汝が魂魄は黄金の如し 19

それでも、自分はいつのまにかうとうとしていたらしい。

はっと気付くと自室の椅子の上だった。目覚めたのは家事のまかないに通いで来てくれているこの大陸の住人…気のいい中年の婦人だった…の来訪のノック音のせいだった。

もう、窓からさしこむ陽の光りは鋭く短い。朝というには遅い時刻のようだ。

鉛のように重い頭…というのはこういうことを言うのか…

中途半端にうつらうつらしたせいで、こめかみがずきずきと脈打つように痛む。頭がぼうっとして思考が定まらない。

もう1度控え目なノック音が響いた。気はよいと言っても、勝手に部屋に入ってくるような性質ではないので、ジュリアスはその婦人を家にいれてやるため重い体を引きずるように玄関に向いドアを開けた。

「遅くなってすまなかったな…はいってくれ…」

「おはようございます、守護聖さま、失礼致します。あの…お掃除とお食事の用意をさせていただきますね?」

家に入りながら婦人はジュリアスの顔色の悪さに驚いた。

いつもの凛とした覇気や香気のように自然にただよっている神々しさがどこにも感じられない。そういえば昨日もお部屋にずっと閉じこもっておいでだった。守護聖様というのはとても不思議な力をお持ちだけど、体は私たちとそんなに変わらないというし…どこか具合でもお悪いのかしら…と思いつつ台所に向うと、昨晩用意したはずの食物が手付かずで残されていた。帰るとき、食堂に用意してあると声をかけていったのに…

「守護聖様…あの、どこかお加減でもお悪いのですか?お食事にてをつけられてないようなんですが…」

ジュリアスはまた自室引きこもろうとしていた所だった。婦人の言葉に足を止め、言われてみて、昨日から何も食べていなかったことに気付いた。そう言えば、昨日もこの婦人が食事を用意して帰っていくのを、心をそこにおかずに、声をかけられたからただ機械的に返事を返したような気がする。食事をとるということ自体思いつかなかった。体は空腹を覚えていて当然であろうに、今も食欲などというものは微塵も湧いてこない。

「あ…ああ、すまない、せっかくの心づくしを無駄にしてしまって…その、少々食欲がなくてな…疲れているのだと思う…正直言って今もあまり物を食べたい気分ではないのだ…また無駄にしてしまうのも申し訳ないので、今日は食事の用意はいい。」

「ああ、私めにそんなお気遣いは無用です。でも、食べるものはきちんと食べませんと、体がもちませんよ、守護聖様。それなら、いい薬草がありますから、煎じてさしあげましょうか?疲れを取って、食欲のでるようなものを…私、今ちょっと取ってまいりますから。」

「い、いや、そのようなことをするには及ばぬ…」

ジュリアスは婦人をとめようとした。自分の食欲不振は薬草などでは解消しないことがわかっていたから。

「いえ、いけません。きちんと食べてしっかりと栄養をつけていただかねば。恐れ多いことですが、守護聖様もお体の作りは普通の人間とそう変わりないと聞いております。疲れているからといって、食べるものも食べなかったら、もっと力も気力もなくなってしまうのではないですか?今、薬草を煎じてさしあげますから、それをお飲みになってから、お食事を摂ってくださいませ。いいですね?」

「いや、しかし…」

有無をいわせぬ様子で鍋を婦人は鍋を火にかけ始めた。自分の外見はこの婦人の息子というほどではないだろうが、まるで、子供扱いだ…自分のことを、薬も食事もとりたがらないわがままな病児のように扱われ、ジュリアスはどう対処していいものか困ってしまった。食欲のない訳を言うにいえず、しかし、食物を供されても実際ものを食べる気など起きる訳もなく、せっかく薬まで用意してくれようとしている婦人の心遣いを無にせぬために、どう婦人を納得させたものかとジュリアスは悩んだ。

今は、アンジェリークが何も食べられなかったという気持ちが少しだがわかる…自分の懊悩など、アンジェリークのそれに比すれば何ほどのものでもなかろう。吐き戻すほどに酷くもない。が、人は心にどうしても払えぬ憂いがあると、ものを食べる気力など失せてしまうことがあるのだと、自分自身のこととして今心の底から実感している。しかし、この婦人には私が物を食べられない訳はわからないだろうし、私はその理由を言うこともできない。だから婦人は、私の体の不調を心配し、なんとか私に食事を摂らせようとやっきになっている…どうしたものか…

ここまで考えてジュリアスははっと思い至った。

これは…この状況は、以前の自分とアンジェリークそのものではないか。その境遇がずれこんだだけではないか。

アンジェリークは自分に食欲のない訳を言えなかった。言えるはずもない。そして私は勝手に、あの幽閉が心身ともにアンジェリークを疲弊させ衰弱させただけだと思っていたから、なんとかアンジェリークにものを食べさせようと必死だった。僅かでも食べてくれれば体も回復もしよう、気力も湧いてこようと、とにかく少しでもいいから元気になってほしくて、必死にあれやこれやと食物を供し、匙を運び…疲れから私の食欲がないのだと思いこんでいるこの婦人のように、私の体調を憂いて薬を用意するこの婦人のように…食欲不振が心のありように起因していることに気付かず、払えぬ憂いにあることになど思いいたる訳もなく、ただ単純に食べてさえくれれば体が回復すると思いこんで…それが見当違いとも気付かずに…

アンジェリーク、そなたも困惑したのだろうか。自分のことを案じてくれているこの善意に…見当はずれでも、紛れもないこの善意を損なったり傷つけないためには、どうすればいいのか…

いや…違う…アンジェリークはどうした?私の的外れの懸念に対してどう振舞った?私のように為す術もなく困惑していただけだったか?その善意を傷つけることなくなんとか断ることしか考えていなかったか?…違う…違う!アンジェリークは確かに、自分から進んでは何も食べられなかった。しかも、なかなかそれは治らなかった。しかし…そうだ…私が手づから口に運んだものだけは、なんとか懸命に飲み下してくれたではないか…私のように食べる気がしないからいらないなどと、最初から撥ね退けたりしなかったではないか…

最初は本当に匙一口だけだった。それでも飲みこむのが苦しそうだった。きっと込み上げる吐き気を堪えるのに懸命だったのだろう。体と心が葛藤で悲鳴をあげていたことだろう。

それでも、私の差し出す匙は拒まないでくれた。私が口にいれたものは戻さないでくれた。そして、それに私は確かに縋ったのだ。1匙でも2匙でも食物を摂ってくれることは、当時の私にとって希望の光そのものだったのだ。

しかし、アンジェリークにとって、それはどれほど苦しいことだったのか…その当時食物を受け入れる事は彼女にとって現実を受け入れることと同義だったはずだ。現実を受け入れるということは、彼女が被った悲劇を…忘れてしまいたい、認めたくない、なかったことにしてしまいたい惨劇を実際に自分に振りかかった現実と認めなくてはならないということでもあった筈だ。

すんなりとあの現実を飲みくだせる訳がない。それがどんなに辛く苦しい事かはいくら自分でもわかる。

そして、また物を食べるということは『生きる』という意志を行動で表す事に他ならない。『生きよう』という意志の現れに他ならない。

自分はアンジェリークを襲った悲劇を知って精神をうちのめされ、今、確かに生きる気力を失っていた。だから何もする気が起きず、何も食べられなかったのだ。

なのに、自分よりもっと辛い思いをしたアンジェリークは、私の差し出した物は食べてくれた。彼女にとって、自分があんな目にあった現実を認め、それでもなお、自ら『生きる』という決意を行動に現すことは、どれほど困難だったことか…どれほど苦痛を伴うものだったか…想像するにあまりある…なのに、彼女は自分が差し出した物だけは飲み下してくれた。拒まないでくれた。他の物は一切受けつけることができなかったのに…

これが何を意味するのか…今の私は、わかる…いくら私でもわからぬ筈がない…

恐らくは、私のためだ…宇宙のために自分の身を儚くするわけにはいかないという義務感だけではない…私が彼女の回復に全身全霊で力を注いでいたからだ。彼女が少しでも物を食べて、僅かづつでも回復してくれることに、みっともないほど一喜一憂したからだ…

アンジェリークが自分から食物を摂り回復にむかってくれることは、その時私の希望のすべてだった。彼女にとにかく元気になってほしかった、朝露を湛えた花びらのようなかんばせを一日も早く取り戻してほしかった。それしか考えていなかった。今思えば、宇宙の為に女王である彼女を失うわけにはいかないという大義だけで自分は動いていたのではないと思う。首座の守護聖としてあるまじき事かもしれぬが…あの時自分は、ただ彼女個人を、女王というよりアンジェリークという自分にとって掛け替えのない一人の女性の回復を願って行動していた部分の方が大きかったのではないかと思う。

そして、彼女は私のその思いに応えようとしてくれたのだ。私が喜び安堵するから…そして私を心配させまいと彼女は私の供した物だけは、必死の思いで飲み下してくれた。私のために元気になろうとし、懸命に立ちあがろうとしてくれた。自分から『生きよう』と決意してくれたのだ。どんなに辛い現実も受け入れ、それでもなお、生きようと思ってくれたのだ…それは…それは…私のため…か…そうなのだな…

アンジェリーク、アンジェリーク…今、私は自分の身のふがいなさ、至らなさを悔い嘆いているだけだった。そなたほどに辛い目にあった訳でもないのに。しかしこの程度の心の痛みですら、私はこんなに心が沈み、憂いの気持ちに染められ、生きる気力を失いかけている。こんな気持ちでいながら、それでも元気になろうと、生きようと自分を叱咤するのは大層難しく思える。なのに…私よりずっと辛苦を舐めさせられたそなたは…それでも、そなたは必死で、生きようとする気力を取り戻そうと自分に鞭打ち、私を心配させないように力を尽くし…一体どれほどの思いで、どれほどの決意で、私の差し出した物だけは飲みこんでくれていたのか…

「っ…」

涙がつ…と頬を伝わった。

慌てて手で顔を覆い「シャワーを浴びてくる」とだけ言って逃げるように浴室に駆け込み、勢いよく水を出した。冷たい水を頭から被って禊をしたいような気持ちだった。

そして水流に紛れて、涙が零れるに任せた。

他人…アンジェリークを他人とは言うつもりはないが、自分ではないものの為にこのように泣いたのは、これが初めてではないだろうかとジュリアスは思った。

自分でも何故泣いているのか、一言では語れなかった。憐憫の涙ではないと思う。が、彼女の立場に自分を置き換えてみてわかった辛さ哀しさは言葉では到底言い尽くせない。だが、だからこそ、彼女の健気さも、己を奮い立たせようとしていた心の強さも、自分に心配をかけまいとする優しさも身に沁みて知ることができた。そして、心強くあろうと彼女が振舞ってくれたことに対する感動と感謝がどうしようもなく湧いてくる…今、ジュリアスは心からアンジェリークに伝えたかった。謝意を述べたかった。よく生きていてくれたと。よく生きようとしてくれたと。あれほどの目にあいながら、あれほど辛い思いをしながら…自分はわがままなのだろうか…それでも生きていてくれてよかったと心から思うのだ。アンジェリークが絶望に捕らわれ、生きる気力を無くさないでくれて本当によかったと思うのだ。彼女が生きていてくれ、生きようとしてくれたことに感謝の思いで胸が一杯になる。彼女がこの世に存ってくれることこそが、自分にとっては恩寵なのだとすら思う。こんないろいろな感情が次々と湧いては心から溢れ出し、溢れるままにそれは涙に形を変えた。

冷たい水で少しづつ頭がすっきりしてくる。溢れる涙が凝って絡まっていた懊悩を整理してくれたような気がする。だから、改めて自分に問いを投げかけてみた。

本当に辛かったのは誰なのだ…紛れもない、アンジェリークだ…そのアンジェリークが、現実を受け入れたのは何のためだ。それでも生きようとしたのは何のためだ。どんなに苦しくても、私の差し出した物だけは吐き戻さないでくれたのは、何故だ。それをよく考えてみろ。そして今なお必死に…私が驚くほどに惜しみなく力を注ぎ、何と引き換えにしても生きようとしているのは何のためだ…おまえはわかっているはずだ、ジュリアス。

なのに、私は…取りかえしのつかない過去を嘆き悔いているだけで…1番辛いのは自分ではないのに、自責に押しつぶされそうになって、生きる力も喪くしそうになり…

ジュリアスは頭を振った。

…こんなことをしていて何になるというのだ。アンジェリークがこんなを事を望むとでも思っているのか…

アンジェリークが私に何も告げなかった意味をもう1度考えてみろ。彼女自身が口にするのが辛いからというだけではないことは明かだった。私がこうやって苦しむと思ったから彼女は全てを1人でずっと抱えこみ…そして今、私は彼女が案じた以上に、この現実に押しつぶされそうになり、そのまま生きる気力すら失いそうになり…ただ、悩み嘆いて時をやり過ごしてしまっていた…そんなことをしても、何にもなりはしないのに。これではあまりに情けないではないか…彼女を支えるどころか、彼女に守られているだけで…しかも、その庇護から外れそうになった途端崩れてしまいそうになるなんて、あまりに情けないではないか…

もう1度きちんと考えろ。私に…私にできることは何だ?彼女のためにできることは何だ?彼女が私のために、辛い現実を受け入れてくれたように、生きようとしてくれたように、本当の意味で彼女のためにできることは何だ?

それは自分の愚かさを悔いることではない。嘆くことでもない。

もしかしたら…謝ることでもないのかもしれない。

彼女に全身を投げ打って謝りたいという衝動は今も強烈にある。本当は自分のふがいなさを、うかつさを、今まで自分が彼女を図らずも追い詰めてしまっていたであろうことを、寂しい哀しい思いをさせたことを、跪いて謝りたい。どんなことをしてでも償いたい。

でも、その衝動は、突き詰めて言えば懺悔の衝動だろう。それは自分が罪悪感に苦しいからだ。彼女のためになるから謝るのではないのだ。自分が楽になりたいから告悔したいだけなのだ。こんな気持ちで謝られてもアンジェリークが救われるわけではない。逆に彼女は『気にしなくていい、あなたが悪いのではない』といって私に許しを与えてしまうだろう。それで私は楽になるかもしれない。しかし、彼女はどうなのだ?それで楽になるのか?なりはしない。謝ることで楽になるのは自分だけではないか。

謝る事自体が悪いわけではない。だが、自分が楽になるために謝るのではだめなのだ。

なら本当に、彼女のためになることは何だ?私が彼女にできることは何だ?それを…それを私は見出さねば…自分で探り当てねば…

そのためにも彼女に会いにいこう…会って、自分はどうするのがいいのか、自分の目で判断せねば。

自分はもう知っていることを告げたほうがいいのか…彼女から告げられるまで知らぬ振りを通したほうがいいのか…その上で、自分が何をするのが、彼女にとって1番いいことなのかを。

 

冷水浴でかなり気分はしゃんとしたと思う。

とりあえず簡便にではあったが身なりを整えなおすと、食堂には…聖地のものとは比べようもなく質素でこじんまりしているが、ここにはこのくらいの食堂が似つかわしい…簡単な食事…おそらく粥だろう…と大ぶりなボウルに入れられた薄緑色の液体が湯気をたてていた。

「お食事の前に、まずこれをゆっくり、少しづつお飲みになってください。体に染み込ませるように…そんなことを頭に思い描きながら…」

絶対に断らせぬという気迫を漲らせ、婦人がジュリアスにボウルを手渡した。自分もこのように必死だったのだろうか…いや、罪悪感に苛まれていた自分はもっと余裕がなかったろう…液体は植物の青臭い香りがしたが不快ではなかった。むしろ爽快な気分にさせてくれる。薬湯に口をつけてみた。薄い酸味と仄かな甘味が口に優しいが、後口に苦味がある。思ったよりは飲み易い。この苦味が恐らくは胃の腑を適度に刺激し、食欲を取り戻させてくれるのだろう。

空っぽだった胃に薬湯が染みわたっていく。冷え切っていた体が…冷水を浴びたからではない。気力を喪い、体の内側から冷え切っていた体が徐々に熱を取り戻していくのがわかる…

これが…人の思いというものなのかもしれない…ただ、単に自分が疲れていると思っている婦人が案じてくれる気持ちを受取っただけでも、「しっかりせねば」と自然と思える。この思いに応えねばという気になる。この思いを無碍にはできぬと思う。

アンジェリークも…そうだったのだろうか…程度こそ違え今の私と同じだったのだろうか…

私のしたこと自体は無駄ではなかったのかもしれない…

見当違いでも、的外れでも、彼女を真剣に案じ、心からの思いをささげていたのことだけは、自信がある。そして、その思いを彼女は受けとってくれたのだから…受けとってくれて、少なくとも今、体はあの時よりは回復してくれたのだから…

彼女の心に傷はいまでも厳然と存在していよう。あの不安定さを見ればそれは明かだ。是非もない…自分は彼女の心を癒してやれてはいないが、それでも…まったくの無駄ではなかったのかもしれない…

薬湯を飲み終わり、瞳を閉じてゆっくりと吐息をついた。五臓六腑に染み渡る…イメージしろといわれなくても、体がそれを実感していた。

「いかがですか?」

おずおずと婦人が尋ねてくる。先ほどまでの有無をいわせぬ母親のような態度は消えていた。

「体がすっきりしてきた…口中の嫌な感じがなくなっているな…ここの薬草の効き目は確かのようだな。」

薄くではあったが微笑んだ。

「では、これも召しあがってください。野草のおかゆです。昨日から食べていらっしゃらないということでしたので胃に負担にならない消化のよい物をと思いまして…いきなり普通に食べたら体がびっくりしてしまいますから…ゆっくりとよく噛んで…」

「いただこう…」

ジュリアスが口にした粥にはいっている野草も微かに苦味のあるものだった。やはり健胃効果があるのかもしれない。

一応出されたものは食べ終えられた。

婦人があからさまな安堵の表情を浮かべた。婦人の仕草のひとつひとつが昔日の自分と重なる。

「私のためにいろいろ気遣ってくれてすまなかった。礼を言う。」

「滅相もない!守護聖様方こそ、私どもとはもともと縁もゆかりもない神様のような方ですのに、困っていた私どもを助けてくださり、今も元の世界に帰る方便を探してくださって…それで、こんなにお疲れになるほどご無理をなさっているのではないのですか?本当に申し訳ないことです。守護聖さまの身の回りのお世話をするくらいしか私どもはお返しができませんから。」

「いや、それは違う…感謝すべきは私たち守護聖にではない。すべては女王陛下の…あの比類なき優しさを持つ女王陛下の思し召しなのだから。私たちは陛下のお心のままに動いているに過ぎないのだ…感謝は陛下にこそ捧げなくては…」

その言葉はその婦人に聞かせるためのものではなかった。

「ええ、ええ、もちろんですとも。本当にみかけはとてつもなくかわいらしい娘さんですのにねぇ。華奢で愛らしくて、自然と何かしてさし上げたくなる所がおありですよね、あの女王様には…って不敬になりますか?このような事を言っては…」

「いや、陛下はそのような事を気になさるお方ではないから…むしろそのように言われたら喜ぶやもしれぬな…」

軽く苦笑して、頭を振った。なぜか、どうにも瞼が重くなってきた。食事を摂ったから…というだけにしては余りに強い突然の睡魔だった。

「つかぬことを聞くが…先ほどの薬湯には鎮静効果…つまり眠くなる成分もはいっていたのだろうか…」

「守護聖さま、眠くなっていらっしゃいましたか?元気な時にはなんともないんですが、疲れのたまっている時に、あの薬草を飲むとどうにもこうにも目があけてられなくなるんです。薬草が無理やり体を休ませようとでもするみたいでね。上手くできてるもんです。」

「む…どうやらそのようだ…今から三時間程休む、三時間経ったら、絶対に起こしてくれ。どうしても宮殿に参内せねばならぬのだ。もし補佐官から連絡があったら今宵の夕刻には必ず顔を出すから…と伝言を頼みたいのだが…」

「はい、守護聖さま、では三時間後にお起こししますんで。」

「すまぬが頼んだぞ…」

その場に座りこみそうになってしまう誘惑と必死に闘いながらジュリアスは私室のベッドに倒れこみ、瞬時に闇に意識を手放した。

 

婦人は約束通りきっかり三時間後にジュリアスを起こした。

本来この程度の睡眠では疲れがとれていずともおかしくはないのに、目覚め自体は爽快なものだった。あの薬草は、睡眠の内容も深く濃いものになるような効果があるのかもしれない。

此度はきちんと正装を整え、参内の準備をする。

やはり補佐官から連絡があったという。婦人は言われたままに、夕刻に参内するとおっしゃってましたと告げたという。

アンジェリークも自分がいつまでも顔を出さねば不安になろう。今宵泊るかどうかはまだわからぬが、とにかく1度会いにいかねば。

「すまぬな、いろいろと足労をかけた。」

「お夕食はいかがいたしましょう。一応暖めれば食べられるようにしてありますが。」

「それでいい、参内で帰りは何時になるかわからぬので、そなたも、今日はもう帰るといい。」

「はい、では、失礼致します。」

婦人を見送ってから、ジュリアスも宮殿に向った。夕刻というにはまだ早い時刻だった。日もまだ高かった。

 

仮宮に着き、まっすぐに女王の執務室に向う。しかし、執務室にいたのはロザリア一人だった。

「ロザリア、陛下のお加減はいかがだ?私が来られぬ間何もかわりはなかったか?」

「ああ、ジュリアス、やっと来てくださったのですね。ジュリアスが今日は参内できるとお伝えしてから、陛下はずっと人待ち顔でいらっしゃいましたわ。今はご自分のお部屋で研究院からの報告書をご覧になってます。陛下はジュリアスを頼りにしておいでですから…すぐ、陛下のお部屋にいらしてください。」

「何か研究院から調査報告があがってきているのか?その解析が必要ということか…」

とりあえず、アンジェリークは普通に執務をこなしているらしいと知り、ジュリアスは我知らず安堵した。少なくともここ一両日、アンジェリークは安定しているらしい。

「では、陛下の許に参内してまいる。」

「集中してお仕事できますよう、そちらからお声があるまでは、誰にも立ち入らせませんので、お話が終わりましたら、お呼びになってください。」

「すまんな。」

「あ、ジュリアス…」

「なんだ?」

「その…今度、陛下からのお召しがある時は、絶対に陛下の所に行ってさしあげてくださいね。何も言わずに…」

「?ここ2日ほど、顔を出さなくて悪かったと思っているが、陛下のたってのご希望とあれば不肖のこの身は何時でも馳せ参じる所存だが…」

「お願いしますわ、ジュリアス。陛下は多分ジュリアスと…いえ、何でもありません。お呼び止めしてしまってすみませんでした…」

「とにかく、陛下にお会いしてくる。」

急くような足取りでジュリアスはアンジェリークの部屋の方向に向かって宮殿の奥に姿を消した。

『ジュリアス、どうか、アンジェリークの気持ちを汲んであげて…首座の守護聖ではなくて、ジュリアス個人としてアンジェリークの話を聞いて応えてあげて…』

ロザリアはもう見えぬ背中に祈った。

 

「陛下、失礼します。」

「ジュリアス!」

アンジェリークが飛びつかんばかりの勢いで駆けよってきた。

「仕事が忙しいのではなくて?私のところにずっとついていたから、その分、仕事が溜まってしまっていたのでしょう?ああ、でも、来てくれて嬉しいわ。」

「陛下は…お変わりはありませんか?私がこられぬ間、何かかわったことは…」

「私は平気よ。ジュリアス…ジュリアスこそ、痩せたんじゃなくて?なんだか、少し…元気ない。ちゃんと食べてる?夜は休んでる?ロザリアもジュリアスの声が疲れているみたいだって言ってたから…無理はしないで…」

アンジェリークがそっとジュリアスの頬に手を伸ばして触れた。

ジュリアスはその手の上に自分の手を重ねた。

小さく白く柔らかな手だ。人によっては苦労を知らぬ手とすら映るだろう。だが、目に見える現実というのがいかに頼りなく根拠のないものか、目に見えぬ部分でその人がどれほどの重荷に耐えているかということは、容易にわかるものではない。強さと優しさゆえ気丈に振舞ってしまう魂は特にその労苦を周囲に悟らせない。『私は平気』…彼女はいつも周囲にそう告げ、そして自分にも言聞かせてきたのかもしれない。私たちに心配をかけまいと、何も気取られまいと、それどころか、今も私の体調を気遣って…でも、もう、いい…私には無理に気丈に振舞わなくてもいいのだ…そう告げてやりたかった。

「アンジェリーク…そなたこそ、無理はしていないか?その…心配なのだ…そなたが無理に自分を追い詰めてはいないかと…」

「え?どうしたの?急にそんな…無理なんてしてないわ。」

「今も研究院からきた資料に目を通していたのだろう?ロザリアから今聞いてきた。あまり根をつめるな。バリアの維持だけも、相当な負担なのだから…」

アンジェリークが一瞬悪戯の見つかった子供のようなバツの悪そうな顔をした。

「や…もう、ロザリアから聞いてしまったの?本当に無理なんてしてないの。今出してる以上に力が必要な訳じゃないから、本当に平気なの。ちょっと力を調整するだけだから、心配しないで、ジュリアス。お願い、私にやらせて?」

「?…何のことだ?」

アンジェリークが、『え?』と言う顔をした。

「やだ…私ったら早とちり…ロザリアから聞いてきたっていうから、てっきりジュリアスが心配して反対してるのかと思っちゃった…」

「私が聞いたのは、そなたが研究院から来た資料に目を通しているということだけだ。いったい、そなたは何を案じていたのだ?何をしようとしているのだ?順序立てて話してはくれまいか。」

アンジェリークがおずおずと話始めた。ジュリアスの反応を覗うように顔を見上げながら。

「あのね…オリヴィエから聞いたんだけど…このアルカディアには、オーロラを『天使の与える祝福の証』とみなして、オーロラに願いをかける夜想祭っていうお祭りがあるんですって。で、オーロラって太陽から発している何かの粒子が磁場とかに乱反射して見えるものなんですって。だから、私がバリアを歪ませたら、オーロラが出せるんじゃないかと思って…その夜想祭を開けるんじゃないかと思って…オーロラを出すのにいい日を決めるのに研究院に太陽の様子を観測してもらってたの…」

アンジェリークは叱られるのを怖れている子どものように口篭もった。何か気が引けているようだ。

以前もアンジェリークは雪の降る原理をエルンストから聞いて、わざわざ住民たちの雪祈祭のために雪を降らせてやっている。

だから、アンジェリークがこの地土着の祭りのために、尽力するのも初めてではないし、その気持ちもわかるが、今のアンジェリークの様子は何やら引け目を感じていながら、それでいて切実でもあるようだった。以前雪を降らせた時はアンジェリーク自身にも住民へのサービスとでもいうような余裕があったのに、今は同じ祭への援助というのは、取り組む気持ちにかなりの隔たりがあるようだった。

ジュリアスは重ねて静かに尋ねた。

「どうして、その夜想祭を開きたいと思ったのだ?」

「その…オーロラに願いをかけると、その願いが叶うんですって…だから、どうせお祭りをするなら、本当にオーロラを出せれば、皆、オーロラにお願い事ができるでしょう?もとの世界に帰れますようにって。それで…あの…民の…皆のためっていうのがもちろん一番なんだけど、私も、できればオーロラにお願いしてみたかったの。そうしたら、きっと聖地に帰れるってもっと強く信じられそうな気がして…」

「そうか…」

「ジュリアス、あの…反対しないの?私を叱らないの?」

「何故、私が反対すると思うのだ?」

「だって…こんな何の根拠もないことに縋ろうとするのは、心の弱さだって、女王らしくないって叱らないの?それに、何の役にも立たないことに、無駄な力を出すなって言われるかと思って…」

「アンジェリーク、私は、そなたのその気持ちを心の弱さなどとは思わぬ。それに…人の心はもともと弱いものなのかもしれぬな…強くありたいと願ってもなかなかそう上手くはいかぬ。堅牢でありたいと思っても、水のように容易く流れ、形を変え、掴みどころのないものだ。私自身の心も含め…な。だが、だからこそ人には希望が必要なのではないか?そして人心に希望を与える行いを無駄や無意味とは私は思わぬ…」

「ジュリアス…」

「それに女王だからといって始終鉄のように何物にも動じぬ心を持たねばならないということではないだろう。そんな気持ちでいたら、却って世界に優しい思いを注ぐのは難しいのではないか?そなたが優しいのは、人の痛みも自分の痛みと同様に感じてしまうくらい心が柔らかく繊細だからだ。そして柔らかく繊細な心にこそ希望は必要だと私は思う。希望がなければ人は明日を信じて生きようとする気力をなくしてしまう。希望があればこそ、人の心は強くなれる。人の心に希望を与えるような所業を私は反対したりせぬ。むしろ人に希望を与えたいと思うそなたの心栄えはすばらしいと思う。自分自身にも希望を与えるため…それでもいいではないか。それは決して悪いことではないと思うぞ。女王が希望に満ちて明日を信じることができれば、人心も安定しようし。」

「でも…でも、私がオーロラを出したいと思ったのは民のためだけ…とは言えないのよ?…それでも?」

アンジェリークが敢えてジュリアスに挑むような態度で重ねて問うた。まるで、これでも私を怒らないの?とジュリアスを試しているかのようだった。

その強がる子どものような態度はささやかすぎるほどの虚勢であることが、今のジュリアスには否応なく見えてしまう。

「だが、自分のためだけのものでもあるまい?そなたも我らも今この地に住まう者であることに変わりはないのだから、『皆』という括りの中に自分自身がいてもいいではないか…強い心と頑なな心は違う。それに…私は優しい気持ちを持てることこそが心の強さにも通じると思う。私はそなたほど、優しい女性を知らぬ。だが、優しい心にこそ拠り所は必要であろう。そのためにオーロラを出したいというなら…オーロラに願いを掛けることで心強くあることできるというなら、私は反対などせぬ。それをそなたの心弱さなどとは思わぬ。そなたの体はもちろん一番大事だが、ロザリアが反対していないということは身体的な負担はそれほででもないのであろう?ならば、私にも反対する理由はない。」

ジュリアスにすんなりと望みを受け入れてもらい、アンジェリークが安心したように、張りつめていた気を緩めた。

「ジュリアス。私、私、もっとしっかりしろって…叱られると思ってた…こんなものに縋らなくてもいいくらい強くあらなくちゃいけないって、もっと、女王らしく毅然としていろって諭されるかと思ってた…」

ジュリアスは静かにゆっくりと首を横に振った。アンジェリークに安心しろとでもいうように。

ジュリアスは、アンジェリークがいかに心強く生きようと、恐らくはぎりぎりの所で自分を懸命に保ってきたかがどうしようもなくわかる。

だから、アンジェリークの心が安定するというなら、オーロラを出してそれに祈りを捧げることで気持ちが落ちつくというのなら、そのほうがいいと思う。

しかし、それでもアンジェリークの心の在り様をきちんと把握していなければ、やはり彼女の体調を案じて自分は頭ごなしに反対していたかもしれない。尤もこの彼女の拘りようを思えば、自分が反対してもアンジェリークはより頑なになるだけだったろう。

なぜ、彼女はこれほど必死になって心の拠り所を求めるのか…。

彼女は自分の目指す所に向けて懸命に進もうとしている、道半ばで倒れてしまうわけにはいかないし、やりなおしも効かない…しかし、彼女の精神状態は万全とはいえない。むしろ傷を負ったままの体でそれでも立とうとしているようなものだ。だから、足を怪我して自力で立てない時、疲れてしまったとき、杖を頼りにするように、祈ることを心の支えにしたいということか…

アンジェリークには女王らしさという目に見えぬ枷やあらまほしき姿がどうしても課せられる。自分にも首座の守護聖としてなすべき事や振舞うべき態度があり、時に感情を押し殺してもあるべき姿を保ってきたという自負も確かにある。だが、彼女の立場や、自分の常日頃の態度から、アンジェリークは自分の感情や要求を露にすることや、何かに心の拠り所を求める事に罪悪感を感じてしまったのかもしれない。アンジェリークは今も、これ以上ないほど雄雄しく困難に立ち向かっている。それに心の有り様で「あるべき姿」を保つことが難しい時があることも今はジュリアスもよくわかっている。困難に立ち向かう力を得るために心の拠り所を求めるのは、エネルギーの補給のようなものだ。必要なことであり、求めて当然だともジュリアスも思う。

そして、今祈りを望むアンジェリークは体の安息より心の安寧をより欲し、より必要としているということなのだろう…

「人の心は木石ではない。支えや、拠り所を求めるのは自然な情であろう…私では、そなたの拠り所として頼りないかしれぬが、私も、その…そなたのためにできることなら、何でもしてやりたい…守護聖としてではなく、一人の男としても…」

「そんなことない!ジュリアスがいてくれるから私は!私は今まで!…」

アンジェリークは何か言い募ろうとして、突然口篭もった。ジュリアスは敢えて何も尋ねなかった。アンジェリークが一転、ジュリアスに縋るような視線を投げた。

「あの…あのね、ジュリアス…それなら、ひとつ…お願いしてもいい?」

「なんだ?」

「私がオーロラを出すときは、私と一緒にオーロラを見てくれる?2人で…2人きりで…絶対に私と一緒にみてくれる?」

「そなたがそう望むなら…どんなことがあっても、その時はそなたの傍らにいよう。」

アンジェリークの顔がくしゃくしゃと歪んだ。

「ありがとう、ジュリアス、お願いね?約束してね?絶対私と一緒にオーロラを見てね?」

「どうした?何故そんな泣きそうな顔をする?」

「私…ジュリアスに叱られると思ってたから…もちろん民の為でもあるけど、オーロラを出したかったのは自分のためでもあったし…何より…あなたと一緒にオーロラを見たかったからっていうこともあったから…」

「雪祈祭の時も一緒に雪を見たではないか…何故そのように必死になる?」

「だって…オーロラを見るのは雪を見るより特別なんだもの…オーロラを一緒にみた2人は、生涯固い絆で結ばれるって聞いて…だから、だから…」

アンジェリークが込み上げる感情を持て余すように顔を両手で覆ってしまった。

ジュリアスはどこまでも優しく穏やかな声音でアンジェリークを落ちつかせようとする。

「だから…そなたはオーロラを出したかったのか…それを私と一緒に見たいと思ってくれたのか…」

アンジェリークの顔はもう泣き出す寸前だった。

「あなたと聖地に帰りたいから!あなたにそばにいて欲しいから!あなたと一緒にいたいから!私は…オーロラにでもいい。ただの言い伝えでも、迷信でも、お願いしたかった!何かに信じさせてほしかった…だから…オーロラを出したかったの…」

アンジェリークが拗ねたように横を向いた。ジュリアスの顔を正面から見られなかった。

「今度こそ…呆れたでしょう?私のこと…」

『私のこと、軽蔑する?』と問いそうになり、その勇気が無くて口を噤んだ。心が痛かった。怖かった。ジュリアスにきっと軽蔑されたと思った。女王の癖に自分の事しか考えていなかったのかと、そんなことに気を取られているような状況ではないだろう、もっと自覚を持てと、厳しく説諭されると思いそう覚悟した。自分でもわかっているのだ、決して誉められた動機でないことくらい。極論すれば私利私欲で夜想祭を開くのかと言われても、言い逃れできないと思う。そのやましさ故に、アンジェリークはジュリアスに問われる前に、自分から夜想祭のことを言及してしまったのだから。

だが、次の瞬間ジュリアスは思いきりアンジェリークを抱きしめていた。

「大丈夫だ、アンジェリーク、大丈夫だから…なにも心配しなくていい…なにも怖がらなくていい…」

優しく髪を撫でられた。その声は泣く子を宥めるかのように柔らかくその身を包みこむかのようだった。

「ジュリアス…どうして…なんでそんなに優しいの…」

暫時呆然としていたアンジェリークは、いきなりむしゃぶりつくようにジュリアスの胸に体を思いきり預けた。

「ごめんなさい、ごめんなさい、ジュリアス…私、私、どうしてこんなに弱虫なの…突然、どうしようもなく不安に…怖くなることがあって……」

「泣かなくていい、怯えなくていい。どんな人間でも一人で立っているのが辛い時はある。そんな時は私に掴まれ。私に自分を全て預けてくれていいのだ。そのために私がいるのだから。私がいることで、そなたの心が落ち付き満たされるというなら、私は命のある限りそなたの傍らにいる。どんなことがあろうとも。」

「ジュリアス…ジュリアス…お願いよ…そばに…私のそばにいてね…」

「アンジェリーク…」

ジュリアスはアンジェリークの額に、両の頬に、そして、最後に唇にそっと口付けた。

ジュリアスにはアンジェリークの不安定な心の訳が今は痛いほどわかる。

どんなものでもいい、僅かでも拠り所を求めずにはいられない気持ちもわかる。

アンジェリークが一人に怯え、おぞましい物の影に怯え、払っても払ってもじわじわとからみついてくるような不安を払拭するために何かに縋りたいと思う気持ちがわかる。

今でもアンジェリークは漠然と怯えているのだ。突然我々を引きさき、彼女を蹂躙したあの理不尽な悪夢に。だから、何かに縋ろうとする。もう、あの悪夢はもう自分を襲う心配はないと何にでもいいから信じさせてほしいのだろう。

それがわかっているのに、そのことについて今自分は何もしてやれない。どうしたら彼女の怯えを根本から拭い去ってやれるのか、その方策がわからない。

自分はアンジェリークの受けた傷をなんとかして塞いでやりたいと、これほど切望しているのに。

私は、そなたに手を差し伸べる、支えることはできる。抱きしめて不安を和らげてやることはできる。側にいることで慰めを与え、心を穏やかにしてやれるかもしれぬ。だが、それは直接そなたの傷を癒してやることではない…そして…どうすればそなたの傷を癒してやれるのか…どうすればそなたの怯えを払ってやれるのか…情けないが今の私には正直言ってわからない…

しかも、そなたが私に求めていることは、傷の癒しではないのだな…そなたが私に求めていることはたった1つ。『できる限り自分の側にいてくれ』、それだけなのだな。夾雑物は一切ない。だからこそ、その願いはどんなものより切実でひりつくように熱い。

そうだ、最初から、しかも何度も彼女は私に告げていたではないか。何よりもはっきりと。どんな態度より明白に。私は…いろいろな情報に振りまわされすぎて、彼女が真に自分に求めていることを見失っていたようだ…

私は彼女を抱きしめる。温もりを与える、彼女は一人ではないと伝えるために。傷を治療してやるようなことはできぬかもしれぬが、彼女が自分で傷を癒せる力を補うことならできるかもしれない。側にいることで彼女の心を安定させてやれるのかもしれない…側にいる…それは今単純にいつも一緒にいるということか?違う、それだけでは彼女の不安は払拭されまい。明日があまりに不確かな今の状態で、単純に側にいてもそれは未来を信じることに繋がりはしない。今日、明日という短いスパンで一緒にいても彼女の心は癒されまい。これからも能う限り、供に歩んで行けると信じさせてやれることこそが肝要なのだ。

そう、できる限り供に歩む為に、私たちは、まず、何より生きねばならない、この地から無事生還し生き延びねばならない。一緒に在る時間を可能な限り伸ばすために。そのために私がしなくてはならぬこと…今できることは…

ジュリアスは万感の想いを込めて、アンジェリークをもう一度きつく抱きしめ直した。抱きしめながら、絞り出すようにアンジェリークに告げた。

「アンジェリーク、供に帰ろう、聖地に必ず…供に帰ろうな…2人で…」

「ジュリアス…」

ジュリアスは一度抱擁を解いてアンジェリークの顔を真摯に見つめながら、子どもに言聞かせるようにゆったりと、だが紛れもなく強い信念を滲ませて低い声で語りかけた。

「アンジェリーク、私はまたしばらく宮殿から足が遠のくやもしれぬ。今のコレットの育成では、率直に言って期限までに封印が解けるか少々心もとないのだ。もっと効率のいい育成法をどうにかして見出さねばならない。この地を救い、我々がともに聖地に帰還するために…執務の合間折々に顔は出そうとは思うが、しばらく宮殿に泊るのは困難だろう。だが、夜想祭の時には必ずそなたの傍らにいる。そのためにも、今しばらく執務に専念させてくれ…」

「……わかったわ…一緒に聖地に帰れるように…私もできる限りのことをするから…」

「ああ、私も思いは同じだ。そなたと供に存りたい、命と運命の許す限り。そして切り開ける運命ならできる限りのことをしたいのだ。」

「ええ、ジュリアス…一緒に、一緒に聖地に帰りましょうね。きっと…」

「ああ…必ず…」

ジュリアスはアンジェリークにもう一度口付けてから、名残惜しげにその体を手放した。

「これから王立研究院に行ってくる。夜はきちんと休むのだぞ。」

「ええ…あの、夜想祭をする時は守護聖皆に知らせるから…その夜に…」

「ああ。約束する。そなたと供にあると。」

その時までになんとか成果をあげておきたい。ジュリアスはそう思ってアンジェリークの許を辞した。

 

ロザリアに退去する旨を伝えてから、宮殿の廊下を出口に向って歩きながらジュリアスは今後の事を考えていた。

この一両日を無駄に過ごしてしまった。コレットはコレットなりによくやっているのだが育成がどうも効率が悪い。それに気付いていたのに、有限の時間を無為に垂れ流してしまったのが悔やまれる。とりあえずは王立研究院で現況の確認だ。今日もあまり育成がはかばかしくないようだったら、その理由と対応策を早急にルヴァやエルンストを交えて相談しなければなるまい。クラヴィス…あやつの視点はデータに基づくものとは若干異なる。却って我々には思いつかぬ方向からいい案を出してくれるやもしれぬ…

そんな事を考えながら歩いていたので、声をかけられるまでジュリアスは正面から来た人物に気付かなかった。

「これはジュリアス様、本日は宮殿の警備はジュリアス様がなされるのですか?」

「オスカーではないか…宮殿に参内できるということは…もう体の方はいいのか?…っ!」

考え事をしている所にいきなり声をかけられたので、ジュリアスは咄嗟に思ったままのことを口に出してしまった。

「?!」

オスカーが一瞬、眉間に皺を寄せいぶかしげな顔をしたが、すぐに人当たりのよさそうな、それでいて本心の伺えぬとり済ました容貌を整えた。

「ジュリアス様、俺が体調でも崩しているとどこかからお聞き及びにでもなったのですか?生憎ですがこの通り俺はぴんぴんしております。」

「あ…ああ、すまぬ、私の勘違いだ…誰かからそのような事を聞いたわけではない。そう…この前そなたの私邸を訪れた時、妙にそなたの顔色が悪かったのでな…それで体調でも悪いのかと、勝手に思いこんでいた…」

ジュリアスの言はどうにも歯切れが悪い。自分がオスカーの負傷に気付いたことは知られたくなかった。

「そうですか?街の歩哨にも俺は立っていましたから、若干寝不足だったのかもしれません。」

「ああ、そうか…きっとそうだな…」

「所で…聞き及んではおりませんが、今夜はジュリアス様が陛下の警護に宮殿に詰められるのですか?」

「いや、私はこれから王立研究院に赴く。少々調べたいことがあるのでな。今宵はオスカーが陛下の警備に立つことになっているのか?」

「はい、不肖ながら俺が宮殿に詰めさせていただく予定でした。」

「そう…か…」

アンジェリークの供した薬草が効いたのだろう。実際今日のオスカーの顔色…表情は読めないが、肉体的な印象は確かに健康そうだった。この前の土気色の顔とは大違いだった。

「では、陛下を頼む。」

「ジュリアス様、よろしいのですか?」

「なぜだ?なぜ、そんなことを聞く?」

「いえ…」

「そなたが陛下をお守りしてくれるなら、安心だ。そなたなら何よりもまず陛下の御為を第一に考えて動いてくれるだろうからな…」

これはジュリアスの本心だった。そうだ、オスカーなら他の誰よりしっかりとアンジェリークを守るだろうと信頼できる。既にアンジェリークの心の痛みを知っているオスカーなら、アンジェリークの心が不安定になるようなことを看過するはずがない。彼女を動揺させる怖れのあるものは決して近づけないだろう。アンジェリークの事情を知っているから、オスカー自身が不用意に彼女を脅かす怖れも十分留意して行動してくれることだろう。

「いえ、怖れ多いことです…」

オスカーは本気で恐縮しているようだった。

「私が陛下のおそばにいられぬ時は、そなたが陛下をお守りしてくれ。そなたになら、陛下を安心して託せる…」

「その信に必ずやお答えいたします。」

「うむ、頼んだぞ。」

迷いのない足取りで宮殿を去っていくジュリアスの背を見送りながら、オスカーはどうにも不可解な思いを押さえ切れずにいた。

『まさか…ジュリアス様は…いや、そんなはずはないと思うが…』

とりあえずアンジェリークの許に顔を出すために女王の執務室に向った。ジュリアスの態度が何か、変わったような気がする…何が変わったのだ?自然と歩調が緩み、オスカーは今のやりとりのことを考えていた。

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