汝が魂魄は黄金の如し 18

久方ぶりにオスカーが宮殿の警備に参内しアンジェリークに挨拶をしにきた際に、アンジェリークは是非にと、食事とそのまま宮殿に滞在することをオスカーに勧めた。

この誘いはオスカーに限ったことではなく、アンジェリークの警護についてくれる者に対しては誰彼の区別なくなされる誘いではあったが、オスカーは常に頑なとも言える態度で必ずこの誘いを固辞していたので、いつしかアンジェリークも口に出さなくなっていたものだった。

しかし、今回、久方ぶりの招待にオスカーは拍子抜けするほどあっさりとその招きを受け入れ…ロザリアが覚えている限り、初めてのことだった…その晩はアンジェリーク、ロザリア、オスカーの3人で食卓を囲む運びとなった。

その食卓でロザリアはつい最近までオスカーとアンジェリークの間にあった、なにか張り詰めたような緊張感が幾分和らいでいるような気がした。

少し前までのアンジェリークはオスカーが側にいるときはまるで沈黙を恐怖するかのように脅迫的に饒舌になったり、明かに作為的な朗らかさを見せるような部分があって、その不自然さにロザリアは首を傾げた事が1度や2度ではない。

アンジェリークは基本的に朗らかで快活な性格だ。無理にはしゃぐような振る舞いをみせずともその心象は自然と周囲を明るく和やかにさせる天与の才がある。なのに、オスカーを前にするとその態度は妙に儀礼的なものとなるか、逆に無理に演出したような親しみを見せることがあって、ロザリアはそれをかなり不可解に思っていたのだ。

また、オスカーは豪胆な印象とは裏腹に繊細な神経の持ち主なので、アンジェリークの態度になにか不自然さを感じとっていたのだろう。口先だけの招きなら無用とばかりに招待を固辞する態度の頑なさもロザリアの懸念事になっていた。女王の身辺警護の責任者と警護される本人が不仲などということになっては、いざ有事がおきた時、意志疎通の齟齬からどんな行き違いがおきるかしれたものではない。守るものと、守られるものの間に揺るぎ無い信頼関係なくして、護衛の効果があがろうはずがないからだ。

だが、本人たち同士がお互いを避けているとか、あからさまに反感を抱いている様子は微塵もなく、だからこそ表だっては「オスカーと何かあったの?」と聞くに聞けないもどかしさをロザリアはずっと胸中に抱えていたのだ。

しかし、今夜食卓を囲んでみて、ロザリアは自分の抱いていた懸念が杞憂であったかと感じ、安堵した。

アンジェリークは言葉こそ少なく、何やら恥らう様子を随所に感じさせはしたが、無闇に賑やかに振舞おうとするような不自然な所作もなく、極めて自然体でオスカーに接していた。もちろんジュリアスに見せるような無意識のうちに滲みだす甘さを湛えた親密さには及ばなかったものの、十分に親しげな態度を見せていた。

オスカーはオスカーで、女王直属の近衛として分をわきまえた控え目な態度を崩さぬうちにも、アンジェリークの身辺には何もよせつけはせぬとでもいうような確固とした信念を静かに漲らせている。それでいて動作に気負いや力みは欠片も感じさせていない。その余裕は自らの能力や信念に自信がある故であろう。

2人の様子はまさに騎士と、その騎士の力を信頼しきっている貴婦人さながらであり、ロザリアは2人の間に漂う信頼感のようなものを感じとり、今までの自分の懸念が勘違いであったらしいことに安心した。

 

オスカーはこのようにアンジェリークやロザリアと静かだが飾らない気持ちで食事をともに取れる日がくるとはつい昨日まで思ってもいなかった。

オスカーが今までアンジェリークの…女王としての彼女の招待を固辞していたのは、自分が真には招かれざる客であると薄々感じていたからでもあるが、自分の存在がアンジェリークの心を波立たせるだけだと知っていたからに他ならない。

しかし、今は自分自身が彼女の動揺の原因ではない事がわかっている。自分を遠ざけないでほしいと懇願し、彼女の心の痛みを少しでも軽減するために何かさせてもらえないかと提言し、それを受け入れてももらえている。警護につくとき宮殿に寝泊りできる時間を利用すれば他人に聴かれたくない会話を交すのにこれほどいい機会は他にないのだから、オスカーには、もうアンジェリークの誘いを断る理由は微塵もなかった。

アンジェリークに自分の体はもうほぼ完璧に復調していることもきちんと報告しておきたい…しかし、深夜に彼女を訪れるのはやはり無用に怯えさせてしまうことにならないだろうか。それに人目にたってあらぬ誤解を受けるのも好ましくない…等と考えながらカトラリーを置こうとしたときだった。

アンジェリークが食後のコーヒーを手で遠慮する仕草をみせながら、オスカーに話しかけてきた。

「オスカー、天然のいいシナモンスティックを街の人が持ってきてくれてあるの。よかったら食後のコーヒーの替りにカプチーノをご馳走したいんだけど、私の部屋に寄っていってくれないかしら?オスカーに及第点をもらえれば誰に出しても恥かしくないかと思って…」

「それは光栄ですが…よろしいのですか?俺などの見立てで…」

アンジェリークからの申し出は、敢えて自室で話たいことがあるということに相違あるまい。ロザリアのいる場で故意にこの話題を出したということは、自分たちの話合いを見咎められた時に対する牽制か?とオスカーは思惟を巡らせる。しかし、これは長時間あまり込み入った話はできないということでもある。

ロザリアは給仕に勧められるままにコーヒーを喫していた。

「オスカーだからこそ、よろしいのではなくて?私はオスカーの合格が出たものだけ賞味させていただきますから、どうぞごゆっくりお過ごしになるといいですわ。」

冗談めかしてロザリアがアンジェリークの誘いを受けるようにオスカーの背中を後押しした。二人で何か話しあいたい事があるのなら、遠慮は無用との意味合いをこめて。アンジェリークから請われなければ無理やり会話に加わる気も、会話の内容を詮索する気もない、と言外に伝えたつもりだった。

今まで頑なに招待を拒んでいたオスカーも、オスカーを誘うときに、何か無理を感じさせていたアンジェリークにも今夜は気負いや緊張や気詰まりな様子がまったくないことをロザリアは見てとっている。

アンジェリークとオスカーの間には、何か心の蟠りのようなものが実際に存在していたのかもしれない。しかし、それが今は解けたというなら、いや、これを機に解きたいというなら、それに越した事はない。むしろそのほうがいいじゃないの…ロザリアはそう思う。2人で何かゆっくり話たいことがあるのならそれを邪魔立てや干渉する気などロザリアにはないし、何より、オスカーがアンジェリークの身近にいるということは、彼女の身の安全を完璧に信じられることでもあった。

その心構えも能力も、女王の騎士としてオスカーほど信頼のおける人物はいないとロザリアは冷静に評価していたから。

 

オスカーが自然にエスコートする形でアンジェリークは自室に戻った。

シナモンスティックが手に入ったというのは単なる口実ではない。このアルカディアでは、オリヴィエも言っていたとおリ天然のいいスパイスや香草類が潤沢に手にはいり、また、住民たちが好んであれこれと宮殿に届けてくれる。

「オスカー、そこにかけていて?」

アンジェリークは自室の客間に相当する部屋でオスカーに椅子を勧めるとカプチーノを抽れはじめた。コーヒーに手早くホイップクリームを載せ、オレンジの表皮部分を香り付けに落とした上でシナモンスティックを添えた。

「どうぞ…お口にあうといいけど…」

「恐れ入ります…」

オスカーは優雅な仕草でカップに口をつけたうえで、懐かしそうに語った。

「以前も…陛下は俺が部屋を訪ねるとカプチーノを抽れてくださいましたね…その時も陛下のお心遣いが嬉しいものでしたが、当時に比しても格段に味が本格的になってますよ。」

「それは多分材料がいいからよ…でも、よかったわ、オスカーの口にあって…」

アンジェリークがほっとしたように自分もオスカーの向いに腰掛けた。

「この前、私においしいミルクをご馳走してくれたお礼がしたかったの…」

「陛下…」

「オスカー…今夜、警護に来てくれたっていうことは…その…体のほうはもう…」

「陛下のおかげです。もう、まったく問題ありません。ご心配をおかけいたしました。」

「よかった…あんなものでも…少しは役にたったのね…お詫び替りになったのかしら…」

「私の方こそ、薬草が自生していることに自分で気付くべきことでした。そうすれば陛下に無用な心配をおかけせずにすみましたものを…」

実際、世辞ではなくオスカーの体調はほぼ完璧に復調していた。昨晩帰宅してすぐに鎮痛と消炎効果のある薬草を併用したおかげであろう。まる一日たった現在、薬効で疼痛はほぼ解消していた。もっともまだ胸部全体に痣は残っていたが…

アンジェリークはあからさまにほっとした表情を見せてから、

「オスカー…あの…」

何か言おうとして躊躇いがちに瞳を伏せた。

「なんでしょう、陛下…」

オスカーがビロードのような声音で先を促す。怖れさせないように、重圧を与えないように、でも、彼女が言いたいことを言いやすいようにと…

「私…あの…その…改めていうのは…なんだか照れくさいというか、恥かしいのだけど…」

オスカーがふ…と軽く笑った。

「陛下が今でも窓を出入り口になさっていることですか?ご心配なさらなくても誰にも申したリはいたしておりませんよ?陛下がどうやって窓を乗り越えたか想像することも自粛していますからご安心を。」

「んもう!オスカーったら!」

アンジェリークはムキになりかけたおかげで、緊張が解れ、笑う事ができた。昔からオスカーはこうだった。オスカーが自分をからかうのは、強張った心をほぐそうとするからで…しかも、それをあからさまに気取らせまいとするからで…子供だった私はいっつも、オスカーのこのふざけたような口調が、不真面目に思えて腹をたてたりしてしまって…オスカーの優しい気持ちも気付かなくて…本当にどうしようもなく子供だったわ…だから、私はいつまでたっても『お嬢ちゃん』だったのよね…でも、今はオスカーの想いがわかるから…わかるからこそ、私もその誠意に応えたいって思うの…

アンジェリークが大きく息を吸いこんで、真剣に、しかし、固さは感じさせない表情で訥々と語り始めた。

「オスカー、改めて御礼をいいたいの。ありがとう。敢えて私に厳しい事を言ってくれて。私が後で辛い思いをしないですむように心配してくれて…それがわかったから…私も自分なりに考えてみたの…私、自分はどうしたいんだろう、どうするのがいいんだろうって…それで、何度も考えてみたのだけど…正直言うとジュリアスに打明けられるかどうかはまだわからない。自信がないの。でも、ジュリアスにこれ以上心配をかけたくないの。ジュリアスには、私を心配してこれ以上心を痛めないでほしいの…」

アンジェリークはオリヴィエに『夢』を尋ねられたとき、はっと、とむねをつかれた思いだった。そして改めて考えたのだ。自分にとって何が「明日も生きていこう」って思えるエネルギーなのだろうと。

オリヴィエに言ったように、遠い将来まで見据えた視野の広さは正直言ってなかったと思う。自分は、できる限りジュリアスと同じ時間を過ごせるように、ジュリアスとの愛を大切にしていけるように、それだけを考えて、それだけを望んでずっと日々を過ごしてきた。それだけで精一杯だった。一度は失う事も覚悟した命と愛だったからこそ、その思いは尚更強く切実なものとなっている。愛も命も掛け替えがない。そして、必ず終わりがくる。それを自分は痛感している。とてつもなく辛い経験と引き換えに、その大切さを、そのいとおしさを思い知っている。だからこそ、ジュリアスと供に歩める日々を力の限り大切に愛しんで育みたいと思ったのだ。どんな対価を払おうと、二人で生き延びられる可能性があるのなら、それに賭け全力でとりくもうと思ったのだ。

なのに…実際の今の私はどう?アンジェリークは自嘲にも似た思いで自問する。ジュリアスとの関係を大事にしているっていえるの?ジュリアスを心配させている、悩ませている、それがわかっているのに、何もしていないじゃないの。ジュリアスに暖めてもらって、慰めてもらっているくせに、そのジュリアスは私のことでいろいろ心を痛めているのがわかっているのに、私は、そのジュリアスに何をしてあげてるの?自分は甘えているだけで、彼を不安にさせているばかりじゃないの…彼の不安がわかっているのに、それを解くことができないでいるじゃないの…

こんな私が…今ジュリアスとの関係を大切にしていない私が、ジュリアスとの幸せな明日を掴めると思うの?現在を疎かにして、幸せな明日や明るい明日が来ると思うの?『夢』を実現させる努力をしてるって言えるの?

ジュリアスと一緒にいたいっていうのは、ただ、側にいればいいってことじゃない。私も、ジュリアスも、二人で一緒にいて、心が温かく満たされる、そういう状態でなくて何の意味があるの?なのに、今の私はジュリアスを全然暖かくしてあげられてない。心配させてるだけ。悩ませてるだけ。一番大切な人なのに…一番私のことを大切にしてくれてる人なのに…ジュリアスと一緒にいたいと思ったのは、自分が一方的にジュリアスに暖めてもらいたいからじゃない。自分もジュリアスを暖かい気持ちにさせてあげられたらと思ったからなのに…

だから…せめてジュリアスにこれ以上心配だけはかけたくない。ジュリアスにこれ以上不安を感じさせたくないの。私がもっと心から笑える時間が多くなれば、きっとジュリアスも柔らかな気持ちになれる時間が増えると思うの、そうしたらジュリアスの不安も少しは減ると思うの…そう思うのは…自惚れかしら…でも、きっとそうだと思うの。

そのためにはどうするのがいいか、アンジェリークは懸命に考えてみた。

一人だったら、考えられなかったかもしれない。考える勇気も気力も生まれなかったかもしれない…考えたとしても、心が退く方向に…オスカーを避け、ランディを避け、誰にも会わずに閉じこもる方向に目が向いてしまっていたかもしれない。

でも、オスカーが…いっしょに考えてくれるって言ってくれたから…そう、思うだけで勇気が沸いてきた。一人じゃないんだと思うことが、これほどの力をくれることとは思ってもみないことだった…

「ジュリアス様にこれ以上心配をかけたくないという陛下のお気持ちは当然ですし、俺もそのほうがいいと思います。しかし、今のジュリアス様に、口でただ『心配しないでくれ』と言っても納得していただけるものではないでしょう。陛下は実際に何かに悩んでいらっしゃるのがありありとわかる上に、ジュリアス様には、その理由がどうにもわからないのですから。」

オスカーの静かな言葉がアンジェリークの思考を中断した。

だから昨晩オスカーは、ジュリアスには真実を告げたほうがいいとアンジェリークに言ったのだ。アンジェリークはその意味を今は十全に理解している。ジュリアスは、アンジェリークに懊悩があることは見ていて明かなのに、その理由がわからず、理由がわからないから手助けもできないでいるもどかしさが心痛となっている。自分は信頼されていないとも思っているのかもしれない。それがジュリアスの心を苦しめ迷宮に入りこませているのだろうことをアンジェリークは感じている。そして真実を告げれば、ジュリアスの心は少なくとも迷宮から解放されるのは確かなのだ。真実を知れば知ったで、それに伴い新たな苦悩は産まれることだろう。それでも、天秤にかければ、悩みの原因がわかることのほうが、ジュリアスにとっては良い結果をもたらすとオスカーは判断しているのだ。でも、やはりアンジェリークはこれ以上ジュリアスに新たな苦悩や心痛をかけたくはなかった。

アンジェリークは静かに頷きながらオスカーに応える。

「ええ…そうなの…ジュリアスが私を心配するのは、私が…私がどうしようもなく不安定だから…突然泣き出したり、ヒステリックになったり、昏倒してしまったり…おかしな振る舞いをしてしまうことが多いから…これで心配するなって言っても無理なことはわかるわ…」

ここで、アンジェリークは顔をあげてオスカーに救いを求めるような視線を投げた。

「でも、でもね…私、考えてみたの。逆にいえば、私がそういう振る舞いを減らすことができれば、ジュリアスの心配の種も減るんじゃないかしら?私が精神的に落ちつけば、ジュリアスが私のことで無闇に心を痛めたり悩んだりしなくてすむのではないかしら?私が動揺するのは…治りかけの傷に触れられると痛むから暴れるようなものだって…オスカーに言われてみて、私、ああ、そうかって…あなたの言うとおリだって、始めてわかったのよ…怪我している所を不意に触られたら、思わず乱暴にその手を払いのけたくなるようなもの…その人にも自分にも悪意はなくても…言われてみてその通りだって気付いたの。だから、私はそれが過ぎてあなたを傷つけてしまった。でも、それは逆に言えば、オスカーの言う通り、傷が少しでも痛くなくなれば、私の心も無闇に暴れたリはしなくなると思うの。そうすれば、私は…私が怪我してることを知らない人を乱暴に払いのけようとして傷つけてしまう心配もなくなるし、なによりジュリアスの心配も少しは減らせるんじゃないかと…思ったの…ジュリアスに…私のことで無用に苦しんでほしくないの。ジュリアスにこれ以上心配をかけたくないのよ…」

「それは…確かにそうかもしれません…ジュリアス様の懊悩は陛下の心痛を察しているのに、それを自分ではどうにもできないこと、どうしたらよいかわからないこと、これに尽きるのですから…陛下ご自身のお気持ちが安定すれば、ジュリアス様の心痛も減じましょう。そうなれば、敢えて辛い真実を告げずにすむかもしれない…」

オスカーがアンジェリークの言葉を改めて考えなおしてみる。確かにアンジェリークの言うことにも一理ある。アンジェリークの心がもっと安定すれば、ジュリアスの懊悩もそれに比例して減じよう…

「だから…オスカー、お願い、一緒に考えてくれる?私はどうしたらあんなに動揺しないですむようになれるのか…どうしたら……怯えたりしなくなるのか…」

『どうしたら突然あなたを見ても怯えずに済むのか…』

こう言いそうになって、慌てて言い繕った。でも、きっとオスカーには自分が飲みこんだ言葉がわかっている…アンジェリークはそんな気がした。それでも、オスカーは気分を害した様子や傷ついた様子は見せなかった。それどころかオスカーの瞳はアンジェリークを案じるようないたわりに満ちていた。

「それは…もちろんです。俺にできることなら、どんなことでもしてみせます。ただ…本当によろしいのですか?そのためには、陛下にまた辛い思い出を想起させることを、俺は敢えて尋ねなくてはいけないこともあるかもしれません…その…原因なり対策なりをつきつめる為に…」

「ん…わかってる…わかってるつもり…でも、オスカーのいう通りだから…何も考えないようにして、耳を塞いで目を瞑っていても、私の怖い気持ちはきっとそのまま消えないから…それなら、私は今でも何が怖いのか、どうして怖いのか…その理由がわからないと、私の『怖い』って気持ちはきっと皮膚の下の刺のようにずっと残ったままになってしまうような気がするから…刺を抜く時って…痛いわよね?でも、それを怖がっていたら、その刺にずっと苦しめられるまま…だから、抜くときは痛くても抜いてしまえるならそのほうがいい…オスカー、あなたの言いたいことって、つまりそう言うことでいいのかなって自分なりに考えてみたから…だから…平気…じゃないかもしれないけど…また泣くかもしれないけど…でも、我慢する…できるだけ…」

目の前で指をきゅっと握りあわせて、アンジェリークは一生懸命勇気を奮い起こしているように見えた。横顔は小刻みに震えている。辛くない訳がない…そのことを考えるだけで嫌でたまらないだろうに…

オスカーは賛嘆と寂寥のないまぜになった思いに、思わず嘆息をついた。

アンジェリーク、あなたは…あなたは本当に強い、いや、強くあろうと自らを奮い立たせている。あらん限りの勇気で…。あなたをそこまで強くしているのは…それは決して自分が楽になりたいからではなく…ジュリアス様に心配をかけたくないからと…これ以上ジュリアス様の心を苦しませたくないからと…その思いだけで、その一心だけで自分は辛い思い出をまた想起させられるようなことにも耐えるつもりだと…そう言うのか…

できれば真実を告げたくない…それは、自分が事実を口にするのが辛いからというより、これ以上ジュリアス様を苦しめたくないから…だからできれば、真実は告げない方向で自分の心の痛みに折り合いをつけていきたいというのか…

真実を告げてしまうという手法は、その時は辛くても、一度思いきってさえしまえば、ある意味予後は楽なのだ。自分の苦悩を手放しパートナーに預けることは、その苦悩にどう折り合いをつけるか、相手に判断を委ねるということでもあるから、自分の苦悩は半減し、相手に苦悩の半分を背負わせるということでもある。オスカーが、ジュリアスなら真実を告げてもその重圧に押しつぶされないだろう、だから、告げてしまったほうがいいと断じたのは、その時はアンジェリークに辛いように見えても、それ以降何も隠さずに済むことで目に見えてアンジェリークの心の負担は半減するだろうし、ジュリアスなら、預けられるその重荷にも耐えられるだけの精神的耐性があると判断したからだ。

しかし、アンジェリークはできることなら、やはりジュリアスに自分の重荷は預けないですむ方向に持っていきたいと言う。自分の傷が少しでも癒えれば、ジュリアスに敢えて重荷を預ける必要もないと思うからと彼女は言う。ジュリアスに自分の重荷を半分預けることで、自分が楽になりたいなどとは彼女はまったく思っていない…ただ、ジュリアス自身はこれを聞いたらどう思うか…寂しいと思うのではないだろうか…ジュリアスなら、敢えてアンジェリークの苦悩を自分が全て背負いこんでやりたいとさえ思うのではないか…いや、それがわかっているからこそ、アンジェリークはジュリアスに無理をさせないためにできれば何も告げずにすませたいのかもしれない…

オスカーはなんとも言葉にしようのない思いがこれ見よがしの溜息にならないよう自制しながら、静かに言葉を続けた。

「確かに…陛下のお心が平穏な状態であれば、ジュリアス様の懊悩も減じましょう。そうすれば…そう、敢えてジュリアス様には何も告げる必要もないかもしれない…それが一番いいのかもしれない…」

あなたにとっては、それはより辛い選択なのかもしれないのに、いっそ全て打明けてしまったほうが楽になるだろうに…とオスカーは思うが口には出せなかった。アンジェリークの決意に水を差すような真似はすまいと思った。彼女自身が懸命に考え導いた決意なら…

「私…私はやっぱり弱虫かしら…オスカー…」

「いいえ…むしろ、陛下、あなたほど、優しく雄雄しく勇気と慈愛の心に満ち溢れた女性は二人とおりますまい。アンジェリーク、あなたは確かに、私の…私だけの女王陛下だ…私はあなたに出会え、あなたに仕えることのできた自分を心から嬉しく、誇りに思います…俺は…俺ににできることはなんでもいたしましょう。俺の…俺の全てをもってあなたにお仕えすることを誓います…」

そう、俺の心の全てをもって…いや…これ以上は考えまい…オスカーは自らの心を無理に押さえこみ、わざと話題をずらした。

「ところで陛下。今、こうして話していて、俺が怖いですか?」

「いいえ、今は平気。オスカーはオスカーだってわかるから。オスカーは私に酷いことをしない、するわけがない、心の底から言いきれるもの…」

「だが、そうは思えない時がある…なぜ、そう思えないのか…それは俺とあいつがいっしょくたになってしまうからだ…そうですね?」

「ええ…多分…でも、なぜ、その時によって混乱してしまうのかが、自分ではわからないの…」

「理性ではわかっている…しかし、何かの拍子にその区別が曖昧になってしまう…目の前にいるのが、あいつなのか、おれたちなのか、わからなくなってしまう…だから、あなたは俺やランディの影に怯えてしまう…だから、可能な限り俺たちを遠ざけたいと思っていた…」

「ええ…」

「しかも、その理由や怯えを今までは誰にも悟られまいと、あなたは二重の意味で自分の心に封印を施さねばならなかった。俺たちを傷つけない為と、怯えている理由を周囲に知られないため…これでは心への負荷が重すぎて精神が不安定になるのは当たり前といえば当たり前でしょう…。陛下、いいですか。まず、怯えることに罪悪感をもたないでください。自分は怖くて当たり前なのだと、自分に怖がることを許してあげてください。俺たちにすまないとか、申し訳ないとか考えないでください。それだけでも、あなたの負荷は多少和らぐはずです。ランディのことは俺がどうにでもします。幸いあいつは、女心にそう敏いほうではない。どうとでも誤魔化しは効くでしょう。」

「オスカー…」

「アンジェリーク、あなたは優しい。俺たちの責任ではないことで、俺たちに怯えてしまう自分が許せず、その怯えを悟られまいと必死だった。俺たちを傷つけまいとするあまり、恐怖心も無理やり押さえこんでいた。でも無理に隠そうとするあまり、その綻びを怖れる気持ちがより一層の心の不安定さに繋がっていると思う…いいですか?俺たちのことは考えず、まず、「自分は怖いと思って当然なのだ」と、そう思ってください。その結果あなたがどんな行動に出てしまっても、俺がフォローします。必ず、どんな手段をもってしても…」

ただ、これはほんの手始めだ…問題は、なぜ、アンジェリークが自分たちと偽者をいまだに混同して混乱してしまうのか、その理由だ。同じ容姿をしている以上、無理もないといえばその通りなのだが…だが、俺たちならいくら不意を突かれたとしても、この地にいる守護聖をあの偽者たちと咄嗟に混同したりはしないだろう。その理由がわかれば…はっきりと区別がつけられようになれば、そうすれば、彼女は俺やランディの影に怯えずにすむ。俺たちとあいつらはまったくの別人なのだと心の底から納得してくれれば…そうすれば、彼女の不安定さは恐らく相当の部分で解消されよう。

アンジェリークの不安定さが減じれば、確かに全てを打ち明けずとも、ジュリアスの懸念もそれにともなって減じよう…。無理にうちあけさせて一気に解決を図るより、軟着陸させられるように問題を解決できればそのほうが確かに無難かもしれない。実際、アンジェリークもそれを望んでいるのだし…

「怖いときは怖いと言ってください。逃げても、攻撃しても…俺に何をしてくださってもいい…俺は平気ですから。まず、あなたは俺を恐れることに自責の念をもたないでください。それだけでも、多少は楽になると思うのです。その上で…なぜ、あなたが、あれと俺たちを分けて考えられないのか…ゆっくりと考えていきましょう。原因を考えるために…少し…いや、かなり嫌な記憶が掘り起こされてしまうかもしれない…だから、あせらなくていんです。少しづつ考えていきましょう。実際、あなたが俺たちをみても恐怖に竦まなくなれば、ジュリアス様の懸念が薄らぐのは間違いないでしょうから…」

「ありがとう…ごめんなさい…私、あなたになんて言ったらいいかわからない…オスカー…」

オスカーはアンジェリークを安心させるように黙って柔らかく微笑みながら軽く首を横に振った。何も気にしなくていいのだと言うように…

「お茶を一杯所望するという口実では今夜はこれ以上の長居は難しそうです。お名残惜しいいですが、今夜は俺はそろそろ失礼したほうがいいでしょう。そして…あなたと俺と、互いに話がある時は、何か合図を決めておいたほうがいいかもしれませんね…無闇に約束の会話を聞き付けられる危険を侵すよりは…」

「そう…そうね…何がいいかしら…」

「花を…そう、薔薇でも飾っておいてください。俺が尋ねてもよい夜は、白薔薇を一輪…」

「薔薇…あなたの好きな花ね、オスカー…」

黙ったままオスカーは更に優しげに微笑んだ。眩しいような思いでアンジェリークは目を細めた。

「カプチーノ、美味かったです、ご馳走様でした。では、とりあえず俺は下がらせていただきます。何か気になることがございましたら、遠慮なくいつでもお呼びたてください。その為のこの身ですから…」

「おやすみなさい、オスカー…」

「失礼致します。」

ひざまづいてアンジェリークのスカートの裾をとり、オスカーはその端に口付けてから優雅に一礼して下がっていった。オスカーのその踊るようでいながら隙のない所作に、アンジェリークは、オスカーの体調が言葉通りに復調したことを感じ取り、心の底から安堵した。あんなに美しく鋭くそれでいて優雅さを兼ね備えた所作を見せる男性は、馬上のジュリアス以外、このオスカーしかアンジェリークは見たことがないと自信を持って言えた。

 

腑に落ちる、符丁があう…とはこういうことをいうのか…

ジュリアスは昨晩から一睡もせずに…いや、できずに、今日も日の暮れる今ごろまで、一つの事柄に思考を占拠され続けていた。

昨晩から何度も考えなおし、それを否定するための材料を探そうとしては頓挫し、逆に、その事象ですべての出来事に説明がついてしまうことに絶望の吐息を何度零したかしれなかった。

何時頃だったろう、ロザリアから『今日は参内の予定は?』と聞かれた。しかし、とてもではないが宮殿に行ってアンジェリークの顔を見る勇気はなかった。ロザリアに『陛下が寂しがりますわ』とまで言われ(ジュリアスはロザリアが自分たちの関係に気付いていて、しかし、それをむしろ後押ししてくれる気があるらしいことをこの言葉から確信した)実際、自分でもそう思ったが、自分がアンジェリークと会った時どんな顔をしてしまうか恐ろしかった。どんな顔をするべきなのか見当がつかなった。

ジュリアスがこの事実を認めたくないのは、自分の迂闊さ、愚かさを認めたくないからではない。

あまりにアンジェリークが痛ましくて、そんなことが実際に彼女の身に降りかかったのかと想像しようとするだけで、そのあまりの痛々しさ、憐れさに、どうにも耐え難くて仕方ない、その気持ちから憶測された事実を否定できるものなら否定したい、それだけだった。

想像することすら、彼女に救いがたい苦痛を与えてしまうような気がして思考がなかなか進まない。

しかし、この事実をもってすれば、自分が不可解に思い、悩み、心を痛めたあらゆる事象の全てにきちんと説明がついてしまうことが、尚更ジュリアスを苦しめるのだった。

いろいろな場面での、アンジェリークの様子が、態度が、言葉が、無秩序に今昔の区別なく、それでいてつぶさに頭に思い浮かび、その時、彼女はどんな気持ちであの言葉を言ったのか、どんな思いでそのような振る舞いをせざるを得なかったのか、その彼女の心を思うたびに涙が零れそうになる。

ジュリアスは自分が決して世知に長けているほうではないという自覚がある。

実務経験こそ長いものの、その生きてきた世界は極限られた枠内に留まっており、ただの知己を含めても、自分が直接親交のある人間はある種の階層に限られている。

いわば、汚濁や汚辱とは無縁の、世間と言うものの上澄みのなかだけで生きてきたと言ってもいい。

守護聖本人に関して言えば(生家はともかくとして)守護聖であるということは、世襲でもなければ利権も既得権益もないから、利権がらみの政争にまきこまれることもないし、聖地に縛りつけられている身として蓄財に励む事にもほとんど意味がない。なにせ個人が趣味の範囲で使える金額などたかが知れているし、自分が残さずとも係累には守護聖が輩出した時点で多大な名誉と金銭が授与される。世俗に塗れて暮らす意味も必要もないから、逆に言えば、その種の思考や世界というものが嫌でも縁遠いものになる。僅かな金品や権力を目的に陰謀や殺人が起り得る世界もあるという事実を知ってはいても、それは甚だしく実感を欠く世界でもあるのだ。

ジュリアスにとって、種々雑多な犯罪やその結果としての悲劇、犯罪のおこる要因や起こりやすい環境というものは、あくまで知識の上だけで見知ったものであり、自らの生きている世界とはどこか隔絶したもの…つまりはどこか遠い世界の他人事でしかなかったという自覚が、今、激しい自己嫌悪とともにジュリアスをうちのめす。

戦争に否も応もなしに巻きこまれ、前線で戦った当事者でありながら、戦場では自らの常識は通用せず、人間としての良識などというものは敵味方の間には存在しないという当たり前の事実も、自分にとっては机上の知識でしかなかった。愚かにも戦争というものの引き起こす二次的な災害、特に女性や子供という肉体的弱者が戦争という集団狂気に巻きこまれた時、真っ先に犠牲となることを、歴史上の知識としてしか認識していなかったから、自分の身近にそんなことが起り得るなどと想像だにできなかったのだ。

これを迂闊といわずして、これを愚かといわずして何というのだ。

それでも…この種の犯罪が女性の心にどれほど多大な傷を残すか、どれほど身も心もうちのめすかくらい、いくら世知に疎いジュリアスでも想像がついた。

アンジェリークが一時期、食物をまったく受けつけなかったという一点だけでもそれがわかる。外部からの自分の内部に何かが入ってくるということ…それは現実というもの全ての象徴であったかもしれぬ…その一切が受け入れ難かったのだろう。現実を受け入れること自体の辛さから吐き戻しという防衛で心の崩壊をやっとのことで防ごうとしていたのかもしれない。

アンジェリークが食物を受けつけないとロザリアから聞き及び、憂慮のあまり自分が突然訪ねて行った時に見た、蒼白を通り越して血の気の失せた頬、ひび割れたように渇いた唇、折れそうな脆さを感じさせた肢体…あの、痛ましい様子の記憶がジュリアスの心をどうしようもなく叩きのめす。そして、本当ならそんなやつれた姿を自分に見せたくなかったのではないかと今更ながらに思い至るのだ。アンジェリークが、自分が闘いを終えて聖地に帰還した夜に自分の訪いを拒んだ訳が今更ながらに思いやられ、さらにジュリアスの心を沈ませる。

だから余計にアンジェリークに済まなく思う、今更アンジェリークになんといってやればいいのか途方にくれる。

オスカーの言っていた言葉が、重苦しい真実でジュリアスをうちのめしたのは無論のことだ。自分たちの救出が不手際極まりなかったために、彼女に女性として最も酷い仕打ちを受けさせてしまったのかと思うと、その悲劇を未然に防げなかったのは全ては自分たちの見通しの甘さゆえだと思うと、後悔に息もできなくなる。激しい自責におめおめと生きていることが恥かしくなる。オスカーが、自分が激しい自責と後悔に苦しむだろうと言ったのも当然だ。オスカー自身もその自責と後悔は自分とほぼ違わぬものだったろうことは容易に想像がついた。

そして、それとともに、己がもう少し世知に敏かったら、人の心の機微と言うものに目端がきけば、アンジェリークを無闇に問い詰め、悩ませずに済んだのではないだろうかと更にジュリアスは思い悩む。アンジェリークが何かに悩んでいることは察していた。しかし無知と想像力の欠如ゆえに、ストレートに「何か悩みがあるなら告げて欲しい」と彼女を問いただすような真似をしてしまっている。真正面から切りつけるように彼女の心の傷を暴こうとして、結果として彼女の心の傷を更に広げてしまっていたのではないだろうかという懸念と後悔にジュリアスは身の置きどころがなくなる。

彼女を救えなかっただけでもその後悔は計り知れない。その上自分の気の回らなさと愚かさが更に彼女を苦しめていたのではないかという後悔と自責に気力の全てを消耗してしまい、指一本動かす事すら苦痛なほどの無気力に苛まれ、ジュリアスは立ち上がることは愚か眠ることもできずにいる。

そして、またも無秩序に想起される過去の一場面。

救出されて初めて彼女から会いたいといってくれた夜があった。自分は救出の遅れゆえ彼女に見限られているやもしれぬとさえ思い、別れすら覚悟して彼女のもとに赴いた。しかし、彼女は訪うやいなや体ごとぶつかるように縋りついてきて「抱いてくれ」と自分に訴えたのだ。その時、彼女はどれほどの思いをその一言にこめていたのか。彼女を助けられなかった自分を責めるような感情は微塵も感じられなかった。ただ、小鳥のように慄き震えていた…今なら、彼女の何かに怯えたような態度のその訳もわかる。男というものに触れること自体が怖くて仕方なかったのではないか…自分に思いきり抱きしめられて不安を鎮めてほしいという気持ちも等分にあったのかもしれぬが…それでも、自分に抱きついて来たとき、どれほどの思いきりが、どれほどの勇気が必要だったことだろう。恐る恐る愛撫を加えていた時、どんな思いで「忘れさせて」と口の端にしたのか…その葛藤の深さを自分は何も気付いてやれず、感じ取ってやれず…「何もかも忘れろ」と言ってやった後の涙で溶けてしまうかと思うほどの彼女の号泣の意味も真にはわからず…

その後しばしば、彼女は熱に浮かされたように自分の肌を求めることがあった。貪るように、飢えたように自分の抱擁を求める様に戸惑った夜があったことも否めない。

思い起こせばたまさか宮殿に泊れた時に、彼女が何かにうなされたように飛び起きて、その後、自分に、溺れる者の如くすがるように抱きついてきた夜も一度や二度ではない。

彼女が何の悪夢に怯えていたのか、何を忘れたくて自分に抱擁を求めていたのか、今になって初めてその背後の意味がわかり、そして、なぜその意味を、隠された想いをくみとってやれなかったのかという忸怩たる思いにまたも苛まれ、思わず呻き声が漏れ出る。彼女が性の喜びを、肉の快楽を求めているわけではなさそうなことは感づいていた。ただ、彼女がうなされているのは、虜囚の辛い経験故と思いこみ、それ以上の意味を考えようとはしなかったのだ。

そして、己が供寝できた夜の数を思えば、彼女はその数倍に及ぶ夜のうち、何度悪夢にうなされ、飛び起き、暖めてくれる温もりも得られぬまま、自分で自分の体を抱いてその恐怖に耐えたのか、中々明けぬ夜明けをまったのか、どれほど枕を涙で濡らしたことか…想像するだけで涙が出そうになる。同時に自分をなぐりつけてやりたくなる。

彼女が最も自分を必要とした時に、自分は側にいてやれなかった。

彼女が自分を必要としていた夜は幾夜あったかたわからぬのに、側にいてやれた時間も僅かなものでしかなかったろう。

彼女は何度も言っていたではないか。

自分の側にいてくれと。『ジュリアスが側にいて、抱きしめてくれるのが一番嬉しい』のだと何度も言っていたではないか。

いったいどれほどの思いをこめてその言葉を口にしていたのか…

自分はそれを愛の睦言だとしか思っていなかった。自分への想いを表して、むしろ、自分を喜ばせてくれる言葉だと思っていた。女王と守護聖という仲ゆえ、ままならぬ供添いへの単純な渇望の言葉だとしか思っていなかった…

しかも…この地に召還され、未知の危険への懸念からオスカーを護衛につけることがなければ、この事実に、自分はいまだに気付かずにいたやもしれぬのだ。

オスカーに護衛を依頼したと言及したときの、彼女の怯えたようなそれでいて苛立たしげな態度、変だと思っていながら、その理由を深く考えもしなかった。

そういえば、オスカーを交えて仲睦まじく茶を喫する機会もいつしか途絶えていたことに、なぜ自分は気付かなかったのか。あの戦争が起きる前は、アンジェリークはよくオスカーを茶会に呼んでいたではないか…いつも笑みの耐えない会話が交されていたではないか…

オスカーは人間関係や人の情の機微に自分より遥かに敏い。自身が戦争後アンジェリークにそれとなく避けられていたこともオスカーなら気付いていたことだろう。しかし、自身が避けられている事実に思い当たるゆえもなく、かなり心を痛めていたのではないだろうか。オスカーがアンジェリークの護衛に立つ時に、誰よりも控え目で遠慮がちであったのも、自分はアンジェリークになぜか疎まれていると、薄々感じていたからだろう。

しかし、アンジェリークが、オスカーを遠ざけたかったわけもわかりすぎるほどに今はわかる。その心情を思うこともジュリアスの心を暗く塞がせる。

オスカーに責あってのことではないのだ。アンジェリークもオスカー自身を怖れたり疎んじていたわけではない。ただ、そういう感情は理屈ではない。咄嗟のことに同じ姿を持つ者に恐怖を露にしてしまったり、自分がオスカーに負の感情、しかも、決してその訳を告げることはできぬ複雑な感情を抱いていることを、オスカーにできれば悟られたくなかったのだろう。その結果、オスカーを傷つけることを怖れて、アンジェリークはオスカーをできるだけ遠ざけようとしたにしたに違いない。しかし、その努力も虚しく、アンジェリークは恐怖か動転から精神の失調をきたし、オスカーに思いきり力をたたきつけて彼を負傷させてしまった。

しかし、オスカー自身はそれを却ってよかったと言っていた、その事自体はオスカーの本心だろう。

理由もわからず遠ざけられていたという、その行為自体に人の感情に敏いオスカーは傷ついていたことだろうから。

そして、オスカーが真実を知って後悔と自責に苛まれ、それでも、そのほうがよかったと思ったように、自分ジュリアスも、真実を知ったほうがよかったと思うに違いないとオスカーは言っていた。確かに見当違いの方向で堂々巡りで悩んでいるよりはそのほうがよいのだろう。それは確かにそうだと理性は告げている。しかし…

「何も知らずにいるよりは、知ってよかったと私なら思うはずだと…オスカー、私を買い被ってくれたものだ…」

我知らず一人ごちた。

実際そうなのだろう、何も知らずにただ悩んでいるよりは、ましてや、彼女がオスカーに惹かれているのではないかとまったく見当違いの苦悩を抱いていたよりは、確かにいいのかもしれない。

しかし、今の自分は、この真実を知ってよかったという心境とは程遠いものだった。

オスカーが、突然アンジェリークの警護にたたなくなったその訳は、体の負傷だけが理由ではなかったのではないかとジュリアスはふと思いついた。

オスカーは、アンジェリークに負傷させられた時に初めてアンジェリークの身に起きたことを悟ってしまったと言っていた。

だからこそ、アンジェリークの悲劇と心の痛手を周囲から隠すためにあらゆる手段を講じ様としたのだ。自分の負傷はひた隠しに隠し、ランディに緘口をしき、自分になんと問い詰められようと言いぬけ…

しかし、この事実を知ってしまい、アンジェリークにどう接したらいいか、どんな顔でアンジェリークと会えばいいのか、自分と同じようにオスカーも途方にくれたのではあるまいか…

ましてや、オスカーはアンジェリークを苦しめたのは自分の写し身だったことも同時に悟ったはずだから、その懊悩たるや、自分のものに比しても決して軽い物ではなかっただろう。

アンジェリークが自分から会いにいかねば、宮殿に参内する気力も到底でなかったかもしれない。

それもアンジェリークは察していたのだろう。それを考えれば、アンジェリークが自分からオスカーに会いに行かねばならないと激しく思いつめた訳も今ならよくわかる。アンジェリークから会いにいかねば、オスカーは二度とアンジェリークの顔を直視は愚か、声をかわすこともできなかったかもしれない。

それに…アンジェリーク自身もオスカーに確かめずにはいられなかったのだろう。オスカーは、あの場で何が起きたのか、誰にも何も決して言わなかった。その理由を考えれば、オスカーがアンジェリークの問題に気付いたのだというとはアンジェリークも即座に悟ったことだろう。ただ、どの程度まで気付いたのか、それをオスカーに直接確かめたくて…しかし、オスカーに会うことは周囲に知られたくないと思い、一人でオスカーに会って話す機会を待って焦慮に苛まれていたのだろう。アンジェリークがいつもオスカーの来訪がないか、気にしていたのも当たり前だ。自分が負わせたオスカーの負傷の程度も気になっていたことだろうし。

そんなアンジェリークの様子を、自分は、単に彼女はオスカーの来訪を待ちわびているのだと思い込んで、傷ついていたのだ。なんと…なんと馬鹿だったことか…アンジェリークがオスカーに会いたいと思っても、人目に立つ訳にも、公に呼びたてるわけにもいかず、深夜に訪問しなければならなかった理由も今となれば自明だのに。

あの夜、アンジェリークはオスカーに自分の抱える問題をどこまで話したのか、アンジェリークと改めて話してオスカーは何を思ったのか…

しかし、自分が二人の逢瀬…それは婀娜めいたものではなかったことが今ははっきりわかっている…を目撃した時、オスカーはかなり落ちついているように見えた。

しかも、自分ジュリアスにも真実をできれば告げたほうがいいとさえ冷静に提言していた。

昨晩はオスカーがアンジェリークの身に起きた悲劇を知ってしまってから、5日…いや、4日経った夜だったか…

オスカーは、どんな心境でアンジェリークと何を話あったのだろう。

どんなに苦しもうと真実を告げた方がいいというその心境にいたるまでに、いったいどんな軌跡を心は辿ったのだろう。

オスカーと話してみたかった。尤もそれが叶うとも思えなかった。こちらからどう水を向けようと、オスカーはアンジェリークの為にならないと断じれば口を裂かれようと何も言わないだろうことをジュリアスは身をもって知っている。

だが、自分も…このままではアンジェリークにどう接したらいいのか、今のままではどうしたらいいのか、本当にわからないのだ。アンジェリークになんと声をかけ、何を話したらよいのか…アンジェリークに全て知っているからもう何も隠さなくていいと告げてやったほうがいいのか、何も知らない振りを押し通したほうがいいのか…

途方にくれる…この言葉の意味をジュリアスは、今産まれて初めて心のそこから噛み締めていた。

アンジェリークにずっと会わずにいることなどできない。それはわかっている、しかし、いまはまだ何も答えがでないのだった。


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