百神の王 3

その後の2ヶ月間、オスカーがいつ泉を訪れても、アンジェリークの姿を見ることはできなかった。

予めアンジェリークに告げられていたことなので、オスカーは特別に落胆することはなく…もちろん、寂しくはあったが、その寂寥とともに、現状を諦観する…という心境だった。

アンジェリークの言葉から、オスカーは一つの仮説を立てていた。

天候のよい日、月が煌々と輝き、夜の女神ラートリーの衣を彩る無数の星々がきらめき瞬くような夜には恐らく彼女には会えない。

明日は確実に嵐が来るとわかっているような夜や、今にも雨が降りそうな曇天の下でのみ、彼女には会えるのではないかと。

今の季節は乾季のこととて、夕刻、極短時間に通り雨が降ることはあるものの、朝から1日中雨が降り続くような日は、まずない。暴風雨神ルドラも休息期なので、嵐もやってこない。そして、こういう恵まれた天候のもとでは、彼女の仕事は休みにはならない、それで、彼女は忙しくて自由に出歩けないのだ、きっと…

だから、好天の続く日々、アンジェリークが姿を現さないのは、オスカーにとって、自分の予測の裏づけにも思えたし、逆に、この仮説が正しければ、雨季の到来とともに、彼女に会える機会が多くなるのではないか…そんな希望を持つこともできた。だから、オスカーは、アンジェリークと会えない日々を、この希望を抱くことによってやり過ごしていた。

そして、アンジェリークの助言に従い、火の力をコントロールする訓練にやっきになっていたことも、オスカーが寂寥に飲み込まれずに済んだ一因だった。

会えずにいる間に、自分が火の力を少しでも制御できるようになれば…少しでも目に見える進歩があれば、きっとアンジェリークはそれを我がことのように喜んでくれる、何故だか、オスカーにはそんな風に思えた。

逆に、俺が大したこともせずに漫然と日々を過ごしていたら…ただ、彼女に会えない日々を憂うばかりで、気力が出ないと言い訳をして為すべき努力を怠っていたら…その怠慢は、結局自分に跳ね返ってくるだけなのだが、彼女がそんな自分を知ったら落胆しそうな気がしたし、自分自身、それは恥ずかしいことに思えた。

会えないのなら、会えずにいた間の出来事を胸を張って伝えられるように過ごしたい…オスカーはそう思ったのだ。

だから、アンジェリークがいないことは承知で、火の力がどうしようもない勢いで沸きあがるのを感じた夜は、夕飯もそこそこにあの泉に向かった。

革のサンダルを脱いで、泉に入る。ふくらはぎの辺りまで脚を浸して泉の中に佇む。

自分の内部に流れる火の力を意識する。それを、脚部から泉の中に放出することをイメージして、力を解放する。

言葉にすればたったこれだけのことだ。だが、たったこれだけのことが、オスカーは中々上手くできなかった。

足の末端、できれば足の裏から力を流出させたいのに、腕から放散されてしまったり、身体全体が熱を持ったりと、力はオスカーの思ったように流れてはくれなかった。てんで勝手な方向に無軌道に流れるばかりで、コントロールするなど夢のまた夢だった。その上、力は余さず放出しているつもりなのに、身体の芯に嫌な残留感がくすぶっているようで、オスカーは気持がすっきりしなかった。

焦りを感じた。容易くできるとは思っていなかったが、目に見える成果が全くでない苦しい日々が続いた。

それでも、火の力の流れを無理矢理抑えることを止め、力が溜まってきたと感じるや、泉の中に放出するようにしたおかげで身体は以前より格段に楽になっていた。

周囲を傷つけるかもしれない恐れに、常に気を張る必要もなくなった。

すると、同じ年頃の少年たちに「おまえ、最近、変わったな」といわれるようになった。

オスカーは、周囲が自分の変化に気付いたことを一瞬不思議に思ったが、すぐ、ああ、そうだろうなと虚心に思いなおした。いくら表ざたにはせずとも、何かを抑圧する張り詰めた雰囲気、余裕のない精神状態は自ずと振る舞いや態度に現れ、周囲に伝わるものなのだろう。だが、その理由を決して誰にも打ち明けなかったから、俺は訳もわからず周囲に壁を作って打ち解けない、余所余所しく頑な人間に見えたことだろう…それは結局、自分を信じられずにいたと同時に、自分の悩みを明かした時の周囲の反応も信じていなかったということ…自分も他人も信じられない、これはつまり…傲慢でありながら同時に臆病だった、そういうことではないのか、と、オスカーは自分を省みた。

アンジェリークは俺を優しいと言ってくれたが、俺は臆病さゆえに、頑なになっていた部分がなかったか。1人でどうにか対処しようと頑張っていたことは強さだとも彼女は言ってくれたが…今は、それも臆病さと表裏の傲慢さに思えて仕方ない。

オスカーは、自分のしてきたことは困難に立ち向かう努力であったことは事実かもしれないが、同時に、周囲に壁を作った上での努力は自己防衛の気持からではなかったかと虚心坦懐に思い返した。男として意地を通したかったというのもある、が、自身の弱い部分を認めたくなかったからこそ、自分は1人であんなにも力み、頑なな処があったのではないかと思い当たると、オスカーは無性に今までの自分を恥ずかしく感じ、また、アンジェリークに会いたい想いがいや増しに募った。

アンジェリークは俺の偏狭な振る舞いを頭ごなしに説諭したってよかったのに、そうはせず、俺の話を静かに聞いてくれ、自分の見当違いの努力を認めて、励ましてくれた…そのことをオスカーは思い出したからだ。あの時の俺は自分は苦しみながらも努力はしているということに心が凝り固まっいたから、たとえ正論を説諭されても、彼女の言葉を素直に受け付けたかどうかわからない。そう感じたからこそ、アンジェリークは、まず共感と慰めで俺の心を柔らかく解そうとしてくれたのかもしれない、だからこそ俺の頑なさは解れ、柔軟に物事を考えられるようになったのではないかと、オスカーは思いいたった。オスカーはそんなアンジェリークの心配りに礼をいいたかった。その優しい思いやりに応えるためにも、オスカーは、火の力を少しでも制御できるようになりたいと願い、そう努めた。が、状況ははかばかしく進まぬうちに徒に日は過ぎていった。

そんな折、火の学び舎で、鍛錬の抜き打ち試験があった。量の如何を問わず今現在の己の火の力を掌に一度集めてから、思い切り放射してみろという単純なものだった。オスカーには、この試験の目的がすぐわかった。毎日自分も練習していることだったからだ。火の力の流れを己の意思で操り、自在に力を放出する技術の習得のためだと。

が、試験の意味合いや、容易か難解かは問題でなく、少年達の多くが抜き打ちというそれ自体を理由に不満を漏らした時、教官は冷静に少年達に説明をした。

『事前に試験を告知しておくと、どうしても前もって力を溜めておこうとするものが出てくる。が、それでは客観的な自分の今の実力を知ることができなくなる。試験というものは、良い結果を出すために行うのではなく、現在の自分の能力を判断し、弱点を知り、その弱点を克服するにはどうすればよいか、考えるためにあるのだ。だから今は掌から放出できなくてもいいし、量が少なくてもいい、だが、自分のどこが弱く何ができなかったかはきちんと見極め、次回は自分の問題点を幾許かなりと克服する努力をしてほしい。この試験はそのために行うのだ』と。

その教官の言葉を聞いた時、オスカーは、自分の心を縛っていたものを見つけた気がした。

俺は、とにかく良い結果を出そうとずっと躍起になっていなかったか?このままではアンジェリークに会わせる顔がないと思って焦って…。だが、そんなのは、ただの見栄じゃないか。そして、多分、俺はアンジェリークに褒めてもらいたいというような気持があったんだ、だからこそ、焦るばかりで…出てくる結果に縛られるばかりで何がいけないのか、何故上手くいかないのかを考えることをしていなかった…

上手くできないことに焦り「こんなはずではない」と現況を否認したって、できないことができるようになるわけじゃない。

できないことがあるなら、何故、今はできないのかを見極め、そして「なら、できるようにするにはどうすればいいのか」を考えればいいんだ。

そうだ…俺は…まだ未熟だ。学ばねばならないことが無限にある。そして、学ぶとは…まず、自分のできること、できないことの境界線を見極め、自分が無知な部分、不得手な部分を認識した上で、欠けている部分を埋めるためにはどうすればいいのか…それを考えることから始まるんだ…。

できないことに開き直って甘えるのではない、が、できないことはできない、知らないことは知らないと認めねば、何を学べばいいかもわからないじゃないか。自分が子供であることを否定しても…子供だと認めることを拒み、自分は未熟ではないと言い張れば成熟するわけではない、むしろ、現状を否認することでどんな工夫も努力も的外れになる、以前の俺のように…それは結局停滞でしかない。努力しているように見えても、ぐるぐる同じ処を走り回っているだけのデッドエンドだ。自分の現況に目を瞑るのは無意味な行いでしかない。

俺は未熟で未完成、だからこそ、今、学び鍛錬しているのではないか。

ならば、まずは、焦って結果を出そうとするのを止めろ。できること、できないことを認識し、その上で何故できないかを考え、どうしたらできるようになるか考えるんだ。

そう考えたら、肩から力がふっと抜けたような気がした。

そのうち自分の順番が来ると、オスカーは特に気負うこともなく、手に意識を集中してから、力を放った。的としておかれていた藁苞が黒く炭化し、枯れ草の焼ける匂いを感じた。オスカーは思わず自分の掌を見つめた。教官は満足そうに頷いた。

手ごたえと高揚を感じた。

その日の夜、オスカーは、今夜は上手くいくのではないかという予感…いや確信に近いものを胸に火の泉に急いだ。いつも通り、脚部までを泉の水に浸す。今宵、泉の水はいつにもまして暖かいと思いながら、オスカーは精神を落ちつかせる。深呼吸をしながら身体の奥深い部分から滾滾と湧き出るような火の力を意識する。腹の底にぐっと力をため、己の火の力を脚部へ、次いで泉の中へと飛び出していくように、イメージを具象化して思い描きながら、力を放ってみた。

腰から下が一瞬、大きく膨らんだような感覚と燃えるような熱さに満たされた後、その熱が下半身から一気に飛び散っていくような感覚があった。途端に腰から下に感じていた圧迫感と熱が霧消した。

オスカーは暫し、あっけにとられたように泉の水面を見つめていた。いつも鏡面のように静かな泉の表には、オスカーを中心にして一つだけ波紋が生じており、その波紋は岸辺へたどり着いた時には波となり、とぷんと音を響かせ弾けた。波が砕けた瞬間、オスカーはその飛沫の1滴1滴に溶け込んでいた火の力が、中空へと飛び散り、周りの空気と交じり合い同化して消えていったことを感じた。

『できた…のか?できたんだ…』

自分の力の全てを一気に解放することができたという実感が、漸くオスカーに沸いてきた。

同時に、今まで経験したことのない文字通りの開放感が体の隅々まで染み入るように感じられた。

その上、何故だろう、放出した力も今宵はあまり的外れな場所からは流れ出なかった、自分が目した脚部から…というにはまだ程遠かったが、すくなくとも近い部位から力を放出することができた。

今まで、どうしても上手く力の流れをコントロールできなかったのに…何故、今日は目した方向に力も流れてくれたのか…オスカーは、今までの状況と今日の状況を比較してみた。

今夜は何が今までと違っていた?今夜…俺は、完全に力を解放できた。寸分も躊躇ったり迷ったりせずに力を放出できた気がする…

そう思った時、オスカーに、思い当たるところがあった。

今までの俺は意識を一点に集中して力を放出できていなかったのではないか。意識としては、思い切り力を放出しきろうとしているのに、全力を出し切る寸前に「本当にこのまま解放してしまっていいのか?」という極僅かなためらいと迷いが心に忍び込んではいなかったか…。それは、自分の力を完全に解放することへの恐れと躊躇いがどうしても払拭できずにいたからではないのか。力の解放=周囲への危険という認識が俺の精神にしつこくこびりついていて、ここでは他の生き物を損なう恐れはないと頭ではわかっているのに、自分では、その拘りを上手く取り除くことができず、力を出し切れていなかったのだ。すると、どうしても火の力の放出は中途半端に終わる、迷いや躊躇で精神集中できず、心が乱れていたから力の流れも上手く制御できていなかったのではないかと、オスカーは思い当たった。

が、力の完全な解放は今できたことで、コツもつかめた。

『多分、できる』

オスカーは力が溜まるのを待って数日後、もう一度、完全な解放を試みてみた。今度はこの前よりもっと苦労せずにできた。放出部位も自分の狙いに更に近づいた。熱くなったのは大腿部から下だけで済んだからだ。

オスカーは、安堵の吐息をついた。一つのヤマを越えた実感があった。

『アンジェリーク、これだけの時間をかけて、俺は…やっと一つのことができるようになった…でも、俺にとってこれは大切な1歩だと、そう思えるんだ…』

次は、最後まで力を解放しきる前に、中途で放出を遮断し再び解放する練習と、後は、少しづつでもいい、大まかでもいいから、放出する部位のもっと細かいコントロールだ、とオスカーはすぐさま次の目標を定めた。

努力することは無駄ではない。ただし、その努力が的外れでなければだが。そして、注いだ努力に対し、どんな形であれ、成果はでるものだ。まず、力の解放はできるようになったのだから。そして、俺はまだ…学徒であり練習する時間はたっぷりあるのだから。

アンジェリークにはこの次いつ会えるのかわからなかったが、オスカーはもう焦慮を感じてはいなかった。

そして、この夜からオスカーがアンジェリークと出会うまでに、更に1ヶ月を要した。

 

今回の乾季は例年より長く続いたようにオスカーには感じられた。が、そろそろこの長い乾季も終わりが近づいてきたようだった。

灼熱の太陽の恵みに森も野も飽いてきて、世界が雨を欲し始める頃だ。

おりしも風神ヴァーユたちの運ぶ風がじっとりと肌にまとわりつきだした。特に西の方から運ばれてくる風は湿気をはらんで重かった。

その風を感じた時、オスカーは久方ぶりに胸の高鳴りと予感を覚えた。

今夜は…今夜がまだ早ければ、明日の夜なら…もしかしたら…と。

その夜は、ラートリーの美しい衣は雨雲に隠されることなく、案の定アンジェリークには会えなかった。が、その翌日は、夕刻から重苦しい雨雲が全天を覆い始めていた。真夜中になるのをに待ちかねて、オスカーは確信と期待を胸に、あの泉へと急いだ。

思った通りだった…ずっとオスカーが胸に思い描いていた乙女が、泉の岸辺の柔らかな下草に横すわりに座っていた。

今夜も空に雲が重苦しくたれこめ、手を伸ばせば触れそうな低さまで天が近づいていた。

もちろん、月明かりは愚か、空には星のまたたきも皆無だ。

にも関わらず、アンジェリークの姿のある泉の辺は、煌々と照る満月を反射して明るく光る夜の泉より、オスカーにはほんのりと輝いて見えた。

「アンジェリーク!」

オスカーは、今夜は躊躇わずにアンジェリークに声をかけられた。

「オスカー、こんばんは」

アンジェリークはオスカーの姿を認めると、親しげで屈託のない笑みを向けてくれた。

「アンジェリーク…久しぶりだ…変わりはなかったか?随分長いこと、休みがなかったみたいだな」

「ええ、私は元気。オスカーも元気そうね」

「わかるのか?」

「この泉にオスカーの力が溶けて混じっているみたいだったから。ここ暫く、迷いのない真っ直ぐな…力強い火の力を感じていたから…」

「……アンジェリーク、あなたは何でもお見通しみたいだな」

アンジェリークがにっこりと笑った。

「オスカー、今夜のあなたは、真っ直ぐに力強い瞳で私を見つめて言葉を紡ぐ、だから…きっと迷いがなくなったのね、って感じたの。初めて会った時も2度目に会った時も、オスカーは話しながら、時々視線を彷徨わせることがあった…でも、今夜はあなたの瞳に迷いがない」

「!…ああ、あなたの言うとおりだ…アンジェリーク、俺は…漸く力を全て出し切れるようになったんだ」

「おめでとう、オスカー」

「でも、それができるようになったのは…つい最近のことだ。ここでなら周りに気兼ねせずに力が解放できるのに、俺は、中々それが上手くできなかったんだ…」

「でも、今は、できるようになったのでしょ?」

「それだけしかできていないんだぜ?まだ…」

「それはとても大切なことよ、だって私、感じてたもの…最初、あなたが力を解放しきるのを躊躇っていたこと…あなたの放出する力に迷いがあったこと…オスカーは周りの生き物を傷つけることを恐れていたから…きっと、無意識のうちに力の解放に制動がかかってしまっていたのではなくて?」

「…まったくあなたという人は……ああ、その通りだ…」

「それでも、オスカーはやってみて…できるようになったのでしょ?オスカーは怯まなかった、優しい気持から生じてしまった自分の内なる恐怖や躊躇に立ち向かい、打ち勝った。それは素晴らしいことだわ」

オスカーは一瞬絶句した後、思わずくっくっと笑っていた。

「アンジェリークにかかると、俺はすごい偉業を成し遂げたみたいだ。自分としては、まだ、たったこれだけ…始めの一歩という感じで、口にするのも面映いと思っていたくらいなのにな」

「そんなことない。だって、大切なことだもの。どんな理由であれ怯む気持が僅かでもあると、火の力はすぐに手綱が外れたように、言うことをきかなくなって危ないから…。力の具現を恐れず、躊躇わず扱えるようにならないと、コントロールするのも難しいはずだから…」

「…何故…」

『アンジェリークはそんなに何でも知っているんだ…』と言いかけて、オスカーは言葉を飲み込んだ。

何故だかわからないが、アンジェリークは、火の力の特徴や発現の仕方、扱い方にとても詳しいようだ。

本当に彼女は、どうしてこんなに何もかもお見通しなのだろう、外見はどう見ても火の眷属ではないと思うのに、年齢も俺よりほんの2、3才上にしか見えないのに、何故、これほど火の力の扱いや性質に精通しているのだろう…それが彼女の仕事に関係しているからなのか…

だが、それは何故かと問うても、恐らく彼女は答えない…だろうことを、オスカーは経験上察していた。だから今も思わず口をついて出そうになった問いを飲み込んだのだ。

彼女が答えたくないのか、答えてはいけないことになっているのかはわからないが…彼女の仕事に関して守秘義務があっても不思議ではない…なのに色々問い詰めたら彼女は困るだけだろう。しかも、それを俺はどうしても知らねばならないわけではないのだし、と思ってのことだった。

「ああ、そうなんだ。力を溜め込まずに解放をするようになったら、不思議だが…そして、少しづつだが…力を解放する部位もコントロールできるようになってきたみたいなんだ。まだ完全に狙い通りにはできない。それでも足先からの解放を意識していれば、脚全体から熱が放散されるといった具合で、おおまかでも狙いには近づけるようになってきた。腕が熱くなったり背中が熱くなったりという、見当違いの方向には流れないようになってきたんだ」

「堰き止めて溜まってしまったものは、いつしか淀み濁ってしまうわ。けど、いつも流れているものは清浄で清新だから…それできっと…力の流れ方が滑らかになったのかも」

「そうなのかもしれない…それに流れ方が滑らかなになっただけじゃなく、以前より、火の力自体がすごく素直…というと変だが扱いやすくなったのを感じるんだ。こっちに流れろと願えば、そちらの方向に…まだピンポイントで狙った通りにはいかないが、すくなくともそっちの方には向いてくれる、そんな感じで…」

「それは…きっと…火の力が拗ねるのをやめてくれたのよ」

「拗ねる?火の力が?」

「ええ、だって火の力はオスカーの一部、オスカーそのものでもあるのに、外に出るなって押し込められて、やっかいものみたいに扱われたら、私だったら拗ねて膨れて捻くれてしまうかも…」

「!」

「でも、無理に閉じ込めるのをやめて、自由にさせてくれて、自分を認めてくれて…うん、自分がやっかいものじゃないって思えるようになったら火の力だって素直になれると思うの。それで自分を認めてくれたオスカーの言うことも聞いてくれるようになったんじゃないかしら…」

「…アンジェリークには…かなわないな…」

「私がなに?」

「いや、いいんだ…突拍子もないことを言う…と思ったが…そうだな、アンジェリークの言う通りかもしれない。火の力は俺の内側から生まいづる俺自身の力だ。なのに、扱いあぐねて抑圧するばかりだった俺は、その力を否定していたのも同じだ。そして確かに…俺の意のままにならないこの力を、俺は、困ったものだと思っていた。流れも何も無視して力づくでねじ伏せることしか考えていなかった。そんな風にみなされているものが、素直にしたがってくれるわけがないものな…それに…」

「それに?」

「力を溜めずに解放するようになって、周りを傷つける恐れがなくなり気を張らずにすむようになったら、周りから…俺は変わったと…言われるようになった。どうやら良い感じに変わったらしいんだ」

オスカーは照れくさそうな笑みを浮かべた。アンジェリークも肯定するような笑みを返す。

「すると人の言葉もよく聞こえてくるように…素直に聞けるようになった…頑なに自分の問題を認めず抑圧しても…なかったことにしようとしても、何にもならないということ…自分はここがダメだ、これができないって認める時は勇気がいる。けど率直に認めれば、じゃあ、どうすればいいのか考えられるようになる、ってわかってきた。逆に問題を押さえつけて現状を見ないフリをしていたら、ずっと同じところから動けなくなってしまうことも。以前の俺のように…」

「オスカー…」

「アンジェリーク、ありがとう、あなたに会ったらお礼を言おうとずっと思ってた。俺の話を聞いて、受け入れてくれ、その上で、とても有用な助言をくれた。会ったばかりの俺を…縁もゆかりもない俺を助けてくれた…」

「…そんな…そんなことないわ、オスカー」

「いや、全てあなたのおかげだ、アンジェリーク。俺は、あなたからたくさん大事なことを教えてもらった…」

「それは、全てはあなた自身の力よ。あなたが自分で考え、自分で行動した結果だわ」

「でも俺はその扱い方をわかっていなかった。どう動けばいいのかもわからず、的外れな努力を続けていた、あなたに会って、あなたの言葉に色々と考えさせてもらうまで…あなたに会わなければ、今でも俺は無意味に足掻き、一つ処でもがいていたかもしれない…感謝の言葉はいくら尽くしても足りないくらいだ…だが、どうしても不思議だと思うことがある…」

「何が不思議なの?」

「何故、アンジェリークはこんなに俺に親切にしてくれるんだ…」

「!……それは…それが自然なことに思えたから…私には…」

「自然?…」

「だって…オスカーは?オスカーも、困ってる人がいたら放っておかないのではなくて?義務感とか、そういうものじゃないの、もっと自然な感情で…無意識のもので…気がついたら身体が動いてた、みたいな…えっと…ほら、オスカーも、初めて私と会った時、泉の中にいる私を見て、私が叱られるかもと思って助けようとしてくれたでしょ?それと同じことだと思うの…。私は…その…あなたの苦しんでいる理由がなんとなく察しがついたの…だから、感じたこと、こうするといいかもと思ったことを言ってみただけ…それがいくらかでも参考になって、あなたの役に立てたのなら嬉しいわ…でも、私は本当に大したことはしてないし、そんなに感謝されるには及ばないわ…」

「だが…いや、そうか…」

そういうものかもしれない。いわく言いがたい情動に突き動かされるように、俺は泉に佇むアンジェリークの腕を取っていた。そして、アンジェリークは俺の鬱屈した様子を見て、理屈ではなく、手を差し伸べてくれた…、それでいいのかもしれない。

「そうだな…そういうものかもしれない…が、とにかく俺はあなたに感謝しているんだ、だから礼は言わせてほしい。ありがとう」

「そんな…どう…いたしまして…」

アンジェリークは静かに笑んでくれたが、気のせいだろうか、アンジェリークのその笑みの中に僅かな哀感?困惑?そんなものが見えた気がして、オスカーは瞳を瞬いた。

「それで、最近オスカーはどんなことをしているの?」

アンジェリークの問いかけは些か唐突に思え、オスカーは虚をつかれた気分で少し慌てて返答した。

「あ、ああ…方向をコントロールする訓練はもちろんのこと、最近は力を一度遮断してから解放したり、そんな練習もしている。量も、方向性も、あらゆる面で火の力を自分の意思で制御できるようになりたいから…」

言葉を紡ぎながらオスカーはアンジェリークの顔をまじまじと見つめた。今、アンジェリークの表情に何ら屈託らしいものは見受けられなかった。オスカーは、彼女の顔に落ちる夜の翳りを、彼女自身の憂いと見間違えたのだと思った。

「すごいわ、オスカー」

「いや、まだ始めたばかりで、思うようにはいかないが…だが、俺はまだ色々と学ばねばならない身だとわかっているから、無闇に焦ってはいない」

「大丈夫、オスカーなら。あなたは揺ぎ無い心の持ち主だから…こうしようときめたことは、きっと成し遂げられる」

「そうだといいんだが…」

「今は身体も楽になった?」

「ああ、力を無理に抑えようとせず解放するようになったら、嘘みたいに楽になった」

「そう、よかったわ」

「これもあなたのおかげだ、アンジェリーク。これは否定させないぜ?」

オスカーは少しだけ得意げにアンジェリークを見つめた。すると碧緑の瞳が同じように自分を見つめ返しており、オスカーは突然息苦しさを感じて、黙り込んだ。ぬけるように白い肌の小作りなかんばせを金の巻き毛がくるくるふんわりと囲んでいる。オスカーは唐突にその巻き毛に触れてみたいと思った。きっと、ふんわりと柔らかで、滑らかに艶やかで…どれほど手に心地よく感じられるだろう…この髪が陽光を弾いて煌めく様はどんなに美しいことだろう。この暗さでははっきりとはわからぬが、日の光の元でなら、彼女の頬はきっとばら色に輝いているはずだ。今は夜の闇に憂いを含んだように見える碧緑の瞳も、昼日中なら萌え出る若葉のように瑞々しい輝きに満ちて見えることだろう。

できることなら、陽光の下で彼女とまみえてみたいと思う。だが、無理やわがままを通す気はなかった。今は、彼女に会えるだけで…彼女がここに来てくれているだけで僥倖なのだと、オスカーは思っていたから。

「また…会ってもらえるか?」

「前も同じことを聞いたわ、オスカー」

「それでも…聞きたいんだ」

『俺はあなたに色々なことを教わっている、気づかせてもらってる。でも、俺は一方的に助けてもらってるだけだ。俺からあなたには何ができるだろう…何もできることがみつからない。だから何故、あなたが俺に会ってくれるのか、よく、わからないんだ。だから『次』が…『今度』があるのかどうかも覚束ない…今の俺には、あなたのために何ができるのかも、わからないから…でも、俺はこれからもあなたに会いたく思う、アンジェリーク。あなたが俺に有用なアドバイスをくれるからじゃない、ただ…ただ、会いたいだけなんだ。でも、俺の方にあなたに会いたい気持があっても、あなたには…その理由があるのか?だから…次があるのか…俺は確かめずにはいられないんだ』

本当は、こう口にしてしまいたかった。だが、これは甘えであり、アンジェリークの優しさに付けこむ行為だとオスカーは思った。こんな風にいえば優しいアンジェリークに心にもないお世辞を言わせるかもしれないし、何も言われなければいわれないで、お世辞など望んでいないのに愚かにも自分は傷つきそうな気もしたからだった。

「お休みの前の晩には、私、ここに来るわ…」

「こんな…今にも雨の降りそうな夜に…だろう?」

「……」

「何も言わなくていい、あなたを困らせる気はないんだ。ただ、あなたの仕事は天候が関係しているのだろうと俺が勝手に思っているだけで…ずっと晴天が続いてたから、仕事も休みがなくて、大変だったのではないかと思うんだ、なのに…貴重な休みに、ここに来ることが負担になってやしないかと申し訳なくも思う…だから…俺は、あなたがこれからもここに来てくれるのか…どうしても気になってしまうんだ…」

「私は来たくてここに来てるわ、だから、心配しないで、オスカー」

「そうか…」

「最初は本当に偶然…いえ、必然かしら…気づいたら、私はここにきていた…でも2度目からは自分の意思で…来たくてこの泉に来ているわ」

「そう言ってもらえると…助かる」

「私のいうこと、信じてない?」

「そんなことはない。ただ、俺があなたに会いたい気持の方がきっと強い…そう思うだけだ」

「オスカー…」

「だって、俺はできたら昼間のあなたに会えたらとも思う…それがダメなら、せめて月明かりで明るい夜にあなたに会えたら…その髪の輝く色を、夜明けの空のような美しい瞳を、もっとはっきり見たいと思っているのだから…でも、それが無理なこともわかってるつもりだ。その理由も聞く気はない。ただ、こうして…今夜のようにたまに会って、話ができるなら…そうしてもらえたら、俺は嬉しい…大事なのはそれだけだから…」

「オスカー…私、これからも、この泉にくるわ…」

「そうか…ありがとう、アンジェリーク。あなたの優しさに感謝する…」

そういうとオスカーは立ち上がった。本音を言えば、自分から立ち去りたくはなかった。まだ、雨が降り出すまで間がありそうだったし、深夜ではあったがオスカーは疲れてもいないし、眠気も感じておらず、可能な限り長い時間…何も話すことがなくてもいい…もっと彼女と一緒にいたいと思った。でも、それは、俺の勝手な思いだということがオスカーにはわかっている。しかも、自分が先に帰るまで、彼女は、ここから立ち去ろうとしないであろうことも。俺が立ち去らねば、彼女は休めない。彼女には久方ぶりの休日のはずだから、ゆっくり休んでもらいたかった。

「今夜は…そろそろ引き上げようかと思う…」

「そう…」

「明日…ゆっくりと休めるといいな」

「…ありがとう、オスカー。私のことを気遣ってくれて…」

「…それじゃ、おやすみ、アンジェリーク、今夜…会えて嬉しかった…」

「ええ、オスカー、私もよ、おやすみなさい…」

さらりと極自然な口調だった。が、オスカーは思わず、立ち去ろうとした歩みを止めてしまった。

『本当か?』とアンジェリークに尋ねたかった、尋ねられなかった。

信じられないほどの歓喜が胸中にわきあがると同時に、自分の足元が危うく感じられるほどの動揺に見舞われた。

ただの社交辞令だ、真に受けるな、彼女は優しいから…何の気なしの言葉なのだ、きっと…。

彼女の言葉は真情をそのまま表出したものだと信じるにたる理由がオスカーにはなかった。それでも『会えて嬉しかった』という自分の言葉に『私も』という言葉をアンジェリークが返してくれたことが…それが気休めでも慰めでもオスカーには何より嬉しく感じられた。

どうにも名残惜しく、後ろ髪を引かれるように、去り際、オスカーはちらりと泉の方に視線を投げた。ほのぐらい泉のほとりで、アンジェリークは振り向いたオスカーに気づいたのか手を振ってくれた。オスカーは胸の奥に熱いものがこみ上げてくる感触に息苦しさを覚えながら帰路についた。

宿舎に戻り、足を清めてから静かに床に就いた。瞳は閉じてみたものの、瞼の裏にアンジェリークのなよやかな姿、愛らしい顔立ちばかりが浮かびあがる。

胸はどきどきと鼓動が他人に聞こえるのではと思うほど高鳴っており、気持がそわそわふわふわとしてどうにも落ち着かない。意識の一部はぼーっとしているのに、気持が妙に昂ぶってまったく眠れない。

アンジェリークと会った後は…いつもこうだ。この前もこんな風だった…気持が昂ぶって中々眠れず、翌朝は寝不足のせいか、すっきり目覚められない…それがわかっていても、今夜は、今までにも増して気分が落ち着かず、どうにも眠れなかった。

アンジェリークはもう就寝したのだろうか。ゆっくり休めているだろうか。忙しい身であろうに彼女は時間を割いて俺の話を聞いてくれている。俺にも何か彼女のためにできることがあればいいのに…せめて、少しでもゆっくり休んでもらいたいと思って、やせ我慢をして自ら暇乞いを告げてはみたが…その甲斐が少しでもあるといいんだが…

とりとめないことを考えるうちに、雨垂れの音が聞こえてきた。

『ああ、やはり…降ってきたか…』

雨音は徐々に激しくなっていくようだ。リズミカルな雨滴の音に誘われるうちに、オスカーはうつらうつらと浅い眠りに落ちた。

明るい陽光の許、アンジェリークが自分に笑いかけていた。金の髪は風に踊りキラキラと陽光を弾いている。その髪の輝き以上に彼女の笑顔がオスカーには眩しく感じられる。彼女が自分に向ける瞳は、想像していた以上に深く澄みきった翠緑の色で、どんな宝石より、どんなに澄み切った空の色よりも美しかった。オスカーは飽かず、その美しさに見惚れ、見惚れながら

『ああ、これは夢だ…』

と、どこかで考えている自分がいることに気づいた。が、すぐに夢でもいいと思いなおした。陽光と戯れる彼女とは夢でしか会えないのだから…と、貪るようにアンジェリークの姿を見つめた。

笑顔に誘われるように、オスカーはアンジェリークの方に腕を伸ばした。その金の髪を一房、手に取らせてもらい、そっと唇で触れてみたかった。

軽やかな巻き毛を掌に取る。しっとりと柔らかなその一房に口付けようとした。

すると、アンジェリークが、何故だろう、何か言いたげな、憂いを含んだ瞳で自分をみつめて来、次の瞬間、彼女は無数の光の粒子となって飛び散るようにオスカーの眼前から消えてしまった。

「ぅおっ…」

オスカーは押し殺した叫びを上げ、寝床から飛び起きた。眠りに就く前とは全く違う意味で、心臓が酷く煩い鼓動を打ち鳴らしており、息苦しくてならなかった。全身に冷たい汗をかいていた。

思わず自分の掌を見つめる。当然、そこにはアンジェリークの金の髪など姿形もなかったが、オスカーには彼女の艶やかな髪の感触が、いまだその掌に残っているかのように思えた。

が、それ以上に、オスカーは自分が触れようとした途端、空気に溶け込むように消えてしまったアンジェリークのことを思い出すと、たまらなく不安で気持が落ち着かなくなった。心臓を冷たい手で掴まれるような嫌な感触が残っていた。彼女がもし、消えてしまったら…もう、2度と会えなくなったらと思うと、夢だとわかっているのに、恐ろしくて辛くてたまらなかった。

「アンジェリーク…」

オスカーは、はっきりと自覚した。

たった3回会っただけの…夜、短い時間に言葉を交わしただけのうら若き乙女に…ふんわりと愛らしく、包み込むように優しく、なのに時にどこか儚げで寂しげな表情を見せるアンジェリークに、俺は強く惹かれ…いや、既に心を奪われているのだと。

なのに…何故、俺はこんな夢を見たんだ?彼女に触れたいと切望しているのに、触れることを恐れるような…矛盾した夢を…

彼女は…年上で、既に何かの神職に就いている…大人の女性だと思っているからか?確かに俺はまだ子供で…今は彼女に釣り合う存在ではないから…俺の心は無意識に彼女への想いに制動をかけようとしているのか…それでこんな夢を見たのだろうか…。

是非もないとオスカーは思った。

実際、自分は年下で、学業途上の身の上だ。彼女への好意を自覚しても、彼女にこの気持を打ち明けることなど、今は考えられなかった。自分は、よくて彼女にとって弟のようなものであるとわかりきっていた。

だが、だからと言って、オスカーは諦める気も自棄になる気もなかった。つい、この前、学んだばかりだ。未熟であるなら、その自覚を持ち精進すればいい。彼女に愛を告げるに相応しい男になるよう、自ら努力すればいいだけのことだと。

屋外では、雨が一層激しくなっているようで、雨滴がひっきりなしに宿舎の屋根を、窓を叩く音がしていた。重苦しい雨雲のせいか、外は薄暗く既に夜明けは訪れているのか…もっとも太陽神も今日は休業だろうから、本来の意味での夜明けは今日はないはずだが…オスカーにはわからなかったが、周囲は風雨の音が聞こえるばかりで、人が起きだす刻限には、まだ早いのだろうと思われた。

体中に染み入るような雨垂れの音を聞くともなしに聞きながら、オスカーは、アンジェリークが今日一日、ゆっくりと身体を休められるようにと願いながら、自分自身は寝床からおきだし、手早く身支度を整えた。

どうせ、もう眠れはしないだろう、ならば、朝餉の合図があるまで書庫で、書物を見ようと思った。彼女に相応しい男になるなら…それなりの地位の神族の一員に叙されるためには、精神力や身体を鍛えるだけでは足りない、俺には勉強しなければならないことはいくらでもあるのだから…と、考えてのことだった。

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