蛇 1

presented by.合歓様


 悲鳴が上がった。
 
日の曜日の、森の湖での出来事である。



 炎の守護聖であるオスカーと、女王候補アンジェリークは、その日一日を森の湖で過ごす予定だった。

 アンジェリーク手作りのピクニックランチと、オスカーが持参した香りの良いワイン。小鳥の囀りと、祈りの滝の水音。少し肌寒いくらいの陽気だったが、キンと澄んだ空気が心地よい。

 そんな、平凡な時間を過ごしていた矢先のことだったのだ。

「お嬢ちゃん!」

 彼女が声を上げたのは、立入禁止区域になっている少し手前の草むらであった。

 うずくまった赤い制服が見える。

 慌てて駆け寄ると、アンジェリークは左の足首の辺りを抑えている。その小さな手の間から、どす黒い血が細い一筋の流れを作っていた。

「オスカー様・・」

 痛みと恐怖がない混ざったアンジェリークの後ろを、小さな生き物が素早く逃げていく。

「蛇に噛まれたのか!?」

 アンジェリークがうなずくのと、オスカーが彼女の手を傷口から引き離すのは、ほとんど同時だった。

 血の量はさほどではない。すぐ止まっている。だが、傷口は、まさに蛇の小さな牙の形だった。

「くそ・・、種類を確かめておくんだったな・・」

 これが、聖地であれば、女王陛下のお力のもと、人間に害なす類の動物はいないはずだった。

 しかし、ここは、飛空都市である。いくら、陛下の直轄地であるとはいえ、自ずと事情は聖地と異なる。アンジェリークを噛んだ蛇が、毒を持っていないとは断言できないのだ。

 オスカーは、アンジェリークの左足を抱え上げた。恥じらって抵抗する彼女を押さえつけて、傷口に口を付ける。

 アンジェリークは、身体のうちを駆けめぐる羞恥と、傷を吸われる痛みに気が遠くなった。

 そんな彼女の反応を無視して、オスカーはひたすら吸っては吐き出すという行為を繰り返した。

「痛むか、お嬢ちゃん?」

 つけた唇を離さずに、くぐもった声でオスカーが尋ねた。

「・・それより、恥ずかしい・・です・・」

 青ざめてはいたが、しっかりと応えるアンジェリークに、オスカーは明らかにほっとした様子だった。

「馬鹿を言ってるんじゃない。・・たいがいは吸い出したと思うが、早く医者に見せなければな」

 オスカーは、軽々とアンジェリークを抱き上げると、歩き出した。

「あ、オスカー様、バスケットは?」

「お嬢ちゃんで手一杯だ。後で誰か、取りによこせばいいさ」

 仕方なく、オスカーの首にしがみつく。がっしりしたたくましい胸と、広い肩幅。アンジェリークの重さなど、少しも堪えていないように、オスカーの歩みは早かった。

 アンジェリークの目の前で、オスカーの片方だけのピアスが揺れる。午後の陽を受けて、煌めいている。

「オスカー様のピアス・・、どうして片方だけなんですか?」

 ふと思いついて尋ねてみた。

 見上げているオスカーの眉根が少しだけ寄せられた。

「気になるか?」

「・・お気に障ったんなら、謝ります・・。けど、オスカー様がそれをつけているのは、どなたか、忘れられない方がいらっしゃるからだって、寮でお世話してくださる方たちが・・」

 あのおしゃべりスズメどもめ・・。心の中で毒づいた。

 だが、アンジェリークがまた顔を歪めるのを見て、足を急がせる。

「お嬢ちゃん、後で話してやる・・。もう少しで特別寮だ。我慢してくれよ」

 痛みなのか、痺れなのか、それが判らず、気ばかりが焦るオスカーだった。



 寮の入り口には、ちょうど戻ってきたらしいロザリアが、緑の守護聖マルセルと立ち話をしていた。

「オスカー様・・? アンジェリーク! いったいどうなさったの?」

 目を見張る紺色の髪のもう一人の女王候補に、オスカーは手短に訳を話した。

「お嬢ちゃん、すまないがジュリアス様のところへ行って、医師の手配をお願いしてくれないか?」

「わかりましたわ、オスカー様!」

 ロザリアは、長いスカートの裾を翻して駆け出した。事情を察すると行動の早い彼女が頼もしい。

「オスカー様、僕は?」

「ルヴァのところへ行って、飛空都市にいる蛇の種類を調べてもらってくれ。毒のあるものがいるかどうかだけでもいい」

 マルセルもうなずいて駆け出した。

「オスカー様、すぐ調べてもらってきます!」

「ああ、頼んだぞ」

 マルセルの後ろ姿を見送るのももどかしく、オスカーはアンジェリークを抱いたまま、寮の中へ入っていった。寮で女王候補の世話をする小間使い頭が飛び出てきた。

「まぁぁぁ! どうなさったんです!?」

 事情を説明して、アンジェリークを部屋に寝かせる。傷口を洗う湯と消毒薬を持ってこさせ、軽く洗って、基礎的な消毒を施した。

「オスカー様って、蛇の傷にお詳しいんですね・・」

 自室に戻って、かなり気分が回復したらしく、アンジェリークは急におしゃべりになった。この分だと、毒は取り越し苦労で終わりそうだな。オスカーは、ようやく肩の力を抜いた。

「こら、お嬢ちゃん、気分が良くなったからといって、はしゃいではだめだぞ。きちんと医者に診てもらって、念のため血清を注射してもらうといい。・・ルヴァが蛇の種類を調べてくれているから、毒があるヤツかそうでないか、じきに判ると思うがな」

 そう・・、蛇には俺にも嫌な思い出がある。忘れてしまいたいが、忘れられないよう、しっかりと枷をかけられた思い出が・・。

「・・さっき、お嬢ちゃんは、俺のこのピアスに興味を持っていたな? 俺が蛇に詳しくなったのも、これに関係があるんだ・・」

 オスカーのアイスブルーの瞳が細くなった。遠い日の自分を思い起こしているようだった・・。



           ☆      ☆      ☆



 俺は、じいさまに育てられたようなもんだ。

 いや、親父もお袋もいたさ。だが、幼い俺の記憶の中での二人は、ちょっと影が薄い。

 俺のうちは、代々続いた軍人の家系で、親父もじいさまも当然のごとく、王立宇宙軍の軍人だった。もっとも、じいさまには、お袋しか子どもがいなかったんで、親父は婿だったが。

 親父は現役の大佐で、あっちの星、こっちの星と、守備隊司令を仰せつかって、異動ばかりしていた。

お袋も、途中から呼ばれてついて回るようになった。

 俺は、故郷の星で、じいさまと二人、結構おもしろ可笑しく暮らしていたんだ。使用人がいるから、日常の衣食住には困らなかったし、じいさまは、豪放磊落な男で、俺にいろいろなことを教えてくれた。お袋がいたら、決して口にはさせなかったようなことまで。

 じいさまは、若い頃は、「ドンファン」を気取っていたらしい。男と女の機微について、俺はさんざん聞かされて育った。同時にフェミニストでもあったじいさまは、世間一般の女好きとはまた、ちょっと違ってもいたな・・。

 なかなか、進歩的な「ドンファン」だったんだ、じいさまは・・。親父の頭の方がどれだけ固いか・・。

 家の前に広がる草原を、じいさまと馬に乗っているときが、俺は一番しあわせだったような気がする。

 俺がさんざん駆け回ってきてくたびれると、じいさまは、濃いコーヒーを入れた魔法瓶をおもむろに取り出してくる。二人で、火傷しそうなくらい熱いコーヒーを啜りながら、じいさまの「武勇伝」を聞く。

「おなごは、儂にとって、女神様みたいなもんじゃよ」

 それが、じいさまの口癖だったな・・。

「オスカー、儂の部屋に飾ってある、あの剣の由来を知っとるか?」

 ある日、じいさまが、昔語りのついでにそんなことを言い出した。

 じいさまの部屋に掛けてある大剣は、俺の憧れだった。先祖伝来のものだとしか知らない。

「王立宇宙軍の士官だったご先祖さまが、辺境星域での戦乱で手柄を立てた折に、時の女王陛下から賜ったものだと聞いておる。・・女王陛下が、宇宙軍に関与されたという話は聞いたことがないから、多分に眉唾だとは思うが、まあ、勲功があったことは確かなんじゃろう・・。おおよそ、将軍からでも頂いたのじゃろうな。だが、それ以来、あれは我が家を継ぐ軍人が、持つことになっておるのだ。・・おまえの親父は、この家を継ぐのなど嫌だとぬかしおったから、あれにはやらん・・。オスカー、軍人になったらおまえが持ってくれるといいのぉ」

 じいさまは、俺にあの剣の所有権を譲ると言ってくれた。俺は、親父をひとつ出し抜いたような気になって、嬉しかった。

 十六になる年、親父達が戻ってきた。この星にある、王立宇宙軍の士官学校長を命じられてな。俺が入学する年に、親父が校長になるなんて、最低だ、・・と思った。どうがんばったって、親の七光りみたいに見えるじゃないか。

 だが、じいさまは喜んでいた。そろそろ、娘婿の俺の親父に、家督を譲りたかったらしい。親父がどんなに嫌がったとしても、娘婿であるやつには選択の自由はないってわけだ。そう思うと少し溜飲が下がる。

「なんでおまえたち親子は、そうもあら捜しをしたがるんじゃ?」

 親父が戻ることが決まって、仏頂面の続く俺を眺めながら、じいさまが嘆息したことがあった。

 その頃には、じいさまの肌には艶がなくなって、頭は真っ白になっちまっていたっけ。俺が親父を悪し様に言うのが、じいさまには堪えていたのかもしれない。だが、ガキの俺には親父は煙たいだけだ。親父の方だって、会う度に小言ばかり。しかも「軍人らしくない」だの、「家名を考えろ」だの、俺のやることなすことにケチをつける。

 ・・ああ、その頃には、俺はじいさまの影響か、近所のお嬢ちゃんや使用人の娘たちの相手で忙しかったからな。堅物の親父には、それが軟弱だと映ったんだろうさ。

 士官学校は家から通える距離だったが、俺は、寄宿舎を選んだ。たとえ、わずかでも、「校長のご威光」から離れたかったんだ。十六のガキには、それだけ、親父が重たかったってことだろうな・・。

 その宿舎で、俺はホセと出会った。肌の浅黒い、俺の故郷では、大陸の山岳部に近い地域に住む部族の出身だった。呪いをよくするという部族だ。

 育った環境は違ったが、俺とホセとは妙にウマが合った。何よりも、ホセは、俺を「校長の息子」とは扱わなかったから、それが気に入っていたのかもしれない。

 ことさらに「悪さ」を重ねる俺を、乗せるでもなく、諭すでもなく、それでも、俺から離れるでなく、ホセは見ていてくれたように思う・・。

 そうして、士官学校に入学して、一年がたった。悪童の割にはまあまあの成績で、最初の年を終わり、夏期休暇を迎えた。

 俺は、長い休暇を自分のうちで過ごしたくなかった。

 何より親父がいる。そりゃぁ、気詰まりだ。

 それに、頼みとするじいさまの容態が、このところ思わしくない・・。急に老け込んできたじいさまは、もうとても馬に乗れるような状態ではなく、暑い夏を自室のベッドで過ごさねばならないところまで来ていた。

 あんなにかわいがってくれたじいさまには酷い話だが、俺は逃げ出したかった。闊達なじいさまならいいが、死を身近に纏わせているようなじいさまが、正直なところ、怖かったのだと思う。

 俺は、その夏期休暇を、ホセの実家のある村で過ごすことに決めてきてしまったんだ・・。



 チリン・・・。

 ホセの耳元で、金色のピアスが音を立てる。長く細い金細工のピアスで、ホセの村では、片方ずつを両耳につけるのでなく、対になっているそれを、一つの耳につけるのが風習だと、ホセと知り合った頃、そう教えてもらった。だから、ホセが動く度に、金細工が擦れあって、微かな、それでいて透明な音を立てるのだ。

 魔除けなのだという。

 士官学校では、装飾類はいっさい禁じられていたが、ホセは頑強に抵抗したらしく、しぶしぶながら黙認された形になった。

 そのチリンという音は、ホセのトレードマークのようになっていて、ホセが近づいてくるのは、その音で解る。

「悪いことはぜったいできないよな」

 そう言ってホセは笑った。

 だが、ホセのホームグラウンドへ帰ると、周り中が、チリンとか、シャランとか言わせている集団だ。ホセの目印のようにしていたのに・・。

 中でも困ったのが、ホセと彼の婚約者のピアスが、色だけ違って、まったく同じだということだった。ホセのは金、彼女・・ピラールのは銀・・。他は寸分違わない。

 材質が違えば、音も違いそうなものだが、俺にはさっぱり区別が付かなかった。

 悪いことに、ピラールは、ほとんどホセの家に入り浸りで、彼の広くもない家中に、同質の「チリン」が響いている有様だ。

 一度、ホセとピラールを間違えてしまったことがあった・・。。

 俺は、ホセの家に滞在させてもらう代償として、畑仕事を手伝っていた。経験したことのない作業ばかりだったが、元来、身体を動かすことは好きだ。ホセや、彼の両親、ホセといくらも年の違わない彼の叔父達と、唐黍を収穫し、水を撒き、その実を干して穀物倉へ納めたりするのは楽しかった。

 ピラールとホセの妹たちは、昼食や休憩の茶の用意をして、一日に何度か、畑へとやってくる。

 屈んで唐黍の下に生えた雑草を取っていた俺は、うしろでチリンとなるいつもの音を聞いた。

 なぜあんな風に抱きついたのか、いまだに思い出せないのだが、その時俺は無性に誰かに抱きつきたいほど、うきうきしていた。ここにいれば、口うるさい親父もいない。心配そうに仲を取り持とうとするお袋も、死に神に肩をつかまれているじいさまも・・。太陽はテカテカ輝いていて、唐黍は豊作。ホセと、今夜飲むワインも楽しみだ。まあ、格好をつけて言えば、生きている実感とでもいうのだろうか、そんな気分に浸り混んでいたわけだ。

「ホセ! 誘ってくれて嬉しいぜ!!」

 いきなり振り向くと、俺はホセに抱きついた。・・そう、ホセだと思いこんでいたのは、お茶を運んできたピラールだったのだ。

 いきなり、俺の左頬で風が鳴った。痛みが頬を包んだ。

「何するのよっ!」

 ピラールの平手が俺の頬で炸裂したのだ。

 派手な音と、彼女の叫び声に、慌ててホセが飛んできた。

「ホセ! あんたの友達は、あたしに狼藉を働いたのよっ!?」

 真っ赤になって怒っているピラールをホセはなだめようとしたが、彼女は聞く耳を持たない。

「最初から、あたしはこの男が気にいらないんだ。女と見れば、自分のものにできると思ってるみたいに自信たっぷりで。村の娘達がのぼせ上がってるのを、当然のように鼻で笑ってるんだわ」

 言い募っているうちに、ピラールの眼に涙が滲んできた。俺は、痛む頬を押さえながら、茫然と彼女を見ていた。

「・・だいたい、あんたがいけないのよ、ホセ! なんで、こんなヤツを連れてきたの? なんで、久しぶりに会える休暇なのに、一人で帰ってきてくれなかったのよ?」

 そうだったのか・・。

 ホセの家に来て以来、柱の陰から、いつも投げつけられる針のような視線は、彼女だったのか。

「おいおい、俺がお邪魔虫だったんなら、そう言ってくれりゃよかったのに」

 ようやく、俺は二人の間に割って入った。

「黙っててよ、あんたはっ!」

 ピラールに限らず、この村の娘達はみな、気性が激しい。だから、俺も相手にしていて楽しかったのだが、こんな風に怒鳴りつけられるのは、けして気持ちのいいものじゃなかった。

 少し白けた顔をしていたに違いない。ホセが、目線で「すまん」と謝ってきた。

 それを見とがめて、ピラールが更に激昂する。

 行けとホセに合図されて、その場を離れた。まだ、ピラールは何か罵っている。

 二畝おいた唐黍の列の中で、ホセの叔父達が小さい声で笑っていた。

「よぉ、オスカー。とんだ災難だなぁ」

「悪いな。ピラールは、ホセが士官学校へ行くのを嫌っていたんだ。ようやく休暇で帰ってきたと思ったら、おまえさんがいるだろう? かりかりしているんだよ」

「悪気はないんだがなぁ・・。気性が激しすぎて、ホセが貰ってやらなきゃ嫁き遅れ間違いなしって、口の悪い奴らがいるから、余計な?」

 叔父達にも悪気はない。こういう土地柄なのだろう。俺が住んでいる街場より、女性はおとなしくあるべき・・という考え方が強いようだった。それなのに、俺の住むあたりにいる女達より気性が激しいとは、皮肉なもんだ。

 だが、俺は、その出来事で、かえってピラールに興味を持った。はっきりものを言う女のどこが悪い? それに、あれだけ一途に思われていたら、ホセだって幸せというものだろうが・・。



 その夜、何となく居間に居づらかったホセと俺は、ワインの瓶を片手に、村はずれへと足を向けた。ピラールは怒っていて、今夜は自分の家に籠もっている。もう顔も見たくないそうだ。言外に「早く出ていけ」と仄めかしての帰宅だった。

「すまんな・・」

 ホセはばつの悪そうな顔で俺を見た。

「いいさ、色男。彼女からおまえをとっちまったのは、俺なんだ。敢えて、非難はこの身に受けるさ」

 俺の正直な気持ちだった。

「あぶねぇな、今のセリフ」

「何がだよ?」

「他人が聞いたら、俺達がそういう関係かと思うじゃないか」

「そうか? ・・うーん、そういう対象としておまえを見たことがないからな・・。だいたい、恋は男とするもんじゃない。俺は女じゃなきゃ、その気も起こらん」

 ホセが吹き出した。

 俺達は、草原の真ん中に寝転がって、煌々と照る月を見ていた。交互に瓶からワインを飲んで、少し頭がぼうっとしていて、吹きすぎる風が心地よい、そんな夜だった。

「結婚するんだろ? ピラールと・・」

 俺は当たり前のことを尋ねた。

「ああ、あんなに焼き餅焼きでも、根はいい女なんだ。・・だが、この村で暮らすことに執着してる。・・俺は、ここは好きだが、生涯暮らす場所じゃないと思ってる。士官学校へ行ったのも、外で暮らす理由付けをするためだ。・・そこんとこ、あいつが解ってくれれば、もう、言うことはないんだがなぁ・・」

 ホセは、生まれた村にはいたくないのだ。

「ふうん? 初めて聞いたぜ、それは」

「いい村だよ。・・何てったって、生まれ育った土地だしな。・・だが、生まれおちてから、墓にはいるまで、そのすべてが予測できちまう人生って、何か虚しくないか?」

 ホセは起きあがって、あたりの草をなぎ払い始めた。少し強さを増した風に、ちぎれた葉っぱが舞っては去っていく。

「おまえだって、軍人の家の伝統ってヤツを受け継ぐのはうざったいって、そう言ってたじゃないか?」

「伝統自体には別に拘っちゃいない・・。じいさまを見てるんだったら、別に軍人だって悪かぁない・・と思うさ。だが、親父みたいな固い頭の大人にだけはなりたくないんだ」

 俺も起きあがって、ホセにならった。ワインの酔いが、全身を駆けめぐる。せっかく親父から逃げてきたっていうのに、また嫌なことを思い出しちまった。どこまでもついて回るヤロウだぜ・・。俺は、親父の顔を振り払うように、両手をぶん回した。

「おーっとぉっ」

 俺はよろけた。草に足を取られたのかもしれない。地面ではない、ぐにゅっとした感触が、俺の足を伝わってきた。

 と同時に、シュッという空気が漏れるような音。脹ら脛に熱い痛み。

「オスカーッ!」

 ホセが慌てて近寄ってきた。

 しりもちをついた俺は、まともにそいつと目を合わせる羽目になった。鎌首をもたげて、細い糸のような舌をチロッと出すと、蛇は驚くようなスピードで草原を渡っていった。

「噛まれたのかっ?」

 ホセは、闇を透かすようにして、蛇の去っていった方向を一睨みすると、俺の足を持ち上げて見た。

「・・ああ、大丈夫だ・・。ゴルゴンのヤツじゃあない・・」

 傷口を見て、少し安心したらしい。持ち上げたまま、俺の足の傷に口を付けると、吸い出しては吐き、また吸い出すという作業を続けた。

「念のためな」

 ひとしきり吸い終わると、袖を引き裂いて巻いてくれた。

「歩けるか?」

「ああ・・」

 俺はホセの肩を借りて、村へ向かって歩き出した。そう、痛くはなかった。落馬したときの方が歩けずに苦労したものだ。

「・・ゴルゴンって、毒蛇か?」

「そうだ。ゴルゴンに噛まれたら、こんな治療は何の役にもたたん。俺の村一番の呪い師でも、助けられないくらい恐ろしい毒を持ったヤツだ。・・今のは、そこらによくいる草蛇だから、こうやって悪い血を吸い出して、消毒しておくくらいでもいい。・・が、ゴルゴンに噛まれたら、その場で命は諦めるしかない・・」

 運が良かったのか、悪かったのか・・。ゴルゴンは滅多に出ないと、ホセは言葉を接いだが、俺は心から縮み上がってしまった。もともと、ニョロニョロした長いものが苦手だ。あいつに噛まれたのかと思うとぞっとする。

 村に帰って、ホセの祖母に手当してもらった。呪い師としては、一級の腕前なのだそうだ。俺のいるあたりでは、医者以外の民間療法はすでに消え失せていたが、ホセの村ではそれが当たり前だった。

「ホセもいい腕を持ってるのじゃがな・・。街場へ行きたがるのは、若い者の習性みたいなもの・・。しかたないわの」

 そう言って、おばばは歯のない口で笑って見せた。

 だが、この蛇は、とんだ死神の使い魔だった・・。



 翌朝、俺はいつものようにホセの部屋の簡易ベッドで目を覚ました。ホセはとうに畑へ出かけているらしい。今日いっぱいは休んでいろと、ホセの父親に言われて、俺はベッドでぐずぐずと朝寝を決め込んでいたのだ。

 バタン!と大きな音を立ててドアが開いた。

「オスカー! おじいさんが危篤だって!!」

 入ってきたのは、ホセのすぐ下の妹だった。まだ、幼さの残る顔に心配をめいっぱいたたえて、俺を見た。

 それだけ、俺の顔が蒼白だったのだろうか・・。

 続いて、ホセの母親もやってきて、すぐホセを呼び戻すから、一緒に帰れと言われた。それに頷いたのか、断ったのか、それすらも定かでない。

 気がついたのは、ホセと一緒に、俺の住んでいる町行きの、シャトルバスに乗りこんだ後だった。

「オスカー、大丈夫か?」

 ホセが覗き込む。チリンとピアスが鳴る。ピラールの勝ち誇ったような顔だけはなぜか覚えていた。

「間に合うといいな・・」

 呟いたホセの言葉に、ようやく膝が震え始めた。

 じいさま、俺が行くまで死なないでくれ・・。親父にこんな気持ちを抱いたままで、じいさまにいなくなられちまうのは、ちょっときついぜ・・。じいさまを取り巻いていた死から逃げ出した自分を呪いながら、俺はバスの振動にあわせて震えていた・・。



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