3月初頭の大学、キャンパス内に見える人影はまばらである。試験が終わってしまえば、新年度が始まるまで学校には用のない学生が多いからだが、こんな時期でも、力強い足取りで意気揚揚とキャンパス内を闊歩するのは毎日練習を欠かさない体育会系のクラブに属する学生であり、一方、切羽詰まった顔で忙しなく足を運ぶのは、単位取得が危うくぎりぎりまでレポートの提出に追われている、もしくは、レポート提出を最後の砦、命綱とすがっている進級瀬戸際にいる学生である。この時期にキャンパス内にいる学生は、このどちらかであることが、ほとんどだ。
そして、今、このキャンパスを悠々と歩いているスモルニィ学園大学、経営学部・経営学科一回生、程なく二回生になるオスカー・クラウゼウィッツも、たった今、最後のレポートを担当教授に提出しにいくところだった。が、その事実にも拘わらず、彼の進級は危うくなどなかったし、実際、彼の態度や表情は余裕に満ちており、歩みは大胆かつ流麗でよどみなかった。年度末ぎりぎりのこの時期にレポートを小脇に抱えているにも拘わらず、焦りや不安、もしくは投げやりと怠惰といった負の雰囲気は彼のどこからも感じられない。と、彼はふと何かを思いついたように足をとめ、優美な仕草で時計を覗き込み、時刻を確認すると、何か楽しいことに思いをはせているような、軽い笑みを口元に浮かべた。
そんな彼の満ちたりた静謐な空気は、次の瞬間
「オースカー!なに?今頃、こんなとこ歩いてるなんて、あんたも追試?それとも進級のための温情レポート提出?」
という、けたたましい掛け声と、遠慮なしにばんばんと背中に炸裂する平手で、木っ端みじんに打ち砕かれた。
「おまえなぁ…自分と一緒にするな!俺が追試受けなきゃならんような成績をとるわけないだろーがっ!」
声をかけてきたのは幼少の砌、具体的には初等部入学の頃からの腐れ縁の仲で、親友というよりは悪友に近い存在のオリヴィエ・デュカーティであるのは確かめるまでもなく明らかだったので、オスカーは、自身もまた振り向きざま、その友人に遠慮のない口をきいた。
「あれ?違うの?だって、こんな時期にキャンパスでレポート持って歩いてるっていったら、追試でもおっつかなくて、温情レポートでなんとか進級させてもらおうって魂胆の学生ってのが相場と決まってるじゃないか」
にやにやしながら、したり顔で講釈をたれる悪友は、背中の中ほどまで伸ばした金髪のところどころにピンクのメッシュをいれ、そのメッシュ部分を鶏冠のごとく逆毛を立てたうえに、顔は隙のないフルメイク、そして絶対市販品ではありえないーつまり彼手製の個性的な衣装に身を包むという、余人には真似しようのない際立ったいでたちであった。その派手さ華やかさは一応、形ばかりとはいえ制服を身に着ていた高等部の頃に比すと少なく見積もって200%増、100M先からも見間違いようがない。だからこそ、普段なら、オリヴィエの存在は、見つけるのも身構えるのも避けるのも容易なのだが、今日に限っては、たまたま背後から襲われたことと、暫時、ふと、楽しい事案に思いをはせていた所為で、無警戒にこの極楽鳥の近接を許してしまった…と、オスカーは忸怩たるものを感じざるをえなかった。比較的安全な大学構内といえど、楽しい想いに気を取られ緊張感を失うなど、たるんでいるぞ、という自らへの戒に、つい、応対する顔つきも声も若干荒々っぽいものとなったーそれら全て、オスカーがそれだけオリヴィエに気を許しているという証左でもあったが。
「だーかーら、それはおまえ自身のことだろうがっ!」
「きゃはは!そのとーりなんだけどね、いやー、私、経営データ分析原論の試験で、どーしても及第点とれなくてさぁ、たった今、教授にレポート提出で勘弁してもらってきたところだったんだ、で、あんたもレポート持ってるっぽかったから、てっきり…」
「だから、おまえと一緒にするなと言っている」
と言いながら、オスカーはレポートの表紙をオリヴィエに見せた。オリヴィエは最初、いかにも興味なさげにタイトルを見やったが、一瞬後には、大きく目を見開いて、レポートとオスカーの顔を交互に見比べた。「信じられない」もしくは「呆れた」という表情で。
「って、あんた、このレポート…『国際経営論』って、二年次の選択科目じゃん!私たち、これから2年になるってーのに、なんで、今、こんなレポート書いてんのよ!」
「決まってる、一年次の必修教科と被ってない授業で、二年次に必要な教科はできるだけ今年度中に履修するようにしたからだ。で、履修したからには単位をとらなきゃ、費やした時間が無駄になるじゃないか。一年次は、必修も多いから、勢い、履修できるのはレポート提出で済む授業が多くなったが、それでも…二年次に必要な単位の三分の1以上はとれた。無論、すべてA評価でだ。今から提出にいくこの「国際経営論T」も、当然、A評定の自信があるぜ、俺は」
「…呆れた。あんた、この1年、いやに忙しそうにしてると思ったら、前倒しで授業取ってたからだったとは…」
「追試組のお前に、なんで、俺が呆れられにゃならんのだ、そこは、感心するところだろうが。大体、おまえが経営学部って明らかに進路選択間違えてないか?俺に限らず、おまえは、家政学部の被服科に進むと、皆、思ってたからな」
「デザインや縫製の基礎なら、私、大学で教わることは、もうないもんね、今以上の高度かつ専門的なテクなら、夜間に専門学校行くほうが実学で身につくし。しかも、私がやりたいのは、街中のブティックじゃない、世界中の人から愛され、憧れられ、とっておきの場面で身につけてもらえるメゾンだ。そしたら、どうしたって経営も考えなくちゃならないじゃないさー」
「おまえ自身はクリエイターに徹して、経営にはプロを雇うって手もあるぜ」
「そ。だから、青田買いも兼ねてんの、経営学部入学は。だって、自分で最低限の財務や経営のイロハがわかってれば、どういう人がデキるやつか、わかるじゃーん、かつ、不正働かれた場合も、わかりやすいじゃーん、で、最小限度必要な知識を身につけられる上に、経営学部にいれば同級生の中で、有能かつ信用できそうっだって人がいたら、ぜひ『当デュカーティに!』って、ヘッドハントできるじゃーん。やっぱさー人脈って、自分で開拓するのが1番信用できるもん」
「最初から人脈狙いでの入学だったとは、呆れたぜ。しかし、確かに…そうだな。俺も、なんだかんだいって、スモルニィの執行部にいた連中のことは、心から信頼できるからな。その人間性も有能さも身近で見知って、一緒に色々な活動をしたからこそだ…いや、正直、驚いた。おまえも、ちゃんと将来のこと見据えてるんだな、自分の身の程を、よーく、わかってるって点も含め」
「ったりまえじゃん!将来を見越して動いてるのは、自分だけじゃないって、わかった?」
「それにしても、この時期までレポートに追われてる現況を鑑みるに、やはり、おまえが経営学部って明らかに無理があったというか、無謀の誹りを免れんと思うぞ。もし、デュカーティの御曹司が留年なんてことになって、それを大衆紙にでもすっぱぬかれてみろ、ブランドイメージの失墜につながりかねん、無理に経営学部になぞ、進ませるんじゃなかったと、今頃、ご両親は身の細る思いだろうよ」
オスカーが憎まれ口を叩いても、オリヴィエは平気の平左で、むしろ、逆にオスカーにもはっきりわかるほど、悪い笑みを浮かべた。
「つれないねぇ、私は、あんたがかわいそー、かつ、あぶなっかしいと思ったから、あんたと同じ経営学部に入ってあげたっていうのに〜」
「はぁ?俺の何がかわいそーで、あぶなかっしいだって?この優秀な俺のどこが?」
「だってさー、大学入って最初の1年は、あんた、かわいいあの子と別れ別れにならざる得ないじゃん?あんたは大学、あの子は高等部の3年生じゃ、あんたの目も行き届かないし、元ミス・スモルニィのあの子に岡惚れしてる男子生徒は結構な数、いたんじゃないかねーぇ?それを思えば、あの子のことが気になるあまり、あんたが何事にも気もそぞろ、挙句の果てに心配のあまり、ストーカー化しやしないかって多くが危ぶんでたもんだけど。いや、私、正直、あんたが高校で1年留年して、あの子と同級生になって、一緒に卒業、一緒に大学部入学するって言いだすんじゃないかって、予想たててたんだけどねー」
「…おまえ、俺を、なんだと思ってるんだ?俺が、目先のことに囚われて、そんなバカな真似をするとでも?」
「へぇぇ〜?少しでも長くあの子と一緒にキャンパスライフを送るため留年しちゃおっかなーって、1度でも考えたことなかったっていうのー?」
「…ちらっと…いや!まったく!金輪際!そんなバカなことは考えてない!考えたこともないぜ、俺は!そんなことをしたら、それだけ社会に出るのが遅れちまうからな!彼女をこの俺の手で守れるようになるのに、余分な時間がかかっちまうじゃないか。俺は可能な限り、早く社会に出て、名実ともに彼女を守れる、守ると言い切れる男になるために日々精進しているんだからな!勉強だって、すべてはその布石だぜ」
「え?ガリベンは、あの子と一緒にいられない寂しさを紛らわせるためじゃなかったの?」
「おまえなぁ…」
「だって、あんたは、この1年は、あの子と一緒の学び舎に通えない、休み時間に会えない、放課後になっても生徒会室にはいけない、めったに一緒に帰れない、って感じでないない尽くしじゃん?だから、私、あんたが、やさぐれるんじゃないかと内心、心配だったんだけど、実際、入学してみたら、あんたったら、めったやたらにガリガリ勉強してるから、これはあの子に思うに任せず会えない寂しさを紛らわせるため、必死で勉強してるんだとばかり…」
「ぬかせ!誰が、そんなネガティブな理由で勉強するか!俺が、必死に勉強してるのだって、早めに必修単位をとっておけば、その分の時間を…」
「あ、わかった。前倒しで勉強してたのは、2年次になって、あの子が入学してきたらあの子と思う存分遊び呆けるためか、いやー、それならわかるよ、うんうん」
「もーいい、おまえのたわごとには付き合ってられん」
オスカーには自身が企業経営者になるためにせなばならない勉強、納めるべき学問があり、そのために経営大学院まで進みなるべく早い時期にMBAを取得するという、とりあえず至近の目標があった。そのためには、勉強時間はあればあるほどいい、必修科目を早めに履修してしまえば、空いた時間を資格取得のための勉強に振り分けられる、という思惑があって、熱心に勉学に励んでいたわけで、勉強すること自体が自己目的化していたわけではないーとむきになって反駁しかけたところで、そんなことは、俺自身と、そして彼女がわかってくれていればいいことだ、と思い返し、ばか話をここで打ち切ろうと考えた。
俺は一刻も一日でも早く一人前になって、父の会社の経営に加わり、名実ともに後継者と認めらる必要があるんだ、そのための努力は、苦労でもなんでもないし、勉強さえしていればいい時間というのは、ある意味では恩寵だ、恵まれた場であり、時間なのだ。費やした努力が、如実に成果となって反映し、果実となってこの身の血肉となるのだから。ビジネスでは、そう単純にはことは進むまい、費やした労力、時間がそのまま報われるとは限らないのが「仕事」だから。だが、勉強は違う、やればやるだけ成果があがり、評価を得られる。その評価は努力に比例するという点で、ひたすら公平だ。だから、俺は学生の間に、できる限りゴールへの距離を稼いでおきたいし、稼いでおかねばならない。1人前になって初めて、俺はようやく彼女を公にこの手にできる、その資格が得られるのだから…。
一瞬、愛しい彼女の存在に思考がとんだ。
「じゃぁな、俺はこのレポートを出してから、行くところがあるんでな」
「あ、そっか!今日は高等部の卒業式だもんねー、あの子のエスコートに行くんでしょ?」
「…今の、すっごくわざとらしかったぞ。おまえ、今日、俺が高等部に顔を出す予定をわかってて、俺を呼びとめただろう?大体、執行部OBとして、おまえも、卒業パーティーに顔を出すんじゃないのか?」
「うっふふーん。ま、ね。出来栄えと反響を確認しにね」
「できばえ?何の?」
「今日のあの子のドレス、仕立てたのはだーれだ?」
「!!!…おまえ、俺より先に晴れの日のお嬢ちゃんのドレス姿を…」
「デザイナー&スタイリストの特権てやつさね。私があの子に私のブランドのイメージモデルをさせてるのは、洒落でも冗談でもない、大マジなビジネスだからね、なら、私の服を着た専属モデルお披露目の機会は多ければ多いほどいいし、その場合、私が上から下までプロデュースするのはあったりまえじゃん。我ながらかわいくできたなーと思ってるんで、今夜のあの子も、パーティーの花、間違いなしだよ、きっと。ひっきりなしにダンスを申し込まれちゃうかもねー」
「おまえ、根性悪すぎだ」
「そういいなさんな。だって、早いうちからデュカーティの専属モデル、イメージとしてのアイコンになるのは、将来、あの子が立つ場所を考えれば決してマイナスじゃないと思うよ、そして、あんたにとってもね」
「ああ…学生時代から、彼女が若く初々しいファッションリーダーとして世間に好感をもって受け入れられていればー好印象の地盤を作っておけば、将来、彼女が俺の家に嫁いできた時、悪く言われるような恐れは減じる、しかも、彼女のイメージが良ければ良いほど、おまけで、俺の生家も多少はイメージアップするかもしれない。政界に限らず…財界だって、夫人の印象が経営者たる夫のイメージアップにつながることも、また、その逆も多々あるからな…で、それがわかってるから…おまえはわかってて、俺のお嬢ちゃんをモデルに使ってるんだから…しかも、お嬢ちゃんのかわいい艶姿を真っ先に目にするって特権を、あからさまにひけらかすことは、忘れないしな。だから、おまえは、どーしよーもない根性悪で、最高の友人だっていうんだよ、まったく」
「クラウゼウィッツの御曹司におほめにあずかり、光栄至極だねぇ」
「…とにかく俺はもういくぞ。折角のレポート、提出刻限に遅れたら元も子もないからな」
「じゃ、また、あとでねー」
「誰が、パーティー会場で、わざわざ、おまえを探したりするか!」
オスカーは、思い切り捨て台詞を吐き『今度は、半径1m以内にあいつが近づくいてくる前に、気配を察してみせるぜ!』と気を取り直して、教授室に向かった。
実際、俺には無駄な時間はない、最短距離で、細心かつ大胆に、ビジネス世界に飛び込む準備をせねばならない、そして、名実ともに腕を磨き…どんな理不尽な災厄からも彼女を守りぬけるだけの力を得て初めて、俺は、堂々と彼女を娶ることができる、それが許される。
それは、初めて彼女の両親ー主に父親ーと会った時から、そして、幾度か事あるごとに、彼と顔を合わせ、言葉を交わしていく間に、培われた約束、というよりは黙契だった。
高等部の卒業式とその謝恩パーティが終わった後、大学の入学式まで日にちがあるから、彼女はまた親元に帰るー両親の赴任先で過ごすだろう、その間、俺も先方の都合さえよければ、また挨拶に顔を出そうと考えていたこともあって、オスカーは彼女のー愛するアンジェリークの両親と初めて顔合わせした時のことを思い出していた。
オスカーが愛するアンジェリークと想いを通わせ、初めて肌を重ねたのは18歳になりたての冬の日、1年で最も夜が長く、言い換えれば、これから少しづつ日が伸びていくー太陽が夜に打ち勝ち、光輝の力を取り戻し始める頃だった。
そして、この時節、学校は冬季休暇に入る直前であったが、学生ならずとも年末年始はどの国であっても人の移動が多い。西欧諸国では年始は普通の祝日扱いだが、クリスマス休暇は、故郷・実家で家族と過ごす者が多いため、交通機関は年の変わる前後のこの期間が最も混雑する。
スモルニィ学園の冬季休暇も例外ではなかった。特に、この学園は遠方や他国からの留学生・寮生が比較的多いという事情から、学生たちが無理のない日程で帰郷できるよう、冬季休暇は余裕のある日程で組まれていた。そも、年度末パーティー(成績不振者はその日一日、補習で拘束されるが)そのものが、休暇中のオプションイベント扱いなので、パーティーに出ずに帰郷する気の早い学生も若干いる。だが、大半の生徒は、このパーティーで休暇中の予定を報告しあったり、年越しのあいさつを交わしたのち、新年度・新学期の再会を約して、各々の実家に帰りつく。
アンジェリークも、冬季休暇中は親元でー外交官である父親が駐在する国で過ごすようにと、パーティー翌日が出立日となっているエアーのチケットを早々と送られてきていた。
つまり、アンジェリークは冬季休暇中ずっと異国で過ごす予定であり、となれば、オスカーが彼女を追わない限りは、一緒に過ごす、どころか、日帰りデートも、いや、そも、顔を見ることすらできない。パーティー当日に、その事実を知らされたオスカーは、即刻、航空機のチケット手配に動いた。愛するアンジェリークとようやく身も心も一つになれたその直後に、2週間近く会えなくなるなんて、到底我慢ならないという直哉で感情的な理由に加え、これは、彼女の両親にきちんと挨拶をする好機と、オスカーは肯定的にとらえたからだ。
が、人の移動の多い時期ゆえに、当然のごとく、オスカーは、アンジェリークと同じ飛行機便を取ることはできずー彼女の父の駐在国は小国で、自国からの直行便の数がそもそもほとんどなかったー彼女が出立して2日後の日付で、フライト及び宿泊先の確保が、なんとか叶った。
翌々日、逸る心でかの地に空港に降り立ったオスカーをアンジェリークは満面の笑みで迎えてくれた。自力でお宅まで伺うから出迎えはいいと言っておいたにも拘わらず「私が少しでも早く…1時間でも多く、オスカー先輩にお会いしたかったんですもん」という、いじらしいエクスキューズと共に。
そして、到着日がこの国ではクリスマス休暇最終日にあたったため、この時、彼女の両親は在宅中であることを聞き及んだオスカーは結局、彼女に案内される形で、飛行場から彼女の両親の住まう家に直行することにした。
人生において、男が最も緊張を強いられる場面、それは、愛する女性、しかも己が生涯の伴侶と心に決めた唯一無二の女性の両親に挨拶に赴く時だと、この時、オスカーは心底実感していたーつまり、かなりの緊張状態にあった。もとより、彼女の両親に目通りを願っており、この訪問の主目的でもあるが、だからこそ緊張も甚だしい。
だって考えてもみろ、俺がもし、こんなにかわいい娘の父親で、その娘が恋人?彼氏?BF?を両親に紹介したいと連れてきたら…俺だったら、絶対、鵜の目鷹の目でその男のあらさがしをする、そして、少しでも気に食わない点があったら、即、交際に反対してやる。それが、お嬢ちゃんみたいなかわいい娘をもつ父親の基本だろうとしか思えなかったからだ。だからこそ、俺は、どこまでも礼儀正しく、若輩者として謙虚でありつつも、頼りない印象を与えないように、毅然と振る舞おうと、オスカーは隙のない挨拶の文言を、予め、組み立ててはおいたが。
しかし、紹介された彼女の両親はー父も母も娘の彼氏に警戒心や敵愾心をあらわにするどころか、とてもにこやかに「やぁ、遠い所をよく来てくれたね、歓迎するよ」と、フレンドリーにオスカーを出迎えてくれた。彼女の母は、落ち着いた優しそうな雰囲気の婦人だった。穏やかな笑みと物静かな佇まいの中に、ちょっとやそっとのことでは動じないと思わせる芯の強さを感じさせる、腰の据わった女性のようだった。一方、オスカーが立ち向かうべきリモージュ氏は…娘のものより、若干くすんだ色合いの金の髪に、人懐こい笑み、しかも、目じりの笑いじわが、なんとも、人好きのする容貌の朗らかで感じのいい中年男性だった。彼女から聞いていなければ、彼が、丁々発止で外交交渉を司る海千山千の外交官とは思いもよらない、そんな人の良さげな印象だった。
尤も、外交官と聞いていた彼女の父は、その時、実際には外交をつかさどる大使館勤めではなく、自国民の権利を守り、便宜を図る領事館勤めだったということも関係していたかもしれない。というのも、彼女の父が派遣されていたこの小国には、そも、大使館が置かれていなかった。そして、彼ら一家の住まいはーアンジェリークの父は副領事という地位にあっても集合住宅の一室に住まっていたこともー広々とした造りで、部屋数も多いようで、交通の便もよく、手入れがいき届いていたがー彼ら一家の心安さ、体面や体裁にとらわれない柔軟さを象徴しているように、オスカーには思えた。尤も、土地に乏しい小国の常で、領事館自体が独立した建物ではなく、オフィスビルの1フロア占有という形で営まれていることを考えれば、領事館勤めの職員がーNo2の地位にあってもー集合住宅住まいになるのは必然だったのかもしれないが。
そして、通された客間でー彼らの住まいは、住人の印象そのままに、温かで和やかで、訪問者を歓迎する開かれた空気に満ちていたーオスカーは案内されるままに、かしこまって着席した。真正面に、人好きする笑みと共に、自分への好奇のまなざしを隠す気もなさそうな彼女の父が座した。
そして、些か緊張した面持ちで、オスカーを客間に案内したアンジェリークは、彼女の母と一緒に、きびきびと立ち働いて茶を供してくれたのち、一瞬、自分も席に着こうか、そも、自身も席についていいものか、そして、着くならどの席が妥当かという逡巡を見せたが、それは、本当にほんの僅かの間で、すぐさま意を決めたように、オスカーのすぐ隣に腰掛け、オスカーににっこりとほほ笑みかけてくれた。その瞬間、オスカーは「勇気百倍」という心境を身をもって実感した。彼女は、俺の誠意・誠実を知り、心から応援してくれている、言いにくいことを告げにきた俺を支えようとしてくれていることが、その笑みひとつでわかったから。そして、その笑みに、オスカーは、小さくではあったが力強く頷き、彼女と同じかそれ以上の信頼と愛情と敬意をこめた笑みを、彼女に返した。
そして、そのーオスカーとアンジェリークとの間に通い合った信頼と誠実の感情は、恐らく、彼女の両親にも伝わったのだろう。正面のアンジェリークの父から、オスカーは、自身に対する並々ならぬ好奇の感情を、更に強く、波動のように感じた。
無理からぬことと、オスカーは思う。
本来なら、愛娘が連れてきた客が、男友達というだけで、両親にとっては心穏やかならぬものがあろうー単純に面白くないという感情に加え、愛娘が、どこの馬の骨ともわからぬチンピラにでもたぶらかされていたら大変だから、その人となりを見極めてやらねば、という義務感や警戒心も在ろう、在って当然だと思う。
その上、この地はわが子が勉学にいそしむ故国から遠く隔たったーフライトでなければ行き来できない異国の地だった。よほど親しい女友達が、旅行がてら異国の友人宅を訪問し、そこに滞在して楽しむ、という機会ならあるかもしれないが、男友達、もしくはステディな恋人が異国に住まう恋人の両親に、わざわざ飛行機に乗って挨拶に来る、という事実だけでも、少なからず彼女の両親を驚かせていただろう。
そもそもオスカーの年頃の少年なら、恋人とか彼女の両親は、なるべくなら避けて通りたいとか、煙たいとか、できる限り言葉を交わしたくない、プレッシャーを覚える存在というのが、極一般的な反応であろう。その煙たい存在が遠い異国にいるとなれば、面倒がなくていい、とほっとする男子の方が多かろうから、わざわざ外国に駐在している恋人の両親に挨拶に赴こうなどと考えもしないだろう、少なくとも高校生の交際のレベルでは。
この当時、オスカー自身は、まだ、現役の高校生ー社会経験など皆無といえる弱冠18歳の若造であるし、高校生のカップルで、恋人の両親に進んで挨拶に行く男は、そう滅多とおるまい。なんといっても「お嬢さんを僕にください」という挨拶は、普通は若すぎるし早すぎるからありえない、そして、結婚の許可をもらうわけでもないのに、自分から進んで恋人の両親に挨拶に赴く姿勢自体、稀有であるものの、なんとも礼儀正しい振る舞いと評価され、恋人の両親には好印象をもってもらえる可能性は高い。ここで青年らしく、折り目正しく、誠意に満ちた挨拶を心がければ、大層な好印象を与えられるだろう。そう思えば、無暗に肩肘を張ることも、必要以上に緊張することもない。
が、通常では礼儀正しいとみなされる行為でも、やりすぎれば、それは奇矯となる。いわゆるハイシーズンに、高価な正規料金のチケットを、高校生の分際で購入して、わざわざ恋人の両親に挨拶に赴くというのは、正直、一般常識からはかけ離れた突飛な行動であろうことは、オスカーは重々自覚していた。
その上、愛娘は、その突飛な振舞をする男に全幅のゆるぎない信頼をよせ、溢れんばかりの愛情を交わしているようだと察すれば、より強い好奇の感情が頭をもたげたとしても無理はない。
彼女の両親が、俺の素性、その人となりに興味をもつのは、当然だろう。自身の訪問の用件も単なる挨拶とも思えないし、しかし、結婚の許可をもらいにきたというのは、いくらなんでも早すぎよう、となれば、わざわざ、挨拶にきた用件はなんだろう?と、いやでも考えを巡らせていよう。ただ、それこそ単なる顔見世、単純に挨拶するために、高い航空運賃を費やしてきたと思われていたら、その金銭感覚を疑われているかもしれない。下手すると、どうしようもない金持ちのどら息子と認定され、愛娘の恋人としては不適格の印を押されるかもしれない。
それでもオスカーは、常識を疑われようと、奇矯に思われる危険を犯してでも、可能な限り早いうちに、恋人の両親にきちんと挨拶をし、自身の存在を、そして交際を認めてもらうー歓迎はされなくても、せめて、自分の誠意と真剣さを知ってもらう必要を感じていた。
だから、彼女を…愛するアンジェリークが、親元に帰るという話を聞いて、すぐ、彼女の後を追う手配をし、実際に追いかけた。自分の氏素性は、可能な限り早い時期に、自分の口から告げた方がいいと思ってのことだ。うかつに隠そうとしたり、周囲から愛娘の恋人の素性をご注進されるという事態は、何が何でも避けたかった。
まず、アンジェリークが真剣極まりない口調で
「パパ、ママ、こちらは私の学校の先輩で、私が一番好きな…私の一番大切な方です、私が、年末のお休みは、親元で過ごすって言ったら、パパとママにご挨拶に伺いたいっておっしゃってくださって、それで、こちらにいらしてくださったの」
と、紹介してくれた言葉を受け、極限の緊張状態のもと、オスカーは
「改めて、ご挨拶申し上げます、Mrリモージュ、Mrsリモージュ、お嬢さんと真剣なお交際いをさせていただいております、オスカー・クラウゼウィッツと申します」と、自らの姓名を名乗ったのだった。
そして、彼女の父親は、オスカーが苗字を名乗った瞬間、それとわからぬ程微かに、眉を動かした。それまで、泰然と彼の周りにあった余裕とてらいのない好奇の感情がすっ…と霧消し、冷やかにも思える冴えた視線が、まっすぐにオスカーの顔に注がれた。そして、一瞬の逡巡を示したのちに、彼は、静かに、こうオスカーに尋ね返してきた。
「オスカー…クラウゼウイッツ君といったね…失礼だが、君のご実家、いや、ご実家でなくとも、親類筋のどなたかが、何かのご商売をなさっておいでだろうか?」
外交官であるアンジェリークの父としては、やはり、俺の苗字は、恐らくたまたまであろうとは思ってもー思いたくても、だからこそ、どうしても無視しえないもの、その素性を確かめずにはいられない名だっただろうと、とオスカーは思い、自分の生家の名が持つ重さに、思わず嘆息しかけた。が、すぐに、先方からわざわざ確認してきたのは、ある意味、話を振ってくれたー俺が話にくい話を切り出しやすいよう、水を向けてくれたということにも思えた。俺の行為は、大仰なものだ。普通のBFなら無論のこと、ステディな恋人としても外国に住まう両親をわざわざ尋ねるというのは、大袈裟だし、稀有のことだ、そして、そんな行為に出る以上、この若造には、それなりの理由があるはずだと、彼女の父は推測しつつ、今まで、その理由の見当がつかずにいたが、彼の出自、もしくは血筋がその理由ではないかと思い当って、話を切り出しやすくしてくれたのだろうか。
一方で、もし、俺が、あの一族に無関係なら、質問の意味がわからない、という顔で、普通に実家の生業を返答するだけだろう。そして、眼前のアンジェリークの父は、自分のそういう反応を期待しているのだろうか…オスカーには判断がつかない。外交官にしては、いや、外交官だからこそか?人好きのする温和な表情と口元に浮かぶ和やかな笑みは、人に警戒心を抱かせない。実家の生業という踏み込んだ話題も、この笑顔で親父世代のちょっと図々しい世間話という擬態がなされるのだろう。しかし、オスカーは彼の深遠な知性をたたえた瞳、その瞳に冷静に冷徹に自分の態度、表情、その他の反応を観察されていることを感じていた。
そして、オスカーとしては意を決して質問に答えようとして、気づいた。何も知らない、思いもよらない相手に尋ねもされないのに一から、ある面、唐突に自分の実家の生業を説明せずに済むのは、ある種の救いであることを。実家が大企業であることは紛れもない事実であり、尋ねられもしないのに自分の出自を明かすことは、鼻もちならない生家自慢に受け取られる恐れも否定できない、それを思えば、アンジェリークの父が話を振ってくれたのは、俺の答えを予想した上での気遣いだと、と、オスカーは確信をもった。高校生の若造が、わざわざ恋人の両親に挨拶に来るには、それ相応の理由があると、察した上での言葉であったのだろう、あの問いは。単なる世間話や好奇心から発したものであろうはずがない。アンジェリークの柔軟かつ温かみのある知性は、確かにこの父から受け継いだ特性、もしくは、父の姿勢から自然と学び、培われていったものなのだろうと思いつつ、オスカーは、表情も声音も変えず、淡々とこう告げた。
「はい、俺の実家は、各国にまたがって事業を営んでいます。社名をアルテマ・ツーレ重工業といい、取扱品は、航空機・戦艦などから、自動小銃などの小火器類まで多岐に及びますが、一言でいえば兵器・武器という名で括られる物を幅広く商いしております」
社名を名乗れば、彼女の父には自明であろうことをくだくだしく説明したのは、同席した彼女の母にー穏やかで優しげな物腰の妙齢の女性に、実家の事業の内実をきちんとわかってもらうためだった。彼女の父が、自身の配偶者に国際関係の暗部や、汚く稼いでいる企業の噂など耳に入れてない公算は大きくー実際、アンジェリークもアルテマツーレという社名を耳にしても、最初はなぜ、その名を口にするとき、声をひそめなくちゃならないかわからなかったと言っていたーだからこそ、露悪的なまでに、赤裸々に生家のことを、自分が育まれたお金の出所である生業をつまびらかにした。これは自分の若さ、青臭さの発露でもあろうと思いつつ、さらに、聞かれもしないことを、オスカーは付け加えた。
「そして俺の…私の父は、アルテマ・ツーレ社の現CEOであり、俺はそのクラウゼウイッツのー創業者一族の直系です。その関係で、俺自身、多少の自社株を持ってー持たされているため、その運用で学費・生活費等は自分で賄っています。また、将来は、父の跡を継ぎ、自身の手で会社の舵取りをしていく心つもりでおり、そのため大学では経営学を専攻します」
聞かれてもいないことを、ここまで言ったーいわば所信表明をしたのは、単に出自を明らかにしただけでは、不十分だからー極端にいえば『生家と俺自身は何の関係もない、出自で差別しないでくれ』というメッセージを伝える場合でも、出自を明かす必要はあり、そのような意味合いと受け取られることを厭うたのと、わざと誤解を招くようなあいまいな物言いをして、それに乗っかるのは卑怯だと思ったからだ。
俺はいわゆるダーティビジネスにー犯罪ではないかがーによって、今まで何不自由なく育ってきた、というだけではない、これからも、主体的にかかわっていく決意を持っている男だ。それを明らかにせずに、お嬢さんとお交際(つきあい)させてください、と願うのは、虫のいいことにオスカーには思えたのだ。
アンジェリークの父は、オスカーの言葉に些かなりとも表情を変えなかったが、暫し、沈黙の間があった。
ほんの短い時間だったが、次にアンジェリークの父が言葉を発するまでの時間は、オスカーには判決を待つ時間のように思えた。
すると、リモージュ氏は、オスカーにではなく、無意識に、祈るように両手を胸の前で組み合わせ、すがるような瞳をしていた娘の方に顔を向け、静かに尋ねた。
「アンジェ、君は、彼のご実家のことは知っていたのかい?」
「っ…は、はい」
まさか、自分に声がかけられるとは思っていなかったのだろう、虚をつかれたアンジェリークはイスの上で、飛び上らんばかりで、返答は簡潔を極めた。というより、肯定の返答をするだけで精いっぱいだった。それだけでは、不十分と思えたのだろう、彼女の父は言葉をおぎない、質問の意図を明確にした。
「君は、このオスカー君に好意を抱いていると言ったが、それは、彼が今後携わるであろう仕事のことを知って、それで惹かれたのかい?何せ、彼は、世界有数の大企業の御曹司らしい。彼の自己申告によると、だが。一公僕の娘である君からすれば、彼と結婚すれば玉の輿ってことになる。私なんかでは味あわせてやれない贅沢ができることはまちがいなかろう、それが、どんな手段で手にしたお金であろうとね。富は富だから」
「パパ…」
オスカーには、予測されてしかるべき反応だった。だが、アンジェリークは、実の父の冷たい言葉に、文字通り、思考も体も凍りついてしまったようだった。しかし、オスカーは凍りつくわけにはいかない、その程度の軟弱で、これからアンジェリークを守っていけるはずもない、オスカーは奥歯をかみしめ、決然と頭をあげた。