汝が魂魄は黄金の如し 10

多くの災厄がそうであるように、それは本当に突然やってきた。

その夜、オスカーはいつものようにアンジェリークの仮宮の周囲を見まわり、何か異常がないかを確かめていた。

アンジェリークの部屋の灯りももう間もなく消えるであろう。毎晩のようにアンジェリークの周囲に気を配っているので、彼女の消灯時刻も今はおおよその見当がつく。

そして、彼女が無事就寝したのを見届け、炎のサクリアを周辺に張ってからオスカーも自分の私邸に帰る。

仮宮の離れにはロザリアが起居しており、アンジェリークは宮殿内でまったくの1人になるわけではない。しかし、か細い女性二人しかいないのだから、用心するにこしたことはない。

アンジェリークはこのところ、日々穏やかに過ごしているようだった。

ジュリアスの号令のもと、守護聖一丸となってコレットをサポートしている甲斐もあり育成は順調にすすんでいる。この分なら115日以内に封印を解くだけのエネルギーを大地に注ぎこめそうだ。

その幾分明るくなってきた見通しが、アンジェリークの負担を軽減化している。

ジュリアスが、コレットのサポートを最優先にすることが結果としてアンジェリークの負担を軽くすることに通じると見越した判断は、実際的確であった。

だから、オスカーは自分に言聞かせることができる。ジュリアス様がいてくだされば彼女は安心だ。俺はジュリアス様の手に余る部分で彼女を支えることができれば充分だと。

ちりちりと焦がすような胸の疼きを抑えこんで、アンジェリークの部屋の明かりをみあげた。

その時だった。

落雷のような大音響が響き、大地が悲鳴をあげるように軋み、大きく揺れた。オスカーですら一瞬立っていられず膝をついたほど、その揺れは激しかった。

これはただの地震ではない。オスカーは直感した。大地が揺れた瞬間、オスカーのサクリアにどろりとした感触で触れてくる、なんともいえず嫌な感覚があった。この炎の守護聖の自分をも一瞬怯ませるほど、その感触は生理的な嫌悪感に満ちていた。まるで、そう…ヘドロでできた触手で全身を舐めまわされるような…そして、それは今も消えていない。

「アンジェリーク!」

オスカーは次の瞬間駆け出していた。まっすぐにアンジェリークの私室に向かい、ノックもせずにドアをあけた。

「アン…陛下!ご無事ですか!?」

アンジェリークが、何かに耐えるように苦しげに瞳を閉じていた。噛み締めた唇が僅かに震えている。

「あ…オスカー?あ、ええ、私なら大丈夫…」

オスカーの姿を認めたものの、茫洋とした瞳でアンジェリークは心ここにあらずといった感じだ。

アンジェリークは何か強い力にうちのめされ、だが、それを必死で耐え、今そのガードを漸く解こうとしているかのようだった。顔色は青白く、足許がふらついている。

オスカーは、さっとアンジェリークの許にかけより、その体を支えた。アンジェリークがどうか、俺の手を撥ね退けないでくれるようにと祈りながら。

「しかし、お顔の色が優れません。さっきの地震でご気分でも?…」

「地震じゃないわ、あれは…」

「それは…」

確かに自分も感じたことだった。

アンジェリークは、素直にオスカーに体を支えられている。しかし、オスカーのことを見ていない。その瞳はどこか遠くのものを見ている。アンジェリークが何か他のことに強く気を取られているからこそ、自分が彼女の体に腕を回していても彼女は冷静なのだろうかと、ふとオスカーは寂しさを感じ、そんな自分をすぐ戒めた。

アンジェリークが瞬間、嫌なものをみたように顔をしかめ、ぶるっと体を震わせた。

「何か…何か途轍もなく邪悪な力がどこからかこの地に投げ付けられたの。触れるのも厭わしいような禍禍しいもの…それが雷みたいに突然時空を裂いてやって来た…ううん、叩きつけられたの…そう、憎しみを込めて石礫をぶつけるみたいに…その憎しみの思念に大地が悲鳴をあげるように…苦しんでもがいたのよ…それで地震みたいに大陸が揺れて…すごく、すごく嫌な感じ…気持ち悪い…」

『陛下、私がお傍におります。そんな邪悪な思念が陛下に指1本触れることも許しません。』

そう、勢い込んで言おうとした矢先だった。

「アンジェリーク!無事か!大事ないか!」

「ジュリアス!」

ジュリアスが血相を変えて、アンジェリークの部屋に飛びこんできた。自分がいるとは思わなかったのか、それともアンジェリークを心配するあまりか、恐らくその両方であろうが、敬称も忘れ恋人としての素の顔にもどってしまっていた。

アンジェリークはふらつきながらもオスカーの手から離れ、ジュリアスに向かって気丈に笑みをなげる。流れるように自然な動きで、ジュリアスの方に体が動いていく。

「私は大丈夫、心配しないで、ジュリアス。オスカーもすぐ駆け付けてくれたし…」

ジュリアスは一瞬はっとしたような顔をしてオスカーをみやり、すぐさま浮かびかけた表情を消した。

「オスカー、そなたも陛下を案じてきてくれていたのか。すまぬ。」

「陛下の警護責任者として当然のことです。陛下に大事なく安堵いたしました。」

オスカーはなにも気づかなかった振りをして一守護聖として振舞う。自分がこの場にいたことへのジュリアスの狼狽も、アンジェリークの身を案じるジュリアスの飾らない口調にも、一瞬浮かんだ気まずいような表情も、そして何よりアンジェリークが水が流れるように自然にジュリアスの許に向かったその事実も…なにも見なかったふりをする。

その時アンジェリークが、「あ!」という顔をして、ジュリアスに詰め寄った。

「あ…私より、コレットよ!彼女が無事かどうか確かめないと…この地震に怯えているかもしれないしわ!もし、あの揺れで何かが倒れたりぶつかって怪我でもしてたら…」

「私が様子を見て参りましょうか?」

オスカーは今自分があるべき役回りを的確に把握する。悲しいほどにその目は冷静だ。真の女王の騎士が来た以上、自分がここにいる理由はもうない。一方、ジュリアスのほうはどことなく、落ち付かない様子だった。

「あ、ああ、頼む。陛下のお傍には私がいるゆえ…」

「では、私が新宇宙の女王の様子をみて参ります。」

一礼して出て行こうとしたオスカーにアンジェリークが声をかけた。

「頼んだわね、オスカー。もし彼女が不安がっていたら慰めてあげて?」

オスカーは黙って目礼すると、急ぎアンジェリークの部屋からでた。

オスカーがいなくなってから、アンジェリークは懸念顔をジュリアスに向けた。

「ジュリアス…わたしたち、事態を甘くみていたかもしれないわ…」

 

オスカーは追立てられるようにコレットの部屋に向かう。

あの場にいても自分のできることはない。ジュリアスが傍にいればアンジェリークは大丈夫だ。しかし…なんとも残酷なことを私にお命じになる…わかっている。コレットは鍵だ。すべての謎も救いも、彼女の働き次第でどうにでも転んでしまう以上、彼女の安全の確認と確保が最優先事項なのは当然のことだ。

いいだろう、彼女を守ることが曳いてはあなたを守ることになるのだと信じよう。俺は自分にそう言い聞かせねば。彼女の身柄の安全を確保できなければ、あなたの身を削るような行為もすべて水泡に帰してしまうのだから…彼女が怯え竦んでしまって育成を放棄してしまったら、なにもかもが無に帰してしまうのだから…彼女が尻ごみすることのないよう、励ましてやらねば。

オスカーはコレットの部屋を訪れ彼女の無事を確かめた。アンジェリークが案じた通り突然の地震にひどく怯えていたが、怪我や異常はなかった。

窓の外が異様に明るい。気になって外をみやると銀の大樹が銀の光に包まれ燃えていた。

「銀の大樹が…もえている?」

コレットがあの場に自分をつれていってくれと、オスカーに強く迫った。当然オスカーはそれをおし留める。

彼女の身を危険にさらす訳にはいかない。育成ができるのは彼女だけなのだから。どうかおとなしくしていてくれと舌打ちしたいような気持ちが僅かに生じる。

しかし、めずらしく彼女が引かない。

オスカーは、いや、この世界で異界の声が聞こえるのは彼女だけなのだから、彼女を連れて行けば何かわかるかもしれないと、考えなおした。

彼女ならアンジェリークが蒼白になるほどうちうのめされた禍禍しい気配の正体を明かす手がかりくらいつかめるかもしれない。

そして結局オスカーは不承不承彼女を銀の大樹の許につれていった。

なにかあったら、彼女の身だけは、自分の命を投げ打っても守らなければと固く誓ってコレットを連れて行った。いざとなったら自分が囮になって彼女を逃すことも辞さないと思いながら。

しかし、銀の大樹は、燃えてなどいなかった。先刻見たゆらゆらとたちのぼる銀の大樹を包みこんでいた銀の焔はいったいなんだったのか?

そう思った時だった。オスカーは銀の大樹の許で、この世の全てを憎み、無に帰することを至上の目的とする心が寒くなるような恨みの声を聞いた。

同時に大地に叩きつけられた思念が火花とでもなったのかのようにエレミアに火の手があがった。

「なんてことだ…」

オスカーはコレットにむきなおり、噛んで含めるように言聞かせた。

「お嬢ちゃん、いいか、ひとまず君を部屋に送っていくから、そこでおとなしくしていてくれ。火事は恐らく街からも見えているだろうから、おっつけ誰かが街の自警団をひきつれて消火にくるだろう。が、万が一誰も気付いてなかったことを考えて、俺は町にこのことを知らせにいかなくてはならない。それに今聴いた声のことも報告して、これからのことを陛下やジュリアス様と相談しなくてはならない。」

コレットは今度は素直に頷き、おとなしくオスカーに送られていった。オスカーは急いた心を押さえ、彼女に不安を与えない程度に足早に歩くよう心掛けた。

そしてオスカーはコレットにくれぐれも部屋からでないように言い含めてから、急いで街に向けて走り出した。

そこに、街の男たちが火の手が街にまで及ばないよう消火に向かうところにでくわしたので、知らせる手間がはぶけ、オスカーは直接仮宮に向かった。

守護聖がこの事態にどれほど集まっているかはわからないが、恐らく王立研究院では非常呼集がかかり今の地震の解析を早速始めるはずだ。

その手がかりになるかどうかはわからないが、今自分が聞いた声のこと、身の毛もよだつ目的のことは即刻報告しなければならない。少なくともジュリアスがアンジェリークのもとにいるのは確かだから、ジュリアスには報告できる。

「どうやらそうやすやすと封印の解除はさせてもらえそうにないらしいな。」

オスカーは誰にきかせるともなく呟き走った。

どうせなら愛馬も一緒に転送してほしかったぜ、と一瞬思った。

 

この晩以来、あの大地の軋み…エルンストはこれは地震ではないし、この揺れの原因は陛下が感じたように霊的エネルギーの流入によるので便宜上『霊震』と呼ぶことにすると言った…は、時たま思い出したようにアルカディアを襲った。

あの最初の霊震のあと、仮宮に赴いたオスカーは謁見の間に守護聖全員が揃っているのをみて、安心とも感動ともつかない思いに胸が熱くなった。のんきに休息していた守護聖は1人もおらず、皆自発的に宮殿に集まってきていた。

アンジェリークはもう、先ほどの精神的衝撃は感じさせないほど、しゃんとしていた。さすがに顔色はよくなかったが、瞳の光りも声もしっかりしている。恐らくジュリアスが傍にいたことがよく作用したのだろうとオスカーは思う。

アンジェリークは守護聖に、先刻の揺れは外部から強大なエネルギーが流入してきたために起きたらしいこと。そして、感じたものもいるかもしれないが、そのエネルギーは決して良いものではなく…禍禍しいほどの負の力を帯びたものであることを告げていた。

エルンストが、このアルカディアは浮遊大陸という特質から、マグマによるマントル対流がない。だから普通の惑星ならその上にある陸地であるプレートが動くようなことはありえない、プレートが動かないからその揺り戻しも起こり得ない。故に本来地震など絶対あり得ない。この大陸には人工火山も存在していないのだから、噴火による地震もありえない。これを踏まえると、陛下のおっしゃる外的エネルギーの流入が揺れの原因であることは間違いないことを続けて説明した。

オスカーは、ジュリアスに新宇宙の女王の無事を告げてから、先ほど聞いた声のことを報告した。

皆一様に黙りこむ。

そのような根深い憎しみをなぜ新宇宙がぶつけられなければならないのか。すべてを憎むその正体は何なのか。わからないことが多すぎた。

「この揺れが、オスカーの聞いたという声の主がおこしているものならばいったい何のために…」

「あ〜、恐らく、コレットの育成が関係していると思います。育成が進めば封印されているものは自由になりますね。しかし、封印された物があるなら封印している者というのがいるはずですね。その者にとって封印が解かれてしまうのはおもしろくないに決まってますから、それを阻止しようとするでしょう。この負のエネルギーの流入は、いわば解けかけた封印を強化するために為された物ではないですかね〜。」

「ということは、育成が進めば進むほど、負のエネルギーの流入が頻繁になる可能性が高い…」

「じゃ、育成を進めたっていたちごっこじゃんか!育成する傍から、封印を強化されちまったらいくら育成したって埒があかねーじゃんか!負のエネルギーを送ってくる根源が叩ければ1番手っ取り早いんだが、俺達にはその位置も正体もわからねーんじゃ、手のほどこしようがないぜ!」

「この大陸が未来の新宇宙から送られてきていることを思えば、その負の力の大元も未来にある可能性が高いですね。それでは確かに我々には手の出し様がありません…」

「くそっ!どーすりゃいいんだよ!」

その場に蔓延した閉塞感を静かに打ち破ったのはアンジェリークだった。

「皆、おちついて。考えてみて。邪魔が入るってことは、逆にいえば、私達のやっていることが間違ってないってことではないかしら。その物にとっては都合の悪いゴールに私達が近づいているからこそ、そいつは邪魔をするのよ。だから、私達は動揺しないで今の育成を続けるのが、結局いい結果を生むような気がするの。」

「確かに…そう考えることもできますね…」

「それに…コレットが聞いた声のことを思い出してほしいの。その声は封印を解いて、っていったのよね?封じられしものを目覚めさせてほしいって。その負の力をたたけ!とは言ってないわよね?ということは、つまり私達が要求されているのはあくまで封印を解くことで、その力の主と直接戦うことではないのではないかしら。もし、闘うことを求められていて、それが事態を解決する方法なら、声はそう言ったと思うのよ。でも、その声はそうは言ってないわ。実際私達には戦う術はないみたいだし…」

「そう…だな…封印している者と闘えという目的で我々は召還された訳ではないのだったな…」

「この負の力の目的はそこにあったのではないかしら。私達が諦念に捕らわれるように、育成なんか無駄だと思わせるために負の力を注入して邪魔をしたのではないかしら。でも、それは逆にいえば、私達が正解に近づいてる証拠のような気がするのよ。このまま、育成を進められては困る、だから、慌てて邪魔をしかけてきた…そんな気がするの。」

「なるほど…」

「だから、私達はこのまま育成を進めたほうがいいんじゃないかしら。育成を進めれば進めるほど、確かに負のエネルギーの流入は多くなるかもしれない。でも、動揺することは相手の思う壺だと思うの。邪魔をされればされるほど、私達はゴールに近づいている、私はそう思うの。相手が焦って何かしらの手をうってくるってことは、私達が正しいことをしている証拠に他ならないわ。もし、見当違いのことをしてたのなら、笑って放っておけばいいだけですもの。」

「それは、確かにそうだよね。」

「でも、皆が動揺すれば、この地の民もアンジェリークも動揺するわ。自分のしていることが正しいのかって悩んでしまうかもしれないわ…彼女にそんな思いを抱かせないであげて。励まして、自信をもたせて、なすべきことに迷いをもたせないであげてほしいの…」

「わかりました、陛下。僕達みんなできっとアンジェリークを支えて行きます。」

「お願いするわね。では、もう、遅いし、とりあえず今日はこの辺にしておきましょう。ロザリア、明日の朝レイチェルに今日わかったことと、育成はかわらず続けるように重々言い含めてね。あの子が迷ってしまったら私たちには、本当に打つ手がなくなってしまうのだから…」

「ええ、きっちりいいきかせますわ。」

「では、皆さん、遅くに集まってくれてどうもありがとう。明日から、またよろしくね。」

オスカーは、これこそが女王の持つ力かと感動にも似た思いを味わっていた。

皆の間に広がった無力感ゆえのやりきれない苛立ちがアンジェリークの言葉で今は綺麗に霧散している。

そして、その言葉は感情的なものではなく、なんとなくといった曖昧なものでもなく、きちんとした論拠に基づいていた。

だからこそ、皆、納得して育成に協力する気持ちが維持された。

『こんな女性は二人といない。2度と会えないかもしれない。』脳裏に蘇るジュリアスの言葉に素直に頷けた。

何気なくジュリアスを見ると、ジュリアスもアンジェリークに承認と賞賛の入り混じったような視線を送っている。

その様子にオスカーは、アンジェリークの言葉は、アンジェリークが一人で導き出した物ではないかもしれないと思った。

恐らくアンジェリークとジュリアスは皆が集まる前、2人でいる時に、この霊震の持つ意味と、今後の方策を話し合った上でこの結論を導き出したのかもしれない。

それでも、この言葉には借り物ではないアンジェリークの精神の発露が感じられた。

女王だからといって一人で結論を出さねばならないわけでもあるまい。よい参謀と意見をぶつけあうことで、より高次に思索が研ぎ澄まされるのなら、それはむしろ望ましいことだろう。それぞれが、意見を出し合い、検討し、よりよい結果を導き出さんとする気高い魂が2つ寄り添えば、自ずと道に光りが差そう。

そして、2人で出した結論をアンジェリークが女王の名において知らしめることで、それは守護聖の意識下にまで染み渡り、守護聖たちは自然と自ら進んで行動するようになろう。ジュリアスが首座として通達を出すより、それは素直に守護聖達に受け入れられるはずだから。

宇宙がよい状態に保たれるために選ばれたような2人だと、オスカーは思う。

それというのも、この2人は互いが互いの支えとなることを望んでいるからだろう。互いを支え守ろうとする強い意志が自ずと宇宙の安泰に通じる力となる。そして、それが彼らの幸せなら、俺はその彼らを支えられればいい。例え、それが彼らに気付かれることはなくても…

オスカーは虚心でなくそう思った。この心のあり様を保ちたいと思っていた。そう思うことが自分自身にとっても救いになると思えたから。

 

実際アンジェリークが注意を喚起したように、その後アルカディアはたびたび霊震に襲われた。

それに伴い、住人の間に動揺の声があがりつつあった。

無理もない。もともとこの大陸には地震など存在しないのだから、住人は地面が揺れることに理屈でない恐怖を感じるだろう。火山の多い惑星に住んで地震になれている住人とは違い、その恐怖は並大抵のものではないだろう。

自分たちはその理由を把握しているし、アンジェリークの揺るぎ無い姿勢ゆえ動揺も拭い去られているからいい。

が、この地の住人達はこの大陸が次元の狭間にリープさせられ115日…もう残りは二ヶ月強くらいか…後には消滅してしまうことも知らされていない。自分たち守護聖は元の世界に帰る方策を探して努力していると告げているだけだ。事実を知らせたらどれほどのパニックがおきるかわからない。絶望した住人が次々と自殺する恐れすらある。

普通の人間の精神はそれほど強靭ではない。約二ヶ月後に全てが虚無に飲みこまれる危険があると知って、そして、いかに自分達がそれを回避する努力をしていると言っても、とろ火で炙り殺されるように、じわじわと迫りくる理不尽な死の恐怖に耐えられる人間はそう多くない。

自分たち守護聖が動揺しないでいられるのは、自分たちにこの事態をなんとかできるかもしれないという可能性と役割があり、日々その手応えを感じることができるからだ。

あの最初の霊震の後、オスカーは、アンジェリークから呈された言葉をもう一度自分自身で考えなおした。自分たちにできることは大して多くない、情報はあまりに少ない、それでも、できることを少しづつでも着実にこなしていくしかない。自分たちにできることがあるうちは責任を放棄するような真似はすまいとオスカーは改めて思ったのだ。それは多分他の守護聖も同様だろう。

そして、その精神的サポートをアンジェリークが揺るぎ無い信念で底支えしてくれているから、今、オスカーに迷いはない。

だが、そんな信念も役割ももたされていないし、知識も与えられていない住民が、今実際に感じられる霊震という災厄に、動揺し怯えるのは無理もないことだった。

住人との折衝に立っているロザリアとヴィクトールは人心を落ち付かせる方便として警備の強化を街に申し入れた。

実際には巡回で霊震を防ぐことなどできないが、人民には目に見える安心というものが必要だった。

それに伴ってオスカーも街の警備に当然組みこまれるので、1人でアンジェリークの身辺を守ることが物理的に難しくなってきた。

そして丁度今夜は街の巡回がオスカーにあたっていた。しかし、ジュリアスも今夜はアンジェリークの元にいけないはずだ…今日はその旨を聞いていない。どうしたものか…アンジェリークを1人にするのは気が進まない。1日くらい大丈夫だろうという気の緩みが、惨事に繋がる危険をオスカーは怖れていた。99まで大丈夫でも最後の1で結果が覆されては意味がないのだから。

思案しているオスカーに声をかけてきたものがあった。

「オスカー様どうしたんですか?何か難しい顔なさってましたけど…」

「ああ、ランディか。いや、俺は陛下の警備責任者だが、今夜は町の歩哨に立たねばならんので、どうしたものかと考えてただけだ。なにせ、俺の体はひとつしかないからな。」

「なんだ、それなら、俺を使ってくださいよ。これでも随分剣もうまくなったし、オスカー様、1人で陛下の警備なさってるって聞きましたよ。ジュリアス様に、『そなたも陛下の警備をオスカーと交替でしてくれているのであろう?すまぬな』っていわれて何のことかわからなかったんです。そしたらジュリアス様が、陛下の警護はランディやヴィクトールと供にするとオスカー様が言ってたはずだっておっしゃられて。俺傷ついちゃいましたよ。俺にはまだ警護はまかせられないからオスカー様は1人でなさってるのかって思って…まだ、俺、そんなに頼りないですか?」

「いや、こりゃ済まなかったな。おまえはお嬢ちゃんのほうを守るのに忙しいかと思っててな。お嬢ちゃんと一緒にいると妙に楽しそうだから、おまえはお嬢ちゃん専任にしてやろうかと思ってただけだ。」

「やだなあ。オスカー様、そんなんじゃありませんよ。アンジェリークには優しくしろって言われてるじゃないですか。だから、俺…」

「わかった、わかった、そういうことにしておいてやろう。」

そういいながらオスカーは考えていた。自分の任期もいつ終わるかわからないし、自分がいなくなった後は聖地の守備はランディが担うことになるのはまず間違いない。

上手く聖地に帰れたときのために、ランディに要人警護の経験をさせておくのもいいだろう。

「じゃ、いい機会だから俺の替わりに今夜の陛下の警護はまかせていいか?」

「まかせてくださいよ!俺一生懸命やりますから!」

「なら、これから今夜の警護はおまえがやると、陛下にご挨拶申し上げに行こう。ただしだ、なにも考えず一晩中寝ずの番なんかするんじゃないぞ。それじゃ、明日の執務で使いものにならなくなっちまうからな。」

「え?じゃ、どうやって陛下を夜の間お守りするんです?眠っちゃったら、その間無防備になっちゃうじゃないですか。」

「だから、それをどうすればいいか、夜までに考えておけ。それができないようなら陛下の警護はまかせられん。そうしたら俺の替りにおまえが街の夜回りにいくんだ、いいな?」

「ええ!そんな〜!」

「そうならないよう、頭を使うんだな。ただし、手に余るようなら誰かの助言を仰いでもいいぞ。」

「はいっ!俺も陛下の警備をいつか1人でできるようになりたいですから、がんばります!」

「よし、その意気だ。」

そしてオスカーとランディは2人揃って仮宮のアンジェリークの部屋を訪ねた。

ノックと供に二人でならんで、アンジェリークの部屋の入り口に立ち、中のアンジェリークに声をかけた。アンジェリークはテーブルについて、飲み物を飲みながら、なにかの報告書を読んでいた。

「陛下、失礼します。今夜の警護のことでご報告が…」

「あ、オスカー…なんの…」

アンジェリークが振り向き様、そこまで言った時、耳障りな破裂音がオスカーの耳を打った。

アンジェリークが突然すごい勢いでたちあがり、その拍子にテーブルの上のカップが床におちて砕けたのだ。

見ればアンジェリークの顔は紙より白いほど血の気がなく、全身ががたがた震えているのが入り口からでもわかった。

「陛下、どうなされたのです?ご気分でも悪いのですか?」

どうみても、アンジェリークの様子が尋常でない。ひゅうひゅうと呼吸の音が聞こえるほどに彼女の息があらい。オスカーは二、三歩前に進み出て、アンジェリークの様子を窺った。

アンジェリークは、オスカーが近づいた分だけ、あとずさる。

「だ、大丈夫…でも、あの急ぎの用じゃないなら、ちょっと今は勘弁してくれない…かしら?」

「陛下、それではやはり、ご気分が優れないのですね?」

「陛下、なんか顔色悪いですよ?医者でもよんできましょうか?」

オスカーとランディはそれぞれアンジェリークの身を案じるがゆえに更に畳み掛けるように同時に話しかけ、二人がともにアンジェリークにまた近づこうとした。

「へ、平気…だから、お願い、私を1人にしてくれないかしら…」

アンジェリークが更にあとずさる。呼吸が更に忙しなく激しくなるのが離れていてもわかる。無理に笑おうとしてそれがうまくいっていないことも…

「そんな!だって、陛下変ですよ!こんな陛下をおいていけませんよ!どうしたんです、陛下!」

ランディがアンジェリークをまるで責めるかのように勢い込んで近づこうとしたその時だった。

アンジェリークは泣きそうに顔を歪めながら、ゆっくりと首を振ると、

「嫌…こないで…く、くるし…息…できな…」

と言って突然胸元に手をあて、がっくりと床に膝をついてしまった。

オスカーは弾かれたようにアンジェリークのもとにかけよりその体を抱き起こした。

「陛下!」

アンジェリークは喉元を白い指で苦しげに掻き毟っている。呼気は耳に聞こえるほど荒く、顔にはまったく血の気がない。

「ランディ、おまえは街に行って医者を呼んで来い!」

「は、はい!」

ランディが大あわてで駆け出していった。

「く、くるし…息できな…助けて…」

「陛下!お気を確かに!」

オスカーは焼けつくような焦燥のもと、必死の思いでアンジェリークに声をかける。呼吸困難か?まさか、心不全?バリアの維持がアンジェリークの体を蝕んでいるいるせいか?御典医がいないことをこれほど呪ったことはない。

はぁはぁと荒い呼気音が聞こえる。顔面は蒼白で油汗が張り付いている。顔色は悪いがチアノーゼを起こしていないから、心臓の問題ではなさそうだ。呼気音が煩いほどに聞こえるが、何かで気道が塞がれている訳でもない。呼気は荒いだけで、異様な音は聞こえない。なのに彼女は呼吸困難を訴えている。

オスカーは、はっと思い当たった。

新兵が初めて実戦訓練を受ける時、こういう状態になったやつを何人も見てきた。

恐らく間違いない。過度の緊張とストレスからくる過呼吸の発作だ。緊張のあまリ息が荒くなり、体内に取り入れる酸素が過剰になって、その結果血液がアルカリ性に傾く。血中酸素濃度は通常よりかなり濃いのに、その本人は主観的に激しい酸素飢餓感に襲われ、パニック状態になってさらに激しい呼吸をくりかえす。そのためさらに血中酸素の割合が増え、主観的な息苦しさは増すばかりと言う悪循環に陥る。

自分は士官候補生として、新兵が初の戦闘訓練などで過度の緊張に耐え切れずこうなる例を実際に見、簡単な応急処置も経験してきた。

とにかく彼女に激しい呼吸をやめさせなければ。

オスカーは周囲を見まわした。袋状のものがあれば1番いいのだが、それはみあたらない。

仕方ない。オスカーはハンカチをとりだし、アンジェリークに声をかけながらそのハンカチを口に押し当てようとした。

布を通してゆっくりと呼吸させることで呼吸の絶対量を減らすのだ。本来自分の呼気を袋状の物につめ再度呼吸させて二酸化炭素の割合を増やす方が回復は早いのだが贅沢は言っていられない。

なにが彼女にここまでの緊張を強い、ストレスとなったのか…やはり、無理なサクリアの放出が負担になってきているのか…

「陛下、どうかおちついて、ゆっくりと息をなさってください。大丈夫です。窒息する心配はありません。さあ、これで激しい呼気をおちちつかせてください…」

オスカーがハンカチをアンジェリークの口にあてようとしたその時、アンジェリークが自身がオスカーの腕のなかにいることに気付いた。

「い、いや…なにをするの?私に…なにを…」

アンジェリークがむずかる子供のようにもがく。

「陛下、おちついてください。どうか…」

オスカーがアンジェリークを抱く手を少し強め、改めて口元を布で抑えようとしたその瞬間、アンジェリークとオスカーの目があった。アンジェリークの瞳には激しい恐怖、嫌悪、怯え、ありとあらゆる否定的な感情がつめこまれていた。

「いやっ!いやああっ!私に触らないでぇええ!」

どがっ…と 鈍い音が部屋に響いた。

「ぐぅっ…」

オスカーには一瞬何が起こったのかわからなかった。

胸部のあたりに押しつぶされるような激しい圧迫を覚えたかと思うと、すぐさま背中1面に激しい痛みを感じた。息が肺のすべてから絞りだされた。自分が凄まじい力で壁にたたきつけられたことを悟った。そのままずるずると床に崩れ落ちた。

「あ…あぁ…いや…いやぁ…こないで、こないで!」

アンジェリークは床に座りこんだまま、顔を覆って気が狂ったように泣きじゃくっている。

オスカーはアンジェリークをなんとか落ち付かせようと声をかけようとしたが、胸部に走った激痛にうめき声が漏れただけだった。咄嗟にオスカーは自分の胸部に手をあてる。幸いなことに肋骨は折れていないようだった。

オスカーは改めて声を出そうとして、激しく咳込んだ。開いた唇から1条の血液が流れるのを感じた。叩きつけられた時に口中を切ったのだろうがかまっている余裕はない。痛む肋骨を庇いながら立ちあがろうとしたが上手くそれができず、よろけて再度膝をついてしまった。

アンジェリークから渾身のサクリアをぶつけられたことはわかった。何かに、いや、俺に彼女は激しく怯えた。なぜだ?今までも怯えを見せたことはあったが、ここまで激しいものではなかった。俺が彼女の口を塞ごうとしたからか?彼女を無用に脅かしてしまったのか?なんとか彼女を安心させてやらねば…それがまずしなければならないことだ…警戒を解くよう、優しく力まぬようにしゃべるのは大層困難だったが、渾身の精神力でオスカーはなんとかそれを果たした。

「陛下…大丈夫です…なにも怖いことはありません。私は陛下に触れませんから…どうかゆっくりと呼吸なさってください…そうすれば苦しく…なくなります…」

アンジェリークがその声にはっとしたように顔をあげ、唇を噛み締めながらよろよろと立ちあがろうとしているオスカーをみて半狂乱になって駆け寄ってきた。

「オスカー!オスカー!あああ、私…私、なんてことを!オスカー、しっかりして!」

ぶつかるようにアンジェリークがすがり付いてきた。

オスカーは今は無理に立ちあがるのをやめ、その場に片膝をついたまま自分に取りすがり泣きじゃくるアンジェリークを宥めるためその髪をなでようとして腕を伸ばしかけ、しかし、すぐ思いなおして手を引っ込め、安心させるように微笑みだけを投げかけた。

「陛下、どうぞ、落ち付いてください。俺はなんともないです…から…どうか、それより、俺のハンカチを口にあてて息をなさってください。ゆっくりとあわてずに…そうすれば苦しいのはおさまります…」

アンジェリークは恐慌状態でオスカーの言葉をまったく聞いていないようだ。奔流のように涙と言葉が後から後から溢れ出て留まる所をしらない。感情の堰が決壊してしまったかのように。

「ああ、オスカー、オスカー、ごめんなさい、ごめんなさい!わかってるの、頭じゃわかってるの、何度も自分に言聞かせてきたことだもの。あれはあなたじゃないって。あなたじゃないってわかってるの!そう思えるように、思い出さないですむように、正装も変えてもらったのに!なのに、なのに、私ったらどうしてこんなことを!」

更に激しくアンジェリークは泣きだした。溜まったものを吐き出すように、吐き出さずにはいられないように、一度堰を切った水流が、最後の一滴が尽きるまで迸るかのように…

「ごめんなさい、オスカー、ごめんなさい…ごめんなさい…あれはあなたじゃないのに…あなたたちじゃないのに…何度も言聞かせてきたことよ。この頃はうまくできてたのに。でも、2人が一緒に部屋に入ってきたのを見て…私…びっくりして…ほんとにびっくりしてしまって…落ち付かなくちゃ、落ち付かなくちゃ…って思ったの。でも、一人にしてって言ってるのに、2人一緒に近づいてくるから、私、私…でも、出て行って!なんていえないから…そうしたら、息が苦しくなって…口を塞がれるって思ったら…また、抑えつけられてると思ったら怖くてどうしようもなくて…ああ…あれは、あなたじゃないのに!オスカーじゃないってわかってるのに!どうしよう…私、私なんてことをしてしまったの!」

「陛下、陛下、大丈夫です、俺は大丈夫ですから、どうか落ち付いて…」

なんだ?彼女は何をいっている?

オスカーは頭を振って、意識をしっかりさせようとした。

オスカーは、今まで朧にしかみえなかった彼女の懊悩の断片が取りとめない言葉の奔流に混じって吐き出されていることに気付いた。言葉の断片からそれが示す事象をはっきりしない頭で懸命に組みたてようとしてみる。

『あれはあなたじゃない』『あなたが悪いんじゃない』

では、悪いのは誰なのだ?誰が彼女をこんなに怯えさせているのだ?

彼女が俺の姿を見、俺に口を塞がれると思って恐慌状態で力を発動させたのは確かだ。

『口を塞がれる』『また抑えつけられると思って怖くて…』

彼女は心底怯えていた。なぜそんなに怯えるのか…過去に怖い目にあったからだ…そうだ…『また』…確かに彼女は『また』と言った。かつて彼女は何かとてつもなく恐ろしい目にあったというのか?『口を塞がれ抑えつけられる』ような怖い思いを?いつ?誰にこんな目にあわされたというのだ?

そして繰り返される、それは俺じゃないという言葉。どういうことだ?

オスカーにもう1つのキーワードが大きくせまってくる。

『思いださないですむよう正装を変えた』

正装を変えたのはいつだ?ここにくる前、あの侵略を退けた後だ…アンジェリークが女王位について正装を変えてからさほど間があいていないのに、少々不可解に思ったことをオスカーは思い出した。その時は侵略を退けた祝賀と、心機一転の気運を現すためだろうぐらいにしか思わなかったが…何かを思い出さない為に正装を変えさせた?

『思い出したくない』…思い出したくないことはなんだ?『口を塞がれ、抑えつけられ』た怖い思い出だ…だが、正装が以前のままだと、怖い思い出が想起されてしまうということか?だが、それは俺じゃないという……忘れたいのは昔の姿の俺…だがそれは俺ではない…俺であって俺でないもの…俺の姿をした俺でないもの…

「まさか…」

オスカーは脳天を鈍器で殴られたような衝撃を覚えた。

そうだ、なぜ気付かなかったのだ…そう考えればすべての辻褄があう…

彼女が俺を避けていたこと、それが始った時期、俺が傍にいる時の激しい緊張と怯え、それでいて、それは俺の責任ではないという不可解さ、絶対に言いたくないその訳。

すべてのピースがかちゃりと音をたててパズルに嵌った。

「アンジェリーク…君は…君は……」

オスカーは言葉を失った。己の迂闊さを呪った。

自分の目はなんと節穴だったのか。彼女に避けられているという事実に自分が傷つき、その背後にある理由にまで思い至らなかった。

それもこれもすべては女王は至高の存在であり、この宇宙を支える根幹だという事実だ。

この宇宙に生きとし生ける者で女王に害をなそうなどと考える者はいない。

それはいわば自分の生きている世界を否定する自殺行為である。

だから、自分は見落していたのだ。

この宇宙に、我らの女王に害なすものなどいるはずがない。

そういう思いこみで目が曇っていたのだ。

だが、この宇宙に生をうけなかったものはどうなのだ?そんなことは関係ないではないか。

この宇宙がどうなろうと、知ったことではないではないか。

それは…それは誰だ?

我らの宇宙とは出自を異にする、つまり、我らの宇宙も女王も、どうなろうとかまわなかった輩。

そして、オスカーは軍人であったからこそ軍隊のもつ影の部分、負の部分をよく見知っている。軍隊における軍人による蛮行、いや犯罪がある。軍と兵士が誕生したと同時に生まれ、それは軍法会議で即刻銃殺という重刑をもってしてもいまだ根絶が困難なものだ。

軍の司令官なら一般兵の手綱を引き締めておくのがどれほど困難かよく知っている。

通常時ならともかく、特に戦争時は兵の精神状態も普通ではなくなるから、尚更綱紀の粛清は一層困難を極める。いつ自分が死ぬかわからないという極限状態は容易く人を狂気に追いこみ、死の恐怖を忘れる為、刹那的で残酷な快楽に兵士を走らせる。そんな兵士たちが欲望の赴くままに非戦闘員の暴行と略奪に走る。訓練された軍隊でも、死刑という厳罰をもってしても、この犯罪を根絶することは難しい。正規の軍隊でも難しいことを、いわば私兵の寄せ集めでしかなかったあいつらにできるはずもない。もともとそういう犯罪を戒める軍規自体なかったかもしれない…あいつら…占領地でなにをしていた?俺たちの宇宙の住人達のことなど、人間以下にしか思ってなかったあいつら…

人間以下…そう、人質だって、やつらにとっては同じことだったのではないか?

こちらの宇宙でも、時たま営利誘拐がおきる。その時人質が若く美しい女性だったら、犯人のすることはほぼ同じだ。利用価値のある間は殺さないが、逆に言えば殺しさえしなければ、何をしたっていいのだ…

「なんてことだ…なんて…」

顔を覆って激しく泣き続けるアンジェリークにかける言葉がみつけられないまま、オスカーは途方にくれた。アンジェリークを安心させたくて肩に触れようとした手は中空で止まったままだ。

しかも、更にオスカーの心をふさぐ言葉があった。

『二人が入ってきて…びっくりして…』

アンジェリークが、俺に怯えたのは1度や2度じゃない。しかし、ここまで激烈な反応を示したのは初めてだった。その違いはなんだ?知れたこと。ランディと一緒にアンジェリークのもとに参内したことだ。

「俺の体はひとつしかないからな」

さっきランディに自分が言った言葉だ。だが、一時期この世に俺の体が、いや、俺たち守護聖は皆体が二つあった時期が確かにあったではないか。

自分と同じ顔を見たときは悪夢だと思った。しかも、つるんでるヤツまで現実の自分たちと一緒だとわかった時はこれはいくらなんでも性質の悪すぎる冗談だと思ったものだ。

今まであいつが幸いにも何も気付かなかったのは、あいつ1人で陛下に謁見するような事態がなかったこと、これに尽きる。まだ、どんな方面にしろ責任を預かる立場になかったから、1人で報告や謁見する機会がなかったのだろう。もともと人間の感情に敏いほうでないことも、この場合いいほうに作用したのだろうが…

おそらく…おそらく間違いはない…俺は…こんなことを知ってしまって…俺は、彼女になんと声をかければいい?なんといって慰めればいい?

しかし、どんな言葉なら彼女の心に届くというのか?…いや、言葉などで彼女の傷が癒すことなどできるのか?

かといって黙って見ていても…腫れ物に触れるのを怖れて黙ってみていることで事態を解決できるわけもない…

だが、俺にいったい、何ができる?俺は…俺はどうすればいい?彼女にとって厭わしい存在でしかないであろうこの俺に、何ができるっていうんだ!

なんて俺はばかだったんだ…彼女が何か悩んでいるのなら、俺がなんとかしてやりたい、俺が解決してやれないだろうかと思うなんて…

顔も見たくなかっただろう、声も聞きたくなかったであろう、そんな俺に、彼女は一生懸命笑いかけようとしてくれていたのに!なのに、俺は彼女の傍にいること自体で彼女に苦痛を与えていたなんて!

オスカーは、この時人生でもっとも激しい絶望にとらわれた。

それは、この地が115日後に消滅すると知らされた時など及びもつかぬほど激しい絶望だった。

自分の大切な人が苦しんでいる、傷ついて泣いている。なのに、その原因を知っている俺には、なにもなす術がない。しかも、その原因は直接的でなく、自分の責任でないにも拘わらず、自分の存在が深くかかわってしまっているのだ。俺が助けようと手を差し伸べること自体が、大事な人の心をどうしようもないほど、傷つけるかもしれないと知って、俺にできることなど、何があるというのだ…

問題はあきらかなのに。しかし、自分にはなにをどうすればいいのか、手の施し様がない。何ら打つ手が見出せない。これを絶望といわずなんというのだ…

しかも、このことに気付いたのは…俺1人…なのか?ジュリアス様は恐らく知らない、彼女はジュリアス様にだけは知られたくないだろう。だから、俺に問い詰められ泣き崩れた時も、頑なにジュリアス様を呼ぶことを拒んだのだ。ロザリアは?一緒にいたロザリアはこのことを知っているのか?ロザリアが、アンジェリークの傷を知り、理解や慰めを与えてくれていればまだいい。いつかは傷も少しづつでも、ふさがるかもしれない。心の傷に最も有効な、共感といたわりを与えてくれる存在が1人でもいるのなら。だが、もし、このことを俺1人しかしらないのなら…俺が、俺が諦めてしまったら彼女はどうなるのだ?

だが、俺が彼女に関わる事自体が彼女を苦しめる。彼女に忌まわしい思い出を想起させてしまう。

わからない、何をどうすればいいのか、まったくわからない。まさに八方塞がりだ。

途方にくれる心そのままに、オスカーは身動きひとつできずにいた。アンジェリークにかける言葉も、差し出す手もどこにも行き場がない。

その時ランディが現地の医師をつれてまろびこむように駆けこんできた。

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