陽光の下で…それが難しいのなら、せめて、煌々と照る月の光の下で、アンジェリークと会えたら、彼女はどれほど美しく見えることだろう…銀糸のような月光が、彼女の金の髪に弾かれ、キラキラと煌めくさまを1度でいいから見てみたい…オスカーの願いは、図らずも叶った。本人がまったく予想もしなかった形で、夢想していたものより、遥かに美しく艶やかなアンジェリークの姿をオスカーは見ることができた。緋色の婚礼衣裳に身をつつみ、金鎖と金のヴェールで煌びやかに華やかに彩られた、この世のものとは思えぬほど美しい花嫁装束のアンジェリークの姿を。
しかも彼女はただ単に美しいだけではなかった。
視線を僅かにうつむき加減にしているものの、すっくと立っているアンジェリークは、凛としてどこか侵し難い神聖さを湛え、気安く話し掛けることを躊躇わせる神々しさを漂わせていた。オスカーはどうしてもアンジェリークに声をかけられなかった。声を発することもできなかった。
何故、こんな時刻に彼女は火の泉で沐浴をしていたのか。それに、沐浴をしていた時は、彼女は確かにその美しい裸身に月光を受けていた、なのに泉から上ろうとしている今は、緋色の衣に身を包んでいる…どうなっているんだ、いったい…それにその緋色の衣装は…本当に婚礼のための装いなのか…?
さまざまな謎と疑問が頭に渦巻いている。尋ねたいことは山ほどある、が、オスカーはアンジェリークに何から、どう声をかけたらいいのかわからない。
アンジェリークに会いたいとあれほど願い、会えたら、天上界に招聘された旨を伝えて…可能ならば、アンジェリークの神職名を教えてもらいたいと思っていた。そして、今、目の前に待ち焦がれていたアンジェリークがいるというのに、俺の舌は喉に張り付いてしまったみたいに動こうとしない。わからないことが多すぎて、何から聞けばいいのか見当がつかない。何より、彼女があまりに神々しく気高く美しすぎて近寄りがたい…俺の知っている愛らしいアンジェリークではないようで…おいそれと声をかけることができない。無闇に声をかけてはいけない気さえする。
いつも、彼女のことを美しいと思っていた。だがそれは、愛らしく可憐な美しさであって、こんな近寄りがたい彼女は見たことがなかった。この神々しさは…思わず跪きたくなるような、この身が震えるほどの崇高な空気は何だ?直視することも恐れ多い気がする…まるで高位の女神を前にしているように…
この己の感慨にオスカーは、はっとした。
彼女は、きっと女神に違いないと考えていたのは俺自身ではないか!
彼女のこの気高さ、侵し難い空気は…彼女は、今、女神としてここに存り、女神としての力を位相としてその身にまとっているということか…
だが…それなら何故彼女は花嫁装束をも身につけている?何故…この泉での水浴を…恐らくは禊のための水浴をしていた?今身につけている花嫁装束と関係があるのか……もしや、彼女は…夜が明けたら…女神として、どこかの男神に嫁してしまうのか…火の泉での沐浴は…神同士の婚姻で花嫁となる女神に必要な禊なの…か?
俺が神になるための階梯を昇る機会を与えられた、よりによってこの時に、あなたは…他の男神に嫁してしまうのだろうか…今日を限りに見もしらぬ男神のものとなってしまうのか…俺は…間に合わなかったのか…あなたへの憧憬を告げることもできぬうちに、この想いを葬り胸の奥底に埋めねばならないのか…
「…アンジェ…リーク…」
オスカーは項垂れて唇をかみ締めながら、知らず知らずのうちに、胸の奥底から搾り出すようにアンジェリークの名を口にしていた。
さや…と葉ずれの音さえない静寂に、オスカーの懊悩と苦渋に塗れた低い声が響いた。
「オス…カー?そこにいるのは、オスカーなの?どうして…」
息を飲む気配にオスカーがはっと顔を上げると、驚愕と憂慮に瞳を大きく見開いたアンジェリークと目があった。
先刻までの近寄りがたい空気は瞬く間に薄れ、オスカーのよく見知っているアンジェリークが…ただし、目にもあやな婚礼衣装を身にまとい、まだ、泉の中に足を浸したままの姿で、彼女は呆然と立っていた。
「何故…ここに…こんな時刻に…オスカー…」
アンジェリークは、目の前のオスカーの存在がいまだ信じられぬ様子だった。今、この時が現実なのか危ぶんでいるような声音だった。が、アンジェリークが呆然としている分だけ、オスカーは逆に我に返った。この女性は確かに俺の知っているアンジェリークだ。あんなにも会いたかったアンジェリークが目の前にいるのだ、ならば、どうしても、今、言いたかったことを伝えねば…もう、次にいつ会えるか知れない…彼女が誰かに嫁ぐというのなら、尚更に、言葉を交わせるのは、もう、きっと、今この時しかない…オスカーは、文字通り火のような焦燥に心が炙られた。
「アンジェリーク、俺はあなたに会いたかった…俺は…どうしても、あなたに伝えたい、聞いてもらいたいことがあって…」
話したいこと、尋ねたいことが次から次へと頭に浮かんでは渦巻き、逸る心ゆえ、オスカーはアンジェリークに近づくように、思わず2、3歩前に進み出た。
すると、何故か、アンジェリークは哀しげに頭(かぶり)を振って僅かに後じさるような素振りを見せた。途端に、オスカーは胸が錐でえぐられるような痛みを感じ、堪えきれずに喘いだ。
彼女のこんな何気ない仕草に驚くほど傷ついた自分を見出し、オスカーは自分でも驚愕した。
彼女が自分からほんの僅かでも遠ざかろうとするなんて考えたこともなかった。
唐突に、彼女が身につけている花嫁装束の意味が、その重さが、オスカーの胸に、それこそ耐え難い重さでのしかかってきた。
そうか…彼女は程なく他の男のものになるから…だから…俺のような若造にでも近づいて欲しくないということか…他の男にはもう指1本触れられたくないのかもしれん…それは彼女のつつましさであり、俺も一応男の端くれと認識されているということなら…むしろ俺は、彼女に後ずさりされたことを光栄と思うべきか…
苦々しげに、そして皮肉気にオスカーは自分で自分を嘲笑った。
わかっていたことではないか。元々彼女を好きだったのは俺のほうだ、恋していたのは俺だけで、彼女は俺のことをそんな風に意識していないことなど先刻承知していたことではないか。いつか神になれたら…彼女に自分の気持ちを伝えたいと思っていた、気持を伝えることさえできればそれでいいと思っていたことも、所詮、独りよがり、自分にだけ都合のいい、まさに夢だったのだ…
そう…元々、叶う見込みのない恋だったのだ…おかげで、吹っ切れた…ような気がする。
オスカーは、彼女に会いたいと思っていた理由だけを告げて、できる限り早くこの場を立ち去ろうと決めた。決めてしまえば腹が据わった。どうしようもない胸の疼きを押し殺す努力は絶えず必要だったが。
「アンジェリーク、俺は天上界に行くことになった。更なる修練を積むようにと天上界に招聘されたんだ。だから…もう、この泉には来られない…多分、少なくとも数年は…俺は、それを、出立前に、どうしてもあなたに伝えたかったんだ…」
すると、アンジェリークの瞳は更に大きく見開かれた。
「天上界ですって?オスカーは天界に…昇ることになったの?」
「そうだ。だからこのことを知らせたくて、どうにかしてあなたに会えぬものかと、万に一つの望みを抱いて、この泉で俺はあなたの訪れを待っていたんだ…ずっと…」
そして…俺のこのささやかな願いは思いもかけぬ形で叶った。確かに、望みどおりあなたには会えた。もう程なく他の男のものになるために美しく装ったあなたに…そんなことを思うと口調が苦しげにも皮肉気にもならないようにするために、かなりの克己心が必要だった。
オスカーの言葉に、アンジェリークは何かを観念したかのように一度瞳を閉じて天を仰いだ。
「そう…そうなの…オスカーは…ついに天界に…」
一息つくと、アンジェリークはオスカーを見つめて、弱弱しく微笑んだ。
「…おめでとう、オスカー…私、あなたはきっと立派な男神さまになると…ずっと思ってた…やっぱり、その通りになり…そう…ね…」
語尾が震えていた。何故かアンジェリークは酷く衝撃を受け、狼狽しているように見えた。おめでとうと口では言っているが、祝福の色はオスカーには感じられなかった。もう俺と会えなくなるからか?…まさかな、そんなはずはない、何せ彼女はこれから誰かの花嫁になるのだ…俺と会えないことが衝撃になるはずがない…シニカルな諦観がオスカーの心を支配していた。
「ああ、まだ…海のものとも山のものともつかないが…神の名を賜れる可能性はかなり高くなった…だから、俺は…もし俺が1人前の男神になれたら…神になれたその時には…アンジェリーク、俺はあなたに…」
唐突に目頭の奥が熱くなり、オスカーは慌てて空を仰ぎ、目を瞬いた。美しい月が視界の端に映った。僅かにその輪郭はぼやけていた。
自分が、どれほど打ちひしがれているのか、この時、オスカーは初めて自覚した。
バカやろう、しゃんとしろ!俺が勝手に憧れて、勝手に恋焦がれてきただけだ。彼女は何も預かり知らぬことだ。俺がいかに落胆していても…彼女に心配をかけるな。彼女にとっては晴れの門出だ。彼女を心配させるような真似をするな。俺が…思いもかけず俺がこの場にいただけで、彼女はこんなにも心配そうに俺をみているのだから…
大きく深呼吸して…呼気が震えないよう注意しながら…漸く、顔を戻した。
「だから、天上界に行く前にあなたにあって、神職名を…あなたの今の呼び名を教えてもらいたかったんだ、アンジェリーク。神職名を知らないと…アンジェリークという名だけではあなたを探せない、もう会えないと思って…。それで天上界に行く前に、あなたに会いたくて…待っていた…首尾よく俺が神の1人に叙された暁には、あなたにそれを知らせたくて……あなたを訪ねられるよう、今の名を教えてほしくて…あなたに会えぬものかと待っていたんだ…」
そして、その時には、あなたに俺の思いを一緒に伝えるつもりだった…ずっと俺が胸に抱いていた憧憬の気持を…あなたに聞いて欲しかった…
「そ…うだったの……オスカー…私は…私の仕事上での呼び名は…」
「…だが、それを教えてもらっても…もう、会うのは難しそうだな…男神に嫁いだ女神には、今までみたいに気安く会ってもらえるとは思えないから…な…」
「え?…」
振り切れ、自分から振り切って…この独りよがりな感傷に捉まるな、脚を取られるな…オスカーはもてる胆力の全てを振り絞ってアンジェリークに微笑みかけた。
「アンジェリーク…その花嫁衣裳、とてもきれいだ…あなたは…明日…いや、もう、今日…どこかの男神の花嫁になるのだろう?俺はこんなに美しい…あなたみたいに美しい花嫁を見たことがない」
「!!!」
アンジェリークの身体が一瞬よろめくように、また僅かに後ずさった。オスカーから顔を背けるように視線をそらす。まるで、この晴れがましい姿を、俺の目から隠したいと思っているかのようだとオスカーは一瞬思い、すぐに、そんなはずがないと頭を振った。
オスカーは何故、アンジェリークがこのような不可解な振る舞いをするのかわからなかったが、とにかく言葉を続けた。
「誰かの妻となったら、あなたも、もう、この泉に来ることもなくなる…来られなくなるだろう?…俺も天界に行かねばならないし…丁度、よかったんだな…こういう運命だったんだと…おかげで素直に思える…」
「オスカー…違う…違うの…」
アンジェリークが苦しげにかぶりをふった。
「何が違うんだ…」
オスカーはアンジェリークの様子が何かおかしいとは思うが、彼女の動揺する理由が全くわからない。
「ああ、何から話せばいいの…これは…この姿は…私の務め、私の義務…私が女神の名と任を賜った時に定められた…遥か昔から今までずっと…」
「どういうことだ?」
アンジェリークは、なんともいえぬ複雑な表情をしている。花嫁というのは…幸福ではちきれそうな笑顔に満たされるものではないのか?なのに、なぜ、そんな顔をしているんだ…それに義務とは…勤めとはどういう意味なんだ…アンジェリーク…。
何もかも思いきろう、ふっきろうとしていたオスカーの心がぐらぐらと揺れる。
「花嫁となることが義務というのは、どういう意味なんだ?アンジェリーク、もしや…これは…あなたの意に沿わぬ婚姻なのか?」
「ああ…なんていえばいいの…これは契約なの…天則…リタなの、私に定められた…この宇宙ができた時からずっと私に課せられてきた役目…」
その表情からアンジェリークは困惑し、途方にくれている…としかオスカーには思えなかった。
「アンジェリーク、教えてくれ、どういうことなんだ…あなたは、夜明けと共に、誰かの花嫁になるのではないのか?なのに、なぜ、そんな…ちっとも嬉しそうじゃない、困惑したような顔をしているんだ?…もし、これがあなたの意に沿わぬ婚姻なら…俺はあなたを…」
どうするというのだ?このまま攫うとでも?こんなにも高貴な女神を、今日にも何処かの男神に嫁ぐのであろう女神を一介の火の眷属が攫うなど許されるとでも?攫ったとしても、逃げおおせるとでも思っているのか?
自分の発した言葉に冷笑を浴びせるもう1人の自分が頭の中にいることをオスカーは感じ、すぐさま、その嘲弄を振り払うように頭を振った。
冷静に考えれば、今の自分には地位も力もなく、アンジェリークがどんな苦境にあるにせよ、救いの手を差し伸べられるとは…俺の手を差し伸べても救えるとは思えない、そんなことは百も承知だ。だが、だからといって手をこまねいて見てはいられない。そう、初めて出会った夜のように…我知らず、何かに突き動かされるように、彼女へと手を差し伸べずにはいられないんだ。俺は、どんなことからもあなたを守りたい、全身全霊であなたの助けになりたい。あなたのそんなにも苦しそうな顔を黙って見ていられるものか…素知らぬふりなどできるものか!意に沿わぬことをあなたが強要されているのなら、あなたをそこから助けたい、助けずにはいられない。俺はどんなことをしてでもあなたを守りたい。どこまでも、あなたを攫って行ったっていい…あなたが俺の手を取ってくれるなら…
オスカーは、アンジェリークに手を差し伸べようと、また2、3歩前に出た。その時だった。
《近づいてはなりません》
天上から、いや、オスカーの頭の中に直接響くように、朗朗と張りのある声が…アンジェリークのものより低く、重々しい女性の声がそう告げた。同時に、頭の上に鉛が乗せられたような酷く重苦しい圧迫感を感じ、オスカーは思わずその場に立ち止まった。
「誰…だ…」
《下がりなさい、このお方は、そなたのようなものが仰ぎ見るのも恐れ多い高貴な女神なのです。すぐさま平伏しなさい。それ以上近づくことは愚か、顔をあげることも、まかりなりません》
「今はごめんこうむる。俺はまだアンジェリークと話が終わっていない」
オスカーは圧倒的な強さで自分を押さえつけようとする未知の力に、渾身の力で抗い、平静を装って言葉を返した。すると、自分に重圧をかけている存在が息を飲む気配が感じ取れた。
《…なんと無礼な…このわたくしに向かってそんな口をきくなんて…このわたくしを誰だと思っているのです!》
「さぁな。人の話に割り込む…どころか、人の頭の中にいきなりずかずかあがりこんでくるような女性には心当たりがないんでな。とにかく、今、大事な話の最中なんだ、誰であれ、邪魔をしないでもらいたい」
顔をしかめず声音に苦痛を滲ませずしゃべろうとするだけで一苦労だった。頭の中でがんがん響く声に気が変になりそうだ。が、今、この未知の力に屈服してアンジェリークとの話を放擲したら、後悔しても仕切れない思いにずっと苦しむだろうことはわかりきっていた、だから、相手が何であれ、オスカーは譲る気も負ける気も諦める気もなかった。が、そのオスカーの断固とした態度は、その存在にはふてぶてしさと映ったようだった。
《!!!…もう、我慢なりません!報いとして、そなたに永久に明けない夜を…》
「だめ!ラートリー!オスカーに何もしないで!」
突然、アンジェリークの声もが同時に頭の中に響いた。途端に、オスカーの頭にかかる圧迫感が幾分軽くなった。オスカーは驚いてアンジェリークを見つめた。
《何を言っているの!あんたは!一体、なんなの?この生意気な…んまぁ!よく見れば、まだ、少年じゃないの!しかも、この位相は…火神ですらないのではなくて!?このわたくしにこんな偉そうな口を利くなんてどこの火神かと思ったら…しかも、普通の火神が、どんな手を使ってこの泉を見つけ出したのかと思っていたら…まだ神ですらないただの火の若者がこの聖なる泉に来てるなんて!しかも、天の娘たちである私たちに、こんな口を利くなんて!この子は一体ここを、わたくしたちを何だと思ってるのかしら?!こんな無礼を見過ごせるわけがないでしょうが!?思いきり懲らしめてやらなくちゃ気がすまないわ!》
「だめ!絶対にダメ!オスカーに何かしたら、私、あなたを許さないわよ!ラートリー!」
『ラートリーだって?…この頭に直接響いてくる声は…夜の女神ラートリーのものか!?』
夜の女神といえば、この宇宙の始源の時から存在する天界神の中でも最高位の女神だ。天界の神々は、力の発現が不安定でしょっちゅう代替わりする火神たちとは同じ『神』と呼ばれる存在でも格が違う。ましてやラートリーといえば天神を父に、地神を母にもつ至高の女神、だからラートリーは天の娘ともいう…その女神と対等に言葉を交わすアンジェリークは一体…いや、私達?天の娘たちと、今、聞こえた…ということは…もしや…まさか…
《なんで、こんな子を庇うの、あんたは!大体、あんた、スーリヤさま以外の男神に触れられたら、どういうことになるかわかってるの!いくら子供でも、神の1人でなくても男は男なのよ!だから、私は心配して…》
「だめ!オスカーには絶対何もしないで!オスカーほど信じられる人はいないわ!大丈夫だから!どうか、私を信じて、お願いよ、ラートリー…」
《でも…どっちにしろ、あんたはもう東の神殿に…もうすぐ夜明けの神殿に行かなくちゃならない時刻よ、ただの火の眷属になんていつまでも構ってる暇などなくってよ!》
「わかってるわ、お願い、もう少しだけ待って、私にオスカーと話をさせて、どうか…ラートリー」
《〜〜〜〜…あんた…わかっててやってるでしょ?私があんたに逆らえないってわかってて…ちょっと!そこの火の少年!あんたよ、その小生意気なあんたのことよ、ウシャスのお願いだから大目に見てあげるけど、この子に指1本でも触れてごらんなさい、ウシャスがなんといおうと、永遠に目覚めることあたわぬ闇であんたを包んでやるわよ、この姿のこの子に…禊を済ませたウシャスに触れていいのは、この宇宙に唯一無二の輝かしき存在、太陽神スーリヤ様だけなんですからね!だから、いいわね!絶対、この子に指1本でも触れるんじゃないわよ!もし、少しでも無体なまねをしたら、あんたにおそろしい神罰を…》
「ラートリー、もう黙って。私が呼ぶまで何もいわずに待ってて、すぐに…すぐに終わるから…」
《…わかったわよ、わかりましてよ!じゃ、終わったら、私の事呼びなさいよね、いい?ウシャス。ほんの少しだけよ!》
頭を上からぎゅうぎゅうと押さえつけ、脳みそに無理矢理足先を突っ込んで、傍若無人に頭の中をかき回すように響き渡る声と圧迫感が、ふいに、嘘のように消失した。
オスカーが残るめまいの残滓を振り切ろうと頭を振ってから顔をあげると、アンジェリークがオスカーを真っ直ぐに心配そうに見つめていた。
「騒がせてごめんなさい、オスカー。私の姉妹の非礼をお詫びさせて…ラートリーは私を心配してのことなのだけど…」
「ラートリーはあなたをウシャスと呼んだ…アンジェリーク、あなたは天の娘の一人…暁紅の女神…ウシャスだったのか…」
アンジェリークは、弱弱しく微笑んで頷いた。
「そう…生き物達が夜の闇に怯え始める前に…私は、ラートリーに替わって全ての生き物に目覚めをもたらさねば…もうすぐ、払暁の空に昇らねばならないの…だから、ラートリーは心配性になってしまうの。私に何かあったら、この世の生き物たちに目覚めをもたらすものがいなくなってしまうかもって…生き物達が夜の眠りから目覚めなくなってしまうかもしれないって心配して…」
「ああ…《暁紅の女神は毎朝夜明けとともに生まれ出づる、最も清新な存在にして、最も美しき女神。天上一の美姫は太陽神に先駆けて蒼穹を天翔け、全ての生き物達にその優しき腕(かいな)にて目覚めをもたらす》…だったな。火の子なら必ず教わる…俺も子供の頃、詠唱していた…誰でも知ってるヴェーダ(讃歌)だ」
「ヴェーダは…現実より美化されがちだから…」
「いや…何故、今まで気付かなかったのか…俺はバカだ…気づいてしかるべきだったんだ。その金の髪は夜明けの空に真っ先に射す曙光、その瞳は、明け方、闇が退く時の空の色だったんだな…だから、あなたは、こんなにも美しかったんだな…俺は…いつもあなたを本当に美しいと…あなたのように美しい女性(ひと)は2人といないと…ずっと思っていたのだから…」
「…ありがとう、オスカー」
「本当だ…それもそのはず、アンジェリーク、あなたは暁紅の女神だったのだから…そうとわかれば…今まで不思議だったことも色々と腑に落ちる。あなたが花嫁衣裳を身につけているわけも……今、わかった…」
オスカーの脳裡に、幼い頃見聞きした神話が蘇っていた。そうだ、これも…火の眷属なら…誰でも知っている…幼い頃から絵物語や壁画で繰り返し目にするからだ…雄雄しい太陽神の威容と、その太陽神に楚々と寄り添う美しい女神の姿を。火の子供達は太陽神スーリヤの雄雄しさを称揚し、暁紅の女神の美しさに憧れる…理想の夫婦として…。
「…暁紅の女神は太陽神の花嫁…だったものな…あなたが、婚礼衣装に身を包んでいるのも…だからなのだろう?」
オスカーは自分の立っている地面がとても頼りなく覚束なく感じた。自分の声が遠くから聞こえる他人の声のようだった。自分の身体が自分のものでないような感覚は、きっと、さっきまで頭の中をかき回されていたせいだと思いこもうとした。今は、頭はちっとも痛くないが。痛いのは何故か胸の真ん中だったが。
「ええ、それが私のもう一つの役目。オスカー、あなたも知っているでしょう?生き物を夜の眠りから目覚めさせることと…太陽神の花嫁となること、それは暁紅の女神ウシャスの担うべき務め…果たすべき義務なの…」
「ああ…火の眷属なら…子供でも知っている、ウシャスは太陽神スーリヤの花嫁にして恋人…だということを…」
オスカーの脳裡に書物で学んだことと、アンジェリークとの思い出がごちゃまぜになって、浮かび上がり渦巻いた。
彼女と初めて出会った夜…光の粒子が凝って人の形になったように見えたこと、夜の闇の中でも、彼女は自ら光を発しているように輝いて見えたこと、それも彼女が光の眷属…天界の住人なら納得できる。夜、なんの苦もなく人里はなれた泉に現れることができるのも…天かける力をもつ天界の住人なら造作もないことなのだろう。そして光の眷属でありながら、彼女から強く火の属性が感じられたのは、彼女が火神の一人である太陽神スーリヤの花嫁だったから…火神の配偶者だから、彼女はあれほどに火の力のことをよく知り、扱いに詳しかったのだと。
「だが…太陽神の花嫁であることが…ウシャスの義務だとは知らなかった…。太陽神も夜明けの女神も、俺には…ただの火の子である俺には、あまりに恐れ多くて文字通り雲の上の存在、書物や壁画からその姿を想像するだけの存在だったから…だから、太陽神の花嫁が…夜明けの女神である理由を考えたり、それが何故かなんて疑問に思ったことなど1度もなかった。太陽神が夜明けの女神を娶るのは当然のことだと…とてもお似合に思えるからな…それこそ、二人が並び立つ姿は夢のように美しい神話…おとぎ話だと思っていた…」
「そう…誰も疑問を感じることがないような当たり前に思われていること…それは、この宇宙ができた時から決められた天則だからなの…私が望んだことでも、スーリヤ様が望んで私を花嫁としているのでもないの、これは…宇宙開闢の時からの決まりごとなの…」
『いや…それが、定められたことであっても…あなたを一目見たら…あなたを望まない男などいるわけがない』
天に許される形で、あなたを自分のものにできるのなら…俺は何でもする、何を投げうってもいいと思うのだから…
オスカーの胸は、絶え間なく錐でえぐられるように痛み、肺は焼け焦げたように息苦しかったが、同時に全ての合点がいった。全ての疑問が解かれた。
アンジェリークの仕事が、雨の日は休みとなるわけ。昼間、何をしているかと問われたら、困惑していたわけを。…暁の光は、夜明け直後の僅かな時間にしか天空に存在しないのだから…生き物達に目覚めをもたらした後、陽が完全に昇りきった後は、暁の光は跡形もなくかき消えてしまうのだから…昼日中にどう過ごしてる?と尋ねられても、彼女が返答に迷って言葉を捜すばかりだったのも無理はない、と素直に思えた。
暁紅の女神がこの現し世にその美しい姿を現し留めていられるのは、それこそ払暁の僅かな時間のみだとオスカーは学んだ記憶があった。ばら色の夜明けの光が空を彩る時間は極短い。太陽神の強すぎる光に、暁の光は蹴散らされるようにすぐに見えなくなってしまう。それは太陽との同化なのか、太陽光に灼きつくされての消失なのか…とにかく太陽神の姿が天空にある間、暁紅の女神ウシャスは目に見える形では、この世に存在できない。昼日中に、彼女が、どんな形で、どんな意識をもってこの世に存在しているのかは誰も知らない…ウシャス本人以外は説明できないし、説明されても…きっと俺には理解できなかっただろう…彼女に昼間の過ごし方を尋ねると、言葉を探して、なんといえばいいかわからないと困惑するばかりだった理由が、今のオスカーには、否応なく理解できた。
当たり前だ、彼女は、万物に目覚めをもたらす暁紅の女神だったのだから…
そういえば…彼女は、別れ際にいつも俺によい目覚めを祈ってくれた…そして、彼女と出会ってからというもの…俺は、太陽が空に在る日は、いつも、大層気分よくすっきりと目覚められた。これも、彼女が自分に特別に心を砕いて、よい目覚めをもたらしてくれたからではないか…と思うのは自惚れすぎだな…。ただ、俺は距離的に彼女の傍にいたから、彼女の力の位相を間近で浴びられたから、よい目覚めという恩恵を受けていたのだろう、ありそうな話だ…。
そして夜を明けさせ、生き物に目覚めをもたらす女神なら、職務が天候に左右されるのも当然ではないか。
太陽が昇らない朝は、夜明けの光も存在しない。だから、太陽神がその姿を現さない日は、ウシャスもこの現世に姿を現さない、現せないのだから…。
「言ってくれてよかったのに…あなたがウシャスだと…どうして、教えてくれなかったんだ?アンジェリーク」
「嬉しいわ、オスカー、私のこと、まだ、アンジェリークと呼んでくれるのね…」
この夜初めて、アンジェリークが嬉しそうににっこりと笑み、そして、それ以上に安堵した様子を見せた。
「俺にとっては、あなたは、アンジェリークだ。たとえ、あなたがこの宇宙の始源の時から存在している至高の女神であっても…こうして直接言葉を交わしたり…その尊顔を仰ぎ見ることも恐れ多い女神であるとわかっても…俺にとって、あなたはウシャスである以前にアンジェリークだ」
「ありがとう、オスカー。私、あなたにアンジェリークって呼ばれることが、すごく嬉しかったの…私をウシャスと知らないのに、私を助けようとしてくれたあなた、私に優しくしてくれるあなたと会って、お話することがとても嬉しくて…幸せだったのよ」
「アンジェリーク…」
「あなたはいつも優しかった…私が女神だから、女神を敬うことは天則だから、私を丁重に扱ってくれるのではなく…ただ、ありのままに、私に優しくしてくれた…私に会いたいと言ってくれた…私と会うことを喜び、話すことを楽しんでくれて…それが、私、とても嬉しかった。こんな嬉しいこと、私、あなたに会うまで知らなかったの。天にいる神さまたちは、皆…私にとても丁寧に接してくださるわ…でも、私、今まで誰かから、また会いたいっていわれたことなんてなかった…誰かと会える日を心待ちにすることも、誰かとのおしゃべりが楽しいと思ったことも、私、オスカーに会うまで知らなかった…全て…オスカーに会って初めて知ったの、オスカーが初めて教えてくれたのよ…」
「アンジェリーク、俺だってそうだ。あなたに会うまで知らなかった。誰かに会いたくて焦がれる焼け付くような思いも、会っている間はあっという間に過ぎていく時間の早さも…雨の夜を心待ちにする、いたたまれないような甘い疼きを伴うこんな気持も…」
「じゃあ、私達、同じように感じていたのかしら。私…自分が、ウシャスだって…言いづらかったのは、私をウシャスと知って、あなたの態度が変わったらどうしようって…それが不安だったんだと思うの…できれば、ずっとこのままでいたいって…あなたと会うたびに思ってた…私がウシャスと知れたら、オスカーは、余所余所しく他人行儀になってしまうかも…気持ちが一歩退いてしまうかも、もしかしたら、この泉にも来なくなってしまうかも…って不安だったんだわ、私。…でも、いつまでも、同じままでは、いられないことはわかっていたのにね…あなたは、いつも熱く燃えるような強い意志を持ち、何事にも雄雄しく立ち向かえる勇気と力のある人、遠からず火の男神さまに任じられるのは、わかりきっていたこと、ずっとこのままではいられないことは覚悟していたつもりだったけど…こんなに早く、この日が来るとは、思ってなかった…いえ、考えたくなかっただけかもしれない…でも天界に昇ることを教えにきてくれてありがとう、オスカー…約束を守ってくれて…あなたってやっぱり、本当に優しい…」
「アンジェリーク!何故そんな…何故、もう2度と会えないみたいな言い方をするんだ!俺が火の神になったとしても、もう2度と会えないってことはないだろう?天界に行っている間は会えなくとも仕方ないと思う、だが、なにがしかの火神の1人に叙されたら、俺は、また、この泉に来る。必ず来るから…何年後になるかわからないが…必ず…再び、この泉を訪れる…あなたに会いに…あなたに捧げる言葉を携えて…」
勢い込んで訴えるオスカーに、アンジェリークは哀しそうにふるふると頭を振った。
「火神になったら…守るべき火を授かったら、もう…ここに来ることは難しいかもしれないわ…オスカー」
「!!!…そうか…俺が、今、身体の自由が利くのは、ここに来られるのは、まだ、何も守るべきもの、司るものを与えられてない学徒の身ゆえ…」
「そう…火は…燃え盛る火は普通は一つ処に留まるもの。自らは動かないし、勝手気ままに動いてはならない。人間の炉辺の火を守る火神たちはもとより…火神で最も大きな力をもつアグニ様も、神殿の聖火を守るため…火を絶やさぬよう、同時に暴走させぬよう見守るため…神殿からそう遠くに離れることはないわ…いえ、できないってことは、あなたも火の眷属だから知っているでしょう?火から目を離すことも、火が勝手気ままに移動することも…生き物達や森にとって、とても危険なこと…だから…」
「ああ…」
オスカーの口から暗澹たる返答が漏れでた。オスカーは目の前が真っ暗になる思いだった。彼女に相応しい存在になりたい、それだけを考え己を鍛え、精進してきた。同時に、今の自分は自由に動ける身だから、失念していた。否、知識としては知っていたが、自分のこととして実感していなかった。火神は己の守るべき火を賜ったら、そこから、時間的にも距離的にも、あまり遠くに離れられないことを。
そうだ、炎というのは…火は、基本的に自分からは動かない、だが、同時に、とても不安定なものだ。常に絶えぬよう見張り、力を注ぎ、触媒を与えねばどんな劫火といえど、あっという間に消えてしまう、逆に、炎は、少し目を離すと、周辺のものに触手を伸ばそうとする性質もある。周囲のもの全てを飲み込んで焼き払い灰燼に帰す恐れがある、極めて危険なものでもある。火神が己の務めを怠ったがゆえに、下界を火の海にして、多くの生き物を死なせてしまう恐れは常にあるのだ。だから火神は…一度火神となったものは、自分の司る炎から、目を離さないし離してはならぬとされている…
「…そうだ…火神は…守るべき火の傍から離れない、離れられない…火の力は不安定だから…目を離せばすぐ立ち消える…逆に暴走して燃やしてはいけないものまで焼き尽くすこともある…」
オスカーはきっと顔をあげた。
「だが…それなら俺は天界になぞいかなくていい!あなたに会えなくなるくらいなら神になどならなくていい、俺はこのままでも、いいんだ!」
「オスカー、あなたの授かった力は天からの恩寵、粗末にしてはいけないわ…」
「俺には…俺には、そんな風には思えない、いっそ、こんなに火の力が強くなければ、ただの火の子でいれば、俺はずっと、ここに来られるのか?…あなたに会いに…」
「いいえ、あなたの火の力が類稀なほど強くなければ、そもそも私たち会ってはいなかったと思う。この火の泉は本来神々…それもかなり高位の神にしか見えないよう目くらましをかけられて、隠されているのだもの…」
「!…だから、あなたは…この泉は安全だと…それに初めて俺にあった時、不思議そうに俺を見たのか…」
「そう…それだけあなたの潜在的な火の力が強かったから、オスカー、あなたは自分1人で火の泉を見つけ出して、そこで私の姿を見出したの。あなたの力は、あの時にもう普通の火神くらい強かったのだと思うの…だからオスカーが火神にはなりたくないと言っても…今でさえ、これほど火の力が強いオスカーだもの、大人になった時に神の1人にならないでいられるはずがないわ。たとえ…ここで全ての鍛錬、全ての勉学を投げ出しても、ここまで成長した力は、もう、隠し留めておけないでしょう。それでなくとも、あなたの力は、今よりもっと大きく強く成長しそうな気がするの…だから、望むと望まざるとに関わらず…いつか、多分、あなたは火神に任じられる。火神の1人にならざるを得ないと思う…」
「それは…俺が、今更修練を放り出しても…俺が火神職を賜る流れを押し留めおし返すことはできないということを、あなたは言っているんだな…つまりは…もはや…手遅れということか…」
オスカーはアンジェリークにやんわりと、現状を突きつけられたことを察した。
アンジェリークは、今『あなたに会えなくなるくらいなら神になどならなくていい、このままでいいんだ』と何かも投げ出すような情けない事を訴えた俺を「そんなことをしても流れはとめられない」とたしなめたのだ。
そうだ、俺だって頭ではわかっている。流れを堰き止めるだけでは、問題の解決にはならないことなど、自分自身が1番よく知っている。しかも、ここまで修練を積んできて、火の力を遠慮なく発現してきた俺だ、既に発露している力を今更、なかったことにして体の奥に戻すことはできない。そして、確かに俺は今、火の学び舎で、最も火の力が強いものの1人なのだから…今更火神になりたくないと駄々をこねても…すんなり通るはずがない、わかりきったことなのだ…。
「手遅れだなんて…そんな言い方をしたら、あなたの火の力がかわいそう…」
アンジェリークは、駄々をこねる子供の俺を、優しく辛抱強く諭してくれているのだ…それは、オスカーにもわかっていた。頭で、理屈でわかってはいても、でも、オスカーは、心が頷けない。
「だって…それなら、俺は…いったい、今まで何のために修練を積んできたんだ…何のために、己を磨いてきたんだ…」
「オスカー…?」
「それなら…これで…もう会えないのか…あなたに…。俺が天界に行き…いつの日か、火神の名を賜ったら…もう、2度とあなたには会えないのか、アンジェリーク…」
「オスカー…」
「嫌…だ、そんなのは…嫌だ…」
オスカーはがばと顔をあげた。
「あなたに相応しい男になりたくて、ここまで来たんだ!あなたに好きだと言いたくて、言えるようになりたくて!…なのに…」
「オスカー?!…」
オスカーはアンジェリークが足を浸す泉の際ぎりぎりに立ち、アンジェリークを痛いほど真っ直ぐに見つめた。
「俺は…アンジェリーク…まだ、告げるには早いと思っていた…1人前になるまで言う気はなかったんだが…アンジェリーク、俺はあなたが好きだ。ずっと…きっと初めて出会った夜から…あなたに恋してた…」
「!…」
「でも、俺は未熟で…子供で…あなたに気持を打ち明ける資格はないと思っていたから、黙ってた…1人前になる日まで…待っていてくれともいえなかった。あなたは自由なのだから、俺にはそんなことを頼む権利はないと思ってた…だが…いつの日か、1人前の男神になったら、その時は、俺の気持を伝えようと…ずっとずっと考えていたんだ…あなたに相応しい男になりたくて、精進を重ねてきたんだ!なのに…神になったら…あなたにはもう会えないというのなら…俺は…神になぞならなくていい!このままで…ずっと、このままで!」
そういいながら、心の底で、自分の言葉の嘘をオスカーはわかっていた。
たとえ火神に叙されなくても、俺だって、いつまでもただの火の子ではいられまい、結局は何かの神職を賜り、ここに来ることは難くなろう、そして、それまでの間は、ここに彼女に会いに来られたとしても、その間もずっと彼女は太陽神の花嫁であることに変わりはないのだ…今までどおりこの泉で会えたとしても、もはや、太陽神の花嫁とわかっているアンジェリークと、今まで通り、親しげな友達みたいに飾らない気取らない他愛無い会話を楽しめると思っているのか、俺は…。
彼女が、自分をウシャスだと名乗らなかった訳が今は痛いほどわかる、そして、俺との逢瀬を、彼女もまた、大切に思い惜しんでくれていたのだということが…だからこそ、女神としての名を名乗らずにいてくれたのだろうという、その気持が、オスカーの胸に今はひしひしと迫ってきた。
「オスカー…」
アンジェリークの瞳に一瞬何かが光った。
「オスカー…私…でも、私も…あなたも、このままではいられなかった、それは、私も、あなたもわかっていることだわ…」
「アンジェリーク、ああ、そうだ、何時までもこのままではいられない、それはわかる、わかっているんだ。だが、俺は…もう、あなたに会えないなんて…それだけは嫌だ!我慢ならない!どうしても…ダメなのか…何か手立てはないのか…」
「オスカー…どんな形であれ、私に、また会いたいと思ってくれる…の?」
アンジェリークが、静かに、そして何かを恐れるような口調で躊躇いがちに尋ねた。
「ああ、あなたに会えるなら…それが、どんな形でもかまわない…」
「もし、それを望むなら……あなたは、あなたの力が目指す1番自然な道を…あなたの力が欲するままの道を…力が進みたがる方に、心が望むままに真っ直ぐ進んで…そうしたら…もしかしたら…」
「!…そうすれば…俺は…また、あなたに会えるかもしれないと…そう言うのか…?アンジェリーク…」
「でも…それが、あなたにとって幸福なことなのか…嬉しいことなのか、どうか…私にはわからない、だから…どうしてもとはいえない…私に会いに来て、とは…私からはいえないの…」
「あなたに会えるなら…再び会えるなら…俺は何でもする…どんなことでもしてみせる、アンジェリーク」
「ああ…でも…ごめんなさい、今、言ったことは、忘れてもらったほうがいいのかもしれない…私に、もう会わないほうが、あなたには、心安らかな日々がもたらされるかもしれない…から…」
「どういうことだ、アンジェリーク!」
「もう、いかなくては…私…」
「待ってくれ…アンジェリーク…」
「オスカー、あなたの火の力は常に流れる力、留まる力ではないことを忘れないで。だから、その力がそのまま真っ直ぐに育てば…何にも妨げられず大きく成長すれば、きっとあなたは…そして、あなたが天界から招聘された意味をよく考えて…そうすれば、あなたの進むべき道、あなたの天命が見えてくるはず…」
「?…どういうことだ…アンジェリーク!」
「これ以上はいえないの…若い神の進むべき道を既存の神が誘導してはならないから…」
「リタ(天則)…また、リタか!くそっ!」
「オスカー、忘れないで…あなたの力の性質、その意味を考えて………ラートリー、私、もう、そちらに行くわ…」
《間に合わないかと思ったわ、あまり、ハラハラさせないで頂戴、ほら、私の手につかまって…》
落ち着いた女性の声が…ラートリーの声だ、先刻程の威圧感はないが…とオスカーが思った瞬間、アンジェリークの身体が眩く光り、オスカーは、思わず目を閉じてしまった。一瞬、閉じた瞼の裏までもが真紅に思えるほど強い光量を感じ、その直後、また、世界は暗くなったのを感じた。
オスカーは慌てて瞳をあけ、周囲を見渡した。
アンジェリークの姿は、もう、どこにもなかった。
しかし、空を仰げば、ラートリーの衣の色は裾の方から徐々に色あせ、星星は霞み、遥か東の地平は暗紫色から濃紺へ、そして碧緑の色へと、その彩りを変えていく…と思った瞬間、オスカーの目を射抜くように金色の曙光が地平を貫いた。同時に燦爛と輝く金の曙光を彩るように、ばら色の雲がたなびいて、天空を艶やかに覆う。バラ色の雲は、ウシャスが夜明けと同じバラ色の牝馬に腰掛け、ゆっくりと空を昇る時に地上の者に見える徴なのだと、子供の頃、絵物語で見たことをオスカーは思い出していた。その空の色のあまりの美しさに、オスカーの眦には知らぬ間に、涙が滲んでいた。まさに、花嫁衣裳の翻る裳裾のように美しい空だと、オスカーは思った。この夜明けの光の美しさに、全ての生き物は畏敬にも似た思いをよせ、こんなにも美しい光で、自分たちを目覚めさせてくれた女神ウシャスに敬虔な感謝の念を捧げる。この地上の生き物たちは、この、ばら色の雲を仰ぐことで、ウシャスの美しさに思いを馳せるのだ。
『美しい…なんと美しいことか…』
今朝の暁光は、いつにも増してことのほか美しいと、オスカーは胸を打たれた。見つめていると胸が痛くなって言葉を失うほどの美しさは、何故か、底知れぬ哀歓をも同時に呼び覚ました。
そう、この美しさに、どれほど賛嘆の思いを寄せても、どれ程熱く焦がれても、暁紅の女神は地上に生きる者には、決して触れること叶わぬ存在なのだ。
その上…もう暫くすれば、地平の彼方に太陽の輪郭が姿を現すだろう。そして、太陽が完全に地平から離れて天空に輝いた瞬間、暁光は、潔いほどに、儚くあっけなく消えてしまう。
僅かな時間しか存在しえないから、余りに儚いからこそ、この一片の汚れもない、眩しい美しさに、こんなにも俺は胸揺さぶられるのか…言いようのない哀しさが、胸に溢れて止らないのか…
この世に生きとし生ける物全てに、白い御手を差し伸べて目覚めをもたらす、分け隔ての無い限りない優しさ、美しく汚れない心が、そのまま、この暁の空の色に反映されているようだ。
そして、この美しさを間近で享受できるのは、本来は、一人太陽神だけの権利なのだ…。
オスカーは、今、嫌というほど、その事実をかみ締め、思い知らされ、ただ、立ちすくむばかりだった。