汝が魂魄は黄金の如し 21

静かな夕食だった。カトラリーの触れ合う音が時折控え目に響く。しかし、言葉を発する事を禁忌とするような堅苦しい雰囲気はなかった。

ロザリアは、とりあえずの懸念が晴れてほっとしていた。

ジュリアスは思ったより鷹揚な態度でアンジェリークに接してくれたようだった。ジュリアスは先日人事不省となったアンジェリークの様子を殊の外案じている。だからアンジェリークがバリアに手を加えることの身体的負担を懸念して、ジュリアスは夜想祭開催に強硬に反対するのではないかとロザリアは心配していた。しかし、アンジェリークに聞いた様子から鑑みるに、アンジェリークの精神的な安定のためには、彼女の望むようにした方がいいとの判断がジュリアスに働いたのだろう。

ジュリアスは実利的な人間である。だからこそ、事務処理能力は高く、それが人によっては冷徹に映ることもあるが、夜想祭の件ではアンジェリークの肉体的な負担ともたらされる精神の安定とを、無意識の内に天秤にかけて功罪を計った上で、許諾したのではないかとロザリアは想像した。

ジュリアスの思惑がどうあれ、彼が頭ごなしに反対せず、アンジェリークの気持ちを汲んでくれて本当によかった。ジュリアスはアンジェリークの為に良いと思われることをきちんと判断し、結論を導き出してくれた。恐らくジュリアスには心配もあった筈だ。それでも、自分の不安を和らげる為に一方的に反対することなく、その不安は押さえこんでアンジェリークの望みを受け入れたのだろう。アンジェリークにとって、本当に必要・有用と思われることをきちんと認め受容してくれたジュリアスの判断力にロザリアはますます信用の度合いを高めた。ジュリアスが精神面で支えてあげてくれれば多分彼女はこれからも大丈夫。幸い、体の方はこの比類なく頼りになる騎士が側仕えしてくれていることだし。

機嫌の良い補佐官は愛想よく微笑みながら、隣の席のオスカーに街や住民の様子を尋ねている。宮殿に詰めて事務処理及び女王の秘書を務めるロザリアは自分の目で街の様子を直接見る機会があまり多くはない。警備に来てくれる者との会話はそれを補う大切な手段でもある。

その、補佐官の最も信任厚い騎士であるオスカーも、落ち付いた様子かつ正確無比な手つきで料理の皿を綺麗に片付け、健啖家ぶりを披露している。今夜はあまり自分からしゃべらない。たまさかのロザリアの問いかけに、短い言葉で返答を返すだけだ。食事も会話も機械的にこなしているかのような印象さえあたえる。食事を無難にこなしながらオスカーは時折物問いたげな瞳でアンジェリークを見つめていた。もっともアンジェリークに視線を投げている時も、彼の手元は滑らかに動き、テーブルマナーは如才ない。

アンジェリークも言葉少なだった。時折オスカーに救いを求めるような光りが瞳に宿る。ただ、オスカーとは決して目線をあわせないようにしていたので、オスカーがどんな目で自分を見ているのかには気付かなかった。そして彼女の胸元には白い小さな薔薇がコサージュのように飾られていた。

 

夕食が済み、アンジェリークとロザリアはそれぞれの私室に、オスカーは警備の当直として女王の控えの間に引き上げた。一時間くらい経った頃を見計らって、オスカーはアンジェリークの部屋のドアを静かに叩いた。まるで待っていたかのように、ドアが速やかに、しかし、ひっそりと開いた。

「オスカー…」

「…」

オスカーは黙ったまま一礼し、するりと体躯をドアの内側に滑りこませた。言葉を交わす時間は少なければ少ないほどいい。使用人は通いの住人ばかりなので聖殿ほどに警戒の必要はないが、不安材料は少ないに越したことはないのだから。

アンジェリークも無言のままオスカーに椅子を勧め、彼女自身はコーヒーを袖れにカウンターに立った。オスカーは勧められるままに椅子にかけ、見るとはなしにアンジェリークの姿を見つめていた。アンジェリークは寛いだ部屋着を身につけている。部屋の中は快適な温度が保たれ、コーヒーメーカーから香ばしい香が立ち上っている。香が飛ばないよう、アンジェリークが時間を見計らって豆を挽いてくれたのだろう。その心遣いが嬉しかった。

自分の前にカップが供され、アンジェリークが座るのをオスカーは待った。アンジェリークは正面ではなく、オスカーの斜め横の一人がけのソファに腰を降ろした。

オスカーはアンジェリークに何を、どう、きり出したらいいものやら、考えていた。

正直言って今夜アンジェリークが時間を作ってくれるとは思っていなかった。昼間に図らずもまた、彼女を怯えさせてしまっている。彼女が不安から…また怯えを抑えられない不安から、今日は自分との距離を置くものとオスカーは思っていた。だから、彼女が身に着けてきた白薔薇に目を疑った。信じられなかったオスカーは食事の時、アンジェリークの胸元の薔薇を不躾にならないように気をつけながらも、何度も確認せずにはいられなかった。確認するたびに、自重しなくてはと思ったものの、喜びの感情がじわじわと湧いてきた。彼女は俺を信頼してくれ、頼りにしてくれているらしいと思うだけで、その身が震えそうになった。

アンジェリークは、彼女自身が何か俺と話したいことがあるのだろうか。それとも、俺の必要とする情報を供してくれようとわざわざ話し合う時間を作ってくれたのだろうか。

オスカーが聞きたいことは2点あった。

ひとつは昼間のジュリアスとの会話の内容だった。ジュリアスの様子も先日と何か違う印象をうけたが、そのジュリアスと会っていた結果なのかアンジェリークの茫洋とした様子が気懸かりだった。ロザリアが何やら自分を問い詰め、望む答えが得られないとわかると即刻アンジェリークの許に赴いたのも、ロザリアもアンジェリークとジュリアスの会話内容に何か気にかかることがあったからではないかとオスカーは思っていた。アンジェリークさえ嫌がらないのなら、ジュリアスと何を話していたのか、聞いてみたかった。ジュリアスが自分の体調不良に気付いていたということも、オスカーの神経に何か触るのだった。

それと自分が確かめたいのは…そう、これは聞き出したいのではない、あくまで最終的な確認をしたいだけだ…アンジェリークが、いつ、どうして、あいつらが魔導で作られた俺達の偽者だと気付いたか、その点だった。しかし、こんなことをいきなり真正面から尋ねられるものでもない。とりあえず、話しの切っ掛けとして、ジュリアスの様子と、ロザリアの懸念のことを持ち出して見ようと思った。

「陛下…」

「オスカー…」

2人同時に互いを呼び合ったことで2人は一瞬顔を見合わせた。思わず笑みが零れ緊張が解れた。

「あの、オスカー、この前みたいにアンジェリークって呼んで?その方がなんだか安心するの…あ、もちろん、私がオスカーのおめがねに適えば…だけど。」

オスカーは柔らかく微笑んだ。

「もちろんです。貴女は立派なレディなのですから…では、アンジェリーク、今夜は時間を作ってくださってありがとうございます。」

「そんな…あの、私、私ね、あなたに話したいことがあって…その、この前考えようって言ってくれたこととは違うのだけど、オスカーに聞いてみたいことがあって…」

「なんなりとお尋ねください。」

「あの、ジュリアスのことなの…ジュリアスとのことを知ってるのはオスカーだけだから…オスカーにしか話せなくて…それに、オスカーはジュリアスのことをよく知っているでしょう?私よりきっとジュリアスの考え方がわかると思って…」

オスカーは黙って頷き、話しの先を促した。

オスカーは自分から話しの切っ掛けを出さずに済んだことを感謝していた。ジュリアスとの問題はアンジェリークの最も私的な心の領域に属することだ。単なる私生活の詮索と受取られないために、なんと切り出したらいいものか、考えていた矢先だった。

アンジェリークがジュリアスの話をわざわざ持ち出すということは、やはり昼間彼女が心ここにあらずだったこととジュリアスが関係しているということだ。そして、それはジュリアスの微妙な態度の変化と無関係とも思えない。自分がジュリアスの態度に何か引っ掛かりを覚えたことも何か関係があるかもしれないと、オスカーは推測した。

「何をお聞きになりたいのですか?俺で参考になることでしたら…」

「あの…問題はオーロラだったの。」

「オーロラ?」

「あ…これじゃ何がなんだかわからないわよね、私って話が下手だわ…順番に話すわね。」

そして、アンジェリークはオリヴィエから聞いたこの地の土着の祭り『夜想祭』のことと、その持つ意味をオスカーに説明した。そして、自分はその祭りを開いてみたいと思ったこと、祭りの時に必要なオーロラをもしかしたら自分の力で出せるかもしれないと思ったことも、もちろん付け加えた。

「で、そのために研究院に調べてもらった資料を見ていた時に、丁度ジュリアスが宮殿に来たの。そうしたら、ジュリアスがとっても私を心配そうに見て『無理はしてないか』って聞くの。だから私、てっきりその夜想祭のことをロザリアから聞いてきて、だからジュリアスはきっと夜想祭に反対しに来たんだろうって勝手に早とちりしてしまったの。」

「アンジェリーク、あなたはどうして、ジュリアス様は夜想祭を開くことに反対すると思い込んでしまったのですか?」

「オスカーも、そう思うのね…ジュリアスも自分の考えを言う前に私に聞いたの。なぜ、自分が反対すると思うのだ?って。」

「それはそうです。何も知らないうちから、自分が反対するに決っていると決めつけられたら、それは何故だろうと不可解に思うでしょう。」

「…それはね…私はやましかったからなの…多分、そうだと思うの…」

「やましい?」

「ええ、オスカー。今言った通り、オーロラに願いをかけるとその願いが叶うってオリヴィエから聞いたとき、私、猛烈にそのオーロラを出してみたくなったの。そのオーロラに祈る為に…正直言うと、民のため…っていうより、自分のためにオーロラを出したかったって気持ちがあったの。自分で出した物でも、無理矢理作ったものでも、自分がオーロラに願いをかけてみたかったの…そうしたら、きっと聖地に帰れるって自分自身が強く信じられるような気がして…これからも挫けずがんばれそうな気がして…」

「それがあなたのやましさの原因ですか?」

「ええ、だって、もともとオーロラを出したいと思ったのは民の為じゃないのよ?極端に言ってしまえば自分のためなのよ?そのためにこの地のお祭りを利用しようとしているって気持ちが私は拭えなかった。オリヴィエは、オーロラを出してお祭りを開いてあげれば民も喜ぶだろうし、民も幸せになって陛下も幸せになることなら、それでいいじゃない?って言ってくれてたのだけど…」

「あの極楽鳥の言う事は理に叶っていると思いますが。」

「そうなのかな…でも…民にかこつけて、自分の願いを叶えたいと思ったのは確かなんだもの…だから、私はやましかったの、自分の願いを叶えるために力を使うなんて女王の立場として許される物じゃない、だからきっとジュリアスは反対するに決ってる、でも、反対されても私はどうしてもオーロラは出して見たかった、その気持ちは変わらない、だから、私は最初からジュリアスに何を言われるのかって警戒してたの。だけど、ジュリアスは私の勝手な願いをすんなり聞いてくれたの。でも、私はジュリアスが私のわがままをあっさり聞いてくれたから、余計に後ろめたくなってしまって、それで自分から、ジュリアスに食ってかかるような事を一杯言ってしまったの。夜想祭を開きたいのは民のためじゃないのよ、とか、これでも私を叱らないの?とか、私のこと呆れたでしょ?とか…わざと、ジュリアスに叱られそうなことばかり選んで言ってしまったの…」

「……それでジュリアス様はなんと?あなたが思った通り、ジュリアス様にお小言をもらったのですか?」

「それが…ジュリアスは全然怒らなかったの。それどころか、すごく優しくて…私、だめな女王だって、自分のことばかり考えていてはだめじゃないかって絶対きつく諭されると思ってたの。でも、私がオーロラに祈ることで落ち付くならそれでいいって。民に希望が必要なように、女王にも希望を求める気持ちがあるのは当然だって…オリヴィエみたいに、民にも自分にもいいことで、体にさほどの負担がないなら、思う通りにしていいって…」

「ジュリアス様はあなたの願いをそのまま受け入れてくださったのですね?それで、アンジェリーク、あなたは何をそんなに心配なさっているのです?俺が挨拶に伺った時、あれはジュリアス様が退出された直後ですね?俺はジュリアス様と廊下でお会いしましたから…その時、あなたは何か考え事をなさっていた。何かに気をとられてぼんやりしていた…それで俺は、ジュリアス様と何かあったのかと案じておりました。どうもロザリアも同じ懸念を抱いていたようで、あなたの様子を根掘り葉堀り聞かれましたから…」

「やさしすぎるの…」

「え?」

「ジュリアスは私のこと、困ったように、どう扱ったらいいかわからないとでもいうような目で見るの…そんな気がしたの…私、ジュリアスの前でまた度を失った振る舞いをしたわ…オーロラに固執して、反抗のために反抗するみたいな真似をして、わざとジュリアスを挑発するような態度まで取って…それでもジュリアスが辛抱強く優しく接してくれたら、今度は気が緩んでまた泣きそうになって…でも、ジュリアスはその事を何も言わないの。私が何か変だって思ってるはずなのに、何も言わないでただ受け入れてくれるだけなの。私、ジュリアスがどうしてそんなに優しいのか…ううん、もともとジュリアスは優しい人なの、でも、なんだろう…なぜかどこか、ジュリアスが変わった気がしたの。ジュリアスは純粋に、私の心を支えようと何でも協力してくれるだけなのかもしれない、私が不安定なのは明かだから、余計に…でも、それだけなの?って不安になってしまって…私が何を言っても聞こうとしないわからずやだから、仕方なく諦めて、なんでも『はいはい』って言うことを聞いてくれてるのかも…なんて思ってしまって…」

「ジュリアス様がおっしゃっていたことは、夜想祭には反対しない、ということだけですか?」

「あ、いいえ…必ず聖地に帰ろうって強く念を押してくれたわ、それから、そのために、コレットの育成法を検討しなおすから、しばらく宮殿には来られないかもしれないって…」

「………俺が思うに…ジュリアス様の言葉に裏や含みはないと思います。泣いている子供に飴を与えて黙らせるような、その場限りの誤魔化しのためにあなたの言を認めた訳でもないと思います。ジュリアス様はそんな誤魔化しは嫌うでしょうから。ジュリアス様は、あなたがオーロラを出したがっていることを知り、その理由を知った。その理由は偏に、聖地に、元いた世界に帰りたいという切なる願いだ。それはあなた個人の願いかもしれない。しかしそれは同時にこの地の民の願いであり、我らにとっては義務でもあります。それを完遂するために我々は強い意志と不断の努力を必要とします。挫けることが許されない以上、心を強く保つために有用な事と判断すれば、ジュリアス様はそれを反対するどころか、むしろ後援なさるでしょう。ジュリアス様は夜想祭を開くことに、しぶしぶ同意されましたか?むしろ、進んで賛成してくれたのではないですか?」

「あ…そう、そうだったわ…いいことだと思うって。仕方ないけど許すっていう感じじゃなかった…」

オスカーは長い指を組んで、無言で頷いた。

「それなら、聖地に帰ろうという言葉は恐らくジュリアス様の決意の現れです。あなたがオーロラにかけた願いを叶えてみせるという。そのために自分もできる限りの尽力をするという気持ちの現れだと思います。夜想祭に賛成したのは、決してとりあえず、とか、仕方なくではないと思います。あなたが心配なさるようなことは恐らくないでしょう。」

オスカーはアンジェリークとのやりとりからいろいろ見えてきたものがあった。ジュリアスの微妙な態度の変化、それは迷いを振りきったことに恐らくは起因しているのだ。ジュリアスの態度にはどこか決然としたところがあった。オスカーはジュリアスが何を決意したのかを懸念していたのだが、ジュリアスは己の逡巡や苦悩はきっぱりと打ち払い、アンジェリークの願う所…それは彼自身の願いでもあり、万民の願いでもある…を叶えることに神経も体も集中させることを決意したのだろう。自らの迷いや苦悩には封印を施して。無理にでも、意図的にでも。この願いが叶わなければ何も始らないし、アンジェリークが効能も定かではない原始宗教のような行事にさえ縋りたいと思うほどの切望、その願いの切実さに衝撃を受けたのかもしれない。

少なくとも、この地から生還することを至上目的としてくれるなら、その間は自分が案じたようにジュリアスがアンジェリークを手放してしまうようなことはないだろう。ジュリアスの行動は、その逆にどこまでもアンジェリーク本位に思える。自身の懊悩云々より、アンジェリーク本人の願いを叶えることを第一義に行動しようとしているらしいことから、それがわかる。

自分に『警備はまかせる』といったのもその決意の現れの一環かもしれない。自分は育成を確固とすることでアンジェリークの願いを叶える手助けをする。だから、彼女の身の安全は俺を信頼して全面的に任せるということだったのかもしれない…そのためにジュリアス様は俺の体調が気懸かりだったのかもしれない。俺の顔色が悪かったから、アンジェリークの警護を完全に委ねられるか念を押して確認したかったのだろう。

ジュリアスという人間はその司る力そのままのようだ。ひとたび、目指す所を見極めればまっすぐにそれに邁進し力を惜しまない。恐らく、どこに進めばいいかわからないような状態は、ジュリアスにとって最も苦痛ではないだろうか。ジュリアス自身もそのような状態から抜け出す契機を無意識に求めていたのではないかと、オスカーは思った。

とりあえずの懸案が晴れて、オスカーは余裕のある笑みをアンジェリークに向けた。アンジェリークも自信ありげで、かつ論拠の明確なオスカーの言に安堵の表情を見せた。

「そうなのかな…オスカーにそう言ってもらえたら、なんだか安心しちゃった…」

アンジェリークは体の硬さが解れ、少しはにかんだ笑みを浮かべた。オスカーも自然と柔らかい笑みで応える。

「それに、あなたはジュリアス様をわざと怒らせるようなことばかり言ってしまったというが…俺にはジュリアス様に、甘えて拗ねている言葉にしか聞こえませんでしたよ。」

「や…そんな…私、ジュリアスに拗ねて甘えてたの?…自分でも子供みたいだと思って、それでもどうしようもなかったのだけど…やだ…はずかしい…自分じゃわからなかった…」

アンジェリークの頬が真っ赤に染まった。

「あなたの言葉は全てジュリアス様に否定してほしくて言ってることばかりのようでした。第三者の俺にもわかることが、ジュリアス様にわからないとも思えません。確かに甘えを突き放さなくてはいけない時もあるかもしれない。だが、ジュリアス様は、恐らく必死にがんばっているあなたに…それこそ、時折不安定に揺れるあなたをここは、突き放す時ではなく、支え受けとめる時だと判断されたのだと思います。だから、何も言わずに全てを受け入れてくれたのではないでしょうか。」

「だって…私の願いは、決して民のためのものじゃなかったのに…自分のためのものなのに…私、そんなに優しくしてもらえる資格なんてない…それに、何かに縋らずにはいられないのって、女王にあるまじき弱い心じゃないかって、後ろめたかった…そう思うから、だから優しくされると余計に不安で…」

「そうでしょうか?あなたの願いが叶うことは、住民のためでもあるのですから。この地の民だけではありません。あなたの宇宙ではあなたが無事に帰ることこそ民の願いであり、希望なのではありませんか?あなたの無事の生還は何より我々の宇宙の民への恩恵になるはずです。その目的に向って進む気力を養うための行為なら、あながちあなた個人のわがままとは言えますまい…」

「あ…」

アンジェリークは本当に、たった今そのことに気付いた、気付かされた。

「ジュリアス様はそこまで見越されたのだと思います。アンジェリーク、あなた自身は意識していなくても…だから、あなたは罪悪感など、やましさなど感じる必要はないのです。自分を卑下する必要もない。それに、ジュリアス様も、あなたが希望を胸に抱くことをきっと歓迎するでしょう。ジュリアス様の言う通り、女王にも守護聖にも希望は必要です。我々は神ではない。迷いも戸惑いもある人間です。そして、人は希望があるからこそ、見えない明日を切り開く気力も湧いてくるのですから…」

「…オスカーはジュリアスと同じ事を言ってくれるのね…ジュリアスもそう言ったの。希望があるから、人は生きていけるのだし、女王が未来への希望を強く信じられれば、人心も安定するだろうって、だから、祭りを開く事は悪いことだなんて思わないって…反対などしないって…」

「ジュリアス様は誠実で実直なお方です。その言葉はお気持ちのままに出た言葉だと俺は思います。」

「私、ジュリアスの言葉全部を丸ごと素直に信じられなかった…ジュリアスがあんまり優しいのは、私をどう扱ったらいいのかわからないから、見放してしまったからかも…なんて考えてしまって…私、優しくしてもらう資格なんてない、立派な女王じゃないから…自分のことばかり考えていたから…わがままで困らせるようなことばかり言って…確かにジュリアスは聖地に帰ろうって言ってくれたけど。それが偽らざる気持ちなんだって、思う気持ちも確かにあるのに…でも、そんなに優しくしてもらえる理由がわからなくて…だからジュリアスの言葉を信じたいのに何か不安で…ああ…私、どうしてこんなふうに考えてしまうのかしら…悪いようになんて考えたくないのに…こんなこと昔は頭のすみっこでも考えなかったことなのに…」

オスカーは少しだけ眉を顰めた。顰めずにはいられなかった。

問題は、アンジェリークの心理状態のほうだ。ジュリアスの誠実な態度に不安を感じてしまう、そこに本来は存在しない暗雲を見出してしまうその心の有り様のほうが、オスカーには案じられた。夜想祭にこれほど頑なに固執するのも、彼女の不安定な精神状態が、無意識の内に支えになるものを欲しているからだろう。ジュリアスはその訳はわからずとも、彼女の精神が不安定であるという現状はきちんと認識している筈だから、彼女の様子を慮って夜想祭の開催を快諾したという部分も少なからずあるのだろうと、オスカーは思った。

「アンジェリーク…苦言を呈すようで申し訳ないのですが…人は己の心のありようを映して、人の気持ちを推し量るものなのです。悪意のない人間は他人の悪意に気付きにくく、悪意のある人間ほど、他人の悪意にも敏感なように…あなたは自分で言いましたね?やましいから、わざとジュリアス様を挑発するような態度をとってしまったと。これも同じことではないのですか?あなたは、自分の願いをかなえるのにやましさを拭えなかった。だから、ジュリアス様の言葉もなにかやましい気持ちが言わせているのではないかと勘繰ってしまったのではないですか?それと…これは憶測ですが、ご自分が不安定であること、いまだジュリアス様を安心させるにはほど遠い心のあり様であることを、自ら露呈してしまったことが、あなたの罪悪感をより煽っているのだと、俺は感じました…あなたは、自分の不安定さをなんとか鎮めたいと言っていた。そうすればジュリアス様も安心するだろうからと。しかし、実際はその心境には程遠い態度をまたとってしまった…あなたはジュリアス様があなたの手を放してしまうかも?といわれのない不安に苛まれた。ジュリアス様の態度にも言葉にも、そんな兆候はまったくない、むしろ逆なのに。では、なぜ、見捨てられるなんてあなたの心が感じてしまったのか…それには理由があると思います。人の心の動きというのは、特に、なぜ、こんな風に振舞ってしまったのだろうと自分が思うような行為には、背後に何か隠された理由があるからではないでしょうか…」

「それは、私が、あいかわらず不安定な気持ちを抑えられないことを、ジュリアスに申し訳なく思っているから…こんなだめな私は見放されても仕方ないかもって自分で思っているから…だから、ジュリアスはあんなに私に優しいのに、それを私は素直に喜べず不安になる…逆に見捨てられるのかも…なんて、勝手に思いこんで、疑心暗鬼に陥ってしまう…ということ?」

「言い難いことですが…俺にはそう思えます…俺は、ジュリアス様の態度と言葉には、何の作為も裏に秘めた感情もないと思います。少なくとも俺があなたの話を聞いた限りでは、ジュリアス様の言動からはあなたを支えたいという真摯な誠意と強い決意しか感じられません。にもかかわらず、あなたは、ジュリアス様の態度に不安を感じてしまう。これはジュリアス様の態度がそう思わせるというより、あなたの心の不安が投影しているのだと思います。」

「私は自分の心が不安定なままで、それを申し訳なく思っている限り、ジュリアスの誠実な態度も厚意も不安に曇った目でしか判断できないかもしれないのね…そして自ら、更なる不安や不幸な気持ちを呼んでしまいかねないのね…」

「アンジェリーク…」

オスカーはアンジェリークが泣き出すかひどく塞ぎこむのではないかと案じたが、アンジェリークはむしろほっとしたように、小さな吐息をついた。

「ん…ありがと、オスカー。私、自分の訳のわからない不安の理由がちょっとわかたったみたい…なんで優しくされて不安になってしまうのか…ジュリアスの気持ちを丸ごと信じられない自分がすごく嫌だったの…でも、それは自分の心のありかたのせいなのね、私の心がかわらなければ…だめなのね…」

オスカーはアンジェリークを力付けるように勢いこんですぐさま、こう言い募った。

「そのために、できることを考えていきましょう。ジュリアス様があなたの無事の生還に尽力されるように、俺はあなたの心がいくらかでも安らかんことに、力を注ぎます。」

『自分がなんとかしてみせる』とジュリアスのように強い決意を示せない自分が情けない。しかし、彼女の心を軽くしてやる手立てが今は明確に見出せない以上、張ったりをかけることなどできない。根拠もない約束は不実でしかない。

「ごめんなさい、オスカー、私がわがままなばかりに…ジュリアスに本当の事を言ってしまえばすむ事かもしれないのに…ジュリアスには言いたくない、でも、自分も楽になりたいなんて…あの、私のわがままに付合うのがいやだって思ったら…負担でどうしようもないって思ったら、あの、無理しないで?」

「アンジェリーク、だめです、また、そんなことを考えては…俺があなたを見捨てるとでも思ったんですか?」

「あ…」

「俺の言葉にも嘘偽りはありません。生半可な気持ちであなたのために何かしたいと思ったわけじゃない。こんなことは、あなたを救えなかったお詫びにもならないが…せめてあなたの気持ちが少しでも楽になれるように俺のできることをしたい、それだけです…」

「オスカー…ごめんなさい…」

オスカーは居住まいを正し、アンジェリークをまっすぐにみつめた。

「そこでです…あなたは、自分の恐怖をなだめ、不安定な心をどうにかしたいと思ってる、ジュリアス様のためにも、ご自分のためにも…そこまではいいですか?」

「ええ…」

「では、すみません、ひとつだけ俺から質問させてください。」

「…」

「あなたは、あなたを襲ったものが、俺たちの偽者であると気付いたのは何故ですか?そして、それは何時のことですか?…」

「え?だって、アレは偽守護聖だって、そんな、当たり前のことじゃないの…」

「あなたは襲われた時点で、それがすぐわかりましたか?」

アンジェリークの顔が苦しそうに強張った。

「待って…少し考えさせて…それは…必要なことなの…ね?…」

「酷な事を尋ねているのは承知の上です…」

「いいの、我慢するって言ったのは私、今のままじゃいけないってことも、わかったわ、オスカーのおかげで…さもないと私はジュリアスの純粋な思いもそのまま受け入れられなくなってしまうかもしれない…勝手に疑心暗鬼に陥って、自分で作った心の暗い淵に落ちこんでしまうかもしれないって、オスカーの言葉でよくわかったから。待って…考えてみるから…」

わたし…どうしてあいつらが偽守護聖だって知ったの?最初からわかってた?

ううん、あいつらを見た時、一瞬、ほんの一瞬だけど、オスカーとランディが助けに来てくれたんだと思った…でも、何か違う…なんだかものすごい違和感をすぐに感じたの…どうして?

アンジェリークは綺麗な眉を苦しげに顰め、躊躇いがちに話し始めた。

「私、ほんとに最初の一目だけ、あなたたちが助けに来てくれたんだと思ったの…だって、まったく同じ外見だったから…」

「ええ…」

「でも、なんだかおかしかった…なんだか、すごくおかしな感じがしたの…だって、あなたやランディのあんな顔みたことなかった…どうして、そんなににやにや笑っているの?なんだか変…笑いながら私に近づいてきて…どうして?どうしてそんな目で私を見るの…私を初めて見るみたいに…値踏みするみたいに上から下までじろじろ見て…笑っているのに二人ともなんだか怖かった…あんな怖い二人見たことなかった…」

アンジェリークの瞳が、そこにないモノを見つめるように中空を落ち付きなくさまよう。焦点があわず、虚ろな空洞と化す瞳、なのに瞳孔は拡大していく…

オスカーがアンジェリークの変化に呆然としていたのは、一秒にも満たない時間だった。

まずい!オスカーは自分自身に舌打ちする。その場ではわからなかったということを言ってもらえるだけでよかった。それを確認したかっただけなのに。刺激しないようにあからさまな言葉を避けた自分の曖昧な質問が仇になって、彼女は懸命に当時の状況を思い出そうとしてしまっている。恐怖の追体験をさせるつもりなどなかったのに!

「いけない!アンジェリーク!思い出してはいけない!もうこれ以上思いださなくていい!」

しかし、遅かった。無理矢理押しこめていた記憶は、箍が外れた分抑制がきかなかった。明滅するフラッシュバック。おぞましい記憶は雪崩を打ってアンジェリークの心を激しく揺さぶり打ちのめした。

「あ…ああ…こないで!そばに来ないで!ランディなの?オスカーなの?私がわからないの?なんで、私を捕まえようとするの?どうして…なんでこんなことするの!?いやあああっ!いやっ!放して!あ…ああああっ!」

アンジェリークが狂ったようにかぶりをふる。何もみたくないというように顔を手で覆い隠す。そうしていれば怖いものが頭上を通りすぎてくれると思っているかのように。

「アンジェリーク!アンジェリーク!すまない!すまなかった!もう、いい!もういいんだ!何も考えるな!」

オスカーはアンジェリークに肩をつかもうとし慌ててその手を降ろした。彼女に触れるに触れられず、必死の思いで叫ぶように声をかける。しかし、オスカーの声はまったくアンジェリークに届かない。彼女の意識は過去の惨劇に縫いとめられてしまっている。彼女の体ががたがたと震え出した。

「いや…いやぁ…止めて…痛い…くるし……もう…止めて…許して…う…うぅっ……助けて…ジュリアス……ジュリアス……」

顔を覆ったまま指の隙間から力ない絶望のすすり泣きが溢れ出る。得られぬと知っていても求めずにはいられない助けを呼ぶ声のいたましさに、オスカーは焦慮と悔恨にうちのめされる。永劫とも思える苦痛の連鎖が、その果てない泥濘の恐怖がアンジェリークの精神を絶望で塗りつぶしているのが、目に見えるようだった。

「アンジェリーク、大丈夫だ!俺がいる!俺が君を守る!君を傷つける者はもういない!いないんだ!」

いくら必死に声をかけても苦しげな絶望に満ちたすすり泣きは納まらない。瘧のような体の震えも…

だめだ、このままではだめだ。彼女を過去の悪夢から目覚めさせなけれならないのに、彼女に俺の声は聞こえていない。

オスカーは決然とアンジェリークの肩にそっと腕を置いてから、包みこむようにその肩をしっかりと抱いた。触れないでいることの禁忌を守る意味が今はなかった。彼女は今ここにいる俺に怯えているのではない、混乱しているのではない、蘇った過去の恐怖に捕らわれているのだから。今はもう何も心配はないのだとなんとか知らしめてやらねばならない。だが抱きしめて拘束したら、恐怖から更に恐慌状態になる怖れがあるから、肩に触れるだけで精一杯だった。

「いやぁ…」

しかし、それだけでもアンジェリークはオスカーの手を振り解こうと抵抗しようとした、哀しくなるほどの弱々しさで。

それでも、今はオスカーは怯まなかった。アンジェリークに今ここに『自分』がいることを触れることで伝え、悪夢を払ってやらねば…アンジェリークをひたすら見つめ必死の思いで懇願するように語りかける。彼女を驚かさないように声はできる限り抑えて…

「アンジェリーク、アンジェリーク、俺の目をみてくれ、俺の声を聞いてくれ、どうか…たのむ…君を脅かす物はもういない、俺が側にいる。俺が君を守る、守ってみせる。もう大丈夫だ、大丈夫なんだ…」

自分の声がどこまで届くのかわからない、わからなくても繰り返すしかない。

オスカーは己の無力さを呪わずにはいられない。奥歯をぎり…と噛み締める。炎のサクリアなど、強さのサクリアなど何の役にもたたないではないか…こんなに怯えている彼女を安心させることも、落ち付かせてやることもできない…闇のサクリアや夢のサクリアのように彼女を眠らせてやることも、今の恐怖を夢だと思わせてやることもできない。それでも、俺にはこれしかできることがないのだ…

アンジェリークに触れた両手に自分のサクリアを集中させる。自分のサクリアで彼女に正気を取り戻させることができるかどうかもわからなかった。その間もアンジェリークにひたすら声をかけつづける。もう大丈夫だ、俺がいる、君を守ると。

「あ……お…すか…オスカー…なの?」

オスカーが繰り返す真摯な声音に、体を熱く燃やすようなサクリアにアンジェリークの瞳が光りをとりもどしていく。

オスカーはその一瞬を逃さず、アンジェリークの頬を両手で包みこんで顔をあげさせ、涙に濡れた瞳を力強く見据え、しっかりとした口調で語りかけた。

「アンジェリーク、そうだ、俺がいる、今は君の側に俺がいる、この命に変えても君を守る。もう、君を傷つけるものを決して近づけたりしない…もう、君を傷つけるものは何もない。もうこわくない、何もこわくないんだ…」

「あ…あぁ…オスカー…オスカー…あ…ああああっ…」

アンジェリークはそのままオスカーの胸にとりすがって激しく泣きじゃくった。迸るような泣き声はしかし、幻に怯えた故の病的なものではなく、今現在に意識が戻ったことへの安堵によるものだった。

「オスカー…オスカー…私…怖かった…本当に怖かったの…いたくて、苦しくて…でも…でも、逃げられなくて…どうしようもなくて…」

「いいんだ!もう何も言わなくていいんだ。済まなかった、怖い思いをさせて、辛い思いをさせて…でも、君をもう2度とそんな辛い目には合わせたりしない…俺が必ず、君を守ってみせる。もう大丈夫だ、大丈夫なんだ…」

宥めるようなオスカーの言葉にも、アンジェリークの昂ぶった感情はすぐには納まりきらない。アンジェリークは抑えの効かぬ様子で、思ったままのことを吐き出すように語る。語らずにはいられない。一度吹出してしまった汚いものは全て吐き出さねば、ここで抑えこんで溜めてしまったら自分がその汚泥に塗れてどうにかなってしまいそうだった。

「自分に起きていることが現実のこととは思えなかった…これは夢だ、悪い夢なんだって何度も言い聞かせて…だって、オスカーやランディが私にこんなことするはずない…でも、でも、じゃあこれはなに?私の上にいるもの…私を抑えつけているこれは一体何なの?……あ…あああっ…」

「もういい!もう何も考えるな!あいつらはもういない!俺が、俺たちがこの手で屠った。あいつらが君の前に現れることは2度とない、もう、君を傷つけるものはこの世にいないんだ!」

だが、俺はそれを君に信じさせてやる術がない。馬鹿みたいに、あいつらは死んだんだと繰り返すしかないのか…こんな空々しい言葉で…こんなことで君が楽になれるはずもないのに…

苦々しい無力感にアンジェリークから視線をそらした。アンジェリークは呆然としたように、中空の何もないところを見ながらそれでも止まらぬ感情のままに言葉を紡ぎ出す。

「あれ…あいつら…そうだわ…私、わからなかった…あれが何なのかなんて…見た目はオスカーとランディなのに、でも、そんな訳ないのにって…何がなんだかわからないまま…信じられない悪い夢だとしか思えなかった…いつまでも醒めない悪い夢だとしか思えなかった…最後まで…」

「もういいんだ!何もいわなくていいんだ!」

「そうよ…ジュリアスが…闘いから帰ってきたジュリアスが教えてくれたんだわ…あれがなんだったのか……ジュリアスが闘いのことを話してくれなかったら、今でも知らないままだったかもしれない…だって、自分から聞くことなんてできない…アレはなんだったのかなんて…それで初めて私はあの悪夢がなんだったのかわかったんだわ…」

ぐらりとアンジェリークの体が後ろのめりに傾いだ。オスカーは咄嗟に腕を伸ばし彼女の体を支える。

「もういい!何も思い出さなくていい!…済まなかった…嫌なことを思い出させて…本当にすまなかった…」

オスカーは苦しげに首を横に振り、支えていたアンジェリークの肩を抱きなおそうとし、はっと気付いてアンジェリークから体を離すようにその肩だけを支えた。

「済まなかった…本当に済まなかった。もう、2度と君を苦しめるようなことは聞かない、君に忌まわしい記憶を思い出させるようなことはしない…」

アンジェリークはおぞましい記憶をすべて吐き出したことで、漸く人心地がついてきた。瞳を閉じて大きく深呼吸を繰り返し、なんとかいまだ波立つ心を必死に鎮めようとしていた。

「ああ…オスカー…ごめんなさい、私…我慢するって言ったのに…できると思ったのに…ごめんなさい…本当に…」

「君は何も悪くない!俺の…俺の聞き方が悪かったんだ…済まない…俺の曖昧な聞き方のせいで君にあのことを克明に思い出させてしまった…すまない…俺が悪かった…俺がもっと考えていれば…それに、君に馴れ馴れしく触れてしまって……嫌だったろう?済まなかった…」

アンジェリークは言われて始めて、オスカーに支えられている自分に気付いた。オスカーの胸にすがって泣いていた自分を思い出した。あわてて体ひとつ分程の距離をとった。

「あ…ごめんなさい…私こそ、あなたに泣きすがったりして…私…気が違ったみたいに取り乱して…だけど、あなたのサクリアを感じたから私…あなたのサクリアが悪い夢から目が覚まさせてくれた…真っ暗な冷たい所にうずくまっていた私の周りに火がついて燃えあがったみたいだった…私の周りが熱く明るくなって…あなたの炎が、私の嫌な記憶を焼き払ってくれたみたいだった…私にサクリアをくれてありがとう…オスカー」

「…」

オスカーは黙って頭を振った。

俺は何もできやしない…そうだ、あいつらは死んだことを君に信じさせてやることもできない。

今の彼女の恐慌状態は俺の姿に怯え、混乱した訳ではない。純粋な恐怖の記憶に掴まってしまったからだ。だから俺は彼女に触れ、訴え、サクリアを放出して、とりあえず、今は安全なのだとわかってもらうことができた。

しかし、今日彼女が混乱しなかったからといって、今後これで混乱しなくなる訳ではない。

あいつらが死んだと、もう君を脅かすものはないのだと、俺は俺でしかないと、彼女が実感できなければ、またいつ彼女は混乱して怯えて今のような絶望と恐怖のフラッシュバックにうちのめされるかわからない。

俺は俺であるとわかってもらうために…君の側にいるのは、常に守護聖である自分たちであって、あいつらではないのだと、少なくとも、今君が怯えるものはこの世にいないとどうやったらわかってもらえるのか…俺はどうやって知らせたらいいんだ…信じさせてやることができるんだ…

どんなものにも、君を傷つけさせたりはしない、どんなものからも、守ってみせる、その誓いなら、自分の命を賭けても守ってもせる。

しかし、過去に君を傷つけた出来事から、そこからおこる恐怖から、俺は君をどうやって守ることができるんだ…

「アンジェリーク…」

オスカーは泣き出しそうな顔でアンジェリークを見つめた。

「あいつらはこの世にもういない、いないんだ。君を脅かす物はこの世にもういないんだ。君は何も怖がらなくていい。俺はどんなものからも君を守ってみせる。だが…俺は、今、君にそれを信じさせてやることができない…どうしたら、あいつらがもうこの世にいないと、君に信じさせてやることができるんだ…どうすれば…」

「オスカー…」

「すまない、すまない、俺は…俺は本当に役立たずだ。君を守りたい、君を2度と辛い目にあわせたり、泣かせたりしない、そう決めているのに…そのためにどうしたらいいのか、今の俺にはわからないんだ…あいつらがこの世にいないことを、どうしたら君に信じさせてやれるのか、わからないんだ…」

「……」

アンジェリークも泣き出しそうな瞳で顔を横にふるふると振った。何かいおうとするが、その唇からは声は発せられなかった。

オスカーは吹っ切ったように天を一度振り仰いでから、アンジェリークを見つめなおした。

「アンジェリーク、済まない、今夜はそろそろ引き上げたほうがいいだろう。俺は今、なにもできない。目の前の問題に手も足も出ない…だが、絶対あきらめはしない。それだけは約束する。一番辛いのは君なのだから…」

オスカーは幽鬼のような表情でふらりとたち上がると、アンジェリークに跪いて礼をし静かに部屋を出て行った。

アンジェリークはまだ涙の乾かぬ顔をオスカーの消えたドアに向けていた。

言いたいことは胸から溢れそうなのに、それを表す言葉がわからなかった。


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