世界はあらゆるものが五つの理に法(のっと)り、五つの元素によって形作られ、五つの性質に属していた。その五つの元素とは、すなわち、風(空気)、空(天および光)、水、火、地である。
全ての事物ー生き物も無生物もーこの五つのどれか、または、幾つかの重なり合った属性をもち、同時にそれぞれの力の加護を受けていた。
その中で、時に、生まれながらにその身中に特に強い属性の力を内包するがゆえに、その力を位相という形で己が身に纏い、また、同時に物理的な作用として発現できる者がいた。
そのように己が属性を衣のように身に纏い、迸る力として行使する能力を持って生まれた者たちは《精》と呼ばれ、その中でも特に強い力を顕現する者は《神》と呼ばれるようになった。《神》となった者は、その持てる力ゆえ、己と同じ属性を持つ衆生から賛美と崇拝を受け、供物を捧げられた。《神》はその敬愛に応えるべく、彼らを見守り、庇護し、恩恵や祝福を与えることが自ずと義務付けられていった。邪悪な者を罰し懲らしめると同時に、贖罪する者は赦免すべきともされた。
そして、この世界は全ての事物が五つの理に則り、五つの元素の組み合わせで構成されているので、神々もまたそれぞれの持つ力の性質と性向、その力の強弱により、種々多様であった。例えば、水に属する神には川の神もいれば海の神もおり、水の神でも空(天)の性向を併せ持つ者は雨を司る神となる。風と水の属性を重ねて持つものは、暴風の神の一員となった。
それら神々の相互の属性の間に序列はなかった。水と風、天と地、どちらが尊いかという問いに答えられるものは誰もいないから。それぞれの神々は、それぞれに他の属性神に敬意を払い、互いに最上級の賛辞を捧げつつ、互いに特定固有の活動範囲を守り、他の神の領域を侵犯せず、またそれを許さなかった。神々が従うのは、自然界の秩序を維持するための天測、すなわち「リタ」と呼ばれる理法・真理であり、神々は天則に服従すると同時に、それを自らの掟として堅持した。
ただ、同じ属性神の間では持つ力の強弱、司り庇護する世界の大小により、より大きな力を持つもの、広範な世界を司る者がより多く尊ばれ敬われることもまた自然の道理であった。もっとも強大な力を誇る海神が、小さな河川一つを守る河神を侮ることは決してなかったが、小さな河川の神は、悠久と流れるとうとうたる大河の神を、そしてまた、その大河が注ぐ更に広大無辺な海の神に憧憬にも似た敬愛を自ずと払ってしまうのだった。
そして、地上の生きものたちを加護するために、長い時間軸での見守りを必要とする神々は、恐ろしく長寿ではあったが、不変でも不死でもなかった。その時々の力の強弱により神の地位が決まるという理由から、同じ属性の力を持つ、より強力な者が現れた時、神はその役割を次代の者に託し、自身は庇護する側から庇護される側にその立つ位置を変えることとなる、という原則が導き出された。
ゆえに、力を発現した者が何を司る神になるかは、その時に現存する神々の持つ力との比較により決定され、しかとした規則性はなかった。例えば風の眷属に新たに強大な力を持つ者が輩出した時、彼の者の力が既存の西風の神よりは強く、北風よりは弱ければ、彼は西風の神の位を受け継ぐ、といった具合だった。
つまり神々の多くは、幼い頃より大いなる力の片鱗を垣間見せるという点で、神になるよう運命付けられて生を受けた者であった。が、《神》はこの世に生を受けた瞬間から《○○神として》存在するわけではなく、長じて発現した力の強弱や多寡、その性質により、受け継ぐ神の名が決まることとなっていた。
また、五つの元素それぞれの力の性質の違いから、自ずと、神々の入れ替わりが多い世界と少ない世界とがあった。天地開闢の頃より連綿と、役目も義務も地位も変わらず自らの務めを果たす神もいる。この世界の成立がすなわち存在の始原となっている天の眷属と地の眷属は、数自体は多くない替わりにほとんど代替わりもなく、大層な長寿のものが多かった。一方、常に変化・流転を本来の志向としてもつ風、火、水の神々は、数そのものも多く、力の性質が常に流動する性のため、新たに神の地位を得るもの、一方で神としての義務から解放され単なる精に戻る者は常に途切れることなく変遷していた。
そして、今、火の眷属の中に、内包する力があまりに急激に短時間に成長したために、力の発現を自在に制御することに困難を感じている1人の少年がいた。
* * *
天は夜の女神《ラートリー》の暗紫色の衣で隈なく覆われていた。その衣の裳裾には煌めく星星が無数にちりばめられており、星星は冴え冴えとした輝きを放って《ラートリー》の美しさを彩る。
神酒の神および月神でもある《ソーマ》は、民から捧げられた神酒を受け取るための聖杯である月を、夜空の中天からそろそろと西の空に導きつつあった。民から捧げられた神酒で聖杯はそろそろ満杯のようで、月は、ほぼ真円の形をとっていた。
真夜中だった。火の眷属が住まうこの地も、他の眷属たちの住まう地と同様、等しく穏やかな闇に包まれている。
陽光の加護を受けるものは全てが深い眠りに落ちている時刻だ。この時刻に活発に動くのは、本来、夜の女神ラートリーの加護を受けている闇の眷族のみである。が、彼らは一様に暗い衣をまとい、暗色の髪を持ち、自ら闇に溶け込み同化するゆえ、ようとは姿を現さない。
そんな全てが静かに沈み込むような暗闇の中、足早に歩を進める一人の少年がいた。年の頃は、13、4才といったところか。燃え上がる炎をそのままに写し取ったような色合いの髪をいただいている。この年頃にしては鋭い光を放つ切れ長の瞳は青白く燃える焔の色をしており、この少年が内包する熱情を自ずとうかがわせた。火の眷属が理想とする髪と瞳を持つこの少年は、同時に、細身でしなやかに引き締まった肢体をあわせもっていた。急激に成長したのであろう長い手足を些か持て余し気味のようで、足運びが時折ぎこちない。が、それは同時に少年がまだまだ成長の途上であることも示していた。少年のもつ個性の全てが自ら燃え立ち熱と光を放っているかのようで、この静かな暗色の世界にあって少年は酷く異質で酷く目立つ存在だった。
しかし、何もかもが深く静かに眠り込んでいるこの時刻、歩む少年の姿に目を留めるものはいない。
少年は、自らの行く手を阻むようなぬばたまの闇に怯むことも怖気ることもなく、歩を進めていた。ひたむきともいえる熱心さで、彼の膝程度に生えそろう下草をかきわけ、闇尚暗い森の奥へとわき目もふらず分け入っていく。
豊かに生い茂る木々の梢が重なり合い緑の天蓋となって連なる森の中には、月の光も届きにくい。
なのに、彼の迷いのない足取りは、彼がこの道も行く手も熟知していることをうかがわせる。
実際、彼にとってこの真夜中の散策は、ここ数日、毎夜のように繰り返されている行いだった。
最近、彼は、自分の内部から唐突に猛烈な勢いでこみ上げては、狂おしく体中を駆け巡るような熱い力の奔流に悩まされていた。暴れ馬のような力の奔流を宥めるため、彼は誰もいない処で、一人静かに心を落ち着かせる時間と空間を必要としており、ここ数日、深夜の散策が日課ならぬ夜課としていた。
彼の内に生じる力はまさに燃え盛る炎のように熱く、とらえどころがなかった。何かの拍子に不意に湧き上がっては、それこそ燎原の火のように瞬く間に全身に広がり、己が身を内から焼き尽くそうとするかのように彼には感じられた。彼は自分の内側から噴き出る炎のような力の奔流を感じては、その勢いの激しさに戸惑い、これをどう処すべきかと困惑していた。
自分は火の眷属として生まれたから、身中に些かなりとも火の力を持つのは道理だということも、身体の成長に合わせて持てる力が増大していくのは、むしろありふれたことであることも、彼は重々承知していた。というのも、彼をはじめとして、彼と同じ年頃で火の力が顕著に出始めた少年たちは、火の神殿の許の学び舎に集められ、共に己の内に芽生えた力の多寡を測り、その強さに応じて力を操る術を学んでいたからだ。つまり、彼は、今、自分はそういう時期なのだと知っている。
しかし、それにしても、自分の体中を走りぬけ出口を求めて逆巻くような火の力の奔流の強さ激しさは、少しばかり常軌を逸しているように彼には思えた。彼は、しばしば、身中に唐突に膨れ上がっては、身体を内側から爆発させてしまいそうに感じる火の力の発現に手を焼いた。その度に、彼はその力を無理にでも抑えようと努めていたが、その苦労を表に出すことも、力の激しさへの困惑を周囲に漏らすことも決してしなかった。
力が著しく成長するのは俺くらいの年頃の火の眷属にはよくあること、急激な力の成長の制御に苦労しているのは俺1人ではないはずだ。なのに、俺だけが、力の制御が難しい、膨れ上がるような火の力の勢いに、その強さに戸惑っているなんて口が裂けても言えるものか。そんなことを口にしたら、自分一人が特別に強大な力を持っているとうぬぼれている勘違い野朗か、火の眷属なら誰もができる力の制御にすら弱音を吐く弱虫、そして無能という烙印を押されるだけだ。だが、俺は弱虫ではない、かといって、自分の能力を実際以上に過大評価して、自分1人を大物だと思い込む道化にもなりたくない。
彼は、自身の火の力の内圧が他とは比較できないくらい急激に高まっていることに気づかず、それを少年らしい潔癖さと生真面目さで、懸命にコントロールし、抑制しようと努力していた。皆、こんなものだろうと思っていたから、自分だけが大袈裟に騒ぐと思われるのも癪だった。
そう考えた彼は、だから、自分の抱える困惑を誰にも打ち明けなかった。
まだ自我の確立があやふやなこの年頃の少年にとって仲間からの評価は、自分の立ち位置を決する最も重要な指標であったし、一度張られたレッテルを覆すのも中々に難しかったので、彼の意地にもそれなりの道理はあった。
だが、それは噴出しようとするマグマに無理に蓋をするようなものだった。抑えこもうとすれば、どうしても反動が出る、身体に無理がかかる。
そのうち体中が唐突に我慢できないほど、かーっと熱くなることがしばしば起きるようになった。手指の先から火花が飛び散りそうな気がした。そんな時は、実際に自分の身体が熱をもっているのだと知らされた出来事があった。何かの拍子に軽く手が触れそうになった友人が「あつっ…」と腕を引っ込め、不思議そうに自分の方を見たことがあったのだ。その友人は自分が何を熱く感じたのか、わからなかったようだったが、少年にはわかった。自分の体が異様に熱くなって友人をやけどさせそうになったのだと。火の眷属は熱耐性が他の眷属に比べ酷く高いにも関わらずだ。試しに彼がその辺りに生えていた雑草の葉に何気ない振りをして触れたら、草の葉はみるみるうちに縮れて萎れてしまった。
自身の体がかっかと火照ると、無意識に、その熱を周囲に放射してしまうことがあるのだと、それで彼は否応なく悟った。
『俺の火の力は並外れて強くなってきているのか…?』
もし、この力が本物なら、彼はいつか火を司る神の一員に迎え入れてもらえるかもしれない。火の力を司る神の中でも最高神の一人《火神アグニ》の名を継承できると思うほど自惚れてはいなかったが、人間の炉辺の火をまもる火神群の一人くらいには名を連ねられるかもしれない、火の力が強く具現した火精でも、その多くは火の神殿に仕える火仙となる中でだ。
彼は、瞬間、自分の前に洋々と開けた未来と、受けるべき栄光と名誉、それに伴う担うべき責任に思いを馳せ、心を熱く震わせた。
だが、同時に彼は『単に俺は力の制御が他より未熟だというだけかもしれない』と自分に言い聞かせることも忘れなかった。自分を客観的に見る視点を失うまいとも努め、自分の思いあがりを縛めようとした。
さもなくば…制御が未熟なのではなく、自分の力の器自体が、他の仲間より狭小という可能性だって否定できない…誰もが迎える成長期の力を上手くてなづけ、溜めおくことができないのなら、それは、むしろ、他の火の眷属よりも、俺は、自分の力を溜める器が小さく劣っていることになる。俺が感じるこの力が客観的に見ても大きいのか、それとも力に対して俺の能力が小さいから、自分には、この力が過大なものに思えるのかは、俺には、まだ…はっきりとわからない…。
少年は、それこそ少年らしい自負心ゆえに自分の能力が小さいとは、できることなら思いたくなかったが、その恐れも否定できないことも冷静に認識していた。彼の心は期待と不安の両極に振り子のように揺れ動いた。
尚更彼はムキになったように、自分の体の下で蠢き、噴出する機会をうかがっている燃え盛る力を力づくで抑えこもうとした。抑え込んでいれば、いつかは、この暴れ馬もおとなしくなる、苦もなく制御できるようになるはずだと自分に言い聞かせながら。が、力を抑えようとするばするほど、彼の身体は、出口のなくなった火の力のせいで、内側から熱を持った。身体に熱がこもったままに、気をぬいたり下手に緊張を解くと、その熱を知らず知らずのうちに放出してしまって周囲の生き物を傷つけるかもしれない、彼はそれを恐れた。彼は自分の内部に湧き上がる火の力を感じれば感じるほど、その力を懸命に抑えようとした。
そんな日は夜になっても体の中に溜まった熱が中々引かず、彼を休ませてくれなかった。寝床に入っても寝苦しく目が冴えるばかりだったある夜、彼は、冴え冴えとした月の光が幾許かなりと身中の熱を冷ましてくれそうな気がして、ふい…と気まぐれに外に出てみた。そして、どこに向かうともなく、歩き出した。
誰もいない深夜、夜風に吹かれてあてどなく散策するうちに熱く滾るような血が冷めていくような気がして、体が少し楽になった。
空から振る銀線のような月の光に誘われるまま、ひたすらに歩く。闇深い森に分け入ることも恐ろしくはなかった。森に入ろうと、どのわき道に入ろうと、彼は火の力の加護を感じることができた。その力を強く感じる方角が火の神殿のある場所だ…それを意識していれば自分のおおよその位置を把握できたからだ。
そんな夜を過ごすうちに、彼が歩む距離と訪れる範囲は少しづつ広がっていき…
そして、ある夜、彼は歩き続けた末に、不意に木々の連なりが途切れ、ぱぁっと視界が開けた場所にでた。
目の前の足元に銀杯があった…水面に映った月影だと、すぐに察した。彼は小さな泉のほとりに出ていた。
彼は知らなかったが、その泉は火の眷属が住まう領地の境目にあった。歩く範囲を広げるうち、彼はいつの間にか火の力充つる地の端まで来ていたのだった。神々住まう世界に厳密な意味での国境はないが、それぞれの属性神が管理すると同時に、生き物たちに加護を授ける領地の境界線はあった。泉は丁度、火の眷属と天の眷属が住まう地との境目にあった。
その泉のほとりに佇み、静かに凪いだ湖面をみつめていると、何故か、彼の心は今までになく安らいだ。身中にこもった熱が急速に冷めていくような気がした。彼はこの泉に何か神聖なものを感じとった。
『もしかしたら、ここは…』
彼は思い出していた。炎の地の果てには、何かの禊に使われる泉があると聞いたことがなかったか。
この、人里はなれた泉、何一つ動くものなく静まり返っている泉、そして何か神聖な侵し難い厳かさを湛える泉は、そんな神聖な行いに使われるに相応しい清浄さを感じさせた。
まだオトナとは言えない自分が…まだ、何の役目も任じられず、それどころか神の一員と認められる程の力があるかどうかもわからない自分が入り込んでいい場所ではないのかもしれない、ここは高位の神々だけに許された聖域とか禁域なのかもしれない…ちらりとそんな考えが頭を掠めたが、その考えは彼を怯ませはしなかった。むしろ、自分は誰も知らない秘密の場所を探し当てたのではないかという思いが彼をわくわくさせた。少年らしい好奇心と自負心がいたく満足させられた。
それ以上に、彼はここは自分に必要な場所ではないかと直感的に感じた。ここにいるととても心が安らいだ。血管の中で暴れ、内から自分を息苦しくさせる力の衝動が、押さえ込もうとしなくても、自然と鎮まっていくようだった。まるで、悍馬が優しい慰撫の手に手なづけられるように。彼は深く息をついた。なんとなく、これで今夜はよく眠れる、そんな気がした。
体が熱くて眠れない夜はここに来る、そう彼はきめた。
この泉を汚したり、騒いだりは決してしない。ここに泉があることも誰にも教えない。この泉の周りでは木の枝一本折るものか。ただ、暫くここにいると、心が静かに澄んでいくから…それくらいなら許してもらってもいいいだろう。何か悪いことをするわけではないのだし…彼はそんなことを思った。
その夜から、彼は、身中に火の力が滾って持て余し気味になると、この泉に散策にくるようになった。
その水面を見ているだけで、水面そのままに心が澄んでいくようだった。静かに、鏡面のように凪いだ湖面をそのままにしておきたくて、彼は泉に手も触れず、足先すら浸そうとはしなかった。もし、彼がその泉に手を浸せば、その水は火の加護のおかげか、ほんのりと暖かいことを知っただろうが、彼はこの泉の水が、身を切るように冷たいのか、ほんのりと暖かいのかも知らなかった。
そして、今夜も彼は、その泉を目指して、歩を進めていた。森の女神アラニアニーの加護をうけ豊穣であるからこそ深く生い茂った暗い森の中を迷わず進んでいく。
それにしても今夜の森は殊更に闇が濃い、先ほどまでは木々の梢の合間から銀箭のような月光がたまさか差し込むこともあったのに…今は、その光もほとんど感じられない。
そう思いながら空を見やれば、いつの間にか夜の空の大半が雲に覆われていた。雲は風に乗って全天に広がろうとしており、時折月を完全に隠してしまっていた。空を覆うのは軽やかな綿雲ではなく、たっぷりと雨滴を含んだ分厚い雨雲のようだった。どうやら明日は《雨神パルジャニヤ》…もしくは《暴風雨神ルドラ》が朝からその威光を遺憾なく発揮するつもりなのかもしれない、と彼は考えた。そういえば雨が降るのは久方ぶりな気がする。火の眷属の中の最高神の一人である《太陽神スーリヤ》は、ここ一ヶ月、惜しみなく大地に陽光を降り注いでいた。となれば、そろそろ雨の神が自分の威光を知らしめたいと思う頃合なのだろう。
『となると、明日は散策は難しかったかもしれない』
そう考えると、今夜のうちにここまで来ておいてよかったと少年は思った。雨の中の散策は体の熱を冷ますには、より効果的かもしれないが、それは、己が力の源泉を消し去る危険をも孕む。水の性と火の性は互いに相容れない性質を持っているので、相性がよくない。火は水に出会うとその力を弱められてしまうし、水の方も、また、火の力により地上に留まれない形に変質させられる。ただ、その火の性質を利用して水の眷属は天界に昇ることもあるから、水の者にとっては、火との接触は有効な面もある。が、火の本性にとって、水との接触は労多くして実りはあまりない。しかも、彼は自己破壊や自己消滅という負の衝動に駆られている訳ではないので、闇雲に己を傷つける気はなかった。彼は、自身の力を自在にコントロールしたいだけだった。
そう思って、深く息をつきながら湖面を眺めていた時だった。
不意に…本当に不意に、湖面の少し上の中空に、ふんわりとした輪郭を持つ白金色に輝く何かが現れた。それは舞う羽毛のようにゆっくりと水面に少しづつ近づき降りていくようだった。
少年は暫しあっけに取られ、魅入られたように突如中空に現れた…そうとしか見えなかった存在を改めて見つめ直した。この暗い夜にあって、その、ふんわりと朧な輪郭が見て取れるのは、それが自らぼんやりとした光を放っているからのようだった。最初は鳥かと思ったが、すぐにあれが鳥のはずがないことに気づいた。鳥は夜目が効かないのだ、夜に…月の光もほとんど射さない夜に飛ぶはずがない。ましてや、自らほのかに光を放つ鳥など聞いたこともない…なら、あれは…よりによって、この静かな泉にいきなり現れ、湖面を乱そうとしているあれは何だ?
相変わらず、それは、ふわふわとした霞のようではっきりとした輪郭を持たないように思えた、だからこそ、彼は、最初それを鳥の翼から舞う羽毛かと思ったのだが、よく見ると霞は無数の光の粒子が寄り集まってできているようにも思えてきた。が、更によく目を凝らしてみるうちに、その光の霞のようなものの輪郭が徐々に収斂しはっきりしていくような気がする。二本のしなやかな腕と二本のすんなりとした脚のようなものが生じたようにみえた。全体にほっそりとしたまろやかな曲線をもつ優美な存在…若い女性?いや、少女?のようなシルエットが見えてきた。
『なんなんだ、一体…』
その時、ぱしゃんという水音が響いて彼は我に返り、同時に、己が目を疑った。いまや見間違いようがなく1人のうら若い女性がはっきりと泉に脚を浸し、幾重にも広がり重なる波紋を湖面に生じさせていた。その女性は、暫くの間、泉に脚を浸したまま、自分の周囲の水面をゆっくりと見回していた。少年には、その女性が『ここはどこか』と確かめようとしているか、もしくは『何故自分はここに居るのか』という答を探しているかのように見えた。自分から泉に入ったのに、何故、その女性は、今更、不思議そうにあたりを見回しているのだろう…と少年も不思議に思っていると、やにわに彼女は細い腕を泉に浸し、水を掬い上げて中空に振りまくように水滴を己が腕から滴らせた。飛び散った水滴は、更に幾重にも重なって湖面に波紋を作っていく。その、ばしゃばしゃと水のはねる音が、少年には耳障りなほど大きく響いて聞こえた。
『!!!…こんな…誰かに見つかったら…この水音を聞きとがめられたら!』
この泉は、きっと火の眷属にとって神聖な場所だという想いが彼の心にはいつもあった。だから、彼はこの泉には決して入ろうとしなかった。なのに、こんなにおおっぴらに沐浴のようなことをしては…誰かに見つかったら、この女性は火の神々に咎められ、叱責されるかもしれない。もしかしたら酷い罰を受けるかもしれない。
彼の心の中に神聖な場所を汚されたというような憤りは欠片も生じていなかった。ただ、この女性が見咎められ、罰せられたらと思うと気が気でなかった。
少年は思わずその女性に声をかけ、同時に、己に課していた禁忌もいつのまにか破って、自分もざぶざぶと泉の中に入っていた。
「誰かにみつかったらどうするんだ!早くこっちへ!」
気がつくと彼は、その女性のほっそりとした腕を掴んで引っ張り、半ば強引に岸に引き上げていた。
少年は一度も後ろを見ないままに泉のほとりに女性を引っ張り上げ、岸辺からほんの少しだけ奥に入った木々と木々の間の目立たない場所まで来て歩みを止めた。足元に柔らかな下草の生えているそこで、少年はその女性の方に初めて向き直りざま、女性の軽挙をたしなめようとした。
「あんなに派手な水音を立ててはだめだ。ここは、火の眷属の聖なる泉だから…多分…勝手に入ったりして、それを見咎められたら、どんなを罰を受けるかわからな…」
と、ここまで諭したところで彼は言葉を失った。少年は改めて、その女性の姿を見つめ、思わず息を飲んでいた。
少年は、こんな容姿を持つ女性を見たのは初めてだった。
向き合ってみると、背は、自分より頭一つ低いくらいだったが、その女性の顔立ちは、自分と同年代の女の子のそれより、少し大人びてみえた。かといって、ほっそりした外見とまろやかな輪郭にこじんまりとした顔の作りは成熟した女性の顔立ちではなく、少女のそれだった。しかし、少女といいきるには、物腰にしっとりと落ち着いたものも感じさせる。多分、年は自分より、3、4歳上なのだろう。乙女と呼ぶのが1番しっくりくるような、うら若き女性だった。
分けても、彼の目は、月の光すら乏しい闇の中でも自ら光を放つように輝いている金の巻き毛と、透き通るように白い肌に釘付けとなった。火の眷属の女性で、金の髪や白い肌をしている者など彼は絶えて見たことがなかった。火の眷属は、色の濃淡に違いはあれど皆燃え立つ炎を思わせる髪と、それこそ火に炙られたような浅褐色の肌をもっているのが普通だったから。
乙女はその白い素肌になよやかな薄物を纏っていることにも、少年はこの時初めて気づいた。暗いので色ははっきりとはわからないが、布は半ば透けるような淡い色合いで、体の線を申し訳程度に隠しているとしか思えない、頼りない風合いのものに思えた。
あまりマジマジと見つめるのは失礼だ、さりげなく目を反らせという声が頭の中に響くのに、少年は魅入られたようにその乙女から目が離せなくなってしまっていた。
「あなたは?」
すると、乙女が静かに少年に問いかけた。
少年は、乙女が何を自分に問うているのか、わからなかった。
「俺が何だって言うんだ?」
「あなたは、ここで何をしていたの?あなたはここに入っても大丈夫なの?」
少年は虚をつかれた。
「な…俺のことは関係ない。第一、俺はただ、泉を見ていただけだ。誰にも見つからないよう、静かに…一人で…だから、いいんだ…」
自分でも説得力がないと少年は思いながら、言葉を続ける。
「だけど、あなたみたいに、派手に水音を立てたら誰にみつかるか…」
「あなたはこの泉を見ていたの?一人で?どうして?」
「なんでって…この泉に来ると落ち着くんだ。ただ、見てるだけだけど、気持が落ち着いて…だから…」
少年は、何故、自分ばかりが乙女に問い詰められるのか、自分だって、色々と尋ねたいのに…と釈然としないものを感じながらも、乙女の真っ直ぐな問いかけに、つい、自分も素直に応じてしまう。
「そうなの…」
すると、何故だか、その乙女は不思議そうな、労わるような瞳で少年をじっとみつめてきた。少年はどきまぎした。女の子に見つめられるのなんて慣れてる…少年は同じ年頃の女の子にとても人気があった…火の神殿の学び舎に集められた少年達は、皆、その火の力の強さを見込まれて教育と訓練を受けている、いわば選抜集団だから、それだけ、火の眷属の女子の見る目が違う、分けても、彼は、その燃え立つような髪と、高温の焔を思わせる瞳の色で女の子たちに人気があった…少女たちは我先に俺に話かけ、俺の気を惹こうと思わせぶりに見つめたりする…見つめられるのなんて別に珍しいことじゃない。なのに、なんで、この人に見つめられると、こんなに落ち着かない気持になるのだろう…
少年は、乙女の瞳のせいだと思った。
零れ落ちそうに大きな翠緑の色をした瞳だった。金のまつげに彩られた澄んだ明るい翠の瞳は、夜から明け染めたばかりにの空の色を思わせた。少年は、こんなに美しく澄んだ翠の瞳を見るのも初めてだった。見つめていると吸い込まれそうな気がした。
その時、少年は、自分が乙女の腕をずっと掴んだままだったことに漸く気づいた。慌てて手を離す。
「すまない、熱くなかったか?」
「熱い?いいえ…」
乙女は、不思議そうな顔をするだけで、少年の今までの無作法を咎めなかった。ずっと腕を掴まれたままだったというのに、怖がる風でも、特別気を悪くしてる様子もなかった。何より、彼女が苦痛や不快感を感じている様子を見せていないことが、あらゆる意味で少年を安堵させた。彼は心からの安堵の吐息をついた。
「そうか、よかった…」
「どうして?」
少年は長く繊細な指を供えた自分の掌をじっとみつめた。何故、今までこの女性の腕を掴んでいることを忘れていたんだろう…見れば、あんなに華奢でしなやかな腕(かいな)なのに、何故だか、自分の体と一続きになっているような不可思議な一体感があって、掴んでいることも忘れていた。いや、俺の掌は、まるで、この人の腕を離しがたく感じているみたいだった。そんなわけにはいかないのに…俺は、不用意に人に触れてはいけない…危険なのに…
「俺の体…火の力が高まると、熱が溜って、自分でも気付かない内に、勝手にその熱を放散してることがあるようなんだ。同じ火の眷属にも熱傷を負わせかねない程の熱を。時々、自分でもどうしようもない程、体が熱くなることがあって、そういう時は、火の力を上手く制御できないこともあるから…俺が他人に不用意に触れるのは危険なんだ…気をつけてはいるんだが、今は、うっかりしていたから…でも、なんともないなら、よかった…」
「あなた、優しいのね…周囲を傷つけまいと…もしかして、いつも気を張っているの?」
「それは当然のことだろう?…ただ…抑えようとはしてるんだが…無理に抑えようとする程に、何か無性にいたたまれない気持が募って、そんな日は、夜になっても眠れなくて…」
「…それで、この泉に来ていたの?」
「あ、ああ、そうだ。この泉のほとりに佇んでいると、何故だか、どうしようもない体の熱さが自然と鎮まるようで…少し体が楽になって…それで、よくここに来るように…」
少年は、自分でも驚くほど率直に自分が直面している困惑を初対面の乙女に打ち明けていた。彼女の外見から、彼女が自分と同じ火の眷属ではないと思えたからか、彼女が自分より少し年上に見えたからか、恐らくその両方の理由で構える必要を感じずにすんだのかもしれない。そして、初めて、自分の困難を口にしてみたら、彼は、すごく心が軽くなったように思えた。
「そう…体の熱が…」
「だから、すまない。今はたまたま大丈夫だったみたいだが、下手をしたら俺はあなたに火傷をさせてたかもしれない。無作法に腕を掴んだりしたことを詫びる。申し訳ないことをした」
「私は…大丈夫。心配しないで」
少年は、つい饒舌になってしまったことが照れくさく、その照れ隠しのように今度は自分が乙女に問うた。
「だが、あなたは一体、ここで何をしていたんだ?あなたは…その肌と髪の色は…俺と同じ火の眷属ではないだろう?あなたみたいな火の眷属を俺はみたことがない…」
少年に対し、乙女は静かに微笑を返した。彼の問いを否定も肯定もしない。少年は、この乙女が自分のしていたことの危険さにやはり気づいていないのだと危ぶんだ。
「ここは火の眷属の泉…だと思う。あなたは火の眷属ではないのだろう?なのに、あんなに派手に水音を立てて、この泉に入っているところを火の神の誰かにでも見つかったら、あなたはどんな咎めを受けるか…」
実際に罰せされるのかどうかはわからなかった。ここは入っていけない泉かどうかもわからないので、少年は己の懸念を断定しては言わなかった。だが、その気持を乙女は察してくれたようでにっこりと笑んだ。
「私が…見つかったら罰せられるかもって心配してくれたのね?私は、大丈夫、でも、ありがとう…あなた、本当に優しい子ね…」
「『子』じゃない、もう俺は13になる…」
少年は憮然と抗議する。子ども扱いされたくないことこそが、子供の証であるとも気づかずに。乙女は特に気を悪くした様子もなく、静かに問うた。
「じゃ、あなたのこと、なんて呼べばいいのかしら」
「俺の名はオスカー、オスカーと呼ばれている…」
オスカーと名乗った少年は、自分がまだ固有の名前しか名乗れない存在、つまり、まだ何の役職も任じられていないことを恥ずかしく思い、語尾が僅かに小さくなった。この乙女に、いまだ自分は何かを司る神であると…小さな権限の神でも、多数いる神群の一人だとも言えないことが情けなく感じられた。
「オスカー…雄雄しくて…英雄的な、とても、いい名前ね」
なのに、この乙女にこういわれた途端、オスカーは自分の名がとても素晴らしいものに感じられた。同時に自分の頬が僅かに熱いことを自覚する。それは、自分を悩ませる火の力の発露とは違う種類の熱さに思えた。その熱さから気をそらすようにオスカーは乙女に尋ねた。
「そういえば、あなたは…」
「私?」
「あなたの名は何というのか…あなたの名前を教えてはもらえないか?」
「私?私はウ…いえ…」
乙女は、一瞬唇を開きかけた後、何故か深く考え込む表情となった。自分の名前なのに、必死に考えないと思い出せないとでもいうような、そんな難しい顔をして考え込んでいた。
暫くして、突然、乙女の顔がぱぁっと明るくなった。
「アンジェリーク、そうよ、私の名前はアンジェリーク、アンジェリークだったわ!」
少年は一瞬あっけにとられ、ついでぷっと吹き出した。
「あなたは自分の名前を思い出せなかったのか?でも、不思議な…耳に心地よい響きだ…アンジェリーク…」
オスカーは舌先で転がし味わうように『アンジェリーク』という言葉を発した。異国風でもあり、どこか古風にも聞こえる名だと思った。
でも、オスカーには、結局アンジェリークが何者なのかはわからない。
「アンジェリーク、あなたは、何…誰なんだ?」
オスカーは、我ながら拙い尋ね方だと思った。オスカー自身はアンジェリークが自分とは異なる眷属で、すでに何らかの役目をになう神族の一員なのか、それとも何らかの神族に仕える仙女か精女の一人なのか、と聞きたかったのだが。
「私?私はアンジェリークよ」
すると、アンジェリークは何故かとても嬉しそうに、自分の名前を答えとした。
「そうじゃなくて…」
オスカーは、もどかしげに頭を振る。自分の質問の仕方が悪かったことはわかっているので、聞き方を変えてみる。
「…あなたは、ここで何をしていたんだ?」
「明日は、私、お勤めがないの…だから、今夜は姉さまのお迎えもないから、ここに現れるはずではなかったのだけど……気がついたらここに来ていて…そうしたら、あなたに会った…」
彼女の言葉の意味はよくわからなかったが、確かに『勤め』と言う言葉を彼女は発した。やはり…俺より年上の彼女は、もう、己が力に応じた何らかの役目を担っている身なのか…
しかし、彼女の応えは相変わらず要領を得ない。故意に答えをはぐらかしているのか、他意なく、字義通りの答えを単純に返しているだけなのか、オスカーには判じられなかった。
それよりも、オスカーには気になることがあったのだ。まただ…オスカーは不思議な感慨に捉われていた…アンジェリークがまたも自分のことを、いたわるような、慰めるような優しい瞳で見つめていて、その理由がわからなかった。
「あなたは…火の眷属ではないのだろう?」
またも不可思議な笑みだけが返される。応えられないのか、応えたくないのか…。
「なのに、どうして火の加護の元にある泉に来たんだ?」
「この泉は、私の勤めに必要な場所…だから…」
オスカーにはアンジェリークの言葉が全然理解できなかった。アンジェリークが火の眷属ではないのなら、ここも火の眷属の泉ではなかったのか?いや、そんな筈はない、自分の内部にある火の力が、この泉も自分と同じ火の加護の元にあると確かに告げている。でも、火の眷属でないものが、火の泉を必要とするなんてことがあるのだろうか?
オスカーは混乱しそうになった。
でも、自分はこの乙女に何を聞きたいのか、オスカーは改めて考えてみる。自分は、彼女が自分と同じ火の眷属なのかそうでないのか、火の泉に彼女は何の用があったのか、そんなことを特に知りたいわけではないことに気づく。
「なら…あなたはまたここに来る?」
アンジェリークは静かに微笑んだ。
「ええ…きっと」
「俺も…また、ここに来てもいいだろうか…」
「オスカー、あなたは自分に必要だから、この泉に来たの…多分…」
「また、あなたに、会えるだろうか?」
そうだ、俺は…これを尋ねたかったんだ…何よりこれを知りたかったんだ…
オスカーは、自分が、知りたいのは突き詰めればこれだということを、口に出してみてはっきり感じた。
「その…あなたと…アンジェリークとこうして話していると…なんだか、不思議に気持がすっきりするんだ…身体にこもっていた熱が綺麗に拭い去られるようで…だから…できれば、また…」
何を俺は言い訳しているんだ。こんな言い方、むしろ失礼じゃないのか…これじゃ、俺は、自分が楽になるから、あなたに会いたいと言ってるみたいじゃないか…あなた自身に会いたいんじゃなくて…。でも、あなたのことが何か気になって、また会いたいと思う…なんて、こんな気持を少し年上の女性になんと伝えたらいいものかどうかわからず、思ったままの言葉をオスカーは口にしてしまっていた。
「毎日ではないけれど、あなたが望むのなら…きっと…いつか…会えると思うわ」
アンジェリークは、静かに、はっきりとではないが肯定よりの返事を返してくれた。が、そのせいで、むしろ、オスカーはもっとはっきりした答えが無性に欲しくなってしまい、重ねて問うた。
「いつ来ればあなたに会える?」
「それは…私にもわからない。でも、お勤めがお休みの時は…その前の晩にはきっと、私はこの泉にいると思う…」
「それは何時なんだ…」
「お休みが何時になるか…私にはわからないし、きめられないの、ごめんなさい…」
「それなら、俺は毎晩来る、明日も…明後日も…」
「それはだめ、明日は雨だから…」
「え?ああ…今夜は月に雲が掛かっているから…明日は雨か…あなたも雨の日はこない、当たり前だな…」
俺は一体どうしてしまったんだろう、こんなに、しつこく食い下がって…当たり前のことにも気づかないほど…雨の夜に、こんな人里はなれた泉に来る者なんていやしないに決まってる…
そこまで考えて、オスカーは漸く思い出した。
彼女は、どうやってここに現れた?あの光の粒子が寄り集まったような霞のようなものは…あれはやはり彼女だったのか?そう疑問に思った時、アンジェリークの言葉がオスカーの思考を遮った。
「もう行った方がいいわ、オスカー。朝が来る前に少しは休まないと…それに、きっともうすぐ雨が降りだすから…その前にお家に着けるよう、もう帰ったほうがいいわ。雨に濡れるのは、あなたの身体に毒…」
「それなら、あなたは…あなたはどうなんだ…」
アンジェリークは私は大丈夫とでもいうように静かに微笑んだ。
「あなたは…天界の住人…光の眷属なのか?アンジェリーク、それとも風の眷属なのか?…」
火の眷属に空を飛ぶ力はない、だが、天界に属する光の眷属か風の眷属なら…空を飛べるものもいたはずだ。オスカーはそれを知りたかった。
「それはあなたにとって重要なこと?オスカー」
「…ああ、重要なことだ…」
一息ついてから、オスカーは答えた。
「あなたは、俺にもう帰れというが…でも…あなたを…女性を真夜中に一人、こんな人気のない泉に残していっても大丈夫とは、俺には思えない……だから、あなたが空を飛べる者なら少しは安心だと思って…空を飛べるなら、ここからどこに帰るのも容易いだろうし、そう危険もないだろう…それを確かめたかったんだ…あなたに危険はないとわかるまで、俺も帰らない…帰れない…だから…」
アンジェリークは一瞬、大きく瞳を見開き、とても優しくオスカーに微笑みかけた。
「ありがとう…あなた、本当に優しい…曇りなき誠実な人ね、オスカー…本当に……生まれながら……に相応しい…」
「何だって?」
アンジェリークは、また、不思議な笑みを浮かべた。
「ありがとう、オスカー、私の事は本当に心配いらないから…もう行って」
オスカーは直感的に感じた。多分、俺がこの場を去らねば、彼女もここを立ち去る気はないのだと。そして、今、風はいつのまにか、じっとりと湿り気を帯びた重苦しいものになっていた。分厚い雲は全天を覆い、空にはもう月も星も全く見えなかった。確かに今にも雨が振りだしそうだった。
「アンジェリーク、きっとまた…会いにくる」
「ええ、きっと…会えるわ…オスカー」
その笑顔に押されるように、オスカーは、泉を後にした。
この茂みに入れば、もう泉が見えなくなる、そこでオスカーはさりげなく振り返ろうとした拍子に、茂みの葉に手が触れた。ちりっと乾いた音がたったと同時に、オスカーの指先が触れた木の葉はくしゅくしゅと縮れたように丸まって干からびてしまった
「!」
体から熱が放散してしまっている。彼女の存在に気を取られすぎで、力の制御が疎かになっていた?
オスカーは慌てて振り向いた。アンジェリークに熱傷を負わせてはいないか、すくなくとも、彼女は俺の発する熱で不快な思いを感じていたのではないか、急に心配でたまらなくなった。
泉の方向に懸命に目を凝らしてみたが、そこにはもう誰も居なかった。辺りを見回しても同様だった。明るい髪をした乙女はそれこそ空中に霧散したように消えてしまっていた。
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