「来客?休日の朝早くから誰だ?」リュミエールか?いや傷心のリュミエールではあるまい。いくらあれでも今自分の顔を見るのはさすがに釈然としないものがあるに違いない。
「オスカー様でございます。いかがいたしましょう。」
執事が取次ぎの返答を待つ。
「オスカー?一人か?」
「はい、オスカー様お一人でございます。」
「よかろう、通せ」
大事な一人娘はやれんと全面的に宣戦布告でもしにきたか?アンジェもディアンヌもつれてきていないとなれば、あれの独断専攻であろうし、怖るるにたらんな…
こんなことを思いながら、クラヴィスは客人が通されたであろう客室に悠然と歩いて行った。
「待たせたな」
クラヴィスが客間に入ると椅子にかけていたオスカーがたちあがろうとしたので、クラヴィスはそれを制した。
「ここではおまえのほうが客人だ。そのままでよい」
オスカーに対面する形で自分も椅子に腰掛けると、すかさずメイドがコーヒーを供しにきた。
カップ類がセットされるのを2人とも無言でまっていた。時折薄い磁器が微かにふれあってあがる幾分金属質の澄んだ音以外なにもきこえなかった。
飲み物の用意が終ったのを見て、使用人にこちらから呼ぶまでは誰もこないようにと命じてからクラヴィスはオスカーに向き直った。
クラヴィスが用件を訊ねる前にオスカーの方が口を開いた。
「お休みのところ、朝早くからお邪魔してしまい申しわけありませんでした。不作法をどうかお許し下さい。」
「用件を聞こう。」
聞かずとも察しはついた。昨日の今日だ。ディアンヌのこと以外ありえない。恐らく結婚は承諾できないということだろう。
自分とオスカーは決して近しい間柄ではない上、オスカーにとって自分の申し出は寝耳に水だったはずだから、簡単に承服するわけがない。
クラヴィスは、それは当然だしそれで構わないと思っていた。
待つことは彼にとって苦痛でもなんでもなかった。反対を押しきるだけの情熱がないのではない。反対を押しきって思いを遂げれば心にどうしても残るであろう『両親を裏切った』という悔恨や負い目をディアンヌに感じさせたくなかっただけだ。
だから、ディアンヌにも言ってあった。即座に承諾が得られずとも焦る必要はないと。おまえの両親が正式に承諾してくれるまで見切って事をすすめるようなことを自分はするつもりはないと。
ディアンヌは最初不服そうだった。クラヴィスにはその焦燥がよくわかる。18才の少女にとっては明日ですらあまりに遠く不確かだ。常に心は『今』十全のものを求めて急いている。
自分が同じ年頃だったらこの疾風のように先を急ぐ情熱に一緒にまきこまれ、熱に浮かされて周囲も見ずに突き進んでいたことだろう。
自分にはそんな恋はもうできない。周囲の思いに目を背け、自分たちだけの愛で世界を完結させてしまうには物事を見すぎていた。
自分はこの少女がそれこそ産まれた時から知っているのだ。この少女がいかに両親から大事に慈しまれてきたかをつぶさに見知っているのだ。
その少女のこれからの人生を自分に預けてくれというのは娘を大切に育ててきた両親にとってそれが喜ばしい結婚であってさえなお、寂寥を覚えずにはいられない事柄なのだから。
それでなくとも今までオスカーと自分のサクリアがともにディアンヌが成長するまで衰えなったということ自体が僥倖以外のなにものでもない。
どちらかのサクリアが先に衰えて聖地をさることになれば、サクリアの消失の時期がよほど近くない限りはそれは親子の今生の別れを意味する。だからこそ、その時まで親子に感情のわだかまりはもたせないでやりたい。
将来親子の関係に禍根を残すような先走った行動を、だからクラヴィスは起こす気はなかった。
万が一どちらかが聖地を去ることになる時まで承諾が得られなかった場合多少強引な手段をとるかもしれないが、恐らくその心配はないだろうとクラヴィスは楽観していた。
ディアンヌにはオスカーが言いそうだと思われる反対の理由とその論拠を打ち破る方便も一通りはレクチャーしてあったから、そのうちオスカーも折れざるをえないだろうと予想していた。
「クラヴィスさま…」
オスカーが真剣な眼差しでクラヴィスを見据えた。ディアンヌの瞳はやはり父親似だなとクラヴィスはなんとはなしに思いながら、オスカーがいうであろう「娘はやれません」という言葉に対して心構えをした。
しかしオスカーが膝に手をおき、頭を下げながら放った言葉はクラヴィスは到底信じがたいものだった。
「娘をよろしくお願いします」
「………」
クラヴィスがコーヒーカップを空中に留めたまま固まっている。
切れ長の瞳が驚愕に見開かれ、心なしか形のいい唇も半開き状態だ。
『一本取った…』
呆然自失のクラヴィスを前にオスカーは僅かばかり溜飲を下げた。
ディアンヌの結婚を承諾するというのはオスカーにとっていわば全面降伏だ。
しかし、昨晩の時点で早くもオスカーの負けは避けられない結末であり自明だったといっていい。
娘と妻に一致団結されてはオスカーには立ち向かう術はなかったからだ。
あまりにわからんちんなことをこれ以上言って、さらに娘に嫌われることや、最愛の妻にあきれられることを考えたら、自分の主張に固執するほうが失うものが多いといわざるを得なかった。
もともと自分の言い分などただの感情論で、しかもなんの根拠もないものだったのだから。
負けが確定している以上、あとはいかに潔く見苦しくなく負けを認めるか、そして、わずかばかり、形ばかりでいいからクラヴィスにカウンターを与えることができればもうそれでいい。
オスカーが出した結論は、もう、うだうだ引き延ばしはせずに敵が驚くほどのすばやさで白旗を掲げることであった。
『ああ〜なさけない…』
と思わないでもなかったが、負けを認めず足掻くのはさらにみっともないし見苦しい。いつまでも駄々をこねている子どものような部分をアンジェリークはともかく(多分アンジェは自分の子供っぽい部分もお見通しだろうとオスカーは思っていた、そしてそれが不思議と嫌ではなかった)娘に知られてしまうのは、流石に父としては躊躇われた。
オスカーに最後に残された威厳の提示法はいかに美しく勝つ効果的に負けを演出するかということだった。
案の定自分の言葉は完全にクラヴィスの虚をついたようであった。
クラヴィスのことだから、自分がディアンヌとの結婚を承知しかねるというだろうと身構えていたのだろう。
予想もしなかった自分のあまりに早い全面降伏にあっけにとられているようだった。
『クラヴィス様がここまで無防備に呆然となさった顔をみられただけでもよしとするか。』
降伏の素早さで敵の意表をつくというのもかなり情けない方法なのだが、全面降伏が避けられない以上、相手が思っても見なかった時に降伏して驚かせてやるくらいしかオスカーのできる反撃はなかったのである。
「…不覚にも驚いてしまった。この私にもまだこれほど驚愕する事態などというものがあったのだな…人間幾年生きようと新鮮な思いを感じることがあるものだ…ふむ、だから人生は捨てたものではないのだな…」
俺も驚きましたよ、あなたがディアンヌを嫁にもらいたいとおっしゃった時は…でも、それで人生捨てたもんじゃないとはどーしても思えませんでした、俺は!という心の叫びは口にすることなく、オスカーはあくまで優雅な負けを演出しようという努力を続けた。
「私が反対、もしくは、断りにいらしたとお思いでしたか。」
俺はそれほど浅薄で単純な男じゃないぜ!という余裕の笑みを演出してみたがうまくいったであろうか。
だが、これだけ意表をつけたのならしてやったりと思うべきであろう、とオスカーは自分を慰めた。
「昨日のおまえの様子では、とても色よい返事は期待できそうになかったのでな…いったいなぜ心を翻した?」
「翻心したなどと、お人聞きの悪い…私は最初から反対だ!等とは申しておりませんでしたが?」
そう、言ってない。あまりに狼狽していたので、いかん!ともだめだ!ともいう余裕がなかっただけだが。
しかし、クラヴィスはくっくっと口に笑みを含ませながら
「無理せずともよい。私がおまえにどう思われているかも、承知の上で申しこんだのだからな…」
「私はただ、父親としてディアンヌの幸せを願っただけで…」
慌てていい繕おうとするオスカーをクラヴィスが押し留めた。
「誤魔化さずともよいぞ。おおかたディアンヌに泣き落としをかけられ、脅迫され、アンジェリークとの事を引き合いにだされて説得されたのであろう…」
『な、なんでわかるんだぁっ!』
オスカーの動悸が激しくなった。まずい、これ以上突っ込まれたらこの余裕綽々の態度をいつまで保てるか…もったいぶりかつ恩着せがましく、あくまで娘の幸福を願ってしぶしぶ許諾を与えたという形だけでも演出したかったのに、それすら水泡に帰すのか?娘に自分の挙げた反対の理由を一々論破された上、これ以上娘に嫌われたくないという情けない動機から結婚を許すといわざるを得なかった事実もばればれなのかぁ〜!俺のやせ我慢も最早限界か〜?と、オスカーが心の中で涙を流し始めたとき、
「それにしても、これほど早くディアンヌと私のことを認めるとはおもいもよらなかったぞ。快諾してくれて礼を言う」
あれっと思うほどあっけなくクラヴィスは引き下がった。その上お礼まで言われてしまった。オスカーは自分が追い詰められているような気がしていたがどうやら気のせいだったようだ。クラヴィスは思ったよりいい人なのかもしれない。
クラヴィスをいい人かもしれないと思ったオスカーは、ついでに結婚に際して自分としてはどうしても譲れない要望があったので、それを言ってみるか…という気になった。
「ただし、ひとつ申し上げておきたい事があります。」
「ほう、なんだ言ってみろ。」
オスカーは真剣な面持ちでクラヴィスを見据え、一呼吸おいてからこう言った。
「ディアンヌと結婚しても、私を義父上とか、お義父さん、などと呼んで下さらなくても結構です。あくまで職歴では私は下の立場ですから。今まで通りオスカーと呼んでください。もちろんアンジェリークも同様です。」
「ふ…む、そうか、そういえば私がディアンヌと結婚すれば、確かにおまえは私の義理の父になるのだな…」
考えこんだ様子で呟いているクラヴィスの様子に、オスカーはとてつもなくいや〜な予感に襲われた。
『も、もしかして、クラヴィス様、気付いてなかったのか!まさか、やぶへび…』
自分より年上の婿となるクラヴィスからお義父さんと呼ばれるのだけはどうしても生理的に我慢できないと思っていたオスカーは、これだけは前もって釘を刺しておかねばと、思い切ってこのことを言ってみたのだが(もちろん理由は誤魔化したが)、もしクラヴィスがこの事実に気付いていなかったのなら、あえて寝た子をおこすことはなかったぁああ!と激しい後悔に苛まれた。
案の定クラヴィスが
「しかし、実際おまえは義理の父になるわけだし、父親の名を呼び捨てと言うのは道義上誉められたことではないようなきがするのだが…」
等と言い出した。
「クラヴィスさま!私がいいと言ってるんだからいいんです!そんなお気遣いは無用に願います!どうか、今まで通りオスカーとか、おまえと呼んでやってください!」
叫ぶようにオスカーが答える。後悔先に立たずとはまさにこのことであった。それこそどうにか翻心してくれないと困る!オスカーは必死であった。
「ふむ、おまえがそれほどいうのなら、現行のままでいいということだな。まあ、私としてもそのほうが助かるがな…」
「そうしていただけると助かります…」
オスカーがほっとしたのも束の間、クラヴィスがさらにこんなことを言い出した。
「しかし、私とディアンヌの間に子どもが出来たらおまえをどう呼べばいいのだ?子どもの手前、祖父、おじいちゃんの名前を呼び捨てにするなど子どもの教育上よくないのではないだろうか?」
おじいちゃん、この俺がおじいちゃん、肉体上はまだ20代のこの俺が…ぐわらんぐわらんとオスカーの頭の中に割れ鐘が鳴り響く。
うかつにもオスカーは、クラヴィスに指摘されるまでこの事実を失念していた。娘が結婚して子どもができれば、自分は確かにその子の祖父になるのだ。
それに気付いて、
『いやだ〜、この年でおじいちゃんは勘弁してくれぇ!やっぱりなにがなんでも結婚には反対すればよかったぁ!』
と思ってもあとの祭りであった。
この思いもよらなかった事実がもたらした精神的衝撃に(単にオスカーがうっかりなだけだが)オスカーがその場に昏倒しないですんだのは、ここで意識を失ってしまったらディアンヌに子どもが出来たとき、クラヴィスからおじいちゃんと呼ばれることを承認してまうことになりかねない!と思ったからだった。
「く、クラヴィス様!そ、そんな、まだできてない子どものことを仮定して話さなくても…」
ここまで言ったとき、オスカーははたと気付いた。
ディアンヌは13才の時からクラヴィスさまを好きだといっていた、しかも、今回の結婚の申し出はあまりに突然といえば突然だ、まさか、もしや、ディーのおなかの中にはクラヴィスさまの種がもう根付いているのか…
「ま、まさかクラヴィスさま、ディーのおなかの中にはもうクラヴィス様の子どもが…」
「だとしたら、どうする?」
オスカーは目の前が真っ暗になった。自分の足をつけている床ががらがらと音を立てて崩れ、自身は底無しの無明地獄に落ちていくような気分であった。いくらなんでもこの事実は自分の精神には到底耐えることのできない過負荷であった。
これほどのショックを受けたのは、アンジェリークが出産するときオスカーがこよなく愛するアンジェリークのあの部分を鋏で切らなければならないかもしれないと聞いたとき以来であった。当然衝撃の度合いもそれに勝るとも劣らない激しさであった。
『ディー、おまえはいつからクラヴィスさまと関係してたんだ…しかも聖地では子どもはできないはずなのに、子どもができたってことは、いつのまにか主星でもクラヴィス様としてたんだな…女子寮にいると思って油断してたぜ。きっと聖地と同じ感覚でクラヴィス様が避妊しなかったんだろう…俺といっしょだな…ははは、俺はこの年でおじいちゃん確定か…だめだ、強さを司るこの炎のオスカー、ふがいないがこの事実にだけは耐えられそうにないぜ…』
こんな思考が走馬灯の如く駆け巡り、オスカーの意識がふぅっと遠のきかけた瞬間、
「冗談だ。あれのおなかに私の子どもなどいない」
というクラヴィスの一言で、強さを司る守護聖が精神的衝撃の余り失神するという痴態をさらすことはどうにか回避された。
顔面土気色で油汗を流しながら最悪の事態をぎりぎりのところで回避したオスカーに、クラヴィスがさらに追い討ちをかけるようなことを言った。
「早々と子どもを作ってそれが娘だったりしたら、そのまま聖地で大切に育てても自分の気にいらない男と結婚するやもしれぬ。その様を見届ける度胸はあいにく私にはないのでな。あれがもっと成熟して、いや、私が聖地を去ってからでも子どもは十分だと思っている。」
「クラヴィスさま…」
そこはかとない脱力感に襲われつつ、もしかして自分はからかわれているのだろうか、という考えが一瞬頭を過った。しかし、それに拘泥するよりもなお、気になることがオスカーにはあった。
ここまで動揺させられたのなら、逆に聞ける、聞いてしまえ!オスカーは自分を叱咤する。
例え今妊娠していなくても、それは娘がクラヴィスと肉体関係にないという証拠ではないのだ。
よしんば肉体関係があったとしても、高校生になった後でくらいならまだ許せる、しかし、もし13才でもはや…
やはり、そのことをオスカーは確かめたかった。確かめてどうなるものではないと承知はしている。しかし、疑わしい事実を思っていつまでも悶々とするよりはましだ!と思ったことと、やはり、実はまだ清い関係かもしれないというほんの一抹の希望にすがってみたい気持ちもあってオスカーは思いきって、しかし、遠まわしにディアンヌといつ頃そういう関係になったかをクラヴィスに聞いてみた。
「く、クラヴィスさま、つかぬことをお伺いしますが、ディーがクラヴィス様のことを好きだと言って、クラヴィス様があの、その、それに答えてやってくださったのはディーが幾つくらいの時でした?」
「ふ、なにを突然…そうだな、あれが私と別れたくない、離れたくないと泣いたのは、確か13才くらいであったか…」
『別れたくない、離れたくない』と言って泣く…自分がその涙に耐えきれず、告白をすませたばかりのアンジェを辛抱たまらず抱いてしまったのと同じシチュエーションじゃないかぁあっ!
やっぱり、やっぱりぃ〜と思いオスカーは心の中でどわぁーっと滂沱の涙を流した。これ以上はもう恐ろしくて聞けなかった。
それでも、若い花、というよりまだ花になる以前の蕾を散らした責任を取るというクラヴィスの態度を立派だと父としては思わなくてはなるまいと、懸命に自分に言聞かせた。
妊娠していなかっただけでもよかったと思わなくてはなるまいとも思った。少なくとも、近い将来おじいちゃんと呼ばれる事態だけは免れたのだから。
怪訝そうにクラヴィスが訊ね返してきた。
「それがどうしたのだ?」
「いえ、いいんです、なんでもありません、クラヴィス様、ディーが成長するまでディーのことを見捨てないでやってくださってありがとうございました〜」
心の中で男泣きに泣きながら、オスカーは礼を述べた。
これ以上オスカーには父として言うべき言葉がなかった。
ディアンヌの方から好きといって始めた合意の関係で、しかも自分がどう思おうと過去は覆せないのだから、ディアンヌの思いをそのまま受けとめ続け、生涯の伴侶として娶り、結果的に娘を泣かさないでくれたクラヴィスに礼を言う以外オスカーには言葉がなかった。
「私のほうこそ、あれに礼をいわなくてはならん。私のようなものを6年も慕いつづけてくれたのだからな。他にもあれを思っている男は多数いたのであろうにな…」
「クラヴィス様、あらためてディーをよろしくお願いします」
今度はオスカーは演技ではなく心の底からクラヴィスに懇願した。幼いなりにそんなに長く真剣に娘がクラヴィスのことを愛していたのなら、変な意地で結婚に反対しつづけなくてよかったと思わねば!思うべきだとやはり懸命に自分に言聞かせた。
「ああ、おまえたちが心から慈しみ大切に育んできた宝石だ。私も仇やおろそかには扱うまい。私は神をもたぬが、あれを心から大切にすることはどんなものにでも誓って見せよう。」
「そのお言葉だけで十分です。ディーを大事にしてやってください。とりあえず、結婚は高校を卒業してディーが聖地に帰ってきてからということで…」
「ああ、それがいいだろう。学業を放棄させるほど急いている訳ではないのでな。」
「では、今日のところはとりあえず失礼させていただきます。結婚のうち合わせなどはまた後日改めて伺いますので…」
「うむ、私も花嫁を迎えるよう屋敷を急いで改築させる。おまえがアンジェリークを娶った時同様にな…」
「はあ、恐れ入ります、ディーも喜ぶでしょう、では、これにて…」
オスカーは相変わらず土気色の顔のまま、クラヴィス邸を辞するまでに2回室内のドアに激突し、1回椅子に蹴躓き、最後に執事が開けてくれた玄関のドアにもう一度頭をぶつけてから、ようやく立ち去った。
執事が心配そうにクラヴィスに尋ねた。
「オスカー様は異常に顔色がお悪く見うけられましたが、一体何のご用でいらしたのです?」
「ああ、私が昨日あれの娘にしたプロポーズの返事をしにな。あれの娘を私によこすことを承諾したという返答を持ってきたのだ…」
執事は瞬間絶句したあと、
「お、オスカー様のご令嬢とおっしゃると、ディアンヌ・フローラ様!お館さまはディアンヌ様を奥方にお迎えになるので?!」
「まあ、そのようになるな…」
「な、なにを人事のようにおっしゃっているのです!急いで花嫁を迎えるべく屋敷を整えねば!」
「今日明日くるというわけではないのだぞ。もっとも私も夫婦の部屋を作る為に屋敷の改築は命じるつもりでいたがな…」
「は、はい!早速手配いたします」
その時、表から馬のいななきとどさっという鈍く重い音が聞こえた。
「な、なんでございましょう、馬がなにやら騒がしく鳴いておりましたが…」
「大方オスカーの乗ってきた馬であろう、主が落馬でもしたのかもしれぬな…」
「オスカー様が落馬なんてなさるなどとは信じられませんが…ああ、しかし花嫁の父という物は大層気落ちするものらしいですから、もしやそれでお顔の色もあのように優れなかったので?」
「ふ、どうであろうな…」
クラヴィスは、オスカーを少々からかいすぎたかと、心の中で思い返していた。
オスカーから予想もしなかった承諾の返答に度肝をぬかれたのがちょっと悔しかったことと、真剣な面持ちで『自分を義父とは呼んでくれるな』とオスカーが言い出した時、つい、天邪鬼な気持ちが頭をもたげ、それを切っ掛けに茶目っ気がとまらなくなってしまった。
オスカーが真剣な顔で自分になにか言おうとしているのを見て、
『これからは私のことをお義父さんと呼んでください!』などと真顔でいいだしたら、申し訳ないが丁重に、しかしきっぱりと断ろうと思って身構えていた反動もあったのかもしれない。
心底嫌そうなオスカーを前にしていたら、その気もないのに、渋って見せたり、自分たちに子どもが出来たときの事を引き合いにだしてみたくてたまらなくなった。
しかも、話しの流れからディアンヌが妊娠しているのかと勝手に思いこんだオスカーの様子があまりにおもしろかったので、ついついすぐ否定しないでさらに反応を伺うような事も言ってしまった。
オスカーの顔色が一瞬紅潮したかと思うと蒼白に、そして土気色に転じて行く様は信号のようで大層おもしろい見物であったとクラヴィスは無慈悲な事を考えていた。
妊娠はしていないと明言はしてやったものの、この話題のせいで恐らくオスカーは自分がもうディアンヌと肉体関係にあると誤解して激しい精神的ショックを受けたようだった。
しかし、どうせ結婚したら、その精神的ショックは避けようがないのだから、いまさらその誤解は解くこともあるまいとクラヴィスは思っていた。ショックが少々早まったにすぎないのだし、むしろ前もって覚悟させてやっただけ親切だったかもしれぬな、とさえ思った。
あの動揺ぶりはいささかかわいそうだったかもしれぬがな、と心の片隅では思ったりもしたが。
『オスカー、よくよく付き合ってみればおまえは楽しい面白い男だな、私は以前ほどおまえのことが嫌いではないぞ…』
くっくっと含み笑いを零しながら、クラヴィスは呼ぶべき業者の指示を執事に与えた。
オスカーが音もなく夫婦の部屋に入ってきたのに気付いてアンジェリークが声をかけた。
「オスカー様、お帰りなさい。遠乗りにいらしてたんですか?私が起きたらもうお出かけなさった後だったから…」
相も変わらず、休日のアンジェリークの朝は日頃の睡眠不足解消のため徹底して遅かった。漸く寝覚めたときはベッドの隣は空になっていたので、いつもの休日のようにオスカーは馬でも軽く走らせに行ったのだろうと思っていた。アンジェリークは一緒に朝食をとろうとオスカーが戻ってくるのを待っていた。
「いや、遠乗りじゃないんだが…」
なんとなく憔悴したオスカーの様子をアンジェリークが見咎めた。
「あらあら、なんだかお顔の色が悪いわ、オスカー様、髪の毛に葉っぱもついてるし…」
アンジェリークが背伸びをしてオスカーの頭についた草切れを取り払った。
「そうか…いやな、今クラヴィス様のところにひとっ走り行ってきて、ディーをお願いしますって返事をしてきたところなんだ…」
アンジェリークがこのオスカーの言葉にこれ以上はないというくらい大きく瞳を見開いた。
相変わらず零れそうに大きな瞳だなぁとオスカーはぼんやり思っていた。どうも思考能力が著しく低下しているようだった。
「オスカー様、昨日のご様子じゃまだまだ当分、首を縦に振らないと思ってましたのに!よく決心なさいましたね!」
「ああ、クラヴィスさまにも同じ事言われたよ、しかし、どうせ敗北するなら潔く負けを認めるほうがまだかっこいいかと思ってな、決心が萎えない内に言いに行っちまった。」
でもってやっぱり後悔したがな…ということは伏せておいた。
「敗北って…もう、オスカーさま、ディーをクラヴィスさまにお預けすること、そんな風に考えてらしたの?」
「俺的にはそうとしか思えないんでな…ディーは13才くらいからクラヴィス様のことしか目に入っていなかったこと、なぜ突然学校に行きたいと言い出したかということ、なにも気付かなかった自分の目は節穴だ、父親失格だ、だから頼りになるクラヴィス様のところにディーは行っちまうんだ…なんというか、今も自分は完璧に位負けしていると思い知らされたような気がするしな…」
「そんなことないですよ、オスカー様はとってもいいパパですよ。オスカー様はいつもいつもディーのためになると思ったことは、ご自分が寂しくてもそれを我慢してディーにいいようにしてあげてたじゃないですか、学校にいきたいっていってたときも、そして今も…」
「ああ、俺は後悔してるよ、ディーを学校なんかにやらなければよかった。そうしたら、こんなに早く大人になっちまうことも、俺たちから離れて行っちまう事もなかったかもな…こんなに早く大人になっちまって…俺たちをおいて…」
大人になったというより、女になったというべきかもしれなかったが、とてもじゃないけどそんなことをアンジェリークには言えないとオスカーは思った。
「オスカーさま、寂しいんですね…」
アンジェリークがオスカーを優しい目で見つめた。
「ああ、寂しいさ。あれよあれよという間に綺麗な娘に育っちまって、さあ俺たちのところに漸く帰ってくるぞと思った矢先に俺たちの許から飛び去っちまうんだからな。確かにクラヴィス様なら、安心して預けられるかもしれない。でも、だからこそ余計に寂しいんだ。嫌な事やつらい事があったらいつでも帰ってこいよ、と言う余地もないじゃないか。お嬢ちゃんはどうなんだ?寂しくないのか?」
アンジェリークは何やら思い立ったようにベッドに腰掛けると
「オスカー様、ちょっとここに座ってください」
と自分の隣を指し示してオスカーを手招きした。
「ん?なんだ?」
いぶかしげにそれでも言われた通りにオスカーがアンジェリークの隣にこしかけると、突然オスカーは頭をぐいと引き寄せられたかと思うと、顔が柔らかく暖かなものに押し当てられた。同時に馥郁たる甘い香りが鼻腔を充たした。
アンジェリークがオスカーの頭を抱えるように抱きしめ、自分の豊かな乳房に押し当てながらオスカーの髪を優しくなでていた。
「オスカー様、でも、私がいます、オスカー様のおそばにはいつも、いつまでも私がいます、私はディーみたいにオスカー様の許から飛び去ったりしないわ。それじゃ、だめですか?私だけじゃ我慢できないほど寂しいですか?」
「お嬢ちゃん…いや、その…」
オスカーは不覚にもどぎまぎしてしまった。昨晩もこの豊かな胸に思いきり顔を埋めたばかりだというのに。
「オスカー様、わたしたちはディアンヌの人生を一生かかえこむことはできないわ。あのこの人生と私たちの人生が違うように、あのこが一緒にあゆむべき相手は私たちじゃありません。あのこの人生をわたしたちはちょっとの間預かってただけ。手をさしのべたり、後押ししながら、あのこが一人で歩けるようになるまで、そして一緒に歩んでくれる人にあのこを託すまで。そう思う事にしませんか?」
アンジェリークはオスカーを慈しむように髪を梳きながら言葉を続ける。
「私、あのこが産まれた時に、このこの誕生日は私たちの新しいはじまりの日だなって思ったんです。そうしたら、あのこの結婚する日も、またあたらしい始まりの日なんじゃないかしら。あのこにとってはもちろんだけど、私たちにとっても、それはまた新しい始まりの日なの。2人に戻って、またお互いのことだけを考えられる日々が始まるって、そんな風に考えたらどうかしら?」
オスカーは緩やかに吐息をついた。
心の奥底に押さえつけていた娘から見捨てられたような思いが、アンジェリークの胸のあたたかさに溶けて行くような気がした。
「お嬢ちゃん、俺はいつも目の前からなくなっていくものだけに目を取られてしまう、今も自分はかわいそうな男としかおもえてなかったのにな、お嬢ちゃんと2人きりで毎日過ごせるようになる…昔みたいに、お互いだけを見詰め合って…そうだな、そう考え直せればいいのかもしれないな…」
「でも、今は寂しいって、悲しいっていってもいいと思います。私だってディーが家をでていくのは寂しいですもの。でも、私にはオスカー様が、オスカー様には私がいるじゃないですか、一人で寂しさを我慢しなくてもいいんじゃないですか?私がオスカー様を抱きしめてあげるから、寒くないように、寂しくないように…」
アンジェリークは自分の胸にオスカーの顔をおしつけていた腕の力を緩めてオスカーの頬を両手で包みこんで自分からオスカーに軽く口付けた。
「オスカー様、私が抱きしめてあげる。ね?私が包みこんで暖かくしてあげるから…」
もう1度アンジェリークはオスカーの分厚い体躯に懸命に腕を回してぎゅっと抱きしめた。
「オスカー様、優しいオスカー様が私は大好きですよ。ご自分が寂しくても辛くても娘が幸せになるように、ご自分のお気持ちを押さえられたオスカー様が…」
オスカーの唇が再度アンジェリークのやわらかなそれに塞がれた。
探るようなぎこちなさでアンジェリークの舌がオスカーの口腔内に侵入してきて、オスカーのそれを絡めとリ吸い上げた。
しばらく呆けたようになされるがままだったオスカーのほうがいきなり弾かれたようにアンジェリークにのしかかりベッドにその身体を押しつけるように沈みこませた。
「アンジェ、アンジェ、俺は…」
「なにも言わなくていいの、オスカー様、ただ抱き合ってるだけでいいんですよ、肌と肌を触れ合わせて…ね?」
オスカーはいわれるままにアンジェリークの華奢でいながら豊かな身体をだきしめた。
アンジェリークの鼓動が肌に伝わってくる。
アンジェリークは永遠に自分のもの、自分だけのもの。そう、アンジェリークさえいれば自分は他になにもいらないと思っていた。
そう思っていた日々に帰るのだ。いや、アンジェリーク風にいえばまた始まるのだ。
自分が失う物など本当はなにもなかった。娘の新しい幸せと、自分たち2人の新しい笑顔の日々と。
新しく手に入る物ばかりだった。
哀しんだり嘆いたりする必要はどこにもなかった。
『アンジェリーク、君はいつもいつも、俺を救ってくれる、楽にしてくれる、息ができるようにしてくれる、君は、自分はなにもしてないと言い張るだろうがな…』
何度も何度も互いの存在を確かめ合うように腕をまわしあい、時折ついばむように口付けを交わしながら、オスカーはただただアンジェリークを抱きしめその温もりを全身で確かめていた。
今はこれだけでいい、いや、これこそがオスカーの望む事だった。