汝が魂魄は黄金の如し 9

 

ごめんなさい、オスカー。

私、自分のことしか考えてなかった。

あなたが側にいるのが怖かった。

あなたに何かおかしな振る舞いをしてしまいやしないか、変なことを口走ったりしないか、つい身構えてしまっていた。

それを隠そうとするから、二人でいると緊張して…緊張していることも知られたくないから、なるべく一緒の時間を減らそうとしていた。

そんな不自然な態度に、あなたが気付かない訳ないのに。

あなたには、なぜか隠し事ができないような気がして、そう感じたからあなたを遠ざけようとしたのかもしれない。

でも、隠し事ができないなら、私があなたを遠ざけ様としたことだって気付かれて当然なのに。

私があなたを避けていることもすぐ悟られてしまうってことに、どうして気付かなかったのかしら…

それすらわからないほど、私は自分のことしか考えていなかった。

あなたを傷つけてた、苦しめてた、そんなことも思い至らなかった…

あなたは何も悪くないの。なのに、思い当たることもないのに避けられたらいやよね?傷つくわよね?知らないうちに何か悪いことでもしたのかって心配になって当然よね?

そんなことにも思い拠らなかった私は最低だわ…ごめんなさい、オスカー。いくら謝っても許してもらえることじゃないかもしれないけど、謝る事しか今の私にはできない…

だって…訳は言えない、言いたくない、こうして考えることも本当は嫌。早く何もかも忘れてしまいたい…なのに、なかなかそれがうまくできなくて…あなたの前だと、私、うまくしゃべれなくなりそうで、だから、わざと明るく振舞ったり、でも、そんな誤魔化しが苦しくてあなたを追いたてるように退出を促したりしてたのね?あなたがそんな私の態度にどれほど傷つくかということも気付かずに…

あなたを悩ませて、傷つけて、本当にごめんなさい。

なのに…こんなにあなたを苦しめた私なのに、あなたが私を見る瞳がとても優しく感じるのはなぜ?

ああ…そんな瞳で私を見ないで…

あなたの瞳…冬の湖のような澄んだ瞳…なにもかも映しだされてしまいそうで…少し怖い…

 

コレットの育成は順調に進んでいた。

コレットは育成地に『エレミア』という名前ー荒野という意味だーをつけ、守護聖や教官たちと親交を図りつつ、ゆっくりとではあっても着実に育成を進めていった。

ジュリアスが有効であろうと断じた目標値の設定は実際コレットの育成にいい効果をもたらしていた。

コレットはもともと明確な目標を設定されれば、それをきちんとこなす能力は高い。だからこそ、聖獣の意志を十全に汲み取る事ができるのだ。

コレットが育成を進めるなか、アンジェリークもとりあえずは一見つつがないと思えるような日々を送っている。

まるで、往時の新宇宙の女王試験がそのまま蘇ったような錯覚すら覚えることがある。

コレットは育成に守護聖を頼みにし、自分はそのフォローを行う、そのフォローの仕方が当時と今とで異なるだけだ。

アンジェリークは毎日アルカディアを保つためのバリアを維持する。今のところはそれほど身体に負担を感じることなくバリアを維持できている。

この大陸に来てからそれほど日数が経っていないこともあるが、守護聖たちが惜しみなくサクリアを供出してくれている部分に拠るところも大きい。

アンジェリークはもともと、どうしても自分の力では足りなくなった時、補助程度にサクリア分けてもらうくらいのつもりでいた。守護聖のサクリアとて無尽蔵ではないのだし、それは育成により比重を置いて使うのが当然だと思っていたから、あまり無理は言えないし、言うつもりもなかった。

しかし、気がつくといつのまにか自分の身体には守護聖たちのサクリアが満ち満ちていることが間々あった。

バリアを張るといってもアンジェリークは常時サクリアを全開で放出している訳ではない。一度張ったバリアに定期的に力を注ぎその圧力を維持しているのだが、サクリアを放出しようとすると、それを脇から支えるように寄り添い身中を充たす力を感じることがよくあるのだった。

ジュリアスの力は影のように自分と不可分に、いつも傍らに感じられた。アンジェリークが逆に心配になるほどにそれは自分の身中を豊かに満たしていた。そして、同じ位強く、そして間断無く感じられるのは炎の力だった。

アンジェリークは目覚めている時は一定の力を継続的に周囲の空間に送っているのだが、この守護聖の助力に加えサクリアを放出するに際して運動エネルギーの慣性を利用するようにサクリアを扱う方法も体得していたので、それほど力むこともなく、なるべく疲れを覚えずすむよう自分の身体も労ることができていた。

夜休む前には一度強めに力を放射し、眠っている間も内圧が維持できるようにする。自分が眠っている間も次元の収縮は止まることはないが、溜めておいた力を一気に放射することで常時サクリアを放出しなくても収縮を抑えられるようにしていた。

なるべく少ない労力でバリア、つまり一種の結界を維持することができるのも、これがアンジェリークにとって既得の技術だからだった。

皇帝に東の塔に監禁されている間…いや、塔内は自由に動き回れたから、言葉としては軟禁のほうが近いかもしれない、尤も動き回るほどの余力が残っている時などめったになかったが…塔の内部で、己のサクリアでさらに小さな結界を張らねばならなかった経験が皮肉にも今役にたっているのだ。

アンジェリークとロザリアは軟禁されていた当時魔導という力の名前も性質もわからなかったが、とにかく未知で異質のこの力により封印を施された扉に封じ込められ塔から出る事能わなかった。自分たちの物理的な力もサクリアも扉は一切受けつけずどうやっても脱出は不可能だった。

しかし、閉ざされているはずの塔内にどう言う訳かモンスターが多数紛れ込んでおり、幽閉されている間、二人はいつモンスターに襲われるか一瞬たりとも気を抜く事ができなかった。

いつモンスターに襲われるかわからないから、休息をとるのは交替でしなければならなかった。二人同時に眠っている時にモンスターに襲われたら一たまりもないので、睡眠を取る時は交互に自分たちのサクリアで寝室に小さな結界を張った。

その時、アンジェリークはなるべく最小限のサクリアでバリアを張る方法を体得した、せざるを得なかった。当時アンジェリークのサクリアは、いつも命を維持するぎりぎりのところを量ったかのように厳密に吸い取られていたからだ。

今のように溜めたサクリアを一度に放出して結界を維持するほどの力は残されていなかったので、水道の水を少しづつ出すように小出しにサクリアを放出しなければならず、その間は眠ることもできなかった。

今、夜眠っている間も結界が維持できるのは、守護聖の協力のもと、自分の内部にサクリアが潤沢にあり、それを強い力で一度に放出できるからだ。溜まる傍から力を吸い取られていた当時はそれができなかったから、モンスターを退ける結界を張っている間は休むことができなかった。

ただ、当時の経験が、ぎりぎりのサクリアで結界を張る技術をアンジェリークに体得させたのは確かだった。

どんな経験も無駄になることはないってことかしら…とアンジェリークは皮肉気味に考える。モンスターが塔内にいなければこんなに上手くバリアを張れなかったかもしれないなんてね…

なぜ、自分たちは出ることができない封印を、モンスターは自由に出入りできたのか、当時は考える余裕もなかったが、アンジェリークは後にこう考えた。

魔導の力で作られた、いわば人造生物だったモンスターは魔導のオーラのようなものに全身を覆われていた。その同じ魔導の力で張られた結界は、いわば透過膜のような性質も持っていたのかもしれない。同じ性質の物は抵抗なく通し、魔導と異質の力は弾く。だから、自分たちは脱出できないが、魔導で作られた生物はなんなく入ってこられたのだろう。

本来異質な力は弾き返す結界があったのにアンジェリークのサクリアを皇帝が吸収することができたのは、どういう方法でかサクリアが魔導の力に変換された上で皇帝に送られていたからだろう。

あの時、ただ、軟禁されているだけだったなら、立っているのがやっとなほど容赦なく力を吸い取られてさえいなければ…何度となく考え、考えるほどに虚しさが募ることだった。

皇帝には私の力を吸収するという目的があったからこそ、私は生かされていた。普通の侵略であったなら聖地が征服された時点で私は恐らく殺されていただろう。皮肉だけど力を吸い取られていたからこそ、私は生き延びることができたのだといえる。だけど、力を吸い取られていたからこそ、襲ってきた凶事を私は退ける事ができなかった。そんな力は残されていなかった…思いはいつも堂々めぐりだ。

皇帝は私たちの宇宙を狩場のように、私を狩の獲物のように扱った。私も私たちの宇宙も搾取する対象でしかなかった。後のことは考えていなかった。支配し統治するために私たちの宇宙を侵略したのではなかったのだから、それも当然だった。

皇帝の目は彼自身の宇宙にしか向けられていなかったと知ったのは守護聖たちが聖地に帰ってきた後のことだ。侵略の動機と経緯を後で聞き、同情する余地はあった。運命に翻弄されたかわいそうな人だったのかもしれない。しかしそれでもアンジェリークは、彼と、死を選ぶ事で結果として彼を棄て、彼に侵略者の道を歩ませた彼の恋人を恨む気持ちが一瞬生じたことは否めない。

その恋人は、自分が死んだ後のことは考えなかったのだろうか。自分が一人勝手に始末をつけるようにこの世を去ることは、結局残された者に見捨てられたような思いと、その人を救えなかった自責の念を残してしまうことを。それがどれほど、残された者の心を苛み、回復できない傷を負わせるかを。

生きてさえいれば、あきらめさえしなければ、いつか再び手を取り合う事もできたかもしれないのに。

皇帝は恋人を失い、復讐のために謀反をおこしたという。しかし、その決起は結局実を結ばなかった。

そして捲土重来を図ってこの宇宙にやってきた。己の力不足が敗北を招いたと信じ、力を強大化するために。だから、私の力を容赦なく吸い取った。

しかし、アンジェリークは思う。本当に彼は力不足でクーデターに失敗したのだろうか。たとえクーデターに成功しても、失った彼の恋人が取り戻せる訳ではないという諦念と自嘲が、振るう刃を鈍らせたということはないだろうか。その恋人が生きていればその蜂起の結末も違ったものになっていたかもしれないのに。

自分の力不足が敗北を招いたのだと、力さえつければ今度は勝てるという考えに彼はすがりたかったのかもしれない。だから力にこだわった。それしかすがるべきものが残されていなかったのだろう。

皇帝の恋人は、時の支配者に後宮入りを命じられ自らの命を絶ったというが、それは土壇場の所で皇帝を信じきれなかったからではないかともアンジェリークは思う。

その女性は、一時、時の王の後宮に入れられても、いつか彼に救ってもらえると信じられなかったのか。彼を窮地に追い込まないためにも後宮に入らざるを得なくてもその意図は汲んではもらえず、ただわが身かわいさに権力者に身を委ねるような女と自分を見なすだろうとでも思い、そう思われることに耐えられなかったのか。それとも、他の男に心ならずであろうとも身を委ねてしまった女は、もう人を愛する資格も愛される資格もないとでも思ったのか…

それは結局、彼を心の底から信じてはいなかった、人間として、男して見縊っていたということではないだろうかとその話を聞いた後にアンジェリークは思った。その女性は、自分の恋人を、彼女の心を汲むほどの洞察もなく、他の男に身をまかせた女はどんな理由であれ許さないような狭量な男かもしれないと僅かでも懸念を抱いたのではないだろうか。彼のことを信じきれなかったからこそ、絶望して命を絶つしかないと思ったのではないだろうか。

自分が同じ立場だったとして、ジュリアスが皇帝の立場だったとしても、自分なら死を選んだりはしないと、アンジェリークは思うからだ。

女として、心ならずも好きでもない男に身体を開けわたさねばならない苦痛はわかる。わかりすぎるほどにわかると思う。

でも、自分が何も言わず一人で死んだら、どれほどジュリアスが嘆き哀しむかと思えば、絶対に自分から死のうなどとは思わない。生きていればまた二人で供に歩んでいける日もくるかもしれない。結果として別れがきたとしても、きちんと自分の気持ちを伝え、力を尽くした末なら辛くても納得できるとも思う。もちろん数えきれない涙の果てであろうが。

でも、最初からあきらめて自分で未来を絶ってしまうのは、同時に彼の未来をも奪うことになってしまうのに…それとも、彼女は彼の未来を奪うことで、彼を永遠に自分一人のものにしておきたかったのだろうか…

人として男として信じてもらえず、皇帝はどれほど無念だったか、絶望に苛まれたか。

本来最も信頼して欲しい人に自分という人間を信じてもらえなかった皇帝は、力にすがるしか己を保つことができなかったのだろう。

皇帝を最後の最後で信じる事のできなかった恋人も、信じてもらえなかった皇帝も哀れだと思った。

そう思った時、アンジェリークは彼を恨む気持ちを捨てられると思った。

そして、今、実際、恨み…のような感情はないと思う。

しかし、胸をかきむしられるような思いが、時折どうしようもなく沸き起こる時がある。

ジュリアスの静かだが激しい愛を感じる時、そして今、オスカーを傷つけていた事実を知り、それでもなお自分に優しく接してくれるオスカーを見る時に、たまさか、アンジェリークはなんともいいようのない感情に揺さぶられ、我知らず涙が零れそうになる時がある。

哀しみと感謝とに似た感情がない交ぜになって泣き出しそうになる。

こんな思いも…いつかは、飼いならすことができるのだろうか…

 

育成が始って二週間ほども過ぎた頃だったろうか。

育成は順調に進んでおり、それに伴い徐々に大地は熱的に活性化し、研究院の分析を容易にしていた。

そんな折、またも夜半の研究院にそれぞれの女王とその補佐官たち、そして年長の守護聖が呼び集められた。

今回女王と補佐官だけでなく、守護聖も召集されたのは、ジュリアスがエルンストにきつく『今後重大な事実が判明した時は必ず守護聖同席のもとで発表するように』と命じたからだ。

アンジェリークがバリアを張ると決めた時、その場に臨席していたとしてその結論を覆せた訳ではないだろうことをジュリアスもわかっている。それでもジュリアスは自分の知らない所で、またアンジェリークがなにか無茶なことを一人で決めやしないか心配だった。

しかし、今夜呼ばれたのは自分たち年長の者だけかと思った時、ロザリアも同じ疑問をエルンストに投げかけた。重大事であるが故に逆に年若い者をこの場に呼ばなかったというエルンストの言葉に、ジュリアスの身中を冷たいものが走る。

今回判明した事実の詳細をジュリアスは告げられていないが、アンジェリークの様子から、女王にはある程度の報告はなされているのようだ。が、それほどアンジェリークに動揺は見うけられない。

なかなか始らない報告に焦燥を感じていると、レイチェルが息せき切って入室してきた。データの確認に手間取っていたらしい。

全員が揃ったところで、この場でにいた者はエルンストとレイチェルから驚くべく事実を告げられた。

この地が新大陸の一部、しかも、それは自分たちの時代に比すると気の遠くなるような未来の新大陸からやってきたものであるらしいという事実だった。

この大陸の土地組成が新宇宙を構成する物質でできており、しかし、自分達が生きている時代にこのような浮遊大陸は存在しない事実から、この大陸は未来の新宇宙から送られてきたという結論を導かざるを得なかったのだということを、レイチェルが噛み砕いてコレットに説明する。

守護聖たちは、即座にその意味する所を理解した。それはつまり時空移動が行われたということであり、そして、宇宙においてその力を有するのは一人その時代の女王のみである。

つまり、この時空移動を行い、我々をこの大陸に召還したのは未来の新宇宙の女王であろうこと。

その女王の力を持ってしても時空移動は命と引き換えにするほどの大事であることから、それほどの犠牲を払わねばならないことが、未来の新宇宙に起きているのだということ。

アンジェリークがその事実を聞いて抱いた感慨は「ああ、やはり…」というものだった。

自分の感じた違和感をコレットたちが感じなかったこと、召還された自分達を繋ぐ共通点はコレットと関わりがあるというその一点であること。全てはコレットに集約されていたからだ。

この宇宙が新宇宙だということが確実になった以上、余計に放ってはおけない、この宇宙に起きている事態はもう他人事ではすまされないとアンジェリークは思う。

聖獣はもともと自分達の宇宙のあった空間に生まれた新たな意志であり、それを一人前の宇宙に育成したのは、ほかならぬこの時代の守護聖たちなのだから。位置する次元も隣あわせだし、もともとこの宇宙の誕生当初から深い関わりがある。

原初の宇宙に力を注いで育てたのが現守護聖だったからこそ、新宇宙の危機に際して、どの時代の守護聖達よりもより強力にストレートに新宇宙に力を作用させられると未来の女王は判じて、今の時代の九人の守護聖を召還したのだろうとの想像もついた。

となると、残された謎はそのただならぬ事態とは何かということと、封印された物の正体だ。

「未来の女王が命を危険に晒してまでこの大陸を遣わしたというなら、その意味を知る必要があるわ。」

この宇宙に何かただならぬことが起きているというのなら、それをなんとか解決してやりたい、自分たちならそれができると見こまれたなら尚更に。

そして、守護聖の力で封印を解ければ、そのただならぬ事態を回避できるのかも知れないなら、一層守護聖に協力を仰がねば。

コレットが私の宇宙の危機に尽力してくれたように、コレットの宇宙がなんらかの災厄に見まわれているなら、そして、私達にその災厄を払う力があるのなら、できる限りのことをしてやりたいと思う。それはアンジェリークにとって理屈ではない心の動きであった。

アンジェリークは引き続きの調査をエルンストとレイチェルに命じた。

この宇宙が未来の新宇宙であり、新宇宙は私達の助けを求めているのだということは、自分から直接他の守護聖と教官たちに告げたほうがいいだろう。

そうすれば、守護聖たちに、コレットへの協力の必要性がより真摯なものとして伝えやすいだろうから。

彼らにとっても、この大陸が自分達が育んだ新宇宙の一部であるとわかれば、そして、育成が未来の新宇宙を救うことに繋がるのかもしれないと思えば、きっと、より真剣に、より親身に謎の解明に取り組んでくれるだろう。

最早、自分たちの宇宙に戻れればいいという段階ではない。

危険に晒されているのは、自分達に深い関わりがある兄弟宇宙だったのだから。

この翌日、早朝に守護聖たちと教官は仮宮に召集され、この大陸が未来の新宇宙のものであり、それは女王の力で時空移動が行われた結果であるということと、そのもつ意味をアンジェリークから知らされた。

より一層のコレットへの協力と励ましの依頼と供に。

 

この大陸が未来の新宇宙のものだと判明しても、とりあえず、守護聖たちもアンジェリークもコレットもするべき事がかわる訳ではなかった。

コレットは育成に励み、守護聖はそれに協力し、研究院は解析・分析に尽力し、アンジェリークはバリアを維持する。

それそれが、自分たちにできることを、着実にこなしていく。それがきっと事態の解明に繋がると思うとアンジェリークは改めて守護聖及び協力者に訓示した。

そして、オスカーもそれは恐らく正しいと思う。順序だてて、けれんを交えず物事を処理していくことは、一見回りくどいようでいながら最も確実な問題対処方なのだから。

迷路に入った時、壁から手を放さず壁にそって進めば絶対に出口にたどり付けることと同じだ。時間はかかるが、闇雲に突き進んだり、勘を頼りに無作為に進むより確実に正解にたどり付ける。情報が絶対的に不足している時は無闇な突進はエネルギーと時間のロスにしかならない。

アンジェリークの判断は、常に地に足がついている。浮ついておらず信頼できる。

そのアンジェリークが、コレットへの協力を要請しているのだから、それに従うことはやぶさかでない。守護聖共通の心情である。

オスカーも、どこの宇宙かわからぬ宇宙より、ここが自分達がその誕生に手を貸した新宇宙だとわかって育成の協力により親身な気持ちが抱けるようになった。だからといって自分の日々の行動に変化が生じた訳ではないが。

昼間はコレットの育成依頼があれば、力を補充したり放出したりする。

お呼びがかからなければ、ジュリアスとアンジェリークの警護に関して打ち合わせをしたり、育成が進むにつれ姿を現した新しい大陸の一部に足を伸ばしたりもしていた。

危険な場所や、危険な物がないか視察するという目的もあったが、自然の豊かな浮遊大陸のあちこちを散策することは純粋に心を癒し軽くしてくれるからだった。

明かに人工の産物であると思われる浮遊大陸だが、だからこそ、脅迫的なまでに豊かな自然が盛りこまれてるのかもしれない、とオスカーは思う。しかし、その自然に心なごむことも事実だった。

オスカーはジュリアスから警護の依頼を受けたときは、ランディやヴィクトールにも協力してもらって、とジュリアスに言っていたものの、実際にはほぼ自分一人でアンジェリークの警護を担っていた。

彼らを信じていないというわけではなく、アンジェリークと少しでも接する時間を自分が持ちたかったからだ。

誰かしらがアンジェリークの傍にいる時はいい。しかし、執務の都合で彼女が一人になる時間もある。そういう時には仮宮に注意を怠らない。

夜こそ本来は数時間置きに巡回したい所だったが、かえってそれではアンジェリークが落ち付かないだろうと思って、就寝前にアンジェリークの無事を確認してから、自分のサクリアを残留思念のように仮宮の周囲にはり、なにか異変がおきればすぐそれと知れるよう警戒を怠らなかった。

毎日、自分一人でこれを行っていたら、さすがにオスカーも体力が持たなかったかもしれない。

しかし、ジュリアスが『今日は自分が陛下の身辺に目を配るから、そなたは休むといい。警護で気が張りづめでは大義であろう?』と自分に声を掛けて来る日があるので、その時はジュリアスの言葉に甘えるという形でアンジェリークの警護を辞退していた。

このいわば自然発生的に生じた警護の分担がオスカーの消耗を抑えていたといえる。もっとも、肉体の消耗は確かに抑えられても、心は逆に乱れたが…

オスカーには、ジュリアスの言葉の意味するところが否応なくわかってしまう。

ああ、今宵はジュリアス様は彼女と過ごす時間が取れたのか…そう知らされ、彼女は嬉しいだろう、心も体も癒されよう、よかった…と思う傍ら、いいようのない寂しさに心が千切れそうになる。

そんな時、オスカーは大陸のあちこちに散策に出かける。コレットを誘いに行く事もある。

それでも、彼女を守るという役割を放棄しようとは思わなかった。あんな弱々しい彼女をみて、その思いは強まりこそすれ、弱くなどなりはしなかった。

アンジェリークが野分に打ち倒される花のようにくずおれそうに見えたあの時から数日間、オスカーはアンジェリークの警護につく際に自分がアンジェリークの視界になるべく入らないよう気を配っていた。

自分の存在が、なぜかアンジェリークには負担になるらしいと知り、だから、アンジェリークの心に波風をたてぬよう、しかし、彼女を守るという役割を他の人間に譲るつもりもなかったので、目立たぬよう一人で警護を続けていた。

そう、これも育成と同じだ。一足飛びに成果を求めてはかえってことを困難にするだけだ。アンジェリークが自分に対して何かわだかまりがあるのは確かだが、それは自分自身の責任ではないと明言してもらえた以上、オスカーはあせるつもりはなかった。心の問題は数式のように割りきれぬ部分も多いだろう。理詰めで問い詰めたとて、いい結果が導ける物でもない。ゆっくり時間をかけて、アンジェリークに打ち解けてもらい、信用を回復し、できれば訳をうちあけてもらって、彼女の抱える問題を解決してやれたら…と思っていた。

だから、少しづつ、少しづつ距離を縮めて行くつもりだった。臆病な野生の牝馬を手なずけるように、あせらず、慌てずこちらに害意がないことを、言葉ではなく態度で伝えていくつもりだった。

もっとも115日の間にコレットが育成を終わらせてくれなければ、もしくは次元回廊が開けなければすべては無に帰す。自分の想いも、彼女の憂いもそのままに…それを思うとどうしようもない焦燥に駆られる。このままで終わらせたくはない。まだアンジェリークの心を開く端緒を掴んだとも言えない状態なのに。

それでも、あせってはだめなのだ。アンジェリークは何かに怯え憂いているような気がする。人間に力づくで心を開かせることなどできない。余計に頑なになるだけなのがわかるから。

しかし、そんなことが数日続いた後、アンジェリークがある夜、自分からオスカーに声をかけてきたことがあった。

「あの、オスカー、良かったら、少しお話してもいいかしら…」

驚いたが、オスカーに異論のあろうはずもない。アンジェリークの私室に招き入れられ、薦められるままに椅子にかけて、アンジェリークの話というのを待った。

アンジェリークは、しばらく居心地悪げにもじもじしていたが、ややあってから心配そうにオスカーを見やってこう話しかけてきた。

「あの…オスカー…私を警備してくれている時になるべく私に姿を見せないようにしてるのでしょう?違う?…あの、やっぱり、私のことを怒っているから?私がオスカーを傷つけていたから…私の警護なんて気が進まないんじゃない?…本当は嫌なのに命令で仕方なくしてるなら、警護を断ってくれていいのよ?私なら一人で大丈夫だから…ジュリアスにもうまく言っておくから…」

おずおずと不安そうに尋ねてきたアンジェリークにオスカーは、自分の行動が今度は逆にアンジェリークを混乱させていたことを知った。

どうする?本当のことを言うか?逡巡したのはほんの一瞬だった。

相手を傷つけまいと本心を偽る言葉はそれが偽りと察せられてしまえば、かえって相手を傷つける。そして不信感を与えることになる。俺はアンジェリークに理由もわからず遠ざけられ、それが辛かった。だが、そのことに言及した時、アンジェリークはその事実を認め、訳は言ってもらえなかったが謝罪してくれた。だから、俺は救われた。が、彼女がそれを誤魔化そうとしたら、俺はもっと傷ついていただろう。同じ怖れのあることをアンジェリークにすべきではない。自分は彼女に信頼されたいのだから。

「あ、いえ、そうではなくて…警護が嫌などとも、ましてや陛下のお姿を見たくないからなどと、考えたこともございません。その…私の姿が見えない方が陛下のお心を乱さずにすむかと勝手をしていたまでです。陛下に対して含む所などなにもございません。私の一人よがりで陛下にご心痛をおかけしてしまいました…申しわけありません」

アンジェリークが驚いたような、安堵したような顔をした。

「そ、そんな…そうだったの…私があんなだったから…オスカーは心配してくれてたの…」

アンジェリークが何か決心したような瞳で、しかし静かに言葉を続けた。

「あの、私、おかげで、よくわかったの…オスカーが傍にいるのをサクリアで感じるのにわざと顔は見せないようにしてるって思ったら、私がオスカーに失礼な事をしてたから、オスカーは私と顔をあわせたくないのかも…って思ってしまったわ。心が痛かった…だから、尚更今まで私がオスカーにどれほどひどい事してたか、余計にわかったの…本当にごめんなさい…」

オスカーはアンジェリークを安心させるように微笑みかけた。

「陛下、お顔をあげてください。いいのです。陛下は私のせいではないとおっしゃってくださった。それだけで十分です。でも、私の存在が陛下のご負担になるのなら、なるべく姿を見せないほうがいいかと、勝手な判断で陛下のお心を曇らせたことを私の方こそお詫び致します。」

「そんな…オスカー…謝らないで。それにほんとにもう何も遠慮しないで…あのね、ほんとは、あなたの姿は見えなくても、時々感じるあなたのサクリアは私を包むようで…私を包むあなたのサクリアはとても暖かかったの…でも、姿を見せてくれなくなったのは、やっぱり気分を害してるからなのかな…それなら、オスカーに無理させちゃいけないなんて思っちゃって…でもそれは私のことを考えて…私のことを思ってくれてたからだったの…オスカーは、ほんとに優しいのね…どうしてそんなにオスカーは優しいの…?」

その時、アンジェリークが何かを思い出したような目をして、ほわっと花の蕾が開くような笑顔を見せた。

「私、昔も同じようなこと、オスカーに言わなかった?女王候補だった頃、オスカーは私の気がつかない処で、私のことを思いやってくれてて、私、それになかなか気付かなくて、ようやくそれに気づいて、オスカー様ってほんとに優しい…ってそう、そう言ったんだわ…今と同じね…私ったら全然進歩がないわね。ほんとにオスカーは昔からいつも私に優しくしてくれたたのね…私があなたの言う所の守備範囲外な子供だった頃から…」

「いや、これは…いつぞやは失礼いたしました。」

オスカーが困ってしまった様子にくすくすっとアンジェリークが笑う。作り物でない、心の底からの笑顔だ。

「いいの、本当のことだもの。それに、私、未だに全然進歩がないってわかっちゃったもの。これじゃいつまでたってもオスカーの守備範囲外のままだわね、私。でも、だからオスカーはいつも私の保護者みたいに私を守ってくれているのね。私はいつまでたっても、オスカーに認めてもらえるようなレディにはなれそうもないけど、でも、昔は女王候補だったから、今は女王だからって理由で宇宙一のプレイボーイから目をかけてもらえるなんて役得があって申しわけないみたい。聖地中、ううん宇宙中の女性からやきもちやかれちゃうわね。ふふ…」

「滅相もない…そんな風に思わないでください。陛下はもう立派なレディでいらっしゃいます。宇宙の誰一人として並ぶ者のない貴婦人でいらっしゃる…」

「お世辞でもそういってもらえて嬉しいわ。じゃあ、私はもう、オスカーにお嬢ちゃんじゃなく名前で呼んでもらえるのかしら?」

アンジェリークが楽しそうに微笑んでいる。こんなたわいのない、それでいて心の暖まるやりとりは久しぶりだった。オスカーは嬉しいような、それでいて、心寂しいような思いを味わう。アンジェリークは自分の言葉をまったく本気にしていない。心の底から今でも自分のことをオスカーの守備範囲外だと信じているみたいだ。

オスカーは心の中で溜息をついた。本当に初心な少女だったアンジェリークを警戒させまいと、子供扱いしすぎたのが徒になったかと、オスカーは思わざるを得ない。ましてや自分たちは外見が大きくかわる訳ではない。アンジェリークも見た目は愛らしい少女のままなのだから、自分に一人前に扱われるとは思っていないのだろうか。

オスカーは女性の価値はあくまでその心栄えにあると思う。外見がいくら成熟していても精神が幼稚なままの女性などいくらでもいる。享楽目的ならそんな女性との付き合いはかえって後腐れがなくていい。しかし、心は動くはずもない。

だが、みかけは愛くるしい少女でもその精神は誰よりもしなやかに強い女性もいるのだ。目の前の彼女のように。そして、それがどんなに希有なことかをオスカーはよく知っている。

アンジェリークは最早、庇護を受けるだけの少女ではない。どんな女性より強く優しい心をもち、今のような状態にも怯むことなく事態を打破しようと進もうとできる彼女は、本当に並ぶ物とてない魅力を放っている。

だからこそ、あの時みせられた消え入りそうな儚さがオスカーには気に掛かるのだ。彼女をそこまで心弱らせる憂いを見過ごしておけないと思うのだ。

「アンジェリーク…」

「え?」

「私を不敬罪に問わないでいただけますか?」

オスカーがにやりと笑った。

「やだ…また、昔みたいに私をからかって…」

アンジェリークが心なしか頬を染める。

「私はいつでも、陛下を名前で及び致しますよ。陛下は本当にすばらしいレディでいらっしゃるのですから。このオスカー嘘は申しません。尤も不敬罪に問われないと約束してくださればですが…いや、その前にジュリアス様のお目玉をいただきそうですが…」

「やだ、もう、オスカーったら、冗談ばっかり…ふふ…でも、ありがとう。」

微笑んでいたアンジェリークが、ふと、不安そうにオスカーを見上げてから、思いきったようにこういった。

「あのね、オスカー…私、自分でも気付かないうちにあなたに、変な態度をとっちゃったり、あなたに不愉快な思いをさせちゃうことがこれからもあるかもしれないの…でも、あの…なるべくそれを気にしないでくれると嬉しいの…変なことお願いして悪いんだけど…」

「では、私からもお願い申し上げてよろしいですか?」

「…言ってみて?」

幾分不安そうな表情をしながらも、アンジェリークは先を促した。

「陛下は陛下のお心のままに振舞ってください。その時感じた通りに振舞ってくださっていいんです。そして、そのことでお心を痛めないでください。私のことを考えるあまりの嘘や誤魔化しはいりません。」

「オスカー…」

「陛下が陛下らしく振舞ってくださる。それが私にはなにより嬉しいのです。そうしてくだされば私は何も含むところなどもたないと約束できます。」

「ありがとう…オスカー」

アンジェリークが感極まったように黙りこむ。

潮時だ、言いたいことは言えた。ここまで言えれば十分だ。

例え、アンジェリークの態度がぎこちない物であっても、自分と一緒にいると緊張していても、それを隠そうとして避けられるよりは、そのぎこちなさをそのままにしてくれたほうがいい。今のアンジェリークは昔のままのようだから、落ち付いて話せた。だが、また緊張が見えたら、その時は自分から距離を置いて、アンジェリークの緊張がとけるのを待てばいい。

そして、アンジェリークも、もし、彼女がそんな感情に突き動かされて振舞ってしまっても、見過ごしてほしいと言ってくれている。それはむしろ、オスカーには嬉しい申しでだった。

自然な状態で振舞ううちに、アンジェリークの抱える心のしこりも解けてくるかもしれない。

本人が隠そうとしている間は端からは打つ手がないが、隠すのをやめてくれれば、解決する糸口もみつかるかもしれないのだから。

「では、今日はこれで失礼致します。陛下…お話できて、嬉しゅうございました…」

そうだ、俺はアンジェリークと関われるなら本当にたわいないやり取りでさえ幸せなんだ、一度失ってしまったと思ったから、余計にこの幸せが身にしみる…

「あの…ありがとう、オスカー…」

黙礼してオスカーはアンジェリークの許を辞した。

この日を境に、オスカーは自然な距離と態度でアンジェリークに接するようになった。

アンジェリークは、時折固い態度や、自分に怯えるような仕草を見せることがあった。いきなり逃げ出そうとしたことすらある。そんな時は彼女を刺激しないようにオスカーは静かに退いて距離をとった。

それでも、アンジェリークは感情を隠そうと無表情になったり、逆に無闇にはしゃぐような振る舞いをすることが格段に減った。

目が合ったときに自分に向けられる微笑みは、まだまだ微かで弱々しくあったが、そして、それはある程度の距離を保った上でのことが多かったが、それは偽りや誤魔化しの笑みとは明かに異なっていた。

オスカーはそれが嬉しかった。

今はそれ以上を望むまいと言聞かせた。

ジュリアスがアンジェリークの許を訪れると知った日は、余計に強く自分に言い聞かせねばならなかったが…

 

オスカーは優しい。恐ろしいほどに優しいとアンジェリークは思う。

今はもう警護の時に彼は姿を隠したりしない。

たまさか、目があうと必ず柔らかく微笑みかけてくれる。

自分はその半分も微笑み返せない。

いきなり踵を返して逃げ出しそうになったことすらある。

それでも、つかず離れず守るように自分を覆う炎のサクリアをアンジェリークは否応なく感じる。

あんなに酷く傷つけていたにも拘わらず、オスカーはその時も今もなにも訳を問い詰めようともしなかった。

そして、オスカーの言葉…自分がオスカーにぎこちない態度をとってしまっても、そのままでいいのだと言ってくれた。むしろ隠さないでいいと。

アンジェリークは今まで何を恐れていたのだろうと思い返す。

オスカーはオスカーなのに。不安にかられて彼を避けたりしないでいれば、彼に無用な苦痛を与えないで済んでいたかもしれない。

それでも、ふと、不意をつかれたようにオスカーがすぐ間近にいると気がついたときなどは、まだ、アンジェリークは体の強張りを感じてしまう。

顔に表情がなくなる。小さく叫びそうになる。

それがわかるのか、オスカーは自分の緊張を感じ取るとさっと距離を置く。すばやく自分の視界から去ろうとする。

オスカーに申し訳ないと思う、済まないと思う。でも、自分の心は自分の思い通りには動いてくれない。

それでも、オスカーが、それを隠したり誤魔化さないでほしいと言ったので、申しわけないと思いながらも、自分の怯えや緊張を隠すために偽りの親しさや笑みをうかべることだけはやめた。

あんなに傷つけてしまっていた人の、なのに、なお一層優しく接してくれる人の願いは、自分が感情を偽らないことだといわれたから。

それでも、オスカーに負の感情を曝け出してしまった時は、どうしようもなく哀しくて、そんな時は無理を言ってでもジュリアスに傍にいてもらった。

ジュリアスは可能な限り、自分のわがままに応えてくれた。

部屋に来てほしいと言えば、できる限り来てくれた。傍にいて、ただ冷たい手を握ってくれる。震えていればいつまでも抱きしめてくれる。何も聞かず、自分からは何も要求せず。

そんなジュリアスの優しさに、かえって切なさが増して、絆を求めるように肌を求めた夜もある。そんな時、ジュリアスは大きな手で包みこむように、慈しむように慰撫を与えてくれた。口付けは羽毛に触れられたように柔らかかった。

みんな優しい…ほんとにやさしくしてくれる…みんなの優しさが私に力をくれる…

ジュリアスやオスカーばかりではない。

オリヴィエは、夜よく眠れるようにとアロマオイルを持ってきてくれたり、気分転換になるよといって、自分にネイルアートをしてくれたりする。

マルセルが、アルカディアに咲いた花を届けてくれる。

リュミエールが、この地の珍しい楽器を見つけましたといって、その素朴な音色をきかせにきてくれる。

この人たちを守りたい、みんなで一緒に帰りたい…その思いは強まるばかりだ。

そんな折アンジェリークは、アルカディアの住人たちの伝統的な祭りというものをオリヴィエから聞いた。

なんでもこの地には守護天使への感謝を込めて雪に祈る雪祈祭という祭りがあるらしい。雪は天使の羽の象徴のようだ。

もっともそう上手く雪が降るとは限らないので、通常は白い鳥の羽を雪にみたてて空から撒き、その羽に感謝の祈りを奉げるらしい。

アンジェリークはその祭りの謂れがわかるような気がした。

この大陸が新宇宙のものであるなら、この宇宙を生み出し育んだ天使は伝説となっていよう。コレットもまた栗色の髪の天使と呼ばれていたのだから。

その話を聞いた時、アンジェリークはこの祭りを開けないものかと住人達の折衝に立っているロザリアに相談してみた。

突如異世界から現れた異邦人である我々。普通の人間とは若干異なる力を持つこともすぐ知れたことだろう。

彼らはそんな我々を排斥するでもなく気味悪がる訳でもなく、むしろ霧を払ったことで感謝し、崇拝すらしてくれているという。

そして、食料その他もいろいろ便宜を図ってくれている。

アンジェリークは思う。コレットの産んだ新宇宙は健やかで優しく育っていると。住人を見ていれば否応なくそれがわかる。

加護天使への感謝を奉げる祭りだというなら、私はこの地に住まう人々にこそ感謝したい。そして、自分を支えてくれている守護聖たちにも自分の感謝を現したい。

そう思ったアンジェリークは、僅かばかりではあるが自分が雪を降らすので祭りを開いてくれないかとロザリアを通じて住人達に提言した。

住人達に異存などない。むしろ、自分達のために祭りを開いてくれるというアンジェリークへの傾倒はより高まり、守護天使に奉げる感謝は、今年は霧を払ってくれたあなた方に奉げるものだとまで言ってくれた。

祭りの夜、アンジェリークが結界内で僅かの雪を降らせたとき、もちろんジュリアスはアンジェリークの傍らにいた。

アンジェリークもそれを望んだし、ジュリアスも一人で雪を見るつもりなどなかった。何より、僅かとは言えまたアンジェリークがサクリアを余分に放出する負担を恐れ、なにかあらばすぐ手を差し伸べられる距離にいたかったからでもある。

仮宮の内庭でアンジェリークの力の発露として落ちてくる雪を二人は肩を寄せて眺めた。

雪は美しく穢れを知らないとジュリアスは言う。その激しいまでの美しさに心惹かれずにはおられぬと。

「雪が天使の象徴であるとは、あまりにあたり前のようで面映いが…そなたの背に時折垣間見える白い羽を雪に見たてるとは、この地の住人は純朴ながら鋭い感性の持ち主なのかもしれん。私がこのような事を言うとセイランあたりに鼻で笑われてしまいそうだがな。」

冗談めかして言ったジュリアスの言葉にアンジェリークはわずかに寂しそうに微笑んだような気がした。

そして、ジュリアスの胸の内に、自分の振らせた雪から隠れるように寄り添った。

黙ってジュリアスはその肩を抱いた。以前に比べれば随分まろみが戻ってきたとそのたびにジュリアスは安堵するのだった。この温もりを決して無為に失うことがあってはならないと、より強く思う。

そしてアンジェリークはジュリアスの大きな手を肩に感じ、暖かく広い胸の温もりに安心したように緩やかに息をつく。だが穢れなき雪に惹かれるというジュリアスの言葉に涙が零れそうにもなる。

でも、この温もりは真実。今、私を包んでくれているこの温もり。そして、自分をとりまくいろいろな人の厚情が私を力づけてくれる…

本来、切迫した日々のはずなのに、皆の優しさに包まれ、自分の周囲はいっそ穏やかともいえる時が流れている。

一致団結してことにあたらねばいけない事態、協力しなければ、そして、互いの力や役割を認め合い、尊重しあわなければ、困難に打ち勝てないとの思いが、守護聖たちに、聖地にいた時より、互いを思いやる気持ちを育んでいるような気がする。

こんな穏やかな感情に包まれているうちに、自分も…いつか、自分も自然に嫌なことを忘れられるかもしれない。傷がきれいにふさがり、その痕も消え去るかもしれない。

今みたいに、触れられると痛む…そんな状態が思い出にできるようになるかもしれない…

だって、少しづつだけど、私、オスカーと普通に話せるようになってきてる。たまにではあっても、心から微笑みかけられる。これなら、いつか、昔みたいに、何の腹蔵もなく笑いあえるようになれるかもしれない…

オスカー、いつも優しいオスカー。オスカーもこの雪を誰かとみているのかしら…どうか、オスカーにもこの一時、穏やかな時間が流れていますように…この雪は私からあなたへの感謝の印でもあるのよ…

アンジェリークは、ジュリアスの腕のなかで、この広く暖かな胸に寄り添える今を感謝する。同時にいつも自分を黙って見守ってくれているオスカーに、申し訳なさとありがたさのない交ぜになった感情を抱いていた。

そして祭りの後はまた同じように日々が過ぎていく。育成は順調であり、バリアも問題はない。

このペースで行けばきっと期限内に封印は解ける。

アンジェリークがこう考え始めた時、思いがけず、アンジェリークは自分の心と対峙させられることになる。

アンジェリークは失念していたのだ。

封印を解こうとすれば、その封印を施した物もまた封印を解かれまいと抵抗を始めるであろうことに思い至らなかった。

育成が順調に進んでいるにも拘わらず、大地はかえって軋むように叫ぶように胎動を始め…のちに、それは霊震と名づけられる…守護聖も含めた人心に動揺が走り始めた時だった。

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