汝が魂魄は黄金の如し 20

仮宮の廊下でジュリアスが向こうから歩いて来るのを見た時、オスカーの胸にまっさきに湧いたのは失望の感情だったかもしれない。

『今宵はジュリアス様がいらっしゃれるのか…』

しかし、オスカーはすぐさまかぶりを振って、その感情を払い捨てた。これはアンジェリークにとって好ましいことなのだから。自分はアンジェリークを支えたいと思い、実際そのために力を惜しまないつもりだ。アンジェリークの心が平穏になるであろう事態は歓迎してしかるべきなのだから。

先日、ジュリアスが自分の屋敷を訪ねて来た時のことがオスカーの脳裏に浮かぶ。ジュリアスはアンジェリークが何かに苦しんでいることは察しているに、何も手を打てぬことに苦しんでいた。自分から情報を引き出そうとあれこれと水を向けて来る様に、ジュリアス自身の逡巡と苦悩が滲み出ているかのようだった。

自分の進むべき道が明確に見えず、今進んでいる方向にこのまま向っていいのかわからなくなっている。だから、僅かでも、手がかりなり、道標なりを求めてオスカーの許に来たのだということはありありとわかった。

オスカーはその時、ジュリアスに真実を語りたかった。ジュリアスの苦悩がひしひしと迫ってきたから。しかし、事は自分の問題ではないから、彼女自身の承諾なくして言っていいことではないというその一点だけで、必死の思いで言葉を堰き止めた。

ジュリアスは明かに落胆していたと思う。ジュリアスの苦悩を苦悩のまま、見放してしまったような罪悪感にオスカーは苦しめられた。アンジェリークのことを案じているのに、何もできないという無力感故の苦しみはある意味オスカーの苦しみとまったく等質だったから。

その無力感ゆえ自棄になったり、何も打明けようとしないアンジェリークの態度が彼女への不信に転じてしまって、ジュリアスがアンジェリークを避けたり、あまつさえその誤解から彼女の手を離してしまったら…という事態をオスカーは危惧していた。アンジェリークがジュリアスに心配をかけたくないという一心で取った行動が元も子もなくなるどころか、却って悪い方向に作用してしまっては何にもならない。それを案じたので、オスカーはアンジェリークに全て打明けてしまったほうがいいと提言したのだが、アンジェリークができればそれは避けたいと結論を出している。真実を打明けられないので、ジュリアスが誤解からアンジェリークと距離を置こうとしてしまったら、それを上手く解消するのは中々に困難なことになるだろうことをオスカーは危ぶんでいた。

しかし、今、ジュリアスが宮殿に来ているということは、懊悩はあるとしても、ジュリアスはアンジェリークから距離を置くようなことはしないでくれるということだろうか。それならいいのだが…

彼女と話し合う機会が減じても、自分自身にとってはそれは寂しくやるせない結果であっても、アンジェリークのためにはそのほうがいいに決まっているのだから。

ジュリアスは何かに気をとられているようで、オスカーの存在に気付いていないようだった。オスカーは今夜の警護の確認もしたかったので、自分からジュリアスに声をかけた。

ジュリアスは自分が声をかけたことに虚を突かれたようだった。そして、逆にジュリアスからいきなり自分の体調を問われ、オスカーは言葉を失った。

ジュリアスが自分の不調に気付いていた?なぜ、そして、いつ気付かれた?

オスカーは一瞬動揺したもののすぐさま感情を押し殺して、ジュリアスに探りをいれた。

ジュリアスは自分の顔色が悪かったから、体調が悪いのかと憶測しただけだと答えた。

ジュリアスの来訪時、自分は負傷した個所が丁度ジュリアスの体とぶつかって脂汗を流して耐えたことを思い出した。確かにあの時の顔色は酷いものだったろう。だが、それゆえの憶測なら誤魔化せると思い、実際どうにか言いつくろえたと思う。

そして肝心のアンジェリークの護衛の件を尋ねてみると、今夜はジュリアスは宮殿には詰めないと、そのままあっさりとオスカーに事後を託して去ろうとした。

なぜ、俺はあの時ジュリアス様を引きとめるような真似をしてしまったのだろう、不可解に思われるに決っているのに…わかっている、きっとアンジェリークが落胆しただろうと思ったからだ。引きとめてしまってすぐにしまったとも思ったが。案の定引きとめたその理由を尋ね返されたが、何も答えられない俺は寡黙にならざるを得なかった…

しかし、ジュリアスはそれ以上の追求はせず、全幅の信頼を寄せてアンジェリークの事をオスカーに託して結局去っていったのだ。

どことなく後ろめたい気持ちが押さえ切れず、オスカーは顔を上げられなかった。

反対にジュリアスは、何かこうふっきれたような雰囲気を漂わせていた。

先日までの逡巡に一応の決着でもついたかというような、ある種の決意が感じられたのは自分の気のせいだろうか。

多分、今までジュリアスはアンジェリークと何か話し合っていたはずだ。

ジュリアスはアンジェリークと何を話してきたのだ?まさか…自分の危惧したようなことではないと思うが…何かが気にかかった。アンジェリークの精神状態が案じられた。オスカーは焦慮の滲んだ足取りで女王の執務室に向った。

 

執務室はもぬけの空だった。

ジュリアスとは私室で話しあっていたのかもしれない。それでは二人の会話は私的なものだったのだろうか?更に焦慮は加速し、勢い歩調も早めたオスカーは昨晩招き入れられた女王の私室の前に立った。

慌ててドアを開けたい気持ちをようよう宥め、オスカーはゆっくりと大きなノックを響かせた。

アンジェリークを不意打ちのように訪れることは、最も忌避すべき事柄であることは身をもって知っていたから。

一呼吸おいてからドアを開けた。

「陛下、失礼いたします…」

アンジェリークが、ジュリアスと同様に何事かに思考を占められた様子でデスクの傍らに佇んでいた。

「陛下…」

再度のオスカーの呼びかけにアンジェリークははっと顔をあげた。途端に瞳から恐怖が迸った。華奢な体に不自然な痙攣が走ったのが、遠目にもわかった。

『しまった…』

ゆっくりと心の準備をしもらったつもりだったが、何かに気をとられていたアンジェリークはオスカーの来訪に今の今まで気付いていなかったのだ。

オスカーはその場から動かず距離を保ったまま、どう行動すべきか瞬時に思案した。ここで駈け寄ったりしたら、彼女はまた恐慌状態に陥る怖れが強かった。「陛下…」ともう1度声をかけようとして、オスカーは思いなおした。

「アンジェリーク、俺です、オスカーです。突然驚かせてしまってすみません。」

「あ…ああ、オスカー…ごめんなさい、考え事をしてたから声をかけられてびっくりしちゃって…」

アンジェリークの瞳が焦点を取り戻していく。

オスカーはほっとした。やはりアンジェリーク自身の名を呼んだことがよかったようだ。こういっては何だが…あいつらが彼女の名前を知っていたとは思えないから、彼女の名前を呼ぶことは、今ここにいるのはまぎれもなく自分オスカーであると悟らせるに効ありと思ったのだ。

自分から彼女を脅かしてしまったと言及することで、彼女が怯えを隠す必要がなくなるので、罪悪感も持たせずに済む。

アンジェリークは胸に手をあてて、動揺を鎮めようとしているようだ。

オスカーは、できれば、ジュリアスとの会話の内容を聞いてみたいと思っていたが、今はアンジェリークと落ち付いて話すことは難いと判断した。

「陛下、お騒がせして申し訳ありませんでした。今宵の警護のご挨拶に伺っただけですので…」

「あ、ああ…そう、わかったわ。後で夕食を一緒にしていってね?」

「謹んでお受け致します…では、今はこれにて…」

優雅に一礼して、そのままオスカーは一度退き、ロザリアにも警護の事を報告するべく補佐官の執務室に向った。

今夜、彼女は時間を作ってくれるか、今の様子ではわからないとオスカーは思った。

彼女はやはり、自分の姿にどうしても怯えてしまう。彼女自身どうしようもないのだろう。

そんなときに何かを冷静に話し合おうとしても難しいかもしれない。

なぜ、彼女は俺とあの、忌まわしいモノの区別がつかなくなってしまうのだろう。俺なら…例えばランディがいきなり現れたり、声をかけられたりしても、こいつは偽守護聖か、本物か、なんて一瞬でも迷ったりはしない…それが他の守護聖でも、同様だろう…

そう思った時、オスカーはふと考えた。

俺達はこの地にいる守護聖が本物であることに何の疑いも持たない。そして、俺達はあいつらと守護聖を絶対混同したりはしない。先刻俺がジュリアス様にいきなり声をかけて驚かせても、ジュリアス様は俺をあいつらと一瞬でも見誤るようなことはなかったように。あいつらと俺達の明確な差は瞳の色だけだったが、いちいち確認などしなくても、「こいつは本物だろうか?」なんていう考え自体が思考には昇らない。そして…その理由は?

なぜ、俺達は絶対の確信を持っている?そして、なぜ彼女はその確信を持てないでいる?その差は何だ?

そういえば…彼女はどうして、そして、何時、あいつらが俺達の偽者であると気付いたのだ?

彼女は、あいつらに襲われた時、それが俺達の偽者だとすぐにわかったのだろうか?

あいつらが『自分は守護聖の偽者』だなどと自己紹介する訳もない…

アンジェリークは、一体いつ、あいつらが俺達の偽者であると確信したのだ?

偽者と自分達の区別といえば、それは瞳の色だけだった。

待て…

瞳の色の差異は遠目からではわかるまい。かなり彼我の距離が近くなければ…そう、抑えつけられたり、掴まったりするくらい近くなくては…

だが、いきなり襲いかかられ、無体な仕打ちを受けている時、女性が瞳の色など冷静に観察できるものだろうか…

オスカーは、何かを決意したように首を上げた。

アンジェリークにいきなり辛い話し合いを持ちかける前に、もっと考えなくてはいけないことがある。

俺自身がある程度の情報を集めて仮説を構築できれば、彼女自身への辛い状況確認も最小限で済むかもしれない。

ジュリアスがもし、アンジェリークの動揺から見当違いの結論を出してしまったら取り返しがつかない。ジュリアスとアンジェリークの2人供に心をさ迷わせて何か考えこんでいたのが、オスカーは気になった。

なるべく早くアンジェリークの不安定な心を落ち付かせ、引いてはジュリアスの苦悩を軽減しないと彼女のこれまでの忍耐が全て無駄になってしまうかもしれない。思っていたより…あまり時間はないのかもしれない…

オスカーは改めてしっかりとした足取りで補佐官の執務室に向った。

 

「補佐官どの、失礼する。今宵の警護を仰せつかったので挨拶に来た。」

「あら、オスカー。あなたが陛下のおそばについてくださるの、それなら安心だわ…」

そういいながら、ロザリアは一抹の落胆が言外に出ないよう気をつけた。やはりジュリアスはそのまますぐに退出してしまったのだわ、アンジェリークの許には留まらずに…という。それでも諦めきれぬ感情が燻り、ロザリアはオスカーにジュリアスの事を尋ねずにはいられなかった。

「ところで、オスカー、今こちらにいらっしゃる時、ジュリアスにお会いにならなかった?」

「ああ。ジュリアス様は丁度陛下の許を退出された所みたいだった。俺が声をかけるまで、歩いてくる俺に気付かないくらい、なにか熱心に考えていらしたようだったが…」

「ジュリアスは陛下のことを何かおっしゃっていなかったかしら?」

「俺に陛下のことを頼むと、御身を託されたが、陛下ご自身のことはなにも言及なさらなかったぜ。これから研究院で調べものがあるとおっしゃっていただけだ。」

「そう、何か育成で気懸かりなことでもあるのかしら…」

「その後、陛下にご挨拶申し上げてきたんだが、陛下も特に何もおっしゃっていなかったが…ただ、陛下も何か上の空といった感じで考え事をなさっていた…」

せっかく参内したのにジュリアスは、なにやら心ここにあらずと言った様子でさっさと退出してしまったことはロザリアも知っている。オスカーには言えぬが、ジュリアスが警備につかずに帰ってしまったので、ロザリアはアンジェリークが落胆しているのではないかと心配だった。そして、オスカーの言によるとアンジェリークもなにか考え事をしていたという。もしかして…

『ジュリアスは夜想祭のことをアンジェリークから聞いたのかしら…まさか、それを頭ごなしに反対やお説教なんかして言い争いにでもなってしまったのではないでしょうね…ジュリアスはアンジェリークの事を心配するあまりに、彼女の気持ちを斟酌しないでとにかく体の大事を取らせようとするから…それはジュリアスなりの優しさなのはわかるのだけど…』

ジュリアスはアンジェリークを案ずる事となると、直情的に行動しがちな所があった。一直線で抑えが効かないとでも言うのだろうか。本人はあまり自覚していないようなのだが、アンジェリークの身が少しでも危ういと思うことについては、とことん頑固で取りつく島もないような態度をとることがある。

ロザリアはオスカーをきっと見据え詰問するように問いただした。

「オスカー、陛下はジュリアスと何を話していたのかについて本当に何もおっしゃってなかった?」

「いや、俺も今夜の警護の報告しただけで下がってきてしまったから…」

「そう…」

アンジェリークが何か考え事をしていたようだというのが気にかかった。

ロザリアの滲む憂慮にオスカーも懸案顔になる。

「補佐官殿…なにか心配事があるのか?まさか…また陛下のお加減が優れないのか?俺達のいないときに、昏倒なさったとか、人事不省に陥られたなんてことは…」

「あ、ごめんなさい、心配させて。それはございません。むしろ、あなたが…そう、あなたが警護に来てくれてから陛下のお心は前より落ち付いてらっしゃるみたい。あなたがしばらく宮殿に参内しなかった時は陛下は何かこうぴりぴりと気が張り詰めてらして、そのくせ熱に浮かされたように心ここにあらずで…その時の方がまた陛下が倒れるんじゃないかと心配してたくらいでしたわ。」

「……じゃ、何が気にかかるんだ?」

「いえ…2人揃って考え事に上の空だったなんて、何か育成地に問題でもあるのかと気になって…」

「む…ん…俺の見たところ、少しづつではあるが育成は進んでいるみたいだったが…」

「そう…」

オスカーはこの機会に、ロザリアがアンジェリークの身に起きたことを少しでも察しているのか探りを入れてみようと思った。できれば当時の状況ももう少し知りたかった。恐らくロザリアは何も知らないとオスカーは推測していた。ジュリアスに知らせなかったのと同じ理由で、アンジェリークはロザリアにも事件その物をひた隠しに隠そうとしていたのではないだろうか。自分がアンジェリークに『ずっと1人で耐えてきたのではないか?』と尋ねた時も否定しなかったし…しかし、これほどアンジェリークを案じているロザリアが供にいたのに、どうしてあの悲劇はアンジェリークを襲ったのか…

「なあ、ロザリア、君が陛下の体調を大層案じているのが、俺には気にかかるんだが……君がそこまで陛下を心配するのは、陛下はもしや、いまだに幽閉時の消耗から回復なさっていないからか?先日の陛下の人事不省はそのせいなのだろうか?」

アンジェリークの昏倒の原因は違うとわかっていながら、オスカーはわざと見当違いの質問をしてみた。

「そんなことはないと…思うのだけど…」

「俺は陛下が昏倒なさったその場にいたから言うんだが…幽閉されていた当時、陛下はサクリアを絞り尽くされていたのだろう?そして、今、陛下はバリアの維持でまたも、サクリアをあらん限り放出している…ロザリア、君からみて、幽閉されてサクリアを絞り取られていた時と比べて、今の陛下のご様子はどうだ?当時も、サクリアの搾取がもとで昏倒なさったりしたことはあったのか?」

「…あの時の方が何倍も酷かったわ…サクリアを奪われていただけじゃなかったもの…いつモンスターに襲われるかわからなかったから、私達は残ったサクリアで小さな結界を作ってそこに閉じこもっていたの。比喩でなく一分一秒たりとも気が抜けなかった…」

ロザリアの端麗な容貌が苦い物でも口にしたかのように歪んだ。

「…塔の中で更に結界を張ってモンスターの襲撃を防いでいたのでは…しかし、それではいつ休んでいたんだ?」

「だから休む暇なんてなかったのよ…二人のうちどちらかが結界を張って交替で睡眠を取っていたの…一人だけだったら死んでいたと思うわ。眠らない訳にはいかないし、眠ってる間にモンスターに襲われたら一たまりもないもの。二人いたから交替で食料や水も貯蔵庫から運び出せたし…でも、お互い休む時は交替で結界を維持しなくてはならなかった。私のサクリアはもともと微弱で搾取されはしなかったから、そんなに肉体的なダメージは受けなかった。私が一人で結界を維持できればよかったのだけど、私もどうしても眠る時間も必要だったし、意識のない間も結界を維持できるほどの力は私にはなかった…だからアンジェリークも搾り取られた後の少ないサクリアで私と交替で結界を張らざるを得なくて…だから、彼女は最後は立っているのもやっとなほど衰弱して…あまりに衰弱が酷かったから、救出された後も体が受けつけないのか、しばらくは物を食べることもできなくて…っ…」

ロザリアが思わず口元を覆った。

「……」

オスカーが何と言っていいかわからず黙りこんでいると、ロザリアは憂いを吹っ切るように軽く頭を振って勤めて明るい口調で話し始めた。

「だから、その時に比べたら今はずっとマシなの。彼女は自分で自分を守らなくていいから。だから、あなたやジュリアスには余計にしっかり彼女を守ってさしあげてほしいの。あんなに…衰弱しきった彼女を二度と見るのはごめんなの、わたくしは…」

「ああ…ああ、もちろんだとも。陛下をそんな目に一度でも合わせてしまっただけでも俺は自分が許せないのに、二度も繰り返してしまったら本当に救い様のない馬鹿だ…」

「そう、サクリアの消耗は体力の消耗に繋がるわ。体が弱れば、自ずと心弱りもしてしまうわ。陛下のサクリアは、まだ限界まで放出されてるわけじゃない。確かにサクリアを吸収され尽くした時の彼女は立っているのもやっとなほどだったけど、今はまだそこまでは酷くないはず。なのに、この前彼女は倒れてしまった…それがどんなに心配なことかあなたにわかる?オスカー?だから、あなたには、彼女をしっかり守ってやってほしいの…」

『そしてあの方にはアンジェリークの心を、気持ちを支えてあげて欲しいのに…』

続く言葉を飲みこんで、ロザリアは麗しい眉を気難しげに寄せた。

『まさか、ジュリアスったら、あの子の願いを無碍に退けたりしてしまったんじゃ…ああ!もう!』

ぶつぶつとロザリアは何か考えながら部屋をうろうろと歩き回り始めた。

「そう、そうね、尋ねるのを何も夕食まで待つ必要はないわ。万が一あの方がまた杓子定規な対応を取ったのなら、その手立ては早いほうがいいだろうし…オスカー、私、ちょっと陛下の所に行ってますから、誰も取りつがないよう見張ってて頂戴、女同士の大切な話があるのよ。」

「御意、補佐官殿。俺は陛下の控えの間で番犬となりましょう。」

恭しい礼を尽くすオスカーを尻目にロザリアはさっさとアンジェリークの私室に向かった。

ロザリアの懸念事の正体はオスカーにはわからなかったが、彼女は彼女のやり方や考えで真摯にアンジェリークのことを案じているのはわかっているから、ロザリアの要請にはもちろん進んで応えるつもりであった。

それに、俺も少し考えを整理する時間が必要だ…夕食まで一人になれるのは却って都合がよかった。

オスカーは女王の控えの間に向いながら、先刻のロザリアの言葉を検証しなおしてみた。

オスカーはアンジェリークの昏倒はサクリアの消耗が原因でないと知っていながら、わざと、原因がわからないような振りをして、当時の彼女の状況をそれとなく尋ねてみた。

そして、やはりロザリアはアンジェリークの身におきた悲劇を知らないと確信した。

彼女たちは互いの身を守るため何もかも交替で行っていたと言った、休息も見張りも補給も…ということは、必ず各々1人でいる時間があったということだ。

恐らく…恐らくアンジェリークはロザリアが休息している時に、1人でいるところを襲われたのだろう。

そして、彼女の性格から考えれば…ロザリアに助けを求めるよりは、ロザリアを守る…ロザリアがそいつらに見つからないようにする、それしか考えていなかったのではないだろうか…親鳥が外敵から襲われた時、自分が囮になっても、なるべく巣や雛鳥から外敵を遠ざけ様とするように…

君ならそうするだろう、意識せずとも自然にそうしてしまうだろう、俺にはそれがどうしようもなくわかる…だから、余計に辛い…そうせざるを得なかった君の気持ちを思うと…そして、ロザリアを救えたことで君は『よかった』と心から思っているのだろう、しかし、それと君の被った悲劇による苦痛はまた別の物だ、君の辛さや恐怖は、ロザリアが救われたことで消える訳ではない。しかし、真実を知ればロザリアも苦しむだろうから何もいえない…君の肉体的消耗だけでも、これほど心を痛めているロザリアに更に酷いことがあったなどと言える訳もない、僅かでも怪しまれてさえいけない…だから、君はずっと1人で耐えて…こんな辛い状況に今まで1人で耐えて…

オスカーは胸がつぶれそうだった。だが、零れそうになる涙は自分の内側に押し留めた。

今は彼女の為に泣くことより、考えねばならないことがあるからだ。

彼女は今でも恐怖に竦み、怯えている。俺の姿を見ることでその恐怖が触発されてしまう。

しかし、唯一の救いは本来の俺自身に怯えているわけではないことだ。俺の姿そのものが恐ろしい訳ではない。俺の姿に象徴され、仮託された物に怯えているのだ。それは…突き詰めて言えば何だ?

彼女の恐怖の源は、凌辱されたという言葉にするのもおぞましい事実だ。

しかし、彼女を脅かす物は今はこの世に存在していない。もちろん苦悩は拭い難く存在するだろう。しかし怯えるということと、苦しむということまったく質が異なる感情だ。なのに、彼女は今現在も恐怖に苛まれている。彼女を脅かす物はもうないにもかかわらず。

恐怖…恐怖と言うのはそもそも何なのだろう…恐怖を引き起こすものとは何だろう…

オスカーは必死に考える。例えば牧場で、人間に酷く怯える馬がいる。まったく怯えずすぐさま従順になつく馬もいる、この違いは…そう、苦痛の記憶の有無だ。

人間に酷く調教されたり酷使された荷役馬などは生涯人間への恐怖を拭えない。それとは反対に物心ついた時から大事に扱われた馬は人間を恐れない。

苦痛の記憶は生物の根源に最も深く刻み付けられる。生存本能に関わる事象だから、苦痛の記憶は他の情動より生々しく根深い。苦痛の記憶を忘れ恐怖を感じなければ生物は危険を回避できない。それは個体の保存、引いては種の保存を危うくするから、恐怖というのは本来生存のために最も必要な情動なのだ。

オスカーは無意識のまま、控えの間の扉を明け、添えつけられている椅子にどっかりと座りこんだ。

恐怖があるから、生物は危険を回避できる…恐怖というのはいわば、生物のアラート(警戒警報)だ。近づいてはいけない物に対する、制動制御装置だとも言える。

そうだ…アンジェリークが俺に怯えるというのは…俺に近づけば危害を加えられる怖れがあると、心のそこで感じているからだ。俺のことを自分に危害を加える存在と認識してしまうからだ。

それを認めるのは大層辛いことだが、でも、事実だ。目を背けてはいけない。

本来恐るべきは俺でないとわかっているのに、俺の外見が彼女のアラートを激しく鳴らしてしまう。しかし彼女はその警報が誤作動であることを理性では知っている。知っているからこそ、余計に苦しむのだ。誤報であるアラートを抑えられない自分に。

ああいった犯罪の被害者が最も恐れ、避けたいことは何だ?それは、再び同じような目にあうこと、犯人に再び出会ってしまい、同じような被害をうけることだろう。

しかし、あの犯人たちはもうこの世に存在しない。なのにアンジェリークはそれが信じられないでいる。ここにいる俺が、その犯人ではないかと混乱し錯覚するから警報が鳴る。

なぜ、彼女はここにいる俺が俺であると信じられないのだ?

どうして、あいつらは滅んだと信じられないのだ?

俺達は、あいつらと対峙したとき、あいつらが写し取ったものはその外見だけであることを闘いを通して知っている。闘い方も、身のこなしも、咄嗟の判断も、様様な表情も…それぞれの守護聖は直接刃を交えることで、それらがまったき別個の存在であることをまさしくこの身で感じ取っている。

そして、闘いの果て、俺達はあいつらが消滅する所をこの目で見ている…

ここまで考えたとき、オスカーは「あっ!」と気付いた。

そうだ!俺達守護聖は、あいつら偽物と直接対峙した時、同時・同空間に同じ容姿をもつ人間がいることを直接見、接触して、その不自然さ、おぞましさに震撼している。自分の戯画のような、デフォルメされた悪夢の自分に対峙したときの、あのなんとも言えない嫌な気分…同じ容姿のはずなのに、精神のあり様でこれほど自分が、粗野に、野卑に、下劣に、冷酷に、残虐に見える、なりうると見せつけられた時の衝撃は、あの場にいた守護聖共通のものだろう。

しかし、彼女は見ていないではないか!守護聖が同時に2人いるその場面を。

彼女はそれぞれ、俺達と、彼女を襲ったあいつらを切り離した場面でしかみていない。同じ時間、同じ空間に同じ容姿をもつ物が存在しているという、あの禍禍しさを直接見知ってはいないではないか!同じ容姿でも、その発するオーラはまったく違うのだと、直接見比べる機会がなかったではないか!

ましてや…襲われていた時、あいつらの正体が明確にわかったわけではあるまい…俺達も知らなかったのだから、彼女が俺達の偽物が作られていたなんて知る由もない。自分を蹂躙しているのは信じられない悪夢であり、受け入れ難い現実であり、何が自分を襲っているものなのか…混乱のまま凌辱は終わったのではないだろうか…

あれは俺ではないということにだけは気付いたかもしれない。気付いてくれていて欲しい。

でも、それなら自分を踏みにじっている、このモノは一体何なのだ?と彼女は余計に混乱したことだろう。オスカーではないようだ。でも、間違いなくオスカーの姿をしたもの。その時、アンジェリークは守護聖の血から仮初めの肉体を現出させる忌まわしい力があることなど知らないのだから、その正体などわかるはずもない。オスカーではないとは思う、でも、それが何なのかもわからない。自分に暴虐の限りを尽くしているそのモノは、オスカーではないと理性は告げたとしても、自分を組み敷く肉体は紛れもなくオスカーのものなのだから、彼女の精神は二つに引き裂かれて混乱の極みに陥ったことだろう。

しかもその後も彼女は一度も見ていないのだ。同じ肉体をもつ存在が2人同時にいたことを。だから、その事実自体が心の底から実感できていないのだ。

あの同じ空間に自分と同じ顔のいるおぞましさは確かに直接経験したものにしかわからないだろう。そして、彼女はその衝撃を自分のものとしては経験していない。

彼女がわかるのは、自分の身をもってして知っているのは、オスカー(とそしてランディ)の肉体に蹂躙され踏みにじられたという経験のみなのだ。

その正体もわからず、これは自分の守護聖ではないということだけはわかったかもしれないが…何が何だかわからないものに踏みにじられたことしか、アンジェリークには認識できていなかったと思う。

当たり前だ。自分の意に反して凌辱されている女性が、その犯人を冷静に観察などできるはずもない。

ましてや本来自分を守る守護聖の肉体が、自分に襲いかかってきたという事自体、信じ難いに決まっている。

それでも、なんとか必死で逃げようとし、力の限り抵抗し、それも敵わなかった時は…男2人の力に立っているのも覚束なかったアンジェリークが逃げ切れるわけもない…アンジェリークは恐らくロザリアに累が及ばないようにするだけで精一杯だったに違いない。

そして最後に彼女自身にわかったのは、オスカーとランディの肉体が自分を無残に踏みにじったということ、無体な行為をされたというその事実だけだ…

俺達と偽者が同時に存在しているというおぞましい事実を目の当りにしていない彼女。偽者が偽者以外の何物でもないということを自分の経験にしていない彼女。

彼女にとっての確かな現実は、オスカーとランディの肉体に凌辱されたという事実のみ。

そんな彼女が、偽者と本物を同時に見比べる機会のなかった彼女が、今、ここにいる俺達が、本物か偽者か一瞬わからなくなってしまうのは、当然の帰結ではないか…彼女が襲われた時も、それは唐突で、なんの予告もない理不尽な強襲だったに違いないのだから…そして、最後までその正体がわからなかったのなら…今、彼女に声をかけ、近づく俺達は本当に俺達なのか、その確信など持てる訳がないではないか…

だから…だから彼女は今でも混乱してしまうのか…今、ここにいる自分が、オスカーなのか、オスカーでないのか、咄嗟にアンジェリークが混乱するとしてもそんなことは当たり前ではないか。オスカーの姿をした得体の知れないものかもしれないと思っても無理ないではないか…

しかしあいつらは最早この世に存在しない。被害者の最も恐れる再犯がないことは本来救いの筈だ。なのに彼女の恐怖心は減じていない。これは何故だ?

そうだ…これも…同じことだ。彼女は実感していないのだ。彼女はあいつらの滅死を伝聞でしか聞いていないのだから。彼女はあいつらの死をその目で確かめていないのだから。

あいつらと直接闘ったのは俺達であり、この剣が偽りの肉体に吸いこまれる感触に怖気とほのぐらい喜びに彩られた手応えを感じたのも俺達であり、あいつらがこの世から塵のように消えるところをみたのも俺達であって…彼女ではないのだ…

そうだ、これが俺達と彼女の大きな違いだ。

俺達はあいつらが消滅したその瞬間を見ている。その場にいて闘い、やつらに引導を渡した張本人なのだから。だから、あいつらが存在するはずがないことを肌身で知っている。だから、混乱もしない。いちいち瞳の色まで確認しなくても、確認する気もおきないほど、あいつらの消滅をこの身をもって知っているからだ。

しかし、彼女はあいつらがこの世から消えた瞬間をみていない。あいつらがもうこの世にはいないという実感をもてていない。報告であいつらは滅んだと聞いただけだから。

彼女自身の手であいつらに留めを射せていれば…それが不可能なら…ぞっとしない考えだが…死体なり、その首級だけでも回収して彼女に見せ、あいつらの死を確認させられていれば彼女も心から安堵できたかもしれない。もっとも今更そんなことをいっても何にもならない…元々この世に存在するはずではない歪んだ理に基づく肉体はその魂の乖離とともに、塵となって四散してしまったので、死体の回収はしたくてもできなかった。

ということはだ…

オスカーはここまで考えて目の前が真っ暗になった。

彼女はどうやったら、そいつらがこの世に存在しないこと、自分に納得させられるんだ?

あいつらがもう彼女を襲う心配のないことを、彼女はどうやって実感すればいいんだ?

そいつらと俺達が一緒にいる所も見ていない。そいつらが滅んだ瞬間も見ていない。そいつらが死んだという確かな証拠もない。

あいつらが俺達の肉体だけを模したモノである確信も抱けず、あいつらがもうこの世にはいないという確信も今更抱きようがない。

これで…こんな状態で彼女に安心しろと言っても安心などできるわけがないではないか…

2人同時にいるところを見ていないから、あいつらと、俺達がまったく別個の存在だったという実感ももてずにいるのだ。

ましてや、死体も確認せずに、いくら、あいつらはもうこの世にいないと言っても、心の底から信じられる訳がないではないか!

オスカーは思わずうめいてがっくりと項垂れた。

あいつらが死んだという証拠はもうどうやっても提示できない。

いくら口で言っても、そんなものは机上の空論だ。いくら彼女が大丈夫だから心配しないでくれと言っても、ジュリアス様が彼女を案じることが止められないのと同じだ。

確かな実感…納得できる証拠や、自分の目や体を通して見知る実体験がなければ、人はその事実をなかなかに受け入れられる物ではないのだ。彼女にとっての実感とは、俺達の肉体に踏みにじられたということであり、実際の経験を、言葉や観念だけで覆すことなどほとんど不可能ではないのか?

そして、あいつらが既に存在しないことを証明する術がない、実感させてやる術がないのに…彼女を安心させる方法など一体、何が…何があるというのだ?

彼女が何故、俺に怯えるのか、そして、なぜ、俺とあいつらと区別が曖昧になってしまうのかは、恐らくこの推論で間違いはあるまい。

しかし、その打開法がわからないのでは、いくら理由がわかってもどうしようもないではないか…

オスカーの思考は袋小路に嵌ってしまった。

あいつらの死体を回収できていれば…という今更嘆いても仕方ない考えから脱却ができない。

それ以外に、彼女にあいつらの滅死を納得させられる方法も思いつかない。

それで…それでどうやって彼女の心に平穏を取り戻せるというのだ…

オスカーは絶望に真っ黒に塞がれそうになる心から、澱をふるい落とそうとでもするように激しく頭を振った。この絶望というどぶどろに足をとられそうになりながら、すんでの所で掴まるのをかわそうとオスカーの心は足掻く。

だめだ…だめだ!ここで俺が絶望したら、彼女はどうなるんだ!なんとか…なんでもいい、彼女にあいつらは真実もうこの世にいないのだと、俺は、俺達は決してあいつらと同じモノではないのだと、実感させてやれる方策を考えろ!

思考を推し進め、研ぎ澄ますために、手がかり、足がかりとなる会話を誰かとしたかった。袋小路に嵌った思考も他人との会話で、別の角度から光りを当てることで見えなかった面が見えてくることがあるからだ。

ジュリアスに相談できればいいのだが…しかし、ジュリアスに相談を持ち掛けることはジュリアスにこちらからアンジェリークの悲劇に対する手がかりを与えてしまうことになりかねない。

アンジェリーク自身が承知の上で打明けるのでないなら、自分が独断で彼女の問題を打明けていい筈もないし、彼女自身がそれを望んでいないのだから、そんな危険は侵せない。

オリヴィエ…オリヴィエもだめだ。あいつは妙に勘が鋭い。俺が持ちかけた話の断片から、全てを推測しかねない。もちろんあいつは、他人の隠しておきたいことに気付いてもそれを暴きたてたり、触れまわるようなヤツじゃない。

しかし、こうしていつのまにか情報が拡散することはアンジェリークの本意ではないだろう。

オスカーが今求めているのは、アンジェリークの心の平穏を取り戻す為に具体的かつ焦点のあった答えだった。

しかし、それには一体どうすればいいのだ…諦めるな、諦めてしまったら、爆弾を抱えているような彼女をそのまま放置することになってしまう…

出口の見えない暗渠に迷いこんだような気をなんとか振り払おうと、オスカーは自分を叱咤しつづけた。

 

オスカーが苦悩の淵に足を取られていたその時、ロザリアはアンジェリークを訪ね、それとなくジュリアスとの会話の内容を聞き出していた。

ロザリアが思った通り、アンジェリークは夜想祭のことを、ジュリアスに話したという。

「で、ジュリアスに思いきり反対でもされたんですか?」

「いいえ…その、ジュリアスは…人心に希望を与える行為なら反対しない、むしろ、いいことだって、言ってくれたの…」

ロザリアは、ほっと吐息をついた。心配していた分、気が抜けた。だが、ジュリアスの思っていたより柔軟な思考に感謝したのも事実だった。

「じゃ、何も問題ないじゃありませんか。」

「でも、でも、怒られたり、反対されなかったから、なんだか気が抜けちゃって…てっきり反対されるか叱られると思って身構えていたから…」

「あら?ジュリアスに叱ってもらいたかったんですか?まるで期待してたみていに聞こえましてよ?」

「そ、そう言う訳じゃないけど…エルンストだって最初は反対したから…だから…意外だったっていうか…」

「もう…そんなことでぼーっとしてたんですか?わたくし、陛下が何か心ここにあらずで考え込んでるみたいだってオスカーに聞いて、てっきりジュリアスと言い争いでもしたのかと心配してたんですのよ。」

「あ…オスカーがそう言ってたの?そう…私、ぼーっとして見えたって…」

「ぼーっとしてたとは言いませんけど、何か考え事をしていたっていうものですから…何か心配事があるのかと思ったんですわ。もし何かあったらなんでも言ってください。よろしいですわね?問題を一人で抱えこんでいたって解決するとは限りませんのよ?」

「あ、ええ、そう…そうなのかもしれないわね…ありがと、ロザリア…」

ロザリアは安心したように頷いて、一度退出した。

アンジェリークは、ほうと溜息をついてソファに腰掛けた。思ったことの1割もロザリアにはは言えなかった。

なんだかジュリアスがこの前までのジュリアスと違っていたなんてことを。

どこがどう違うか、上手く説明できないのだけど…それが気にかかってオスカーが来たことにも気づかなかったくらいだった。

先日まで自分はオスカーに会いたくて、会って謝りたくて、そのことで頭は一杯だった。そんな自分の様子を不可解に思ったのだろう、ジュリアスの態度も、また自分に対して、なにかぎこちなく遠慮がちで…そう、一緒にいてくれるのにまったく触れてこなかったり…しかも、時折諦めたように哀しそうに自分を見つめたり、そんなジュリアスの態度にアンジェリークは不安を感じていた。ジュリアスが遠くに去ってしまいそうな恐ろしい予感がアンジェリークを苛んでいた。

なのに、今日のジュリアスはこの前までのジュリアスと何か違っていた。

おずおずと壊れ物に触れるみたいに私の頬に触れた。でも、この前みたいな諦めたような哀しそうな瞳じゃなかった。私に触れた時、その指先から戸惑いと躊躇いが流れきたような気がしたけど…そう、泣いている子供をどうあやしたらいいのか、わからない大人みたいな…いたわりたいのに、どうしていいかわからないとでも言うような…

なんで私をあんなに優しい、でも、困ったような目で見るのかわからなかった。私がいくらわがままを言っても、もっと優しくなるだけだった…

私、絶対叱られると思ってたから…無理はするなって、余計なことに力を割くなって、ジュリアスはいつも言っていたから。心配されてるのわかってて、でも、私も今回は何と言われても、引く気はなかったから…喧嘩になっちゃうかも…とまで思って最初から身構えていたのに…そう、警戒してるハリネズミみたいに最初から心が刺だらけだった…

でも、喧嘩なんてことになったら、なんのためにオーロラを出すのかわからなくなっちゃうのに…私は馬鹿だから、自分の主張に拘ってかちかちに頭が固まっていたわ。その上、なんだかどこまでも優しいジュリアスに我慢できなくて、わざと挑発するような、試すような態度ばかりとってしまった…

でも、ジュリアスは全然怒らなかった…私を諭しも宥めもしないで、言う事をすべてそのまま受けとめてくれた…どうして?どうして、ジュリアス…

オーロラを一緒に見てくれるって言ってくれた…私と一緒に帰るためにがんばるって言ってくれた…だから宮殿にくる時間が減っても我慢してくれって…だからなの?あまりこられなくなるから?それだけ?

ジュリアスは優しい…優しすぎるほどに…そして、ジュリアスは誠実な人。ジュリアスほど信じられる人はいない…なのに…なぜ、私はこんなに不安になってしまうの…

ジュリアスは私にいろいろな事を教えてくれた…無理矢理強制された訳じゃないわ…あの人を見ていて私が思ったこと、感じた事は、自分に恥かしくない生き方をしろということ。他人の目を気にするんじゃない。自分自身に問い掛けてみて、これが自分の精一杯だって思えるように生きる…それが誇りを持つという事。

私はあの人から、人の持つ強さも優しさも教わったわ。

あの人はいつも、何にでも、まっすぐで一生懸命で…誰かがしなくてはならないことなら、それが困難であればあるほど自分が背負って…疎まれようと、敬遠されようと、しなくてはならないことから逃げない、他人に押し付けたりしない、それはあなたの優しさ、逃げないことはあなたの強さ。

そんなあの人を尊敬してる。そんなあの人だから好きになった。

あの人に相応しくなりたかった。立派な女王になれると信じて背中を押してくれたあの人の期待に応えたかった。あの人はそんな私に色々教えて行く先を示してくれたわ。

でも、一人で歩かなくてはと思ううちに、あの人に恥かしくない生き方をしなければと思ううちに、私は…頑なになっていたのかしら。何かに頼る事は悪い事だと思いこんでいたのかしら…

私、実際、今一人で立ててない。それなのに、意地を張って何にも掴まらずにいたから、倒れてしまったのかしら…倒れそうな時は、何かに掴まってもいい…溺れそうな時は何かに縋ってもいいのかしら…また、一人で立てる力が取り戻せるまで、何かに拠りかかってもいいの?それはあなたの教えてくれた事を裏切ることじゃないの?そう思ってもいいの?

彼に尋ねることじゃないかもしれない…彼が私のために割いてくれる時間はこんなことを聞くためじゃない…わかってるわ…でも…

アンジェリークは夢遊病者のような覚束ない足取りで宮殿の中庭に出ると、薔薇を一本手折った。

七分咲きの小ぶりで清楚な白い薔薇だった。

「つ…」

小さな刺がアンジェリークの指先を傷つけ、僅かに血がにじんだ。

アンジェリークは自分の指先にぽつんと小さく盛りあがった血の珠をぼんやりと見つめた。

『薔薇はただ自分を守りたいだけ…その花びらはあまりに脆く儚いから…でも、その刺がこうして実際に人を傷つけてしまうことがある…薔薇が意図しなくても。だけど、それは薔薇のせいじゃない、薔薇が悪いわけじゃないわ……あ…もしかして…だから…だから薔薇を選んだの?オスカー…』

薔薇は人を傷つけることがあっても、それは薔薇のせいではない。不用意に手折らなければいいのだから…私が薔薇の刺で傷ついても、それをいまいましく思ったりはしない、薔薇を悪く思ったり、疎ましく思って嫌いになったりはしない。それと同じこと…そういうことなのかしら、そう言ってくれるつもりだったのかしら…オスカー…もし、そうなら…ありがとう、オスカー…

小さな透明な雫がひとつ、白い花弁にすべって落ちた。

 

「ふむ…現況をどう分析する?エルンスト」

「育成は確かに進んでます。正し万全ではありません。」

「私も同意見だ。確かに育成は日々成果をあげている。しかし、限られた時間の中にゴールまで辿り付けるかどうかというと、今一つ覚束ない…そんなところか…」

「はい、この地にサクリアを変換して注ぎ込んだとして、守護聖様方のエネルギー変換率は1回につき数値にしてマックスで200程度。ただし、当然のことながら毎回最大限のエネルギーを注ぎこめる訳ではありませんし、毎日育成ができるわけでもありません。最大値までエネルギーを溜めるには2回の補充が必要ですし、学習によってその器自体も広げねばなりません。しかし、育成と補充と学習だけの繰り返しでは、彼女が疲弊して燃え付きてしまう危険もありますので、無理はさせられません…」

「問題は育成の時間が限られているのと同様に、育成地エレミアもまた有限の土地だということだな。この地以外にサクリアを注いでも、それは封印を解除するには役に立たぬのであろう?」

「そうです。」

「率直に言って、どれほどのエネルギーを注げば、封印は解除できそうだという試算はあがっているのか?」

「恐らくは6000程度かと。ただ、これは…アンジェリークにはまだ内密に願います。」

「あまりに大きな目標をいきなり提示したら、怖気づくか、諦めてしまうかもしれぬからな。」

「その怖れは否定できません。」

「そして、1回につき、200のエネルギーを注ぐとして、6000必要ということは、30ヶ所の流入点が必要ということになるが…それほどの余裕がエレミアにあるのか?時間的な期限もどうだ?」

「まさしくぎりぎりといった所です。現在のエネルギー蓄積率はほぼ3分の一といったところです。しかし日数は最早残り2分の1であることを考えると、一日たりとも育成を休むひまはないと思われます。」

「やはり…闇雲で単純な補充、育成だけでは心もとないな…なんとか一回の育成の効率を高める方策を検討したほうがよかろう。エルンスト、私の…いや、女王の名において、クラヴィスとルヴァに現況の確認とその対策を相談する旨の通達を出しておくように。明日の執務終了後、ここで会議を開く。」

「承知致しました。」

「資料を検討しておきたいので、プリントアウトを頼む。ルヴァとクラヴィスにも後刻届けておくように。」

「はい、一分ほどお待ちください。」

プリンターから吐き出される紙の束をジュリアスは見るともなしに見つめる。

今は手探りでもいい。とにかく可能性を高めることだ。それが引いてはそなたの心の底からの笑顔を取り戻す道だと、私は信じよう。

まだ暖かい紙の束を受取り、ジュリアスは自分の私邸に戻る。

アンジェリークはもう夕食を終えただろうか、どうか、悪い夢に苦しめられることのないようにと案じながら。

そして、そなたがいつか悪い夢からすっかり解放される日を、一日でも早く手繰り寄せてみせると心に決めながら。

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