女王の住まう宮殿は主であるロザリア自身も訪れたことのない部屋が多々あるほど広大であるが、なかでも最奥に位置する内宮は他の宮殿とは色々な意味で別格である。内宮は女王の生活空間、いわばプライヴェートスペースであり、女王が公務および宇宙を担う重責を暫時忘れ、鋭気を養うための寛ぎと憩いの空間だ。
而して、内宮に足を踏み入れられるものは、聖殿勤務者の中でも一握りしかいない。具体的には、女王が個人的に雇い入れた使用人、および、女王府に積年仕えている女官などで基本的には男子禁制のため、守護聖といえども、女王直属の女官の受付を通さねば入宮は許されない。内宮に続く1本きりの回廊はその突端を勇猛果敢かつどんな場合でも契約者を裏切らないことで名高い宇宙のスイスガードともいうべきSPによって警護されている。
しかし、この内宮をフリーパスで出入りできる、その上、何の気兼ねもなくお泊りまでできる人物が女王本人以外たった1人だけいる。女王補佐官アンジェリークである。
もうすぐ本日の執務も終了という刻限、そのアンジェリークは自分の執務室で小ぶりなボストンバッグの中身を熱心に指差し点検中であった。
「えっとー、今日は執務終了後はそのままロザリアのところにお泊りだから…替えの下着でしょ?歯ブラシでしょ?寝巻きでしょ?化粧品でしょ?うん、お泊りセットはOKだわー」
本日、アンジェリークの夫であるオスカーは出張で不在である。出張先はそれほど辺境ではないので、聖地時間にして1泊2日、現地時間では4日間ほどの短期出張である。
そして、アンジェリークはロザリアから『オスカーが出張でいない時は、私の宮殿に泊まりにいらっしゃい。あんたを私邸に1人置いておくのは心配だし、泊まりにくればゆっくりおしゃべりできるでしょ』と誘われており、オスカー不在の折は、女王宮でのお泊りがここのところの通例となっていた。
オスカーの出張時には、無論アンジェリークはきちんと留守を預かり、炎の守護聖宅を切り盛りする気概も能力も持ち合わせている。だが、それとは別に、正直言って、オスカーのいない私邸の留守居は寂しいし心細かったことも事実だろうと思うのだ。だからロザリアの誘いはアンジェリークにはありがたいことこの上なかった。それに、結婚していても、どんなに夫を愛していても、やはり同性の友人とのおしゃべりの楽しみというのは、またまったく別のものなのだ。仲のいい友達と一緒にご飯を食べて、お風呂に入って、お互いおしゃれチェックをして、ファッションやお化粧の情報交換をして、多分、少しは守護聖や官僚の噂話などもして、自然とまぶたがふさがるまで誰にも遠慮することなくおしゃべりできる…という楽しみは女同士でないと味わえない。
だから、オスカーの出張が嬉しいわけではないのだが、これはこれで見方を変えれば楽しみになるわー、とアンジェリークは前向きに捕らえているのであった。
その時、コンコンとノックの音が聞こえ、アンジェリークの返事を待たずに入室してきたのは、誰あろう、恐れ多くも女王陛下その人であった。
「アンジェ、あんた、もう今日の仕事は終わりでしょ?一緒に帰りましょ。このまま私の宮殿にいけるんでしょ?」
「あ、ロザリアー!うん、大丈夫!前もってわかっていたから、お泊りセットもばっちり用意してきたし、このまま一緒にいけるわー!」
「じゃ、行きましょうか」
こうして、アンジェリークはロザリアに引率されるような形で女王陛下専用の馬車に乗り込むべく、宮殿の車止めに向かった。
その間の短い道中にも、女の子同士のおしゃべりはすぐに花開く。蝶というよりは、蜜蜂が花から花へ飛び回るがごとく、2人の会話は朗らかかつにぎやかだ。
2人が一瞬黙ったのはそれぞれ馬車に乗るためにステップをあがっていた時くらいであろうか。
馬車内に対面で座ると、待ちかねたように改めてアンジェリークが口を開いた。
「ねぇねぇ、ロザリア〜」
「なーに?今日はゆっくりできるんだから、慌てなくてもよろしくてよ。今からおしゃべりしすぎて話すことがなくなっても知りませんわよ」
「そんなことあるわけないじゃないのー。お泊りする時じゃないとゆっくりおしゃべりできないんだもん、話たいこと、いっぱいあるのよ!でね、ちょっと不思議だなーって思うんだけど、ロザリアと最近ゆっくりおしゃべりしてないなー、そろそろおしゃべりしたいなー、って思うと、なぜか、とーってもタイミングよくオスカーさまが出張でお出かけになるのよ」
ロザリアは不自然と思えるほどに表情を動かさずにこう答えた。
「まあ、確かにオスカーは前女王陛下の御世から、出張が多かったみたいだから、巡り合わせがたまたまそういうタイミングに見えるのではなくて?」
「ええ、女王試験の時でさえ飛空都市から他星系に出張に行かれてくらいですものね」
「そうそう、それだけ頼りにされてるってことよ。多少予定外のことがあっても、オスカーならどんな問題もあっさり切り抜けるだけの能力があるって見込まれているからこそでしょ。外界ではいつどこで不測の事態が起きるかわからないけど、オスカーなら難なく処理できるって評価されてるのよ、出張が多いってことは」
言葉の内容とは裏腹に、ロザリアの口調は決まった台詞を下手な役者が棒読みしているかのごとく、まったく抑揚というものがなかった。しかし、アンジェリークはそんなことにはまったく頓着しない。
「やーん、ロザリアったら〜、そんなにオスカーさまを褒めてくれちゃったら、私、照れちゃうわー!」
「……あんたを褒めてるんじゃないんだけど…(ぼそっと)まったく精神が同一化しちゃってるんだから…」
「でもでもでも、オスカー様って、それだけの評価を得てしかるべき…っていうか、いくら褒めても褒め足りないっていうか、褒めるところが無限にあるっていうか、とにかく素敵で、有能で、かっこよくて、やさしくて…」
「はいはいはい、わかった、わかった、だからきっと、あんたが私と遊びたいと思った絶妙のタイミングで出張にも出かけてくれるんでしょ」
「やーだー、ロザリア!いくらオスカー様が有能でかっこよくて素敵で優しくて…」
「だから、それはもうわかったから…」
ロザリアがほとほと疲れ果てたという呈で、アンジェリークの言葉をさえぎった。
皮肉を込めていった台詞も、アンジェリークにはまったく効果がない…どころか、自分の方がさらに激しく脱力させられただけである。
「とにかく、いくら素敵で有能なオスカー様でも外界行きまではご自分でコントロールできないわよー。出張のお言いつけはジュリアス様がなさってるんだし」
なぜか、その一瞬、ロザリアの顔が能面のように無表情になった気がしてアンジェリークはぱちぱちと目を瞬いた。が、次の瞬間、ロザリアはにこやかに微笑んでいた。
「じゃ、それは、きっとわたくしたちの日ごろの行いがいいからよ、だから、あんたがおしゃべりしたくなると、絶妙なタイミングでオスカーは出張に出てくれるのよ、ほほほほ」
「そうねー、ロザリアが宇宙を磐石に導いてくれてるおかげで平和なんですものねー。出かけたらたまたま信号がずーっと青で赤に出くわさないようなものなのね、きっと」
うんうんと頷くアンジェリークは、ロザリアの、根拠は何もないにも拘わらず力強く自信に満ち溢れた説明になんとなく納得してしまう。
「そうよー、そうに決まっているでしょー、おーほほほほ!」
と馬車内で一層の高笑いを響かせながら、ロザリアは内心ほくそえんでいた。
出張をオスカーに命じているのは、直接的には確かにジュリアスである。しかも外界行きの仕事はオスカーはもちろんのこと、いくら女王のロザリアといえど人為的かつ作為的に作れるものではない。しかし、誰が行ってもいい出張、もしくは行っても行かなくていい程度の出張に敢えて特定の人物を重点的に派遣するよう首座に働きかけることなら…不可能ではない。
しかも、その人物が本当に外界行きに適任であると周囲を納得させるだけの能力の持ち主であれば…
『もしかしたら、自分ばっかり外に出されてるようだって薄々感づいているかもしれないけど…それもこれもオスカーがいけないのよ、あの度外れたアンジェへの溺愛ぶりが、何もかもっ!』
ふんっとロザリアはこの場にいないオスカーに想像上の荒い鼻息を吹きかけていた。
オスカーのアンジェリークの独占ぶりを、ロザリアはほとほと腹に据えかねているのである。
アンジェリークとオスカーが結婚してしばらくは、ロザリアも「まあ、新婚だから」と大目に見ていた。しかし、いくら日数を重ねても、オスカーのアンジェリークへの束縛ぶりは揺るぐということがなかった。ロザリアの目から見ると常軌を逸していると思うほどに。平日は執務が果てるや否や終業時刻と同時にアンジェを攫って馬車に押し込め、とっとと帰路についてしまう。休日にはアンジェリークを1歩も屋敷の外に出さないばかりか、すべての来客に体よく門前払いを食らわす。奇しくも水の守護聖が、お蔵入りになってしまった(これも有体に言ってオスカーのせいであった)聖地のプロモーションビデオ撮影時にこの状態を「体のいい軟禁だ」と告発した時は、ロザリアは思わずモニターに向かって「うんうん」とうなずいてしまった程同感だった。
しかし、その同じビデオ内でアンジェリーク自身が「私は好きでオスカー様のすぐそばにいるのだし、いつも一緒にいたいのだ!」と泣きながら主張する場面を見せられてしまっては、水の守護聖のように力づくでアンジェリークを自分のテリトリーに引きいれようとしても、無駄かつ無意味であること、また、そんな真似は愚の骨頂であることも即座に悟った。
となれば…逆に答えは簡単だった。アンジェリークは束縛されているわけではなく、自発的にオスカーの至近にいる、ならば、そのオスカーを合法的かつ物理的に一定期間遠ざけてしまえばいいのだ。その間、アンジェリークは引力から解き離れた星のように自由になる。そして、ロザリアにはそれを実現させるだけの力があった。
だが、ロザリアは自らが表に出て命令はしなかった。ただ、ジュリアスとの執務打ち合わせの折、聖地から出張に出すなら守護聖のうちで誰が1番適任かを、ジュリアスに相談を持ちかける形で考えさせただけである。そして、自分の力で自分で守る能力があり、それなりに重みのある風貌と経験を持ち、なおかつ、外交的な面での交渉術や話術に長けており、地方領主に丸め込まれて便宜を図る約束などする心配のない者…という観点から、誰が行っても大差ない出張ならオスカーが最も適任であろう、という結論を導き出させた。ロザリアは一切命令もしなければ強権発動もしなかった。単に「そういう場合、こんな危険が考えられるわねぇ…」と、守護聖が若輩すぎると派遣先の政府に軽んじられる危険や、朴訥で口下手な者が口八丁手八丁の官僚に丸め込まれる危険性を指摘しただけであった。
オスカーの有能な点をジュリアスに再認識させてしまうような意識誘導はいささか癪に障ったが、ロザリアは自分がオスカーを遠ざけたがっているという言質や証拠をなるべく残したくなかったのだ。オスカーの恨みを買うを恐れて…ではない。アンジェリークに自分の画策を知られる可能性を低くしたかったからだ。自分が好んでアンジェリークに寂しい思いをさせようとしたのかと勘違いされるのも嫌だし、そこまでの誤解はされなかったとしても「ロザリアはオスカー様が嫌いなのー?私には2人とも大切な人だから、仲良くしてほしいのに…」と泣かれるのも嫌だった。尤も、アンジェリークはこういう企みにはとんと鼻が利かなさそうなので、ここまで慎重にしなくてもよかったかもしれない…と今になって思うのではあるが。
『まったく、オスカーがあそこまで極端な行動にでなければ、私だって、こんな真似をせずに済んだのよっ!いわば身から出た錆ってものだわ!』
と、強弁する気持ちもあるが、それでも、アンジェリークからオスカーを(逆はどうでもいいのである)意図的に切り離して、寂しがらせているのも事実だというやましさと後ろめたさもある。
特に、アンジェリークがポツリと
「でも、どんなにオスカー様が優秀だって褒められても、今以上は出張が増えないほうがいいな、なんて、我侭なことも思ってしまうのよね…オスカー様が認められるのは嬉しいし、お仕事のお邪魔なんてする気はないのだけど…」
などと、つぶやくのを聞いてしまうとなおさらである。
「その分、オスカーがいない時は、あんたが寂しくないよう、私がいっぱい遊んであげるから!」
「あん、別にロザリアがそんな申し訳なさそうな顔をしないでー?オスカー様の出張はロザリアが決めてるわけじゃないんだし…」
この言葉に、思わず横を向いて「ふっ…」と吐息をつきそうになってしまうロザリアである。本当のことは言えない心の影から、ロザリアはさらにアンジェリークを際限なく猫っかわいがりしてしまうのであった。
馬車を降り、長い回廊を抜け、内宮へと入る。内宮の扉の内側に入ると、音もなく近づいてきた女官たちが1つ1つ女王の身体から装飾品をはずしていく。ロザリアは立ち止まるどころか歩調も緩めない。生まれながらにして、傅かれ、他者から世話をされることが身についていることが自然と伺われる。
「さ、夕飯の前にお風呂に入って着替えちゃいましょ」
「うん、そうねー」
アンジェリークとロザリアは連れ立ってそのまま浴場に向かった。
「女王宮のお風呂ってホントに広くて豪華よねー、私、黄金のライオンの口からお湯が出るお風呂って、ここで初めて見たわ。本当にあるのねーってびっくりしちゃった」
「ふふ、今日はあんたが来るってわかっていたから薔薇風呂よ。庭園の薔薇でも香りのいい花を集めてお湯に浮かべてあるはずよ」
「すてき!楽しみだわぁ」
長い廊下の突き当たりにある扉をあけると、大理石の柱がいくつも並ぶ広い浴場に出た。ロザリアの言葉どおり、室内は薔薇の馥郁たる香りで満たされ、湯船には水の面が見えないほどに、色とりどりの薔薇の花弁が浮かんでいた。
女王宮の浴場には脱衣場などというものはない。この浴場を使うのは女王とその招待客のみであるし、女王はその場に暫時立っていれば女官たちが音もなくすべての装束を外して片付けてくれる。ロザリアは、ただそのまま、緩やかな階段状になっている湯船に足を運ぶだけである。
当然アンジェリークも、湯船の淵に立つ前に、あれよあれよと言う間もなく補佐官の衣装もランジェリーも外され全裸にされた。衣装は明日にはきれいにクリーニングされたものが届けられる。
元々庶民のアンジェリークは、このなされるがままに裸にされ、さあどうぞ、と風呂に促されるのがとても気恥ずかしい。なのでロザリアを追いかけるような勢いで慌てて湯船に首まで浸かった。もっともこの後、女官に体中を洗われ、風呂をあがればまたなされるがままに身体をふかれ、ボディケアとしてアロマオイルを全身に塗られ、服まで着せられてしまうので、恥ずかしがってもどうしようもないのであるが。
それでも香りのいい湯の中でゆったりと手足を伸ばしていると、1日の疲れが身体から溶け出していくような気分になる。湯は単に香りがいいだけでなく肌を包みこむようなまろやかな感触だ。薔薇の精油も加えられているのだろう。程よく温まったところで、のぼせないタイミングを見計らっているのか女官に湯からあがるよう促され、あとはまさに着せ替え人形よろしくアンジェリークは数人の女官たちの意のままに、洗われ磨かれトリートメントされ流され拭かれ乾かされ香油を塗布され…気がつくと今にも下着を着せられるところであった。
しかし、この段になって1人の女官の流れるような動きがハタと止まった。彼女はアンジェリークのブラジャーを持ったまま、首をかしげていた。
「あら…」
「あの、なにか…?」
自分のブラを他人がもったままで己の胸はむき出しというのは、想像を絶するいたたまれなさだったので、アンジェリークは焦って女官に問いかけた。とにかく早くブラをつけてもらいたいし、万が一の時は女官からブラを取り返して自分でつける気でもいた。
「いえ、補佐官さま、失礼とは存じますが、このランジェリーは補佐官さまのものでお間違いございませんよね?」
「え?ええ…」
何でそんなこと聞くのー?何でもいいから、早くブラを返してー!と言いたい気持ちを必死にこらえた。ここには裸の女は自分とロザリアの2人しかいないのだし、白の木綿地に小花プリント&控えめなフリルと小さなリボン付のブラがロザリアのものであるはずがないではないか。
「重ねて失礼とは存じますが、この…こほんっ、ブラジャーはどう見ても補佐官さまのおサイズではないようにお見受けされるのですが…」
「ええ?でも、それって間違いなく私のなんですー」
「では、補佐官さまはもしや、サイズの合わないブラをお召しになっていらっしゃるのではございませんか?あの、何か付け心地が悪いとか、胸元が落ち着かないなんて気がなさったことはございません?」
「そ、そういわれてみれば…最近、胸がきついなー、なんて思ったような…」
最近、ホックを留めるのに苦労するというか、乳房のふくらみがカップに収まりが悪いような気がしていたが、それがサイズが合っていないということなのだろうか。
「ああ、やはりそうでいらっしゃいましたか。このカップの大きさでは、失礼ですが補佐官さまのお胸はどうみても収まりきらないと申しますか、なんといいますか…」
「そ、それって自分が窮屈って以外に何かまずいんでしょうか…」
聞きだしたいのは山々だが、とりあえずはとにかく胸を隠させてくれないだろうかとアンジェリークがブラに手を伸ばそうとしたその時である。
「ぬぁんですって?アンジェの下着はサイズが合ってないらしいですって!」
耳ざとく女官とアンジェリークの会話を聞きつけ、ロザリアが話に割って入ってきた。ロザリア自身はもうゆったりとしたローブに着替えている。
「恐れながら、左様と思われます、陛下」
「ちょっと見せて御覧なさい」
言うや、ロザリアはアンジェリークのブラを女官から奪いとった。「あああ〜、わ、私のブラ…」とアンジェリークが目で訴えているのは、この際故意に無視し、アンジェリークの胸元をしげしげと観察してから、ブラのサイズ表記に目を落とした途端、きっとアンジェリークを見据えて一喝した。
「あんた、だめじゃないの!サイズの合わないブラなんかつけていたら、胸の形がどんどん崩れちゃうわよ!」
「えええー!?」
「ああーもーぬかったわー!お風呂の時にあんたの身体をちゃんと観察してれば、私がもっと早くに気づいてあげられたのに!」
ロザリアは今まで入浴時にアンジェリークの首から下にはあまり視線を向けないようにしていた。決してアンジェリークに失礼だと思って…ではなく、オスカーがつけたらしい(というか、それしかありえない)薄紅色やら鮮紅色やら、若干褪色して薄茶色になったキスマークが柔肌のそこここに点在している様子が見るに耐えないからであった。ジェラシーから見るに耐えないのではない。いかにもこれ見よがしにアンジェリークの肌に所有印をつけたような気になっているのであろう、オスカーのその精神と態度にこの上なくムカつくからである。しかも、オスカーときたら、本人からは見えにくい背中や真っ白な臀部に重点的に印を刻んでおり、アンジェリーク自身は自分の柔肌がどんな状態になっているか、よくわかっていないようだったので、ロザリアも指摘するのを控えていたのだった。下手に指摘したら、アンジェリークが恥ずかしがって泣き出してしまったり、楽しいお泊りをキャンセルしてしまうのではないかと危ぶんだのだ。
『まったくもーやることがこれみよがしなんだからっ!アンジェはあんたの所有物じゃないのよっ!』
とロザリアは力こぶしで主張したいが、この件に関してはオスカーはオスカーで「お嬢ちゃんは俺のモノだ!」と自信満々に断言するのが目に見えているので、堂々巡りであろうこの問題には懸命にも触れずにいるだけである。
何はともあれ、このためにアンジェリークがサイズの合わない下着をつけている事実の発見が遅れたことは、ロザリアには忸怩たることであった
『これもやっぱりオスカーが悪いのよっ!』
と、またもオスカーにマイナス1ポイントが加算されたことは言うまでもない。
「え?そ、そんな観察はしなくてくれてもいいけど…でででも、胸の形が崩れるって、ほ、ほんとなの?ロザリア〜」
「あんたねぇ、胸っていうのは柔らかい脂肪でできてて、皮膚だけで支えられてるの、つまり、外からの力が加わったら簡単に形が変わっちゃうの!」
アンジェリークはしばし何かを黙考した後、何を思ったのか、突然耳まで真っ赤になった。
「そそそ、それは確かにその通りだけど、突然何を言いだすのよ、ロザリアったらー!も、いやーん」
「…あんた、何か勘違いしてない?とにかく、形が変わるような力を常時与えられていたら、脂肪はその流れの通りに移動しちゃうのよ!つまり小さなブラでずーっと胸をつぶすみたいに押さえつけたりしたら、本来の胸の中身は小さくなって、その分、脇の下とか背中の贅肉になっちゃうのよ!」
「えええー!?うそー!」
「あったりまえでしょ!中身は脂肪なんだから。それが胸に収まっていれば魅惑の膨らみだけど、別の場所に流れちゃったら単なる余剰脂肪、つまり贅肉よ」
「ど、どーしよー!ロザリアー!」
「今からでも、自分のサイズにあったブラをつけるようにすれば大丈夫だとは思うけど…大体、このブラBカップじゃないの。どっからどー見ても、あんたのその胸がBカップで収まるわけないでしょーが!」
「だって、聖地に来るとき家から持ってきたのは、このサイズなんだもんー、最近、胸が大きくなったみたい、とは思ってたけど、そんなにサイズが変わってるなんて思ってもいなかったし…」
「まったく…それにしても、どうしてオスカーが気づかなかったのかしら?大事な大事なあんたの、大事な大事な胸でしょうに。さすがのプレイボーイも女性の下着のサイズまでは門外漢だったのかしらね、プレイボーイの経験もまったく役に立たないんだから!」
と、ロザリアが皮肉をたーっぷり込めた言葉に、アンジェリークはここにはいないオスカーをかばうように両手を広げて訴えた。
「それは仕方ないのよ、ロザリア、オスカー様は気づかなくて当然なの。だってオスカー様は私が下着をつけているところをほとんどご覧になったことがないんじゃないかって思うから…」
と、ここまで話したところで、アンジェリークははっと何かを思い出したようで、勢い込んでこう付け加えた。
「あ!そうだわ!オスカー様は前に、どうして私の胸が大きくなったかも私に説明してくださってたわ、ロザリア!だから、オスカー様は私の胸のサイズが変わってることには、気づいてらっしゃるの!でも、私、その説明をされた時、頭がぼーっとしてたっていうか、すぐ、何にもわからなくなっちゃったものだから、その後すっかりそのことを忘れちゃってたのよ!私がちゃんと覚えてなかっただけなのよー、ロザリア〜、オスカー様は、ひとっつも悪くないのよー!」
アンジェリークは惚気ているつもりではない、単にオスカーは何も悪くないのだということをロザリアに懸命に訴えたいだけなのである。
だが、アンジェリークの言葉の意味する処を解したロザリアは、その場でだーっと脱力し、女官たちはいっせいに赤面した。アンジェリークの乳房が短期間に成熟成長したわけが否応なく察せられてしまったからだ。
「ああ、はいはい、わかった、わかった。あんたはもう、これ以上何も言わなくていいから…とにかく、きちんとサイズを測り直しよ、あなたたち、アンジェを私のドレッシングルームに連れて行って!もちろんメジャーを忘れずにね!」
「御意、陛下」
居並ぶ女官たちに、簡単な部屋着だけ羽織らされ、有無を言わさずアンジェリークはロザリアのクロゼットまで連れていかれる。
「ロザリアー、私のブラは?」
「こんなサイズの合わない下着はもちろん没収です!」
「えええー?じゃ、私、ノーブラでいなくちゃいけないのー?」
「だから、私の手持ちで合うサイズがないか、クロゼットに連れていくんじゃないの!でも、やっぱりサイズがなかったら、潔くノーブラでいなさい!変な形で押さえつけるよりその方がまだマシってもんよ!」
「ふぇーん」
クロゼットルームでアンジェリークの胸にすばやくメジャーをまきつけ、女官たちがサイズを測る。その間、ロザリアは自分のランジェリー、なかでもブラジャーだけが整然と並んだチェストを開けた。その居並ぶ色とりどりのブラジャーの華麗さ、豪華さ、優美さにアンジェリークは思わず目を見張った。自分が下着と思って着けていたものと、ロザリアのそれはまったく別種の存在に思えた。
「ロザリアのランジェリーって綺麗ねぇ…色も華やかだし、レースも凝ってて繊細で…私、こんな色とりどりな下着、初めて見るかも…」
「ぬぁんですって!あんた、この程度の下着を見たことないって、普段、いったいどんなものをつけてるの!」
「え?だから、そういうの…が多いかなー…」
おずおずとアンジェリークは、ロザリアが脇に置いた、フリルはあってもレースやシースルー部分はまったくない、いかにもティーンエイジャー向けと思われる自分のブラを指差した。
実際には結婚式の時に、これ以上はないというほど優美なセットアップを身につけたこともあるが、色自体は自分にも馴染みのある白だったし、あれはあくまで結婚式用の特注ランジェリーだった。ドレスを制作したメゾンがドレスに合わせてアンジェリークのサイズで用意してくれたもので、自分で選んで買ったものではない。あくまで用意立ててもらったランジェリーであった。そして、結婚後は、アンジェリークは自分が自宅から持ってきていた下着をそのまま使っていた。多くはいかにも10代の少女が好みそうなかわいいプリント柄で健康的なものだった。あんな優雅で華麗な、なよやかなレースのみで構成されている繊細な下着は特別なセレモニーのために特別にあつらえるものと思い込んでいたので、普段からそういう下着を身につけたっていいのだという感覚がアンジェリークには欠如していた。しかも、ウェディングランジェリーはオーダーだったため一般に販売されているものと異なりサイズ表記がなかったことがこの場合、仇となった。結婚式の時点で既にアンジェリークの乳房は女王候補として聖地に来た時より成長していたのだが、サイズの明記がなかったためにアンジェリークは自分の手持ちの下着とサイズが違うことに気づいていなかったのである。
「まさか、あんた、こういう小花プリントしかもってないの?」
「いくらなんでも別の柄だってあるわよー!ギンガムチェックとか、リボン柄とか、さくらんぼ模様とか、いちご模様とか…」
ロザリアが、はぁぁ〜とため息をついた。
「…あんた、上に着る服の色に合わせて、下着を選ぶってことしてる?サイズ云々以外に…」
「へ?下着って、そういうものなの?」
「やっぱり…あんた、私のブラがどうして色々なカラーヴァリエーションがあるかわかる?自分に似合う色を選ぶってことも大事だけど、上に着るドレスに合わせるからよ!色味が合わなくて透けて見えちゃったりしたらみっともないでしょーがっ!もしかして、ショーツも似たような形のばっかりはいてない?」
「ええ?ショーツも服によって変えるものなの?だって転んだりしない限り見えないのに?」
「あんたの補佐官服みたいに身体にぴったりした服とか、ジョーゼットのソワレとか身体のラインがくっきり出る服ってのがあるでしょーが!そういう時はショーツも選ばないと、ラインがはっきりわかっちゃって恥ずかしいわよ!」
「えええー!ラインの出ないショーツなんてあるのー!」
「あんた、Tバックとか知らないの?」
「…えっと…知ってる…ばいきんまんのビデオを撮った時、穿いたから…でも、それって撮影用の特別な衣装だと思ってた…」
「あんたねぇ…それじゃ、ヒップハングのパンツを穿くときはローライズのショーツにするとかの使い分けもしてないわね?かがんだりした時、ショーツがはみ出してみえちゃうとか、考えたことないのねー!?まったく!」
ロザリアはオスカーに対して(おとぼけているアンジェリークに対してではない)さらにむかっ腹がたって仕方ない。
『オスカーがこの子に下着のTPOを教えてやらないから、こういうことになるのよ!アンジェがなんと言おうと、この子が何を身につけているか、おざなりに見てたに決まってるわ!どーせ下着の中身にしか興味がないからだわ!』
夫が妻に下着のつけ方をレクチャーしたり、夫の方が女性の下着について詳しい夫婦というのは、普通の夫婦の常識で考えればきわめて稀なことなのであるが、オスカーは「当の女性より女性のことは何でも知っていて当たり前」という固定観念で見られてしまうため、このようにロザリアから理不尽な怒りをより一層買ってしまうのである。ロザリア自身は意識していなかったが、詰まるところ、ロザリアもオスカーに一目おいているからこそ、アンジェリークを独占している割になすべき役割を果たしていないと思って腹が立つということなのだが…
とにかくオスカーに腹をたてているばかりでは埒があかないので、眼前の問題を解決すべくロザリアは意識を切り替えた。
「仕方ないわね、こうなったら私がみっちりレクチャーしてあげます!」
と、きっぱり言い切ったロザリアだが、アンジェリークに向ける表情はすぐ和らいだ。
「まあ、透けない目立たないって観点からだけで選ぶなら、ベージュの下着をつけておけばいいんだけど、すべてそれ1色じゃつまらなくない?だから、私はドレスに合わせて下着の色も揃えてるのよ。そのほうが楽しいじゃないの。で、あんた、私の下着みてどう?綺麗だとは思ったんでしょ?」
「ええ、ロザリアのチェストはお花畑…っていうよりは宝石箱みたいよねー、はっきりした色が多いから…」
「つけてみたいとは思わなかった?」
「そりゃ…でも、私にはこんな大人っぽいものは似合わないって思ってたから…」
「そんなことないわよ。綺麗な下着でおしゃれしたり、ドレスに合わせて工夫するのは女性の特権なのよ!せっかくなんだから、楽しまなくちゃもったいないじゃないの。思い込みはなしに試しに色々合わせてみなさいな、あ、そういえばこの子のサイズは?」
「65のDカップと思われます、陛下」
「それじゃ、私のブラじゃぶかぶかだわね…じゃ、ちゃんとつけなくてもいいから、色味や形だけ合わせてみなさい、ほら」
そういうとロザリアは自分の手持ちからこれというランジェリーを次から次へと取り出した。ロザリアのコレクションは、基本色の白、黒、ベージュ以外は、パステル調のものより、はっきりとした色味のものが多かった。深みのあるボルドー、きっぱりとしたターコイズブルー、豹紋のような模様のはいったくすんだサンドイエローや、濃い目のモスグリーンに、はっとするようなヴァイオレットなど、アンジェリークがついぞ下着にあるとは思ってもみなかったバリエーションの豊富さだった。そして、言われてみればこれらの色は、確かにロザリアのプライベートな衣装にも多い色だった。ドレスに合わせてというのは、こういうことかと納得するアンジェリークである。模様やレースもそれぞれが凝っていて、手の込んだものばかりのようだった。同じ黒地に同じような薔薇のモチーフがついているものでも薔薇の色が、ダークレッドかパープルかによって、まったく印象が異なることも目の当たりにして初めて知った。
「あんたは金の髪に緑の瞳っていうお人形さんみたいな恵まれた容貌で、何でも卒なく似合っちゃうから、こういう子供っぽいものをつけても、目がごまかされちゃうのよ。本当に似合うかどうか検討しないでもね、でも、なんとなく似合うと、本当に似合うは違うのよ、私の手持ちの色だとあんたに合うのは少ないけど…ほら、黒なんて試したことないでしょ?でも、すごく綺麗じゃない…」
「ほんと…綺麗ね…」
黒のランジェリーは、アンジェリークのミルク色の素肌を引き立て、とても綺麗に見せてくれた。黒は大人の色で、自分は子供っぽい容姿だから似合わないと思い込んでいたアンジェリークは、確かに思い込みで何が似合う、似合わないを決め付けるのは軽率だと納得していた。
「金の髪と黒は相性がいいのよ、あんたのイメージだとどうしてもペールピンクやライトブルーとか選んじゃいそうだけど、あんたの肌は白いっていっても、青白い白さじゃないから鮮やかな色も似合うわよ。ほら、ボルドーってほど暗くないワインレッドだとすごく綺麗じゃないの」
「ほんとだ…私、こんな色も似合うのね、知らなかった…」
「そうよ、自分には「この色は似合わない」なんて思い込まずに何でも試してみないと。でも、ライトイエローは…ふむん、髪の色とかぶっちゃうから却って印象が薄いわね、サンドイエローも…くすんだ色はあんたに合わないわね。クリアで彩度の高い色があんたにはいいみたい。あと瞳にあわせるならミントグリーンや紫系なら軽いラベンダーパープルなんかも似合いそうね」
「でも、私、そんな色のランジェリー、全然持ってないわ、ロザリア」
「だから、これから買えばいいでしょーがっ!あんただってお給料もらってるでしょ!いくら贅沢な下着を買ったって余るくらいもらってるはずよ!万が一足りないようだったらオスカーに買ってもらいなさい!オスカーなら喜んでいくらでも買ってくれるわよ!」
「ええ!そんな、オスカー様に下着を買っていただくなんて申し訳ないし、恥ずかしいわ〜」
「…オスカーはあんたのおねだりを喜びこそすれ、そんな風には思わないと思うけど…ま、本当ならフィッターのいる店で試着しながら選ぶ方がいいんだけど、週末まで外界にはいけないから、それまでのつなぎにカタログショッピングで即、最低2、3枚は買いなさい。来シーズンのカタログをあげるから色々見てみるといいわ。そのときは絶対サイズは間違えちゃだめよ!ブラは単なる乳当てバンドじゃないのよ!私たちの外見はあまり年をとらないからって、油断していい加減な扱いをしてたら体型なんてすぐ崩れちゃうのよ!そして下着は買い替えが利くけど、ボディの買い替えは利かないんですからね!自分で気をつけてケアするしかないのよ!」
「わ、わかったわー、ロザリア…」
なんとなくロザリアってオリヴィエさまと似てる…と、その気迫に押されながら、アンジェリークはこくこくと一生懸命頷いた。
そこに、女官が割ってはいってきた。
「失礼ながら、陛下、そろそろお夕食のお時間になりますが…」
「あら、もうそんな時間?じゃ、この子にはノーブラでも差し支えない衣装を着せてやって。とりあえず食事にしましょう。食事が終わったら、カタログチェックして、あんたに合いそうなランジェリーをいくつかセレクトするわよ、いいわね!アンジェ!」
「はははい!」
よいこのお返事をしている間にアンジェリークは女官たちに身支度を整えられ、そのまま波に運ばれるように内宮のさらに奥の間に導かれていった。
明けて翌日、アンジェリークはロザリアとともに女王宮から出仕し、いつもどおりに執務をこなしていた。ただ、サイズの合わないブラジャーならつけるなとロザリアにブラを没収されたままだったので、今日はスリップのみ身につけている。おかげで、歩くと胸が揺れるような気がして今日1日なんとなく落ち着かなかった。豪奢な綾織の補佐官服は布自体に厚みがあるので胸のラインが目立たずに済むのは幸いだったが。
それでも胸が気になってしまうので、早々にブラを購入するつもりはある。ロザリアから『なるべく早く何点か選んで注文すること、これは命令よ!』と言い添えられ、バッグの口からはみ出すほどに大判のランジェリーカタログを持たされてもいた。
昨晩の夕食後にロザリアと2人で、あれがいいか、これがいいかと大体のめぼしはつけてあった。同じサイズ表記でもデザインによって若干カップの深い浅いなどの癖もあるから各ブランドにつき1点づつ買ってみて着け心地を比べてみるのもいいかも、ともロザリアは言っていた。後は自分の好みの色を選べばいい。
アンジェリークは改めてもたされたカタログをぱらぱらとめくってみた。ランジェリーの総合カタログなので、ブラだけでなくショーツにスリップにキャミソール、ナイティなどもある。どのページをめくってみても、ため息の出るほど優美で繊細なランジェリーが並んでいる。
「さすがロザリア御用達のブランドだわ…カタログを見てるとどれも綺麗で、逆に迷うなぁ……ただ、どれも本当に綺麗なランジェリーだけど…ほんとに私に似合うのかな…」
カタログを見れば見るほど、今まで自分がつけていた下着との差異を思い知る。
自分の持っている木綿主体の下着は、いわば素朴な野の花で、カタログのそれは、豪華絢爛なブーケとでもいおうか。もしくは、ロリポップと、薫り高いワインくらい異なるとでも言おうか。
このカタログや昨日ロザリアに見せてもらったランジェリーを思い出すと、いかに自分が子供じみた物を身につけていたかわかるのだ。
「これじゃ、オスカー様に子供扱いされても仕方ないかも…自分で子供じみたものを身につけておいて、子供扱いされたくない、なんて矛盾もいいところだもの…」
アンジェリークは、オスカーにふさわしい女性になりたいといつも思っている。だから執務もがんばろうと思っているし、おしゃれにも気をつかっているつもりだったが、ランジェリーに対する意識は低かったといわざるを得ない。
「それに、オスカー様、私に呆れちゃったりしてないかしら…前に、オスカー様は、私の胸が大きくなった訳を私にわざわざ実地で教えてくださってたのに、私ったらぽやんとしてて、その後ブラを買い替えることも思いつかなかったし、人の話をちゃんと聞いてない…って思われたかも…」
なんてことまで心配になってしまい、ちょっと気持ちが落ち込んでしまった。…オスカー様はお優しいから何もおっしゃらないけど…と。
アンジェリークもロザリアに脅かされたように胸の形が悪くなるのはやはり避けたい。なるべく綺麗でありたいと思うし、そのためには、努力が必要なこともわかっている。
例えば、アンジェリークはいつもオスカーの身体のラインや洗練された身のこなしにうっとりと見とれてしまうが、オスカーの身体や所作の喩えようもない美しさは、オスカー自身の鍛錬により培われたものだ。オスカーは周囲にあまりそうとは悟らせないが、努力家だし、為すべきことはきちんと為すタイプである。一緒に暮らすようになって、アンジェリークは、オスカーの数え切れないほどの美点はオスカーが自分の力で勝ち得、維持しているものだということが、とてもよくわかるようになった。天与の才はもちろんあるのだが、それに甘んじず、さらに磨く努力をオスカーは怠ったりしないのだった。それに比べたら、自分が身体にあった下着を選ぶなんて努力以前の問題だ。
だが、大人っぽいとは言いがたい自分に、こういう大人っぽいランジェリーは似合うのだろうか…
カタログを見ているとわかるが、同じ柄のランジェリーでも白の地色にピンクか水色の薔薇のモチーフが散らされているものと、黒の地色に真紅の薔薇のモチーフのそれとは、まったく別個のものといっていいほど印象が違う。そして、アンジェリークは純粋に見ている立場なら、黒や真紅などのくっきりしたものはとても綺麗だなと思う。
特に、あるカタログに載っていた、黒の総レースのキャミソールとTバックショーツのセットアップは、見た瞬間にため息がこぼれたほど素敵だなと思った。総丈はヒップのラインが見えるか見えないかくらいで、優美な薔薇のモチーフレースで縁取られた裾のラインは斜めにきりあがるようにカットされた変わりヘムで、足のラインが綺麗に見えるよう計算されている。細い2本の肩紐も繊細なイメージで、総レースなので肌が透けて見える様は大層コケティッシュに思える。
「これなんか、本当に素敵よねぇ…でも、いきなりこんな大人っぽい下着を身につけたら、そぐわないとか、背伸びしすぎてみっともない…なんてオスカー様に思われたりしないかしら…」
こんな綺麗なランジェリーをつけてみたいな…でも、オスカー様はなんていうだろう…何も言われないのも寂しいだろうけど、でも、「まだお嬢ちゃんには早いみたいだな」なんて言われたら、きっと悲しくなってしまうだろうし…
アンジェリークの懸念はこの1点に尽きる。
子供が大人の服を着たらちぐはぐなように、子供が大人の化粧をしたら滑稽なように、決して大人びた容姿ではない自分が、ロザリアのような大人びたランジェリーを身につけて、とってつけたように見えたら、かえって恥ずかしい…オスカー様は優しいから面とむかって指摘したりしないかもしれないけど、やっぱり身の丈にあってない振る舞いは恥ずかしいものだから…
それを思うと見ている分には「綺麗だな、ちょっと着てみたいなー」と思うものを即座に注文しかねるアンジェリークである。
「やっぱり白とかピンクで選べば無難かな…今までのものとあまりかけ離れてないし…私の手持ちの服とも合うし…カタログを見てると、見てる分には黒や赤も素敵だけど…ちょっとそそられるけど…ロザリアは…私は黒とかワインレッドも似合うって言ってくれたけど…」
同じキャミソールの色違いで白やピンクのセットアップもあった。これならきっと、同じ総レースのデザインでも可憐なイメージになるだろうし、普段着ている服ともあまりかけ離れた印象にならずにすむかも…ということは、デザインはかなり大胆だけど…私が着ても、もしかしたら大丈夫かも…
「うーん、どうしよう…でも、今、必要なのはブラだし…とりあえずはピンクとか白のブラだけにしておこうかな…そのほうが安心かな…あ!いけない!もうこんな時間!」
時計を見たら、そろそろオスカーが聖地に帰ってくる時刻だった。転送の間に行って時間軸を同期させ、次元回廊を開かねばならない。アンジェリークはカタログをバックに押し込むと、急いで転送の間に向かった。
慌てていたのでカタログがかばんからはみ出して床に落ちたことに、気づかなかった。
意識を集中させて時間軸を同期させる。杓杖にサクリアを満たすようにイメージして次元回廊を開く、オスカーを外界に送り出した時と緊張感も行為自体も同じだが、心のありようがまったく違う。
自分が開く回廊を通って、愛しい人が帰ってきてくれるのだから…
虹色の光彩が矢のように四方八方に放たれ、その中心に人のシルエットがぼんやりと浮かびあがる。徐々にその輪郭が収斂していったかと思うと、かの人は突然魔法のようにその場に実体化した。その途端に、圧倒的なまでの存在感が部屋の内部を満たす。
「炎の守護聖オスカー、ただいま帰還した」
「オスカー様、お帰りなさいませ。ご無事のご帰還、心よりお喜び申し上げます」
礼をしてから顔をあげたアンジェリークは、その場に立つオスカーの姿に一瞬にして魂を奪われた。
『何度も見慣れているはずなのに…素敵…どうしてこんなに素敵なんだろう、オスカー様は…』
次元回廊を抜けた余波でマントが大きく波打っている。次元をくぐる時、誰もが否応なく感じる酩酊感をなだめているのか、僅かに瞳を伏せて暫し無言でたたずむ姿は静謐でありながら堂々としている。それでいて他を圧迫するような威圧感がないのは一分の無駄もない引き締まった体躯のせいか、この方の繊細な心のありようが自ずとにじみ出るからなのか。しなやかで強靭で逞しいのに、繊細で美しくて…いまだにこの人が自分の夫だという事実が信じられないときがある。
酩酊感が収まったのか、オスカーがアンジェリークに向き直った。
「さて、俺は帰還と視察の報告をしてきたいのだが…ジュリアス様は今はどこにおいでだろうか?補佐官殿?」
オスカーに話しかけられてアンジェリークははっと我に返った。
「あ、はい!この時間ならジュリアス様はご自身の執務室にいらっしゃる筈です」
「そうか、ありがとう」
ふっと軽い笑みを返すオスカーにまたも見惚れそうになりながら、アンジェリークは一抹の寂寥感を抱く。オスカーは周囲に第3者がいる時は、あくまで守護聖と補佐官として振舞う。自分を決してお嬢ちゃんなどとは呼ばない。それはオスカーの公私のけじめであり、立派な心がけだとわかっている。でも、本当は、補佐官としてでなく「お帰りなさい、会いたかった」と言いたい。守護聖としてでなく「ただいま」と言ってもらいたい、ふと、そんなことを思ってしまい、公私混同な自分を「オスカー様に比べて私は自覚が足りないな」と思ってしまう。同時に、こんなにどぎまぎして、こんなに心が浮き足立っているのも私だけなのかな、とも思ってしまい、ちょっと寂しくなったのだ。
「では、報告に行ってくる」
「はい、外地でのお勤め、お疲れさまでした…」
我侭な思いを押し込め、改めて、補佐官として控えめな礼をしてオスカーを見送ろうとし、オスカーとすれ違うその瞬間だった。
「会いたかった。早く…抱きたい」
耳元を僅かにかすれたような吐息交じりの囁きが掠めていった
「!」
アンジェリークは思わず自分の耳朶を押さえそうになった。気を張っていないとその場にへたりこんでしまいそうだった。自分だけに聞こえるよう、自分の耳にだけ流し込まれた甘く熱い囁き…空耳?違う…だってこんなに耳朶が熱い…
オスカー様も、私に会いたかったって思ってくださってたの?…嬉しい…
呆けたように立ちすくんでオスカーを見つめていたら、オスカーは優しく笑んでウインクを返してくれ、マントを翻してその場を立ち去っていった。
その背中を見送りながら、アンジェリークは改めて、自分がいかにオスカーに捉われているかをかみ締めていた。
オスカー様のことが好き、どうしようもないほど好き、どうしていいかわからないくらい愛してる…
だからこそ、より強く思った。オスカーさまにふさわしい女性になりたい。子供みたいに「かわいい。かわいい」って言われるだけで満足してていいの?…私がオスカー様を好きでたまらないように、オスカーさまにも私を綺麗だとか、魅力的だとも思ってもらいたい…同じくらい熱く好きって思ってもらいたい…身の程しらずかもしれないけど……熱く、好きだって思ってもらいたいの…そう、思われるような存在になりたいの…
それには、どうしたらいい?ちょっと安直かもしれないけど、私を少し、大人びて見せてくれるものを身につけてみたら、いいのかな…
どうせ似合わないとか、そぐわないかもって思って諦めちゃって何もしなかったら、子供扱いされるままになってしまうもの…子供っぽいものを身につけていた私が子供扱いされるのは当然で…それが嫌なら…私がオスカー様を好きって思うくらい、熱く好きになってもらいたいなら、少しでも、できることからしてみようかな…
『ちょっと背伸びかもしれないけど、冒険してみよう。背伸びだってしているうちに身につくかもしれないし…試してみて、あんまりちぐはぐだったら…諦めるけど…』
アンジェリークは、くるりと踵を返し自分の執務室に向かった。急いで仕事を片付けるのが先決だった。