蜉蝣 2

光の守護聖ジュリアスは、執務を追えた後、一人で自分の私邸に向かって歩いていた。

時刻はもう、夜半過ぎの様だ。中天に差し掛かる満月で、おおよその時刻の見当がついた。

仕事が何時に終るか見当が付きかねたので、無為に待たせるに忍びなく、馬車は帰してしまってあった。

それでなくとも、一日中執務机の前に座りっぱなしだったので、少し体を動かしたいという気持ちもあった。

体はそれほど疲れている訳ではない。執務の処理は、体より神経をささくれ立たせる。

見事な月をみながら夜風に吹かれて歩いていると、火照った頭に清涼な息吹を吹き込まれる様で、心地よかった。

なにかと言動にいらつかされる闇の守護聖が月下の散策を好むその理由が、なんとなくわかるような気がした。

こんなに遅くまで仕事をすることは、ジュリアス自身にもめずらしい。

オスカーがいない分の事務処理がどうしても普段の執務に加算されたし、あまり年若い者にすべてを振り分ける事もできず、勢い、ジュリアスの執務は量的にも質的にも、オーバーワーク気味にならざるを得なかった。

しかしそんな自分を、アンジェリークはまるでジュリアスの秘書の様に、よく補佐し助けてくれたが、そのアンジェリークの顔色がこのごろなにか、冴えないことにジュリアスは気付いていた。

いつもはりがあって血色のいい顔色が、なにやらくすんだ疲れた様子で、ジュリアスはアンジェリークに少々無理をさせすぎたかと、心配になった。

めずらしく、思ったより早くしあがったクラヴィスの書類を抱えて、アンジェリークがジュリアスの元に届けにきたときに、思いきって訊ねてみた。

「…なんだか、最近のおまえは疲れているようだぞ。顔色が悪い。私はおまえに無理をさせすぎているか?」

アンジェリークはびっくりしたように、そして、なにかいたずらが見つかった子供のようなきまり悪そうな表情をした。

「そ、そんなことはありません、ジュリアス様。やだ…、でも、私、そんなに疲れて見えますか?今、クラヴィス様にも同じこと言われちゃったし…」

『クラヴィスも気付いたのか…』

なんとなく、おもしろくないような気分がしたが、なぜ、そう感じたかをつきつめて考えはしなかった。

いま、気になっているのは、目の前のアンジェリークのことだったから。

「疲れているときは、休んでいいのだぞ。逆に、無理をおして、おまえに倒れられでもしたら、かえって執務に差し障りが出る。体調の管理も仕事のうちだぞ。わかるか?」

「はい、ジュリアス様、申しわけありません」

元々か細いアンジェリークの体がさらに一回り小さくなった様にしおれてしまった。

ジュリアスは内心舌打ちをしていた。なぜ、自分はこういう物言いしかできないのだろう。

アンジェリークの体を気遣ってやりたいのに、口から出る言葉は、叱責か説教ととられるようなものばかりだ。

そういう言葉しか使ったことがないので、優しさをどんな言葉でしめしていいか、わからない。

彼女が女王候補の時から、そうだった。

目をかけて、気にかけて、彼女に良かれと思って言葉をかけるのに、最後にいつも彼女の顔を曇らせるか、下手をすると、泣かせてしまう。

彼女の涙を見るたびに、泣かせたいのではなかったのにと身を切られるような後悔を覚えたが、その気持ちも、現す術をしらなかった。

彼女の事が気に掛かるのも、頼りない女王候補を、首座の守護聖の責任感として放っておけないから、手を出し、口を出してしまうのだと思っていた。

たまさか、純粋に息抜きに連れ出すことはあっても、わざわざいわなくてもいいのに、

「おまえは、女王候補で、私は守護聖。それだけの関係だ、わかっているな?」

などと、念押しをしてしまった。

あれは、アンジェリークにではなく、無意識に自分に言い聞かせていたのだと、後になって自覚した。

守護聖としてのしがらみに捕らわれなかったのだろうオスカーが、アンジェリークを自分の妻にしたいと言って眼前に連れてきたときの衝撃をジュリアスは今でも鮮明に覚えていた。

オスカーに静かに寄り添い、自分には決して向けた事のない、晴れやかでいながら恥じらいと、えもいわれぬ艶を含んだ笑みをオスカーに投げかけていた彼女。

まさに胸の真中に空洞ができたような、そのときの激しい喪失感を思うと今でも胸が痛んだ。

愛しいものは愛しいと。大切なものは大切だと。

オスカーのように自分の心の望むものをきちんと見据えて、その心のままに振舞えていれば、彼女の眩しい微笑みは自分に向けられていたかもしれないのに。

自分のすべてと引き換えにしても手に入れたいものもあるのだという激情に目を瞑って気付かない振りをし、守護聖であることをいい訳に無理矢理自分の欲求を押さえつけていなければ。

だが、ありのままの感情を人に伝える術を自分は知らなかった。

誰も教えてはくれなかったし、知る必要がなかったから、知ろうともしなかった。

しかし、伝えられない気持ちは存在しないのと一緒だ。アンジェリークがジュリアスの心情に気付かないのも当然のことだった。

自分自身だって、アンジェリークがオスカーのものになってしまうのだと知らされるまで、はっきりとは気付かなかったのだから。

「ジュリアス様?」

黙りこんでしまったジュリアスに、アンジェリークが恐る恐る声をかけてきた。

自分が怒っていると思って怯えているのだろう。

ジュリアスが覚えているのは感情を上手く制御できない自分への苛立ちであって、アンジェリークへの怒りではない。

感情というものは押し殺す、もしくは、表に出すときも余りに拙いやり方でしか表現できない自分に、もどかしさを覚えていただけだ。

感情を制御するというのは、感情を無理やり押さえこむことではない。

他に臆さず、しかし激さず表現できることこそが感情を制御・つまり、コントールするということだろうとジュリアスは思う。

立場に鑑みて相応しくないと判断した感情は押し殺し、しかし、なにか事があるとつい激昂してしまい一気に爆発させるようにしか感情を露にできない自分は精神的に成熟しているとはとても言えないという自覚はあった。

だが、首座の守護聖として聖地を束ねてきた実績とそれに裏打ちされた自尊心がそれを認めることを阻む。

だから、余計に苛立つのだ。

が、敏いアンジェリークは、内情はわからずとも、ジュリアスの負の感情を敏感に感じ取っては、腫れ物に触れる様に、おずおずと自分に接してきた。

その怯えた態度に、また、理不尽な苛立ちをジュリアスは覚えてしまう。そんなに怯えるなと、アンジェリークは何も悪くないのに、声を荒げてしまいそうになる。

だめだ。彼女に笑っていて欲しいのに、自分は、彼女の笑顔を曇らせるばかりだ。

ジュリアスは、小さく吐息をもらし、感情をどうにか鎮めた。なんでもないのだという意味をこめて、軽く手を掲げた。

「気にしなくて良い。おまえを責めているのではないのだ。それにオスカーの不在中におまえに過労で倒れられでもしたら、私はオスカーに顔向けできぬからな。だから、無理はするなといいたかっただけなのだ。」

気を反らすつもりで出した、オスカーの名前にアンジェリークの顔が更に曇った。

「すみません、ジュリアス様」

「だから、怒っているのではないのだ…」

どう言えばいいのだ。どうすれば伝わるのだ。おまえの沈んだ顔は見たくない、ただ、明るい顔を見せて欲しいと、言いたいだけなのに。自分が言葉を重ねれば重ねるほど、彼女は萎縮するばかりだ。

白皙の額に手を沿え、軽く頭をふった。

「ああ、今日は、もう仕事はいい。おまえは帰れ。帰って体を休めることだ。あとは私がなんとかしておく」

「え?でも、そんな、私、なんともありません。大丈夫です。働けます。帰れなんておっしゃらないで下さい…」

いつも、口答えなどしたことのないアンジェリークがめずらしく強い口調で言い募った。

傷ついたような瞳で、自分を見つめるアンジェリークにジュリアスの心が揺れる。

その揺れを悟られぬようにことさら大上段に構えたものいいで、自分をガードする。

「だめだ。これは命令だ。今すぐ帰って体を休めてこい。誰からも顔色が悪いと言われるようでは、仕事などさせられぬ。」

激しい自己嫌悪。また、こんな言い方しかできない。きちんと休んでまた元気な顔をみせてくれ、たったこれだけの事が、どうして言えないのだろう。

アンジェリークは打ちひしがれた様子で、無理やり絞り出す様に、返事をした。

「…はい、わかりました。ご命令ならば…」

馬車を用意させて半ば無理やりアンジェリークを私邸に帰し、その後自分は執務に戻った。

アンジェリークに優しくできない自分を罰するように、ジュリアスは執務に没頭した。そして、結果として、こんな時間まで働いていた。

アンジェリークはきちんと休んでいるだろうか。

屋敷に帰りたがらない様子が何だか気に掛かった。オスカーのいない屋敷に一人で帰るのが嫌だったのだろうか。

物心ついたときから聖地で育った自分には、家族の情という物が実感としてよくわからない。

身の回りの世話をするものはいつも私邸にいる。だが、それは生活を供にするということではない。

一人で暮らしてきたから、一人の家に帰るのは当たり前であり、それをことさら寂しいと思ったこともない。

だが、オスカーの不在にアンジェリークが寂しいだろうと言うことくらいは、いくらなんでも想像がついた。

ジュリアスは、外から見てわかる訳ではなくても、オスカーの私邸の様子をみてから帰ろうと思った。どうせ通り道だ。

そう思って、オスカーの私邸の方向に向かった。

 

オスカーの私邸が見えてきたときだ。

なにやら、黒っぽい長身の人影が、オスカー邸の敷地内に、すっと入っていくのが視界の端に入った。

「クラヴィス?」

夜目に遠目のことだ。確信はない。しかし、クラヴィスに良く似ていた。こんな時間にオスカーの私邸になんのようだ。

それに、万が一、あれがクラヴィスでなかったら、いや、クラヴィスだとしたら、それはそれでまた問題なのだが、アンジェリーク一人のところに不審なものでも侵入したら…

聖地に不審なものが侵入するなどという可能性は、限りなく低い。だが、一般の人間も聖地には数多く滞在している。その中のなんぴとかが、主の不在を知り、女所帯と侮って押し入ろうと画策でもしていたら?

取り返しのつかないことが起こってからでは遅い。

ジュリアスは、急いでオスカーの私邸に向かった。

 

ジュリアスはオスカーの私邸の玄関前に立った。そっとドアノブを回してみる。鍵が掛かっていない。

不安が膨らんで行く。そっと玄関ホールに体を滑りこませた。

アンジェリークは無事か?そのことで頭は一杯だった。だが、万が一賊だったら、大声をだして、気付かれる愚は犯せない。

ジュリアスは、声を殺して人の気配を探った。

ホールの奥の部屋から、なにやら内容は聞き取れぬが、話声ともなんとも取れぬ音らしきものが聞こえたような気がした。

オスカーの私邸は何度も訪れているから、部屋の配置はあらかた頭に入っている。居間の方だ。

ジュリアスは足音を忍ばせて、部屋に向かう。

居間のドアは中ほどまで開け放たれていた。決して明るくはない僅かな光が漏れていた。

しかし、灯り以上にジュリアスは耳に飛びこんできた音、というより、声に気を取られた。

すすり泣きのような、苦しんでいるうめきのような、意味をなさないような声。アンジェリークの声のように思える。

あせりと逸りを必死におさえこみ、開いているドアから、そっと内部を覗きこんだ。

そこで、繰り広げられていた光景にジュリアスはがつんと頭を硬いもので殴られたような衝撃を受けた。

なにがおきているのか理解できなかった。思考は停止し、腑抜けたように、棒立ちになった。

胡座を組んだクラヴィスの膝の上にアンジェリークの小さな白い体がその黒髪に包み込まれる様に後ろから抱きすくめられていた。

アンジェリークの薄水色の夜着は胸元の半ばまでボタンがはずされ、片方の乳房がそこから零れ落ちていた。

その真白な膨らみにクラヴィスの指が食いこみ、もみしだき、薄紅の先端を摘み上げては指で転がしていた。

クラヴィスのもう片方の手は、しどけなく開かれたアンジェリークの股間に差しいれられ、なにやら、小刻みに動いている。

クラヴィスの手の動きに合わせて、アンジェリークの腰が時折びくりと震える。

アンジェリークは瞳を閉じて横を向いて…向かされてクラヴィスに唇を貪られている。

塞がれた唇から、時折くぐもったすすり泣きのような声が聞こえる。

アンジェリークの白い乳房にジュリアスは目を奪われた。クラヴィスの白い指に摘み上げられている紅色の先端から視線を反らせることができなかった。

片方だけが零れ落ちた乳房は、否が応にも、もう片方の乳房の存在をジュリアスにより強烈に意識させた。

両の乳房が晒されているより、想像力がかきたてられる分、扇情的な眺めだった。

夜着は大きく捲り上げられ、太股がほとんど露になっている。その白さがジュリアスの目を射貫いた。

太股の奥の秘められた部分でクラヴィスの指が妖しく蠢いているようだ。

ジュリアスは、体の血液が逆流して渦まき、体の一点に集中するような錯覚を覚えた。

アンジェリークの乳白色の乳房と、可憐に薄紅く色ついた先端が頭に焼きついて離れない。

おもわず、眩暈を感じたように、ドアに寄りかかってしまい、ジュリアスの体に押されるままに動いたドアに運ばれるかたちでその部屋に立ち入ってしまった。

クラヴィスが気配に気付き、ジュリアスのほうに視線を向けた。

アメジストの瞳とラピスラズリの瞳が瞬間交錯した。

 

沈黙に耐えられずに、先に声を発したのはジュリアスのほうだった。その声は擦れ、上ずっていた。

「…なにをしているのだ。そなたは…そなたたちは…」

クラヴィスは、ジュリアスの存在などそこにないかのように、手の動きを休めない。アンジェリークとの口付けもやめない。

その傍若無人な態度に、ジュリアスは声を荒げた。狂気のような怒りの感情に支配された。

「いったい、どういうことだと、聞いている。クラヴィス!アンジェリーク!主であるオスカーの不在中にそなたたちは、ここで、なにを…」

「大声でわめくな…これが気付く…」

ようやくアンジェリークから唇を離したクラヴィスがジュリアスの怒声をさえぎった。あくまでその口調はしめやかで落ちついていた。

ジュリアスはクラヴィスがなにをいっているのか、一瞬理解できなかった。気付くとはどういうことだ。アンジェリークは眠っているわけではないのに。

「なにをわけのわからぬことを…そなたは、どういうつもりで、このような不埒なまねをしているのだ。こんな…こんな不道徳な…」

クラヴィスが、哀れむような、ばかにするような瞳でジュリアスを見返した。

「道徳?不埒?それはいったい、いつの時代の、どこの場所に照らしてのことだ?モラルやタブーなど、時代や地方によって全く異なる。守護聖になった時点で血縁も地縁も、時間からも切り離された我等は、いったいいつの時代の、どの国のモラルとやらに従えばいいのだ?その出自ですら、各々異なる我等守護聖は、いったいどこの道徳とやらに従えばいいのだ?守護聖でいるあいだにも、外界で刻々とかわっていくモラルは、一体いつの時代のものに、従えばいいのだ?おまえが守護聖になったときと、今とでは、主星に限っても、相当、タブーとされることは変わっているのではないか?」

痛烈な揶揄がこめられたその言葉に、ジュリアスは返す言葉を失う。

守護聖になった時点で、自分の出自である姓を捨てるということは、確かに地縁からも血縁からも切り離されることを意味する。

そして、モラルやタブーと言ったものが、その土地土地や、民族によって大きく異なることも、時代的に見ても、自分が聖地にやってきて時に比して、今までに大きく変わっていることも、また事実だった。

歴史を鑑みても、血縁同士の婚姻が聖なるものとみなされたり、一夫多妻制があたりまえだった時代さえあるのだ。

現在当たり前の様に行われている避妊による出産児数の制限が、決しておこなってはならないタブーだった時代もある。

黙りこんでしまったジュリアスに、クラヴィスが追い討ちをかけるように言った。

「そんな我等が、とある時代のとある地方のモラルを守ることに、なんの意味がある?守ったからと言って、誰が喜ぶ?守らなかったからと言って、誰が我等を罰することができるのだ?」

ジュリアスは大きく息をついてから、クラヴィスをねめつけた。怒りはふつふつと腹の底で煮えたぎっている。

密通(ジュリアスにはそうとしか思えなかった)が露見しても、まったく動じる気配のないクラヴィスに一瞬気勢をそがれたものの、ジュリアスはクラヴィスの詭弁に弄される気は毛頭なかった。

クラヴィスが何を考えているかなど問題では無い。気に掛かるのはアンジェリークのことだ。アンジェリークはなぜ、クラヴィスと情を通じているのだ。これの心はオスカーだけに向けられているのではなかったのか?そう思えばこそ自分は…

「…そなたの考えなどどうでもいい。そなたが何を考えていようとかまわぬ…だが、アンジェリークはどうなのだ?アンジェリークもそなたと同じように、考えているのか?夫以外の男と通じることに、なんの迷いも躊躇いもってはおらぬのか?」

アンジェリークが聖地にきたのは、つい最近のことだ。

今の時代、主星の婚姻制度は一夫一婦制が多数を占めている筈だ。もちろん婚姻の形態は多岐にわたっているし、配偶者以外のとの情交は罰則などないが、かといって奨励されているわけでもない。

確かに聖地にいる自分たちが、とある一定のモラルに従う必要なないかもしれない。しかし、人はその時代時代に当たり前とされる文化を成長する過程で、自然と刷りこまれていく。

自分がクラヴィスとアンジェリークの姿をみて不道徳と断じたのも、自分の育った文化背景に照らし合わせて、自然とそう口をついてでたのだ。

聖地にきてまもないアンジェリークは、まだ、主星の現在の道徳律を当たり前のものと思っているはずだ。

だからこそ、オスカーと結婚して主星の一般的な形態である家庭をかまえたはずだ。

アンジェリークが、夫であるオスカー以外の男と情を通じることに、なんの躊躇ももちあわせない女性とは思いたくない、そんな自分の個人的な思い入れは別にしても、アンジェリークの態度は不可解…というよりは不自然に思えた。

不自然?そう、不自然だ。なにか、違和感があった。この部屋にはいったときから感じていた、妙な感覚。

先刻から感じていた、なにか妙な違和感が、ジュリアスの内部で次第に大きく膨らんできた。

自分とクラヴィスのやりとりに、なぜアンジェリークはなにも口をはさまない?

クラヴィスとの情交を見られて、動転のあまり言葉を失っているのではない。

アンジェリークは、クラヴィスの指技に切なげな吐息を上げ続けている。

アンジェリークの様子がおかしい。こんなあられもない姿を自分にみられて、まったく慌てる気配もない。体をかくそうともしない。

ジュリアスは、アンジェリークの側に近寄り、跪いて顔を覗きこんだ。

体に触れようとして、伸ばした腕を途中で止め、中空にさまよわせたまま、アンジェリークの名を呼んだ。

「アンジェリーク…アンジェリーク!どうした?私がわからぬのか?」

そのとき、アンジェリークが声に反応したのか、ゆっくりとジュリアスの方に顔を向けながら、瞳を開いた。

だが、その瞳は焦点があっていない。いつも明るく煌いていた光がない。

霞がかかったというより、もっと茫漠として、そう、瞳全体に薄い紗の幕がかかったように、茫洋として虚だった。

瞳はこちらにむけられていたが、そこには何も映っておらず、ジュリアスの姿を認識しているのかどうかもわからなかった。

ジュリアスは、瞬時に悟った。

「クラヴィス、そなた、闇のサクリアをつかったな?アンジェリークの正気を無くすために…」

 

腹のそこから沸きあがったどす黒い怒りは頂点に達し、ジュリアスは全身をそれに支配された。

なぜ、ここまで制御不能の怒りに心を根こそぎ支配されてしまったのか、その怒りの感情が何に由来しているのか、今のジュリアスにそれを見据える余裕はない。

ただクラヴィスが許せなかった。自分の身勝手な欲望を満たすために、抵抗を封じる為にアンジェリークの心を縛ったのだと思った。

「そなた!そなたは自分の劣情を満たすために、アンジェリークに闇のサクリアを注ぎこんだのか?そうなのだな?」

わなわなと怒りに震えて、自分を弾劾するジュリアスを気に留めた風でもなく、弁明するでもなく、ましてやジュリアスの言を肯定するでもなく、クラヴィスは、ぽつりと言葉を発した。その間も手の動きは休まることはない。

「いつも熱く燃え盛る炎の側にいて、その熱さを常としていたものの前から、突然その炎が消えたらそのものはどう感じると思う?炎の熱さを知る前だったなら、なんと言うこともなく耐えられる状態でも、熱に晒されているのが当たり前だったものには、例え様もなく、寒々しく感じるのではないか?」

「そなたは、いったい、何を言って…」

ジュリアスはクラヴィスの真意が掴めない。炎?炎とはなんだ?オスカーの事か?思考がうまくまとまらない。

クラヴィスはジュリアスの問いに頓着する様子もなく、ただ、アンジェリークにこの上なく優しい視線を落としながら、言葉を続ける。

「これが夜眠れぬといっていたので、気になって様子を見に来た。これは一人で…泣いていた。寒いといって泣きながら、自分で自分を慰めていた…気がついたきは、この腕にこれをかき抱いていた。見てみぬ振りもできた。だが、もしそうしたら、これは今宵一人でずっと、夜具を涙で濡らすのか。求めても得られぬ温もりを請うて泣きつづけるのか。私には見過ごすことなどできなかった…暖めてやりたいと思った…それだけだ。」

クラヴィスの言葉が漸くジュリアスの頭の中で、焦点を結んできた。そして、その言葉の内容に衝撃を受けていた。

アンジェリークは、毎晩泣いていたのか?顔色が悪かったのはそのせいか?心の寒さに身を竦ませていたのか?

「だが、それは…その温もりとは…」

言い募ろうとしたジュリアスの言葉をクラヴィスがさえぎった。顔に自嘲の笑みをうかべて。

「これが真に望んでいる温もりは、私の与えるものでないことなど、百も承知だ。私が与えてやると言っても、これは、よしとしないこともな。だが、これが泣いているという事実に、これの涙に、私は…私のほうが耐えられぬ。これの涙は見たくない。だから、ただ魂が求めるものを、なんのしがらみもなく求められるようにしてやった。邪魔な理性や自我とやらを眠らせてな。」

クラヴィスが言葉を続ける。

「これはいま、精神は眠っているが肉体は目覚めているという状態だ。そして凍えている体にはその温もりが暖炉の炎であろうと、焚き火の炎であろうと、大して違いはあるまい。どんなものであれ、温もりは温もりだ。熱源がなんなのかなど問題ではない。本人さえ気にしなければ…な。」

ジュリアスにもクラヴィスが抱いている想いがなんなのか、ようやく見当がついてきた。

「そなたは…そなたはアンジェリークを…」

「これが誰を見ていようとかまわぬ。笑ってくれてさえいればいいのだ。泣かせたくない。凍えているのなら暖めてやりたい。私は男だ。こういったやり方で暖めてやる事しか知らぬ。だが、温もりを請うたことがこれの心の重荷になってしまっては、元も子もない。だから、意識は眠らせた。私はこれに笑っていてほしいのだ。これの心に蔭りは似合わぬ…」

ジュリアスはクラヴィスの言葉に眩暈を感じた。立っているのがやっとだった。クラヴィスは見返りを求めない。自分が愛されていないのは百も承知でアンジェリークにただ、自分の与えられる物を与えようとしている。その想いの深さがジュリアスを打ちのめした。

「そなたは…それほどまでにアンジェリークを…」

「ああ、愛しい。愛している。なによりも、誰よりも…」

噛み締める様に、歌う様に言葉を発してから、クラヴィスはジュリアスに視線を向けた。

「わかったなら、でていけ。ジュリアス、おまえさえ黙っていればすむ事だ。」

「…しかし…」

ジュリアスはまだ逡巡していた。事態があまりに自分の常識とかけ離れすぎていて、自分がどう振舞うのが最善なのか判断がつきかねた。

ただ、クラヴィスの真摯な思いだけは、理解した。クラヴィスの行動がアンジェリーク一人のためを思ってでているものであることは。

動こうとしないジュリアスにクラヴィスが、いらだたしげに問いかけた。

「大体、おまえはなぜ、ここにきた?ジュリアス。」

「それは…」

口篭もるジュリアスに、クラヴィスは、はっとしたように言葉を続けた。

「そう…か。おまえも、これのことが気になってきたのか?このところ、これの顔色や表情が冴えないことに気付いていたのではないか?これに笑顔を取り戻させたいと思ったのではないのか?」

「…疲れているのだと思った。きちんと休んでいるか気になった…」

「体だけを休めても、心が弾力を取り戻さなければ、これに笑顔は戻らぬ…ああ、おまえにはわからぬだろうな。みているがいい…」

クラヴィスがアンジェリークへの愛撫を止め、その体を手放して、一歩下がった。

すると、アンジェリークは力なく首を振りながら、瞳から大粒の涙をぽろぽろと零しはじめた。

顔を上げて、焦点の定まらぬ眼でジュリアスを見つめる。ジュリアスは魅入られたように、身動きがとれなくなった。

止めど無く涙を零しながら、アンジェリークはゆるゆると両手をひろげて、ジュリアスに白い腕を差し伸べた。

「………さ…ま…来て…一人に…しない…で…」

名を呼ぶ声はきこえなかった。だが、唇の形から自分の名が呼ばれたのではないことは、理性が告げていた。

だが、ジュリアスは反射的にアンジェリークのその細い手首を掴み、自分の胸に小さな体を抱きしめ、その涙を唇で吸い取っていた。

アンジェリークはジュリアスの体をしっかりと、抱き返してきた。

そして、ジュリアスの顔をみて頑是無い童女のように、涙に濡れた瞳で、だがにっこりと微笑みかけてきた。

これほどの信頼感にあふれた笑みをアンジェリークからむけられたことは、多分一度もなかった。

その笑顔が自分に向けられたのではないという認識は頭の片隅にあった。

アンジェリークは自分を通して、あのものを見ている。悲しいほどにこれの心はいつもあの男のことで占められている。

だが、ジュリアスはアンジェリークを振りほどけない。手放したらまたあのような寂しさに打ちひしがれた瞳で泣き崩れるのかと思ったら、腕の力を緩める事ができない。

アンジェリークの背後からクラヴィスが近づいてきて、アンジェリークが身につけていた夜着を静かに床に落した。

白い肩が、続いて豊かな両の乳房がふるりと揺れながら零れ落ちた。

「この笑みも、我等を求める仕草もすべては、まやかしだ。これが求めているのは、我々ではない。だが、おまえは、これの手を振りはらって去って行けるか?一人で泣いていろと、突き放す事ができるか?」

初めて、クラヴィスの言った言葉が実感としてわかった。

自分をみつめ無心に微笑むその瞳。自分を求める様に差し出された白い腕。なにより、人肌の温もりを失ったときに彼女がみせた、溢れる涙。

そのまま、涙の色で夜を染めろなどと、言えるはずも無かった。

なにより、自分の体は思考するより先に動いて、もうしっかりとアンジェリークの体を抱きしめていた。

アンジェリークの背後で、クラヴィスが自分の長衣を無造作に脱ぎ捨てながら、更にジュリアスを追いこんで行く。

「…おまえは先刻、私がこれを抱いている事に激しく怒っていたな。夫であるオスカーが怒るのならわかる。だが、なぜ、おまえが怒るのだ?おまえは…おまえが私を許せないと思ったのはなぜだ?」

そう、自分にクラヴィスを弾劾するどのような正当な理由があるというのだ?

アンジェリークをその腕に抱くのは、抱く事ができるのは、アンジェリークの心を占めるオスカーだけだと思っていた。

オスカーなら、耐えられる。だが、アンジェリークが他の男の腕に堕ちるのが許せなかった。

他の男でもいいなら、なぜそれがクラヴィスなのだ。なぜ自分ではいけないのだ。

自分を怒り狂わせたあの感情…嫉妬…自分がクラヴィスになりかわりたいという狂気のような欲望。

もう、ごまかせなかった。そうだ、自分はクラヴィスに嫉妬したのだ。

自分もクラヴィスのようにアンジェリークをその手にかき抱きたかったのだ。

そして実際、自分はアンジェリークの体を手放せない。一度この腕に抱いてしまったら、もう手放す事など考えられなかった。

クラヴィスと同じだ。自分もこれの涙に耐えられない。自分を求めているのでなくてもいい。これが寂しがっているのなら、なんとかしてやりたい。

白い肌に、笑顔に、そしてなにより、これの涙に自分の心は余す所なく絡めとらた。狂わされた。

そう思った瞬間、ジュリアスはアンジェリークに突然噛みつくように口付けた。

強引に舌を差しいれ、絡め取られた心のかわりとでも言うように、アンジェリークの舌を舐り吸い上げた。

ジュリアスはアンジェリークの舌を貪りながら、もどかしい思いで、自分の長衣を緩めていった。

クラヴィスがアンジェリークを背後から抱きしめ、そのうなじに舌を這わせ始めた。

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