汝が魂魄は黄金の如し 22

『堂々巡りでいい考えも絞り出せないのなら、いっそのことその問題を意識から故意に追い出してみろ。別の物を見て、別のことをして、自分が捕らわれている一点から敢えて視点をずらしてみると途端に視界が開ける時もあるんだ。』

オスカーの心に深く刻み付けられている、とある戦史の教官の話がある。自分の前に壁が立ちふさがると自然と思い出されるほどに、その教官の箴言はオスカーの物の見方・考え方に深く影響を及ぼしたのだろう。それは軍人としてのオスカーのアイデンティティの根幹を形成したともいえる。

『定石から言えばどう考えても勝ち目のない戦の時、しかし、どうあっても勝たねばならない不退転の戦の時は、既存の兵法や常識に捕らわれるな。特に作戦の運用について。ただし、それは奇を衒えということではない。戦争において奇策なんてもので勝てるなぞ、ただの夢物語だと思っておいたほうがいい。

歴史上で奇跡の勝利といわれるものでも、見なおしてみれば作戦自体は至極オーソドックスなものが大半だ。ただし、機を見て、敏に動く、つまり運用の仕方が既存と異なる場合が多い。実戦において、兵法と条件が同じことなぞまず皆無だ。彼我の兵力、天候、地形、敵の陣形、全ての組み合せは無数にあり、その時々の条件に応じて既成概念に捕らわれず、臨機応変に作戦を組み立てていけるのが名将なんだ。

どうみても勝ち目のない戦に勝てた武人は、奇をてらった策を弄しているかというと、そうじゃない。勝ちを確信して何の工夫も凝らさない敵の間隙を突くことができたということだ。普通は闘いをしかけない時刻や地形から闘いを挑むとか、大軍が集結する前を狙って各個に敵を討つ等。要は諦めずにタイミングやチャンスを見極め、それを上手く掴み生かせたかどうかが大きい。

だからだ、闘いにおいて、何よりも心掛けねばならないこと、それはまず諦めるなということだ。一見打つ手の見えない時でも、必ずどこかに突破口は潜んでいることを忘れるな。進む道が前に見えない時は横に回りこむ、下から潜ってみる…というような、発想の転換、視点の切り替えを常に意識しろ。目の前の壁を見つめていたって前には進めんのだからな。そして、どうやってもいい考えが浮かばない時はだ、下手な考えで頭脳を疲弊させるくらいなら、いっそ、その問題は棚にあげて休んじまった方がいい。鋭気を養ってからの再トライの方が成果もあがる、ということも頭の片隅にいれておけ。』

オスカーは初等教育を終えた後、王立宇宙軍の幼年学校から士官学校へと進み、士官…つまりは一般兵を指揮する軍人としての教育を専門的に受けている。

そこで学んだ事は、どれほどの幾星霜が過ぎたとしてもオスカーの思考の鋳型として容易に崩れるものではない。士官学校で習った兵法の基本は、オスカーが物事に対処する場合の基本ともなっていた。

オスカーはだから、改めて自分に言聞かせていた。今確かに自分は眼前にある問題に手も足も出ない。対処法が見えない。しかし、諦めた時点で待っているのは敗北なのだということ。別の角度からの視点を見出せれば、どこかに必ず進むべき方向が見えてくるはずだと信じること。今、視点を変えるだけの柔軟な思考がとれないのなら、敢えてその問題は意識から追い出してニュートラルな精神状態を作り出してみること。すると、自分の気付かなかった方向から光が当たる場合もあるのだと。

自分はアンジェリークの精神を安定させる方法が今は見つからない。方便自体はある意味単純なものなのだ。あいつらの死を納得させる。その事実において、自分もランディも守護聖以外の何物でもないことをアンジェリークに心の底から納得し実感してもらう、そうすれば俺やランディの姿に彼女は怯えることもなくなる。混乱して混同する危険さえなくなれば、アンジェリークの辛い経験が露見する可能性もなくなるし、アンジェリーク自身も比べようもなく心が楽になれるだろう。例え俺やジュリアス様が彼女を置いて聖地を去ることになったとしても、今の火薬庫のような状態よりは遥かに安心できる。というより、アンジェリークの精神が安定したと思えねば、聖地を去ろうにも去れるものではない。

ところが、その最初の1歩が見つからないのだ。

死体は存在しない。時間は戻せない。口先だけの言葉では、アンジェリークが受けた現実の重みは覆せない。死体を確認させることができれば…という思考からオスカーはなんとか頭を切り放し、別の視点からこの問題を考えねばならない。それがわかっているのに、オスカーは今それが上手くできない。

そんな時は休め。下手に頭を使い続けるのは焦慮と疲労で更に思考を鈍化させるだけだ。

そう自分にいい聞かせ、アンジェリークの部屋から退出した後、横になって眠ろうと務めた。いざと言う時の備えのため、酒を飲んで無理に眠る訳にはいかなかった。とにかく、何も考えないこと、思考を空白にすることに務めたので、オスカーは浅くとも睡眠をとることができた。

自分のサクリアが悪夢を焼き払ったような気がした…アンジェリークがそう言ってくれたことが、オスカーの心に僅かだが、救いとなったのだった。

朝になり、補佐官に通常の執務に戻る旨を告げて宮殿から退出した。自分の執務室に戻る前に研究院にいるレイチェルを捕まえ、今日のコレットの予定を確認し、自分への訪いがないことを確かめた。

コレットが育成にも補充にも来ないなら、敢えて執務室にいる必要もないだろう。

部屋に閉じこもる気にもなれず、意識的に気分を変える必要を感じたオスカーはそのまま踵を返した。

 

オスカーは日向の丘で、見るともなしに小さな滝の水飛沫を見ていた。陽の光を反射して輝く滝は聖地の滝とはまた趣が異なるが、深い緑の香と澄んだ水のにおいに心が慰められることは同様だった。

誰かと話しでもしたい…そう思いながら、オスカーは結局一人になれそうな静かな場所を選んでしまった。他の守護聖とはなんとなく顔を合わせづらかった。思考の煮詰まった自分が、なにか手がかりを求めて、自分から情報を開示してまうような会話をしてしまったらどうするのだ…という懸念が拭えなかった。

気分を変えたいのに、結局このことは頭から離れない…オスカーは自嘲の笑みを口元に浮かべた。

下手な考えは休むに似たり、いや、消耗する分休むよりタチが悪いぜ…

やはり、誰かとなんの関係もないことでも話さないと、意識の切り替えは難しいかもしれん。今からむりやりにでも他愛無いおしゃべりってやつをしに行くか。俺同様、昼間はお呼びがかからない暇そうなヤツでも見つけて…

「おや、めずらしいですね、こんなところで…お一人ですか?」

そう思った矢先に背後から涼やかな声で話しかけられた。

「そういうおまえこそ…今日は、学習予定はないのか?」

ゆっくりと振りかえるオスカーの背後に来ていたのは感性の教官セイランだった。

「教官の仕事は、守護聖様ほど必要不可欠という訳じゃありませんからね、正直なところ…いればいたで役にはたつでしょうが、いなくてもさほど困るというものでもない…おっと、卑下している訳ではありませんよ?」

「おまえに卑下なんて感情があるとは俺も思っていないから心配には及ばないぜ?」

「くっく…普通の人なら、いなしてお説教をするか、そんなことはないといって、持ちあげるところですよ、ここは。」

「なぜだ?そんな必要は微塵もないだろう?教官職という地位に頼らずとも自分の価値や役割に絶対の自信があるからこそのセリフだろう、それは。そんなやつをこれ以上持ち上げてやる必要がどこにある?」

「まったくあなたって人は…でも、僕はあなたみたいな一筋縄じゃいかない人には大層興味を引かれますよ。」

「…誉め言葉と思っていいのか?」

「誉め言葉です。」

「ふ…そういうことにしておくか。真面目な話、学習はいいのか?」

「学習によって育成の効率を高める…か…ある程度彼女の器が広がれば毎日必要というわけではないですから。器自体にも限界があるみたいですしね。おかげさまで守護聖様と違って気楽な身分ですよ。」

「その気楽な身分を歓迎している風には見えんが?」

この男はその容貌もあいまっていつもその印象は涼しげだ。どんな状況でもどんな境遇でもその容姿のようにさらさらと淀みなく対処するように感じさせる。そして大半の人間はこの滑らかな印象ゆえ彼の本質を掴み損なうのかもしれない。涼やかに見えると言うことは逆に心の中に熱く燃えるものがあるから、それを意識的に抑制している故ではないかと、オスカーは直感的に感じていた。そう、自分とどこか通じる部分があるような気がすると。

自分の立場を気楽と言うのは、逆に、その立場にもどかしさや、歯がゆさを感じているという皮肉に聞こえてしまう。

一筋縄でいかないのはおまえのほうじゃないのか?とオスカーは思うのだ。

「かないませんね…実際、考えましたよ、守護聖様方はここに召還された意味も期待される役割も明かだ、でも、僕たち教官は?有体に言って、いたら役にたつかもしれないけど、いなかったら絶対に困る存在って訳じゃない。なら僕たちに期待されてるものって一体なんだろうってね?」

「守護聖としての俺はここで公式見解を答えるべきなんだろうな。何を言っているんだ、セイラン!おまえには新宇宙の女王を教育して育成の効率をあげるという大事な使命があるだろう!ってな。だが、確かに俺たちに期待されているものに比べれば、格段に動機付けが低い。おまえたちの召還理由はな。もちろん必要だと思われたからこそ呼ばれたのは確かだろう。この召還にはかなり恣意的な選択を感じるからな。」

「だから、僕はあなたが気に入っているんでしょうね。僕に建前の公式見解だけを言うこともできるのに…貶めるわけでもなく、持ち上げる訳でもなく客観的に、自分の感情を足す訳でも引く訳でもなくイーブンな物の見方ができる人というのはいそうでいないものです。」

「ふ…で、そのおまえなりの答えは…みつかったのか?」

「ふふ…そうですね…」

困ったような、それでいてどこか楽しげな笑みを浮かべるセイランの足元の茂みががさごそと揺れ、ゆったりと小さな動物が姿を現した。

「にぁ…」

「ああ…おまえか…よしよし…」

セイランはかがみこむと、足許に擦り寄ってきた小動物…濃いグレーの猫だった…をひょいと抱き上げた。猫は物怖じもせずセイランの懐にちんまりと納まり、顔をセイランの手に擦り付けた。毛艶もよくまるまるしていて、いかにも人に大事にされているという感じがあった。

「それはおまえの猫か?飼って…放し飼いにしているのか?」

「そう見えますか?いえ、これはこのアルカディアの猫なんです。そうとしか言えません。」

「アルカディアの猫ってそりゃそうだろうが…おまえが飼い主って訳じゃないのか?」

セイランは猫を物柔らかな一種独特の手つきで撫でてやってから、下におろした。

「この猫には…というかアルカディアのほとんどの動物には僕たちの概念でいう飼い主ってものがいないみたいなんです。このアルカディアの人たちは、動物を…それが何であれ危害を加えません。邪魔だ、あっちへ行け!なんて追い払ったり、ストレス発散のため蹴飛ばすような人間は皆無です。動物とみれば皆かわいがるか、そうでなければ、ただあるがままに放っておくだけです。なので動物も人を恐れない。近寄っても逃げ様ともしません。そして、ばかじゃありませんから、積極的にかわいがってくれる人間はよく覚えて、こうして自分から近寄っても来ます。」

「そういえば、おまえは動物好きらしいな。そして自分から動物をかわいがるので、こうして猫にも好かれているわけか…」

「くっく…人間よりもって付け加えてくれてもいいですよ?正直に…」

「誰もそんなことは言ってないだろうが。」

「僕は実際、決してウソをつかない、つけない動物たちが好きです。動物には虚飾も偽りの笑顔もない。内面と外面にズレがない。この掛け値なしの愛情と信頼は言葉を介在しないからこそ貴いのです。ただ、そうですね…実生活で、こういう生物は役にたつか、たたないかと言ったら、役にはたちません。有体に言っていてもなくてもいい存在だ。その存在は心を和ませ慰めてくれますけど、いなくてはならないってものじゃない。」

「まあ…な…」

「で、これが僕の見つけた答えです。先ほどのあなたの質問のね。」

「俺の?」

この猫が現れる前に話していたこと、教官は居ても居なくても大差ない、なら、その存在の意味は…

「む…つまり、おまえたちは…猫だってことか…というか猫になることにおまえは意味を見出したんだな。」

「ええ、率直に言ってあなたたち守護聖はこの地を救うために絶対になくてはならない存在です。そしてそれ故あまりに義務と責務…しなければならないこと、すべきことが多すぎる。しかも、その仕事は他人に振り替えがきかない上、あなた方は女王を旗印に民の精神的牽引役まで務めなくてはならない。そしてあなた方はあくまでリモージュ陛下の守護聖様だ。陛下の御身がまず第一であって…これは、責めているんじゃない。守護聖なら逆にそうあって然るべきだと思っているんですよ、僕は。正直に言って、アンジェリークの…コレットのお守まで手が回らない、十分に目をかけてやることができないんじゃないですか?」

「せめて精神的フォローくらいの言い方をしてほしいもんだな。」

「くっく…言葉を飾っても本質は変わりませんよ。だけど、僕たちは違う。為すべき事の質も量も守護聖様たちの比じゃないから余裕がある。あなたたち守護聖が陛下のものなら、僕たちは…そう、いてもいなくてもいい僕たちくらいは、コレットのことを第一に考えてやってもいいんじゃないかと思うんです。彼女の心の慰めなり、労りなり、そんなものを与える役割を求められているんじゃないかなと思ったわけです。それなら、僕たちが召還された訳も納得がいく。なにせ彼女はかわいい教え子ですから、僕たちのね…支えてやることに心情的にも無理がない。」

「…それはおまえがコレットを好き…だからか?」

「かわいいと思ってますよ。教え子ですからね。彼女が一人前になる手助けをしたという思い入れも愛着もある。他の教官が彼女をどう思っているかまでは保証しませんが。何にせよ、守護聖様では忙しすぎて、目の行き届かない部分、気の回らない部分をフォローするために僕たちは呼ばれた。そう思えばこの役立たずの身もそれなりに存在意義を見出せて、肩身の狭い思いをしないですむって思いついたんです。」

「それならコレットのところに行ってやらなくていいのか?」

「教官は僕だけじゃないんですよ?それに…守護聖様方に余裕がないことを考えたら、この地をよく見てまわるのもフォローの一つじゃないかと僕は思うんです。」

「というと?」

「僕はこの地をよくこの目に焼き付けておきたい。この地に居られる時間は限られているでしょう?そして再びやってこれる可能性はほとんど皆無だ。それなら尚更、この地に生きる底抜けの善意しか持たないような人々の様子、純朴でいながら人工物の極みが矛盾なく同居しているこの地のありさま、守備良く聖地に戻れたら、誰かが記録に残しておく価値があると思う。このセンスオブワンダーに満ち満ちた物語の顛末を。そしてその役に僕ほどぴったりな人間はいないと思いませんか?」

「それならおまえは猫とはいえないな。十分以上に役に立ちすぎている。」

「はは、確かに…」

「猫だとしてもここの猫みたいに誰にでも愛想がいいとも思えんし…ふむ…特定の人間にだけなつく猫ってところか。」

「くっく…僕は育ちの悪い野良猫ですか?この地の生物は酷い目にあったことがないから、誰にでもなついてしまうけど…でも、酷い目にあって人を信じないような生き物でも…それこそ育ちの悪い野良猫でも時間をかけて誠意を示せば心を開くようにもなるんですよ。」

「………」

オスカーは一瞬切れ長の瞳を大きく見開き、顎に手をあてて黙りこんだ。

「オスカー様?」

オスカーは、はっとしたようにセイランをみやると、少しだけ躊躇った様子で、そして、何かを探るような口調でセイランに話し始めた。

「なあ、セイラン、全然話しが違うんだが、酷い目にあって人を信じられなくなった動物が心を開くことなんて可能なのか?俺は馬のことしかよくわからんのだが…人に酷く使役されてきた馬は諦めというか、無気力ゆえ従順になることはあっても、心から懐くとか心を開くっていう印象を受けたことがないんだ。」

「時間はかかります。しかも辛抱も必要です。なにせ相手は人間不信に凝り固まってますからね。周囲の人間は自分に危害を加える存在としか思ってないわけです。本来なら麗しい友情が育める仲であるにも拘わらず。」

「そういうのを手なづけた経験があるみたいだな。」

「贖罪でもあり、悪い連鎖の切断とでもいうのかな。そんな不信感を植え付けた人間にかわってね。そういうヤツばかりじゃない。君と僕とは本来充実した心のやりとりができる間柄なんだよ、今からだって心を交し合うことはできるんだってことを時間をかけてでも、わかってもらいたいのかもしれませんね、僕は。もっとも、こんなことを猫の方は望んでいる訳じゃありませんからこれは結局のところ、僕の自己満足なんでしょう。自分がしたいから、自分の気が済まないからしているだけでね。」

自分自身が手なづけられた猫みたいだからかもしれないな、と、ふと、セイランは思った。世捨て人のような芸術家と言われ、世間と交わらないで生きてきたのは、やはり野良猫のように世界は敵意や悪意が満ちている様な気がしていたからなのだろうか。周囲に明確な悪意は見出さずとも、人との交わりは煩わしい、鬱陶しいものと、ネガティブに捕らえていた部分が確かにあったと思う。しかし、女王試験の教官になることで、自分とあまりに異なる境遇の人々と出会い…様様な葛藤を抱えてもなお、自分の運命や宿命に立ち向かって生きている人々を間近に見て、確かに自分のものの見方、人への接し方は変わったと思うから。

「具体的には?」

「攻撃されても叱らない、仕返しやお仕置きはとんでもないです。ただ耐える。向こうは怯えてるだけ、酷く言っても不信感があるだけで、悪意はないんですから。」

「それならもう…いや、それだけか?」

セイランは何故オスカーがこんなことにこれほど興味を持つのだろうと、少々訝しく思ったものの、質問には真面目に応じた。教官としての振舞い方が自然と身についてしまったみたいだな、僕は、と、自分のことを少し面白く思った。

「それだけじゃ、相手は自分の攻撃に黙ったとか、尻ごみした思うだけでこっちの誠意までは伝わりませんから、そう…例えば餌付けする時は…野良猫は人間のものを取ると怒られるっていう経験をしているから、餌をやるという同じ状況で、今までの人間と違う態度で接するんです。優しく声をかけてやったり、撫でてやったり。すると、同じような状況に置かれても酷い目にあわないから、こいつは他の人間と違うらしいって認識が猫にも生まれてくるんですよ。で、だんだん心を開いてくれるようになるんです。そう、人間なら、皮肉や一見冷笑的な態度を取る相手には、ついこちらもむっとしてしまいがちだが、反対に怯まず、へこたれず接しているとそういう人間もいつしか変わってくるとかね?ふふ…」

「…同じような状況で違う態度で接する?…」

「馬なら、言うことを聞かなくても、決して鞭でうたない、拍車をあてないとかね。以前なら仕置きをされた状況で、逆に優しくしてやるとか。もっとも家畜として支配するのならかえって良くない対応かもしれませんけどね、これは。」

「同じ状況下で…異なる対応をする…危害を与えないことをわかってもらう……あ!」

「どうしたんです?オスカー様…」

「あ、いや、興味深い話だと思ってな。なるほど…今までなら酷い目にあったような場合に優しくしてもらえれば、確かに動物でも『おや?』と思うものなのかもしれないな…こいつは自分の知っている人間とは違うと、認識できるものなのかもしれん…俺にも思い当たることがあった…」

オスカーは遠い過去の記憶に埋没していた少年時代の事をこの言葉を契機に思い出していた。

少年の頃、故郷で手負いの狼を助けたことがあった。牧畜の盛んな草原の惑星では人里に現れた狼は害獣として処分されるのが常である。しかし、オスカーは負傷した狼を捨てておけずに手当てしてやったことがあった。

そして、その狼が…元気になった狼が自分に挨拶に来たと感じさせられるような出来事が後日おこった。もちろん、オスカーの錯覚かもしれない、単なる擬人化にすぎないかもしれないが、その時オスカーは確かに狼と何か通じるものがあったような気がしたのだ。

そうだ、忘れていた。これもつまりセイランの話と同じことだ。普通なら狼を見たら殺すはずの人間、その人間である俺が狼を手当てしてやった。同じ状況下での異なる対応だ…そして危害を加えない事がわかったので、その狼は俺に心を開いたのではなかったか…少なくとも俺はそう感じた…

「そうです。それが人間に心を開く切っ掛けになることもあるんです。」

「それに…どうやらおまえ自身が手懐けられた猫だってことも、今初めて気がついたしな。そういうことだろう、おまえの喩えは?」

セイランの言葉に我に帰り、オスカーはわざと挑発的に聞こえる言葉で会話を続けた。何故、こんなことに興味を持ったのか聞かれることを避けるために。

しかし、セイランは全然不愉快ではなさそうな様子で苦笑した。

「くっく…もう少し詩的な表現はできないものですか?」

「俺は武人だからな。おまえの同僚と一緒で無骨が売りなんだ。」

「全然、そう見えないんですけど。ご自分でもそう思っているとは思えませんよ?」

「さっきおまえが言ったんじゃないか。言葉を飾っても本質はかわらんと。そうだろう?コレットに手懐けられたらしいセイラン・ザ・キャット。」

「知らないんですか?猫は自分のほうが人間の主人、よく言っても親。もしくは、人間につきあってお守をしてやっていると思っているんですよ?もっとも時々の気分で子供みたいになったりもしますが。」

「ますますおまえにぴったりじゃないか。」

2人は顔を見合わせて互いに声を出さずに口角を僅かに上げた。

顔は笑いながら、オスカーの思考は別のことで占められていた。セイランとの会話から掴んだ何かに焦慮とも、もどかしさともつかない思いが沸き起こり、心が逸って落ち付かなかった。

オスカーは、セイランとの会話に、何らかの足がかりというか、考えるための新たな材料の手応えを感じていた。しかし、そのおぼろな輪郭をしっかり捕まえ様と思考を突き詰めてもいいものか、なぜか、心のどこかで迷っている自分を感じ、オスカーは戸惑っていた。

この思考を推し進めていいのだろうか?俺は…しかし、気付いてしまった以上、考えずにはいられない…

オスカーは自分の戸惑いを完璧なまでに押し殺し、セイランに短い別れの言葉を告げて、その遊歩道から立ち去った。

 

女王の執務室である。

アンジェリークはバリアの状態をチェックし、内圧が弱まっていると思われる分のサクリアを放出し終えた所だった。とりあえずの責務を終えたアンジェリークは一人で執務室の椅子に腰掛けた。

仕事がなくなると、自ずと昨晩のオスカーとのやりとりが意識に上ってきてしまう。

私は、また、みっともなく醜態を晒してしまったわ…酷く取り乱して、泣き喚いて…オスカーに言われてたのに…辛い事を聞いてしまうこともあるかもしれないって…そして、私ったら、それを我慢するって言ったくせに…

「だめだな…わたし…」

あんなことを聞かれると思ってなかった。

そして、オスカーに言われるまで気付いてなかった。

確かに、あの場であいつらの正体なんてわからなかったわ。全て終わったあとも…何もわからなかった…だって、わかるわけないもの…あんな…あんなことされてて何も考えられなかった…自分の身に何が起きてるのか考えられなかった、考えたくもなかった…嫌…今もやっぱり考えたくない…それに、守護聖の偽者がいるなんて…寸分違わぬ偽者がいるなんて想像できる訳もない…瞳の違いだって、後から聞いて「そういわれてみれば…」って気付いたくらいだったんだもの…あの時は「何か普通と違う、とてつもないおぞましさ」くらいしか、わかってなかったと思う…

だから、私はジュリアスが教えてくれたことを、そのまま鵜呑みにするように、何も考えずにそのことに封をしたんだわ。あいつらは偽守護聖だった。守護聖の血液から作り出されたまがいものの命。まがいものの命は、まがいものらしく、跡形もなく消えたと。だから、私の悪夢もそれと一緒に消滅したって私はそう思って、全てに蓋をした…そう、そのはずなのに…

なのに、私にとって悪夢はいまだ悪夢のまま消えていなかった…だから、当時のことを聞かれただけで、私の意識は生々しい悪夢に染められてしまって何もわからなくなってしまって…でも、それはどうして?なぜ私は悪夢から覚められないの?悪夢は消えていないの?どこかに潜んでいて、何かを切っ掛けにまた吹出してしまうの?なぜ?なぜなの?

オスカーは、私に、当時あいつらの正体に気付いたのか?って聞いたわ。

それを思いだそうとしてパニックに陥った私を正気に戻してくれて…そして、謝り続けたオスカー。つらいことを聞いて済まなかったと謝ってくれたオスカー。

でも、オスカーは何も悪くない。オスカーが意味のないことをするわけない。謝っていたけど…それは必要なことだと思ったから私に聞いたんだわ。

そうだわ、オスカーは私に『酷なことと承知の上で』って言ってた。確かに言ってたわ。

オスカーが無意味に私を苦しめる訳がない。オスカーが尋ねることや、知りたがることに、意味がないわけない。必要だと思ったから聞いたのよ…

だって、オスカーは、いつも私を守ろうとしてくれたもの、色々なものから…私は彼に酷い事をしてしまったときにも、自分の怪我を圧して私を守ってくれた。私が悪夢に捕らわれてそれしか見えなくなってしまった昨日の夜も、その悪夢を焼き払って私を救い出してくれた。

真っ暗な暗幕にとじ込められたように恐怖で身動きができなかった私を助けてくれた。私を覆い縛っていた悪夢に火をつけて焼き尽くし、私をそこから解放してくれた。

だから、信じられるの。オスカーが意味もなく私に辛い事を聞くわけがないって。

でも、でもなぜ、あいつらの正体を私がいつわかったかが、重要なの?

それが、私のいまだ醒めない悪夢とどんな関係があるっていうの?

「陛下…陛下!」

「きゃ!あ、ごめんなさい、ロザリア…何?」

「何じゃありませんわよ、またぼーっとなさって…んむ…顔色は悪くはないみたいですけど…」

「あ、うん、最近、よく眠れるようになったの…だからなんでもないわ。ちょっと考えごとをしてただけ。」

「オスカーが宮殿に詰めてくれるようになったからですか?オスカーがいると、なんていうか、頼りになる存在が側にいるから心が落ち付くって所があるんじゃございません?」

ジュリアスが泊った夜もアンジェリークは大抵血色がいい。やはり、信頼できる存在が身近にいると思うと、理屈でなく心も体もゆったりといい意味で弛緩できるのだろうとロザリアは思う。

「あ…そうかも。そうね、きっと。オスカーが側にいてくれるって思うと、何かあってもきっと駆け付けてくれるって思うと、すっごく安心できるもの。オスカーってそう思わせるところがあるわよね。」

ロザリアに言われてアンジェリークは改めて思い至った。昨晩あれほど嫌な思い出に心乱れ、恐慌状態に陥った後だったにも拘わらずアンジェリークがきちんと眠れたのも、恐らくオスカーの放出してくれたサクリアのおかげだ。炎のサクリアが嫌な思い出を全てなぎ払い、その残り火の温もりがアンジェリークの身中を包み込む様に暖めてくれていたから、凍えず、涙にぬれることもなく、アンジェリークは眠りの床につけたのだと。

「もっとも、女性の大半はオスカーが側にいると逆に落ち付かなくなってしまうらしいですわよ?陛下は違うんですの?」

ロザリアがアンジェリークをからかうように微笑みながら付け加えた。

「やーね、それで言ったらロザリアこそどうなのよ。」

ふふっと顔を見あわせて笑ったあと、アンジェリークは一転、真顔でロザリアを見上げた。

「ロザリア、いつも心配かけたり、世話をかけちゃって、ごめんね、ありがとう、大好きよ、ロザリア…」

「な…いきなり何言ってるの!あなたは!…ばかね、照れるじゃないの…」

「だって、ほんとなんだもん。ロザリアがいなかったら、私、きっとここまでがんばれなかったから…」

あの時だって、ロザリアがいなければ…ロザリアを何とか守らなくちゃってずっと思ってたから、それしか考えてなかったから、やりすごせたんだと思う…生きなくちゃって思ったんだと思う…そうでなかったら…一人だったら私、どうなっていたかわからない…絶望のあまり、何をしていたかわからない…

「ばかね、あなたがそんなだから、わたくしは…もう、なんでもしてあげたくなっちゃうんじゃないの!もう、こんなこと言わせないで頂戴!」

頬を真っ赤にして口をとんがらせたロザリアは、突然何かを思い付いたように、真面目な顔にもどった。

「あらやだ、わたくしったら、用件を忘れてましたわ。恒例の研究院からの報告が来てますわよ。あら…今日のはエルンストの脚注がついてますわね。えと…『太陽黒点の活動が活発になっております。飛来する荷電粒子の量は本日より増加し始め3日後の日中にピークに達するものと思われます』ですって。」

「えーっと、それって…オーロラを出すのには3日後の夜がいいってこと?」

「どう見てもそういうことですわ。」

「よ、よかった…実は数字ばっかりの研究院の報告書見ててもちんぷんかんぷんで、どの数字がどうなったら、オーロラを出しやすくなるのかよくわかってなかったの。こっそりエルンストに聞きたかったんだけど、彼もいっつも忙しいから、どうしようかって思ってたところだったの。」

「そういうことは、早く言いなさい!まったく…だから、あなたは放っておけないってうのよ。オーロラ、出したいんでしょ?お祭りを開きたいんでしょ?」

「え?ロザリア…あの、それって…」

「いいから、わたくしに任せておきなさい。夜想祭は3日後の夜、いいですわね?守護聖たちと住人には明日の朝にでも通達を出しましょう。」

「は、はい…」

「じゃ、丁度執務も一段落ついたみたいだし、お茶にしませんこと?」

「あ、いいわね。」

どちらが主従なのか、端から見ていたらわからないようなやり取りだった。しかし、この二人は…少なくともアンジェリークは自分たちが主従だなどと考えたことはきっと一度もなかった。

 

その研究院では、執務を終えた足で年長の守護聖たちが集まってきていた。

アルカディアの時々刻々の様子を現すホロが浮かんでいる部屋である。

「皆集まってくれたか。仕事の後ですまないのだが、あまり公にしたくないので、こんな時刻に足労をかけることになった。すまない。」

「公に話題に乗せられぬこととあれば仕方あるまい。」

「えー、プリントアウトしていただいた資料を見ましたが、問題は…間に合わないともいえないが、間に合うともいえない危ういラインからいつまでたっても抜け出せない、ということみたいですねー。」

「そうだ。率直に言って、今は毎日綱渡りしているような状態なのだ。今のままの状態が続けば、なんとか育成は間に合うかもしれん。しかし、それはあくまで条件が今のままで推移するという前提のもとでだ。何か突発自体がおきれば、その限りではない。」

「今はまだ霊震も小規模でそれほどひどくはありませんが、霊震が育成に対する防衛反応だとしたら、育成が進むにつれ劇化する可能性がないとはいえないですからねー。」

「はっきり言って、劇化する可能性の方が高いだろう。問題は、そのことで育成に迷いが生じたり…これは育成するコレット本人の意識もだが、動揺した住民が目先の恐怖に捕らわれて育成を反対する気運でも起こしたら一挙に育成が停滞しかねない。そんなことになったら、今でもぎりぎりの育成日程は恐らく完全にまにあわなくなるだろう。もっとも、この見とおしは悲観的すぎるとそなたたちは思うかもしれぬ。しかし、楽観的な見通しや希望的推測にのみ頼り、それが叶わなかった時の手痛い失敗を、その轍を二度と踏むことがあってはならぬと私は思っている。なにせ、この育成にやりなおしはありえないのだから。」

「そうだな…あんな思いは…二度と…」

「そこでだ、育成に万全を期すために…何らかの事態で育成が停滞したとしても、とり返せるような事態も視野にいれて、短時間でもっと効率よく育成する方策を私はなんとか見つけだしたいのだ。」

「ふむ…」

「今までの育成の経緯から見て、今のコレットの一回の育成数値はマックスで200程度。必要とされているエネルギー総量は約6000と見込まれており、今現在の蓄積率はその3分の1にも満たない。これでははっきり言って育成が達成できるのか覚束ない。しかし、我らが1回に放出できるサクリアも限られている上、彼女が動けるのは体力的にも一日に三回が限度。この三回で補充・育成・学習を効率よくこなさせばならんが、それだけでは…残りの期限に間に合うかどうか、まさに綱渡り的な状況なのだ。」

「私たちが一回に出せるサクリアは限られている、日数もコレットの育成回数も限られている、エネルギー流入ポイントも限られている、と上限が決っているものばかりですね〜。これらの数値は動かせませんから、別の面で数値をあげることができないでしょうかね〜」

「今、思い付かなくとも仕方ない、私も昨日一晩考えたのだが、これといっていい方策が浮かばぬのだ。だが、このことをそなたたちには、常に意識においてもらいたい。なにせ、時間がない。どんなことでも、思い立ったらすぐさま試して検証しなければならないくらいだからな。」

「………一回の放出量が決っている。しかし、その量を増やしたいというのなら…二人分足せばいいではないか…」

「なんだと?どういうことだ?」

「だから、我らのサクリアを足すのだ。そうすれば一回の育成で2回分のエネルギーが注ぎこめるのではないか?」

「ばかなことを言うな。私の光のサクリアとそなたの闇のサクリア、まったく性質の異なる力をどうやって足すというのだ。水やワインを一つ樽にあけるのとは訳が違うのだぞ!」

「足す…足す…あ、ああああ〜!コレットです!そこにコレットの力を介在すれば可能なのではないですか!ジュリアス!」

「コレットの?」

「そうです!もともとコレットの力の本質は融和と和合です。だから彼女はエネルギー変換機であり変圧器になれるのですし。私たちのサクリアをこの地を育成する力に変換できるんですから、彼女に我々二人が一度に力を注いだとしても、それを彼女のサクリアが分離しないように上手くブレンドしてくれるのではないでしょうか!」

「そんなことが可能なのか?」

「………我々が皇帝と名乗るふざけた輩と闘った時…われらはサクリアを魔法などというものに変えて闘いの道具としたであろう。あれは…ロッドで増幅をしていたとはいえ、もともと存在するコレットのエネルギー変換の能力ゆえ可能だったのではないか?そして、その時、確か魔法を二人同時に詠唱することで効果が倍増したということがなかったか?」

「!」

「あああ〜!クラヴィス!それ、それですよおお!我々はコレットにコンバーターとなってもらうことで連携魔法なんてものができたんですから、育成でもそれができないわけがありません!」

「試してみる価値は多いにありそうだな。」

「ふ…ただし、あの魔法とやらも、発動には多少に精神的連携も必要ではなかったか?今、ここにいる三人で、すぐに協力体勢はくめると思うか?」

「クラヴィス、率直に言ってもらいたい。我らがこの地の育成に尽力しているのは、なぜだ?」

「それが陛下の望みだからだ。そしてこの地の育成を完成させることで陛下の御身の安泰を図ることができようと我らは信じている…というか、そう信じるしか道がないからだ。」

「私も同様だ。私がこの地の育成から不安材料を払拭したいと思っているのは、ひとえに陛下の御為だ。陛下をご無事に聖地にお連れする…その目的の完遂の為にありとあらゆる方策を試し、万全を期することが、我らアンジェリーク・リモージュの守護聖の使命ではないのか?その気持ちで繋がっている者同士であれば、恐らく我らの力は反発しあうまい。」

「そうですね〜、もちろん、この地の育成が上手く行き、封印が解けてその者に穏便に聖地に帰してもらえれば一番いいでしょう。でも、その保証はない。育成が上手くいくかも、封印を解いたものが、我等を本当に聖地に帰してくれるかも…こんな状況で最優先事項とは何か、を鑑みれば、かわいそうですが、それはこの地の救済ではありません。陛下の身の安全であり、陛下の無事の帰還です。万が一の時はこの土地は見捨てても、次元回廊を開いて我々と住民はここを脱出することになるでしょうし。何より大切なのは、陛下の御身であり、住民たちの身の安全であって、この土地の保全ではない。目的を取り違えない様にしなくてはなりませんね。この気持ちで守護聖同士が強く結ばれていれば、きっとこの方法は上手くいくでしょう。」

「それなら…これを明日にでも試してみるか?私とおまえでも良いが…そうだな、力のたまり具合を見て、例えば私とリュミエール、おまえならオスカーと協力して育成を試してみるのもいいかもしれぬな。もっともコレットが顔を出さなければ、どうしようもないが…」

「あのー、あのー、じゃ、私のところにコレットが来たら…ああ、ゼフェルとでも試してみましょうかね〜」

「うむ、明日の朝の御前会議でこの育成方法を試行してみる旨、皆に通達を出そう。誰と誰との協力なら効率があがるかは試してみないとわからぬからな。試行錯誤でもできそうなことを一つづつこなしていくしかあるまい。」

「ああ…陛下の御為に…」

「そうだ、全ては陛下の御為に…」

そして、ジュリアスが守護聖一同に、各々のサクリアを協力して育成に活用してみて、どれほどの効果が上がるか、試してみてほしいという通達を翌朝の会議で出す旨がこの場で決定された。

 

そして、同じ頃、自分の私室でオスカーは一人で昼間のセイランとのやりとりを反芻していた。

もう執務終了の刻限が迫ってきていた。

セイランと別れた後、結局オスカーはそのまま自分の執務室に戻ってきた。一人でじっくり考え事をしたかったのか、誰かが話に訪ねてきてくれるのを無意識の内に待っていたのか、自分でもよくわからなかった。互いに矛盾しているが、その両方の気持ちがあったのかもしれない。

セイランとの会話からオスカーはとある仮説を導き出しては、慌ててそれを否定することを、益体もなく今まで何度も繰り返していた。

そうだ、まさに、これこそ視点の転換だ…

あいつらの死を彼女に信じさせてやることはできない。だから、俺は俺であることを彼女に信じてもらえない。それが俺の躓いていた点だった。

しかし、これを逆方向から見れば…俺は俺であると、オスカー以外の何物でもないとアンジェリークに信じてもらえれば、信じさせることができれば、敢えてあいつらの死を眼前につきつける必要はなくなるじゃないか…もともと、俺は俺でしかないとわかってもらうことが目的なのだ。死体を見せること自体が目的ではないのに、自分はいつしか最も有効かつ簡単な方法の遂行を目的そのものと思い違いをしていた。

最も大事な最終目的は何だ?

それはアンジェリークが心の平穏を少しでも取り戻すこと。そのために、俺は俺自身であることをわかってもらうことが有効なのだ。そのためにあいつらの死を確認させたかったのだ。あいつらの死を確認すること自体が目的ではないのだ。

俺は守護聖オスカーであると、今ここにいるのは、絶対にオスカー以外では有得ないことをわかってもらえば、それで彼女の不安はかなりの部分解消するのではないか?

そして、それはセイランの言っていた「閉ざした心を開くには、同じような状況で異なる対応を取ることが有効」という案で可能かもしれない…

同じような状況…動物でいえば、過去では虐げられ、酷い目にあっていたような状況…

違う態度…罰や叱責ではなく、惨く扱わずに、むしろ優しく労ること…

今までなら虐められていたであろう状況で、反対に優しくしてやる…そういう態度を取れば、人間に怯え心を閉ざしていた動物に「こいつは今まで自分を虐げてきた人間とは違うらしい」と思わせることもできる。そう、自分が狼を助けた時のように。

それを人間に…彼女に置き変えるとどうなる?

同じ状況を…同じ状況を作り出すとはどういうことだ?彼女にとって同じ状況とはどういうことだ?

わかっている、俺は、それがどういうことを意味するのか、おぼろげながらわかってしまった。

しかし、しかしだ。俺はそれを彼女に提案していいものなのか?

同じ状況にその身を置いてみようなどと、彼女に言えると思っているのか?

だめだ…そんなことを、言い出せる訳がない…

彼女がそれをなんと思うか…どう考えても受け入れる訳がない…下手をするとせっかく俺を信頼してくれていたみたいだったのに、その信頼を再び失いかねない…だめだ、言えない、言えるものじゃない…

しかし…これは…恐らく有効な手段だと俺は感じる。俺の勘がそう語りかけてくる。

きっと「俺は俺である」ことを「他の誰でもないオスカーである」ことを、彼女にわかってもらえる手段だと思う。

俺は俺であると心の底から納得してもらえれば、俺を見て怯えて恐慌状態に陥る危険は相当減じるはずだ。このことが切っ掛けになって、ランディの姿にも怯る必要はないのだと実感できるようになるかもしれない。

ただ、そう判断する俺に、他の感情が入り混じっていないだろうか?

その自信が俺にはないのだ…俺がこれを有効であるだろうと思うのは…彼女に…彼女に俺が一方ならぬ感情を抱いているせいではないのだろうか?そうはっきりと言いきれないんだ、俺自身が…

俺は本当に彼女の心の平穏のために、こんなことを思いついたのか?セイランのヤツが言っていたように、結局は自分がしたいからする、それだけじゃないのか?そうじゃないと言いきれるのか、俺は…

オスカーの抱えていた問題に今、確かに異なる視点から光があたっていた。

しかし、その事実はオスカーの逡巡を別の面で更に深めてしまっていた。

そろそろ、警備のために宮殿に参内しなければならない。

しかし、オスカーはその場から動けずにいた。

彼女に今日、何か話しを持ちかけられたら…俺はこれを言出さずにいられるのか?その自信もないオスカーだった。

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