《ねぇ、ラス、私たち、どうして娘一人しかできないのかしら?》
《父なる天が、俺たちは娘1人の親であることが相応しいと考えたからだろう》
《そう、そうね…でも、私たち、こんなに仲がいいのに…何人できてもいいくらいなのに、子供が1人しかできないのが不思議で…》
《仲がよすぎるのかもしれない》
《え?》
《仲がよすぎても子はできにくいものらしい。俺たちがあまりに仲が良いから割り込めないと思って、子供の方が遠慮してしまうのかもしれない。…だが、だからといって、わざとおまえにつれなくするなど、俺にできるはずもない》
《ラスったら…やだ、もう…》
《何を赤くなっている?リン》
《だって…そんな…照れる…》
《そうか》
《でも…嬉しい…》
《ああ…》
《それなら、この子は…スーは本当に私たちの処に来たくて来てくれた子なのね…》
《ああ…おまえが産んでくれた俺の宝…おまえと並ぶ俺の宝だ》
《ええ…私も…私の宝物はあなたとこの子…》
《クトラでは…子供は矢、親は弓だと言う。親は想いをこめて弓を引き、矢を放つ…矢はどこまでも遠く、自らの望む処に飛んでいく…弓には、矢の行きつく先は見えないが、弓を引き矢を放つ、それこそが歓びなのだという…。俺たちもいつか弓を引き、この愛らしい矢を広い世界に放つ日がこよう…》
《なら…私とあなたは一つの弓。あなたが弓で私は弓弦かしら…》
《そうだな…俺とおまえは合わせて一つのもの…おまえは張り詰めた弦…僅かに爪弾くだけで、俺に豊かな響きと穣りを与えてくれる…》
《ああ…ラス…》
《これだから…俺たちには子供ができにくいのだろう…俺が…おまえを…愛しすぎているから…》
《私もよ…私、怖いくらい幸せ…》
《もう……黙れ…》
* * * *
ベルンのサカ地方侵攻は、極めて綿密に計画され、同時多発的に多くの部族を襲った。その迅速さと残虐さは恐ろしいほど徹底していた。特にベルンの国境と程近い地域で生業を立てていたブルガルの部族は一人残らず容赦なく殺された。女子供も見逃されはしなかった。僅かでも動くものは竜騎兵の槍で貫かれた。草原は虐殺された民の血で真っ赤に染まり、大地に染みこみきらない血が小さな流れを無数に作ったほどだった。遠目に小山に見えるものは全てブルガルの民の骸だった。
サカの諸部族は広大な草原に点在する。が、その結束は固い。緒戦であるブルガルで生き残りを許せば、他部族にベルンの侵攻を知らせに早馬が走るだろう。この広大なサカの地を掌握するためには、迅速な電撃戦をもってする他はない。サカの諸部族にベルンを迎え撃つ余裕を与えてはならない。不意打ちと奇襲の効果を最大限に生かすためには徹底した殲滅戦が最も理にかなっていた。
しかし、草原で起きた出来事に壁は立てられない。たまたま交易に出かけていた者が、ベルン国境近くの草原が同族の屍と血の匂いで埋め尽くされた死の大地と化しているのを見、馬を潰す勢いでクトラの地に知らせに戻ってきた。ベルンがクトラを強襲したのは、それと、ほぼ同時だった。
ベルンが攻めてくる。
息も絶え絶えになりながらの早馬の知らせに、クトラの民は、あわただしくゲルをまとめ、移動の準備を始めた。
『草原の若き狼』の二つ名を持つクトラの次期族長は、ベルンを迎え撃つべく武装を整え、若い戦士達に指示を与える。
サカの父なる天が暗緑色の蝙蝠様の羽で埋め尽くされる前に、女子供をできる限り遠くに逃がす。そのための時間を稼ぎ、退路を確保せねばならない。
クトラの民といえど皆が皆戦士ではない。サカの戦士に男女の区別はないが、武器の扱いが得手ではなく放牧や採取、機織に従事するものは数多い…ベルンが攻めてくる前に、その民たちをまだ戦禍に巻き込まれていない地に導いてやらねばならない。
その守りを、己の父と娘、そして妻に託そうとした。
「リン…親父たちと行け。スーを頼む」
「いやよ」
「リン?!」
若き狼の伴侶は、自らの剣を腰に挿し、手甲をはめ、肩当を結びながらきっぱりと夫に否と言った。
「私もあなたと一緒に戦うわ。もう、ベルンは目前まで来ている。スーたちを少しでも遠くに逃がすために私も戦う。弓を射るあなたに近づく敵は私が倒す」
「しかし…」
「スーと義父上に無事落ち延びていただくためよ…ほら…もう、ぐずぐずしてる暇はないわ」
リンが指差した抜けるような青空に、禍々しい染みが見えた。不吉な染みはじわじわとその広さを増していっていた。
ラスは、何かをふっきるように吐息をついた。
「リン…絶対に無理はするな…この地を死守する必要はない、父達を逃がしたら機を見て俺たちも退くぞ」
「ええ…」
撤退する軍を逃がすためのしんがりは、最も危険が大きい。それは、リンもラスも重々承知していた。
父・ダヤンに、スーと女子供を託し急ぎ出立たせた。向かう先はリキア、リキアには、昔日の盟友がいる。まだ、ベルンの手も伸びていない筈だった。
そして、クトラの騎兵達はベルンを迎え撃つべく錐状の陣形を取った。
しかし、近づいてきた竜騎士たちは、上空から散発的な攻撃を仕掛けてくるだけで一斉に攻めてはこなかった。こちらが追えばむしろ、退く。
次第に若い騎兵たちの間に苛立ちが募っていく。
リンが、気遣わしげに話しかけてきた。
「ラス…竜騎士の動きがなんだかおかしい…攻撃をしかけてくるかと思うと、上空に逃げてしまって…あまり本気で攻撃をしかけてくる気がないみたい……」
「ああ、若い者たちが、ウサギにあしらわれた狼のように血気に逸っている…あまり深追いするなと手綱を引かねば…俺たちは、女子供のしんがりを守ることこそが肝要…」
既に若い戦士たちは竜騎兵の動きに挑発されて、かなり前方に突出していた。後方の戦列とは、相当距離が開いてしまい、クトラの戦士たちの隊列は、いつのまにか縦に長く伸び、陣形が崩れつつあった。
「だが、あと少しの辛抱だ…親父たちが戦線から充分に離脱しさえすれば…」
その時だった、能う限りの迅速さで脱出しつつあった非戦闘員たちの群れに、前方から矢の雨が降った。
恐ろしい絶叫と断末魔の叫びが、サカの大地をわたる風の音を吹き消した。
クトラの戦士は風が運んできた仲間たちの…愛する者や子供たちの悲鳴に度を失った。多くの者が反射的に馬の向きを変え、悲鳴のする場所に向かおうとした。
戦士たちを率いていた若き狼が叫んだ
「いかん!ワナだ!戻るな!」
その瞬間、ベルンの竜騎士が牙をむいた。
回頭したばかりでとっさの身動きができないクトラの戦士たちに、竜たちは上空から急降下をかけて襲いかかった。
慌てて竜騎士に相対しようと再度馬の向きを変えた騎兵の後背から、弓を番えた騎兵達が…クトラではないサカの騎兵が、事もあろうに、クトラの戦士たちに次々と矢を射掛けてきた。
「!!!…ジュテ族?!…ベルンはジュテを引き入れたのか!」
以前から、クトラの地歩を虎視眈々と狙っていたジュテ族は、クトラに、無秩序で散発的な攻撃をしばしば仕掛けてきていた。嫌がらせのような攻撃を仕掛けては、一時逃げ去り、クトラが追うのをやめるとまた攻撃を仕掛けてくることがよくあった。
きゃつらには、自分たちを叩く力などない、ないからこそ、馬の尻尾にたかるハエのようにしつこく、クトラを悩ませにくるのだ、嫌がらせをして悩ませるしか能がないのだと、クトラは目していた。それが、何故、今この時に…まさか…さっきの仲間たちの悲鳴は…こいつらが…
ラスは、瞬時にして状況を察した。
「サカの民が…同族を攻めるためにベルンと手を組むなど!サカの誇りは地に堕ちたか!」
クトラの戦士たちは、地のジュテと天の竜騎士に挟まれ、大混乱に陥った。
「一方の攻撃に気を取られるな!円陣を組め!円陣を組みつつ、後退しろ!」
ラスの必死の怒号にも、戦士たちは中々上手く陣形を戻せない。
ジュテ族だけなら恐るるに足らん、ベルンの竜騎士など、わが弓で一騎残らず射落として見せる。クトラの戦士なら皆が皆、そう思う、実際、それだけの腕もある。
しかし、竜に向かい弓を番える間に地上の騎兵に剣を振るわれ、騎兵に弓を射れば、上後方から槍が振ってくる。
個々の騎兵は、まさに降りかかる火の粉を払うのに精一杯で、ラスの命に従いたくとも、その余裕がない。
その上、先刻の仲間たちの悲鳴に、戦士たちはどうしても浮き足立つ。大事な仲間の元に一刻も早く駆けつけたくて気が急いてしまう。つい突出した者から狙い撃ちで討たれていく。
「陣を崩すな!ちぃっ…」
ラスは、飛んでくる弓を剣でなぎ払うや、目にも留まらぬ速さで弓をつがえて竜騎士に矢を浴びせる。しかし、敵はウンカのように果てなく湧き出、波状攻撃をかけてくる。
全滅…恐ろしい考えがラスの思考を貫く…全滅だけは避けねば!
「ラス!あなた!」
リンの剣が一閃し、ラスの騎馬を狙った矢をなぎ払った。
「リン!無事か?!」
「ええ、でも、皆が!スーや義父上は!」
「っ…俺は、この場に留まりベルンとジュテの攻撃を防ぐ。リン、今度こそ、おまえも、親父やスーたちを率いて逃げろ!竜騎士は、まず我ら戦士の殲滅を図ってくるはずだ、非戦闘員の始末はいつでもできるから…俺が食い止めている間に1人でも多くの民を連れて逃げ延びろ!」
「いやよ!絶対にいや!」
リンの剣…アトスから賜ったソール・カティが鞭のようにしなって、ラスの肩を狙った矢羽を叩きおとした。
「リン!!」
「私も残って戦う!ラスと一緒に戦う!」
「だめだ!おまえは逃げろ!スーと一緒に…っ…」
リンの後背に迫っていた竜騎士がラスの矢を受けて、恐ろしい叫びを上げて竜の背から落ちた。騎手を失った竜は、行くべき方向を見失い戦場から離脱する。
「私たち、一緒に戦う方が、絶対、敵を多く倒せる!それだけ、スーたちが逃げ延びるチャンスが大きくなる!」
「リン…」
「スーには、シンがついてる、義父上もいらっしゃる、義父上たちが民は守ってくださるわ。だから私達は皆の退路を確保しなければ!あなたの血を受け継ぐスーと、クトラを体現する義父上が逃げ延びてくれればクトラは消えないわ!私はクトラを守ってみせる。私を受け入れてくれたクトラを…」
「リン…だが!」
「弓は、弓と弦で一つなのよ、ラス。弦を切り離さないで…弦だけで生きていくことなんてできない、私を独りにしないで…私はいつでもあなたと一緒よ。どんな時も、決して離れない、そう、誓った。何者にもこの誓いは破らせない」
「リン…わかった。俺も…俺の生涯は常におまえと伴にあった…俺の背は預ける」
「任せて!」
言うや、ラスは上空から迫り来る竜騎士に矢を放った。ラスの背に向けられた矢は、リンが叩き落した。
恐ろしい程に静かだった。剣戟も怒号も悲鳴も今はなく…耳に入ってくるのは風と草の奏でるさやけき音色だけだった。
どれほどの敵を屠ったことか…
止めを刺されなかったのは…もはや、その必要もないからだと、ラスにはわかっていた。止めを刺そうとして下手に返り討に合うことを恐れたのかもしれんが…俺達は最後の最後まで抵抗していたから…仲間を無駄に失うのを恐れて、逃げたクトラの掃討に向かう方が得策だと考えたのかもしれん…
逃げろ…スー、逃げ延びてくれ…おまえが…おまえと父が生きていれば、クトラは消えない…リンの言った通り…俺たちの命の火は消えても、クトラは消えない…
もう…立ち上がるどころか…腕もあがらない。手が僅かに動かせるかどうか…。
ラスの身には10本以上の矢羽が折れ突き刺さっていた。が、自身は、もう、何も感じない。ただ、身体が重すぎて全く動かない、日は高いのにやたらと寒い。
愛馬が槍で射抜かれ、体勢を崩した…悲痛な声が己が名を呼ばうを聞き…同時に天を覆うばかりの矢の雨が振ってきた。目の前に美しい暗緑色の髪がたなびいた…ダメだ!俺の前に出てはダメだ!…だが、哀しいほどにわかってもいた、おまえはそういう女だと…「リン!」瞬間、全身に無数の殴打を食らったような衝撃があった。肉に食い込む矢尻の冷たさが、焼け付くような傷みに変わる間も待たず、そのまま地面に投げ出された。地べたに叩きつけられたのと…愛しい妻が倒れ伏すのを目にしたのはほぼ同時だった…。
「リン…」
寒くてたまらなかった…守りきれなかった…もう間に合わずとも、可能な限り近くに行きたかった。すぐ、傍にいるはずだ…懸命に手を伸ばして周囲をまさぐる。柔らかな下草が指に触れる。幸いなことに手先の感覚はまだ消えていなかった。
「あなた…ラス…」
微かな声が答えてくれた。
どんどん冷えていく体の内に、その一瞬、火が灯った。
だんだん見えにくくなっていく視界。それでも顔を向け、声のした方に必死に腕を伸ばし、闇雲に草をまさぐる…細い指先が触れた。
指先を握り返された…まだ暖かい…涙が出そうになった。が…その力は長く続かない。リンの指から力が抜けていくのがわかる。ラスはなんとか掌を重ね合わせる。何故、指1本動かすのに、こんなに力がいるんだ?…最後の力を振り絞って、互いの指と指とを絡め合わせ、力を込めずとも二人の手が解けないようにした。
「リン…すまん…守ってやれず…」
「何を謝るの?…私達の矢は放たれたのだもの…きっと…今頃無事に…」
「ああ…そうだ…そうだな…」
「ラス…私…幸せよ…」
「リン…」
「あなたに会えて…愛し合って…結ばれて…片時も離れずに一緒にいられて…こんなに幸せなことはない…」
「リン…笑って…いるのか…?」
ほのかにリンは微笑んでいた。血と泥に塗れた笑顔だった。なのにリンの笑顔は…徐々に暗くなっていくラスの視界の中で、眩しいほどに輝いて見えた。
「幸せだもの…私…とても幸せだもの…」

ラスは越し方を振り返る。…そうだ、リンはいつも笑っていた。どんな時も幸せそうに、楽しそうに…
ああ、思い出した…俺が…笑っていてくれと願ったからなんだな…おまえの笑顔が好きだから…おまえの笑顔こそが俺の幸福だと俺が言ったから…
「リン…ありがとう……俺こそが幸せをもらってきた…スーという宝を与えてくれ…いつも俺に笑顔を与えてくれ…」
旅立つ時は笑顔で送ってくれと…昔、俺は願った…だから…おまえは今も笑ってくれているんだな…最後に俺の目に映るものが…俺の最も嬉しいもの…最も望むものであるように…
「ありがとう…リン…愛している…心…か…ら…」
「ラス…私も…愛してる…何よりも誰よりも…」
「………」
「ラス…ラス…?」
眠った…のね…
私も…もう…すぐに行くわ…
ああ…空が青い…風が優しい…
私達が伴に番えた矢は、この広い世界に無事旅立って行った…
そして…この空に抱かれ…このサカの大地に抱かれ…私の命は、今、還る、最も愛しい人と伴に。
こんな…こんな嬉しいことはない…
だんだん…周りが暗くなっていく…でも、怖くない…こうしてあなたと手を繋いでいるから…一人じゃないから……
緩やかについたリンの最後の一息を、草原を渡る風が優しく包み込みんだ。
固く手を繋ぎあった二人の戦士は、口元に幸せそうな笑みを湛えていた。草原で暫しのまどろみを楽しむ恋人同士のように。
FIN