「ディアンヌ、部屋に入ってもいいかしら?」アンジェリークが自分の部屋に引っ込んでしまったディアンヌにノックとともに声をかけた。
小さなくぐもった声が返ってきた。
「ママ?ママだけ?他には誰もいないの?」
「私だけよ。パパもいないし、とりあえず、皆様にはお帰りいただいたわ。クラヴィスさまにもね。」
ディアンヌの言葉に塩の柱のように固まってしまっていた男連中をアンジェリークがいなしてた。
「この場はとりあえずおひきとりください。クラヴィス様も申しわけありませんが、お返事はまた後日と言うことで…」
「うむ、返事は急がぬ。しかし、私とディアンヌ本人の気持ちは固まっている。それは承知しておいてくれ。」
「はい、心にとめておきますわ。では、皆様、今日の所はこれで…」
と、アンジェリークは半ば無理やり客人に引き取ってもらった。
オスカーは、ディアンヌの『大嫌い』から立ち直れず、かわいそうなほどしおれ切っていた。
アンジェリークはオスカーの手に自分の手を重ねてこう言った。
「オスカー様、私がディアンヌと話してきますから。ディアンヌも本心からいったわけじゃないでしょうけど、ちょっと言いすぎよって言ってきますから、ね?」
オスカーがのろのろと顔をあげた。
「いや、お嬢ちゃん、あんまりディアンヌを叱らないでやってくれ。俺がうろたえまくった挙句ディーの気持ちも考えずに先走った事は事実なんだし…」
「オスカー様も私も、ディアンヌがクラヴィス様を好きだったなんてしらなかったんですもの、仕方ないですよ。」
「俺も思いもかけなかった事実に動転しちまって…まだまだ未熟だな。しかし、なんでまたクラヴィス様なんだ?うかつなことにまったく気がつかなかった…」
「私もです、オスカー様、だからあんまり気になさらないで。女同士でディアンヌの気持ちをちゃんと聞いてきますから、ちょっと待っててくださいね。」
こういってアンジェリークはディアンヌの部屋を訪れたのだ。
「ママだけならいいわ。入って…」
ディアンヌが静かにドアをあけてアンジェリークを招き入れた。瞳が赤かった。
アンジェリークは優雅な身のこなしでディアンヌの部屋に入った。
ディアンヌが主星の学校にいってしまってからは、この部屋もあまり使われなくなっていたが、アンジェリークと屋敷の者は、いつディアンヌが帰ってきてもいいように、部屋が快適であるよう毎日風を通し、花を活けていた。
調度類は、アイボリーを基調とした暖かでそれでいてすっきりとしたイメージでまとめられ、美しい小物やかわいらしい装飾品で若い娘の部屋らしい華やかさに満ちていた。
アンジェリークがディアンヌの白いベッドに腰掛けると、ディアンヌのほうからアンジェリークに話しかけてきた。
「ママ…あの、クラヴィスさま、なにかおっしゃってた?私が勝手に部屋にひっこんじゃって…」
「別にお怒りじゃなかったわよ、ただ、ご自分とディーの気持ちは固まってるからって。返事は急がないともおっしゃってたけど。ママもパパも全然しらなかったわ。あなたがクラヴィス様とお付き合いしてたなんて…」
「お付き合いっていうか、私がクラヴィスさまを好きで、それにクラヴィス様が答えてくださったの。」
「でも、あなたはずっと学校にいって、ここにはたまにしか帰ってきてなかったでしょう?いつ頃からこういうことになっていたの?よかったらママにおしえてくれないかしら。」
「あのね、私にとってはもう随分前のことなの…」
ディアンヌが言葉を探し探し、自分がクラヴィスへの気持ちを自覚した日のことを語り始めた。
「んと…どこにいこうかな…」
小さなディアンヌ・フローラは両親と昼食を取った後、午後の自由時間をどう過ごそうか、小首を傾げて思案していた。
子どもから少女といっていい年齢になっていた。
母親譲りのふわふわとした金色の巻き毛は二つに分けてリボンで結い上げられ、父親譲りの薄蒼色の瞳はかわいい頭が思案をめぐらすたびに、様様な輝きを放つ。
ディアンヌはどちらかというと内省的で物静かな少女に育ちつつあった。
ルヴァから聖地の意味とその特殊性を学ぶに連れ、ここがただ美しく静かで穏やかなだけの場所ではないことも悟り、だれが言った訳ではないが自分がどうやら特殊な環境下に出生したことを肌で感じるようになっていたことが、彼女をただ明るい朗らかな少女と言うよりは、物静かで考え深げな少女へと育みつつあった。
それゆえ、ディアンヌはたまさかなにをするでもなく一人ですごすことを楽しみとする傾向があった。
だが、ディアンヌのまわりの大人達は彼女に親切過ぎた。
一人で部屋にいると、彼女が無聊を持て余していると思うのか、誰彼と無く手すきのものがやってきて、彼女をいろいろなことに誘ってくれるのだ。
公園で犬と一緒にフリスビーをやろうかとランディが来る。
今度スカッシュをおしえてやるからよー、ほれおめーのラケットだ、といってゼフェルが来る。
花の種を一緒に注文しようよ、ディーの花壇を作ってあげるからといってマルセルが花のカタログを抱えてやってくる。
ディアンヌはリュミエールから、なにか楽器をひとつ嗜んでおくと一生の趣味になりますよ、といわれて迷わず敬愛するロザリア陛下が得手だったというバイオリンを選んでリュミエールから習っていたのだが、その練習をしましょう、もしくは連弾をしましょうね、といってリュミエールがやってくる。
陛下やそなたの母のようなりっぱな貴婦人になりたくばそろそろ身につけておいたほうがよいぞ、といってジュリアスがダンスと乗馬を教えに来る。
オリヴィエが自分を着せ替え人形よろしく飾り立てに来る。
それでなくても勉強の量が増えてきているのに、あなたによさそうな本をみつくろっておきましたからね〜といってルヴァが山ほどの本を抱えてやってくる。
ディアンヌは本を読むのは大好きだったが、本を選んでもらっても昼間自分の部屋にいるとおちおちそれを読む暇ももてないのだった。
一度ディアンヌはあんまりいろいろな人が自分を誘いに来るので、自分の好きなことができないと母にこぼしたことがあった。
すると母はめずらしく強い口調で、守護聖が自分になにか教えてくれるのは、全部ディアンヌのことを思ってのことなんだから、いやな顔をしたり、よほどのことがなければ断ってはいけませんと、母からきつくたしなめられた。
どうして、自分のことを誘ってくれるのか、守護聖様たちのお気持ちをよくかんがえてごらんなさい、とも言われた。
『守護聖様があなたと遊んだりあなたのために自分の時間を割いてくださるのは、義務でも、あなたに与えられた当たり前の権利でもないのよ。あなたに向けられた想いを感じ取り、それに感謝する気持ちを常に忘れてはいけないわ』
という母の言葉をディアンヌはすべて理解し得た訳ではなかったが、なんとなく母の言いたいことはわかるような気がした。
ディアンヌ自身は自分をかわいそうだとおもったことはなかった。むしろとても幸せだったが、守護聖たちがなぜか自分に気を使ってなにくれとなく親切にしてくれているのはわかっていた。
それに、確かに年の近い三人が誘ってくれるのは楽しいことばかりだったし、ディアンヌは美しく気高いロザリアを崇拝しきっていたので、ロザリアみたいになれるときけば、マナーでも、ダンスでも、練習に熱心に取り組みもした。
でも、いくら子どもでも、こう休む暇なしにいろいろ詰め込まれたら疲れて余裕も無くなる。
どちらかといえば、活力あふれるというよりは、おとなしい子どもだったディアンヌは尚更そうだった。
そして、ちょっとゆとりがほしくなったとき、なにもせずにのんびりと過ごしたい時は、きまって自分をあれこれかまわないでくれるあの人のもとへディアンヌはいくのだった。
「クラヴィスさまぁ。こんにちは。お邪魔してもよろしいですか?」
ノックと供にディアンヌは闇の守護聖の執務室にぴょこんと顔を覗かせた。
幼いときから守護聖の部屋を訪ねるときは、それがたとえ父の部屋であっても、取り込み中ではないかどうかを必ず確かめること、と、ディアンヌは厳しく言われていた。
これが守れなかったら、自由に守護聖様のお部屋にいくのは今後許されなくなると聞いていたので、ディアンヌはきちんと言いつけを守っていた。
「おまえか…よくきたな。そこにかけるといい。」
クラヴィスがディアンヌに椅子を薦めてくれた。
ということは、招き入れられたということなので、ディアンヌは安心して部屋に入るとソファにちょこんとこしかけた。
「おまえの好きなボンボンがあるぞ、食べるか?」
「は〜い」
クラヴィスが色とりどりのボンボンが入ったガラスのジャーを出してくれた。
ディアンヌはこれが大好きだった。
母の宝石箱のようにきらきら光って、いろいろな色があって、口に入れると一瞬ひいやりと冷たくて、次ぎの瞬間香気を伴ったシロップが口一杯に広がるこの菓子ほど、おいしいものはないと彼女は思っていた。
そしてクラヴィスの部屋にくると必ずクラヴィスはこれを出してくれた。
ディアンヌがボンボンをほおばって幸せそうな顔をしているのを、目を細めて見ながらクラヴィスが話しかけて来た。
「おまえも、おかしな子どもだな…私は、おまえになにもしてやらぬのに、なぜ、そうしばしば私のところに顔を出す?私のところなどにこなくても、いくらでもおまえをかまいたがるものはいるだろう…ああ、おまえに来るなといっているのではないぞ、ただ私が不思議に思っただけだ…」
ディアンヌの表情が一瞬曇ったのを目にして、クラヴィスは足りない言葉をすぐに付け加えた。
とたんにディアンヌが安心したようににっこりと微笑んだ。
その笑顔の眩しさになにか胸が痛くなるような懐かしさと切なさをクラヴィスはかきたてられる。
ディアンヌは急いでボンボンを飲み下し、もじもじしながらクラヴィスに答えた。
ほんとうは、自分でもよくわからないのだ。なぜ、足が勝手にクラヴィスの元に向かうのか。
「あの…あの…なんでだか、クラヴィス様のところにくるとのんびりして、なんだか、ほっとして…」
「ふ…かまいすぎぬからいいのか?でも、一人でいるのはおまえの性癖にはあわぬのだな。そんなところは父譲りだな。おまえの父は見かけによらず孤独には弱いからな。」
「?…孤独に弱いってなんですか?」
「簡単にいってしまえば、寂しがり屋と言うことだ。おまえの父と母はいつも一緒にいるだろう?」
「はい、パパとママはとっても仲良しです。」
「ふ、父のほうがおまえの母を手放さない、いや、手放せないのだろう。何年たってもな…」
「なんでわかるんですか?パパはいっつもママのこと、どこかしら触ってるの。肩とか髪とか手とか腰とか…すぐにキスするし。」
「それ以上は言わなくてもいいぞ。大体想像はつくからな。」
クラヴィスがくっくっと笑って立ちあがった。
「おまえは静かな時間が過ごしたいのだな。なら、いいところにつれていってやろう。この部屋と同じ位しずかだが、恐らくはもっと爽やかで和める場所だ。ついてくるか?」
「あ、はい!」
ディアンヌが弾かれたように立ちあがる。
「では、行くぞ。」
ディアンヌはだまってクラヴィスのあとに付いていった。
クラヴィスはディアンヌを湖の辺までつれてきてくれた。
人気がないときも多いので、湖に落ちるなどの万が一の事故のことを考慮して、ディアンヌは湖には決して一人で来てはいけないと言われていた。
だからこそ、湖につれてきてもらうのがディアンヌは嬉しく、それを知っているのか、クラヴィスはよくここにディアンヌを連れてきてくれた。
今日も湖にくるまでの道すがら、クラヴィスはディアンヌにいろいろなことを話してくれた。
「私はおまえと同様、幼いときからこの聖地にいる。というか、連れてこられた。それは知っているか?」
「はい、ルヴァさまに教わりました。」
「私が守護聖となったのは、まだ5、6才の頃であった。幼くても守護聖は守護聖。この宇宙にサクリアを満たさねばならぬ。私はその意味もわからぬうちに命じられて力を放出していた。だが、なぜ、自分がここにこなければならなかったか、考えてみてもわからなかった。叶う事ならもといた場所に帰りたかったが、その方便もわからなかった。しかし、私より少し前に連れてこられた子どもはそのことになんの疑問をもたぬばかりか、ここに連れてこられたことを誇りに思っていた。」
「ん…と、それってジュリアス様のことですね?」
「ふ…その子どもは家に帰ることばかり考えている私のことが理解できないようで、あれやこれやと私にかまってきた。あれはあれなりに私を心配していたのだと今となってはわかるがな。なにせ、いくら思い悩んでも私に家に帰る術はなかったのだからな。」
ディアンヌはなんと答えていいか、わからない自分がもどかしかった。
淡々と事実を述べているクラヴィスを見ていると、なぜだか胸のあたりがチリチリと痛んだ。
「幼いときより守護聖とサクリアというものに馴染んでいたあれはそのことをわたしより良く知っていたから、なんとかしてこどもなりに私にそれをわからせようと躍起になっていたのだろう。しかし、私の飲みこみが悪いから、あれは大層いらついてな。私は私であれの気持ちなどわかるはずもなく、煩い事をあれこれ言ってきては、勝手に爆発するその子どもが鬱陶しくて叶わず、一人になれる静かな場所を探して方々を歩き回ったのだ。ここはそのひとつだ。」
そこは森の真中にぽっかりと開いたパティオのような場所だった。
木々の合間を縫って柔らかな陽光が降り注ぎ、その場は光のカーテンで囲われているようにも見えた。
「ここは変わっていない。木々が大きくなっている以外はな…ここは森の湖の裏手なのだ。湖からは人はこないし、森のここまで来る者もまずいない。しばらく静かにしていると客人がくることもある…」
「客人?お客様?だって、いまここに誰もこないって…」
「しっ…しずかに…」
クラヴィスがディアンヌの唇にそっと人差し指をあてた。
なぜだかわからぬが、ディアンヌはどきどきした。
父のものとちがって、白く細く繊細な指で、ディアンヌはクラヴィスの指がとても綺麗だなと思った。
黙ってしまったのはクラヴィスの言葉を理解したからではなく、なぜか言葉を失ってしまっていたからで、だから、クラヴィスが小声で「あちらをそっとみてみろ」と言われて視線を動かした時、思わず声をだしてしまった。
「あ…うさぎ!」
茶色で耳の先だけ黒い野兎が鼻をひくつかせながらクローバーをぱくついていた。
が、大きな声ではなかったもの、ディアンヌの声に驚いたのか、兎はだっと繁みの奥に走り去ってしまった。
「ああ…行っちゃった…クラヴィス様、私しらなかった。ここ、動物いるんですね!」
「ああ、人間に害をなさない草食動物が放されている。草を食べる動物がいないと、森があっというまに密林になってしまうのでな。」
本来なら外敵となる肉食獣がいなければ、草食動物はあっという間に増えて逆に食害を引き起こしかねないのだが、聖地に放たれている動物は個体数が増えないよう研究院で管理されていた。
自由に動き回っていても、みえない檻にとじこめられているようなもので、真の意味での野生でも自由でもない。
自由に見えて自由ではない。だが、真の自然に放されたらもう一人で生きていくだけの能力は持ち合わせていない。
自分たち守護聖と同じだ、とクラヴィスは皮肉気に考えたが、ディアンヌに言うべき事柄ではないので黙っていた。
「また、来てくれるかな、うさぎ…」
残念そうなディアンヌにクラヴィスが慰めの言葉をかけた。
「静かにしていればまた来るやもしれぬ。それに兎だけではないぞ。運が良ければ鹿がくるところもある。」
「ほんと?クラヴィスさま、他にも動物がいるの?」
「おまえは動物が好きか?」
「うん、すっごく好き。主星の動物園も好きだけど、動物園の動物はあまりそばでみられないし、触れないから、ちょっとつまらないの。」
「ここ以外にも森の動物やってくるところがある。私の私邸にもなぜかいろいろな動物が身体を休めに来る。おまえさえよければ、今度は私の家にくるといい。おまえの両親に許可をもらってな。」
「ほんと?ほんとにいいの?嬉しい!クラヴィス様!」
ディアンヌは思わずクラヴィスに抱きついた。ふうわりと白檀の香りが鼻腔をくすぐった。
「クラヴィス様のお召しってとってもいい匂い…」
「ふ…そうか?」
クラヴィスがほんのりと微笑んだ。
「今度は鹿にも会えるかな…」
クラヴィスが微笑んでくれるとなぜだか胸の奥がじんわりと暖かくなる。
ディアンヌには、クラヴィスの側に動物が集まると言う訳がなんとなくわかるような気がした。
自分でもよくわからないのだが、クラヴィスの側にいると落ちつくのだ。
心が静かに安らいで、それからほんわりと軽くなり、疲れがいつのまにか霧散してなんだか元気になれるのだった。
それからもディアンヌは時間ができると、クラヴィスのもとをしばしば訪れていた。
両親からクラヴィス様がいいとおっしゃるなら、と私邸訪問の許可ももらえたので、日の曜日に父にクラヴィスの館まで送ってもらって遊びに行ったりもした。
屋敷の庭園の泉水に動物が水を飲みにくるところをみせてもらい、おみやげにクラヴィス邸にしかないという、妙なる香りのする果実をたくさんもらって帰ってきた。
平日もクラヴィスはディアンヌのおとないをいやがる素振りも見せずに、ディアンヌが執務室を訪ねるとよく散策につれていってくれた。
クラヴィスは愛らしい雛菊のような少女を自分の暗い執務室に留めておくに忍びないという気持ちがあったので、このためよく外出するようになった。
遥か遠い昔、同じように金の光に導かれ明るい陽光の下で笑みを交し合った日のことを時折思い出したが、それはもう胸を掻き毟る痛みではなく甘さを伴う過去への愛惜の念に昇華していた。
クラヴィスがディアンヌを花畑に連れて行った時、ケープを外して草の上に敷いたことがあった。
「クラヴィスさまのおめしものが汚れちゃう。ディアンヌは平気です。このままでいいの。」
「おまえは昔のおまえの母と同じ事を言うな…」
クラヴィスの脳裏にまたも、甘くしかし微かな痛みを伴う過去の記憶が蘇る。
ディアンヌの容貌はアンジェリークにうり二つと言うわけではない。
むしろ瞳の印象が強いのでちょっと見はオスカーに似ていると思わせる。
なのに、ふとした言葉遣いや心やりにクラヴィスは昔日光の暖かさを思い出させてくれた少女を彷彿とさせられる。
母は身近なモデルだろうから言動が似るのは当たり前かもしれないが、ディアンヌは容貌よりその性質をアンジェリークから受継いだのだろうとクラヴィスは思った。
それだからだろうか。
ディアンヌが訪ねてくるのが楽しみなのに、同時になぜか心が波だつことも多く、それゆえクラヴィスは自分からはあまりディアンヌに会いにいかなかった。
だが、だからこそディアンヌは自分からクラヴィスのもとを訪れていたのだが。
クラヴィスは我知らず、過去に思いを馳せながらディアンヌを凝視していた。
するとディアンヌがおずおずとクラヴィスに問い掛けた。
「クラヴィスさま…どうしてママのことを話すときに、どこか痛いようなお顔をなさるの?」
クラヴィスはとむねを突かれた。
「…私はそんな顔をしているか?…」
「んと…なんだか、泣きそうなお顔…に見えます…。あの、前に聖地にいらしたときのことを話してくださったときもそうでしたけど…」
クラヴィスは暫時絶句した後、ゆっくりと言葉を発し始めた。
「……以前、私は聖地に連れてこられた私が故郷の事を忘れ兼ねているのをみて、ジュリアスがそれをどうにかしようと躍起になっていたと話したことがあったな。」
「はい…」
「家に帰る術がないからというだけではない。例え帰れたとしても、その時にもう私の係累はどんどんこの世から消え去っていたのだ。ジュリアスはそれを良く知っていた。だが、それを私にはっきりと知らせることなく、なんとかして私に故郷のことを忘れさせようと、やきもきしては、うまくいかずにいらついていたのだ。私は飲みこみの悪い頑固者だったからな。」
クラヴィスが瞳に暗い焔を揺らめかして口の端を微かにあげた。
まだ幼いディアンヌはその笑みがなにを意味するのかわからなかったが、いつものクラヴィスの仄かであるが柔らかな笑みとはそれは明かに異なることだけはわかった。
その感情を自嘲というのだとディアンヌが知るのはまだまだ先のことだが、この時ディアンヌは変なことをいわなければよかったと後悔していた。
クラヴィスの心を波立てるようなことを自分は言ってしまったのだということはわかった。
聖地と下界は時間の流れが違うと言うことは教わっていたが、その意味するところがディアンヌには実感として掴めていなかった。
自分の周りはいつも静かに穏やかで逆に変化のなさ過ぎるほどだったし、自分の慕わしい人たちも、両親も含めてほとんどなにも変わっていなかった。
だが、そう…家から離れて聖地にくるということは、つまり、そういうことだったのかと、ディアンヌはこのとき初めてその現実を知った。
守護聖が自分に優しくしてくれるわけがなんとなくだが、理解できた。
なんと言っていいかわからず黙りこんでしまったディアンヌにクラヴィスは言葉を続ける。
「私がそれをはっきり理解したのは、おまえとそう変わらぬ年だったかもしれぬ。それ以来、なぜ、ここにいなければならないのかと考える事もなくなった。他にいくべき場所も帰りたいと思う場所も今はない。ただ、この宇宙を支える、その意義は後に見出せた。」
自分の人生に僅かな間一条の光をなげかけてくれた二人の天使。彼女たちの平穏を守れると思うなら、自分の力にも意味はあるのだと思えるようになっていた。
「おまえには、難しすぎる話かもしれない。だが、心のどこかにとめておけ。人というものは他の動物のようにただそこに在るということができぬ。なにかのため、誰かのためという生きる意味を見出さなくては生きていくことのできぬ難儀な生き物なのだ。おまえぐらいの年から、人はその意味を探し始める。その意味が見つけられた者は強く生きていける。我々守護聖はその生きる意味を予め決められた存在だ。その点自分の役割に疑問をもたなければ、これ程強いモチベーションはない。ジュリアスは私と違って迷いがなかった。自分の力で宇宙が平和に、人々が安寧に暮せるのだということに誇りを持っていた。だからあれはいつも前を向いているのだ。」
真剣な面持ちでクラヴィスの話を聞いているディアンヌにクラヴィスが今度は心からの笑みを向けた。
「だが、案ずるな、今は私も自分の現況に不満は抱いておらぬ。おまえたちが心やすらかにすごすことができるのも自分のサクリアあってこそなのだと思うようになったのでな。」
思いがけずディアンヌに押し隠した胸の痛みを察せられ少し動揺したが、今はこのような少女の笑顔を守れるのなら自分は守護聖であってよかったと思えるようになっていた。
ディアンヌはクラヴィスの言葉を自分のものにしようと懸命に思案を巡らせながら、おずおずとクラヴィスに尋ねた。
「あの、あのクラヴィスさま、いつか私も何かをするために、自分は生きてるって思うようになるんでしょうか…」
「それが見つけられた者は幸せだということだ。そしてより心強く生きられる。だが、慌てたり、焦ったりする必要はない。私など下界の時間で何百年もそれを見つけられなかったのだからな」
「クラヴィスさま…ジュリアスさまみたいに皆の為じゃなくて、一人の人のために生きてもいいいんですか?」
「ふ…もちろんだ。手応えと言う意味ではそのほうが強いかもしれぬな。だがそれは義務ではない。見つけることができれば、無為な時間を過ごすことが減ずるというだけだ。だが、人は無為に長い時間を生きることは苦痛となるので、生きる目的、それが高邁な理想であれ、個人の為であれ、見つけられたもののほうが、より充実した人生を送れるということだ。おまえの両親がそうだな。おまえの母は父のことを、おまえの父は母のことをまず考えるから生きる力が強い。相手に良かれと思う心が、その者の住む世界を守ろうという強い意志に転化するから結果としてサクリアも強く安定する。ジュリアスより宇宙を守ろうとする動機はよほど強いかもしれぬぞ。そのような者をみつけることができることは幸せだろうと私は思うぞ。」
クラヴィスが言葉を続ける。
「正直言って驚いたが、おまえが人の心を機微を読むのは、母から受継いだ天分やもしれぬな。私は確かに聖地に来たときのことを思うと未だに心穏やかではいられぬ自分を持て余すときがあるのでな。」
おまえの母を思うときもな…と心の中で付けたした。
「おまえのその優しい心を必要とし、おまえがその優しさを注ぎたいと思うものがきっとどこかにいるだろう。おまえが大人になるまでにみつかるかもしれぬし、大人になった後長い時間をかけてみつかるかもしれぬ。一人の人間にではなく陛下のようにあまねく宇宙に慈愛を注ぐ存在になる可能性もある。おまえが大人になるまで、私もおまえもこの聖地にいるかどうかわからぬから、おまえがなにかを見つけられるか見届けることはできぬかもしれぬがな。」
クラヴィスのこの言葉にディアンヌは心臓が止まりそうになった。
父のサクリアが衰えれば、聖地から自分たちも去ることになる?確かにそうだった。父のサクリアが衰えたら、きっと両親と父の故郷に行くのだろう。父から良く聞かされた、母の瞳と同じ色だという見渡す限りの草原をディアンヌも見てみたいと思っていた。聖地から去ることを恐れたことはなかった。
だが、それはクラヴィスとの別れも意味することにディアンヌは今漸く気付いた。
父ではなく、クラヴィスのサクリアが衰えることだって在りうるのだということにも衝撃を受けた。
聖地はいつもあまりに静かで穏やかで変化がなかった。この幸せはずっと変わることなく続くのだといつしか思いこんでいた。
物心ついてから今まで一度も親しい人との別れを経験しなかったのは、ただの幸運にすぎなかったのだと初めて知った。
ディアンヌは自分でもどうしてよいかわからぬ感情が胸一杯に沸き起こり、それを堰きとめられずに涙にして放った。
「クラヴィスさま…私、皆さんとお別れするの嫌です…みんな、ずっとこのままでいてくれたらいいのに…」
クラヴィスが指でディアンヌの涙をそっとぬぐって、髪をなでてくれた。
「泣く事はない。人は変わっていくものだ、そしてそれは救いでもあるのだ。変化がなければ、辛い感情は辛い感情のままいつまでも留まってしまう。周囲も心も変わるからこそ、救われることもある。おまえだとていつまでも子どものままでいたいと思っているわけではなかろう?」
「でも、クラヴィス様と会えなくなるのはいや…クラヴィス様が聖地からなくなっちゃったら、私、私…」
言ってみて自分でも初めて気付いた。みんなと別れるのも辛いが、クラヴィスと会えなくなるかもと想像するだけで胸にきりきりと穴が開くような痛みを覚え、涙が止まらない。
泣きじゃくるディアンヌの気持ちがわからずクラヴィスは戸惑っていた。
「今すぐというわけではないのだぞ。そのように泣く事はないだろう。たとえ他の者が聖地を去ることがあってもおまえは両親とはわかれずに済むのだし…」
「で、でも、パパのサクリアもなくなっちゃったら、やっぱりクラヴィスさまにあえなくなっちゃうんでしょう?私も聖地からでなくちゃいけないんでしょう?」
「それは、おまえは子どもなのだから両親についていかねばなるまい…」
「お、大人だったらいいの?パパが聖地からでることになっても、大人だったら私、クラヴィスさまの側にいてもいいの?」
「おまえは、私と一緒にいたいというのか?両親といるよりも?」
クラヴィスはディアンヌが何をいいたいのかわからぬといった面持ちで訊ね返してきた。
「それがどういう意味かわかっているのか?子どもだからなにもわからず言っているのだろうが…さあ、ばかなことを言っていないで今日はもう帰るとしよう。私がおまえの家まで送っていってやるのでな。」
クラヴィスが背中に手を添えてディアンヌを促した。
歩きながらディアンヌはうまく伝えられない自分の気持ちがもどかしくてさらに涙がとまらなかった。
うまく言葉にできなかったが、自分は両親と別れるより、クラヴィスに会えなくなると思ったことのほうが辛いと思った。
クラヴィスに優しく微笑んでもらうととっても心が暖かくなるのに、そうしてもらえなくなることもあるのかも…と思うと恐くて辛くてたまらなかった。
自分で自分のことをきめられない子どもであることが厭わしかった。
自分が大人だったら、自分がしたいことを一人でできるくらい大きくなっていたら、どうしたらいいかちゃんと答えはみつかるかもしれないのに…今、悲しい予感に自分は泣くことしかできないとディアンヌは思った。
「く、クラヴィスさま…私が大人になってもクラヴィスさまと一緒にいたいっていったら、そのときはクラヴィス様と一緒にいさせてもらえますか?パパやママについていかなくてもいいくらい大きくなっていたら…」
「そのときもおまえに同じ気持ちがあれば、その時に考えよう。」
やはりクラヴィスは当たり前だが本気にせず聞き流していた。
聖地での別れはほぼ永久の別れを意味するという事実に小さな胸が感傷的になっているだけだとクラヴィスは思っていた。
まだディアンヌに教えるべき事柄ではなかったか?いや、ルヴァが知識として教えているはずだが実感としていま漸くわかってその事実にうちのめされてしまったのなら、少々かわいそうな事をしたか、とは思った。
自分の心の襞を読み取るような感受性の鋭い少女だから、別れというもの過敏に反応しているだけだと思った
だが、ディアンヌは自分の気持ちがどこまでも空回りして伝わらないことにさらに哀しくなった。
自分が子どもだから、クラヴィス様は私のいうことを本気にしてくれない。自分もうまく伝えられない。早く大人になりたい。大人になればきっと自分のいうことも信じてもらえる。
「じゃ、じゃ、約束してください。私が大人になったときも、クラヴィスさまと一緒にいたいって思ったらちゃんと私のいうこときいてくれるって。」
「ふ…いいだろう。だが、おまえが大人になるまで、まだまだ長い時間が掛かる。おまえの母が父と会った年齢になるのにもあと、5、6年はかかるぞ。その間に気持ちが変わっても私は責めたりしないから安心するがいい。」
可笑しそうな顔のクラヴィスは自分の言葉や気持ちを信じていないからこそ約束してくれたのだということがディアンヌには痛いほどわかって、また切なくなった。
人は変わるとクラヴィスは言った、人の心も変わってあたりまえであり、変わらなければ困ることも在るのだと。
私の心も変わってしまうんだろうか。今クラヴィスと一緒にいたいという気持ちも変わってしまうのだろうか。クラヴィスの微笑みをみると胸に溢れ出す喜びも、クラヴィスの辛そうな顔を見ると胸におこる痛みもいつかなくなるのだろうか。変わってもいいとクラヴィスは言ってくれている。頭から信じていないのだから当然だけど。でも、大人になるまでこの気持ちが変わらなかったら…そのときにはもっとうまく自分の気持ちを伝えられるようになりたい。
「く、クラヴィスさま、じゃ、私急いで大人になります。だ、だから、待っててくださいますか?」
「いいだろう。おまえが昔聖地におまえの母がきた年になっても、おまえの気持ちが変わらなければ、私もきちんと考えてやろう。ただ、それまでにおまえか私が聖地から去っていたらそれは運命だったと思って諦めるのだぞ。おまえの傍らにいるべきは私ではなかったのだと…だから、もう泣くのではない。」
クラヴィスが言質を与えてやると、ディアンヌがあわててごしごしと涙を拭こうとするので、それをクラヴィスは押し留めた。
「そのように顔をこすっては白い肌が真っ赤になってしまうぞ。無理せずともよい。」
クラヴィスが再度指で涙をぬぐってやると、ディアンヌがにっこり微笑んだ。
まだまだあどけないが、将来の華を思わせる艶やかな笑顔だった。
クラヴィスはディアンヌの言葉などもとより信じていなかったが、それでも若干心が浮き立つ自分を感じていた。
このように率直な慕わしい感情をぶつけられるのは戸惑いも大きかったが、やはり心の弾むことだった。
ディアンヌは愛らしく素直で聡明で、クラヴィスはこの少女が自分のそばにいても煩わしいと思わされたことは一度もなかった。
むしろ、さりげなく静かにそっと人に寄り添ってくるような…そう、おとなしく人懐こい子猫のようなところをかわいいと思っていた。
大人になるまでに心が変わらぬ筈がない。あまり多くの人に出会ったことがないから、身近な自分に好意をよせているだけだ。多くの人間を知れば自ずと気持ちも変わり、今抱いている感情は少女時代の感傷にすぎなかったと気付く日がくるだろう。しかし、今はこのかわいらしい少女の示してくれる好意の心地よさに一時浸るのも悪くあるまい、その程度の気持ちだった。
クラヴィスに家まで送ってもらった後、ディアンヌは一生懸命考えた。
クラヴィスは大人になっても気持ちがかわらなかったら、自分の言葉を本気で考えてくれるといった。今はそれ以上望むべくもない。
でも、大人になるまでの時間は無限に長くディアンヌには思えた。
あと、5、6年。その間にクラヴィスか父のサクリアがなくなってしまったら、最初からこの約束はなかったものになってしまう。
自分の気持ちがかわらないとはディアンヌ自身も確信が持てなかったが、その時はそれで仕方ない。
でも、自分の気持ちがかわらないのに、クラヴィスと会えなくなったら…そうしたらその思いをどこにやればいいのだろう。そうならずにすむためには、自分が早く大人になるしかない…そのためには…そうだ、なぜ気がつかなかったのだろう。下界との時間の差を…
「あなたがいきなり学校にいきたいって言い出したのは、その所為だったの?」
アンジェリークはディアンヌの話を聞いて、ほんの少しあきれ、しかし、八割以上は心から感心していった。
そんな幼い時からクラヴィスだけを見て、クラヴィスのためには両親の元を離れることも厭わなかった娘の心根の強さ、激しさに驚嘆した。
「うん、主星の一週間が聖地の一日くらいだったから、こっちでは一年も経たずにすんで、だから、クラヴィスさまもパパもまだ守護聖でいてくれて本当によかった…」
「でも、あなたにとっては5年半くらい?長かったでしょう?その間クラヴィスさまのことを忘れたことはなかったの?」
「私もほんとは自信がなかったの。クラスの女の子たちが、あの学校のだれだれがかっこいいとか、デートするんだとか言ってるのを聞いて、もしかしたら、自分も他に好きな男のこができちゃうかも…とも思ったの。でもね、クラヴィスさまみたいに素敵な人は誰もいなかったの。っていうか、クラヴィスさまじゃなくても、他の守護聖様ほど素敵な人になんて一人もあえなかったわ。」
「それは…そうかもね…」
それぞれの趣は異なるし人によって好みは別れようが、自分の夫のオスカーを始め守護聖とは外見で選ばれるのかと思うくらい、守護聖の容姿は皆が皆きわだって整っていた。
しかも容姿だけでなく、宇宙を支える義務と自負により培われる責任感や、辛い別れを経験したいるからこそ知っている本当の優しさなどそれぞれの心栄えもまた、同年代の少年はもち得るわけもない。人間としての経験も深みも違いすぎるのだ。
物心つく前からそんな男性ばかりに囲まれていたし、守護聖以上のレベルの男性などそうそう居るはずもないから、ディアンヌが他の男の子に心惹かれなかったのも無理はないとアンジェリークは思った。
ディアンヌは言葉を続けた。
「それにね、私、何度か同じ年ごろの男の子たちと、グループでだったけど誘われて出かけたりしたこともあったの。遊園地や映画に行ったり、いろいろおしゃべりもしたわ。だけど見た目じゃなくって、クラヴィスさまみたいに側に居たいって思わせてくれる人には会えなかったの。クラヴィス様が時々辛そうなお顔なさってたの、私今でもよく覚えてるの。そんな顔してほしくないって思ったのクラヴィスさまだけだったの。一緒に居て心があったかくなるのもクラヴィスさまだけだったの。」
「それでも、ずっと心変わりしなかったってすごいと思うわ。」
「私が主星の学校に行っちゃったから、クラヴィスさまは私が約束したことをもう忘れちゃったんだろうって最初は思ったんですって。やっぱり子どもがその場の勢いで言ったことだったんだなって。自分のことなんか忘れて、広い世界をみたいと思うなら、そのほうがいいって思ったんですって。でも最初の休暇で帰ってきたときに、私、クラヴィスさまに、早く大人になりたいし、素敵な女性になりたいから一杯勉強する為に主星におりたんです。だから卒業するまでどうか待っててくださいねって言ったの。聖地なら一年もしないうちに大きくなって帰ってこれますからって。クラヴィスさまびっくりなさってたわ。私がそんなつもりで主星におりたって御存じなかったから。その後も休暇のたびにクラヴィス様にお会いして、約束忘れないでくださいねって、私は気持ちが変わってませんってお伝えしてたの。それでもなかなか信じてくださらなくて、子どもの戯言だって思ってらっしゃったみたいで、頭をいいこいいこってなでられたりしちゃって…」
「ふんふん、それで?」
すっかり女子高生ののりで友達の恋愛の顛末をきいているような気分にアンジェリークはなっていた。
「子ども扱いされるの嫌なのに、いいこいいこしてもらえるのも嬉しくて、自分でも困っちゃって…でも、やっぱり子どもって思われたくなくて、認めてもらいたくて勉強もがんばったし、綺麗になりたくて一生懸命おしゃれも気を付けたの。」
「わかるわぁ。好きな人には綺麗だって思ってもらいたいものね。」
昔この子の様子を見に行くと、男の子からよくメールや電話がきていたけど、恋をしている上に更に磨きをかけようと努力している女のこがモテないわけがないわよね、とアンジェリークは思いおこしていた。
もっとも、このこはクラヴィス様の事しか眼中になかったんだから、誘ってくる男の子に素っ気無く接してたのね。
自分やオスカーはディアンヌのそういった所しか見ていなかったので、このこは恋愛に晩生なんだろうって思いこんじゃったのも無理はなかったわね、とアンジェリークは思った。
「そうなの!クラヴィスさまって大人だし、すっごく綺麗な方でしょう?つりあうようになりたくて、でも、昔みたいに無邪気なだけじゃいられなくなってくると、だんだん私なんかどんなにがんばってもやっぱりクラヴィスさまに相応しくないかもって不安になっちゃったりして…」
「そうよね、私だってオスカー様にお会いした時はまだまだ子どもで、オスカー様に認めてもらいたいくて必死だったけど、がんばればがんばるほど、自信がなくなるときってあるわよねぇ。ましてやあんなに素敵な男性がお相手じゃ…」
「ママもおんなじだったの?うそ!だって、パパはママに夢中じゃない?最初からそうじゃなかったの?」
「ママだってパパのことが好きで好きで、パパに好きになってもらいたくて必死にがんばったのよ。」
アンジェリークが率直にうちあけた。パパはママにメロメロだったのよ、なんて変な見栄を張るつもりはなかった。
「そっか…なんか、安心しちゃった…こんなに必死にならないと、好きになってもらえないのって、私がママみたいに素敵じゃないから、平凡だからかなって、ちょっとコンプレックスあったの、私…」
「そんなことないわ、あなたはオスカーさまに似て、私よりずっと美人だし…でも、どんな美人だって好きな人には好きになってもらえるよう努力するその気持ちがないとだめだったと思うわよ。人の心が動くのって、最初は見た目もあるかもしれないけど、最後はやっぱり気持ちだと思うから。」
「そうなの!あのね、最初は私のこと、よくまつわりついてくる子犬みたいに扱ってたクラヴィスさまがね、そのうち私が会いに行くと嬉しそうに微笑んでくだささるようになって…おなじ微笑みでも、私のことを子どもだなって思って微笑みかけてくださった時と、上手く言えないけど全然違うのよ!すっごく優しくてそれでいてなんだか胸が痛くなるようで…それで私ますますぽーっとしちゃって、クラヴィスさまのこともっともっと好きになっちゃって…」
「で、いつ結婚しようってことになったの?」
「あのね、今度の休暇に入ってすぐ会いに行った時、『もう私、ママが聖地に来たときと同じ年になりました。でも、やっぱりクラヴィスさまのおそばにいたいです。クラヴィスさまといつでも一緒にいたいです』ってちゃんと打明けたの。そしたらクラヴィスさまは、おまえがこんなに長く私のことを思ってくれるとは想像だにしなかったって。負けたって嬉しそうにおっしゃって…では、私とずっと一緒にいたいなら、おまえの両親のように結婚するか?って言ってくださって…」
「きゃー!クラヴィスさまったら、いざとなると男らしくって情熱的ねー!」
「私、もう、すぐ『はい』って言っちゃったの。今思うと少し簡単すぎちゃったかな?」
「クラヴィスさまみたいな人には、変な駆け引きはしないほうがいいと思うわよ。正直で正解よ。でも、長年思いつづけた甲斐が在ったわね〜。」
「でも、ママだって未だにパパのことすっごく好きでしょ?そのほうがずっと長いじゃない?」
「あっ、そうか、いわれてみればそうよね!」
頬を染めて臆面もなく父への愛を現す母は少女のように可憐で、父が母をいつまでも熱愛しているわけがよくわかるなぁとディアンヌは思った。
今はディアンヌも薄々気付いていた。多分クラヴィスは母が好きだったのだと。でも、母は父を選んだ。この様子では結婚前から誰も割りこむ隙もないほどの熱愛だったのだろう。そして自分は幼い時から両親の仲睦まじい様子を当たり前の物として見て育つうちに、自分も誰か一人の人と激しく愛し愛されたいと無意識に願っていたのかもしれない。
「あなたが真剣なのはよーくわかったわ。私もあなたのパパを好きって思ったのもあなたと同じくらいだったから、早いとか若いからだめなんていう気はないわ。でも、パパには謝ってらっしゃいね。パパったらかわいそうなくらい落ちこんじゃってるんだから…」
「だって、あれはパパが悪いのよ!クラヴィスさまが私との結婚…の許可をとりにいらしてくださったのに、それには返事しないで勝手に私をジュリアス様と結婚させようとするんだもの!」
「パパはびっくりしすぎちゃって自分でも何を言ってるかわからなかったのよ。あなたとクラヴィスさまのことなんて寝耳に水だったんだもの。それに、パパはジュリアス様のおっしゃることにはなんでも、はいって言っちゃう癖があるじゃない?何も考えずに、つい返事しちゃっただけよ。私がジュリアス様にはきちんと言っておいたし、第一あなたの『クラヴィス様が好き!』発言に皆さんはあなたへのプロポーズは諦めたみたいだったわよ。」
皆肩を落とし、尾羽うちからした様子をディアンヌに告げて娘が罪悪感を抱いてはかわいそうだと思ったのでそれは言わないでおいた。
「やだ…そういえば、皆さんの前で私思いっきり宣言しちゃったんだっけ…」
その時の事を思い出して、ディアンヌは頬を染めた。
「ね、パパもあなたの気持ちを無視して好きでもない人と結婚させる気なんてないわ。あなたに嫌われたってそりゃあしょげ返ってるんだから。だから、謝ってらっしゃい。ね?」
「パパがかわいそうでみてられないのね?ママ」
「もちろんよ。あなたのパパはママの誰より大事な人ですもの。好きな人がしょんぼりしてる姿なんて見たくないでしょう?今のあなたならわかるわよね?」
「うん、すっごくわかる。パパに謝ってくるわ。でも、パパはクラヴィスさまとの結婚許してくれるかしら。どうせだったら、喜んでもらいたいんだけど…」
「パパにあなたの真剣な思いがわかれば、きっと許してくれるわよ。あの人は恋の大事さ、すばらしさ、そして恐さも誰よりもよく知ってる人だから…」
「うん、わかった。パパに話してくるね!」
ディアンヌが意を決したように立ちあがって部屋から出ていった。
娘らしい後姿を見送ってアンジェリークは、自分の両親もこんな晴れがましいような寂しいような気持ちで自分を送り出したのだろうなと思った。