百神の王 2

オスカーが少年達の学び舎の宿舎に帰りつく直前に、案の定、雨が降り出した。

翌日は、朝から1日中酷い嵐となった。

モンスーンを本性とする暴風雨神ルドラとその子であり配下でもあるマルト神群は、その日一日バケツをひっくり返したような雨を大地に降らせ、嬉々として気まぐれな突風を次々と吹かせ続けた。彼らは彼らなりのやり方でこの地を徹底的に浄化せんと目論んでいるようだった。

オスカーのような火の眷属は、こんな日は眠ったようにおとなしくしているしかない。

いや、火の眷属に限らず、この嵐では、今日はありとあらゆる生き物たちも自分の巣穴から出てこず、眠っているしかないだろう。動物は餌を取れないとわかっている悪天候の日は、ひたすら巣穴で眠るものがほとんどだから。無駄に体力を消耗すまいと体が自然と眠気を催すようになっているらしい。この嵐が止んで天候が回復するまで、獣たちにも目覚めは訪れないだろう。

だから、オスカーも、ぼんやりとアンジェリークと名乗った乙女のことを考えていた。

彼女は、あの僅かな時間に宙に消えてしまうかのように姿を消していた。

彼女は一体、何者なんだろう…いや、そんなことより彼女も雨に降られず家に帰り着けたのならいいが…家がどこかはわからないが…

とりとめない思いを彼女に寄せながらも、それ以上にオスカーは自分が無意識に放散していたらしい熱が彼女を僅かでも傷つけたり不快な思いをさたりはしなかったかが気になっていた。記憶を辿る限りでは、自分が無作法に彼女の腕を掴み、慌てて離した後も、彼女の白い腕には、何の痕も残っていなかった…俺が火傷を負わせたような痕はなかったし、彼女は何ら苦痛や不愉快な様子を見せてはいなかったが…オスカーはその記憶が自分に都合のいい思い違いでないようにと切実に祈っていた。

俺が油断して熱の制御を緩めてしまったのは、きっと彼女を別れた後、彼女のことが気がかりで、意識がそっちに行ってしまった後からだったのだろうと、オスカーは思おうとし、それを自分の心の慰めにしようとした。 

それにしても彼女は一体何の眷属だろう。光の精女の一人か風の仙女か…俺の火の属性にどことなく近しいものを感じたから、風というよりは、光の性が強く思えたんだが…だが、それなら何故、彼女は、火の泉に来ていたのか、そして火の泉に、一体、どんな用事があったというのか…

彼女は何故、あの泉に来た?また、泉を訪れるだろうというその理由もわからない。『勤めに必要だから』と彼女が言っていた記憶があるが、他の眷属が、火の泉を必要とすることなどあるのだろうか?彼女の仕事の内容もわからないし、何より彼女自身の素性も結局わかっていない。

いや、それで言ったら、あの泉が火の眷属にとって神聖なものかどうかもわからない…なんとなく、そうではないかと自分で思っていただけで、きちんと調べたり確かめてはいなかったことをオスカーは思い出した。

今日は嵐のため、火の力をコントロールするための修練や日課も休みとなったので、オスカーは、普段めったにいかない資料室にこもり、あの泉のことが書かれている文献はないか、地勢図のような物はないかを調べてみた。

だが、文献を効率よく探す術に慣れていないせいか、ここが青少年向けの施設だからかもしれないが、結局、オスカーはあの泉に言及した資料をほとんど探しだせなかった。

唯一わかったことは、火の地のどこかに何かの禊に使われる泉が、やはり、あるらしいということだけだった。

が、その場所は明確にはわからなかったし、禊に使われる泉が幾つもあるのか、ただ一つなのかもよくわからなかった。ということは…あの泉は言及する必要もない平凡でありきたりな湧き水である可能性もあるが、神聖な泉の1つである可能性だってあるし、もしかしたら、軽々しく文献や資料に載せられない禁域という可能性だってある、とオスカーは考えた。

そして、もし、あの泉が禁域であるならば、その泉に勤めでの用向きがあると言ったアンジェリークは、何か禊の必要な役職についている精女なのか、仙女なのか…彼女の勤めは、何故、あの泉を必要とするのだろう…火の力を宿す水自体が必要で…彼女はそれを汲みに来るのが役目なのか…いや、もしかしたら彼女自身が女神の一人でさえあるのかもしれない…

いや、そんなことは、どうでもいい、俺にとって本当に重要なことじゃない。

オスカーは思いなおした。

オスカーはアンジェリークが何の精でも仙女でも良かった。

今、大事なのは…また彼女に会えるかどうか、それだけだった。

彼女のとの出会いは鮮烈な印象となって、オスカーの内部で光り輝いていた。

月の光すら射さぬ暗い夜だったのに、彼女は内側から光を発しているように輝いてみえた。

夜目だから、断言はできないが、髪は黄金のような色合いに見えたし、顔立ちはこじんまりと愛らしく…年上の女性に向かって感じた印象としては失礼かもしれないが、とてもかわいらしく…その肌は透き通るように白く汚れなく見えた。

そして何より…

あの不思議そうに俺を見る、俺を労わるかのような、慰めるような優しい瞳。

夜明けてまもなくの空のような色合いで、夜が明ける直前に最も光を放つ明星にも似た輝きを放っていて、飽かず見つめていたいと感じさせる不思議に澄んだ瞳だった。見つめていると吸い込まれそうだと思った。

いや、容姿だけではないのだ。

彼女のまとう汚れなく透徹した空気、鈴を転がすとはこのことか思わせてくれた耳に心地よく愛らしい声、穏やかでつかみ所のない笑顔は、なぜか、どこか寂しげな風情も漂わせているような気がして、オスカーの目を惹き付けてやまなかった。

彼女の何もかもが、妙にオスカーの心にひっかかる。忘れようにも忘れられなかった。

また、彼女に会ってみたい、会ってもっと話をしたい。

だが、その日、嵐は夜遅くまで続いた。

真夜中過ぎ、漸く戸外が静かになった。風雨が収まったのを待ちかね、オスカーは内からこみ上げてくる何かに突き動かされるように、あの泉に向かった。

まだ夜の空は分厚い雨雲の名残が残り、月の光という手助けもないまま、嵐の後の森の中を歩くのは、大層困難だった。

激しい風雨により、そこここで、折り落とされた木の枝を避けて歩くのは酷くわずらわしく、手間がかかった。根こそぎ倒されてしまった木々も多くあり、この森の木は枝葉がとても豊かに繁茂していた故にどうしてもその倒木を乗り越えることができず、かなりの遠回りをしなければならない場所が幾つもあった。やはり風雨で落とされた木々の葉は、雨に濡れているせいで酷く滑りやすくなっており、落ちた葉の上を歩く時は、細心の注意が必要だった。落ちた木の葉を踏みしめるたびに、むっとするような青臭い匂いが立ち込める。嵐の後の森は、多すぎる湿気と草いきれで充満しており、息苦しいほどだった。

いつもなら、汗一つかかずにたどり着ける泉なのに、その晩、泉の辺にたどり着いた時、オスカーはかなり息を荒げ、秀でた額一面をしとどに濡らしていた。彼自身の汗と、木々の梢を掠め、枝葉の下をくぐるたびに浴びた雨滴の名残とが混じったものだった。

息を整え、鬱陶しげに髪をかきあげながら、泉の周りを見回す。夜目にあってもなお、自ら光を発するような金の髪を懸命に探す。

だが、オスカーが探し求める乙女の姿は、いくら周囲を見渡そうとも、どこにも見当たらなかった。

そういえば、彼女は、翌日が勤めの日はここには来れないといっていた…勤めで朝が早いのだろう。それでなくとも嵐の後は、忙しいにも違いない、きっと…。嵐が来ている最中は、風雨の神群以外の眷属は全ておとなしくしているしかないから、やるべき仕事や義務が、その間、たまる筈だから…となれば、嵐の後は、それだけ忙しくなる…

『バカだ、俺は…』

彼女が何らかの役目を担う身なら、嵐のすぐ後は忙しいに決まってる、修練だけしていればいい暇な子供の俺と違い、こんな処にまで来る時間がないのは、道理じゃないか…

なのに、俺はいても立ってもいられずに、彼女に会える可能性なら万に一つも逃したくなくて、後先考えず…

だめだ、これでは…こんなことにも気づかないから、俺は子供なんだ…彼女の都合や立場に思いを馳せることもせず、ただ、会いたいということしか考えられなかった…

だが…何時なら彼女に会える、というのはわからないのも事実だ。

闇雲にここを訪れたって、彼女には中々会えないかもしれない。

だが…結局、今はそうするしか他に手立てがない。

彼女は翌日が休みの夜なら会えると言っていた…それがいつかはわからないとも。

なら…彼女に会いたいと思ったら、俺はこられる限りの夜、ここに来るしかないではないか。

そして、もし次に会えたら…その時なら、彼女が来られる日の規則性が少しはわかるかもしれない。なんらかの目処が立てられるかもしれないではないか。

だが、ここでオスカーははたと思い当たった。

俺は、何故か彼女に抗いがたく惹かれるものを感じているが、彼女がそうとは限らない…彼女には、俺に会う理由なんてないかもしれない…いや、あると思いこむ理由がどこにある?…。

その考えは、一瞬、オスカーを酷く落ち込ませそうになった。

でも、『ここに来る』と…またこの泉に来ると、彼女ははっきり言った。彼女は、『また、あなたに会いたいんだ』とはっきり告げてしまった俺に…まったく、なんと大胆で図々しく不躾だったことか…『きっと、また会える』と応えてくれた。確かに俺は、しつこく彼女を問い詰めてしまって…彼女は、その無作法を大目に見てくれたのだろうが…でも、俺を、いなしたり、誤魔化すために、その場限りの嘘をついたようには思えなかった。

だから、俺は…彼女の言葉を信じるしかない。

俺とは異なる理由でかもしれないが、ここに来ると言っていた彼女の言葉には偽りはなかろうと。

そして、もし会えたら…少しでいい、話がしたい。彼女のことがもっと知りたい、できれば…俺のことも知ってほしい…

オスカーは、自分のこの心の動きが何なのか、よくわかっていなかった。

それ以上に、現実的なこととして、オスカーには、アンジェリークの仕事の内容も、その都合もまったく見当がつかなかった。

而して、その後も、オスカーは毎晩のように、ほぼ同じ時刻にその泉を訪ねたが、それでもアンジェリークには会えなかった。

そんな日が、一ヶ月ばかり続き、オスカーも半ば再会を諦め始めていた頃だった。

オスカーは、あの泉で漸く、アンジェリークとの再会を果たせた。

やはり夜空に月の姿は見えず、どんよりとした雨雲が全天を覆う、昼間だったら陰鬱な天気だったろうと思わせる夜だった。

 

泉の辺に彼女の姿を見出した時、オスカーは、彼女にもう一度会いたいと切望していたあまり、自分が幻を見ているのではないかと、一瞬、わが目を疑った。

その時の彼女は、浜になっている水際にではなく、ほんの少し小高い崖様になった岸辺に浅く腰掛け、僅かにつま先を泉の表面に触れるように浸していた。彼女のつま先を中心にして、同心円状に水紋が幾つもひろがっている。彼女が足先を水に浸している様を見ていると、オスカーは、彼女なら、そのまま爪先立ちで軽やかに湖面を歩いていったとしても不思議ではないと、思えてしまう。

初めて出会った夜と同じように今夜も月はなく、夜の泉は、夜空との境目が曖昧なほどに果てなく暗い。なのに、泉の辺にいるアンジェリークは、やはり、自らほんのりと光を放っているように、際立ってオスカーには見えた。

「アンジェリーク…」

呼びかけるというより、賛嘆の言葉を発するようにオスカーがその名を口にした途端、ぱっと、白い顔がオスカーの方に向けられた。金の髪が、顔の動きにあわせて、風に舞う花びらのようにふんわりと広がって揺れるのが見えた。

「こんばんは、オスカー!」

オスカーを認めるや、アンジェリークは当たり前のように優しい笑みと挨拶の言葉をかけてくれた。オスカーは知らず知らずのうちに詰めていた息を吐き出した。

「こんばんは、アンジェリーク…」

漸く会えた…半ば、諦めかけていたから…姿を見かけた時は、信じられない思いの方が強かった。しかも、彼女は俺を見て、笑みを浮かべ…挨拶してくれた。それこそ、信じられないほどの幸福感と安堵の思いがオスカーの胸中を満たした。オスカーは、彼女に会いたいと熱望する一方で、再び彼女に会った時、彼女が自分にどういう態度を示すのか、とても不安に感じていた自分を思い知った。

「そちらに行ってもいいだろうか…」

「ええ、もちろんよ」

オスカーは、アンジェリークの笑顔に勇気付けられ、彼女の方に向かって歩きながら尋ねた。

「そちらから、よく、俺だとわかったな」

森を背景に立っていた俺は、泉の辺にいる彼女からは一層暗くて見えにくいはずなのに、よく、すぐ俺とわかったものだと、考えたからだった。

「私をアンジェリークと呼ぶのは、オスカーだけだから…」

優しげな笑みと共に返された彼女の言葉はオスカーには不可解なものだった。だって彼女の名前はアンジェリークだろう?じゃあ、彼女の周囲のものは一体彼女になんと呼びかけるんだ?…と考えた時、もしや…と思って、オスカーは重ねてアンジェリークに尋ねた。

「それは…つまり、アンジェリークはいつも、自分の名前ではなく仕事上の呼び名で周りから呼ばれている…役職で呼ばれてるということか?」

「ふふ…」

なら、一体、彼女の勤め…役職とは何なのだろうと思ったオスカーの疑問は、また、あの不思議な笑みに遮られた。

「オスカーも座らない?」

「あ、ああ…」

アンジェリークの誘いにかすかな胸の高鳴りを感じつつ、オスカーは二の腕一つ分くらいの距離をおいて…できれば近くに座りたいが、あまりに近くに座るのも無作法だと思った兼ね合いの距離だった…アンジェリークの隣に腰掛けた。

すると、アンジェリークがオスカーの顔を下から覗きこむように話し掛けてきた。

「ね、オスカーも足先を泉に浸してみない?気持いいわよ」

「…いいんだろうか…」

「どうして?」

「俺は…なんとなく、この泉には触れてはいけないような気がしていた…」

「でも、この前は、泉の中にも入ってきたわ」

「それは!」

幾分気色ばんだオスカーに、アンジェリークがすぐに言葉を引き取った。

「わかってるわ。私のことを心配してくれてのことだったって…」

「ああ…」

オスカーはアンジェリークの言葉にまんまと誘われて、一瞬でもムキになった自分が恥ずかしく思い、短い返答だけ返す。

「でも、それなら…泉に入っても、何ともなかったでしょう?」

「俺の…俺の躊躇いは単なる気分の問題だとはわかっているんだ。なんとなく、この泉は、見ているだけでいいと感じていたから…」

「じゃ…泉に私がいるのを見つけた時…オスカーは不愉快だった?私が…勝手に泉の中にいたから…」

「まさか…この泉は俺のものじゃない…そんなこと思うわけもない…」

オスカーは心底意外そうに答えてから、考え考え、言葉を選ぶように、その時の気持ちを続けて語った。

「そんな理屈を抜きにしても、本当に、あの時の俺は、不快感とか怒るとか、そういう負の感情は全く起きなかった。アンジェリークがあの泉の中にいるのを見た時…あなたは何故か不思議そうにあたりを見回していたけど、あなたの存在はとても自然で…だから、あの時、俺の頭の中は、本当に、あなたが誰かに見つかって咎められたら大変だということだけだった…そして今は、俺の躊躇いも、禁忌というよりは…泉には直に触れなくても満足できていた…というだけだったのだろうと…思う…」

「なら…泉に触れたら、もっと気持いいかも…とは思わない?ただ、眺めているのもいいけど…」

「そう…なのかもしれないな」

「だから…ね?」

アンジェリークに促され、オスカーは皮のサンダルを脱ぐと、幾分躊躇いがちに水に足を浸した。

泉の水は、冷たくも暖かくもなく…そう、丁度人肌という感じだった。この前、泉に入った時はアンジェリークを泉から早く引き上げなくてはということで頭が一杯で、水温など感じる余裕はなかった。今、改めて脚を浸してみると、この温度なら気分がしゃきっとするような清涼感はあまり感じないかもしれないが、沐浴しても体が冷えることはなさそうだった。だからアンジェリークも膝下あたりまで脚を泉に浸していても、平気だったのだろう。

「なんだか…ぬるいな…冷たくもなく熱くもなく…」

アンジェリークが楽しそうに笑った。

「それは、きっとこの泉の水の温度がオスカーの体に合っているってことなんだと思うわ」

「そうだ!」

オスカーは「温度」という言葉を耳にしてアンジェリークに尋ねなければならないことを漸く思い出した。

「どうしたの?」

「俺は、この前、あなたに不快な思いをさせなかったか?アンジェリーク?」

「どういうこと?」

「あなたと別れた後…俺が熱を放散してしまっていたらしいことに気づいた。何時からかまではわからなかったから、あなたと別れた後、気が緩んで、熱を出してしまっていたのかもしれないし、それなら、問題ないんだが…しかし、俺はもしかしたら、あなたに火傷…を負わせていたかもしれないし…そこまではいかずとも、あなたに俺の熱のせいで不愉快な思いをさせたのではないかと、気になっていたんだ…」

「オスカー…私は、大丈夫よ、嘘じゃないわ」

「そうか…それならよかった…」

オスカーは、この時初めて心から寛いだ笑みをアンジェリークに向けることができた。すると、その笑みを見たアンジェリークが、少し遠慮がちな様子でオスカーにこう尋ねてきた。

「ね、オスカー、私、思ったことがあるのだけど…ちょっと聞いてくれる?この前もそうだったけど、あなた、いつも周囲を傷つけまいと、自分の火の力をできるだけ抑制しようとしてるのでしょう?」

「ああ」

「でも、力を無理に抑えようとするから、その反動で、かえって熱の制御が難しくなるなんてことはないのかしら…?」

「どういうことだ?」

「たとえば…見て?」

アンジェリークは少しかがみこんで、泉の水を掌に掬った。俯いたせいで金の巻き毛がさらさらと横に流れ、夜目にも白いうなじが垣間見えた。オスカーは慌てて視線をアンジェリークの手に方に向けた。アンジェリークは一度掬った水を掌から、再び、泉に戻すように零した。

「この水が川の流れみたいなものだと考えてみて?…こうして流れている水を何かで遮って堰き止めたとするわ。すると、その場では水が止まったように見えるかもしれないけど、水の流れ自体は実際には止まるわけじゃないでしょう?」

「ああ…アンジェリークの言わんとするところは…わかる…」

「そして…流れてくる力はそのまま溜まっていって…どんどん溜まっていって、そんな時、何かの拍子に堰き止めていたものが外れたら、その噴出の勢いは、流れを止める前より激しくなるじゃない?溜まっていた分、力の量そのものも多くなって…オスカーの火の力もそういうことはないかしら…」

「俺の力は…涌き出て流れ行くもの…だというのか…だから無理に抑えた後は、より勢いが増し、力そのものも溜められていた分増大しているから制御が困難になると…」

「ええ…確証はないけど…そんな気がしたの」

一息ついてから、アンジェリークは静かに付け加えた。

「多くの火の力は…そうね…常に変化するものだし、不安定ですらあるけど…自らは動かない。かまどや焚き火の火のように…けど、あなたの力は、それこそ泉のように涌き、常に流動しようとする火の力なのかもしれないって…」

「たとえ、そうだったとしても…アンジェリークの言うことが正しかったとしても、俺には、その流れを堰き止める以外の手立てがわからないんだ…火の力を野放しに垂れ流すようなことはできない、そんなことをしてしまったら、それこそ周囲にどんな危険を及ぼすか…」

「それなら…押さえこんで堰き止めるのではなくて、少しづつ、量を加減しながら外に流すようにしてみるっていうのはどうかしら?」

「流す?しかし、それこそ無闇には…」

「そうよね…体全体や、腕から火の力を放出したら、それも確かに周りに危ないかもしれないわね…なら…どこから熱を放出するのが、一番周囲に影響が少ないかしら…」

アンジェリークが考え込む様子で、すんなりとした脚を童女のようにぶらぶらさせた。ほっそりしたつま先が水の表を掻き、かすかに水が跳ねる音も響いた。オスカーは、その動きにはっとした。

「脚…そうか、足がある!足の裏から熱を地面に放散できれば…体全体や手や腕が熱くなるより、よほど周りに及ぼす危険は少なくなる」

「そう、そうだわ。オスカーの言うとおりよ。足裏なら地面しか接しないし、土なら多少熱くなっても危なくないし…でも、そうしたら…オスカーのサンダルや靴が焦げてしまうことにならない?」

「となると、俺はいつも裸足で歩くことになるか…」

オスカーはいつも裸足の自分を想像して、一瞬、笑みを浮かべかけたが、その笑みは、すぐに憂慮を湛えたものに変わった。

「だが、足からの放出は、人や生き物に迷惑をかけることは少ないかもしれんが…たとえ足からだとしても、やはり、無闇に無定見に力を放出するわけにもいかないだろう、森や草原、ましてや畑の近くで、そんな真似をしたら俺の力のせいで野火がおきるかもしれない…」

「なら、この泉は?今みたいに、足を泉に浸して、この泉の中に力を放出する練習をするのなら、どう?」

「!…そうか…それなら…」

「この泉の水は、あなたの火勢を弱めない…多分。そして、あなたの力を存分に受け取っても…普通の水と違って沸き立ち干上がってしまうようなこともない…そう思うの…あ、きっとだけど…」

「ここが火の加護を受けている泉だからか?」

「ええ…」

「あなたは、この泉の効能を知っていたのか、アンジェリーク」

「オスカーは、この泉の傍にくると、体の熱さがなんとなく落ち着くって言っていたでしょう?。それに、オスカーはこの前、泉に足まで入ってもなんともなかったって言ったから…だから…きっと、この泉は普通の水みたいに、あなたの火の力と喧嘩しないし、あなたの力を弱めない…つまり、ええっと…あなたの火の力と親和力が高いんじゃないかって…そう思ったの…」

「そうか…言われてみたら、その通りかもしれない。それに俺の熱があなたを傷つけずに済んだのも、俺が泉の水に浸った後だったから…泉の水が俺の火の力を、弱めることなく中和してくれていたのかもしれない、もしそうなら…俺がアンジェリークに不快感を感じさせずに済んだわけもわかる…」

ただの水でも、火勢は弱めてくれるから、アンジェリークを傷つけずに済んだだけもしれないが、その場合は俺自身の力も相殺されたはずだ。が、確かにあの時、俺自身、水に足まで浸かっても、脱力するとか足の力が萎えるということはなかった。それは、この泉がやはり火の加護を受けている泉だからということか…

「アンジェリーク、あなたは…どうして、そんなに何でも知って…」

「…あなたのお話を聞いたから…あなたの力は一箇所に留まる火の力ではなく流転する力なのではないかしらと感じただけ…泉のことも同じ…あなたのお話を聞いて、感じたことを言ってみただけ…」

「……」

それだけではない、と、オスカーは直感的に感じた。だが、同時にアンジェリークは嘘をついているわけではないのだとも感じた。多分、彼女は事実の一部のみを口にしているのではないか…オスカーにはそう思えた。アンジェリークが説明しようとしない部分がどれ程の量で、どんな内容かは、オスカーには推し量る術もなかったが。

ただ、黙ってアンジェリークの顔を見つめるオスカーに、アンジェリークは包み込むような笑みを向けた。

「オスカー、あなたはとても優しい人、でも、力を抑えようとするだけでは、あなた一人が苦しいばかり。あなたの力がもっと強く大きくなっていったら…周囲に危険を及ぼすまいとすればするほど、あなたは自分を孤立させざるをえなくなってしまう…誰も、あなたの苦しさも努力も知らない中で…」

「アンジェリーク…」

「でも、あなたが力の…要領のいい逃がし方?とか少しづつ量を加減しての力の流し方を覚えれば…きっと、あなたは楽になれる…そんな気がするの。体が楽になるだけじゃなくて…周囲の人を傷つけたり、不快にさせるのではないかと、あなたが心をいためる恐れがとても少なくなると思うの…」

「だから、俺に力の流し方を訓練しろと…」

「ええ、そうするのが、いいのではないかと、私は思うの…今、あなたがしてることは力の流れに堰を作ること。でも、あなたが、身中に火の力が涌き出づるのを感じたら、これから作るのは堰ではなく…そう…水門、水門のようなものをイメージしてみるのはどうかしら…火の力の流れを操るのに水門という言葉は妙かもしれないけど、私、他にいい言葉が思いつかないわ…」

「水門?」

「そう、火の奔流が身中に湧き上がるのを感じても…完全には抑え込まないで…少しだけ水門を開けるように力を少しづつ逃がすの。火の力も少しづつなら、周囲の生き物に影響を与えない程度に流せるのではなくて?そして、そうできれば、火の力が危険なほど溜まりすぎてしまう心配もない。そして、火の力を完全に解放しても安全な場所では水門を開ききる…そんな風にできれば…あなたの身体も楽になるのではないかしら」

「俺に…できるだろうか…」

「今すぐは難しいかもしれない…でも、練習すれば…きっと…それに、時間はかかっても…今すぐ出来なくても、いいんじゃない?すぐにできないのは、むしろ…当然のこととも思う」

「…そうか、そうだな…俺には、まだ学ばなくてはいけないことも山ほどある…身体も…まだ、成長仕切ったわけではないかもしれないし…」

「誰だっていきなり難しいことはできないと思うの、順を追っていかないと…逆に言えば、順を追っていけば…できることが少しづつ増えていくんじゃないかと思うの…」

「なら、俺は力を抑圧しようとばかりしてきたから…」

「最初は、完全な放出と、完全な遮断、この繰り返しから始めてみるのはどうかしら?」

「そして、その放出を…体のどの部分から力を放出するのか、意識してコントロールすることができるようになれば…」

「ええ、骨が折れるとは思うけど…火の力の流れを自分の望む方向に導くこと、それができるようになれば、あなたの問題の半分は解決できるんじゃないかという気がするの」

「ああ、そうすれば、俺は…周りの生き物を傷つけることを恐れずに済むようになる…」

「そして、それができるように慣れてきたら、少しづつ…例えば放出する力を半分だけにしてみるとか…もちろん、オスカーの感じ方の半分でいいと思うのだけど…」

「火の力を目でみたり、計測することは難しいからな…」

「ええ…でも、量の加減を意識的にできるようになれば…もっと危険はなくなるんじゃないかしら。オスカーも、力の出口がない息苦しさや居たたまれなさに苛まれることも減ると思う…」

「俺はともかく…それで、俺がアンジェリークを傷つける恐れがなくなるなら…確かにトライする価値はある」

アンジェリークがにっこりと笑んで頷いた。

オスカーは目の前が…少し遠くを見ようとしてもあやめもわからぬほの暗い泉の辺だというのに、自分の行く手がぱぁっと果てなく遠くまで見渡せるような気分になった。

今の今まで、日々増大していく力を外に漏らすまいと抑えるだけで必死だった。だが、ただ抑えていたって根本的には何も解決しないし、息苦しさは増していくばかりということもわかってはいたのだ。それでも、溜まっていく力を、とにかく流してはいけないと押さえ込むだけで精一杯だった。他に考えをめぐらす余裕もなく、一つの思考に凝り固まっていた自分は、全くなんと愚かで視野の狭かったことか。一時に流すのは危険なら、流す量を調節すればいい、手先や体全体から放出するのが危険なら、なるべく他に影響のない部位から力を逃がせばいい。アンジェリークの存在が、それこそ、懊悩を溜め込みすぎて身動きのとれなくなっていた自分の思考の堰に穴を開けた、水門を開けてくれたような気がした。オスカーを楽に息をつけるようにしてくれた。

苦労と困難を味わうにしても、先の見えない単なるその場しのぎの抑圧のための苦労と、流れをコントロールして、他者を傷つける恐れを軽減し、自分の気も身体も楽になるために払う苦労なら、どちらが実りあるかなど、それこそ火を見るより明らかではないか。

「ありがとう、アンジェリーク。あなたが、俺に気づかせてくれた。目を開かせてくれた。垂れ流すか抑圧するかしかないんじゃないんだな。押さえつけることで苦労している気になっていた俺は馬鹿だった。抑えて苦しい力なら、それをコントロールする努力をしなくちゃならなかったんだ…なのに、俺ときたら…」

「そんなことない、オスカーの力は多分、とても大きいの、しかも、きっと、急に成長したのだと思うの、だから、オスカーが戸惑うのも当たり前のこと」

「そうなのだろうか…」

「なのに、戸惑ってはいても、オスカーは周囲を傷つけまいと頑張っていたじゃない?…本当に、とても、オスカーは優しい…」

「いや…」

オスカーは困ったように口ごもり、視線を外した。

オスカーはアンジェリークが自分を慰めてくれる気持を純粋に嬉しく有難く思う一方で、一抹のもどかしさと居心地の悪さも感じてもいた。アンジェリークは自分が愚かで未熟だからこそ、姉のように、自分を慰め労わってくれているのだと思った。それは男として、情けないことだとオスカーは思った。だから、躊躇いがちにではあったが、こう言ってしまった。

「なあ、その『優しい』っていうの、止めてくれないか」

「どうして?」

「そんなこと、誰からも言われたことがない。だから…ぴんとこない…自分のことじゃない気がする」

確かに彼女は俺より年上なのだろうし、俺と異なり既に何らかの神職に就いているからこそ、こんなにも有益で具体的なアドバイスをくれたのだとオスカーはわかっていた。自分の未熟を認めたくなくて虚勢を張って、意地を張って…などという愚かな振る舞いをする気はオスカーには毛頭なかったが……それでもアンジェリークに慰められ、導かれるだけの今の自分がオスカーは、どこかやるせなく、もどかしくてたまらなかった。

つまるところ、オスカーはアンジェリークの自分への評価は単なる慰めだと思っていたから『優しい』と言われたくなかった。だが、アンジェリークが、それこそ優しい慰めの気持で自分に言ってくれている言葉であるともわかっていたから、気休めやおためごかしなら言ってくれなくていい、などと失礼なことを言う気もなかった、だから「優しい」という評価は「借り衣みたいに自分の身の丈にあってない気がする」と言って、かわそうと思ったのだが…

が、アンジェリークは、心底驚いた顔をした後、心から感嘆したようにこう言った。

「…それが、本当なら…オスカー、あなた、本当に1人で…ずっと1人で我慢して、ずっと1人でどうにかしようと一生懸命頑張ってきたのね…本当に…あなた優しい、そして、それ以上になんて強い…」

「!…」

オスカーは衝撃を受けた。

アンジェリークは、自分の未熟さに同情して、気休めに慰めようと俺を『優しい』と言っているんじゃない、俺の我慢と見当違いではあったが俺のしてきた努力を強さと評価してくれたうえで、その俺の気持を『優しい』と感じてくれているんだ…と理解した。感じると同時に、何故だか、唐突に目頭の奥が熱くなった。

理解され、共感されるということは、こんなにも心を暖かく十全に満たしてくれるのか、とオスカーは眩暈を感じるほどの思いをかみ締めていた。同時に、アンジェリークの言葉をおためごかしだと思った自分を恥ずかしく思った。

「すまない、俺は…」

「何故、謝るの?オスカー」

「俺は、あなたの言葉を…ただの同情だと思って…」

アンジェリークが静かに首を横に振った。

「何も謝らないで…オスカーが謝ることなんて何もないもの」

「アンジェリーク……」

「あなたは強くて優しい、その高潔な精神は一点の曇りもなく輝いている、それは、あなたの本質…でも、だからこそ、あなたはいつも1人でいたのね…そんな、あなたの強さも優しさも…きっといつか、皆、わかるわ、否応なく知る日がくると思うわ……」

「俺は…」

『あなたがわかってくれればいい』

そういいかけて、2度目に会ったばかりの人にいう言葉ではないと気づいて慌てて飲み込んだ。

「俺はあなたに助けてもらってばかりだな、アンジェリーク、ありがとう…」

すると、アンジェリークはまたも驚いたような顔をした後、何故かとても寂しそうに微笑んだ。

「私、あなたが立派だと…優しい人だとも思ったから…仕事で…お勤めで、あなたの前に現れたんじゃない…本当よ…」

「アンジェリーク?君の仕事?勤め?…何のことだ…」

「あ、…ごめんなさい、何でもないの…なんでも…あ、そう、私、明日はお休みなの、だから、この時間に、ここに来れたのよ」

「ああ、一ヶ月ぶりだな…あなたの休みは…仕事、大変なんだな」

「……もしかして…毎晩、ここに来ていたの?オスカー…」

「…ああ…体が…熱くて…」

『何時なら君に会えるかわからなかったから…』とは言えなかった。自分がアンジェリークに会いたいと思うように、アンジェリークが自分に会いたいと思っているわけではないのだからと、オスカーはきちんと自分の立場を認識していた。

「…無理はしないできちんと休んでね…私も、本当に次に来られるのが何時になるか…約束ができないの……」

が、アンジェリークにこう言われ、自分の胸中は見透かされていると、オスカー自身は思った。

「いや…あなたに会えない夜でも…これからはこの泉相手に、力の流れを意識する訓練をする。ただ、眺めるだけでなく…だから、俺の夜歩きは無駄にはならない」

アンジェリークに重荷に感じられるのは嫌だったし、実際、これは強がりでなく、オスカーは、この泉相手に力のコントロールを行う気になっていた。

すると、アンジェリークも安心したように笑んでくれた。

「ふふ、そうね…オスカーがそうしてくれたら私も嬉しい…そうしたら、私、会えない夜でも、あなたが元気だってわかるから…きっと…」

「アンジェリーク……」

それは一体どういう意味だ?オスカーは尋ねたかった、けど、それを聞くのは躊躇われた。自分の望むような答えは返ってこまいという直感があった。

「また…この泉に来る?」

「ええ、お休みの前の日には…」

「また、ここに来て、あなたと話をさせてもらってもいいか?」

「ええ、もちろんよ。でも、疲れた時は無理はしないでね…私、これから暫くは…来られない夜の方が多いと思うから」

「ああ、無理はしない」

それでもオスカーは、きっとあてがなくても、この泉に来てしまう自分を予感していた。

でも、今度は大義名分もある。それになぜかはわからないが、俺が力の制御する訓練をすれば、それが彼女にはわかるらしい。

彼女方からはっきりと「会いたい」という言葉まではもらえなかったが、オスカーは、これ以上望むのは望みすぎだとも思った。

俺は彼女から、色々と有用な助言をもらっている、彼女を話すことは純粋に心弾むことでもあるから、俺が彼女に会いたいと思うのは当然だが、俺の方から、彼女に有益なことができるとか、会っていて楽しいとか彼女の方も思ってくれなければ…否、俺が思わせることができなければ、彼女は積極的に俺に会いたいと思う理由などないし、なくて当然だ。会いたいと言って応えてもらっているだけで…今だって、充分に恵まれている。

それでも…できれば、彼女の方からも会いたいと思ってもらえたら…とオスカーは願う。そのためには俺はどうすればいい?何ができる?彼女からも俺に会いたいと思ってくれるような存在に…俺はなれるだろうか…

オスカーは、言葉にできない思いをこめてアンジェリークを見つめていた。

「ね、オスカー、そろそろ帰った方がいいわ…」

「そういえば空気が重い、そろそろ雨が降ってきそうだな」

「ええ、だから…足元も暗いから、帰り道は気をつけてね」

「心配ない。慣れ親しんだ道だ…火の力に意識を集中すれば、どちらに進めばいいのかは、暗くてもわかるんだ」

と、言った時、オスカーは初めてアンジェリークと会った夜のことを思い出していた。

そういえば、あの夜も暗かった。月も星もなく、俺は、天気が崩れそうだからと、アンジェリークに帰宅を促された…

そして、今夜も月はなく、空からは今にも大粒の雨が降ってきそうだ。

これは…偶然か?同じ状況が続いても、2回目までは偶然だが3回以上続けば、それは必然だという言葉を聞いたことがあるが…。

「おやすみ、アンジェリーク」

「おやすみなさい、オスカー」

オスカーはアンジェリークに暇乞いを告げて、泉の辺から立ち去った。

次にアンジェリークに会えるのも、きっと、今にも雨が降り出しそうな曇天の元でではないか…オスカーはこの自分の勘が多分、間違っていないだろうと思った。明日は雨模様だが、もうすぐ暑さの厳しく雨のほとんど降らない乾季がやってきて、それは2、3ヶ月の間続く。

そして、アンジェリークが「暫く来られないと思う」といったことが、偶然の一致だとは、オスカーには思えなかった。

もっとも、その『理由』までは、わからなかった。

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