百神の王 4

オスカーの推測は概ね当たっているようだった。そう思える日々が続いていた。

雨の多い季節に入ると、アンジェリークに、今までより頻繁に会えるようになったからだ。

もちろん、ずっと雨が降り続く夜には、オスカーも泉を訪ねはしない。常識的に考えて、たとえ火の眷属ほど水との相性が悪くない…例えば風や光の眷族であっても、うら若い女性がわざわざ雨の中をついて、人里はなれた泉に足を向けるはずがないことは自明と思えたからだ。

が、雨季といえど合間合間にほんの半日くらい雨があがる夜があった。翌日もまた雨だということは確実な、でも、小休止のように雨のあがった夜、逸る心を抑えて、濡れた草葉を踏みしめ泉に赴くと、オスカーはアンジェリークに会えることが多かった。どんよりとした曇り空でも彼女に会えない夜もあったが、それは数としてはわずかなものだった。そして、彼女に会えなかった翌日は、雨季の中休みとでもいうのか、晴れ間の覗く日となったので、アンジェリークの職務は天候に左右される、そして雨天の日は休みになるのだという確信をオスカーは更に強めた。もっとも、アンジェリークがどんな仕事に就いているのかは相変わらずわからなかったし、オスカーもそれを聞こうとはしなかったが。

だが、とにかく、アンジェリークを知ってからというもの、オスカーにとって雨季は心躍る季節となった。

以前のオスカーにとって、雨季は屋内に閉じ込められっぱなしで身体がすっきりしないという以上に、空気に充満する湿気のせいで火の眷属にはどうにも覇気のあがらない、精神的にも鬱屈する季節だったのだが、雨が降るからこそアンジェリークの仕事は休みになると思うと、そして、たまにとはいえ雨のあがる夜にはアンジェリークに会えると思うと、鬱陶しい雨季が、オスカーにはありがたいものに思えるようになった。

だが、アンジェリークへの恋慕の情を自覚したものの、オスカーは表面的にはアンジェリークへの接し方を変えることはなかった。

アンジェリークと会う、挨拶をかわす、肩を寄せ合うほど近くはなく、だが、手を伸ばせば触れることもできる程の距離に並んで腰掛ける…といっても、実際に彼女に触れることは決してなかったが。オスカーは彼女に触れてもいいとしたら、それは、自分が彼女と少しでも対等な存在に近づいてー具体的にはきちんとした役職を任じられた大人になってー彼女に愛を告げ、請うた愛に応えてもらった時だけだと決めていたからだ。

泉の辺に並んで腰掛けると、大概はアンジェリークの方からオスカーに、会わずにいた間、どう過ごしていたのか尋ねてくる。だからオスカーはその間に起きた出来事を請われるままに話す。意識して面白おかしく友人との遊びを語ったり、今日はこんなことをした、あんなことができるようになった、と教官から学んだことや、自分なりの鍛錬で身につけたことを生真面目に報告することもあった。雨季に入ってからはほぼ10日から二週に1度の頻度で会えるようになっていたので、話の内容も砕けたものが多くなっていった。

とにかく、アンジェリークは、いつ会っても、オスカーの話をどれも興味深い様子で、関心を持って聞いてくれた。だからオスカーは、せっかく会いにきてくれるアンジェリークを少しでも楽しませたい、せめて自分との会話を楽しんでもらいたいと思ったこと、また、自分の身におきた変化や会得した技術をわかりやすく、要点を押さえて伝えようと意図したことが、本人も自覚せぬうちに話術のコツのようなものを体得するいい訓練となっていた。伝えたいことをわかりやすく簡潔にまとめ、かつ、聞き手を飽きさせないようメリハリをつけて話をする、そんなことが自然と上達していった。

一方アンジェリークは、たまさかオスカーが自身に課している鍛錬の方法や、その上達ぶりに疑問や迷いを示した時は、いつも、的確に要点を掴んだアドバイスをくれたり、自分では気づかなかった視点でのものの見方を提示してくれたりして、オスカーの迷いの本質を照らし出し、解決に至るいくつかの道筋を浮かび上がらせてくれた。もっとも、アンジェリークが積極的に「ああしろ」とか「こうしたほうがいい」とオスカーに指示を下すことや、そう仄めかすような言葉を発したことは1度もなかった。アンジェリークの発する何気ない風の言葉に、オスカー自身が思考を刺激され、自ら答えを導き出すことが多かった。そしてオスカーは、アンジェリークはその聡明さと優しさゆえに、自分に考えさせ自ら答えを出させるよう、それとなく、方向付けをしてくれているのではないかと、気づいていた。ただ、アンジェリークはいつでもオスカーからの話を熱心に聞き、親身になってアドヴァイスをくれたが、会う回数が増えても自分のことをほとんど話そうとはしなかった。

正直、オスカーは自分のことばかり話したいわけではない、むしろ、アンジェリークへの好意を自覚してからというもの、前にもまして、アンジェリークの話を色々聞きたいし、彼女のことを知りたいと思って、かなりもどかしい思いを感じていた。彼女が俺に何でも話してくれたら…と切に願ってやまなかったし、もっと近しくなりたいし、打ち解けたいと思っていた。

が、昼はどんな風に過ごしているかを話題の俎上にのせれば、どうしても彼女の仕事への言及も避けられなくなるだろう。休みの日に何をしているかを尋ねたくても同様だった。オスカーはアンジェリークを困らせたくないので彼女が話してもよいと思うこと以外、自分からは何も尋ねる気はなかったが、それでも会話の流れで彼女に、昼間はどのように過ごしているのかと話が向かうことがある。すると、アンジェリークは言葉を捜す素振りを見せながらも

「う…ん…その…何て言えばいいのか、わからないの、オスカー、ごめんなさい。昼の私がどこで、どう過ごしているかは…なんていえばいいのか説明しづらいの…説明するのに、いい言葉がみつからないの…」

と、心の底から困り果てたような表情をして、諦めたように黙しまう。オスカーは、そんなアンジェリークの困惑した様子を見ると胸が痛む。やはり彼女は仕事に関しては話せない事情、もしくは話したくない事情があるとしか思えなかったし、そう思わなければこの口の重さはどうにも理解できなかった。

でも、もしかしたら、年若く実務経験もない自分が頼りないから彼女は彼女自身のことを何も話してくれない、もしくは話しても自分には理解できないと思っているから何も言おうとしないのかと、ふと思ってしまい、寂しい気持になる時があるのも否めなかった。オスカーは彼女を困らせたいわけではない。なのに、彼女を困らせてしまったと思うとそれも心苦しいし、彼女が何も言ってくれないのは、自分を頼みとはしていないからだと思うとどうしようもなく寂しくなってしまう。オスカーもそんな時は流石に暫し黙り込んでしまう。そして、きまずい沈黙が暫時流れると決まって彼女は、何故か、申し訳なさそうにこう付け加えるのだ。

「ごめんなさい、オスカー。私、はっきりしなくて…本当にごめんなさい」

「あなたが謝ることはない」

「いいえ、それでなくても、ここ暫く、オスカーはすっきりと目覚められない日が続いているでしょう?気分があまり優れない日が多いでしょうに、それでも、オスカーは色々楽しいお話も聞かせてくれようとしてるのに…なのに、私は上手く自分のことが説明できなくて、申し訳なくて…せめて、爽やかな目覚めだけでも届けられればいいのだけど…」

「いや、俺は気分を害してなどいない、俺の方こそ、アンジェリークを困らせるつもりはないんだ、だから、あなたもそんな顔をしないでくれ…こうして会えて、話ができれば俺は嬉しいし…」

と、こんな感じで沈黙に終止符が打たれることが多かった。しかし、気まずい思いをするのは、少ないに越したことはないので、オスカーは、段々とアンジェリークの立場や事情を話してもらうことを、諦める心境になりつつあった。

それにしてもオスカーが不思議に思うのは、雨季の間、火の眷属は老いも若きも概して体調が優れないのが普通なのに、それをアンジェリークが申し訳なく感じているらしいことだった。朝から雨の日は、湿気に力を奪われ、足腰が萎えて起きてこられない火の眷属もいる程なので、火の学び舎自体休講である。オスカーは鍛錬が不足する分、自分を叱咤して無理にでも身体を動かし、資料室や学習室で書物を漁ったりもしていたが、それも、アンジェリークと、1人の人間として早く肩を並べたいという熱意…さもないと自分の気持をいつまでも打ち明けられない、今、打ち明けても子供の戯言として本気にとってもらえないだろうから…早く1人前になりたいという熱意あってこそで、この強いモチベーションがなかったら、やはり、自分も雨季の間は心身ともに覇気が生じず、宿舎でへばっていたかもしれないとは思った、が、雨季にはすっきりした目覚めは望むべくもないことは当然なので、それをアンジェリークが申し訳ながる理由がオスカーにはどうにもわからない。

それ以上に、貴重な休日を費やしてアンジェリークがこの泉に来てくれ、オスカーの話をいつも興味深けに、関心をもって聞いてくれることが、有難くも、もっと不思議でならないことだった。そして、オスカーにとっては、アンジェリークに会え、話ができることは純粋に嬉しいことだったから、尚更に、アンジェリークが困ることはすまい、自分からは何も聞くまいという思いは強くなっていくばかりだった。こんなに頻繁に会えるのは雨季の間だけだろうとも思っていたので、この希少な機会を気まずい話題で台無しにしたり、気の進まない会話でふいにしたくもなかった。数少ない機会、限られた時間にしか会えないのだからこそ時間は有効に使いたかった。同じ限られた時間なら、彼女の事情を詮索してきまずい思いをするより、言葉によらぬ好意を伝えることに使う方がずっといい、とオスカーには思えた。会って、笑みをかわし、他愛無い会話もすれば、時折真面目な相談もする、そんな風に過ごすだけでも、時間は瞬く間に過ぎたし、オスカーはそれだけで幸福だった。

そう間をおかずに会えるという安心感から、別れの挨拶を交わす時は、もちろん、胸の痛くなる愛惜の情に苛まれはするものの、以前ほどの苦痛を感じずにすむようにもなっていた。

そんな、穏やかな日々が3月ほど続き、雨季も終わりが近づいてきていた夜のことだった。ここ数日、雨の降る時間が短くなってきており、それに比例して、晴れ間も増えてきていた。オスカーは、雨季の終わりをこんなにも恨めしく寂しく思ったことはなかった。

乾季がやってきたら、また、しばらくアンジェリークに会えなくなるかもしれない…

その寂寥が、オスカーに、少しだけ思い切った行動を取らせた。

雨季に開く、なおかつ夜になっても花弁を閉じない花はそう多くないのだが、雨の合間に野に出て花を探し出して積み、それを小さな花束にした。

自分に優しくしてくれるアンジェリークに、言葉で謝意を告げるだけでは物足りなかった。何をしたら、彼女は喜んでくれるだろう…と考えた時に、雨続きで明るい日差しが乏しい季節だからこそ、色鮮やかな花々を見たら、彼女も嬉しいだろうか…と考えた。何より、彼女に花は大層似合うだろうと思った。

それでも、小さな花束を

「この花、あなたに似合うと思って…」

と差し出した時は、オスカーは自分が掌に汗をかいているのに気づいたし、そのくせ指先はとても冷たくなってしまっていた。

が、アンジェリークは、とても嬉しそうににっこりと微笑んで花を受け取ってくれ、大事そうに胸にかき抱いてくれた。オスカーは、漸く呼吸を思い出した気分だった。

「ありがとう、オスカー。雨の時期にも、お花、ちゃんと咲いているのね…とってもかわいい…」

ありふれた野の花だろうに、とオスカーは思い面映かった。

「俺も…雨季にはあまり外に出ないから、どんな花が咲くのかも知らなかった。でも、アンジェリークにも珍しい花なら、よかった。ありふれた野の花では、喜んでもらえないかと、少し、心配だった…」

すると、アンジェリークが、彼女にしては強い口調で反駁した。

「そんなことないわ、オスカー、私も…雨季にはあまり外に出ないから…でも、ちゃんとお花が咲いているって…こんなに一生懸命咲いてるってわかって嬉しい…オスカーのおかげよ、ありがとう」

「いや、花が咲くのは俺のおかげじゃない…きっと、雨の合間に太陽神が顔を覗かせる時を逃さぬよう、目覚めの女神が、花を開かせてあげてるんだろう…僅かな陽光を逃さず、今のうちに光を浴びて花開きなさいと…」

すると、アンジェリークは一瞬当惑しつつ、はにかんだように微笑み

「ええ、きっと…そうね」

と静かに答えた。そして

「本当にこのお花、かわいい、とっても嬉しいわ」

といって、心から嬉しそうにその小さなブーケを髪に挿した。小さな花々ばかりではあったが、色とりどりの花弁はアンジェリークの明るい髪によく栄えた。恐らく当の彼女以上に喜ばしく思いながら、オスカーはそのたおやかな姿を見つめたが、同時に、このアンジェリークの姿を明るい陽の下では見られないことを、残念に思わずにはいられなかった。

だが、その残念に思う気持をアンジェリークに気づかれたくなくて

「アンジェリーク、最近、俺は、ほぼ、自分の考えた場所、ここから出したいと願った処から火の力を放出できるようになってきたようなんだ」

と、オスカーは、さりげなさを装って、こんな話を出した。

「すごいわ、オスカー、最初会った時は、まだ、力の完全な解放も難しかったのに…」

「ああ、力を加減しながら放出するのは、まだまだなんだがな…量の放出は完全に開放し切るか、溜めおくかのオールORナッシングしか、まだ、できないんだが…」

「でも、力を発現する場所のコントロールは、もう、ほぼ、完璧だなんて、やっぱり、すごい上達ぶりだわ、オスカー」

「いや…」

と、照れ笑を浮かべそうになったとき、オスカーは、ふいに、自分の内部で火の力が急激に強まり内圧を高めつつあることに気づいた。

アンジェリークに無事、花を渡せ、喜んでもらえて安心したからか、それまで息も詰るほど緊張していた反動か…

雨季には火の眷属は体調が優れないことと比例して、火の力もその勢いを弱めてはいるが、当然消失しているわけではないから、力がたまること自体はおかしくはない。それに加え、雨が続く間はオスカー自身も泉に来られる回数が減っていたので、暫く火の力を完全に解放する機会が少なかったことも、今、急激に火の力が強まった遠因かもしれなかった。

今、暫くは、この火の力、溜め置けるとは思うが、いつ放出したものか…と、オスカーが内心、どうしたものかと逡巡していると、アンジェリークがオスカーの顔を急にじっと見つめてきたので、オスカーはどぎまぎした。しばらくオスカーの顔を見つめた後、アンジェリークは唐突に

「ね、オスカー、なら、今、火の力を泉の中に放出してみて、私、是非見てみたいの、ね、見せてくれる?」

とねだってきた。

オスカーは最初、驚いて断ろうとした。アンジェリークの眼前で火の力の調節をするのが妙に気恥ずかしかったし、万が一、自分が火の力を制御仕切れない時が危ぶまれたからだ。

が、アンジェリークは、どうしても、今、火の力を解放してみせてくれと言い張った。私のことは心配いらないし、オスカーが上手くできないはずがないからと。

オスカーは仕方なく…火の力を今のうちに放出した方がいいのは確かだったので…アンジェリークに少し泉の辺から離れてくれるよう頼んだが…万が一、火の力を無軌道に放散してしまった時を用心してのことだったが、アンジェリークはほんの1、2歩、泉の辺から離れただけで、これで大丈夫と言って頷いた。

「もし少しでも熱さを感じたら、すぐに泉の傍から離れてくれよ?」

アンジェリークが自分に信頼を寄せてくれるのは嬉しかったし、この頃は、意図しない箇所から力が暴走することは、まず、なかったが、用心するにこしたことはないと思い、アンジェリークに注意を促した。

「では…いくぜ」

オスカーは、最初、いつものように脚部から火の力を放出しようとしたが、直前で、それを思いとどまり、右手を二の腕まで泉の中に浸し、掌に意識を集中した。きちんと放出部位をコントロールできるようになったことを、どうせなら、アンジェリークに見せたい、知ってもらいたいという気持が、ふと、心にさしこんだからだった。

火の力が肩から指先へと流れ込んでいく気脈のようなものを感じる。それにつれ、二の腕から先が熱を帯びていくのもわかり、一瞬の膨満感と焼けるような熱さを肘から下に感じた時には、もう、火の力は泉の水に溶け出していた。オスカーの腕を中心に1つの水環が生じ、岸辺にたどり着いて弾けたそれは、泉の水と混じりあって中和された火の力を中空に四散させた。

力を上手く腕から解放でき、ほっと安堵の吐息をついていると、アンジェリークは、ぱむぱむとかわいく手を叩いた。

「すごいわ、オスカー、もう、思い通りに力を放出できてるじゃない!それに…ほら…」

アンジェリークは暗い夜空を仰ぎながら、己の掌を開いて中空へと差し出した。

「あなたの火の力が、泉の水を仲立ちにして、空気の中に溶けて混じっていったのがわかるわ…あなたの力は肌の上ではじけて私を包み込んでくれるみたい…暖かい…」

「アンジェリーク…熱くはないか?」

オスカーは子供じみた自己顕示欲からの行為を、アンジェリークに手放しに褒められてしまった照れくささを隠すように、ざぶざぶと泉の水を脚でかき分けながら岸にあがった。そして、アンジェリークの傍らで跪き、心配そうに、彼女の身を守るように、その上にかがみこんだ。

「平気、オスカーの力は、強いけど、とても優しくて暖かい…私を包み込むようで…まるで空の…」

アンジェリークはしみじみとかみ締めるように呟き、そして改めて真っ直ぐに優しい瞳をオスカーに向けた。

「オスカーは、こんなに短い期間にここまで力をコントールできるようになったのね、オスカーなら、これから、きっともっと精密なコントロールだって、自在にできるようになるわ…例えば…掌…ううん、指先にだって力を集約できるだろうし、逆に身体全体に満遍なく力を散らすこともできるようになるわ…」

「そうだろうか…」

手放しで褒めらっぱなしで照れくささにこそばゆい思いを禁じえなかったオスカーは、ここで、はっと、あることに気づいた。

アンジェリークは、何故、急に火の力の放出を見せてくれと強く言い張ったんだ?

もしや…まさか…俺の身中で火の力が急に強まったことを、何故か…感じ取ったのか?…

そして、雨季の間はあまり外出できない自分に…実際、今も火の力が溜まっていたのに、明日からまた雨が続けば暫くここには来れず、力を放出する機会を逸していたかもしれない…だから、アンジェリークは、俺に、この少ない機会を逃さず力を放出・制御する練習をさせようとしたのではないか。

それだけじゃない…今まで俺はいつも夜、1人で集中して火の力を解放・制御していたが、人目があるからと集中を欠き意識が反らされるようでは、溜まった力を、少しづつ制御しながら放出することなど…いつまでたっても夢のまた夢ではないか。

ましてや、人がいては集中できないのでは、職務や儀式で火の力を操れるようになることも不可能になってしまう。火の神殿での儀式は常に大勢の火仙・火神たちとともに行うのだから、1人でないと集中できず、力の制御が心もとなくなってしまうようでは、火神群の一人になることなど到底覚束ない。周囲に人がいる時でも…いや、人がいる時こそ意識を集中して無理・無駄なく力を制御する修練がこれからは必要になってくる…

そこまで考えて?それを俺に気付かせようとしたのか?アンジェリークは…

オスカーは真剣な瞳でアンジェリークをじっと見据えた。

「アンジェリーク、あなたは…何もかもわかっていて…今、俺に…」

「?」

アンジェリークは無意識なのか、故意なのかわからぬが、オスカーの言葉の意味がわからぬような顔をしていた。オスカーは半ば諦めの吐息をついた。

「アンジェリーク、あなたがいてくれれば、俺は何でもできそうな気がする」

アンジェリークは静かに頭を振った。

「私は何もしてないわ、オスカーは自分が元々もっている力を自分の努力で磨いているだけ」

「いいんだ、俺にはそう思えるんだから…もうすぐ…あと少ししたら雨季も終わるな」

「ええ…」

「あなたは、暫く…また忙しくなるんだろうな…」

「ええ…」

「その間、俺も頑張る。更に多くを学び、修練を積む、次の雨季が来るまで…。だから…次に会えたら、その間の成果をアンジェリークに見てほしい」

「私でよければ…喜んで…」

「ありがとう、アンジェリーク。俺にいつも付き合ってくれて…」

「いいえ、オスカー、私もあなたに会えるのが楽しみなの…あなたのお話を聞かせてもらえるのが楽しいの」

オスカーは一瞬、秀麗な眉をあげてから優しさと感謝の気持に満ちた笑みをアンジェリークに投げかけた。

「アンジェリークは優しいな…」

すると、アンジェリークはいつになく強めの口調で反駁した。

「本当よ…私、あなたにアンジェリークって呼ばれることが嬉しいの。人は…こんな風に…その人が『何者』であるかに関係なく出会って、知らない人同士は言葉を少しづつ重ねていって、心や気持を重ねていくんだって…私、あなたに会うまで、知らなかったから。それに…揺ぎ無い強い心、眩しいほどの熱意にを持つあなたを見ていると、私もなんだか元気がでるの、いつも、私のことを気遣ってくれるあなたの暖かな優しさに、とても慰められるの…オスカーは、本当に私に優しくしてくれるから…」

「…アンジェリーク…優しいのはあなたの方じゃないか…だから、俺は…」

唐突にオスカーの胸の奥底から、彼女への思慕が爆発するように膨れ上がり、溢れ出しそうになる。

この気持を、今は、アンジェリークに告げられるとは、告げようなどとは夢にも思ってはいない、まだ、俺にはその資格がない、第一、彼女のことを何も知らない俺が、一体何を言えるっていうんだ…

オスカーは、どうにかやっとのことで、胸から噴出し迸りでそうな感情の手綱を引き絞った。

「アンジェリーク、いつか、俺が火神の一人になれたら…」

「オスカーは…きっと、とても立派な火の男神様になるわ、なれると思うわ…」

「その時は…」

「その時は?」

「いや…いいんだ、なんでもない…」

オスカーは小さく吐息をつくと、静かな様子で言葉を打ち切った。仮定の話には意味はない。いつか、俺が本当に火神の1人に任命された時…その時こそ彼女にこの気持を告げよう。ただ、単に俺の想いを知ってもらいたい、伝えることができればそれでいい…そう考えた。

「もう随分と遅くなってしまったようだ…今夜も…1人で大丈夫か?」

「ええ、私のことは心配いらないわ、オスカー」

「そうか…」

できれば送らせてもらいたい、何度、この言葉が口をつきそうになったかわからない。ただ彼女が心配で、別れがたくて…だが、今はそれも叶わぬのであれば、いつか、俺が神の一員に叙されたら…その時なら、俺はあなたを送る栄誉をも、許し授けてもらえるだろうか…

「…いつか、必ず…」

「え?」

「いや、なんでもないんだ…では、おやすみ、アンジェリーク。ゆっくり身体を休めてくれ。雨季が終われば、また、休む間もなくなるのだろう?あなたは…」

「ええ、ありがとう、オスカー、おやすみなさい」

「ああ、また…次の雨催いの夜に…」

「ええ、次の雨催いの夜まで…あなたに良い目覚めが訪れますように…」

オスカーは、アンジェリークが極自然な様子で、次に会う約束をしてくれることを嬉しく思いながら、アンジェリークは暇乞いに風変わりな物言いをするな、と、この時、ふと思った。そういえば彼女はいつも別れ際には、『良い目覚めを』と祈ってくれていたような気がする。夜の別れには「良い夢を…」「良い夜を…」という言葉なら良く聞くが翌朝の「良い目覚め」を祈る言葉は今思うと珍しい。だが、これも雨季の間はすっきり目覚められない火の眷属の体調を慮ってくれてのことだろうと、オスカーはその言葉の意味を深くは考えなかった。

アンジェリークは互いの姿が見えなくなる処まで手を降り、オスカーを見送ってくれた。

今夜もきっと眠れない…力は放出したのに、まだ、こんなにも血は熱く滾り、胸は騒ぐ…オスカーは自分で自分の胸に手を当てながら、この血潮の熱さを彼女に伝える日のことを夢想せずにはおれなかった。

 

オスカーの姿が見えなくなるまで見送ってから、アンジェリークは自ら火の泉に入っていった。

アンジェリークがオスカーに告げた言葉に嘘はなかった。アンジェリークは、オスカーと名乗る火の少年との逢瀬…といっていいのか、彼と会って色々な話を聞くことがとても楽しみだった。自分が知らない世界、経験しようのない昼日中の世界での生活は、どれも興味深かったし、知らぬ間に身についていた己の経験や知識がオスカーの役に立つことがあるのも嬉しかったから。

それに、オスカーは、私が何者であるかを気にしない、いえ、オスカーも私の素性を気にすることはあったけど、それはあくまで私の身を案じ気遣ってのことだった。オスカーは優しいし賢明だから、私が口ごもると事情を察してそれ以上に何も聞かずにいてくれる。なのに、いつも優しく暖かく接してくれて…それがとても嬉しい…とアンジェリークは思っていた。

今夜も…何も知らずに、私が咲かせた花をもってきてくれて…私、お花を開かせても、それを長く眺めていることはできないから、お花をもらって…私が夜明けに開かせたお花が、夜まで咲いているって知ることができて、私がどんなに嬉しかったか、きっと、オスカーは気づいていないでしょうね…

最初に会った時から不思議な少年だと思った。目くらましのかかっているはずのこの火の泉を自力で見つけ出したことは彼の持つ火の力がいかに強いかを物語っていた。しかも、火の泉の価値を直感的に見抜いただけでなく、泉を汚すまじと水に触れることすらせず静観するに留めていたという事実が彼の克己心の強さと精神の高邁さを示していた。だから、アンジェリークも僅かに言葉を交わしただけで、すぐわかったのだ。彼が、強すぎる勢いで湧き上がる、己の内なる力をどう処していいかわからず、戸惑い苦しんでいることに。

なのにオスカーは…アンジェリークは、出会いの夜のことをつぶさに思い出す…自身が懊悩を抱えている身でありながら、そして、火の泉に聖なるものを感じとって泉には触れないようにしていたのに、私を助けようという気持だけで、夢中で泉の中に入ってきてくれた。その優しさ、誠実さに打たれた。彼から、大きな火の力を感じ取ったことも相まって、この子は、将来、絶対大きな力を持つ火神になると…予感した。そして、自分があの夜、姉の導きもなかったのに、この泉に実体化したわけがなんとなくわかった気がした。

多分、私は、無意識のうちに呼ばれたように感じたのだ…彼の持つ強い火の力に。なのに、彼はその強い力を無理にでも押さえつけようとしていた。決して周囲を傷つけまいとする強い意志故に。その困難に、一人、耐え忍ばんとしていた崇高な魂に私は呼ばれたように感じたのだろう。同時に、優しさゆえに自分の力を抑圧して真の意味での覚醒が出来ずにいた彼の苦しみを感じとって、私の女神としての本質が呼応したのか…生き物の目覚めを司る私の女神の力がオスカーの覚醒したくてもできずにいる苦しみを感じ取って、それに応えようとしたのだろうか…。

彼も、やはり、直感的に私を近しいものと感じ取ってくれたようだった…また、会いたいといわれて、私の方こそ、ほっとした。彼が、自分の進むべき道を見失い迷っている姿は見るに忍びなかったから。無意識に私を助けようとしてくれた彼に、私も、お返しができれば…とも思ったし、彼が自身の力を真っ直ぐに伸ばし、過たず迷わず発露することができれば…きっと彼は天界に並ぶものなき神になる、そんな予感があったから。だからこそ、私はこの泉に、彼の力に引きよせられたのだと思ったから。そして、彼は、まるで、それが宿命(さだめ)であるかのように…私の姿をみとめ…私を見なかったふりをして、その場から立ち去ることもできたのに、それどころか、微塵も迷わず私に手をさしのべ、私の腕を取ったのだから…

だから、私は少しだけ、彼が問題点の整理ができるような言葉をかけた…とても曖昧な言葉ばかりで、大して役には立たなかったと思う…若い神の先行きに、その可能性に直接の影響を与えるような言動は与えてはいけないし、それ以上に、彼には、自分で問題を解決する力があると思ったから。そして、本心から、私自身は、今もオスカーを助けたなんて1度も思ったことはない。オスカーは常に自分自身で為すべきことを見出し、進むべき道を正しく選び取ったと思っている。自分との会話が、ちょっとしたヒントになったことくらいはあったかもしれないが、全てはオスカーが自分自身で困難に立ち向かい、自分の頭で考えをめぐらし解決してきたことだと思っている。助言にもなってない曖昧な私の言葉から、彼はとても多くのものを導き出し、力を制御する能力を自分で身につけていった…あの力…熱意…やはり、彼は…オスカーは比類なき火神となるのは間違いないだろうと思う…後は、彼の力が極限まで成長した時、何神の名を襲名するか…私の予感した通りの道に、オスカーは進むのかしら…そして、私は、それを望んでいるのかしら…その時がきたら、彼は私のことをどう思うのかしら…それを考えると、何故だか…少し…怖いけど…。

アンジェリークは泉に身を浸しながら小さな吐息をついた。

自分で、自分の気持ちがよくわからなかった。最初は、オスカーの純粋さ、崇高な魂にただ、胸をうたれる思いだった…自身こそが困難を抱え、苦悩している身で、私を助けようとしてくれた、そんな彼を放っておけない気持になって…彼の力の強さを感じたからこそ尚更に…その力を迷わず伸ばして欲しいとも思った。そして、会って言葉を交わしていく程にオスカーの強靭さと繊細さが表裏一体となった魂から目が離せなくなっていった。オスカーの優しさ、気高い心、賢明さに目を見張るばかりだった。

オスカーは真っ直ぐな心栄えに繊細な魂、何物にも挫けまいとする強靭な精神と共に、周囲を傷つけることを恐れる気高い優しさを併せ持っていた。賢明であるがゆえに驕らない。自負心は強く矜持は高いが傲慢ではなく、客観的に物事を見ようとする冷静さも謙虚さもある。だからこそ己の内に急激に生じた強力な力に飲み込まれることもなく、力の強さに溺れることもなく、己を保っていられたのだろう。二つとなき高邁な魂の持ち主と言えた。

だからこそ、自分が何者か…会う回数を重ねるごとに、アンジェリークは名乗れなくなってしまった。

最初は、オスカーが自分だけの…この世に生を受けた時与えられた名前を名乗ったから…天から命じられた役割の名ではなく、その人自身を表す名を名乗ったから、自分も役職名ではなく、生まれた瞬間にもらった名前…「天の使い・天の娘」という意味を持つ真名を名乗った。それが礼儀だと思ったから。もう、随分と長く神職名でしか呼ばれたことがなかったから、中々思い出せなかったけど…オスカーのおかげで真名を思いだせたことも、嬉しかった。オスカーは自分に丁重でいながら飾らず気さくに接してくれた。私が何者かも知らぬのに、とても優しい思いやりを示してくれたことも嬉しかった。オスカーは私が女神だから優しいのではない、そう思えることが何故かとても嬉しかったのだ。

でも、オスカーの高い能力と強い力、その崇高な魂、高貴な精神を知る程に…自分の立場、担っている役目を…何故だか…言いだしづらくなった。

ただ、昼間、どうしているのかと聞かれると沈黙してしまうのは自分の立場を隠そうとしてのことと言うよりは、真実、返答に困ったからだったが。だって、昼、太陽がこの世界をあまねく照らし出している時間、私はこの世界のどこにでもいるとも言えるし、どこにもいないとも言える…なんて言っても、わかってもらえる?昼間、何をしているのか聞かれたら、何をしているって答えればいいかわからない。昼の私は陽の光に隠されて見えなくなってしまっていることを、どう説明すればいいの?空気の精たちに抱かれている?太陽の強い光に私の姿は隠されてしまって見えなくなっているの、とでも言えばいいの?…元々、私が、この姿を保てるのは、太陽神がその御身をおわします前、夜と昼の狭間の数刻のみのこと…昼間の私は、どんな形でこの世に在るのかと問われたら…意識はあるようでないようで…自分でもよくわからないのだもの…。

でも、それ以上に…私の役割、私の担う職務を、オスカーにどう、告げればいいのかわからなくなった。

オスカーと会うこと、話をすること、結果として、私がオスカーの心を楽にしたのかもしれないこと…全て、本当に…義務感でも使命感からしたことではないの。あなたの持つ資質が、苦悩にもがく魂の呼び声が、私をあの夜、無意識のうちに惹きつけ、呼び寄せたのは事実かもしれないけど…それは私が意図してのものじゃなかったし、最初の出会いから後は、私は自分で意図して、望んでオスカーと会っていた。でも、どうしてオスカーのことが気になって仕方ないのかと自分の心に問うと、私自身が火神に所縁のある女神だから、万物に目覚めを与える女神だから、力の覚醒に苦しんでいたオスカーのことが気になったのか…それとも純粋に1人の人間として彼のことが気になったのか、自分でも、よく、わからないの。できれば、女神の本質に引きずられてのことではないと思いたい、でも、断言はできない…だから、私は妙に不安なんだろうか。自分の気持に自信がないから……そして、自分に自信がないから…だから、揺ぎ無い信念とまさに燃える炎のような自負を持つオスカーが私には眩しく見えるのかしら…

ああ、そうなんだ…

私は不安なのは…オスカーは、私が女神としての名を明かした後、私がこの泉に姿を現した理由や、私がオスカーに会っている理由を女神としての義務や使命感ゆえだったと思わずにいてくれるかどうかわからないから…つまり、それは…私は、オスカーに義務だったと思われるのが嫌ってことなんだわ。

でも、どうして義務と思われるのが嫌なんだろう…

それ以上に…私と火神の縁を知ったら…オスカーはなんと思うだろう…

それも…今となっては…何故か…怖い…

どうして怖いなんて思うのかしら…私の担う役目は、天の聖なる盟約、この宇宙が生まれた時からの決まりごと。父なる天の神・母なる地の神の娘として生を受けた身として、天則だから、当然のこととして、今までは何の疑問を持ったことはなかったのに…

私…オスカーに会ってから、本当に色々考えるようになった…今まで、取り立てて何も考えず自分の義務をはたしていたけど…今までは、疑問に思ったことなど何もなかったけど…オスカーと会って、話して、初めて色々なことを考えるようになった気がするわ…こんなに長いこと、生きてきたのに…ね。

そんなことを考えながら、ゆったりと、水音はほとんど立てずに泉の中ほどまで歩を進めた。泉の水に触れた処から、華奢な身を覆っていたなよやかな衣は見えない手に解かれていくように中空に霞のように消えていた。今はオスカーからもらった花だけが、アンジェリークの裸身を飾る唯一のものだった。月明かりもないぬばたまの闇夜にあって、その裸身はほんのりと自ら光を発しているかのような暖かな美しさに輝いていた。腰まで泉に浸かったところで、アンジェリークは掌を上にして、腕を軽く夜の空に差し伸べた。

「ラートリー、迎えに来て…」

すると、アンジェリークの頭の中に、しっとりと落ち着いた口調の女性の声が響いた。

《あら、あなた、どうして今頃火の泉にいるの?まだ、夜明けまでには、かなり時間があるわよ、禊をするには早すぎるわ…いえ、そもそも、今夜は…夜明けのための火の禊は必要なかったのではなくて?》

「ええ…今夜は禊はいらないのだけど…」

《じゃ、何故、こんな真夜中にこの泉にわざわざ実体化しているの?…そういえば、あんた、最近、禊の要らない夜にもしょっちゅう、この泉に来てたような…》

「ええ、そうかもしれないわね…」

《どうして必要もないのに火の泉に来てるの?毎朝のように、その身を炎に焼きつくされているのに、まだ火の力を浴び足りないの?》

「そんなことないわ……私の役目は…好きとか嫌いとか、そういうのではないし…」

《だって、明日は雨神パルジャニヤ様がお出ましになる日だから、太陽神スーリヤ様はお休み、だから、あんたのお勤めだってお休みでしょ?それなのに、わざわざ火の泉に水浴に来てるのをみたら、よっぽど火の力が恋しいのかしらと思うじゃないの。火の泉での水浴は、あんたが火の位相をその身に帯びるために…スーリヤ様の前に出るために必要な禊なのだから…》

「そう、それが私の勤めよ、ラートリーがこの夜空を司るように、私達姉妹が生を受けた時からの、それは天の盟約…守らねばならない天則…」

《そのお役目をまっとうしているからこそ、あんたは永遠の若さと美しさを保っているんじゃないの、太陽神の花嫁としてその身を灼かれるからこそ、あんたは日々新しく生まれ変わる、そうでしょ?ウシャス。だからあんたは「常に新しきもの」という尊称も、もらっているのでしょう?おかげで、同じ宇宙の始源に生まれた私たちなのに、いつのまにか、人間達は私を天の姉娘、あんたを妹娘と思ってるみたいよ。私は過ぎた年月に相応の成熟した美しさを重ねているけど、あんたは見た目が全然変わらないから…》

「でも、人によっては、私を姉だと思ってる人間もいるみたいだから、結局は同じよ、ラートリー。だって姉妹であることに変わりはないのだし…それは確かに、私は生き物たちに目覚めをもたらす替りに、全ての生き物から一日分の時間をもらうから…だから私の体は毎朝生まれ変わり、肉体が年を経ることはない…でも、これも盟約。私が望んだことでも、きめたことでもないわ…女神の名をもらうと同時に命じられたお勤めも全ては天則…私が望んで選んだことではないわ…」

《あんた、ちょっと、どうしちゃったの?おかしいわよ。スーリヤさまがお休みの時まで禊はいらないんだから、この泉にいつまでもいることないんだし。もう、私の衣の中でお眠りなさいな。スーリヤさまのお出ましになる時には、その前に、ちゃんと、この泉に連れてきてあげるから》

「ありがとう、ラートリー、いえ、ロザリア…」

《まぁ…その名前で呼ばれるのは…何千年ぶりかしら…》

「ねぇ、自分だけの名前で呼ばれるのって嬉しくない?」

《おあいにくさま、私は天のお父様からいただいた女神としての名の方が好きよ、神々しくて美しい響きで、私にぴったりだわ》

「そうね、ラートリーの名はロザリアにぴったりだわ」

《ええ、私たち二人、一緒に生まれたから、どっちがどの女神を拝しても良かったけど、金の髪、翠緑の瞳に生まれたあんたに夜の女神は似合わないもの、あんたは夜明けの女神…生き物たちを目覚めさせる女神がぴったりよ、ウシャス。人間達もよく見ているわ、あんたに捧げられた讃歌ときたら、『水浴からあがったばかりの瑞々しい乙女』『花婿の前に恥じらって立つ初々しい花嫁』『天界一の美姫にして、至高の踊り子』こんなのばっかりですもの》

「ラートリーへの讃歌だって、素晴らしいものばかりじゃないの…あらゆる美と徳を見に付けし気高き夜の女王…」

《当然よ、私たちは天の娘たちですもの、タイプは違えど同じほどに美しいに決まっているじゃないの?さ、もう、お眠りなさい、夜明けが訪れないのに実体化してると消耗するわよ…》

アンジェリークの身体が暗紫色の緞帳のようなものに包まれた。

「あ…まって…花が…」

次の瞬間、アンジェリークの体は無数の光の粒子となって中空に飛び散るように消えていた。泉の面には、可憐な小さな花々がこぼれて散っていた。

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