珠、磨かざれば…1

「じゃ、オリヴィエさま、次の式典の式次第なんですけど、これで問題ないでしょうか?」

女王補佐官アンジェリークは夢の守護聖オリヴィエの許に送られてきていたプリントアウト書類の確認に来ていた所だった。

アンジェリークが補佐官となってから3ヶ月くらいたったところであろうか。

補佐官の執務にもそろそろなれてきて、最初の頃の目の回るような慌しさこそ一段落ついていたが、アンジェリークは相変わらず忙しい日々を送っていた。

執務のデータ自体はオンラインでやりとりされているので、その裁可もリテークも本来なら回線一本で済むのだが、聖地の守護聖たちは夫であるオスカーも含め…というより、オスカーを筆頭になにかというと、直接アンジェリークを遣して、仕事は直に口頭で伝えたいと言ってはばからないので、華奢な身体のこの補佐官は毎日聖殿中を、あっちの執務室からこっちの執務室とくるくる走り回っていた。

それでもアンジェリークが疲労困憊しないで済むのは、訪れた守護聖のもとで最低一時間、お茶やらなんやらで引きとめられてすぐには帰してもらえず、それがいい休息となって体力回復に役だっていたからである。

たまたま他の守護聖がアンジェリークの在室中に訪れたリした時にはこれ幸いとばかりに、一杯のお茶のはずが一口サイズのキューカンバーサンドイッチとクロテッドクリーム付きスコーンとその他各種のプチフールが供される本格的アフタヌーンティーの時間にはや替りしてしまって気付いたら3時間くらい談笑していたなんてことも間々あったりした。

守護聖たちが競うあうようにアンジェリークを引きとめて離そうとしないのは、そうでもしないとアンジェリークとお茶を喫しながら楽しく談笑する機会がアンジェリークが結婚してからと言うものまったくといっていいほどなくなってしまったからだった。

休日にはアンジェリークはオスカーの私邸から1歩も外にでてこないし、こちらから訪れても慇懃な客あしらいに長けた執事に丁重に門前払いを食らわされる。

リュミエールがこれは軟禁だ、妻への人権侵害だとオスカーを糾弾したこともあったのだが、アンジェリーク本人が『自分は好きでオスカーの側にいるのだ』と宣言して以来、そのことに関して異を差し挟むこともできなくなっていたので(拙作『それいけ!ばいきんまん』を参照されたし)合法的にアンジェリークと楽しい時間を過ごすには、執務中を狙うしかなくなってしまっていたのである。

閑話休題、本日アンジェリークは、聖地における式典の舞台・音響・演出一切を仕切っている芸術監督オリヴィエの許にとある小規模な催しの段取りに関する最終確認にきていたのであった。

「ん〜この式典は宇宙移動後の残務処理慰労の意味合いのほうが強いし、極内輪の式典だから、なるっべく堅苦しいことは抜きにしたいよね。ジュリアスあたりが威厳や格式がどうのとかいいそうだけど、こういうことは出席者の身になってあげないとね〜、お偉方の挨拶なんてのは少なきゃ少ないほどいいんだから、こんな感じでいいんじゃなーい。ってことで仕事の話はこれでおしまい!んふふ、でも、すぐには帰さないよ〜。さ、お茶くらい飲んでく時間あるんだろ?そこにそのまま掛けておいで。今、用意させるからね。」

「じゃ、お言葉に甘えさせていただきますね、オリヴィエ様」

もとよりその時間もスケジュールにくみこまれているので、アンジェリークはにっこり微笑んで快くオリヴィエの誘いを受けた。

「そういってくれると思ってたよん。」

オリヴィエは部屋つきの使用人にお茶の用意を命じると、くるりとむきなおって突然アンジェリークの顔をじいっと見つめはじめた。

そして、とてつもなく真剣かつ深刻な顔でアンジェリークにこう言った。

「アンジェ、アタシ、実はあんたにいいたいことがあるんだ…」

「な、なんですか、オリヴィエ様、突然改まって…」

なにやらとてつもなく重大事でも打明けそうな様子のオリヴィエにアンジェリークはどぎまぎした。まさか、オリヴィエ様のサクリアに変調でも…?

オリヴィエはアンジェリークの顎をひとさし指の先でくいともちあげると、きっぱり言いきった。

「あんた、お肌荒れてるよ!このごろ睡眠不足でしょ!」

ずざざざざざっとものすごい勢いでアンジェリークが椅子ごと一メートルは後ずさった。

「お、お、お、オリヴィエさま、私、そんなに酷い顔してますか!」

泣きそうな顔でアンジェリークが、オリヴィエの許にもどってきた。

「いや、よーくみなくちゃわからないよ。でも、あんたはもともとお肌の肌理がきれいだからこそ、ちょっと荒れるても気になっちゃうのさ。しかも、目の下にはうっすらと隈も見えてるよ。これも瞳がぱっちり大きいからこそかえって目立つんだよ。」

「やああん、あんまりあら捜ししないで下さい〜!」

アンジェリークが小さな掌で自分の頬を隠すように抱えこんだ。

「たださぁ、お肌の輝き自体はとーってもいいのよ、艶々して内側から輝いてるみたい。ということは、ホルモンバランスはばっちりってことで…これはつまり、あのばかがあんたをすんごーくかわいがってるのはよくわかるし、それ自体はいいことなんだけど、ちょっと見境ないっていうか、度が過ぎてるってとこじゃない?あんたの体力全然考えてないんでしょ、あいつ」

「………お、お、お、オリヴィエさま、何いってるんですかあああ!」

しばし黙ってオリヴィエの言葉を吟味すること数十秒後、耳まで真っ赤になってわたわたと何もない空中でアンジェリークは手を闇雲に振り回した。

しかし、オリヴィエはそんなアンジェリークを微笑ましげに見つめ返すだけだ。

「きゃははっ!今更隠しっこなしだって!どーせばればれなんだから!でも、実際、寝不足してない?」

「う…実は…慢性睡眠不足ですうう」

アンジェリークは諦めたように訴えた。まるで悪戯を見つかって白状させられたような気分だった。

オリヴィエはうむうむ、さもありなんといった様子で頷いた。

「今は若いし、素材がいいからなんとかなっちゃってるけど、お肌に疲れをためるとよくないよ。後になってからどーっとくるんだからね!なんたって、一度衰えたお肌は洋服買いかえるみたいに、取替えはきかないんだよっ!」

びしぃっとオリヴィエが熱血スポーツコーチのようにアンジェリークの鼻先に指を突きつけた。

思わずアンジェリークはその自信のほどにすがりつきたくなった。

「お、オリヴィエさま、私もそれはわかってるんですう。でも、どうやっても家じゃゆっくり寝かせてもらえないんですもの、たまにちょっとうたた寝とかしてもすぐ、その、いろいろされて起こされちゃうんですもの。私、どうしたらいいんですか〜」

アンジェリークの瞳は救いを求める子猫ちゃんそのものである。

「ふっふっふ、なら、私を信じてついてくるかい?アンジェ。睡眠不足とお肌の回復、一挙に解決できるいい方法があるんだけどね〜」

「オリヴィエさま!私、ついていきます!どうすればいいのか教えてください!」

アンジェリークは思わず身を乗り出していた。

「じゃ、まず、そのお肌にいいハーブティーのんじゃいなさい。それでね…」

夢の守護聖はかわいい補佐官へのレクチャーを開始した。

アンジェリークはオリヴィエの言葉ひとつひとつにこっくりこっくりとかわいく頷いている。

まさにその有様は

「俺についてこい!」

「はい!コーチ!」

とでも形容できそうな熱血スポ根アニメのようであった。

 

金の曜日の夜であった。

炎の守護聖オスカーは、愛しい妻アンジェリークと夕食後の寛いだ一時を過ごしていた。

愛用のゆったりした安楽椅子に掛け、愛飲の酒を掌で転がすように揺らしていると、アンジェリークがなにかいいたげな様子でオスカーのそばにもじもじしながら近づいてきた。

「あの、オスカーさまぁ、私、お願いがあるんです…」

「おや、お嬢ちゃんからおねだりなんて珍しいな?何が欲しいんだ?宝石か?ドレスか?」

オスカーは一瞬驚いた表情を見せたが、すぐ次の瞬間相好を崩しきった。

オスカーは常々アンジェリークの願いをなんでもかなえてやりたくてうずうずしているのだが、元来物欲のあまり強くない所にオスカーがいつも先周りしてなにかと口実をつけてはこれでもかのプレゼント攻勢をしかけるので、オスカーは自分が強く望んでいながら、アンジェリークにかわいくおねだりをしてもらうというシチュエーションになかなかめぐりあえないのだった。

オスカーがアンジェリークとの睦言で、アンジェリークがもう身も世もあらぬほど乱れてオスカーを求めるまで責めずにはいられないのも、アンジェリークにおねだりされたいという欲求がなかなか充たされない埋め合わせという部分も無意識のうちにあるのかもしれない。

とにかく、オスカーはアンジェリークにされるおねだりはなんでも大歓迎であったし、めったにないことだからこそ、なんでも叶えてやりたかった。

しかしアンジェリークはぶんぶんと大きく首を振り

「違うんです、ほしい物があるんじゃないんですぅ。明日のお休みのことなんですけど…」

と言いながら、いつものアンジェリークからは考えられぬ大胆な行動に出た。

自分からオスカーの膝の上に、甘える猫の子のようにちょこなんと乗っかって、オスカーの首にうでを回しながら、オスカーの顔をじぃっと見上げたのだ。

オスカーは我ながら情けないと思いつつ、心臓がばっくんばっくん高鳴ってしまった。

恥かしがりやのアンジェリークはいつもオスカーが抱っこしてのせるか、ここにおいでと誘わない限り絶対自分から膝にのってくることなんてなかったからだ。

「なななんだ?お嬢ちゃん、明日の休みって…どこか行きたいところでもあるのか?」

内心のどきどきをひた隠して、オスカーはさりげなさを装って訊ねたつもりだったが、それがうまくいっていたかどうかは定かではない。

「はい、あの…私、明日、主星におりてもいいですか?」

「そりゃ、お嬢ちゃんが出かけたいなら、どこにだって連れていってやるぜ。でも、なんでそんなに遠慮がちなんだ?」

オスカー自身にアンジェリークとの外出に異論のあろうはずがない。しかし、どうもアンジェリークはまだ言い足りないことがあるようでもじもじしている。

「いえ、あの、そのぉ、オスカー様と一緒に出かけるんじゃなくて、私、主星でエステに行ってお肌のお手入れをしてきたいんです…」

アンジェリークは思いきって一番いいにくい所をオスカーに切り出した。

出かけたいとは言っても、オスカーと一緒の外出ではないのだということが、とにかく言出しにくかったのである。

アンジェリークは恐る恐るオスカーの顔を見上げた。

オスカーの顔から蕩けそうな表情が一瞬にして消え去っていた。

それでもオスカーは一見平静そうな表情を装っており、不機嫌さなどは微塵も感じさせなかったが、微笑んでいないということは当然それはオスカーの意に沿わないということで、案の定オスカーは色よい返事をしなかった。

「お嬢ちゃんは、そんなにぴちぴち艶々で綺麗なんだから、そんなものに行く必要はないんじゃないか?」

あからさまに反対はしないだろうが、諸手をあげて賛成はされないだろうということは予想済みだったので、アンジェリークは必殺の斜め下30度目線で、うるうると瞳を熱っぽく潤ませ、

「オスカーさまぁ、でも、私この頃お肌が少しあれてきちゃって…私、お肌が荒れちゃってるって思ったら、オスカーさまのこんなおそばに恥かしくて近寄れなくなっちゃいます…近くで見つめられることに気が引けちゃうから…恥かしくてキスもできなくなっちゃいます…こんな風に…」

アンジェリークは自分からオスカーにちゅっと口付けた。

「ね?こんなおそばにこられなくなっちゃいます、恥かしくて…だから…オスカー様のおそばにいつもいたいからきれいにしてきたいんです…」

ここでオスカーは既に8割がた陥落していた。

アンジェリークが自分からキスしておねだりしてくれ、しかも、それがオスカーと息が触れ合うほどいつも近くにいたいからと言われて、心がぐらつかないわけがない。

だが、アンジェリークとの休日がふいになるのもどうしても承服し難かった。

「しかし…そのお手入れとやらにはどれくらい時間がかかるんだ?」

「主星でフルコースのお手入れをうけても、こっちでは精々一時間くらいですから、朝でかけたらお昼すぎには絶対帰ってこられます、オスカー様!」

アンジェリークが勢い込んで説明する。

オスカーが条件を訊ねたということは、オスカーの心が傾いている証拠だからだ。

別にアンジェリークはオスカーの使用人でもなんでもないのだから、本来外出にオスカーの許可など必要ではないし、オスカーにもだめだと命じる権利もない。アンジェリークは、ただ、明日はでかけますというだけでも一向にかまわないのだ。

しかし、アンジェリークはオスカーがいつも自分との休日を心待ちにしているのを知っていたし、結婚後一緒に休日を過ごさない事など、考えてみれば初めてかもしれない。

オスカーに不愉快な思いをさせてまで我を通すつもりはなかった。

どうせなら、オスカーに快く送り出してもらいたかったのだ。

そうか…1日中不在と言うわけじゃないんだな、午後はアンジェリークと過ごせるのか…こう思った時点でオスカーは九割おちていた。

そこにアンジェリークの留めの一言が加わった。

「それに、私…オスカー様にはなるべく綺麗な私をみていただきたいんですもの。もともとそんなに美人っていうわけじゃないし…努力してきれいにしてなかったら、オスカー様に嫌われちゃうかも…そんなことになったら、私、悲しくて生きていけません…」

哀しそうな溜息をついてしょんぼりした様子のアンジェリークにオスカーは度を失い、うろたえた。

「おっじょおおちゃんっ!お嬢ちゃんは自分がいかにかわいいか、ぜんっぜんわかってないぜ!それに俺がお嬢ちゃんをそんなことで嫌いになるわけないだろおお!」

オスカーがアンジェリークを安心させるように思いっきりきゅうううっと抱きしめた。

「でも、オスカーさま、お肌艶艶の私と、お肌かさかさの私だったらどっちがいいですか?」

「う…そりゃあ、撫でて手触りのいいほうが…いや、その…」

言いよどむオスカーの言葉尻をアンジェリークはきちんと捕らえた。

「でしょう?私だってオスカー様にいっぱい撫でたり触ったりしてもらいたいし、どうせなら、オスカー様がもっと触りたいって思ってくださるようなお肌でいたいんです。ね?だからお願い?オスカーさまぁ…」

「そ、そうか、お嬢ちゃんは、俺にもっとかわいがってもらいたくて、それで俺のためにきれいになりたいって言ってくれるんだな…」

オスカーはここで完膚なきまでにノックアウトされてしまった。

オスカーは今、猛烈に感動していた。しかし、オスカーの顔は今、極限までやにさがっていた。

「わかった、明日は主星にいってきれいにしておいで。」

オスカーは頬を揺るませたままアンジェリークのおでこにキスした。

「ありがとうございます!オスカーさま!」

「そのかわり、なるべく早く帰ってきてくれよ?お嬢ちゃんがますますきれいになっちまったら、俺は余計な心配が増えちまうからな。」

お嬢ちゃんがいてくれないと寂しいからなというのは、余りに情けないかと思って口に出さなかったが、アンジェリークのほうがオスカーの心を汲み取ったようにこう言ってくれた。

「お休みの日はオスカー様となるべく一緒にいたいから、おわったらすぐ帰ってきますね!」

「ああ、そしてもっときれいになったお嬢ちゃんを俺だけにみせてくれよ?」

「もしかしたらあんまり変わり栄えしないかもしれないけど、それでも許してくださいます?」

小首をかしげて問われたが、オスカーはアンジェリークがいてくれさえすればいいので多分結果はどうでもよかった。

「ああ、いったいどこがかわったんだ?なんて無粋なことは絶対いわないから安心しな?お嬢ちゃん」

ウインクしながらオスカーが軽い口調で言った。

「うふふ、オスカー様、優しい!大好き!」

アンジェリークがもう一回オスカーに抱き付いてキスをした。

「じゃ、今日はお嬢ちゃんに俺がどれほど好きか証明してもらおうかな?」

オスカーはアンジェリークを抱いて徐に立ち上がり、いそいそと寝室に向かった。

アンジェリークはくすくす笑いながら照れたようにオスカーの肩口に顔を埋めた。

 

明けて土の曜日の朝、朝食を終え、外出の仕度をしているアンジェリークにオスカーはふと、思い付いたように訊ねた。

「そういえばお嬢ちゃん、主星に一人でおりて大丈夫なのか?初めて行く所なんだろう?俺が送っていってやろうか?」

「あ、いえ、だってこっちでは一時間くらいでも、主星にきていただいたらかなりお待たせしちゃいますもの、申し訳ないです、それに…」

とアンジェリークが言いかけたとき、ピンポーンと来客を告げるチャイムと同時に玄関のドアが勢いよく開く音がし、しかも、オスカーのよーく知った声が同時に聞こえたのだった。

「おっはよーん、アンジェ、仕度できてる?早速でかけるよーん」

「あ、はい、オリヴィエさま、今、いきますね〜」

ぱたぱたと走り出したアンジェリークに一瞬あっけにとられた後、オスカーは大あわてでアンジェリークの後を追った。

「ちょ、ちょっと待った、お嬢ちゃん!なんでオリヴィエが一緒なんだ?!」

「オリヴィエ様がご自分の行き付けのエステティックサロンがいいからって紹介して連れて行ってくださるからですよ。私一人じゃどこのお店にいったらいいかわかりませんもの。」

けろりとアンジェリークが答えた。

そこにオリヴィエが勝ち誇ったように割って入った。

「というわけなんで、あんたの奥さん、しばらく借りるからね、オスカー。あたしの美貌をみれば効果の程は心配しなくてもわかるってもんでしょ?帰ってきた時はあんたの奥さんもぴっかぴかのつるつるになってるから、お楽しみにね〜あ、もちろんエステは男女別々だから余計な心配は無用だよん。さ、行こうか、アンジェ。」

「じゃ、オスカー様、行ってきます。なるべく早く帰ってきますね!」

アンジェリークはオスカーにちゅっとキスすると、さっさとオリヴィエ所有の運転手つきエアカーに乗りこんで出かけてしまった。

音もなくエアカーの去った後には

「オリヴィエと一緒なんてきいてないぞおおお!」と言う機会すら逸したオスカーが一人呆然と残された。

 

玄関ホールにしばし佇んだままオスカーはその身を静寂に押し包まれていた。

使用人たちは最愛の奥方に取り残された主人を腫れ物に触れるを怖れるように遠巻きに眺めているだけなので、余計に屋敷は不吉な静けさで充たされていた。

だがオスカーは呆然とはしていても自失はしていなかった。

アンジェリークが一緒にでかけるのがオリヴィエでなく、もし、クラヴィスかリュミエールあたりと2人で出かけるなんていったら、オスカーはみっともなかろうが、嘘吐きとなじられようが前言をあっさり撤回して絶対アンジェリークの外出を阻止しただろう。

アンジェリークは望んで自分の妻になってくれたというのに、往生際悪くアンジェリークを諦めていなさそうな気配がこの2人からはばしばしと感じ取れるからである。

しかし、オスカーはいつも憎まれ口をたたきあっていても実はオリヴィエのことは信頼していた。

アンジェリークに下心を抱いていないという点に関しては、ジュリアスよりも信頼できるくらいだった。

オリヴィエがアンジェリークのことを純粋に妹のようにかわいがっているのは、幾多の恋のライヴァルを蹴落としてアンジェリークを得たオスカーには理屈でなく感じ取れていた。

多分オリヴィエがアンジェリークに美容に関する相談を受けて、それに真面目に応えてやったというだけで、勘繰りようがないのがわかっているから、オスカーは呆然としつつも黙って2人を行かせたのだ。

しかし、そうはいってもアンジェリークのいない屋敷…こんなに静かで殺風景だっただろうか…アンジェリークのいない休日…何をしたらいいか咄嗟に思い付かないなんて…でも、結婚前はこれが当たり前だったんだよな…

オスカーは改めてアンジェリークのいない家のつまらなさをしみじみ感じていた。

大して長い時間でないのはわかっている。彼女が昼過ぎには帰ると言った以上、それを違える事はあるまい。せいぜい3時間強といったところか。

それでも手持ち不如意というのはこういうことをいうのか、一人でいる時間の使い方が忘れてしまったようで、でも、それをあからさまに示すのは使用人の手前気恥ずかしく、オスカーはさも予定通りとでもいうように自分も屋敷を出ることを使用人に告げた。

厩舎に行って馬にまたがり、…ひさしぶりにあいつのところにでもいってやるか、暇つぶしにはなるだろう…

と思って行った先でオスカーはさらに自分に唖然呆然とさせられることとなる。

 

「おい、ランディ!久々に手合わせしないか?稽古をつけてやるぞ!」

「あれえ。オスカーさまじゃないですか!休みの日にめずらしいですね!結婚してからはウチにくるなって、訪ねて行った俺のこと取り次いでもくれなくなってたじゃないですかぁ」

「当たり前だ!新婚ほやほや家庭の休日のしかも早朝にいきなりおしかけてくるからだ。剣の稽古なんかつけてる暇があるわけないだろうが。おいかえされて当然だ!」

「じゃ、なんで、今日はわざわざご自分から俺のところにきてくださったんですか?あ、まさかアンジェと喧嘩でもしたんですか?」

「そんなことあるわけないだろう!お嬢ちゃんは俺のためにもっときれいになりたいと言って主星で自分に磨きをかけにいってるだけだ!で、暇になったから、わざわざおまえのところに来てやったんだろうが!感謝しろ!」

ランディふぜいになぜ俺はこんないい訳めいたことをいわにゃならんのだ、まったく、と忸怩たる思い二割、腹立ち八割を抱きつつ

「さあ、ランディ、稽古をつけてほしいのか、ほしくないのか、さっさときめろ」

とオスカーは結論を促した。

「あ、はい、今行きます!次にいつ稽古つけてもらえるかわかりませんもんね!」

ランディは慌てて練習用に刃を鋳潰した剣を2振り持ってきた。

オスカーとランディは剣の切っ先を軽くあわせて黙礼してから、打ちこみを始めた。

そしてオスカーは自分の目算違いを大いに思い知らされた。

ランディを合法的にさんざっぱら痛め付けて憂さ晴らしをしようと思っていたのに、ランディの打ちこみや身のこなしが思いのほか鋭く感じられ、結構気の抜けない勝負をさせられたのだ。

『こいつ、いつのまにこんなに強くなったんだ…』

と一瞬思った後、ランディの太刀筋は相変わらずがむしゃらに突っ込んでくるだけで、フェイントをしかけたり、隙をみて打ち込むなどと言う技量を身につけているわけでもなく客観的にみて大して進歩のないことに気付いた。

『にもかかわらず、俺はこいつの太刀筋をようやっとのところでかわしている…ということは、俺の身のこなしや動体視力が鈍っているということかあああ!』

オスカーは今気付いたこの事実による多大な精神的衝撃にうちのめされつつも、これは意地でも負けるわけにはいかないと、渾身の力をこめてランディの剣を叩き落し、フィニッシュショットと極めた。

ランディにつけてやる稽古に全力投球などしたことなかったのに…これはかなりまずい状況ではないだろうか…

あがりそうな息を感づかれまいと必死のオスカーに対し、負けなれてるランディは屈託なく笑っている。

「あーあ、やっぱり負けちゃいましたね〜、でも、俺、今日結構いい線行ってたと思いません?俺、いつのまにか強くなってたのかなあ、あはは!」

この能天気さはある意味うらやましいぜ、と思いながら

「今日、たまたま調子がよかったからってあんまり調子にのるなよ、油断してるとすぐ腕が落ちるからな。ま、また暇を見て稽古はつけてやるからな。」

とさりげなく、訓戒めいたことを言った後、オスカーはランディの所を辞した。

最後のセリフは自分にいいきかせたようなものだった。

「絶対ですよぉ!忘れないで稽古つけてくださいよぉ、オスカーさま!」

ぶんぶんと手を振り回して見送ってくれたランディに気のない様子で手を振り返し、馬をゆっくり歩かせながら、オスカーはなぜあそこまでランディに苦戦したのか思い返していた。

そういえば、結婚してからこっち基礎トレーニングもろくにせずに空いた時間のすべてをアンジェリークをかわいがることだけに費やしていた自分にオスカーははたと思い当たった。

使っているのが、腰と指と唇と舌だけじゃ、そりゃ身体も鈍るってもんだと情けなくも納得してしまったところに、オスカーに声をかけてくる人物がいた。

「めずらしいな、オスカー。一人か?」

そこには白い愛馬に跨り散策中の、オスカーの敬愛する守護聖、ジュリアスの姿があった。

「これはジュリアスさま、遠乗りですか?」

「うむ、それほどのものではないが、今日は陽気もいいので少し散策にな…おまえこそ、今日は一人で遠乗りか?めずらしいな。アンジェリークはどうした?一緒ではないのか?」

アンジェリークと一緒にいないというだけで、なぜこうも驚かれるのか、いくら新婚とは言え、アンジェリークとばかりすごしすぎていたか…とオスカーはまたも考えこまされた。

ジュリアスまで、自分が一人で休日に外出しているのが希有の事態だと思っているのだから。

「いえ、あれは今日は所用で外出しておりまして…昼すぎには帰ると申しておりましたが…」

「ふ…それで無聊をもてあまし当て所もなく馬を流していたのか?」

ジュリアスが可笑しそうに微笑んでいるのをみて、オスカーは照れくさくてたまらない。

アンジェリークがいないと何をしていいかわからないのだろう?とジュリアスに指摘されたようで、それが強ち間違いではなかったからだ。

「いや、それは…」

「ふ…隠さずともよい。アンジェリークが帰ってくるのが昼すぎだというなら、うちで昼食をとっていかぬか?久方ぶりにおまえとチェスを一局手合わせもしてみたいしな。」

「これは…お心遣いありがとうございます。それではお言葉に甘えさえていただきます。」

オスカーとジュリアスは馬を並べてジュリアスの私邸に向かった。

考えてみれば、ジュリアスとこうして馬を並ばせるのも結婚以来初めてだった。

一人でとる昼食の詫びしさを思うとジュリアスの誘いは渡りに船だったし、義理を欠いていた自分にも拘わらずジュリアスが快く自分を誘ってくれたのが、ありがたくもあり申し訳なくもあり、オスカーはいつになく言葉少なくなっていた。

そして、ジュリアス邸で昼食の準備が整うまで、チェスの相手をすることになったのだが…

 

「チェックメイト」

「え?ジュリアスさま、もう詰みですか?わっ!いつのまにかキングが丸裸…」

「どうした、オスカー。アンジェリークのことが気がかりで手に集中できなかったのか?」

ジュリアスが半ば意外そうに、半ば笑みを含んでオスカーに話し掛ける。

「いや、その、そんなことはないのですが…」

オスカーはだらだらと油汗が滲み出る思いだった。これでも一応必死に手を構築していたのだ。

まさか、こんなに早く投了されてしまうとは思ってもいなかった。

いっそ、アンジェリークの不在で気もそぞろだったほうがよかったとさえ、オスカーは思っていた。

『いったい、俺はどうしてしまったんだああ!ランディに体力で負けそうになったあげく、知力も相当低下してるということか!これは!』

ジュリアスとのチェスはいつも勝ったり負けたりのいい勝負を繰り返していた。

ここまで一方的にぼろ負けする事など今まで皆無だったといっていい。

「ふ…そういうのを新婚××というらしいぞ?ああ、しかし、勝負が早くついてよかったかもしれぬな。丁度昼食の準備も整ったようだ。食堂にいくとするか。」

「はぁ…」

気のない返事を返して、オスカーはとぼとぼとジュリアスの後ををついていった。

頭の中はジュリアスの『新婚××』という言葉が渦巻いていて、せっかくの料理もよく味がわからなかった。

俺はお嬢ちゃんとの愛の日々に耽溺するあまり、××てしまったのだろうか。

確かにお嬢ちゃんを抱くたびに、あまりの気持ちのよさに頭がどうにかなってしまいそうな気がしていたが…

そういえば、エクスタシーを感じるたびに、脳には微弱な電流が流れるとか、脳内麻薬がでるとかいうのをなにかで聞いた事があるぞ…俺は、お嬢ちゃんを抱いて天国にいるような気分を味わうたびに、脳のシナプスを電流でやききらせ、脳内麻薬で脳細胞を溶かしてしまっていたのだろうか?

だから、運動神経も鈍ってランディあたりに苦戦し、チェスの手も読めなくなってジュリアス様にぼろ負けしてしまったのだろうか。

ということは俺はセックスするたびに1歩づつ「××」に近づいているということか?!

まずい、これはいくらなんでもまずすぎる!

俺がお嬢ちゃんを抱かないでいるなんて不可能だ、しかも、抱いたらお嬢ちゃんのあの蕩ける蜜壷で天国にいかないわけがない。

なんたってお嬢ちゃんのあそこの感触ときたら、この世のものとは思えぬくらい風味絶佳なんだから、接して漏らさずなんて仙人のような真似ができるわけないし、それではセックスする意味が、引いて言えば結婚した意味がないじゃないか!

「××」も嫌だが、お嬢ちゃんを抱かずにいるのはもっと嫌だああ!

せっかくお嬢ちゃんもすっかり開発されて、もう、とてつもなく色っぽく俺を求めてくれるようになったっていうのにいい!

あんなにかわいくて、いろっぽくて、キュートなお嬢ちゃん、そのお嬢ちゃんがやっとこの頃俺の事を積極的に求めてくれるようになってきたところだったんだ。

濡れたひとみで『オスカーさま、きて…』なんて言ってくれるようになったお嬢ちゃんを抱かないなんて、そんな俺にもお嬢ちゃんにもかわいそうなこと、できるわけがないじゃないか!

俺はいったいどうしたらいいんだああ!

オスカーは答えの出ない堂堂巡りのループにすっかりつかまってしまった。

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