オスカーがアンジェリークと出会ってから3回の雨季と乾季が過ぎていった。滅多にアンジェリークに会えないが、肌に突き刺さる日差しと厳しい暑さが火の眷属にはむしろ心地よい乾季と、湿気で身体は鬱陶しいが、比較的頻繁にアンジェリークに会える雨季、その中間ともいえる穏やかな気候が、一定の頻度で巡り来ては過ぎていった。昨日と今日は似ているようで、少しずつ色々なことが違っており、明日は昨日より、更に色々なことが変わっていく、そんな時間が、ゆっくりと、だが着実に過ぎていった。
この3年あまりの間に、オスカーの体格は手足ばかりが長く伸びる少年期のそれから、徐々にしっかりとした筋肉がついていき、しなやかな鋼を束ねたような青年期のそれへと替わりつつあった。あわせて上背もかなり伸びていた。並んで腰掛けている時はそれほど意識しないが、泉の辺で立ち上がると、オスカーは屈みこむように下を向かないとアンジェリークの顔が見えなくなっていたし、アンジェリークは思い切り首を上向けないと、オスカーの顔がよく見えないようだった。それくらいオスカーの身体は目覚しく成長していた。
また、アンジェリークに示唆された通り、オスカーは火の力の制御の訓練もこつこつと怠らずに続けていた。身中の火の力を常に意識し、気脈を読み取って流れをコントロールする。目的の部位に力を誘導したら、その全てを一時に出し切らず量を加減する練習や、力の水門を自在に開閉できるよう、それを容易に行えるようになるために、力の放出とその中断を小刻みに繰り返すことで、放出量の感覚を肌で掴んでいった。
そんな練習を繰り返したおかげで、最近では火の力が急激に強まった時は、周囲に人がいる処ででも、さりげなく脚の下部から力を放出したり、友人達と井戸の水をくみ上げ、手足を洗いながら、水を煮え立たせない程度に火の力を放射できるような、緻密なコントロールもできるようになっていた。全身から満遍なく火の力を放出することで放散する熱量を低く抑えたり、逆に掌や指先などの小さな1点に意識を集中して力を全力で放てば、火の力を武器のように使えること…実際には人里に近づきすぎた大型の肉食獣を脅かして追い払うことくらいにしか使う機会はなかったが…も体得した。火の力は溜め方、流し方、放出の仕方が無数にあり、ために色々と応用が利くという事実は、鍛錬を続けるうちに自分で気付いたものもあったし、アンジェリークとのやり取りからインスピレーションをもらって試してみたらできた…というものも多くあった。オスカーは、自分が、次第に大きな力を自在にコントロールできるようになっていくことに、大きな手ごたえとやりがいを感じ、胸を躍らせていた。しかも、火の力は、使えば使うほど更に成長していくようで、絶対量も増していけば、力それ自体も強くなっていくようだった。生じるそばから使われていくことで、火の力の生産性が増し、また、力が淀むことなく常に清新なため夾雑物がなくなっていったようで、オスカーの火の力は文字通り綺麗に澄み切った炎のように、日を追うごとに熱く美しく強力なものになっていくようだった。
昔のままの自分だったら…成長していく火の力を抑圧することしか考えないままでいたら、自分はこの力を扱いあぐねるばかりだったろう、自分の力を自分で否定することで、どこか自分に自信のもてない人間にもなっていたことだろう。無意識に周囲を傷つけるのを恐れるあまり、偏屈で打ち解けない嫌なやつになっていたかもしれない。何より、火の力自体が、ここまで強く大きく成長することもなかっただろうし、制御のスキルも身につけられなかっただろう。それが今では、火の力が増大していくことが俺は純粋に嬉しい。素直に喜べる。これも、アンジェリークが迷うばかりだった俺に、可能性の地平を開いてくれたからだ。今の俺があるのは、アンジェリークのおかげと言って過言ではない、オスカーはそう思っていた。
そして、実際にアンジェリークは、オスカーの火の力の扱いが練達していくことを、いつも変わらず、わがことのように喜び、オスカーの努力を賞賛してくれているのだった。
また、肉体面での成長だけでなく、オスカーの神仙の世界への知識や、自分の力への基本理解は熱心な勉強のおかげで身体の成長以上に顕著に深まっていた。この3年強の年月に、旺盛な知識欲が、オスカーの深い洞察力や思考力を更に深め、強化していた。
オスカーの心は、ありとあらゆる面で、常に上を、前方を、先に進むことを目指していた。アンジェリークと会えば会うほど、話を交わせば交わすほど、オスカーの己を向上させたい、成長したいとういう気持は強くなって行ったからだ。
一方、アンジェリークの方は、この間、オスカーの目には、全く変わった処がないように見受けられた。いや、オスカーの方は身体が成長している分だけ、出あった当初よりアンジェリークのことが更に華奢に見えるようになっているくらいだった。彼女の身体がそう目にみえて成長しないだろうことはオスカーもある程度は予想していたが…女性は、成長期のピークが男性より早く来るから17歳くらいになると皆、身長は一定に定まるものだということは、オスカーも同じ年頃の火の眷属を見て知っていたから、そのこと自体は不思議には思わなかった。
しかし、アンジェリークは背の高さだけでなく、雰囲気も顔立ちも体つきも出会った時の少女のままのように、オスカーには思えた。
出会った頃、アンジェリークは自分より、2、3才上の16、7歳に見えた。3つの雨季と乾季が過ぎ、その過ぎた時間が肉体に刻まれれば、彼女はもう20歳くらい、少女というより淑女という形容が似合いの若い女性になっているはずだ。が、アンジェリークは今も16、7歳、多めに見積もっても18歳より上には決して見えなかった。単に、顔立ちが少女のように見えるというだけでなく、オスカーの目からは、アンジェリークは、出会った頃に比べて変化した部分が全く見受けられなかったし、自分の周囲にいる20歳前後の女性と思い出して見比べてみても、明らかに全体の雰囲気や顔立ちがはっきりと異なる…有体にいって成熟した大人の女性というより、その一歩手前の印象が強かった。
相対的に、今、自分とアンジェリークが並べば、外見はほとんど同年代に見えることだろうと、オスカーには思えた。尤も、オスカーとアンジェリークが一緒にいる処をみかける機会のあるものは、相変わらず夜の真闇と火の泉だけであったが。
そして、アンジェリークは、外観だけなくオスカーに対する様子や態度も、出あった時のままで、ほとんど変化を見せなかった。
会っている時は、いつも穏やかで優しかった。オスカーに相対する時は、ほとんど笑みを絶やさない。そして、語る事柄は相変わらず様々な示唆に富み、舌鋒に鋭い部分は微塵もないのに視点は鋭く視野は広かった。オスカーは、アンジェリークとの会話から、勉強や鍛錬が巧くいかず煮詰まっていた時などに、事態を打開するためのヒントをもらったことが1度や2度ではなかった。
彼女は限りなく聡明で、思慮深かったが、才気煥発に尖った処は微塵もなく、深く静かで穏やかな叡智を湛えた…まさに、火の泉の印象そのままのような女性だった。彼女の見せる知性や、示唆に富む言葉は多くの経験を積み、色々な事物を見知ってきた成熟した大人の女性を思わせた。
なのに、ほっそりとした体躯やしなやかな手足、すんなりとした首筋にふっくらとした胸元といった彼女の外観はどこからどう見ても、自分と同じ年頃の少女のそれとしか見えなかった。
彼女が話の相槌を打つ仕草は可憐で、ころころと弾む笑い声は愛らしかった。たまさか、泉の水を掬い上げる腕の運びは舞うように優雅で…彼女の取る何気ない仕草の一つ一つはどれも優美で麗々しかった。様々な点で、彼女には一見幼く見えるほどの初々しさと、成熟した大人の女性のみが身につけることのできる優美さとが不思議に混交しているように見えた。
長い時間を通じて彼女を傍で見つめ、言葉を交わしてき、その間に、自身も少しは物がわかるようになってきたオスカーには、彼女の美点が、その稀有な輝きが、よりはっきりとわかるようになっていた。
そして確信を強めていくばかりだった。
彼女のような女性は二人といやしない、今まで見たこともないし、恐らく、これからも会うことはないだろうと。
極たまにしか彼女には会えないが…いや、だからこそかもしれないが、オスカーがアンジェリークを掛け替えの無い1人の女性として恋慕し、求める気持も募りゆくばかりだった。
そして、オスカーはこうも思った、アンジェリークは、多分、ずっとこのまま変わることはないのではないかと。
彼女は、既に完璧な存在だから変化しないのだ、きっと。
彼女のたたずまいは、いつまでも初々しく可憐な少女のようだ。瑞々しい肌、ほっそりと華奢な肢体を艶々とした柔らかな金の巻き毛が彩る。ほんのりとした笑顔はあどけなく、無邪気でさえある。が、物腰はしっとりと落ち着いており、その瞳には深い思慮と知性の光が宿っている、こんなにも魅力的で謎めいていて捉え所のない女性は他にいない、と、オスカーは会うたびごとに、彼女の存在そのものに魅惑される思いだった。
だが、柔らかな笑顔の狭間に、時折、彼女がふと垣間見せる憂いのようなものが、オスカーはずっと気にかかってもいた。それにつれ、彼女の担う職責は、当初自分が考えていたものより、もしかしたら大層重いのかもしれないとオスカーは考えるようになってきていた。
アンジェリークを見つめてきたこの月日のうちに、オスカーは一つの仮説…もはや確信に近い仮説を立てていた。
アンジェリークは単なる精でも仙でもなく、女神の一人であるのだと。それならば、彼女の外観が変化しないわけを簡単に説明できる。見た目は少女のまま、恐らく、彼女は、俺よりはるかに長い年月を女神として生きてきたのだ。その経験と見聞の蓄積が、少女の外観にそぐわぬ落ち着いた雰囲気を彼女に与えているのだろう。彼女が驚くほど深い知識と叡智を備えていることもそれなら頷ける。
神々に叙された者は民から供物として捧げられた神酒ソーマを…正しくは凝縮されたソーマのエッセンスをきこしめすことにより、ほぼ不老不死を保つからだ。神となった者にとって、長寿を保つこと…単に長命であるに留まらず、壮健な肉体を保ったまま長寿であることは神の権利というよりは義務であったから。神々は、老齢に体力が衰えては、その身に宿る強大な力を巧く制御し行使できなくなるから、肉体は壮健なままでなければならなかったし、また、寿命が長くなければ、下界の生き物達を広い見地から導くことができないからだ。ソーマの力を借りて不老不死の肉体を保つことは、強大な力を持って生まれた者の権利ではなく、むしろ義務だった。
たゆまぬ鍛錬だけでなく勉学も熱心に修めてきたおかげで、オスカーはこのような神仙の世界に対する知識や洞察も同年齢の少年に比すると随分と深まっており、そのため、尚一層、アンジェリークは女神の1人であるという確信を深めていた。
このオスカーの向上心のスタートも単純といえば単純な動機だった。
アンジェリークに、いつも一方的に話を聞いてもらうばかり、教えを請うばかりでは、嫌だった。なさけないし、もどかしい…彼女と張り合うとか、彼女より優位に立ちたいとか、そんなさもしい気持ではなく、1人の人として、対等な目線でオスカーはアンジェリークと言葉を交わせるようになりたかったのだ。
3年前、少年期の黎明にそんな想いに捉われたことが、オスカーをして勉学にも駆り立てたことは否めない。
自分には、実務の経験はなく、知識も浅いことはわかっていた。それでも能う限り対等に…そう、球技で球をやり取しあうように…どちらかが一方的に球を打ち込まれるだけでは、打ち込まれる方も、打ち込む方も、そのうち厭いてしまうではないか、アンジェリークは優しいし辛抱強いから、一方通行の関係でも厭いてしまうことはないかもしれないが、それでも、互いに同じ力で打ち合えてこそ、人と人とのやり取りは楽しく充実したものになるのではないかとオスカーは思ったし、オスカーは、アンジェリークに自分との逢瀬を…逢瀬と言っていいのかどうかわからないが…少しでも楽しい充実したものと感じてほしかった。アンジェリークと同じ目線で会話をしたり、共感しあったりもしたかった。納得のいかないことは議論をしたっていいとも思った。が、それもこれも、自分の中に、語るべき何か、それを裏打ちする基本的な知識あってのことだと、オスカーは考えた。経験はつめなくても、知識なら、努力次第で広げ、深めることもできる。アンジェリークと少しでも近い目線で物事を見たいという熱意に突き動かされたオスカーは、こうして、知識の吸収に非常にどん欲となった。
勉学を修めていくほどに、少年のオスカーにとって、世界は知っていることより、知らないことの方が圧倒的に多く、知識の世界は、己の火の力と同様汲めども尽きせぬ泉のようだということがわかっていった。学べば学ぶほど、自分がいかに何も知らずに生きていたかを思い知らされ、遠くを見通す程に更なる知識の世界は地平の果てへと広がっていくようだった。
その「己の足らずを知る」事によって、オスカーは年を経るごとに、知識と思索を深めていった。たゆまない勉学の甲斐あって、最近のオスカーは、火の力の性質や扱い方、また、火の世界に限らない神々世界の理(ことわり)といった一般的な話題でなら、アンジェリークと手ごたえのあるやり取りを交わすことが、可能になってきていた。アンジェリークが自分との会話を楽しんでくれているように感じるのは、自惚れでなければいいが…と、謙虚に考えるオスカーではあったが。
そして、勉学を重ね深めたことで、アンジェリークは恐らく女神の1人だろうことをオスカーは確信できたのだが、神仙の世界を学ぶほどに、では、彼女は一体何を司る女神なのかという推測はたてられなくなった。
アンジェリーク自身は、相変わらず、自分の仕事のことを詳しく話そうとしなかった。彼女と出会って3年以上経った今でも、オスカーにわかっているのは、彼女が何かの女神であること…これもオスカーの推測であって、アンジェリーク自身から教えてもらったわけではない…それと、どうやら姉妹がいるらしいこと、その職務は天候に左右されること、これだけだった。
彼女が女神である、という確信を持つまでは、オスカーは、アンジェリークの仕事のことも、もっと単純に考えていた。
職務が天候に左右され、基本的には雨や嵐の日は仕事にならない…というだけなら、何神に仕える何の仙女でもありえた。
しかし、彼女は女神の1人であろうことが、それ以上の推測を逆に難しくさせた。職務が天候に左右される女神というと、オスカーが調べた限りでは、そう、数は多くなさそうだったからだ。
例えば、牧畜を司る神や、旅人の加護のために道標を守る神なども、職務が天候に左右されるが、オスカーが調べた限り…とは言っても、オスカーがあたったのは火の学び舎の資料だから、他の眷属の神々に言及した資料は決して多くはないので断言はできないが…、皆、男神ばかりで、女神で、職務が天候に左右されそうな者というと、農耕を司る女神群くらいしか見当たらなかったのだ。
だが、農耕神は、その本性は土に属する。しかし、オスカーは一度たりとも、アンジェリークから土の位相や力を感じ取ったことがなかった。彼女と一緒にいる時は、むしろ、オスカーは彼女から自分に近い火の性を感じ取ることが多かった。もっとも、アンジェリークとはいつも火の泉の傍で会っているから、火の泉が放つ力にアンジェリーク自身の性質がかき消されたか、負けてかすんでしまっている可能性も高かったが。なにせ、彼女の外見は火の眷属のそれではない、つまり、火の眷属ではありえない、だから本来なら火の性を放つはずがないのだ。かといって、では、やはり彼女は土の眷属で、農耕を司る女神の一人なのかというと、オスカーにはそれも何か納得しかねるのだった。彼女からは、土の香とか、雰囲気というものも全く漂ってこなかったから。
それなら、一体彼女は何の女神なのだろう…この世界には、宇宙の森羅万象に対応して無数ともいえる神がいる。その数は、神々自身ですらきちんと把握できておらず、33333とも、333333とも言われているくらいなので、まだ、結局は学徒の身であるオスカーが存在も名前も知らない神はいくらでもいるのかもしれないし、もしかしたら、名前を聞いて、何を司る神かを聞いても、思い当たる処がないかもしれないが…
ただ、出会いから過ごしてきた年月を鑑みて、オスカーは、そろそろ、アンジェリークが何の女神が尋ねても許してもらえるのではないか、いや、できれば教えてもらいたいという気持が最近、とみに強まっていた。
アンジェリークはその容姿だけでなく、自分への態度も、雨催いの夜に会ってくれる習慣も、この間変わらずに…いや、変えずにいてくれたが、今のような関係がずっと続くという保証はどこにもない。むしろ、何時おしまいになってしまうかわからない非常に不安定な関係であることが、年を経るごとに、オスカーには身に染みてわかってきていたからだ。これがいかに稀有で、かつ、砂上の楼閣のような関係か、オスカーはひしひしと思い知るようになっていた。
オスカーにとって、アンジェリークは出あった頃のままの憧憬の存在、もっと近しくなりたい存在であったが、アンジェリークからみればいつまでも弟のような自分に、彼女がずっと変わらず優しい態度で接してくれること、それ以上に、アンジェリークが、今も変わらず、この泉に、自分に会いに来てくれること自体が、成長したオスカーには不思議以外の何物でもない。
それに、彼女のあの可憐な美しさ、あの聡明さを思えば、彼女は様々な男神から思いを寄せられてもおかしくない。今の俺が彼女に愛を告げ、愛を請うても本気にはしてもらえないだろうが…神々の世界でなら彼女に愛を告げ、愛を請う男がいくらでもいることだろう。そして、もし、彼女に恋人が出来たら、貴重な休前日の夜を、弟のような年下の少年と会うことになど、費やすはずがないだろうことは、恋を知り染めたゆえにオスカーにも容易に予測できた。ただ、今のところは、同じ理由で彼女に恋人がいるとは思えなかった。
出あった最初の頃はアンジェリークが来るといえば、単純に、本当にアンジェリークは、夜、会いに来てくれることを信じられたし、全く疑いもしなかった。が、彼女の気持ちを疑うという意味ではなしに、彼女に、もし、実際に思い人ができたなら、現実問題として自分に会いにくることは難しくなるだろうし、会いにこなくなるのはむしろ当然だとオスカーは考えた。恋人との逢瀬と、単に弟のように思ってる少年との逢瀬であったなら、彼女がどちらを選ぶかは、まさに火を見るより明らかだろうし、彼女には、明日恋人ができたっておかしくはないのだ。
アンジェリークが、いつまで、こんな風に自分と会ってくれるかまったく予想がつかないことが、オスカーには苦しかった。
もう少し…俺が1人前になるまで、あと少し、このままでいてくれたら…そして、彼女に思いを告げられたらと願わずにはいられなかったが、そんな保証はどこにもないし、彼女に「俺が神職を任じられるまで、どうか、待っていてくれ」なんて、図々しくお願いできるものでもなかった。彼女は自由なのだから。自分の都合で、その進退を縛っていい存在ではないのだから。
だから、オスカーは、控えめにこうアンジェリークに懇願したこともあった。
「もし、もうこの泉に来られない事情ができた時は…どうか、お願いだ。黙っていなくならないで、もう、ここには来られなくなると、はっきりと言ってくれないか…そして、その時は、あなたの神職名を教えてはもらえないだろうか」…と
1時、会えなくなっても、神職名を教えてもらえれば、どこかで、いつか、また会える機会もあるだろう、探す手立てにもなろうと思ってのことだった。彼女に恋人ができたとしても…その想像は大層な苦痛を伴ったが、可能性は否定しようがなかった…俺が大人になった時に彼女を訪ねてはいけないという法はないだろう。かといって、彼女が何の女神かわからず探し出せない、会えないのでは、そも話にならない。そして、神職を賜れば、以降の呼び名は通常、神職名のみになるために、神々の幼少時の真名を知る者はほとんどいない、つまり、アンジェリークの名前を出して消息を尋ねても、彼女が何の女神かは誰にもわからない。だから、もし、一時会えなくなるなら、彼女の神職名をオスカーはどうしても教えてもらいたかったし、知らねばならなかった。
するとアンジェリークは心底びっくりしたようで、「そんなことは絶対にないから、大丈夫、逆にオスカーが、この泉には、もう来ない、来なくていいと決めたときこそ、私に教えて…」と約束させられた。
それで、オスカーは、暫くの間は、アンジェリークはこの泉に来てくれる気があるのだとわかって、安堵の吐息をつき、その時は、それでこの件はうやむやになったのだが…
どちらにしろ、この3年あまりの月日の間、オスカーにとっていつも彼女は「次にまた会えるかどうか、確とはわからない存在」だった。
そして、オスカーは胸中密かに
『アンジェリーク、俺があなたに愛を告げる資格を得るまで…どうか誰の物にもならないでいてくれ。もし、誰の物にもならずにいてくれたら、それは、あなたが俺の運命の女性であるしるしだと…俺は信じ、運命に賭けているんだ…』
と、祈っていた。
だから、オスカーは、一日も早く、神としての名を受けたかった。
火の眷属は16、7歳になれば、もう1人前とみなされる。ちらほらと、神職…といっても、今のところ神殿に仕える火仙どまりで、火神の名を授かったものはいなかったが…を割り当てられるものも同年代の中から、出てきつつあった。火の力の成長がピークに達した…つまり、これ以上の成長は見込めないと思われたものから、役職を与えられていくからだった。
それでいえば、未だ何らかの役職を与えられる旨の音沙汰がないオスカーは、それだけ火の力が強く、しかも、まだ成長しきってないということになる。
それを思うと、オスカーは、一種のまどろっこしさと同時に、ほのかな期待と自負に心をくすぐられそうになる。
『火を司る最も強大な神である火神アグニの名を襲名する…それはいくらなんでも自惚れすぎ、望みすぎというものだろう、それでもなるべくなら、大きな力をもつ火神の1人になりたい…昔は、人間たちの炉火を守る火神群の一人にでもなれれば御の字と思っていた…いや、それすらも大それた夢だと思っていたが、今の俺は…叶うことならば…火神群の1人ではなく…単独で力を司る強い火の神に…なるべく大きな権限を持つ神の1人になりたいと…痛切に思う…』
もし、強大な神の一員になれたら…別の理の眷属との行き来も容易くなろう、他の眷属の者であっても配偶者として娶ることだって許されるかもしれない。実際、2つの属性にまたがる力を持つ神々は多く存在しているのだから。そして大きな権限をもつ火の神の一員なら、他の眷属の女神を娶ることだって、許されるかもしれない…もちろん、彼女の気持ちが第一なのだが…
そんな見果てぬ夢を一瞬、胸に思い描いた時…自分が、まだ、狩ることもできていない獣の皮で何を作ろうかと算段する猟師のようで、オスカーはそんな夢を見た自分をとても恥ずかしく想ったのだが…
それでも火の力の成長が、いまだピークを迎えていないことは、オスカーには「火神に任じられる」という夢が僅かづつでも手の届く夢となる善兆のように感じられた。
とはいっても、若い…いや幼かった頃の俺を知っている彼女から見たら、俺が、いくら成長し何神になろうとも、いや、見た目の年齢が彼女のそれを追い越すことがあっても…自分の火の力のピークがまだ先ならば、その可能性は大いにあった…それでも、彼女から見たら、俺はいつまでも弟のような存在かもしれないのだから…今は尚更、男として意識されてなくても、当然だし、仕方ない。
だが、だからこそ、俺は強力な地位が、役職が欲しい。誰の目から見ても一人前になりたい、せめて、彼女に好きだと告げても身の程知らずにならない地位、俺との交際を考えて見て欲しいといえるだけの根拠というか、裏づけが欲しい…オスカーは、そう考えた。
それゆえに、オスカーは、今までずっと鍛錬を欠かさなかった。どんな努力もいとわなかった。全ての努力、あらゆる向上はアンジェリークに通じていると、オスカーは信じていたから…
一人前になって初めて、俺は君を1人の女性として欲している、俺を1人の男として見てくれと……俺は、彼女に告げることができる。俺の言葉を考えてみてくれといえるようになる。そう、それから考えてくれればいいんだ。時間はたっぷりあるのだから。どんな神であれ、神の名を襲名した次点で肉体の成長は極端に遅くなるから。俺は君を1人の女性として欲している、君にいつも俺の傍にいてほしい、そして俺を、君の傍にいるに相応しい男だと、もし、君も認めてくれたら…俺はきっと何でもできる…何にでもなれる…
彼女に相応しい男になりたくて、精進してきたし、彼女の存在があったればこそ、自分はここまで成長できたのだとも思っていた。
だから、ある日、学び舎の教官に1人で呼び出されたとき、オスカーはついに、来るべきものが来たのだと思った。
俺は火神の一人に叙してもらえるだろうか、それとも…
高まる動悸が抑えられぬ思いのオスカーに告げられた言葉は、だが、全くオスカーが予想だにしていなかったものだった。
「オスカー、おまえに第一界から招聘が来た。おまえの素質を見込んで、第一界…おまえを天上界に昇らせて更なる修練を積ませたいとのことだ」
オスカーの頭に、教官のその言葉の意味が浸透するまでにたっぷり10秒はかかった。それは、秘めた願い通りに自分が高位の神に叙せられる可能性が格段に高まったということである同時に、天界に昇ってしまえば…少なくとも何らかの神職に叙せられ、この火の地に帰ってくるまでの数年間は火の泉を訪ねることができなくなる、つまり、その間、アンジェリークと会えなくなる…という、2つの意味があるということだった。
あの日…天上界行きを打診された日から、オスカーは毎夜のように火の泉を訪れていた。アンジェリークに会えそうもない、月が煌々と輝く夜でも、万が一の可能性に賭けて、祈るような気持で泉を訪れていた。が、雨季も、もう終わりが近いこともあり、天候は崩れないまま、而してアンジェリークには会えないまま、もう1週間が過ぎようとしていた。
天上界行きの打診は、選別の証であるから、二つ返事でオスカーが、明日、いや今日にでも、天界行きを希望するだろうと思っていたのだろう、教官は、オスカーが肯定の即答をする替わりに「少しだけ、時間をいただけないでしょうか」と返答したことに、大仰に眉をあげた。
「君は、即刻の天上界行きを望むものと思っていたがな」
このオスカーという少年のたゆまぬ向上心と努力を、教官はよく見知っていた。彼は、常に己のあるべき姿をとても高い位置に思い描いているようであり、そこに至るために、たゆまず惜しまず真摯に努力し、心身を鍛えている姿を見ていたからだ。大した努力もせずに口先ばかり「ああなりたい」「こうなりたい」と夢のようなことをいう若者は多いが、オスカーはしっかりと地に足をつけていながら、その目が見据える先は遥けき天の彼方であるような…高い理想を掲げつつ、その高みにたどり着くためには地道な努力が必要であり大切であることを理解し実践できる、固い信念と実行力を持つ少年だと思っていた。
「もちろん願ってもない光栄ですし、このチャンスを棒に振る気は…お断りする気は毛頭ありません。ただ…出立のために準備期間を…そのための時間を頂戴するわけには参りませんでしょうか」
「出立のための準備期間なら、もちろん、ある。出立は次の火の奉納の儀に執り行うことになっているからな。おまえは奉納火の力で天界に送られるが、その儀式の日までにあと10日はある、それだけあれば身辺整理には充分だろう」
「10日ですか…」
「なんだ、不満か」
「いえ、しかし、万が一、その刻限までに俺の準備が整わなかった場合…招聘の権利を俺は失うことになるのでしょうか…」
オスカーは、なんともいえぬ複雑な顔をした。今から10日の間にアンジェリークに会えるか、否か、確証の取りようがなかった。しかし、これは己の夢の実現のためには、まさに千載一遇のチャンスだった。かじりついてでも逃したくはない、かといって、このままアンジェリークに会えないままに、天界に上がることなど考えられない、俺は彼女との約束を自ら破ることになってしまう。俺が、今日、ここに呼ばれた理由は、彼女に思いを告げたくて、早く1人前になりたくて、刻苦勉励に励んだ結果だというのに、そのせいで、アンジェリークと2度と会えなくなってしまったら、何のために、今まで努力してきたのかわからない、本末転倒ではないか…。
二律背反の感情に身動きのとれなくなっているオスカーに対し、教官の返答は、まっとう至極なものだった。
「いや…更にその後の奉納の儀まで出立が延びるだけだが…次の祭祀と供物に準備が整うまでの数ヶ月間を無駄にしかねん、天界にもその旨通達せねばならんから、かくとした理由無しには延期は認められんな」
「は…」
オスカーは奥歯をかみ締めて頭を下げ、承服した様子で退出した。退出した直後は、心は千々に乱れていたが、宿舎に戻る頃にはオスカーの腹が据わった。
うろたえた処でどうしようもないし、延期は無理…どこの誰ともわからぬ女神に会うために出立を延ばすのが正当な理由と認められるとは思えない、とあらば、期限内に自分にできる限りの手を打つしかないと思い切った。アンジェリークに会えなくなるからという理由で天界行きを蹴ることは、問題外だった。アンジェリークはそんなことをしても喜ばない、むしろ哀しむだけだということは自信を持っていえた。俺が、僅かずつでも能力を高めていくことをあんなにも喜んでくれた彼女が、俺が更に能力を磨く機会を自分から投げ打ったなど、しかも、その理由が俺が近視眼的に彼女の傍にいたかったからなどと知ったら、彼女は落胆するだけでなく、自分を責めてしまうかもしれない、そう思った。ましてやオスカーは、今、一時アンジェリークと会い続けるために、将来永続的にアンジェリークの手を取る機会を自ら手放すほど愚かではなかった。彼女が女神である以上、彼女の手を取るためにはオスカーも火神にならねばならないのは自明だった。社会的地位云々以前に、神にならなかった火精や火仙はあっという間に年老いて死んでしまうのだから。しかし、神となれば彼女と同じ長い時を生きる権利を与えられる。他の属性神に正式に会う機会も、伴侶として請う資格も得られよう、そのチャンスが呈されたということは、この事態はむしろ俺にとって追い風だといえるとオスカーは肯定的に捉えた。オスカーはこの年頃の少年にしては、目先の結果に捉われない長期的な視野を培っていたため、すぐさま的確かつ現実的な対処法を決めることができたのだといえた。
だが、その日から毎夜のように泉を訪れたものの、アンジェリークに会えぬままにもう1週間が無為に過ぎてしまった。流石に、オスカーも焦慮と不安を感じないといえば嘘になる。
『今夜も会えないのか…もう…時間がない…このまま、俺はあなたに会えずにこの地を後にしなければならないのか…』
オスカーが天界に出立するまで期限は残りは2日だ。
どうしても、出立の日までに再会が叶わねば…やむを得ず、火の泉の目につきやすい処に、何らかの形でオスカーはアンジェリークにメッセージを残していくつもりだった。
『自分オスカーは第1界より、更なる修練を積み、より高みを目指す機会を与えられたので、しばらく、天上界に赴かねばならなくなった、だから、自分が何らかの神職を賜るまで、この泉にはもう来られなくなる、しかし、何らかの神職を得た暁には必ずこの泉を訪ねに来るつもりだ』と。このことだけは、何が何でもアンジェリークに知らせたかった。
ただ、自分は何時再びこの泉を訪れられるかわからない以上、アンジェリークは、もうこの泉には来なくなるだろうし、そうでなくては困る。いつ現れるかわからない俺を待つことなどさせられないし…そんな心配は杞憂だろうが、しないで欲しいとオスカーは思った。だから「数年後、もし、思い出したら、一度この泉を訪ねて欲しい」と懇願するのはあまりに手前勝手な言い草だし甘えすぎだ、そんな権利は自分にはないと、オスカーは思った。だから、彼女にどうこうして欲しいということは一切書かず、ただ、自分の決意のみを書き残していくつもりだった。
しかし、この方法では、自分が黙っていなくなることは防げるが、オスカー自身は、アンジェリークを見出す手がかりを得られなくなってしまい、実際には再会は非常に難しくなる…だから、できることならば、メッセージを残していくのではなく、直に会って事情を告げ、叶うことならば…将来、アンジェリークの消息を尋ねるために、彼女の神職名を聞かせてもらいたく、オスカーは火の泉に日参ならぬ夜参していたのだった。
もちろん、彼女に拒まれることも考えないではなかった。
その場合は、仕方ない。もとより、これは賭けだと…しかもあまり分のいい賭けではないこともオスカーは承知していた。彼女がオスカーには神職名を教えたくないといえばそれまでだし、この限られた日数の間で、彼女に会うこと叶わなかった場合も同様に自分たちの関係の糸は限りなく細くなる。自分の消息を言い残しておけば、黙っていなくならないという約束だけは守れるが、その後、互いの消息を知ることはほとんど不可能になるだろうから。彼女の真名・アンジェリークを他に知る者はなく、俺も、何らかの神職を得た暁にはオスカーと名乗ることはなくなるだろうから…しかも、現時点では俺は何神に叙されるのか、それどころか、神の名をもらえるのかどうかも定かではないのだから、気が向いたら○○神を訪ねてくれと伝言を残すこともできない…そして俺の残した伝言を見れば、彼女は、もうこの泉に2度と来なくなる可能性が高い。数年後、何のあてもないのに、この泉に来るほど彼女も酔狂ではなかろうし、彼女が俺は神になったのかなれなかったのか、気にとめて知りたいと思わなければ、ここに再び来る理由自体がない…だから、今夜も含めたこの2日間に彼女に会えなかった場合は、もう…再会はほぼ不可能だと、すなわち、俺と彼女の間には、これ以上の縁はなかったのだと、思い切り、諦めるしかないかもしれない…
このように、諦めを分別と言い換える覚悟もオスカーしているつもりだった。が、夜毎、泉を訪ねているこの事実が、現実には、自分はとてもそんな風に割り切り、諦められないだろうことも物語っていた。
最後までダメな時はダメだったと割り切るしかないかもしれない…しかし、俺はその最後の最後までは足掻く、決して諦めない。
一つの季節が巡るたび…いや、雨催いの夜が来るたびに、彼女に会えるかどうかは、いつも賭けだった。そして、今までその賭けに俺は勝ってきた。彼女は必ず来てくれたのだから…だから、きっと、この賭けにも俺は勝つ、この2日の間に彼女はきっと来る。そして…女神としての名を教えてくれる…そう信じよう。強運をここまでに使い果たしたとか…俺は、最後の最後で、彼女とは遠ざかる運命だったのか…とは思いたくない。
彼女の立つ場所に少しでも近づきたくて、ここまで来たのだ。彼女に相応しい男になりたいと思い精進してきた、ひとかどの火神になりたかった。そして、その機会を与えられたことは、むしろ天佑だと…俺は信じている。
そう言い聞かせてみるものの、彼女に中々会えない事実はいかんともしがたかった。しかも、今宵、夜空は雲ひとつなく澄み切っており、真円に近い月はしんしんと銀箭を降り注ぎ、また泉の面が月を同じように映していたので、泉の周囲は昨今のオスカーの記憶にないほど明るく、くっきりとした陰影に満ちていた。アンジェリークと出会う夜は、いつも月の光は愚か星の瞬きすらない夜ばかりだったから、オスカーは満月の光がこんなにも明るかったことをすっかり忘れていた、そして、この月の光の鮮やかさは、今宵もアンジェリークに会える見込みが限りなく低いことを如実に物語っていた。月の位置から見るに、時刻はもう真夜中を過ぎている。来れるのであれば、アンジェリークがとっくに姿を現している刻限だった。
しかし、万が一ということもある、というより、自分が諦めきれない、今宵もだめだと見切る気持になれない。後、明日の夜一夜しか残っていないのだから…
オスカーは泉の辺に無造作に座り込んだ。立てた片膝に軽く腕と顔をもたせかける。
『もう少し…もう少しだけ待ってみよう…』
泉に映る月影の照り返しがいやに眩い気がしてオスカーは軽く瞳を閉じた。途端に軽い睡魔に襲われた。連日の夜遅くまで泉での張り番でオスカーはずっと睡眠が足りていなかった。昼間は出立に向けての身辺整理で忙しかったため身体も何時になく疲労が溜まっていた。
『いかん…眠っては…』
そう思った時には、オスカーの意識は底なしの眠りの闇に吸い込まれていた。
ぱしゃん…という水音が、うとうととまどろんでいたオスカーの耳に入った。水のはねる音が記憶を刺激したのか、オスカーの脳裡にアンジェリークとの出会いの思い出が夢のようによみがえった。
アンジェリークに初めて会った時もこんな水音を聞いた…そう思った途端、意識は一気に浮上した。
はっと目覚めて顔をあげたオスカーは一瞬自分がどこにいるか失念して混乱したが、目の前の泉を見てすぐ我に返った。一体どれ程眠ってしまったのか…ふと、空を見やれば銀盤のような月は既に西の空に大きく傾いて、今にも山の端に姿を隠そうとしているところだった。夜明け間近まで眠ってしまったらしい…ということは、やはりアンジェリークは今夜もここには来なかったのだ…
苦い落胆を無理矢理押し殺そうとして、ふと、先ほどの水音は何だったのかと気になり、湖面に視線を投げてみた。
「!」
一瞬、呼吸も思考も止った。
眩い程真っ白な裸身が泉の中央で舞っていた…いや、舞うように手をしならせて水に浸し、流れるように優雅に身をかがめて水浴をしていた。たおやかな身体は、えもいわれぬ柔らかな曲線を描き、しなやかな腕に飛び散らされる水飛沫は一滴一滴が月の光にきらきらと水晶のように輝いて、その白い裸身を彩っていた。揺れて広がる金の髪も、銀糸のような月の光を弾き、その輝きに負けぬほどのきらめきを放っていた。
『アンジェリーク…』
この世のものとは思えない美しさだった。オスカーは、ただただ、アンジェリークの姿に見入るばかりで、声も出なかった。アンジェリークの水浴を垣間見てしまったことへのバツの悪さからではない。誠、魂を奪うような美しいものを前にした時、人は打ちのめされたように、ひたすらに沈黙し、ただ、賞賛と崇拝と憧憬の念を捧げることしかできないのだと、オスカーは思い知った。
が、次の瞬間、オスカーは美への陶酔とは別の意味で言葉を失い、目を見張った。
目の前で起きていることが信じられず、己の目を疑うばかりで、自分は夢を見ているのではないかと思った。
最初、湖面に目をやった時、水浴をしていたアンジェリークは確かに裸身だった。いや、つい今しがたまで、彼女は一糸まとわぬ身で…その裸身は、邪念の入り込む隙が微塵もないほど崇高で、夢のような美しさだった。だが、いま、泉の只中で、真っ白だったアンジェリークの身体は燃え盛る炎の色をした美しい緋色の霞に包まれていた。その緋色の霞は、少しづつ収斂してアンジェリークの身体を覆い隠していくようで、いつしかそれは、鮮やかな緋色の衣となって、なよやかに、たゆたうようにアンジェリークの身体にまとわりついていた。見れば彼女の金の髪も、いつの間にかけぶるような金のベールに覆われている。炎のような衣をまとうと、アンジェリークは泉の中央からゆったりとした足取りで少しだけ岸に近づいてきた。アンジェリークが足を運ぶたびにシャラシャラと金鎖がぶつかりあう音が響いた。アンジェリークのすんなりとした首には幾重にも金の鎖が巻かれ、腕には小さな鈴のついた金の輪が嵌められているのが、見て取れた。
オスカーは女性がこのように艶やかに装うことの意味を知っていた。緋色の衣だけでも意味は明白だった。緋は火に通じる…緋色は炎の色…神聖な色…全てを浄化して魔を払い、祝福の門出を意味する色。この世界で女性が緋色の衣装を身につけるのは、婚礼の時のみ。緋色を身につけられるのは花嫁のみだ。それはどの眷属でも普遍の決まりごとだった。けぶるような金色のベールにいたっては、更に間違いようがなかった。
アンジェリークは…先刻まで裸身で水浴していたアンジェリークは、泉の岸にあがろうとした時には、オスカーが今まで見たこともないほど美しく艶やかな花嫁姿となっていた。
オスカーはその一部始終をただ、呆然と見つめるばかりだった。
アンジェリークのあまりの美しさに心奪われ彼女の姿から目がそらせず、しかし、同時に目の前で起きていることが現実とは到底思えずにいた。アンジェリークが花嫁装束に身を包んでいることの意味を考える余裕など、全くなかった。