスカーが明言したことだ。

この真実とは一体何なのだ?

ジュリアスは抜書きしていた疑問点を見なおす。

まず、この時点でわかったことは、アンジェリークはオスカーと誰かわからぬ人間…Xとしておこう、これを混乱のあまり取り違えてこれをどうにか退けようとしたその過程でオスカーに怪我を負わせたということだ。わからないのは、このXの正体と、それを退けたかった理由だ。

これが…Xの正体とそれを退けたかった訳が、オスカーの言う『真実』なのか?

そして、その『真実』を隠したかった訳は…最初の疑問の答えは今、ある程度の憶測がついた。その理由を知ることで自分が激しい後悔と自責に襲われると、二人が信じているからだ…ただ、オスカーはそれでも、自分にそれを告げたほうがいいと、アンジェリークに勧めていた。一体それは何だ?

そして最後に…アンジェリークがこの上なく辛そうな顔で告げた言葉…

『口にする事自体が辛い』と言って泣き崩れそうになり、慌ててオスカーがそれ以上言わなくていいと押し留めていた。

それは…自分が知ったら激しい後悔に襲われ、アンジェリークが言葉にできぬほど辛いとまで言いきった事、それがオスカーのいう真実と同じものか?

その真実とは…今の時点で残っている疑問…Xの正体と、それを退けようとした訳…それはアンジェリークにとって思い出すのも、口にするのも辛いことであり、自分が知れば激しく後悔すること…そのように結びつけていいのだろうか…

アンジェリークに言葉にできぬほど辛い体験があり…何がなんでも退けたいXという存在がいる…ジュリアスのなかで、この二つの事実が今繋がった。つまり、それは、アンジェリークはそのXという存在に言葉にできぬほど、何か辛い目にあわされたと…そういうことか?

そして、その事を自分に何度か告げようとしたと…アンジェリークは言っていた。そうだ、実際彼女は時折、何か言おうとしてはいつも言葉を飲みこんでいなかったか?

いいたくないことは無理に聞くまいと、ジュリアスは自分から引いてしまっていたが…アンジェリークとオスカーが隠そうとしていたものと、アンジェリークが飲みこんでいた言葉はきっと同じものだ。

その事実を公にすること自体がアンジェリークを酷く傷つけるから、オスカーはそれを必死で隠そうとし、アンジェリークは自分に告げようとしたもののそれが果たせず言葉を飲みこんだ。そして、自分がその事実を知れば、激しい後悔と自責に苛まれるであろうから…だから、アンジェリークはいつも、何かを言おうとしては言えずに黙って…時折どうしようもなく哀しそうに泣いていたのか?そして、それを知っているからオスカーも自分がどれほど誘いかけても固く口を閉ざしていたのか?

そうだ、オスカーがアンジェリークを救い出せなかったと言っていたのは、このことから救えなかったということではないだろうか。

アンジェリークがXに何か筆舌に尽くし難い酷いことをされた…それをオスカーは救い出せなかったと悔いた…そして、このことを知れば、自分も悔いるだろうと思われるということは、一人オスカーだけが関係している事件からアンジェリークを救えなかったということではあるまい。

後少しだ。後少しで全ての輪郭がはっきり見えるような気がする。ジュリアスは更に思考を進める。

アンジェリークが精神の不安定さを見せる様になったのはいつだ?知れたこと、幽閉から救い出してからだ。ということは、幽閉されている間に、その惨劇はアンジェリークを襲ったのか?自分たちがアンジェリークを救い出すのが遅れたから、アンジェリークはその惨劇に襲われてしまったと…だからその事を知れば、自分が自責に苦しむと思われた…そういうことか…アンジェリークはただ単に幽閉され、力を吸いとられていただけでなく何かもっとひどい事をされていたということか?

ジュリアス、思い出せ、アンジェリークを救い出した時、彼女があまりにやつれていたことに衝撃を覚えたのではないか?あの時はサクリアを限界まで搾りとられていたからだと思っていたが…そうではなかったのか?一体それ以外に何が、彼女の身に何があったというのだ!

彼女はどう言う状態だった?食物をうけつけなくなっていた…何を食べても吐いてしまうと、ロザリアが憂いていたではないか。だから、恐ろしいほど痩せてしまって…このまま消えてしまうかと危ぶまれるほど痩せ衰えてしまっていて…食物も喉を通らないほど何かショックなことがあったのではないか?

まさか…拷問?誰も入れないと思っていた塔にはモンスターが多数入りこんでいた。もしや、皇帝の手によるものに拷問でもうけていたのか?しかし…彼女を抱いた時…そうだ、彼女から会いたいと言ってきたその夜、彼女は何かに憑りつかれたように私を求めてきて、どうしても引かないから…駄々を捏ねる子供のように執拗に求めてきたから…心配でならなかったが、抱いた…その時、目立つような傷は体にはなかった。そうだ、酷くやせ細ってはいたが、その肌に痛めつけられたような傷跡はなかった。壊しそうだったので恐る恐る細心の注意を払って愛撫を加えていたから、その時の肌の様子はよく見ていた。間違いない。

その時、ジュリアスはあることを思い出した。

抱いた時、彼女が私に言った言葉は何だ?あまりに痛ましかったので覚えている…「忘れさせて…」そうだ、「忘れさせて」と確かに彼女はこう言った。そして…そして、体中涙でできているかと思うほど泣いて…涙で溶けてしまうのではないかと思うほど自分の腕の内で泣き続けたのだ…

私は…幽閉の辛い記憶が彼女を脅かしているのだと思ったが…彼女は本当は何を忘れたかったのだ?

そして、彼女がつい先日昏倒から目覚めた時、夢うつつで言った言葉。

「怖くて、辛くて、痛くて…あれは夢よね?」とすがるように私に問いかけてきた…

まちがいない、アンジェリークは何かどうしようもなく『怖くて、辛くて、痛い』思いをさせられたのだ、どうしようもなく辛く、苦しい思いをし、それを一時でも忘れたくて、あの時は自分に温もりを求めたのだ。

その『怖く、辛く、痛い』事は、しかし、肌には目立った傷は残さないようなことで…そして、アンジェリークが口にするのも辛く厭わしいようなことで…

それは…誰にされたのだ?

待て…

そういえば、私はさっき、もし、アンジェリークが幽閉中に酷い目にわされたのだとしたら、それは皇帝の手のものにかと、考えた。塔内には皇帝の魔導で作られたモンスターがうようよしていたから、ふと、思いついただけだったが…

ジュリアスは、はっと気付いた。

皇帝の手の者、そして、アンジェリークがオスカーと勘違いでも、混同でもいい、一見間違えてしまう存在、それは…そんな存在がいたではないか!確かにこの世にある一時期存在していたではないか!

自分たちは出入りできなくとも、モンスターは入りこめていた塔内。それはつまり、皇帝の手のものは自由に出入りできたということか?

それが…それがアンジェリークにした、口にもできぬ、思い出すのも、辛く恐ろしい仕打ちとは…怖く辛く痛いことなのに、しかし、目だった傷は残さないような酷い仕打ちとは…

食物を受けつけなくなるほどショックで、思い出すだけで胸が抉られるように辛い仕打ちとは…他人に知られること自体が辛くて仕方ないような、その仕打ちとは…

まさか…まさか…

その時、ジュリアスの頭の内で、戦争、オスカー、アンジェリークの精神の不安定さ、このどうしても結びつかなった3つの事象がはっきりと一つの線で繋がった。

同時に彼女が時折見せる崩折れそうな脆さ、危うさがジュリアスの脳裏に去来した。

ジュリアスの体がぐらりと傾いだ。

冷え切ったエスプレッソのカップがその拍子に机上から落ち、派手な音を立てて砕け散った。床にエスプレッソの黒々とした沁みが広がった。あたかも今のジュリアスの心のように、底無しの冷たさ暗さだった。

 

「ねえ、ロザリア、ジュリアスは忙しいのかしら?」

「ジュリアスに何かご用ですか?陛下。」

「あ、ううん、用ってほどじゃないんだけど、昨日は顔を見せてくれなかったから忙しいのかなって…」

なんとなく拗ねた子供のような様子でアンジェリークはロザリアに尋ねた。

昨日までアンジェリークの周囲にあった、きんと張り詰めた弦のような緊張感が若干薄らいでいることにロザリアは安堵していた。心の底から気の抜けることなど有得ない今の状況では、気を休められる時はできる限り休めてほしいとロザリアは願っていた。昨日警備に来たヴィクトールに対し『仕事には緩急が必要だ』と説いたのは、その場にいたアンジェリークにも聞かせたくて言ったセリフだった。ここ数日…そう、人事不省から回復してからも何か張り詰めた感が抜けないアンジェリークの様子を、ロザリアは大層憂慮していた。それが今日はかなり薄らいでいたのだ。昨日外出したのがいい気晴らしになったのだろう。

『それでも、この方がいらした方がアンジェリークはもっと落ちつくだろうし喜ぶと思うわ』

そう思って、昨日は姿を見せなかったジュリアスに連絡をとってみたのだが…

「実は私、今朝ヴィジフォンで…いえ、音声だけだったんですが、今日は参内の予定はございます?とジュリアスに伺ってみたのです。でも、どうも仕事が忙しいらしくて今日は顔を出せないかもしれないとおっしゃってましたわ。あの方にしては、なんだか疲れたようなお声でしたわ…」

「そう…私が倒れたせいで、ジュリアス、心配してずっと宮殿にいてくれたものね…だからきっと…忙しくても仕方ないわね…」

「私も、陛下が寂しがりますから、なるべくなら参内なさってくださいって申し上げたんですが…」

「や…やだ、ロザリアったら、何言ってるの!」

心なし頬を染めたアンジェリークに、ロザリアはにっこりと微笑みかけ

「それでジュリアスには及ばないかもしれませんけど、一応陛下のお心晴らしに役に立ちそうな人間を呼んでおきましたわ。」

「言ってくれるじゃない?麗しの補佐官どの?」

「まあ、オリヴィエ!」

大きなバニティケースを持って宮殿に現れたのはオリヴィエだった。

「難しい顔して、四六時中側にいることだけが、陛下をお慰めすることじゃないんだよ、補佐官殿?ま、ジュリアスなら仕事に精励するほうが詰まる所は最も陛下の御為になるのだ、とか言いそうだけどね。は〜い、陛下、ご機嫌いかが?そろそろハンドケアの頃合だと思って来たよ。今日はお手入れする時間ある?あるよね?も・ち・ろ・ん!」

「ふふ、オリヴィエ、来てくれてうれしいわ。」

『んん〜、思っていたより顔色はいいみたいだね…ロザリアが何か思いつめてるみたいで心配なんていうから、どんな感じか様子見ようと思ってたけど…』

ロザリアから、緊張の抜けないアンジェリークをどうにかして寛がせてやって欲しいと頼まれて、オリヴィエは様子を見にきたのだった。

「さ、陛下、今日のマニキュアはどんな色にする?模様は何がいい?今からパラフィンパックしてオイルでマッサージして手をほぐしてあげるから、その間に考えておいてね。」

「ありがと、オリヴィエ。オリヴィエにお手入れしてもらうととっても気持ちよくて嬉しいんだけど、いつもしてもらってばかりで悪いみたい。」

「私はね、女の子が綺麗になるお手伝いができることが嬉しいのさ、だから、私を少しばかり喜ばせてくれるかな?陛下。」

「じゃ、私は自分の部屋にいますから、何かあったら呼んでくださいね。」

「陛下のお手入れが終わったら、あんたの所にも行くからそれまでに仕事終わらせておいてよね、補佐官どの?」

「ほほほ、誰に向ってものをいってらっしゃるのかしら?まさかこの優秀な補佐官に…じゃございませんわよね?」

「これは失礼つかまつりました!」

優雅に一礼するオリヴィエを横目に、ロザリアは退出がてらアンジェリークに小声で話しかけていった。

『アンジェリーク、いい?オリヴィエに徹底的に凝りをほぐしてもらいなさい。ちょっと固くなってる気持ちもね?』

アンジェリークは一瞬びっくりしたような顔をしてから

「ありがと、ロザリア…」

と言って微笑んだ。

 

オリヴィエがアンジェリークの指にオイルを馴染ませては一本一本丁寧に揉みほぐす。アロマオイルの馥郁とした香りに思わず眠気を誘われそうになる。

片方の手は溶かして薄めた蜜蝋につけられたうえで、今は厚手のビニールに包まれて蒸されているような状態だった。

「オリヴィエってほんとにマッサージが上手ねぇ…このままエスティシャンになれそう…」

「ふふ。気持ちいい?」

「ええ、とっても」

「気持ちいいだけじゃないよ、終わったら陛下のかわいいお手手はつるつるのぴかぴかになってるからね、楽しみにしておいで。」

「オリヴィエはどこで、こういうお手入れを覚えたの?」

「ん?ま、見様見真似ってやつなんだけどね。私、昔モデルやってたことあるから、その頃はまあ、見た目に気を配るのも仕事の内だったから、お手入れは必要経費みたいなものでね。よく受けてたから。でも、ここにはサロンなんてないじゃない?自分の美しさのレベルを維持しようと思ったら自分でするしかない!って思ってね。幸いここは、お手入れの材料だけは最高の天然物がふんだんにあるしね。花から精製されるオイルも、この蜜蝋も…」

「ふふ…じゃ、ここでオリヴィエがエステサロンでも開いたらものすごく流行るんじゃないかしら?」

「ま、オーナーの美しさを見れば、効果の程は一目瞭然だしね。」

二人はくすくすと笑いあった。アンジェリークはオリヴィエを呼んでくれたロザリアの気持ちも、オリヴィエ自身の気持ちもありがたく、嬉しく、心が温かくなった。

「ええ、ほんとに素敵だと思うわ、オリヴィエがそんなサロンを開いてくれたら、私かよいつめちゃうかも。」

「しかも上客がこんなにかわいくて綺麗だったら余計に評判になっちゃうね。ただ…そうだねえ、女性が綺麗になるお手伝いもいいけど、私は服作りも好きなんだよねぇ。どっちも捨て難いな。」

「じゃ、ブティックとサロンと両方開けばいいわ、オリヴィエ。オリヴィエのサロンで綺麗にしてもらってからオリヴィエブランドの服でおしゃれするの。」

「あはは、確かにそれはいいわ、トータルビューティコンサルタントね。確かに私にぴったりかも。陛下、ありがと、私の将来にいいアイデアくれて。」

「ねえ、オリヴィエはモデルをしてたって言ったでしょ?聖地にくる時は、やっぱりそれを諦めてきたの?」

「諦めてなんていないさ。私は何もね。」

「え?」

「聖地に来た時は実はもうモデルを辞めて、私は小さいけど自分のお店を開いたところだったんだ。私が守護聖になったのは結構年がいってからだったからね。だからね、ほんと言っちゃうと、それを閉めて聖地に行かなくちゃならないのは結構きついもんがあった…なんで、いきなり私が自分の夢諦めなくちゃいけないのさってね。あ、これ、ジュリアスには内緒ね。でもね、どうせ行かなくちゃならないなら…視点を変えることにしたんだ。」

アンジェリークは真剣な面持ちでオリヴィエの話を聞いている。

「私は夢を諦めるんじゃない。一時停止、先送り、ちょっと回り道、ま、なんでもいいけどそう思うことにした。だって一生守護聖するわけじゃない。いつかは退任するんだし。それからだって遅くないじゃない?夢を実現させるのにもう遅いなんてことはないんだよ。さあやろうって思った時が、夢を実現させる時なんだよ、それに夢の守護聖が自分の夢捨てちゃったらしゃれにならないじゃなーい?幸い守護聖ってやつは時間だけはたっぷりあるからいろいろな勉強もできる。終生暮らしも保証されるから、今から資産運用しておけば開店資金にも困らないわけよ。在任中に自分の夢の準備ができるって思ったら腹も立たなくなったよ。むしろよかったじゃんってね。」

「オリヴィエ…」

「そういう陛下はどう?何か夢はある?おっと、この大陸と民を救って聖地に帰って…っていう公式見解じゃないよ。アンジェリークという一人の女の子として退任したら何がしたいって…」

アンジェリークは、はっとしたような顔をしてから、居心地悪そうにもじもじした。

「あのね、恥かしいけど…オリヴィエみたいにちゃんとした将来って考えた事なかったかもしれない…なんていうか、毎日過ごすだけで精一杯で…」

「ん、いいんだよ、焦らなくて。無理もないさ。陛下は学生からいきなり女王になっちゃったからね。」

しかも、戴冠直後から、次から次へとちょっと事件が起こりすぎだよ、この子の治世は…この小さい肩で新宇宙誕生のフォローだ、戦争だ、おまけにこんな世界にいきなり飛ばされて、訳もわかんないのに助けてくれっていわれてサクリアを目一杯放出して…それでも元の世界に帰れるかどうかもわからなくて…それでも、この子はいつも一生懸命で…いっつも自分のことより周りのこと考えて…

「あ、でもね…すっごくありきたりで、漠然としてるけど…あのね、好きな人と…大切な人といつまでも仲良く一緒にいられたらいいなって…そんなことは思ってるの…」

ほんのりと頬を染めて夢見る様に語る様子は掛け値なしに17才の可憐な少女そのものだった。

「ふふ、それでいいじゃない?それって女の子にとって最高の夢だもん。こんなにがんばってる陛下だもの、きっと神様も少しは後押ししてくれるんじゃないかな?こうして自分磨きにも余念がないしね。」

「そっかな…そんな夢でもいいのかな…私、そんな夢を見てもいいのかな…」

申し訳なさそうに夢を語るアンジェリークが、オリヴィエは不憫でならなかった。17才の少女としてなら当たり前の夢が今の彼女には何よりも贅沢なものなのだ。女王に就いたことで、この子はいったい何をあきらめたんだろう…私の夢なんていうのは、時期さえくればいつでも再出発できるものだ。でも、人の心が相手の場合は…聖地と外界のように時間軸の流れが異なる世界とで大切な人と切り離されたりしてしまったら…努力だけではどうにもならない夢というのは確かにあるのだ。でも、だからこそ、運や偶然を願う夢というのものがなくては人は生きてはいけない。

「あったりまえじゃない!夢の価値なんて、周囲が決めるもんじゃないんだよ。えらい夢やえらくない夢なんてないんだよ。夢ってさ、人が生きていくための力じゃない?希望っていってもいいよね?明日も生きていこうって思えるならそれはなんだっていいんだよ。例えば…またあのお店のケーキが食べたい!とかだっていいんだよ。私は今とりあえず、自分じゃ手の届かない背中のケア受けたいから、やっぱり聖地と主星にかえりたいね〜とか、周囲からみたら、くっだらないことでも、その当人に「やるぞ!」ってエネルギーが湧いてくることならそれでOKなんだよ。」

「ありがと、オリヴィエ…私の夢なんて、全然女王らしくないし、なんていうか平凡な夢なのに…」

「女王である前に女の子でしょ?女王じゃなくなっても女の子でしょ?じゃ、女の子としての夢のほうが優先で当然じゃないの。女の子の夢に平凡なものなんてないさ。皆輝きの違う宝石みたいなもので、その価値を決めるのは他人じゃない。自分だよ。陛下の夢はそれでいいんだよ、陛下。ま、女の子らしい夢だし確かに漠然とはしてるけど…でも、そういう類の夢なら、ここにいる間にオーロラが出るといいね。陛下ならきっと夢を叶えられると思うけど、オーロラに願いをかけたら夢がもっと確実になるかもね。私も無事に聖地に帰れるなら、神頼みならぬオーロラ頼みでもなんでもしたい気分だしね。」

「オーロラ?オーロラって何の事?」

「あ、陛下は誰からも聞いてない?私が住人から聞いた話によると、このアルカディアがもともとあったところでは、季節によってオーロラが見えることがあったらしいんだ。で、見える事は確かに見えるんだけど、めずらしいからこそ、一種の伝説が生まれた訳よ。オーロラは守護天使の与える祝福の証でオーロラに願いをかけるとそれが叶うとか、あとオーロラを一緒に見たもの同士は、天使の加護をうけて生涯固い絆で結ばれるとか…流れ星に3回願い事をかけるみたいなものじゃないかな?で、実際にオーロラが出なくてもオーロラの季節には、オーロラの出現を願う夜想祭ってお祭りがあったんだってさ。私が思うに、もともとこれはいわば祈願のためのお祭りだったんじゃないかな。私はいろいろな惑星の祝祭に呼ばれることが多いけど、お祭りって大体大別して二種類あるんだよね。豊作とか一年の無事を祈るためのお祭りと、収穫やその一年無事に過ごせた事に感謝を示すお祭りとね。この前陛下が雪を降らせて行った雪祈祭は、守護天使に感謝するいわば感謝祭だったわけよ。でもって、この世界の祈願のための祭がどうやらそのオーロラに祈る夜想祭らしいんだよね。ただの言い伝えっていったらそれまでだけど、そういうのってなんかいいよね…特に今は、皆元の世界に戻りたいってお願いは切実だろうから、ここでオーロラに祈願でもできたら、気休めっちゃー身も蓋もないけど、心がおちつくっていうか精神的に安定するっていうか…特に、この土地の恋人同士や夫婦なら余計にオーロラをみたいだろうねぇ。一緒にオーロラを見られれば何があっても二人で乗り越えようって勇気が湧いてくるだろうからねぇ。」

「…………オリヴィエ。オーロラってどうしてできるの?」

「へ?そういや、どうしてできるんだろ…私に聞かれてもそりゃ管轄外ってやつよ。」

「じゃ、じゃ、誰に聞けばわかると思う?ルヴァ?」

「うーん、ルヴァは確かに物知りだけど、やつの知識ってどっちかっていうと人文系じゃないかな。そういう自然科学方面に詳しいってなると…エルンストの方がいいかもよ?」

「じゃ、エルンストを呼んで!エルンストにオーロラのことを聞きたいの!」

「わったった!陛下、マニキュアしてるんだから動いちゃだめでしょ!」

「あ、ごめんなさい…」

「まず自分から動いちゃおうとする所はほんとにかわんないね。でも、こう言う時のために陛下には補佐官がいるでしょ?」

オリヴィエがロザリアを呼び、そのロザリアはアンジェリークがエルンストに教えてもらいたいことがある旨を伝えた。もっとも業務に関することではなく、女王が私的に教えを乞いたいことなので、執務に手すきの時間ができたときでいいのだが…ということもきちんと付け加えておいた。

「いったいエルンストに何を聞きたいんですの?陛下は…」

「あのね、オーロラのこと…オーロラってどうしてできるか、ロザリアは知ってる?」

「オーロラですか?いえ…何か太陽が関係していることくらいしか存じ上げてませんけど、いったいなんで今オーロラなんですの?」

「あのね…思いつきなんだけど…」

と話そうとしたところにエルンストが参内してきた。この地の維持に全力を傾けている敬愛する女王の招聘があったと聞いて、エルンストは自分で力になれることがあるのならと早速にやってきたのだった。

「陛下、私にお尋ねしたいこととはいったい何でしょう?」

「あのね、エルンスト…オーロラってどうしてできるの?それを教えてもらいたいの。」

「オーロラ…ですか?」

エルンストは訝しがりながらも自分の知識の詰まった引出しを探ってみる。

「オーロラとは活発な太陽活動の結果放出された荷電粒子が惑星上のいろいろな原子や分子に衝突しておこる発光現象です。荷電粒子自体は常に宇宙空間に放出されていますが、それがオーロラという形で肉眼視できるかどうかは、地磁気の乱れや歪みがあるか、またその程度によります。地磁気が乱れているほうがいわばその粒子が乱反射しやすくなるから、目に見えやすくなるわけです。あと、もちろん、フレア爆発などで太陽の活動が活発であることも条件のひとつです。いわば、原料は豊富なほうが見えやすいということです。」

「この大陸の側にも太陽があるわよね?見えてるだけでその宇宙にはいけないけど、確かに光りは届いてるってことは、そのなんとか粒子もきっとこの大陸の周りに届いているわよね?」

「はい、恐らくは…」

アンジェリークが興奮した様子でエルンストに尋ねた。

「じゃ…じゃ、私が故意にバリアを綺麗な球形にしなければ、このアルカディアでもオーロラが見えるかしら?太陽から飛んでくるその粒子を私の力で乱反射させてオーロラを作ることはできるかしら?」

「あえてバリアの形状を歪ませ荷電粒子を乱反射させるのですか?できなくはないと思いますが…なぜ、そのような非効率的な真似をしなくてはならないのです、陛下。陛下のお力をそのような無駄な行為に費やすべきではないと私は思いますが?なぜ、わざわざオーロラを発生させなくてはならないのです?」

「そ、それは、その…あの…」

「あー、あのね、エルンスト、私が陛下にこのアルカディアにはオーロラを天使の加護ってみなす伝説とお祭りがあるって教えちゃったからなんだよ。なんでも、オーロラに願いをかけるとその願いが叶うって言い伝えがあるんだって。今大陸の民は霊震の影響でちょっと動揺してるじゃない?それで陛下がオーロラを発生させて、無事に元いた世界に帰れます様にって民が願掛けできる機会を作ってあげれば、人心も安定するんじゃないかって考えてくださったわけよ。」

オリヴィエが助け舟を出す様にその場の会話にわってはいった。

「なるほど、そういうことでしたか…」

エルンストがふむ…といった面持ちで考えこんでいる。オリヴィエがこっそりアンジェリークにウインクをよこした。アンジェリークはほっとした顔で目線で謝意を伝えた。

「そういうことであれば研究院としても協力は惜しみません。オーロラの発生条件には活発な太陽活動が欠かせませんので、太陽の観察を行い荷電粒子の発生が多いと思われる日時を陛下にお伝え致しましょう。その時を狙って陛下が敢えてバリアの形状を崩してくださればオーロラをつくることが可能かと思われます。」

「エルンスト、ありがとう。忙しいのに無理いってごめんなさいね。」

「いえ、では私はこれで…」

有能なテクノクラートらしく、用件が終わるとエルンストはさっと退出していった。

「オリヴィエ、ありがと。」

アンジェリークが小声で礼を言った。

「ふふ、なんのことかな?陛下の願掛けもできる、みんなの願掛けもできる、それで、みんな希望が持てる、夢を叶えようっていう力が湧いてくる。心が元気になれる。そんないいことに夢の守護聖が協力しないわけないでしょ?」

「あのね、無理やり作ったオーロラでも効果はあると思う?」

「オーロラはオーロラだもの。ばっちりOKだよ、きっと。」

「民にはいいことを思いつかれたと思いますが…陛下。でも、絶対に無理は禁物ですわよ?いいですね!もし少しでもお体に負担が見えたらこの計画は即刻中止ですからね。」

「平気、いつもより多く力を出すとかそう言う訳じゃないし…それに、私がしたいの。どうしてもやってみたいの。ね、だから、お願い。私にやらせて?」

「あなたにそう言われたら、私が敵わないってわかってて言ってません?陛下。」

やれやれといった顔でロザリアが首を横にふってこれ見よがしの溜息をつく。

「はいはい〜、じゃ、陛下のお守で心労の耐えない補佐官殿に今度はマッサージしてあげる。陛下のお手てはもう艶々ぴかぴかにしておいたから。さ、あんたのお部屋にいこいこ!」

「ちょっちょっと、オリヴィエ、何なさるの!そんなに押さなくても参りますわよ、まったくもう…。じゃ、陛下向こうにいますから、また何かあったら呼んでくださいね。」

「わかったわ。」

「あ、そうそう、陛下がマニキュアしている間にオスカーから連絡が入りましたわ。今夜の陛下の警備を担当いたしますからって…。オスカーがここにくるのは久しぶりですわね。」

「オスカーが?オスカーが宮殿に来られるって言ってきたの?」

「ええ、夕方陛下の許に顔を出しますと…」

「ロザリア、その時はぜひオスカーを夕食に誘って。いつも帰ってしまうけど、ヴィクトールもジュリアスも警護に詰めて行く時は食事して宮殿に泊まっていくのだから、あなたも遠慮しないでって。絶対に、絶対に誘って?」

「ほ!陛下の警護にはそんな役得があったわけ?オスカーが誰にもやらせたがらないわけだ、そりゃ。そんな役得があるんなら、私も護衛のローテーションにくみこんでもらわなくちゃね!」

「オスカーは、いつも陛下のお誘いを固辞なさってましたわ。あくまで自分は騎士で臣下だからって遠慮なさって…お誘いはあくまで陛下のお優しいお気持ちから出たものであって既得権益じゃございませんのよ、オリヴィエ…それに、あなた、陛下をお守りする腕っ節に自信がおありなの?」

「愚問でした、私のこの繊細な細腕は単独戦闘には向いてません、確かにね。そのかわり、人をリラックスさせることにかけては自信があるよ。」

「なら、こうして、直接私や陛下のお手をとれることを役得だと思いなさい、よろしくて?」

「確かに…これ以上はないというほど貴重な役得でした。では、いざ、その役得を得させていただいてよろしいでしょうか、補佐官殿?」

「はいはい、じゃ、オスカーが万が一陛下の所じゃなく、私の所にいらしたら、陛下のお言葉をお伝えしておきますわね。」

「ええ、よろしくね、ロザリア。」

ロザリアとオリヴィエが出て行くと、アンジェリークはほうと息をついて、ソファに腰掛けた。艶やかに磨かれた掌にぽつりと涙が一つ零れておちた。

「あれ?やだ、私ったらなんで…」

そう自分で言った途端、涙がまた零れた。

アンジェリークの胸中にじわじわと安堵と喜びが込み上げてきた。オスカー、オスカーが夜来てくれるといった。薬草がきっと効いたのだ。警備に万全を期したいから宮殿に来なかったオスカーが今夜来れるといったということは…少なくとも警備できるくらい体が回復したということだ。

よかった…せめて、体だけでもよくなってくれて本当によかった…少しでも償う事ができてよかった…

それに…オスカーと顔を合わせることには照れもあったが、もう、オスカーには何も隠さなくていいのだ。しかも、自分一人で迷路のような思考をしなくていいのだと思うことはアンジェリークに今までにない心の安らぎをもたらしてくれていた。

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