陽が昇る。雄雄しく、揺ぎ無い晴れがましさを湛えて、威風を払い、堂々と粛々と太陽が地平線から姿を現し始める。
いつもなら、力強い太陽光にこの身が焦げる程に照らされ、その熱さと光を存分に浴びることは、火の眷属にとっては理屈ではない快感であり、紛れもない悦楽である。
それが、長い雨季明けの太陽光となれば、更なり…というのが、普通の火の眷属の気持であったろう。
しかし、オスカーは、今朝は…今朝だけは、少しづつ威勢を強めていく陽光をその身に受けることが、無性に悲しく辛かった。
この力強い陽光の一条一条が、アンジェリークの気配を蹴散らし、彼女の美しさを焼き尽くしていく気がしてたまらない。アンジェリークのもたらした金色の曙光は、強く眩い陽光に徐々にとって変わられていき、それに連れて空を艶やかに染めていたばら色も少しづつ薄れていって、全ての空はいつしか紺碧の色へと移り変わっていく。これが…この空の色の遷移こそが暁紅の女神が太陽神に嫁する様なのだろうか…陽が完全に昇りきるまでの時間、曙光は陽光に少しづつ屈服していくかのようでもあり、曙光は陽光に中に紛れ込み、陽光と交じり合い不可分になっていくようにも見え…いや、それとも、この傍若無人なまでに強烈な陽光に、曙光は退けられるように霧消してしまうのか…アンジェリークはその間、どうなっているのだろう…何を思っているのだろう…それをオスカーに知る術はない。そして、どのように考えても、オスカーの胸にはそこはかとない悲しみがこみ上げてくるばかりだった。
そして、同時にひしひしと思い知る。
この遥かに広がる蒼穹を前に、限りなく強大な太陽を前に、俺は、余りに無力だ、あまりにちっぽけな存在だ、と…。
今夜、いや、もう昨夜だ…の出来事を思い出すたびに、オスカーは自分の無力感に酷く苛まれる。
高位の神々が司る力は、誠、計り知れない強大さだった。この広大な世界にあまねく力を降り注ぎ、生きとし生けるもの全てに恩恵と庇護を与え、その威光を知らしめることを思えば…天に存る神々の力の強大さは自ずと想像できよう。しかし、昨晩まで、俺は…それを実感としてわかっていなかった。机上の知識として知っていただけ、頭でわかっていただけに過ぎないと思い知った。
だって、まだ、僅かに顔を覗かせているだけの今でも、この力強い太陽の輝きはどうだ?ましてや、中天にある時の太陽の眩さは、その熱さは如何ばかりか。地上の火神100人が束になって火力を放出しても到底敵うまい。そして、夜の女神ラートリーの冴え冴えと凍て付くような峻厳さ、その威圧感。あの時、頭を押さえつけられた俺は、その場から身動きすることも困難だった。俺はアンジェリークの助けがなければ、真実、永遠の闇に包まれて2度と目覚めること能わなかったかもしれない。
そして、何より…実際に目にした暁紅の女神の力の発露は…改めて目にすると息を飲むばかりだった。曙光そのものの美しさはもとより、全ての生き物に分け隔てなく与えられる目覚めの手の優しさ、この限りなく穏やかな暖かさはどうだ…。太陽の光は、時に厳しく荒ぶり、制御を欠いた火のように地上を焼いて日照りや旱魃をもたらすこともある。が、今、ウシャスの手から紡がれる暁光はただ、ひたすらに優しく美しい。
そして、その美しさも優しさも…俺がよく知っている、彼女が俺に示してくれた美点の全ては…本来、太陽神スーリヤ1人のものだったのだ…天則の定めにより。
そう、何もかもが天則だ…と、オスカーは唇を噛んだ。
ウシャスであるアンジェリークは太陽神の花嫁となるよう義務付けられていることも、俺が結局は何某かの火神にならねばならないだろうことも、何神になるべきかの示唆をアンジェリークが俺に与えてはならないことも全ては天則、この世ができたときからある理(ことわり)だという…
では、この天則を破れば、一体何が起きるというのか、この身はあとかたもなく滅せられるとでもいうのか…俺が一人天則に反抗して、一人で罰をうけるのは一向に構わない、たとえこの身が滅せられようと、自分の責任だから…今の俺には何の義務もなく、責任を負うべき存在はいないから…この身が消失したとて、迷惑を被るものは何一つないのだから。
しかし、アンジェリークは…ウシャスの担う務めを思えば…
それを思うと、オスカーは、おいそれと無謀なまねや、向こう見ずはできないことを痛感した。昨夜、ウシャスであるアンジェリークが、反射的に己の身を守るように自分から後ずさった訳も、今なら理解できた。
ラートリーが案じたとおりだ。禊を終えウシャスとしての位相を帯びたアンジェリークに太陽神以外の者が…つまり、俺が迂闊に手を触れていたら…一体、どうなっていた?ただ、触れただけでも、彼女には何の咎がなくとも、ウシャスがリタを破ったとみなされていたら?そして、もし、そのせいでアンジェリークが神性を失い『女神ウシャス』がいなくなってしまっていたら…夜闇の中で安閑と眠る生き物達はどうなっていた?もし、生き物達に目覚めを与える女神がいなくなってしまったら…花々は?鳥達は?多くの獣たちは?
それを思えば、彼女の取った行動が理解できた。彼女は保身ゆえに…つまり、己の身に降りかかる神罰を恐れて俺から遠ざかろうとしたのではないのだろう。己の担う責務、預かる物の重さを思って、反射的に自分に近づくものから遠ざかろうとしたのだろう。それでも…言葉を交わした後は、俺を信頼して、その場に留まってくれた。俺の手が触れるほど…抱きしめようとすれば、そうできた程近くにだ。俺からもっと遠ざかろうとすることもできたのに…。太陽神以外、触れること叶わぬ、その尊顔を拝することすら恐れ多い高位の女神、天の娘が俺を信頼し、あんなにも親身に慕わしげに話し掛けてくれていたのだ…普通の仙や精など一生かけてもありえない、ありがたく恐れ多い経験だろう…
しかし、俺は…『女神ウシャス』から言葉を賜りたかったんじゃない、アンジェリークその人に会って、アンジェリークの声を聞き、共に語り、笑みを交し合いたかっただけだ…だが、今となっては、俺は、この地上で…いや、天界に昇ったその後も、今のようにバラ色の雲、金色の曙光を仰ぎ見て、彼女の美しさに思いを馳せることしかできまい…おそらくは、今後、ずっと…彼女に直にまみえることは叶わないだろう…
招聘され天界にこの身を置く間…勉学と修練を積む間は、俺も、彼女と同じ天界の住人といえるかもしれんが、それはあくまで一時的なものだし、第一、同じ天界の住人といっても、それこそ、俺と彼女では格が違う、違いすぎる。恐らくは住まう階層も異なろうから、すれ違うことは愚か、遠くから仰ぎ見ることも叶うまい…
それでも、彼女に少しでも近い場所に赴けるのは幸いなことか…普通、火神といえど天界には足を踏み入れることは滅多にないのだから……火神は、どれほどの高位神であっても、地上で炎を守ることが勤めだから…そうおいそれと天界に昇る機会はないのだから…。
と、ここまで考えて、オスカーは、はたと思い当たった。
そういえば…俺は火の眷属、本来なら炎を守るため、地上に縛られる身だ…なのに、何故、俺は天界に招聘されたのだろう?将来を見据え、異なった眷属の元で更に見聞を広め、勉学を積ませるためか?単純にそれだけの理由か?
それに、アンジェリークは、なんと言っていた?もし、どうしても彼女に会いたいと思うなら…どうしろと言っていた?
オスカーは、アンジェリークと交わした言葉の詳細を可能な限り思い出そうとした。
彼女に会いたいと思うなら…俺は、俺の力が素直に伸びていこうとする方向に、力が望むままに進めと、彼女は言っていなかったか?
それは、今、俺のもつ火の力を、伸びるに任せて可能な限り成長させ、高位の火神を目指せという意味か?
だが…たとえ俺が火神になれたとしても、火神である限りは基本的に地上に縛られるし、かなりの地位でなければ天界の神殿への殿上も許されまい。アグニのように、火神の中で最も高位の…各界の最高神レベルでなければ、彼女の顔を遠目に仰ぎ見ることも叶わないのではないだろうか。彼女はそれだけの品格の女神なのだから。その中でも彼女と直に話ができるほど近くで会えるのは、恐らく天則で配偶者と定められた太陽神だけか、よくて、天界の最高神…蒼穹の神ヴァルナか、ヴァルナと対をなす契約の神ミトラくらいではないのだろうか…
となれば、たとえ、俺が高位の火神に任じられても、結局は、太陽神でもない限り彼女に直接目通り叶うとは…
「!!!」
そこまで考えて、オスカーは漸く気づいた。
何故、今の今まで、こんなに簡単なことに気づかなかったんだ!
そうか…そういうことなのか?アンジェリーク…
あなたは、昔、言っていたな、俺の火の力の本質は流れる力だということ、普通火の力は、触手を伸ばすように広がることはあっても、基本的には一点に留まり自らは動かない…しかし、俺の力は、火の眷属には珍しく常に流動する力ではないかと示唆してくれた。だからこそ俺は他とは異なる火の力の制御に苦しんでいたのではないかと。
そして、俺が天界に招聘されたわけを考えろとも彼女は言った。どちらにしろ火神になる運命が避けられぬならば…火神にならざるを得ないのなら…火神の中で1人だけいるではないか。1箇所に留まらずともいい、いや、常に動いているもの、そして、地上ではなく、天にその力の顕現の場を持つものが…儀式や典礼のため一時的に天界に殿上するのではなく、常に天界に存在できる…天界に住まう火神が1人だけいるではないか…
更に言えば…火神の力は基本的に不安定であり流動するものだ。それこそ火勢のように…激しく燃え盛っている炎が一瞬にして消沈してしまうことがあるように、強い力を持っている火神でも、何時、力が衰えるかは全くわからない。ために、火神は代替わりが頻繁におきることを俺は書物から学んでいる。その点が、ほとんど世代交代のない天界や地界の神々から些か軽んじて見られる理由の一つらしいが…今は、この現実が、俺には一つの可能性に思える…なぜなら、どんな高位の神であっても、火神は火神である以上、その地位をいつか誰かに明け渡す…誰かにとって替わられる可能性が多分にあるということだからだ…
そうなのか?そういうことなのか…アンジェリーク…。
俺の前に道は示されていると思っていいのか?その道は余りに遥か遠く、今の俺には、その道の果てに行き着くことは、あまりに大それた、身の程知らずなものに思えてやまないが…
だが、アンジェリークは俺に、自分の力を素直に信じて伸張しろとも言っていなかったか…。あなたは、何時の頃からか、俺の中に存る火の力の本質を見抜き、俺の進むべき道を予見していたのか…夜明けの女神であるあなたは、俺の中によく見知った性質を見つけて、それで親近感を抱いてくれたのか、だから、俺にあんなに親切にしてくれたのか…?
それとも、潜在する力を扱いあぐねて持て余し…いわば力を眠らせていた俺を、生き物に目覚めをもたらす女神であるあなたは、見かねて手を差し伸べてくれたのだろうか…。
何故だろう…それを考えると、オスカーはしくしくとした痛みを胸に感じた…アンジェリークがウシャスであると…而してスーリヤの花嫁であると知った時のようなキリキリとした痛みではないのだが…鈍く重苦しい痛みに胸が塞がれる想いがする…。
しかし…そうだ…もう一つ気にかかることがある…。
彼女が俺の将来ありうべき姿を俺の内部に見出していたのなら、それなら、どうして「やっぱり私の言ったことは忘れて」と最後に付け加えていたのか。
火の力を極限まで成長させねば、この道の成就は難いからか?半端に力が伸び悩めば、結局は、半端な火神に留まる可能性が高いから、無謀なことを提言したと思ったからか?俺の挫折を心配したのか?
俺に進むべき方角のかすかな示唆を与えておきながら、それを撤回しようとした彼女の真意はよくわからない。
が、彼女の思惑ではなく、自分はどうなのだ?自分はどうしたいのか、どう動けば後悔せずにすみそうなのか、それをよく考えて見ろ、オスカー。
いかに障害が大きかろうが、乗り越えるべき障壁が高かろうが、手をこまねいで漫然と過ごしていたら、結局は、地上に、己の守る火に縛り付けられる火神になるしかないだろう。その時点でアンジェリークとは2度と会えないだろうことが確定してしまう…最初から無理に決まってると自分に言い訳して、何もせぬままにいて、結果、そうなって俺は後悔しないのか?何処まで行けるのか、何故、試すだけでも試してみなかったのかと、後になって思い悩んだりしないと言い切れるか?努力するだけして、それでダメなら諦めもつこうが、努力もせずに最初から勝負から降りてしまったら…俺は、その後何神になっても…たとえ最高神アグニになったとしても、苦い悔恨を生涯引きずることになりはすまいか…。
ならば、俺はどんなに可能性が低かろうが、アンジェリークに出会えるかもしれない道に向かって進んでみたい、その道を選びたいんだ。できるかできないか、やってみなくてはわからないが、まずはやってみなければ…決断しなければ、最初から全てを諦めたことになってしまう。そして、俺は、それでいいのか?アンジェリークと2度と会えない道を、何にも挑まず、何もトライしないことで結果として選びとることになってしまってもいいのか?彼女に通じるかもしれない道を「どうせ無理だ」の一言で諦め、降りてしまって後悔しないのか?
それを思えば…答えは、選ぶべき選択は、挑戦すべきことは何か、自明に思えた。
「わかった、あなたの言葉の意味が、わかったような気がする、アンジェリーク。結果がどうなるかはわからない、けど、俺は…やれるだけのことをやってみようとおもう」
オスカーは彩雲たなびく空を仰いで、静かに言った。太陽はまもなくその全容を現す。が、太陽が完全に地平から離れて天に昇るまでは、空はウシャスのものだ。そして、今日の夜明けは、やはり何時にも増して…胸が締め付けられる程に美しく、そして限りなく優しいと、オスカーは改めて感じた。
と、見上げている空一面が、一際鮮やかな紅蓮にそまり、燃え上がった。その瞬間、オスカーは、アンジェリークが自分の名を呼んだ、その声を聞いたような気がした。
その直後、太陽は地平から離れ、その威容を完全に露にした。暁の紅の色は瞬く間に色あせ、抜けるような濃い青空と苛烈なまでに容赦なく眩い太陽光とにとってかわられた。
オスカーには、その鮮烈な紅蓮の色は、アンジェリークのしなやかな腕から発せられた、今朝、最後の暁光に思えた。
オスカーは黙って踵を返し、火の宿舎へ帰っていった。残っている身辺の整理を片付けてしまわねばと思いながら。
東の最果ての神殿で、暁の女神ウシャスは姉妹にして夜の女神ラートリーと掌と掌を合わせ、指を絡めてから、すれ違う。
その瞬間、夜は終わりを告げてラートリーは眠りにつく。
そして曙光と目覚めをもたらすべくウシャス=アンジェリークは、ばら色の牝馬の背に乗って神殿を発ち、天空の道へゆっくりと馬を駆る。蒼穹神ヴァルナが切り開いたという、太陽と月が通るための天空の道を、全ての生きとし生ける者に、夜明けの光を授けるために。アンジェリークが御する馬は小柄ながら燃えるような赤色の体毛をもつ闊達な牝馬だ。ウシャスをその背に乗せるためにのみ生を受け、ウシャスにしかその身を触れさせない。
その穏やかな気性ながら毅然とした牝馬はゆっくりとした速度で歩を進める。アンジェリークが馬を進めた後から、空の色は漆黒から深い藍色へと移り行く。アンジェリークが身にまとっている緋色の衣装は、馬の歩みに合わせて焔のように揺らめき、その裾模様は踊るように中空へと消えていく。中空に溶け行く装束の緋色が、そのまま空を染め上げているかのように、アンジェリークを乗せた馬が1足歩むごとに、その後から、空は濃紺から暁の紅へと染まっていく。程なく空は、一面に燃え盛る澄み切った紅蓮のような紅の色に彩られることだろう。
アンジェリークは見るともなしに自分の辿っている空の道を軽く振り返り、馬の歩みの後から広がっていく暁紅の光をみやった。澄み切った、それでいて、そこはかとない深みのある紅の色が、少しづつ天を覆っていく様が手に取るようにわかった。
オスカーは、地上で…あの泉の辺で、東の空を見上げ、この夜明けの光を見つめてくれているのかしら…
それとも、ずっと、正体を黙っていた私に裏切られたような気持ちで…もしかしたら、もう、夜明けの空など見るのも嫌と思っているかしら…
いいえ…きっとだけど…確信はないけど…オスカーは、今、夜明けの空を仰いでくれている…そんな気がする。
アンジェリークは、やはり、無意識のうちに、ちらりと地上へと目をやった。天空の道には馬のひづめの跡はつかない。とはいえ、天空の道から下界に目をこらしても、そこに見えるのは、自分の放つ暁紅の光と、その照り映えで薄紅から淡い桃色に染まっているわた雲だけだった。
『私の放つ夜明けの光はオスカーに僅かでも届いているかしら…オスカーはこの空をきれいと思ってくれているかしら…だって…もう、きっと…オスカーに、直接会うことは…会って言葉を交わすことは、とても難しく…いえ、多分もう2度とないから…だから、せめて、この暁紅の光を届けたい…あなたに、誰よりも清しい目覚めをもたらしてあげたい…』
オスカーのことを思うと、そして、オスカーには多分、もう2度と会うことはないだろうと思うと、アンジェリークは何か、熱い塊を飲み込んだかのような、その熱い塊が喉につかえたままでいるような、胸苦しい心持に苛まれた。
『オスカー…出会った最初の時から、ついさっきまで…私がウシャスと知っても、ウシャスであることを黙っていたと知っても、あなたは、いつも、変わらず優しかった…数ヶ月に1度しか会えなくても、私は、あなたに会って、お話ができること、本当に楽しみだったの…』
天の娘として生まれてから…私はどれほどの年月を生きてきたのか、幾度の夜明けをもたらしてきたのか…あまりに長い時間なので…もう、よくわからない。でも、夜明けをもたらすための準備がいらない雨催いの夜を…禊が必要ない「お休みの夜」を、こんなにも楽しみに胸弾む思いで待ちわびるようになったのは、この数年のこと。オスカーと出会ってから。オスカーと出会ったから…
ここ数年、雨神パルジャニア様の気配を感じると、私は、そわそわと落ち着かなくてなんだか浮き足立ってしまうようになっていた…明日は雨、なら、泉にいける、オスカーに会える。明日会ったら、オスカーはどんなお話をしてくれるだろう、そして、私から話をする時は…あの、澄み切った炎の色の瞳を細めて、優しく笑って聞いてくれるかしら…。
そう思うと、どうしてだろう、酷く胸がざわざわして落ち着かなくて、そのくせ胸の中に温かな泉が滾滾と湧き出すように潤った。胸にとても大事なものを抱えているみたいな気持ちになって…オスカーは、今夜も来るかしら…って思うと、鳩尾の辺りがしぼりこまれるように苦しくなることもあったけど…でも、それは、今感じてる息苦しさや胸苦しさと全然違う感覚だったわ…いえ、その気持ちは、本当は「苦しさ」ではなかったかもしれないとさえ思う…あの気持ちは何だったのだろう…何故、私はあんな風に感じたのだろう…?
そうだわ、それに…オスカーが、私に変わらず会いにきてくれることも…ずっと、不思議に思っていたの。
毎日が、めまぐるしい勢いで変わっていく、色々な人との出会いがある地上の生活で、オスカーは、どうして、私のことを忘れずにいてくれたの?
それは、オスカーの言っていた「恋」というもののせいなのかしら…
でも、オスカーにとっても、私との他愛ないおしゃべりが…胸に抱きしめた大切なものであったらいいのに…と私もずっと願ってた。
だけど…こんな楽しい歳月は長くは続かないとわかってもいたのよ。
オスカーは火の眷属の若者で…その前途は果てのないほど有望なことは、出会った当初からわかっていたことだったのだもの。
特にここ数ヶ月は、楽しいだけの気持ちではいられなかった…
そうよ、わかっていたことじゃないの。
もう、程なく終わりが…お別れがくるだろうって…。
だって、オスカーの力は、その成長は、力をはっきりと発露していない時でも、眩しくて…目がくらむほどだったもの。
オスカーの火の力は、目にみえて著しく成長していくのが、私、傍にいるだけでも、よくわかった。数ヶ月に一度しか会えなかった時は、尚更はっきり感じたわ…オスカーは、私の傍らでは、寛いで、気を楽にして、火気を意識して弱めたり抑えたりしていなかったから…私、はっきりと、オスカーの力を肌身で感じてた。あんなに強い火の力…夜の真闇の中でも、オスカーの火の力は内側から轟と音を立てて、激しい勢いで焔を巻き上げているように私には感じられた…。眩さと、その熱で、目が眩みそうだった。
だから…わかっていたことだったの。
程なくして、オスカーは、火神に任じられる。火神になれば、司る火、守るべき火から火神は離れられなくなるから、もう、火の泉にはこられなくなる。
それでも、黙っていなくなったりしないと約束してくれた。私にも黙っていなくならないでくれと、言ってくれた。そして…実際に…お別れの言葉を…再会の希望と可能性を願う言葉まで携えて…一時の…ええ、オスカーにとっては、あくまで一時のお別れだと信じて…わざわざ泉で私を待って…告げにきてくれたのね。
ラートリーに夜の力で圧倒されそうになりながら…相手がラートリーと知っても一歩も引かず…私にどうしても伝えたいことがあると言って…
こんなに優しい人を、こんなにも勇敢な人を私は知らない、オスカー以外に知らない。
今、アンジェリークの瞳からとめどなく溢れ、頬をはらはらと伝い零れる暖かい雫があった。
しかし、アンジェリークの、もう、すぐ後背に近づいてきている白熱に輝く眩い存在の熱で、その雫は頬を濡らす間も、滴り落ちることもなく、蒸散する。
何より、アンジェリークは、自らの瞳が、とめどなく透明な雫を溢れさせていることを、よくわかっていなかった。この時のアンジェリークは涙の存在も、涙の意味も、いまだ知らなかったから。
涙の意味だけではない。
明日を心待ちにする気持ちも、誰かを慕わしいと思い、また、会いたい、会って話したいと思う気持ちも、オスカーに出会うまでアンジェリークは知らなかった。会いたいと告げられ、また、会ってくれるかと問われた時の地上にいながらにして舞い上がるような浮遊感も、うっとりとした悦びの感情も未知のものだった。そして、今、ある人に2度と会えないかもしれないと思う時の、胸に穴が開くかと思うようなキリキリと鋭い痛みも…
それら何もかも、オスカーと出会って初めて知った物思いだった。
ならば…オスカーと会えなくなれば、この物思いも、あとかたもなく消えるのかしら…私のこの身が、この意識が、毎朝、陽に灼かれて霧消するように…
でも、何故かしら、私、忘れたくない…。初めて知ったこの物思いが消えてしまえば、この胸も痛くなくなるかもしれないのに…苦しくなくなるかもしれないのに、私、忘れたくない…
だって、もしかしたら…万に一つの可能性かもしれないけど…私がオスカーともう一度出会う可能性はある。オスカーが天上界に招聘されたのなら、その可能性は…五分以上にある。
しかも、私は…その道を示唆してしまった。
もう一度オスカーに会えるものなら…その期待に、明日への希望に、自身が負けてしまった。
…その道へ向かうことが、オスカーにとって幸せなことかどうか、わからないのに…
そして、きっと、オスカーには、その道の向かう先がわかってしまうわ…オスカーは…とても聡明な少年なのだもの…
私は、何も示唆したり…望んだりしてはいけなかったんじゃないの?
だって…ああ…もう背中が焼けるように熱い。この頃とみにスーリヤ様のお力を強く感じる…火の泉の加護のおかげで、この熱さは苦痛ではないけど…
後ろを振り向かずともわかる。太陽神スーリヤ様は、もう、すぐ傍までいらしている。
私を背中から思い切り抱きしめ、自分のものとなさるために。そして私の放つ暁紅の光は眩い白熱の太陽光に飲み込まれて見えなくなり、交じり合って不可分となる、それが夜明けの女神と太陽神の婚姻の儀式…。
私の身を今にも抱きしめようとしているこのスーリヤさまは、何人めの太陽神だったかしら…覚えてない…数え切れないほど、繰り返してきたことだから…ある時、見知らぬ男神さまがいらっしゃる。東の神殿で目通りさせられ、私は恭しくご挨拶するの。暁紅の女神にしてスーリヤ様の花嫁、ウシャスと申します、と。すると、太陽神さまは、いつも…どの太陽神さまも、怖いほど熱っぽい瞳で、食い入るように私の姿をご覧になる。私は何か恐ろしいような気持ちになって顔を伏せてしまう。そして、ラートリーに替わって天空の道に立ち、馬を歩ませ始めると、私を抱こうと追ってくる火気の性質が少し変わったのを感じる。それで、「ああ、これが新しいスーリヤ様の御力…」って肌でわかる。そう、力は…肌で感じるから、よくわかるの、でも、私、今のスーリヤさまの顔も、今までのスーリヤさまの顔もほとんどわからない、覚えてない…一瞬しか目にできないから、覚えられないの…だって、火神さまの外見は、皆、よく似てらっしゃるし…それに、スーリヤ様はどなたも皆、飢えた獣みたいな目で私をご覧になるから…同じ火の眷属の筈なのにオスカーと全然違う、オスカーのように優しい涼やかな瞳なら、私、ちっとも怖くないのに…いえ、いつまでも見つめていたい、見つめてほしいとさえ思うのに…でも、ぎらぎらとした光を放つ双眸は何故か私には無性に恐ろしくて、私、スーリヤ様のお顔がまともに見られない。だから、天の道に馬を駆る今も…後ろを振り向けない。
その上、スーリヤさまに抱きしめられたら、その直後に私のこの身体は消えてしまうのだもの。いつも、いつまでも、私にわかるのは、白熱の眩い火気だけ…この身体が陽光にかき消されると、こうして何か考えてる感じてる自分も…真っ白な光に飲み込まれて何もわからなくなってしまう。暁紅の光が太陽光に隠されて見えなくなるように、私の意識もスーリヤ様に飲み込まれてしまうのか、私の体は、溶けてなくなるのか、光の粒となって飛び散ってしまうから何もみえなくなるのか…自分ではわからない…私の意識も真っ白になって薄れていくだけだから…でも、これが、私とスーリヤさまの婚姻、この宇宙が始まった時からの婚姻のありかた…。
だから、考えたこともなかったのよ。
意に沿わぬ婚姻なのか?なんて…オスカーに尋ねられるまで…。
だって、婚姻は誓約であり契約だから。それ以上でもそれ以下でもないから。でも、意に沿わぬ婚姻があるなら…意に沿う…心から望む婚姻があるということ?それは、どんなもの?どんな感じがするものなの?どうすればできるの?
オスカーみたいに…また、会いたいと思う人、もっと会いたい、話したいと思う人となら、できるの?オスカーが私に言っていた…「恋する」という気持ちのある人?でも…好きという気持ちなら、私だって知ってる、ラートリーのことが大好きだもの。天のお父様もお母様も大好きだもの。でも、オスカーのことを思うときの気持ちと、ラートリーと一緒にいる時の気持ちは全然違う…あんな風にドキドキして、なのに、一緒にいると、心の中に暖かな泉がわいてくるような気持ち…いつまでも声を聞いていたい、その顔(かんばせ)を見つめていたいと思う気持ち…それが恋?一緒にいると幸せで、会えないと思うと胸が締め付けられるように痛い、これがオスカーが言ってた…「恋してきた」という気持ちなの?
ああ、そうだわ…私、オスカーと会える日、オスカーと一緒にいられる時は、とても胸が温かく充ち足りた。
逆に、今、オスカーにはもう2度と会えないかも…って思うと、胸に穴が開いたみたいに、痛くて苦しい…
それなら…私とオスカーは同じ気持ちを抱いていたの?
もし、そうなら、今まで、私と会うことは、オスカーにとっても、また、胸弾むできごとだった…私とオスカーは、確かに暖かに満ち足りた時を過ごしてきた…一時の限られた時間だったけど、二人で一緒に過ごしたあの時間をこそ、幸福と言うのなら……
それなら…オスカーにとって…もう一度私に会うことは本当に幸福なことかしら…。
それに…幾人ものスーリヤさまたち…太陽神となって当然のように私を娶るスーリヤさまたちは幸福だったの?今、私を捕まえて…だきしめようとしているスーリヤ様も…私を花嫁として抱いて、幸福なの?だってオスカーが、私と一緒にる時に発している暖かく穏やかな、満ちたりた火気が全く感じられない…オスカーと一緒にいる時感じる思いが…今のスーリヤ様からは伝わってこない…いえ、今までのどのスーリヤ様からも…感じた覚えがない…私も、オスカーと一緒の時みたいな、暖かな満ち足りた思いを感じたことはない。ただ、スーリヤ様の熱が、ぎらぎらと狂おしいほど激しく熱いだけで…
今も…もう、いらっしゃるわ、スーリヤ様が…ほら、もう、私のすぐ後ろにいらしてる…
アンジェリークは淡いばら色の体色をした牝馬の首を軽く、労うように叩いた。
もう少し…早く走って…もう少しだけ、今は、この空にできる限り留まっていたい。オスカーが、すぐ、この下にいるのだもの…きっと空を見ていてくれているのだもの…
ああ、でも、わかる、スーリヤ様が懸命に私の方に腕を伸ばしている…。
ならば、スーリヤ様に抱きしめられるその瞬間まで…せめて、その時までは、この暁の紅の色が、オスカー、あなたの瞳に焼きつくよう…闇夜を裂く夜明けの光が、まっすぐにあなたの元に届くよう、そして…これからの無数の朝…陽が昇る日はあなたに飛びっきりの目覚めを…
そう考えた時、赤銅色の逞しい腕が、アンジェリークの華奢な身体を羽交い絞めに抱きしめた。
『オスカー…』
瞬間、アンジェリークの身体を覆っていた緋色の衣が火柱のように燃え上がってその身を包みこみ、その直後、アンジェリークの身体は中空に溶けるように、飛び散るように、かききえていた。
太陽神は、今は何もない空間を抱きしめる姿勢のまま、彫像のように身じろぎ一つせずに、ただ、馬が走るに任せたまま馬車を駆っていた。それでも、7頭の栗毛の馬たちは、走りなれた天空の道を、軽快に並足で駆けていった。
天上界へ出発するまでの2日間は、文字通り飛ぶように過ぎ去った。
オスカーには、その2日間の記憶が断片的にしか残っていない、時間は、いつもの倍以上の速さで過ぎさっていくようでありながら、時折、絵画のような光景がぽつんぽつんと忘れがたく心に刻まれている、そんな感じだった。
私物はほとんどなかったから、身の回りの整理は簡単だった。温暖な気候のこの火の地では衣服は薄衣1枚で事足りていたし、学徒の身ゆえ、典礼用の衣装など余分な衣類もなかった。勉学や鍛錬に用いたものは火の学び舎から支給された貸与品だから、後輩たちに残していけばよかった。オスカーは年若いものたちが、自分のいなくなった後の宿舎や学用品を使いやすいようまとめるだけだった。日ごろの整頓が行き届いていたので、それも簡便に済ますことができた。
慌しかったのは、オスカーの友人の少年たちが次から次へと、オスカーの前途を寿ぎつつも、別れを惜しんでくれたからだった。13、4の頃から、4年あまりの歳月、寝食を共にし、火神になることを目指して、互いの力を鍛錬しあい競い合ってきた仲だった。火の眷属としては、いわば頭一つ抜きでて先に進むことになったオスカーだったが、皆、そんなオスカーの境遇を心から祝い、よき未来を祈ってくれた。周囲がオスカーへの評価と抜擢を当然のことと受け止め、素直な気持ちで祝ってくれたのは、オスカーが常日頃から、己を磨き、力を向上させる努力を惜しまずにいたことを、皆、知っているからだった。オスカーの目は、いつも、ここではない何処か遠くを、今ではない何時か来る未来に向けられ、それを見据えているように、皆、それとなく感じ取っていたからだった。
そして、オスカー自身は、自分が同じ年頃の友人に恵まれたのも、アンジェリークのおかげであると思っていた。アンジェリークが、火の力の巧みな制御方、要領のいい逃がし方や流し方があること示唆してくれなければ、周囲を傷つけることを恐れるあまり、自分は、頑なに力を抑圧しようとするばかりだっただろう。そして周囲には偏屈な、何を考えているかわからない、人との交わりを避けようとする暗いヤツと思われていただろうし、俺は俺で、そんな評価を受けていたら「人の苦労も知らないで…」と僻んだり、自分の火の力や無理解な周囲を恨むような気持が芽生えなかったとは言い切れない。どちらにしろ、人間関係は最悪だったろうし、俺との別れがあったとしても、せいせいするぐらいにしか思われなかったかもしれない。だから、今、こうして、俺の周囲に人がいてくれて、別れを惜しみ、前途を励ます言葉をかけてくれるのも…全てはアンジェリークのおかげだと、オスカーは思っていた。
それでも、友人たちは、オスカーが数年すれば、天界からまた火の地に戻ってくるものと思っていた。『もちろん、その時はオスカーはきっと高位の火神に叙されてるだろうから、俺達とは大分差がついちまってるだろうけどな』と笑いながら。オスカーは静かに笑みを返し、友の顔の一つ一つをつぶさに眺めては、その笑顔を記憶に焼き付けようとした。オスカーは、故郷にあたるこの火の地や、地上での勤めを蔑ろにする気は毛頭ないし、この場所は何時までも懐かしく慕わしい心の拠り所でいることだろうと思っている、が、自分はこの地には戻ってこないことを、天界で神職を得ることをこそ望んでいるのだとは、友人達には言えなかった。
一通り惜別の挨拶を受け、出立がその日の夜に控えていた午後、自分はどのように天上界に送られるのだろうと思っていると、教官から呼び出しを…恐らく最後の…を受けた。
聞けば、今夜、供物を天上界に捧げる炎にオスカーも焼かれることにより、天界に上がるのだという。
「そこでだ、儀式に先立ち、おまえには禊をしてもらわねばならん。禊をせずにアグニ神の司る炎に巻かれれば、たとえ火の眷属といえど無事ではすまん。その熱さと痛みに耐えられず、天にあがる前に無様に祭壇から飛び降りることになるか、下手すれば焼け死ぬ」
「禊?禊とは…火の泉での沐浴のことですか?」
「おまえ…禊の何たるかを何故知っている?いや…それ以前に、何故、火の泉の存在を知っているのか?」
「書物で…見た覚えがあります」
当たり前だが、オスカーはアンジェリークとの逢瀬も、交わした言葉も、この教官に限らず、誰にも知らせるつもりはなかった。
「火の泉のこともか?」
「もしや、ここでは…という泉なら知っています。この火の地でも東のはずれの森を抜けた、更にその先に…それらしい泉を俺は見たことがあります」
「そうか…」
教官は何故か、眩しそうに目を眇めてオスカーを見つめた。
「なら、案内はいらんな。尤も俺も…その泉が東の森の果てにあるという以上には詳細を知らんのだ…というより、場所を聞いてもたどり着けんので具体的な道筋はアドバイスはしたくてもしてやれなかった、だから、おまえが、既に火の泉の在り処を知っていてくれて助かった…」
「…」
教官は深い吐息をついて、一瞬天井を仰いだ。その間、オスカーは沈黙を保っていた。あの泉にめくらましがかかっているということは、アンジェリークから聞いていた。だが、それでも自分は随分と昔に、特に何も意識せずにあの泉を見つけ出したから、アンジェリークが言うほどの強力な結界ではないのではないかと…目くらましというのは、俺の火の力に自信を持たせるための善意の誇張なのではないかと、オスカーは疑うというほどではなく思っていた。が、オスカーは、今、そんな自分を恥じていた。この教官にして、泉への道筋が見出せないのなら、アンジェリークの言葉は誇張でもなんでもない、単純な事実だったのだ。そして、火の泉を何の気なしに自力で見出していた俺は…。
「おまえが天上界から招聘を受けた理由が、今更ながらに、よくわかる」
ポツリと教官は呟くと、儀式の時刻までに、その泉で沐浴を済ませて来いと命じた。
オスカーは黙って目礼して退出した。
夜の帳が辺りを包みつつあった。
ラートリーの暗紫色の衣は、今宵も裳裾に煌めく星々をちりばめて天空をくまなく覆っている。この厳かで深遠なる夜空の美しさは、まさしく、あの「ラートリー」らしいとオスカーは思う。
オスカーは、火の神殿の只中にいた。
眼前の祭壇には、火神の中の火神、地上で最も強力な火力をもつアグニが司る聖火が燃え盛っている。人間達から捧げられた供物は、この聖なる火にくべられることで、その真髄を損なわずに天界へと送り届けられる。火の眷属で、天界より招聘された者もまた、然りである。
オスカーは夕刻までに、この火の中に入るための準備として、火の泉での沐浴を済ませてきていた。いまや、その身体は赤橙色の薄手の長衣に…角度により、また、風のそよぎやオスカーの動きに連れて赤から金に絶え間なく揺らめいて、その突端は中空に消え行く、まさに炎が実体化したような衣装で覆われていた。
この装束は、儀式に先だち、オスカーが火の泉での沐浴を済ませて水から上がると、自然と身にまとわり付いてきたもので、布ではなく、火の泉の加護の力が目に見える形で実体化したものだった。
教官に禊のための沐浴を命じられるとすぐさま、オスカーは、緑の陰影濃い森を急きたてられるように足早に通り抜けて火の泉に向かった。
陽のあるうちに泉を目にするのも、泉の辺に立つのも初めてだった。泉の水面はやはり磨きぬかれた鏡面のように小波一つなかった。蒼穹とまばらに浮かぶ白い雲をその面に映している泉のたたずまいを見ていると、どこが空と水面の境目か区別がつかないほどだった。火の泉の面(おもて)が空と一続きになっている様を見ていると、ここが天界へ通じる象徴的な存在であることが、理屈でなくわかる気がした。
日中とはいえ、アンジェリークも沐浴する泉で、これから自分も沐浴するのか…と思うと妙に胸が騒いだ。嬉しいのではなく、照れくさいような、居心地悪いような、落ち着かない心持だった。落ち着かないからこそ、事務的に、さっさとやるべきことは済ませてしまおうとオスカーは考えた。
しかし、禊のための沐浴といっても、特別な作法は聞いていなかった。恐らく教官も仔細は知らなかったのであろう。とにかく、全身、泉に浸かればいいのだろうと思い、オスカーは無造作に革の編み上げサンダルと、腰に巻きつけてある布を解いて、泉に足を浸した。泉の水は、昼のせいか、夜のそれに比べて、殊更暖かく感じた。
『沐浴というよりは湯浴みだな…』
そんなことを思いながら、腰の辺りまで泉に浸かったところで、ざんぶと全身を泉に預けた。途端に手に取って掬えるのではないかと思えるほど濃密な火の力にオスカーの全身は包み込まれた。火の力に肌の隅々まで覆い尽くされるような感触と、表皮だけではなく、身体の中心に火が灯り、じんわりと内側から暖かくなっていくような感覚も同時に感じた。オスカーは一度、頭ごともぐってから、ぷかりと仰向けに水に浮かんで、空を見上げた。もうすぐ、夕刻の茜色が空を彩る頃合だ…この時刻、あなたはどんな形でこの世界にあり、なにを思っているのだろう…空を見れば、否応なくアンジェリークに思いを馳せてしまうのは、どうにも仕様のないことだった。考えても詮方ない…思いきるように頭を振って水飛沫を飛ばし、抜き手を切って岸にたどり着いた。、泉から上がろうとすると、水から外にでた体の部分に、角度により緋にも金にも見える霞のようなものがまとわりつき始めた。その金赤色の霞はオスカーが泉から上がる間にも少しづつ収斂しオスカーの肌を覆っていく。そして泉から上がり、腰布を結び、手早く身支度を整える僅かの間に、オスカーの全身は、緋色を主とした、周縁のみ金の色味を帯びた薄絹の長衣に覆われていた。いや、長衣をまとっているかのように見えるようになっていた。
が、オスカー自身には、緋色の衣に布の感触は感じ取れなかった。全身を熱く火照らすような火の位相が自身をくまなく取り巻いているのを強く感じるだけだ。恐らくは火の位相が強力なために、人の目には、その力が身体を覆う衣のように実体化して見えるのではないかと、オスカーは考えた。となれば、アンジェリークの身体を美しく彩っていた緋色の衣装も、アンジェリーク本人からは、肌を焦がすほど熱く力強い霞のようなものに感じられていたのかもしれない…彼女もまた、太陽光に全身を焼かれる時に、熱さや苦痛を感じないために、火の泉での沐浴を必要としていたのだろうか…それが…火の泉が彼女の仕事に必要…という意味だったのだろうか…。
そんなことを考えながら、オスカーは火の神殿に向かった。そして、今、自らも天界に捧げられる供物の一つであるかのように、神妙な面持ちで祭壇の前に立たされている。
火の泉から出た時からずっと、全身にまとわり付いた火の位相は力を弱めることなく、今もこの身をかっかっと火照らせていた。
あの時のアンジェリークも今の俺と同じ火の力の加護を全身にまとっていたのだろうな、きっと…
ついついアンジェリークのことを考えてしまう自分に気づき、オスカーは目前に迫った儀式に集中しようとした。おりしも神殿に仕える火仙たちの讃歌の詠唱が一際高らかとなった。
どうやら、いよいよ俺の番らしい、とオスカーは轟々と燃えて、火の粉を中空へと巻き散らかしている炎をじっと見つめた。
火仙たちが道を開け、オスカーに足を運ぶよう、所作で示した。
オスカーは迷いなく、祭壇への階(きざはし)をしっかりとした足取りでのぼり、一息だけ、呼気を整えてから、炎の中にその身を躍らせるように分け入った。
視界の全てが明るい赤と朱色と金色に染まった…が、視界自体は明るく清明だった。その赤い色を透かして、祭壇も火仙たちもよく見えていた。
炎に巻かれる苦痛はない、ただ、体中が、文字通り燃えるように熱いだけだ。しかし、それは、爽やかな乾いた熱さで、全く不快感はなかった。
『これで…これだけで俺は本当に天界に昇れるのか…?』
あまりのあっけなさに、オスカーの胸には、少しばかり懐疑の心が芽生えた。
火神アグニや太陽神スーリヤの御する超高温の炎に焼かれて無事でいるためには、火の泉での禊が必要不可欠であること、だが、火の泉は誰にでも見つけられるものでもなければ、容易にたどり着けるものでもないこと、つまりは、火の泉にたどり着けること自体が、選別の証なのだが、この時のオスカーは、火の泉の力も、その真価も、まだ本当の意味では理解していなかった。故に、オスカーは火神になるための条件を、もっとずっと年若い時から、何の意識もなしに満たしていたことを、オスカー自身はまだ自覚していない。その事実を知っているのはウシャスであるアンジェリークとラートリーのみであり、更に、オスカーの潜在的な能力と真価を理解しているのは、この時点では、恐らくアンジェリーク一人であった。
と、オスカーの目の前の視界の赤が、一際濃くなったような気がした。
次の瞬間、オスカーは頭の天辺から全身をぐぃっと引き抜かれるような感触と、足の裏が地面から離れて、ふぃっと身体が宙に浮くような感触を味わった。視界がぐるぐると回って、どこの何が上下だか、わからなくなり、オスカーは思わず一瞬目を瞑った。
閉じた瞼の裏が白い光で満たされた。
『眩しい…』
そう思った直後に、その眩さも、自身を取り巻く熱ささえもが、一時に消え去った。熱さの替わりに心細くなるほどのヒンヤリとした空気を感じた。尤もこれは、つい今しがたまで炎に巻かれていたオスカーだからこその体感温度であって、実際に、周囲の空気は熱からず寒からずの、人の身には快適な気温だったのだが。
オスカーはゆっくりと瞳を見開いた。
開いた目に、キラキラしく麗々しい神殿らしい建物の様子が映った。複雑で典雅な装飾を施された大理石らしき石柱が無数に立ち並んでいる。豪華な綾織のタベストリーで覆われた広大な壁と、アーチを描いた、呆れるほど高い天井があった。今までいた火の神殿がいかに質素で無骨で洗練されていなかったのかを…今まで、火の神殿ほど荘厳な建物はないと思っていたのにだ…思い知らされるような煌びやかで壮麗な内装だった。
オスカーはその建物のほぼ中央、しかも、周囲より一段高い壇上に立っていた。天上界の神殿…地上の世界と天上界を繋ぐゲートとなっている神殿に自分が到着したことをオスカーは知った。
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