そして、もう一度始まりの日 5

 

オスカーは妻と娘の会談に口を挟むこともならず、仕方なく居間に一人残っていた。

椅子から立ちあがったと思うと、部屋中うろうろ歩き回ったり、いきなり頭をかきむしったり、かと思うとまたどっかりと椅子に沈みこんだりと、大層落ちつかない様子であった。

オスカーはアンジェリークは娘となにを話しているのだろうかと思うと、もう、気が気でなかった。

それでなくてもこの一年というもの、毎日は会えなくなった不憫さ故に愛しく思う気持ちが募るばかりだった上に、会いに行くたびに大きく美しくなっていく娘がオスカーは自慢でたまらなかった。

ディアンヌが高校在学中にロザリアのサクリアが衰える気配を見せなかったのでこのまま女王候補にはならないだろうという目処もたったところで、オスカーは娘がさらに高等教育を受けるつもりなら大学を卒業後はぜひとも王立研究院に職をみつけてやらねばなどど親ばかなことも考えていた。

大学に行くにしても、聖地の時間でなら半年少々で終ろうし、やっと教育を終えて娘が帰ってくるというのに、更に遠くや長い期間手放す気などオスカーにはまったくなかった。

これからはまたディアンヌとアンジェと3人で楽しく暮らしていけるなあと思った矢先に、いきなり娘を横取り(としかオスカーには思えなかった)しようという輩が大挙しておしよせてきたのだ。平常心を失ったとしても無理はなかった。

もっとも、プロポーズにきたのがランディとかゼフェルあたりだけだったら、オスカーもここまで狼狽しなかっただろう。

若者たちが娘に夢中なのは端から見ても明かだったし、しかも、ディアンヌ自身にその気がないのもまた明らかだったので余裕を持って

『うちの娘のほうが夢中になるくらいに男を磨いてから、出なおして来い!』

と哄笑のうちに追い返していただろう。

それが、プロポーズに来たのは予想だにしなかった影の男クラヴィスで、自分より役職としては上のクラヴィスでは粗末に扱って門前払いを食らわすこともできず、しかも、ディアンヌのほうがクラヴィスに夢中らしいときては、混乱するなと言われるほうが無理だった。

ゼフェルやランディならいくらでも、結婚に反対する理由がつけられる。

やれ、娘を託すには早すぎる、若すぎる、頼りにならない、もうちょっと守護聖として一人前になってからそういうことはいえ、今のおまえにもう一人の人生を背負うだけの器量はあるのか、俺からせめて一本とれないような男に娘はやれんな…と、例えディアンヌにその気があってもいくらでも結婚を引き伸ばす方便は思いついた。

しかし、クラヴィス様では…だらだらと油汗を流しながら頭を捻ってもあからさまに結婚を反対する理由がオスカーにはどうしても思いつかない。

自分より年が上なので頼りない若僧といって一蹴することもできない。

逆に娘を預けるに相応しい頼りがいのある男性ということになってしまう。

本来父親より年上の花婿など噴飯ものなのだが、守護聖というのは年齢が肉体に反映されないのでディアンヌとならんでも多少年の差の在る夫婦というくらいで、不自然でもない。

自分だって下界の年齢ではアンジェリークの父親より数十倍年上だったのだから、これを理由に反対することもできない。

娘の年が若すぎるといって反対したら、自分がアンジェリークを娶ったのも同じ年であったろうといわれればぐうの音も出ない。

幼い時から聖地にいて世間知らずのあなたに娘を預けるのはいささか不安であるといおうかと思い、はたと気付いた。

自分はクラヴィスよりは心情的に近しい気持ちがあって、クラヴィスよりはましという程度の気持ちでジュリアスの結婚の申し込みに思わず頷きそうになってしまったが、考えてみれば、世間知らず度はジュリアスのほうが更に上かもしれず、これも言い訳には使えないという事実に思い当たったのだ。

昔、前女王陛下と熱烈な恋をしていて、娘が生涯一人の相手でないからと反対すれば、結婚前のおまえはどうだったのだと鼻でせせら笑われるか、永遠に封印しておきたい過去をアンジェリークに暴かれるというやぶへびになりかねない。

傾向が違うとはいえ、容姿の端正さでも決して自分にひけをとらないクラヴィスでは(人によっては自分よりもクラヴィスの方が魅力的に映るであろうことも、オスカーは重々承知していた)自分より見劣りがするような男に娘はやれんという屁理屈も通用しない。

どこを向いても八方塞であった。

『どうしてまたよりによってクラヴィスさまなんだ…』

オスカーは問うても仕方のない問いを何度無意味に自分に放ったことだろう。

とにかく娘を自分から奪おうとする男が好ましい訳ないところに、よりによって昔からなんとなくいけ好かない相手である上(これは昔アンジェリークの愛を競い合った所為である)あからさまに反対する理由がひとつもない、もしくは言うに言えないときている。

だから、余計にむしゃくしゃもする。

自分よりタッパはあるし、職歴は長いし、ジュリアスに伍するとジュリアス本人も認めるほどサクリアは強力だし、顔は端麗だし、声に色気はあるし、私生活も結婚前の自分と違って付けこむ隙がない…

どこをとっても文句のつけようのないところがまた癪の種なのである。

おまけに、動揺した挙句ジュリアスにディアンヌを託しそうになって、娘から言われた言葉が『大嫌い』でオスカーは心情的に完璧に生きる屍、真っ白に燃え尽きたボクサー状態であった。

ディアンヌに決定的に嫌われたまま、

『もう、パパみたいなわからずやなんか、知らない!許してもらわなくたっていいもん!』

とでもいってディアンヌが明日あたりクラヴィス邸で同棲でも始めたらどうしようかなどと、不吉な想像が頭を駆け巡り

「うがががーっ!」

とそのことを想像するだけで思わず意味不明の雄叫びをあげて頭をかきむしりたくなるオスカーである。

アンジェリークがうまくディアンヌの機嫌をとって、さらに欲をいえば結婚を諦めさせてくれないかなどと虫のいいことを考えつつ、オスカーはちらちらと時折落ちつきなくドアに視線をなげていた。

何度目かにドアに視線をやったとき、ドアの傍らにどうしていいかわからぬ風情で佇んでいる娘の姿を見つけた。

「ディー…」

「パパ…あの、さっきはごめんなさい…パパのこと嫌いなんていっちゃって…本気で言ったんじゃないの。ごめんなさい…」

「いやディーは悪くない。悪いのはパパの方なのに、ディーはパパを許してくれるのか?」

言いにくそうに、それでも、勇気を出して自分を許してくれた娘の心情を思い、また安堵の気持ちもあってオスカーは不覚にも目頭が熱くなりそうだった。

「ん、ママがね、パパがジュリアス様にはいって言っちゃうのは癖みたいな物で、本気で私をジュリアス様と結婚させようとしたわけじゃないから許してあげなさいって…」

オスカーはこの言葉を聞いてどーっと体中から力が抜け、お嬢ちゃんには敵わんな〜と心の底から思った。

ジュリアスの前ではつい下僕か飼い犬のように振舞ってしまう自分の実態が娘にばれてしまい父親の沽券も威厳もあったものではないが、却って気が楽になって、オスカーは息を抜いてディアンヌと接することができそうな気がした。

それでも気を取り直して多少は姿勢をしゃっきりさせてオスカーは娘に向き直った。

「ディー、すまなかったな。パパはディーがクラヴィスさまと付き合ってたなんて全然知らなかったんだ。他のやつらと同様、ただ、ディーにプロポーズしにきたのかとも思ったんで、どうせ結婚させるなら、パパの尊敬するジュリアスさまならいいという気持ちで思わず勝手にきめちまいそうになったんだ。」

「パパ、クラヴィスさまじゃ、だめなの?なんで?」

ディアンヌがオスカーの『ジュリアス様ならいい』という言葉を聞きとがめてとても哀しそうな表情になった

「いや、その、特別な理由があるわけじゃないんだが…」

俺より年上の義理の息子なんていやだ〜とか、あからさまに暗いところが同情を引こうとしているようで気に入らないんだ、俺だって決して心に傷を持ってないわけじゃないがあんなにあからさまにそれを表にだしたりしないぜ、男のプライドってもんがないんじゃないのかとか、俺の嫌いなリュミエールと仲がいいってものもきにいらないし、なにより昔お嬢ちゃんを狙ってたという事実が許せないんだ〜!なんて、感情にまかせた理由はいえたものではなかった。

特に昔アンジェリークを巡る恋のライヴァル同士だったということと、それゆえ未だになんとなく気に入らないなんてことは口が裂けてもいえない。

ディアンヌが本気でクラヴィスを好きだとしたら、その事実を気に病むかもしれないからだ。

一言で言えば、『とにかくいけ好かないんだ!』なのだが、説得力がまるでないということが自分でもわかっているし、ばかな事を言って娘に軽蔑されるのだけは避けたかった。

なんとかしてディアンヌにクラヴィスさまとの結婚を思いとどまらせたいが…オスカーの脳内の対女性用コンピュータが唸りをあげて計算を始めた。

理詰めで説得ができそうにない場合…そうだ、同情を引くのだ。傷ついた男というのに女性は弱い。母性本能が刺激されて、弱みをみせられるとかわいそうになってついいう事を聞いてしまう。

ディアンヌもこの手でクラヴィス様にたらしこまれたんじゃないかというむかつきと、まさか自分の娘相手に女性を口説く時の手管をつかうなんて思いもよらなかった、なんて俺はとほほな父親なんだという忸怩たる思いが頭をよぎったが、この際細かいことを気にしている余裕はなかった。

「ディー、パパはな、寂しいんだよ…」

必殺の左斜め30度の角度で視線を泳がせ、ふっ…と溜息をつく。

にたようなセリフとこの仕草、昔、母性本能の強い人妻を落とすときにつかったな…なんてことは、故意に忘却の彼方に押しやった。

「ディーはずっと主星に行ってて、漸く帰ってきた、さあ、これからまた家族で暮せるぞ、と思った矢先に家から出て行くなんてことをいうから、反対したくなっちまったんだ。なにもこんなに早く家をでていかなくてもいいんじゃないか?もうしばらく家族で一緒に暮さないか?」

しかし、触れなばおちんの人妻に効いた手も、冷静な娘には効果はなかった。

「パパ…さっきはジュリアス様ならいいっていったじゃない。寂しいからだめなんていわなかった。それに、ママがパパと結婚した年って私と同じじゃない。なのに、こんなに早くなんていうの?それに、それってクラヴィス様じゃだめって理由の説明になってない。」

故意に論理を捻じ曲げて、クラヴィスとの結婚を反対する理由をなんとか誤魔化そうとしたオスカーの魂胆はみえみえだった。

オスカーはぐっと詰まった。まずい…非常にまずい。このままでは、さらにパパ大嫌いか、パパなんて軽蔑しちゃうというもっと恐ろしい結果が頭をよぎり、またも背中を冷たい汗がたらたらたら〜と流れ落ちた。

「うっ…頭が…」

この手だけは使いたくなかったが…炎のオスカーも地に落ちたもんだぜと思いながら、オスカーは突然の頭痛のふりをした。

「ごまかさないで、パパ、どうして、クラヴィス様じゃだめなの?私、ずっと前からクラヴィス様が好きだったの。パパがだめっていったって諦めるなんてできない。」

やはり、あまりに稚拙なてだったかとオスカーは思って頭痛の振りをやめたが、最後のディアンヌの言葉がきにかかった。

「ディー、今ずっと前からっていったが、いつ頃からディーはクラヴィス様が好きだったんだ?」

「えっと…学校にあがるまえだから、13才くらいだったかな?」

13才…13才の少女を齢2000才を越す男が…オスカーはめまいがした。ロリコン・ロリコン・ロリコン…という言葉が頭をかけめぐる。まさか、まーさーかーとは思うが、胸も漸く膨らみ初めた頃のディアンヌがクラヴィス様の餌食になっていたなんてことは…という恐ろしい考えが思わずぼんと頭にうかび、オスカーは脳貧血をおこしそうになった。

顔面蒼白になりながら、『ディー、クラヴィスさまとはどこまで行ってるんだ!』と詰問しようとして、娘の答えによっては自分の精神がそれに耐えられる自信がなかったので、あえてこの恐い考えには目を瞑ることにした。

甚だ頼りなかったが、クラヴィス様の良識にかけるしかないというのがオスカーの出した結論だった。

自分だって結婚前にアンジェリークを抱いていたのだから、大きなことはいえない、それはわかっているが、13才はさすがに勘弁してください、クラヴィスさま〜とオスカーは泣きたい気持ちになった。

オスカーがどんな考えで自分の事を見ているかには気付かず、ディアンヌがオスカーに問いかけてきた。

「ねえ、パパ。パパだって、ママのパパに結婚を許さないって言われたらママのこと諦められた?」

ここを突かれると弱い。ディアンヌの智謀は自分の弱点をびしりとついてくる。まるで誰かいい参謀でもいるかのようだ。

「う…そ、そりゃあ、諦めた訳がない。許してもらわなくたってお嬢ちゃんを攫ったさ。」

実際には、女王試験終了後にそのまま聖地のオスカー邸にアンジェリークを連れて行ってしまったので、反対もなにも、アンジェリークの両親からは承諾自体うけていなかったのだ。

自分だってアンジェリークを攫ったような形で娶り、結婚の報告はしたものの実質は事後承諾だった。

アンジェリークの両親は、娘を飛空都市に送り出した時点で永久の別れを半ば覚悟していたので、強硬な反対にはあわなかったというだけだ。

「じゃ、私もクラヴィスさまにさらっていただこうかな。パパは許してくれそうにないし」

「ちょ、ちょっとまて!ディー!」

最も怖れたカタストロフィーが近づいている。オスカーは真っ青になった。

「だって、パパだって許してもらえなかったらママを攫うつもりだったんでしょ?私とクラヴィス様も同じくらい真剣なのよ。」

ディアンヌがここぞとばかりに畳み掛けた。

「おねがいパパ、私とクラヴィス様のこと、許して。だまってクラヴィス様のところに行っちゃうのは簡単。でも、できればパパとママにおめでとうって言われて、私この家を出て行きたい」

「ディアンヌ…」

オスカーは溜息を付いた。

引き伸ばしも理詰めの説得も泣き落としもきかないくらい、娘の決意は固そうだった。しかし、だからといってはいそうですかと、簡単にうなずけるものでもない。人間の感情はそれほど単純にはできていない。ただし、もう誤魔化す事はやめようとオスカーは思った。

オスカーはディアンヌに肩に手をおいて、噛んで含めるようにこういった。

「ディアンヌ、パパはいまは結論を出せない。少しだけ待ってくれ。ママともちょっと話しあいたいしな。もう誤魔化さないってことは約束する。だから、ディーも黙ってクラヴィス様のところにはいかないでくれ。それだけは約束してくれるか?」

「はい、わかったわ、パパ。パパとママに許してもらえるまでは、黙ってクラヴィス様のところにはいかない。」

「それで十分だ。ところで、ディー、夕飯たべてないだろう?腹はへらないか?」

「ん、そう言われてみると、ちょっと…」

「厨房に行って、シェフになにか軽いものでも用意してもらうか?」

そう言っていたところに、アンジェリークが入ってきた。

「父娘の会談は終りました?オスカーさま」

「お嬢ちゃん、その話はあとでゆっくりな。それより少し小腹が空いたんで、なにか軽くつまみにいくかとディーと話てたんだ。」

「ふふ、そうじゃないかと思って、今チキンパイをオーブンであっためてるわ。ディー、食べる?」

「ママのチキンパイ?嬉しい!食べる食べる!」

「オスカー様は?」

「俺は少しのみたいな」

こんなにいろいろあった日に、素面でいる気分ではなかった。

「じゃ、パイのほかに軽くつまめる物をつくりましょうね。シェフを呼ぶほどじゃないから私がやりますね。」

3人は食堂ではなく厨房にいってカウンターキッチンに落ちつくと、気楽に寛いでオスカーがワインをあけ、アンジェリークも少しワインをもらい、ディアンヌはお茶をのみながら、軽く食事をした。

なんていうことのない話題に笑いさざめきながら、3人が3人とも心の片隅で、あと何回3人で食事ができるだろうとそれぞれ考えていた。

 

ディアンヌが自分の部屋にひきあげたあと、オスカーとアンジェリークも夫婦の部屋に入った。

軽くシャワーを浴びて夜着に着替え、アンジェリークがドレッサーに向かって肌の手入れをしていると、オスカーがアンジェリークに話かけてきた。

「なあ、お嬢ちゃん、お嬢ちゃんは正直な所、ディーとクラヴィス様の結婚の事をどう思う?」

「私はいいとおもいますよ。反対する理由もないし。」

あっさりとアンジェリークが言い放ったので、オスカーが食い下がった。

「そ、そんなに簡単にきめちまっていいのか?大事な娘の人生を預けるんだぜ。」

「だからクラヴィスさまなら申し分ないじゃないですか。お人柄はよくわかってるし、結婚してもしばらくはいっしょに聖地にいられるだろうから、私たちも寂しくないし、なにより、ディーのこともよくわかってくださってるし。あの子はしばらく学校にいったとはいえ、やっぱり聖地で生まれた純粋培養だもの。普通の子どもとは育った環境が違うから、一般の家庭にはいってカルチャーギャップに悩むより、気心のしれた方と一緒に暮らすほうが苦労がないんじゃないかしら。少なくとも私はクラヴィス様だったら、安心してディーを預けられますわ。」

守護聖さまと結婚すれば嫁姑の苦労もないしね、というのは思ったものの付け加えないでおいた。

クラヴィスの肩をもつアンジェリークにオスカーはちょっぴりやきもちを焼きながら、それは顔に出さずに

「どうして、お嬢ちゃんはクラヴィスさまならいいとおもうんだ?」

とさりげなさを装って聞いてみた。

「だって、マルセル・ランディ・ゼフェル様のことはディーは兄弟みたいに思ってるから、今更愛してるっていわれても、そんな目でみられないだろうし、やっぱり結婚にはちょっと早いって気がします。リュミエールさまとじゃ、ディーがオスカー様との間に立って板ばさみになるとかわいそうだし、オリヴィエさまじゃ、どっちが花嫁かわからないっていうのは冗談だけど、オリヴィエ様のほうにそんな気はまるでなさそうだし、ルヴァ様はやっぱりディーにとっては完璧に生徒と先生みたいだし、大貴族のジュリアス様との暮らしは、はっきりいって心情的には庶民として育ったディーには、肩がこると思うわ。夫婦別々の寝室とかにジュリアス様だったらしそうだもの。その点クラヴィスさまは、鷹揚で煩い事いわなさそうだし、神経質そうでもないし、それでいてディーにはとっても優しそうだもの。一番いいんじゃないかしら。」

「じゃ、百歩譲って、そりゃ、守護聖の中ではいいほうかもしれんが、なにも守護聖だけが男じゃないんだぜ、お嬢ちゃん。社会に出てもっといい男とめぐりあうかもしれないのに、こんなに早く伴侶を決めなくたっていいとは思わないのか?」

「オスカーさま、オスカー様を筆頭に、守護聖様を見なれちゃってるディーが普通の男の人を好きになるとは私はどうしても思えないわ。私だってオスカー様みたいに素敵な人に、下界であったことなかったですよ。」

他の守護聖様を見てもそれぞれ並ぶ者がないくらい魅力的ですし、なんてことを言ってオスカーを不安のドン底にたたきこんだりしない上に、上手にオスカーの気分を盛り上げるアンジェリークである。

「い、いやあ、俺は下界にいた頃から、もてもてだったから、そんな男がいないとは限らないし…」

案の定まんざらでもなさそうな風情でオスカーのご機嫌が上昇したようである。

「でもオスカー様、ディーの相手がご自分みたいなタイプだったら、もっと反対したんじゃないかしら?」

くすくす笑いながらアンジェリークがからかうように言った。

「言うじゃないか、お嬢ちゃん…」

オスカーはいきなりアンジェリークをベッドに押し倒して一瞬唇を塞いだ。

「俺みたいな純な男を捕まえて…」

組み敷かれても怖じずにアンジェリークは言葉を続ける。

「純な男というのなら、クラヴィス様だって相当純だと思いますよ。静かだけど一途で誠実で情熱的な方にみえますもの。ディーの気持ちに応えて下さった以上きっとディーをとっても大切に、そして深く愛してくれると思いますよ。」

「む…お嬢ちゃんはよくクラヴィス様のことをわかってるんだな…」

「ふふ、オスカー様、やきもち?」

アンジェリークが悪戯っぽそうな瞳でオスカーを見上げる。

「今日はお嬢ちゃんにしてやられっぱなしだな…でも、ベッドの中じゃそうはいかないぜ。」

オスカーがそのまま首筋に舌を這わせ始めた。

「ん…オスカーさま、ほんとは、オスカー様もおわかりになってるんでしょう?あっ…」

「また、言いにくいことをいう…もう、にくらしいことを言えないようにしてやろうな…」

オスカーがそのまま、舌を鎖骨から乳房の稜線に滑らせて行く。

アンジェリークはその感触に耐えながらこう言った。

「それになにより大事なのは、ディーのほうがクラヴィスさまにぞっこんってことです。どんなに愛されても、自分のほうが愛せないと思う人とでは結婚したって幸せになれないと私は思いますよ。望まれて嫁ぐことが幸せとは、私は思えないの…ん…」

「アンジェリーク…」

オスカーにもアンジェリークのいいたいことはわかった。どんなに思いを寄せられても、嫌いではなくても、心もからだもその人の事を思って熱くなれないこともある。それならばその思いに気付かない振りをしたほうが、却っていいのだ。半端な同情は自分も相手も傷つけることになる。

もしや、アンジェリークは昔彼女に寄せられていた様様な思いを知ってもなお愛せないと思った相手には素知らぬ振りを通して、自分を選んでくれたのだろうかと思いオスカーは胸に熱く込み上げてくる物を感じた。

オスカーも心の底ではわかっていた。

ディアンヌ本人が欲する相手でなければ、どんなに熱烈に愛されて結ばれても本当に幸せとはいえるかどうかわからないことを。

だが、今は娘を手放す覚悟がまだ持てず、オスカーはその力をわけてもらおうとするが如くにアンジェリークのいつまでも白く柔らかく芳しい肉体に耽溺していった。

 

一夜開けて爽やかな朝が来た。

闇の守護聖クラヴィスは、花器に活けられた白薔薇の花弁をしなやかな指で弄びながら昨日のオスカー邸での顛末をそれとはなしに思い起こしていた。

ディアンヌに求婚しその承諾を両親から得るのは彼女の率直で一途な想いと願いに応えるための自然な帰結だったから、クラヴィスはオスカー邸を訪問した。

プロポーズのため持っていった花束をアンジェリークに取られたときは少々狼狽したものの、飾られればどこでも同じだと思いなおしたので深く追求はしなかった。

オスカーとアンジェリークにとっては、クラヴィスのディアンヌへの求婚はやはり唐突な申しでだったようで、2人は心底驚愕していたようだし、その場で返事がもらえるとはクラヴィス自身も思っていなかった。

自分たちの考えと言うか、決意を知ってもらうだけでその場は十分だとククラヴィスは思っていた。

ところがそこに招かれざる客が次ぎから次ぎへとやってきて、各々がディアンヌを欲する心情を行きがかり上とはいえ吐露した挙句あえなくその場で玉砕した。

あの場にいあわせなければ、あえて想いを告白することもなく自分たちの婚約の知らせに静かに諦めをつけることもできたのだろうがな…とは思ったものの、クラヴィスは彼らに同情する気はなかった。

呼ばれもしないのに、それぞれ勝手にディアンヌに想いをおしつけたあげく彼女を泣かせる原因を作ったのだから。

ディアンヌが自分と愛し合ってると知らされたときの彼らの顔はまったく見物だったとクラヴィスは思い出していた。

ジュリアスは、無理にでもなんでもないふうを装い、リュミエールは相手が自分だったのでオスカーに対するようなあからさまなライヴァル意識をもやすこともできずに途方にくれたような顔をし、ランディとゼフェルは口を開けっぱなしで呆けたままオスカー邸からすごすごと帰っていった。

ジュリアスとリュミエールでは失恋した者同士杯をかたむけ合うということもできないだろうから、この憂さをどう晴らしたのであろうか。若者2人は主星に降りて自棄になったように遊び歩いたのだろうか。彼らにとっても自分とディアンヌのことは想像だにしなかったことだろうから、その衝撃の大きさも無理もないとクラヴィスは思った。

自分自身だって一年前、幼さの残るディアンヌがクラヴィスに幼いが故の一途な思いをぶつけて来た時は、こんな感情を抱くとは予想だにしていなかったのだ。

少女のとば口に立ったばかりの彼女がただ心の思うままにいつまでも自分と一緒にいたい、側にいたいと訴えてくれた時、クラヴィス自身は喜びよりも戸惑いを覚えた。

もちろんディアンヌを愛らしいと思っていたし、彼女の物静かでいながら人懐こいところをクラヴィスは大層好ましく思っていたのも事実だった。

だが、その思いを真剣に受け止めろというには自分は年をとりすぎ、彼女は幼すぎた。

だから、彼女が主星の学校にいくと聞いたときは、自分にぶつけてきた感情はやはり一時の気の迷いであったかと得心した。

そのほうがいい。あえて虜囚のような生活を聖地でおくることはない。広い世界で数多の人間と出会えば、自分がそれほどの思いをよせられる人物ではないと彼女にも自ずとしれるだろう。それでいい。

一抹の寂しさを覚えたものの、クラヴィスは真剣にそう思ったのだ。

だからこそ、彼女が休暇で聖地に帰って来たとき、彼女の方が自分からクラヴィスに会いにきて主星に降りた訳を話してくれたときには驚きを隠せなかった。

聖地ではほんの一ヶ月足らずの間に下界では半年がすぎ、それ相応に少女らしさを増していた彼女は、自分は少しは大きくなったかと心配そうにクラヴィスに尋ねた。

クラヴィスはディアンヌの真意が掴めぬまま、もちろんだと肯定した。下界の時間の流れを普段は意識せずともこうやって一人の人間の変化、特に成長期の子どもの変化をみれば否応なくそれを感じざるをえなかった。

ディアンヌは心底安堵したように、よかった…と言ったあと、これならクラヴィス様やパパが聖地にいる間に、私きっと大人になれますよね?と聞いてきた。大人になったらクラヴィス様も、私のいうこと真剣に聞いてくれますよね?とも。

クラヴィスは耳を疑った。思わず訊ね返していた。おまえが主星に降りたのはそのためだったのか?と。ただ座して待つだけではなく少しでも運命を自分に引き寄せる為に、あえて家族と一時離れることを選んだのかと。

ディアンヌはもじもじして、だって、早く大人にならないと、クラヴィス様がいなくなっちゃうかもしれないって思ったから…と恥かしそうに、伏し目がちに答えた。そして、突然顔をあげると蒼い瞳を強く煌かせながらこう言った。

『私、なるべく急いで大きくなります。サクリアが一年でなくなっちゃうってことはないですよね?サクリアが衰え始めても守護聖の交替は何年かかかるのが普通だってルヴァさまから教わりました。私がここの時間で一年くらいで大人になれば、絶対まにあいますよね?私、ママみたいに素敵な女性になれるよう下界で一杯勉強してきます。だからクラヴィス様、待っててくださいね!』と。

クラヴィスは激しい衝撃を受けた。

ただ、幼い無邪気なだけの少女だと思っていた。怖れを知らぬから子猫のようにストレートに愛情を示して臆する所がないのだと。しかし、自分の想いを少しでも現実のものにするために彼女は自分にできることを幼いなりに精一杯考え、そのための犠牲を厭わぬ覚悟を見せた。

そのひたむきさ、心の強さにクラヴィスは打たれた。

幼く単純ともいえる思考ゆえに、純粋で夾雑物を含まぬ想い故に彼女の心は強くあることができるのだろうと思った。

余りに多くの年月を生きてきた自分にはこんな単純な物の見方はもうできない。あれこれと状況ばかり考えてしまい、結局はいつも運命は変えられぬものと、賢しげなことを言ってただ時のすぎゆくままにまかせてしまう。

彼女の純粋さ、運命のほうを自分にひきつけようとするそのヴァイタリティにクラヴィスは感嘆を感じざるをえなかった。

また、自分の好意をどう受けとめられるかということに怖れを抱かないのは、深く愛されて育った証拠である。

世界に自分は受け入れられているという根源的な自信が培われているので、愛情を示すことに物怖じがない。

そんなディアンヌの育ちのよさからくる素直さもクラヴィスには眩しく思えた。

このディアンヌの決意を聞いて、クラヴィスは初めて、ディアンヌのことを愛情は注いでいたものの愛玩動物のようにみなしていた目がかわり、彼女を一人の少女として意識し始めた。

ただ、なんといっても彼女はやはり幼かった。

クラヴィスは己を戒めた。

自分にとっては一年足らずの時間でも彼女にとっての6年はとても長い。心変わりをするのに十分な長さだろう。それでなくても、見るもの聞くもの珍しいことばかりのはずだ。ただ毎日眠ったように日々をやりすごしている自分に替らぬ想いを寄せつづけることのほうが不自然だ。彼女も広い世界をしれば下界でもっと相応しい相手を見つけるだろう。今彼女の気持ちは紛れもなく本心でも、それがかわらないと思うのは愚かなことだと。

だから、彼女が聖地に帰ってきて自分に会いに来るたびに言った。自分の言葉に縛られる必要はないのだと。彼女の気持ちが変わっていないのを嬉しく思う一方で、そう言わざるをえなかった。

しかし、それを聞くと彼女はとても悲しそうな顔をした。当たり前だろう。それは自分の想いをいまだ真剣にはうけとめてもらってないということの証左なのだから。

しかし、それでも、クラヴィスは彼女のまっさらな思いをありのままに受け入れるのは、やはり自分は年をとりすぎている、彼女を自由にする余地を残しておいてやらねばという気持ちを捨て去ることができなかった。

彼女の真剣な想いから逃げていると思われても、クラヴィスにはそういうふうにしか振舞えなかった。

しかし、そう…あれは、前回彼女が休暇をおえて聖地からまた主星にいってしまったすぐあとだったろうか。

彼女とクラヴィスの密かな約束のことなどまったくしらない若者たちが、執務の合間のお茶の時間に彼女のことを話題に出したことがあった。

アンジェリークとオスカーがティーブレイクをしている所に若者3人ぐみが押しかけたところで、丁度一息付こうとやはりカフェテラスにやってきたクラヴィスをみかけてアンジェリークが、ご一緒にどうぞと声をかけてくれたのだった。

「あーあ、ディアンヌ学校に戻っちゃったね〜」

「また一ヶ月もすれば、聖地に帰ってくるだろ?」

お茶を守護聖それぞれのカップに注ぎながらアンジェリークがその答えをひきとった。

「それが、今度の休暇は聖地に戻ってもすぐまた主星におりちゃうかもしれないんです。女王候補になる可能性が減ってきたから、これからのこと考えて進路をきめる試験をうけるかもしれないって言い出して。そうしたら、その勉強しなくちゃいけないらしくて。なにするにせよ、どうするか一度帰ってきて報告はするって言ってましたけど…」

「上の学校なんていかなくてもいいから、聖地に帰ってくればいいのに…」

「そう言う訳にもいきませんよ。わたしたちだって聖地ずっといる訳じゃないんですもの。あのこも自分の生きかたを探さなくちゃならないし。」

「でもさぁ、今は女子高だからいいけどよー、大学なんていったら変なヤローどもにディアンヌ狙われて大変なんじゃねーの?」

「うん、この頃さ、ディアンヌ帰ってくるたびに綺麗になってないか?ほっぺは白桃みたいだし、蒼い目はまん丸で大きいんだけど、ちょっと目尻があがってて、あ、そうだ丁度このアーモンドをふっくらさせたみたいな形だよな。アンジェともオスカーさまとも違う瞳でさ、俺、綺麗だな〜ってみとれちゃうんだよね。」

ランディがお茶受けのアーモンドクッキーを指差して言った。

「げっ!おまえも…」

「え?なんだよ、ゼフェル?」

「な、なんでもね−よ!だからよー、大学なんか行って、変なヤローがディアンヌとくっついちまたらどうするんだよ、アンジェ。そのまま主星に残るなんていいだしたらよー。それでもいいのかよー!」

「それも仕方ないですよ、子どもはいつか親元から離れて行くんですもの。ディアンヌ本人が納得の上でえらんだ人ができたら、私はそれでいいとおもいますけど?」

オスカーが慌ててアンジェリークの言葉にわって入った。

「おいおいおい、お嬢ちゃん、俺は俺を上回ると認めた男じゃなかったらディーのことを託したりはしないぜ!」

「大丈夫ですよ、オスカー様、ディーはオスカーさまの娘ですもの。こんな素敵なパパがいたら、よっぽど素敵な人じゃない限りそう簡単に心を動かされたりしませんよ。」

このアンジェリークの言葉にその場にいた四人の守護聖はそれぞれ違う感慨を抱いた。

ゼフェルとランディは

『よしっ、俺ならOKだな!』

とそれぞれ心の中でガッツポーズを取っていた。

マルセルは単純に『うんうん、そうだよね〜』と思っていた。

ディアンヌが私にもう心を動かされているらしいことをアンジェリークは知っているのだろうか…いや、そんな筈はない…第一、あれの心を縛ってはいけないと私は常々自分に言聞かせているのだ。だからこそ、ディアンヌにも私たちの密かな約束のことは誰にも他言無用といってある。

クラヴィスはこんなことを思いながら一人黙ってお茶をすすっていた。

オスカーはオスカーでアンジェリークの手放しの賛辞についやにさがってしまう。しかし、男女の仲はなにが切っ掛けで始まるかわからないことを、経験豊富なオスカーはよく知っていた。

「そうはいってもなぁ。ディーは世間知らずで純真で優しいから、情にほだされて変な男とつきあわないとも限らないしなぁ。そのまま主星から帰らないなんていいだしたら何が何でも阻止するぞ、俺は。聖地にディーを連れ戻して次元回廊を陛下に閉じていただこう。でもって時間の流れを速めていただければ相手はあっという間に年をとってディーのことは忘れるっていう寸法で…」

「けっ!自分がアンジェにしたことと同じなのに、自分の娘にはそれはゆるさねーってか?おっさんだってアンジェたぶらかしたみたいなもんなのによー」

ゼフェルがにやにやしながらオスカーに言うと、オスカーは勝ち誇ったように鼻であざ笑った。

「…ゼフェル、おまえだけはディアンヌの彼氏としては認めないからな、俺は…」

ぶほっと、ゼフェルがお茶を吹出した。

「あああ〜、きったないなぁ、ゼフェルぅ、僕の服にかかったじゃない!」

「男がこまけーこと気にすんな!マルセル。あっ、あっ、いや、そのほんの冗談だぜ、オスカー、いやオスカー様、嫌だぜ、冗談を真に受けちゃ、大人気ない。」

「ふん、たとえおまえがその気だって、俺の娘がおまえになびくとは思えんからいいがな。」

へん、俺様の魅力をディーにわからせてやらー、あとでほえ面かくなよ!」

「なにか言ったか?ゼフェル?」

「いーえー、オスカー様、俺様なーにも申しておりません」

アンジェリークがくすくす笑って場を和ませる。

「ディーが卒業したら聖地に戻ってきてくれると、私も嬉しいけどこればっかりはディーの人生ですから、オスカー様。私はディーの思う通りにさせてあげたいです。私だってオスカー様と会って、ここにいたいって思ったの、今のディーとそんなに変わらない年でしたもの。でも、反対されたって、やっぱりオスカー様といっしょにいたいって気持ちは変えられなかったと思いますし…」

「お嬢ちゃん…」

「オスカー様…」

2人は互いの手をとりあい、熱く潤んだ瞳で見詰めあった。

点描を背景に背負い始めた2人に「けっ、やってらんねーや」という気分が漂い始めていたが、クラヴィスはそんなことはもうどうでもよくなっていた。

先日主星に戻る前も、ディアンヌは当たり前のようにクラヴィスの元を訪れ、変わりない愛情を示してくれていた。

それでも、年を重ね、女性らしさが増して行くに連れ、その愛情表現もあどけない率直な物から含羞を湛えた大人びた物に徐々に転じつつあった。

自分がどう思われているのか大層気にしている様子で、ちらちらとクラヴィスの様子を盗み見してから腕にしがみ付いて来たり、クラヴィスの長衣の端を摘んであとからついてきたり、甘え方に子どもっぽさと女性らしさがない交ぜに交じり合っており、愛らしいと思いながら心のざわめきを感じている自分が確かにいた。

正直言って、クラヴィスはいつのまにか、彼女の訪問を期待していた。彼女が帰ってくるたびに

「私、ちょっとは大人になりましたか?もうちょっと待っててくださいね、クラヴィス様」

といいにきてくれるのを心待ちにしながら、しかし、それを期待してはいけないと、懸命に自分に言い聞かせていた。

彼女が母が聖地に来た年齢になったとき、彼女の気持ちが変わっていなかったら、クラヴィスは彼女の愛情に答えるにせよ、拒否するにせよ真剣に考えると約束している。

本当に彼女の気持ちが変わらなかったら?自分を思いつづけてくれていたら?

信じてもいいような、期待してもいいような気分がクラヴィスの内部に生じつつあった。

この一年、確かに浮き立つような心で過ごしてこれた。

彼女の訪問を心待ちにし、彼女の心が変わってないことを期待する自分が確かにいた。

自分の態度いかんで、彼女の愛らしく控えめな微笑みも、彼女が静かにそっと寄り添ってくるとき感じる安らぎと愛しさも永遠に失うかもしれない。

もし、大人の分別を振りかざし、おまえにはもっと相応しい、若若しい相手がいるだろうと彼女の思いを正面から受け止めることなく、誤魔化しにげたら恐らく彼女は主星におりて戻っては来るまい。

それでも、いいのか、クラヴィス、よく考えてみろ。クラヴィスは自問する。

若い時の最初の恋。愛という物を初めて知って、その熱さと甘さにおぼれたが、若さゆえの狭量さと性急さですべてか、無かしか受け入れられなかった。

金糸の髪の彼女に宇宙か自分かを迫り、義務感から選びかねている彼女の態度が不誠実にしか思えず、一方的に裏切られたと思い、自分一人が傷ついたと思い込んで自分のからにとじこもった。

彼女は涙ながらに女王に即位し、守護聖にもほとんど顔をあわせることなく綻びかけた宇宙を一人で支え、その重責ゆえ早々とサクリアを使い果たし聖地を去って行った。

2度目の女王試験、2度目の恋。封印していた記憶を掘り起こされることに耐えられず、自分の愚かさを思い知らされるのが嫌で、傷つくことに臆病になって自分の気持ちをみつめようとしないうちに、もう一人の金髪の天使は炎に照らされ眩しい笑みを浮かべて手の届かぬところにいってしまった。

今、自分はまた同じ過ちをくりかえすのだろうか。

振りこが極端に触れるように、求めすぎるか、求めることに臆病すぎるかしかできなかった過去。

何も学ぶことのないまま、また幸せを自分から手放してしまっていいのか。

愛らしい子猫のようなディアンヌ。その小さな身体をずっと懐にだきとめていてやりたい。おまえは黙っていつも私の傍らに在る。静かに、それでいて確かな温もりと愛情を持って、いつもどこかしら私に触れている。ですぎることなく、私に愛を請う。髪をなでてやるだけで、この上なく幸せそうに微笑むおまえを小賢しい分別から手放して、私は後悔しないのか。

おまえが大人になりたいと願って聖地を一時出る決意をしたように、私も少しばかりの勇気を出してみよう。

今度おまえが帰ってきて、それでもおまえの気持ちが変わっていなかったら、私もおまえをいつも傍らにおいてきたいと思っていると、告げてみよう。

おまえがくるのが当たり前になってしまったので、もうおまえがいないとなにやら落ちつかないのだと。

おまえの控えめな温もりを感じていると日溜りの中にいるように心が和むのだと。

 

そして、彼女は高校最後の休暇に再び聖地に帰ってきた。

母が聖地にきたときと同じ年になっていた。

真っ先にクラヴィスのもとにやってきて、思いつめた瞳で訴えてきた。

「クラヴィスさま、私、ママが聖地にきたときと同じ年になりました。でも、やっぱりクラヴィス様のおそばにいたいです。クラヴィス様と一緒にいたいと思ってます。ずっと気持ちはかわりませんでした。私が本気だってことだけはわかってください!」

これだけ、言ってしまうとさっと身を翻し立ち去ろうとしたディアンヌの腕をクラヴィスが取ってその身体を引き寄せた。

「言いたいことだけ言って去ってしまっていいのか。私はまだなにもこたえておらぬぞ」

ディアンヌが零れそうに瞳を見開いた。アーモンド形の瞳とランディが称した、愛らしくも魅惑的な蒼い瞳。長い睫に縁取られた美しく澄んだ瞳は期待と不安に湖水の表面のようにゆらゆらとその色を変えた。

クラヴィスは長衣でディアンヌをすっぽりと覆うように抱き寄せ、その頬を両手で挟みこんで囁いた。

「私の子猫。常に私の傍らにありたいと今でも願ってくれるのか。」

「はい、クラヴィスさま…」

クラヴィスの掌にディアンヌの震えが伝わってきた。

「おまえには負けた…おまえは私に温もりを思い出させてくれた。私も、おまえがおらぬとなんだかこう、懐が寂しいのだ。おまえが、私に寄り添って温もりを伝えてくれるのになれてしまったのでな。これからも、いつもこうして私の腕の中にいたいと思うか?」

「はい!クラヴィスさま!」

ディアンヌの返答に寸分も躊躇いはない。いつもそれだけを願っていたのだから。どうしてだろう、クラヴィスの側にいると心が温かくなる。安心して、なんだか穏やかに優しい気持ちになれて。クラヴィスが微笑んでくれると嬉しくて、昔寂しそうな瞳をしていることが多かったから、そんな瞳をみせないでほしくて、いつも柔らかく笑っていて欲しくて、そのためならなんでもしてさしあげたいけど、自分には側にいたいってことしか思いつかなくて…

溢れそうな思いに胸が一杯になっているディアンヌにクラヴィスが微笑みかけた。

ディアンヌが何より好きな、ほんのりと柔らかな笑顔で。

「ふ…では、おまえが学業を終え、聖地に帰ってきたら供にくらすことにするか?」

「そ、それって、それって、あの、あの、もしかして…」

ディアンヌが信じられないといった顔で思いきり大きな瞳を見開きクラヴィスを見つめた。

「おまえの父と母のように毎日、毎晩寄り添いあい、慈しみあって同じ時間をすごすか?だが私は一度おまえを手中にしてしまったら、おまえの父が母を手放さぬ以上におまえを手放さぬかもしれぬぞ?それでもよいか?その覚悟がおまえにはあるか?」

「ははははいっ!クラヴィスさま!」

ぶんぶんぶんっと音がしそうな勢いでディアンヌが首を縦に振った。

「ふ…そのようにムキにならずとも私はもう逃げたりせぬ。おまえのひたむきさ、一途さが私に一歩を踏み出す勇気を与えてくれたのだ。今は、おまえが愛しくてたまらぬ…かわいい私の子猫…」

「クラヴィスさま…」

「おまえの両親に結婚の承諾を得ねばな。今度、両親ともに在宅の日におまえの家を訪ねよう。だが、まずおまえに愛を誓うのが先だな。ディアンヌ、どうやら私はおまえを愛しているようだ…」

「クラ…」

クラヴィスさま、私も…というディアンヌの言葉はクラヴィスの唇に遮られ、そのままクラヴィスに飲み込まれてしまった。

まだ少女といっていいディアンヌにクラヴィスは深い口付けは与えず、唇を触れ合わせるだけに留めた。

それでも、ディアンヌは固く目を閉じて頬を真っ赤に紅潮させ身体を固く強張らせている。息も止めてしまっているようだ。

『キスの仕方から教えてやらぬとな…』

クラヴィスはディアンヌの様子を楽しげにみおろしながら、心の中でこんなことを考えていた。

これからいくらでも時間はある。

無為に日々をやりすごしていたことを考えれば、希望と未来への展望のある毎日を少しずつ重ねて行くことは苦痛でもなんでもない。

今の自分に性急にことを急ぐ青さ、余裕の無さは無縁のものだった。

ディアンヌとの結婚も決して急ぐつもりはなかった。オスカーがその場で承諾を与えるとはクラヴィスも思っていなかったから、その日に返答がこなかったこともクラヴィス自身は気にしていなかった。

ただ、18才にやっとなろうとしている彼女の6年間に及ぶ想いは人生の3分の一を占める。

自分が彼女をいとしく思うことと比重において雲泥の差があろう。

その真面目さと潔癖さで勝手にジュリアスに承諾の返事をしたオスカーにKOダメージを与えて泣いてさっていったディアンヌの心だけが気がかりだった。

泣かなくてもよい、私はなにも気にしてはおらぬぞ、という暇もなくディアンヌは自分の部屋にこもってしまい、自分自身はやんわりとアンジェリークに追い返された。

ディアンヌはあのあとどうしたであろう。そっとしておいたほうがいいか、いや、やはり、今日後ほど様子を見にオスカーの屋敷を訪れるか。オスカーはまだ廃人同然であろうか。さすれば門前払いをくらわせられることもあるまい、と思った矢先、執事がクラヴィスに来客の知らせを告げに来た。

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