「今朝の会議でわかったと思うが、我々の置かれている状況は予断を許すものではない。とりあえず、猶予は4ヶ月弱あるとはいえ、これはあくまで陛下がそのサクリアと引き換えに捻出された時間だ。一分一秒が貴重極まりない。決して無為に過ごすことがあってはならぬ。」光の守護聖の執務室の続きの間である。
ジュリアスとテーブルを挟んで炎の守護聖オスカーが簡素な椅子にかけている。二人とも、真剣かつ神妙な面持ちで目の前のコーヒーにも手をつけず話し合っていた。
「私も…驚きを禁じ得ませんでした。ここが次元の狭間だったということもですが、その収縮を食い止める為陛下がそのサクリアをもってバリアを張るから、我々に協力して欲しいとおっしゃった時は…」
今朝早く、コレットが育成を始める時刻になる前に、守護聖一同は仮宮の謁見の間に召集され、昨晩ジュリアスが聞かされたのと同様の事実とその対策をアンジェリークの口から聞かされた。数値の詳しい説明はエルンストが請け負った。
守護聖の間にどよめきが起った。
この地が遅かれ早かれ消滅を余儀なくされていることはもちろん衝撃であった。が、それ以上にその運命を可能な限り先送りする為に、アンジェリークがサクリアでバリアを張り、その内圧で空間が収縮する力に拮抗させると聞いたとき、動揺しない守護聖はいなかった。
もともとサクリアが満ちていて、しかも外圧など存在しない聖地を維持するのとは力の用い方が根本的に異なる。
何もないところに一からサクリアを注ぎ、しかも大陸ごと押しつぶしてしまうほどの力に拮抗するほどの圧力でサクリアを維持しなければならないのだ。こんな方法でサクリアを放出すれば、アンジェリークのサクリアは急速に枯渇する怖れがあることを、誰もが即座に理解したからだ。
「納得いかぬ…」
アンジェリークの身を憂いてのことであろう。闇の守護聖が、言葉少なにではあったが間髪いれずに異論を差し挟んだ。
しかし、アンジェリークは彼女の強い意志を静かな言葉で表した。この方法が考えうる限り最善であると自分は思い、また、皆と一緒に生き延びる為に、自分の力を使いたいのだと落ち付いた口調で語った。
『皆が私を心配してくれる気持ちは嬉しいけれど、傅かれて大事にされても皆1ヶ月後に消えてしまっては何にもならないし、私はそんなのは嫌。私は皆と一緒に聖地に帰りたいの。その可能性を少しでも高めるには、こうするのが一番いいと思うの。だから、お願い。私にやらせて。』と。
その穏やかな物言いがかえって揺るぎ無い決意を周囲に感じさせた。
だが、アンジェリークの言葉を聞き、それが理屈としては正しいとわかっても、この提言に進んで賛同の意を示す守護聖はいなかった。かといって、良い代替案もみつけられないので、大きな声で反対もできない。
有効な別の手段を提示することなしにただ反対などしている時間的猶予がないことは、その場にいた全員が理解していたからだ。
結局補佐官と首座の守護聖がアンジェリークの提言を支持し、可能な限りのサポートと協力を約束して後押ししたことにより、表立って誰も反論はできぬまま、アンジェリークがバリアを張ることで、この地に残された時間を可能な限り引きのばすことを、守護聖一同は半ば無理やり了承させられたのだった。
そして、アンジェリークはこの決定を聞くと、ほっとした様子を見せながら幾分申し訳なさそうに
『皆にはこの間にコレットを助けて大陸の育成に協力してもらう訳だけど、私がバリアを維持するのに必要なサクリアも少しわけてもらいたいの。育成でサクリアを放出してもらうのに悪いけど…』
と付け加えた。
我々のことなど心配しなくていいのにと、オスカーはアンジェリークのこの言葉に痛ましさを禁じえなかった。アンジェリークは我らの女王なのだから、指先ひとつで命令を下すだけでもいいのだ。
しかも、その目的はこの謎の大陸の維持のためであって、私利私欲にサクリアを使うわけでもないのに…と思った。しかも、我々のサクリアを徴収するとしても、アンジェリークの性格では、あらん限りというより、ほんとうに最低限必要な量しか、とろうとはしないだろう。
そして、最も肉体的負担が重いのはアンジェリーク本人なのに。
しかし、とにかく決定は決定なのだし、決まった以上はできる限りアンジェリークに協力し女王の肉体的負担を少しでも軽減するしか守護聖にとるべき道はない。守護聖は皆アンジェリークへのサポートを約束して、その会議は終了したのだった。
だが、それでもオスカーは釈然としなかった。
本当にこんな方法しかないのか?
そして、なぜジュリアスはアンジェリークの呈した方法を迷わず採択したのか。
釈然としないからこそ、オスカーはこの事をジュリアスと話あうために、会議が終わったあとジュリアスに声をかけたのだ。
陛下の決定と今後のことについて、少しお話したいのですがと。
ジュリアスも快く承知してくれた。どうやらジュリアスのほうもオスカーに話があるらしかった。
そして今日はコレットが自分たちの所に育成の依頼にこないのを幸いとばかりに今朝の会議について二人は話しているのである。
オスカーは自分が衝撃を受けた事実に関しての言及を続ける。
「我らがあらん限りのサクリアを供出したとしても、その助けなど率直にいって微々たるものです。陛下の身にどれほどの負担がかかるかと思えば、陛下ご自身のご提案とは言え到底諸手をあげて賛成できることではありませんでしたが…」
オスカーはあまりあからさまな非難にならないよう言葉に注意しながら、ジュリアスの出方を見るような提言をしてジュリアスの表情の変化を探ってみようとしていた。
オスカーはアンジェリークに負担を強いることが明かなこの方策をジュリアスが支持したことが不可解だった。
もともとジュリアスは、他人に犠牲を強いるくらいなら、自分が最もきつい、いやがられるような役割をすすんで引き受けるような所がある。それは偏に他人に負担を負わせるくらいなら、自分が背負ってしまおうとするジュリアスの性格故だ。ジュリアスは他人が心労を負う姿を甘んじてみていられない。それくらいなら自分が背負ってしまおうとするだろう。
そんなジュリアスが、アンジェリーク1人に多大な負担をかけることが明白なこの決定を進んで支持したことが、オスカーにはどうしても納得がいかない。しかも、今はジュリアスにとってアンジェリークはただ敬愛する女王ではないこともオスカーは知ってしまっているから、ますます不可解だった。
正直言ってオスカーは、ジュリアスがなぜこんな決定を容認したのか納得しかねていた。だから、その理由をジュリアスの口から聞きたくて、声をかけたのだ。
もちろんオスカーも理屈として、アンジェリークの言っていることは理解していた。
最善の方法ではないことは確かだ。だが、他にこれといって有効な手立ては見つけられない現在の状況では、アンジェリーク一人に負担を負わせるこの方法は、ある意味宇宙にとっては一番リスクの少ない方法であることも確かだった。
代償となるのは現女王のサクリアとその体だけで、それを犠牲にすることで、残りの守護聖の生き延びる確率は飛躍的に高まるのだ。
不慮の事故で女王や守護聖が死んでしまった場合、予め定められた期間が過ぎるまでその守護聖の座は空白となってしまい、サクリアの流れは多いに乱れるが、サクリアが濫費であろうと、自然に衰え潰えた場合なら、この心配はない。
アンジェリークのサクリアが衰えれば、潜在的に女王の素質を持つ女性のサクリアが顕在化するので新しい女王が選出されるだけである。
守護聖と異なり、現女王のサクリアが豊富な場合、顕在化しないというだけで女王候補というのは同時代に何人も存在する。恐らく今の時代もアンジェリークの安定したサクリアの庇護を受け、身中にサクリアが眠っていることもしらずに過ごしている少女は幾人もいよう。
アンジェリークが身中のサクリアを使い果たせば、そういった少女のうちの何人かに女王のサクリアが顕在化し、新しい女王が選出されるだけだ。
そして、無事、守護聖は生き残り、アンジェリークのサクリアは枯渇しようと、宇宙は新しい女王を迎えることにより、つつがなく問題なく運営されていく。
一人アンジェリークが聖地から立ち去る時期が早まる可能性を高めるだけで、宇宙の平和が保たれる可能性は格段に高まるのだ。執政者としては、最低のリスクで最大の効果がみこめる。
だから、執政者としての立場にあるアンジェリーク本人がこの結論を出すのは理解できる。
女王として自分たちの宇宙を保つという高所大所に立った義務感からだけでなく、アンジェリークという女性は、身近な者を助けることができると思えば自分の在位を犠牲にすることや身体に負担を強いることに躊躇いをもたないだろう。そういう彼女の強い優しさをオスカーは良く知っている。
アンジェリーク自身は、たとえこの一件でサクリアを使い果たし、聖地を去ることになろうとも悔いはないかもしれない。むしろ本望かもしれない。
自分の治世と、皆が無事生き延びられることを秤にかければ、彼女は間違いなく、自分の今後の治世などなげうつだろう。結果として皆が助かれば、笑顔さえうかべて聖地を去っていくかもしれない。
だが、彼女を犠牲にして自分たちが生き延びたいなどと考えた守護聖がいるだろうか。
例え、自分たち守護聖は宇宙の為には死ねないという大義名分があろうともだ。
他の者はどうだかわからない。
だが、少なくともオスカー自身は、アンジェリークの犠牲の上での命を永らえても嬉しくはない。
アンジェリークは、物ではないのだ。
アンジェリークにサクリアがある限りはそれを搾り取れるだけ搾ってこの大陸を維持させ、サクリアが喪失すれば、もう用なしとばかりに聖地からアンジェリークを去らせるのか?
少なくとも自分オスカーはそんなことを平気で見過ごせない。それで宇宙がつつがなく平和が保たれるとしても。
守護聖や女王をサクリアの器としてしか扱わないようなやり方はオスカーの最も忌避するところである。
それでは、乳が出なくなれば屠られる家畜のようではないか。自分だったらそんな扱いを受けるのはいやだ、とオスカーは思う。だから、アンジェリークをそんな風に見られないし見たくもない。
その人間が有益な時はちやほやし、そうでなくなれば掌を返す、そんな観点でしか人を見られないのは哀しい、心貧しいことだとオスカーは思うし、自分はしたくもされたくもない。
そんな扱いをアンジェリークに強いるくらいなら、この後の宇宙がどうなろうと、皆で一斉に滅びてしまってもいいとさえ、ちらりと、本当にちらりとではあったがオスカーは瞬時考えたくらいだった。
決してジュリアスやアンジェリークには言えないことであるが。
それに、ちらりとでもこんなことを考えてしまうのは自分の心が弱いからだということも、実のところオスカーはわかっている。
アンジェリーク一人に負担を強いて生き延びるという負い目に自分の精神が耐えがたいから、いっそなにもかも投げ出してしまえというような考えが一瞬でも頭をもたげたのだ。
自分たちが背負っている命の重さ、責任の重さを考えたら、簡単に投げ出したりしていいものでないことをオスカーとてわかっている。
アンジェリークの決意は、立派なものであることも本当はわかっている。
オスカーも自分たちの宇宙に対して責任感も愛着もある。アンジェリークは尚更だろう。簡単にそれを投げ出そうとするわけがない。自分たちを可能な限り生き長らえさせる事こそ宇宙の安泰に通じるのなら、そのために代償を出すのもやむをえないと考えるだろう。
そして、自分の体に負担をかける事に迷いも見せず、周囲の人間を救おうとするアンジェリークの利他精神はオスカーには目がくらむほど眩しく感じられる。
だが、犠牲となるアンジェリークがこの決意を自ら行うことと、その結果を享受する立場にいるジュリアスがアンジェリークの提言を進んで推すこととは意味が異なるとオスカーは思う。
守護聖としてもとの宇宙に生きて帰ることは義務といえる。
しかしその守護聖の義務を果たすためにはアンジェリークの体に多大な負担をかけなければならない。
いくら義務を果たすためとはいえ、他人に負担を強いるとわかっている行為を、ジュリアスが進んで推したことがオスカーにはどうしてもわからないのだ。
他の守護聖のように他に選択の余地がなさそうなので、仕方なくで賛成したのではない。ジュリアスは確かに進んでアンジェリークの提言を支持したのだ。
ジュリアスは高邁な人間だ。他人の犠牲の上になりたつ恩恵をこれ幸いとばかりに抜け目なく享受するような精神はジュリアスと最も遠いところにある。
1歩譲ってジュリアスとアンジェリークの関係が単なる女王と守護聖のそれなら、ジュリアスがアンジェリークのサクリアを犠牲にしても皆が生き延びる確率を高める選択をしたことをオスカーも納得したかもしれない。
実際執政者として、それは正しい選択なのだから。
だが、今、オスカーは、ジュリアスとアンジェリークの間に流れるものに気付いている。
それを思うと、ジュリアスがアンジェリーク一人に負担を負わせることをよしとしたことに尚更納得がいかないのだ。
元々、ジュリアスは情の熱い優しい人柄である。ましてやアンジェリークは、女王であることを抜きにしても、恐らくジュリアスの生涯において、今最も大切で愛しむべき存在であろう。
にも拘わらず、最終的にジュリアスは大義の前に、迷いもなくアンジェリークをスケープゴートとして差し出すことを承認したのだろうか…オスカーの胸に疑念がわきあがっていく…もしそうなら自分はジュリアスを今まで通り尊敬できるだろうかと、オスカーは暗雲のような疑惑を打ち消すことができない。
恐らく今まで愛する存在を持ち得なかったジュリアスにとって、女王と言うことを抜きにしても、アンジェリークはどんなものにも替え難い宝であるはずだ。
そして今思い返せば、アンジェリークの隣にはいつも静かに、だが、確固として彼の人は彼女の最も近くに佇んでいた。いつでも彼女を守るように、控え目に、だがふつふつと溢れるような想いを湛えながら彼女に寄り添っていた。
それを首座の守護聖としての義務感と忠誠心ゆえと自分は思っていたが、それは自分がそう思いたかったからにすぎなかったことを今のオスカーは知っている。
いつも彼女を守るように、慈しむように最も近くにいることが、ジュリアスの熱い情と愛の現れなのは、今や火を見るよりあきらかだった。
そして、自分オスカーは、今までのジュリアスのあり様を思い返してみて、ジュリアスは確かにアンジェリークを誰より何より大事にしてくれ、最も力強く支えることのできる存在だと思ったのだ。
そう自分に言聞かせる事で、暴れ出しそうになる自分の心に改めて封印を施したのだ。
ジュリアスならアンジェリークを支えることができる、アンジェリークを任せられる、そしてアンジェリークもそれを望んでいるのだからと。
なのに、そう思ったのは、自分の思い違いだったのか。
アンジェリークは、皆を自分の力で守りとおせたら結果として聖地を去ることになっても満足かもしれない。
だが、その満足感の影に哀しみが存在しないわけがない。聖地を早々と去ることで、アンジェリークが泣かない訳などないのだ。皆の命を救えてよかったと思えても、だからといって涙を流さないわけはあるまい。
もし、自分がアンジェリークと同じ立場なら、可能な限りサクリアを長持ちさせて、愛する人とできる限りの多くの時を一緒に重ねてゆきたいと、祈らずにはいられないだろうからだ。
例え、愛する存在を救う事ができても、それが、自分たちの別れと引き換えでは、あまりに哀しすぎるではないか。
そんな、哀しい結果が予想される選択をジュリアスが進んで後押ししたというのが、オスカーにはどうしても解せないのだ。
もし、ジュリアスが守護聖という取替えのきかない人間を助ける為に、それは宇宙の安寧のためであったとしても、大義のためにアンジェリークとの愛を棄て、アンジェリークの愛につけこむような行為を進んで支持したのなら、自分はジュリアスを許せるだろうかとオスカーは思う。
アンジェリークがジュリアスを愛することを、ジュリアスがアンジェリークを愛することを認めることができるだろうかと思う。
例え、彼女自身が望んだとことだとしても、どんな大義があろうとも、その愛につけこみ利用するようなことを、男ならするべきではないとオスカーは思うのだ。
そう思ったオスカーは、ジュリアスの心の底が知りたくてこの話題をジュリアスになげかけた。
だが、もし、ジュリアスが、そういう人間だったとしても、自分はいったいどうすると言うのだ?何ができるというのだ?とオスカーは同時に自嘲気味に自分に問いかけていた。
大義のために、愛する女に犠牲を強いるような男を、上司として敬愛できるのか?それより、アンジェリークの伴侶としての資格があるのか?自分には、そんな男にアンジェリークの、いや、アンジェリークに限らず女性の愛を受けとる資格はないと思う。それは自分の信念ともいえる。
だが、だからといって、アンジェリークにあなたは相応しくない、とオスカーはジュリアスに言いきることができるだろうか。アンジェリークに、ジュリアスのことなど思うのはやめろということができるだろうか。そしてアンジェリークに、自分のことを見てくれと、ジュリアスの替りにこれからは自分が君を守ってみせる、君の側に俺がいつもいるとでもいうつもりなのか?そんなことはできはしない。アンジェリークに自分が愛されているどころか、壁のような隔たりを置かれてしまっているこの身にそんな資格はない。
例え、自分自身が納得いかなくても、だからといって、ジュリアスの替りに自分が愛されるわけではないのだ。
だから、ジュリアスの意図をはかることに、本来は意味はない。
たとえジュリアスが大義のためにアンジェリークを犠牲にすると判断したとしても、それでもアンジェリークはジュリアスを愛しつづけているのだと知れば、かえって苦しみは増すだけかもしれない。
そう思いながらも、オスカーはジュリアスの出方をみるような意見をぶつけずにはいられなかった。
だから、わざわざ、『アンジェリークの決定は諸手をあげて賛成できるものではない』と控え目な表現ではあったが、異を唱えたのだ。
異を唱える事で、アンジェリークの決定を明確に支持したジュリアスを言外に非難することになるが、あえてそうしたのだ。
もし、ジュリアスが自分の意見を正当化するようであれば。
宇宙のために女王の犠牲は致し方ないこと、むしろ天晴れなのことだなどとおためごかしに意見をぶつようであれば。
もしくは、アンジェリークの提言だからと、なんの検討もせず鵜呑みするように支持したのなら。
オスカーは、そのどれでもあって欲しくないと思いながら、それでも疑念が棄てきれず、ジュリアスの様子をじっとみつめていた。
痛い所を突かれたことでジュリアスが激昂してくれれば、かえってジュリアスの意図がわかる。オスカーはジュリアスの表情を注意して見つめ続けた。
しかし、ジュリアスは激昂もしなければ、慌てふためいて自己正当化もしなかった。
ただ、ジュリアスの顔に僅かの間ではあったが懊悩がよぎった。秀麗な眉が哀しげに曇り、紺碧の瞳に明かな苦悩が見て取れた。
注意深くジュリアスの表情の変化を観察していたオスカーには、それがはっきりとわかった。
いつも迷いのない瞳をしているジュリアスをよく見知っているからこそ、一瞬ではあっても懊悩と逡巡の影が落したジュリアスの表情の曇りにオスカーは気付いた。
しかし、次の瞬間その懊悩は見事に公式見解の顔に覆い隠された。
そして、言葉を飲みこんだような一瞬の沈黙の後、ゆっくりとかぶりを振りながら抑揚のない声でジュリアスはこう答えたのだった。
「……仕方…あるまい…ありとあらゆる可能性を考え、我らが生き延びる確率を思えば、陛下のなさりようが最善だという事は疑いが挟めなかったのだから…我らの宇宙の為にも女王と守護聖が一度に失われる危険は可能な限り避けなくてはならぬ。となると、よりリスクの少ない方法をとるしか道はなかったのだ…」
オスカーに、というより、自分自身に言聞かせているようだった。諦めなくてはと思いながら諦めきれていない、そんな煮えきらない口調だった。
これは建前だ。オスカーは即座にそう断じた。
理屈から言えばジュリアスの言はまったく正論だった。守護聖と女王が一度に失われでもしたら、我らの宇宙はどうなってしまうのか、想像もできない。
もしこの大陸もろとも守護聖が皆消滅すれば、宇宙を支えている9つの力すべてが一度に消滅することになり、それぞれのサクリアをもつ次代の守護聖がいつ現れるのかまったくわからない、いわば暗黒時代がどれほど続くかもわからないという事態になってしまうのだ。
どれほどの天変地異が起きるか考える事すら憚られる。
もちろん、人一倍責任感の強いジュリアスなら、このような理由で女王の体に負担をかけざるをえないとしても、宇宙を救うためといえば周囲は納得する。
その危険性と、この時代の一人の女王の健康を損ね、治世が短くなるかもしれないリスクとなら、後者をとることのほうがずっと理にはかなっているのだ。
女王を一人の人間として考えなければ、ひとつのコマのように考えるのなら、これは正しい。
だが、オスカーは今、ジュリアスとアンジェリークが情を通じあわせる仲であることを知っている。
そのジュリアスが、アンジェリークをサクリアの器としてしか、宇宙を守護する者としてしか見なさないような決定を支持したことが納得いかなかったから、声をかけた。
だが、オスカーには今、はっきりわかった。
ジュリアスとて心底納得してこの結論を受け入れた訳ではないのが、一瞬の表情から読み取れた。
おそらくジュリアスの葛藤は誰よりも深く激しいのだ。感情を押し殺した物言いに逆にそれが嫌というほどわかってしまった。
「そして、これは陛下のたってのご希望でもあったのだ…私は陛下のお望みなら、できる限りかなえてさしあげたいと思ったのだ…」
絞り出すような言い方だった。
「陛下が皆で一緒に聖地に帰りたいとおっしゃったことですか…」
ジュリアスは黙って頷いた。
オスカーには、ジュリアスの思いが漸くわかったような気がした。
恐らく、ジュリアスとアンジェリークは昨晩のうちに、もう嫌というほどこのことについては話し合っていたのだろう。
そしてジュリアスは今でも心底から納得しているわけではないが、アンジェリークのたっての望みを受け入れ…アンジェリーク自身が言っていた…皆で一緒に聖地に帰りたいのだと…その望みを実現する為にできる限り彼女を支えると思うことで、ジュリアスは、アンジェリーク一人に負担を負わせるという事実に心の中で折り合いを図ろうとしているのだということが、オスカーにも感じられた。
ジュリアスは大義のために、アンジェリークの犠牲をよしとしたのではない。
アンジェリークの望みをかなえるために、感情としては認めたくないことであるにも拘わらず、アンジェリークの意を汲んで進んで支持に回ることを約束していたのだろう。
オスカーはほぅ…と静かにつめていた息をはきだした。
やはり…やはり、ジュリアス様は女性の愛につけこむような方ではなかった…結果として彼女より大義を重んじる形をとらざるをえなかったのは確かだが…ジュリアス様としてもどうしようもないことだったのだ。
ジュリアスが自ら進んでアンジェリークの提言を支持しなければ、他の守護聖も追随しなかっただろう。だから、ジュリアスはあの時迷わず彼女の支持に回ったのだと、今、オスカーは得心した。
安堵すると同時に一抹の寂寥感を覚えたが、これはすぐに押し殺した。
よかったではないか、ジュリアス様が大義のために一人の女性を犠牲にすることを進んでよしとするような人間ではなくて。むしろ彼女の心からの望みを叶えるために自分の感情を抑えたのだろう。
ただ、それでもこの事実はアンジェリークにもジュリアスにも、多大な精神的負担をかけることは否めない。
思いもよらぬ事態にまきこまれ、こんな方法しか選べなかったこの恋人たちが哀れでしかたなかった。
ジュリアスがアンジェリークの願いを聞き入れて、自分の感情を殺したように、それなら、俺はこの恋人たちが少しでも長い時間思いをまっとうできるようにしてやりたい。
オスカーは強がりではなく、心の底からそう思った。
そして、そんな自分が意外だったが、すぐにこうも思った。
そうだ、それが結局はアンジェリークの幸せに通じるのだと信じられるからだ。
オスカーの秘めた決意もしらず、ジュリアスが言葉を続ける。
「だからな、オスカー、私は考えた。我々にできることはなにか?陛下の身心の負担を減らすためになにができるか。一刻でも早く封印が解ければ、陛下の体に負荷が掛かる時間はそれだけ短くなる、そうだな?」
「その通りです。」
「だが、我々に封印を解く術はない。それができるのは新宇宙の女王のみだ。となると、我々にできることは、とにかく彼女が育成に専念できる環境を用意してやること。それしかないのではないかと思うのだ。彼女には義務感を忘れないようにしてもらうため育成の明確な目標値を示しながら、だが、プレッシャーに押しつぶされたり、育成を嫌がってなげだすようなことがないように、息抜きや、目標が達成された時は褒賞を与えたり、賞賛したりしながらやる気を維持してもらわねば…」
「それで、ジュリアス様は、会議の最後に、新宇宙の女王となるべく親交を図り、彼女に優しく接するようにと注意されたのですね?」
「…新宇宙の女王は心優しいおとなしやかな女性だ。だから義務感と責任感だけで縛ってはかえって萎縮しかねない。しかし、どうあっても彼女には育成に専念してもらわねばならない。育成以外のことで彼女を煩わせるのは得策ではないだろう。そして彼女のやる気を維持するために、守護聖は精神的サポートを惜しみなく行うべきだろう。それが曳いては陛下の身心の負担を軽減することになると思うのだ。」
ジュリアスは顔をあげ、オスカーをまっすぐに見据えた。
「そして、これは直接陛下の御身のためになるのだが…オスカー、人員不足は承知の上でたのみたい。陛下の身辺警護の体勢を組んでもらえないだろうか。」
「もちろんです。陛下をお守りするのは、私の義務であり、それ以上に喜びです。この地にいるものに警備や警護のできるものはあまりおりませんが、私を筆頭にヴィクトールやランディにも協力してもらって交替で警備を行う体勢を作りましょう。」
「そうか…そなたに任せておけば安心だ…」
ジュリアスはほっとしたように息をついた。
「この地には危険な生物は見出されておらぬし、陛下はバリアを張っているから大丈夫だと仰せなのだが、聖地でさえ万全でなかったことがわかっている今、どんな小さな油断もすべきではないと思うのだ。私は、あの聖地が堕ちた日のことも、聖地に再び皇帝が現れたあの衝撃も忘れられぬし、忘れてはならぬと思う。我らが泰平の気の緩みから陛下にかけてしまったご苦労、再び、しかも聖地で陛下の命が狙われるにまかせてしまったあの時の己のふがいなさ、いたらなさは、忘れようとしても忘れられぬ、いや、忘れてはならない、そして、二度と繰り返してはならないのだ。」
「おっしゃることは、よくわかります。我々守護聖は、陛下の安定したお力の元、それを甘受することに慣れすぎていました。その結果、陛下を長きにわたり虜囚の身におとしめてしまった…そして皇帝が復活したときも陛下はお一人で黒き波動の発生源を探りあてられ、今回もまた、陛下はお一人でその身をもって、我等を守ろうとしてくださる…陛下の白い翼の許、その庇護にぬくぬくと甘えているだけでは、あまりに男として情けないものです。」
「ああ、陛下の身心の負担は我らには計り知れぬ。せめて休息される時はすべての憂いを取り払って安心してお休みいただきたいのだ。私がつねに側にいて守ってさしあげられればいいのだが、そうもいかぬしな。そなたもいろいろ忙しいとは思うので、私がどうしても陛下に御目配りできぬ時だけでもいい。陛下の身辺にいろいろ気を配ってさしあげて欲しいのだ。」
この方は本当は、毎日毎晩でも自分自身で彼女を守りたいのだ。でも、秘密裏の関係のうえ、それぞれに上に立つものとしての仕事もあるから、それも適わない。
その替りに俺を信頼して、彼女の安全をまかせてくれるというのなら、俺はその信頼に応えねば、とオスカーは義務感ではなく、心からそう思った。
「はい、ジュリアスさま、この身にかえましても陛下は私がお守りしてみせます。」
ジュリアスがふ…と微笑んだ。
「それはだめだ。陛下は我らがこの身を犠牲にして陛下をお守りすることをよしとはされぬ。そなた自身の身を守った上で、陛下をお守りするのだ。」
「これは厳しい…いや、違うな…本当にお優しい方ですね、陛下は…」
「ああ、あんな方にはもう二度と巡り会えぬだろうな…だが、今、私は陛下に御仕えでき、陛下と同じ時を歩んで行けるわが身を幸運だと、幸せだと心から思う…思わぬ日はない…」
オスカーに聞かせるというよりは、一人言のようにジュリアスがつぶやいた。
「それは…私も同様です…」
オスカーもしみじみと相槌をうつ。胸に抱く思いはジュリアスと同様だったから。
「では、警護の細かい打ち合わせに関しては陛下と直接相談してくれ。陛下は自分で自分の身は守れるからなどと、すぐ遠慮して一人で無理されようとするから、そなたはそれに負けてひいてはならぬぞ、オスカー。」
「御意。では、これから陛下の許に参内して参ります。」
「ああ、頼んだぞ、オスカー。」
オスカーは一礼してジュリアスの執務室を出た。
こんな事態にも拘わらず、アンジェリークと合法的に過ごせる時間が増えるかもしれないという事実に心が踊ってしまう自分を我ながら度し難いと思う。
いや、単純に喜ぶ前に、アンジェリークとなんとか胸を割って話したい、アンジェリークの身を纏う膜のような隔たりの正体を突き止めたい。
これはいい機会だ。
彼女が自分の警護が信用あたらぬと思って心に隔てを置いているのなら、今度警護を任されたことは失地と失われた信頼を回復するいいチャンスだ。
彼女が警護を不用と思うなら、自分の失態を素直に詫びて、どうにでも気のすむよう処分してくれとオスカーは言うつもりだった。
きっちりと過去を清算しないでいるから、いつまでも変な蟠りが解けないのだろうと、そうなのだろうと信じたかった。
オスカーは早速その足でアンジェリークのいる仮宮にむかった。
「陛下、失礼します。」
「あら、オスカー、いらっしゃい。」
謁見の間にはアンジェリーク一人しかいなかった。
アンジェリークは仮宮にやって来たのがオスカーだとわかったその一瞬、能面のように表情がなくなっのをオスカーは見逃さなかった。しかし、すぐ次の瞬間、アンジェリークはにっこりオスカーに微笑みかけた。
「どうしたの?今日はなんのご用かしら?」
あからさまではない、むしろ、必死に隠そうとしている。しかし、透明な薄皮のような隔たりがあることをオスカーは感じざるを得ない。
アンジェリークの声は相変わらず愛らしかったが、どこか作り物めいた明るさをオスカーはかぎとってしまう。それに以前は訪れた用向きなど問われなかったような気がする。いつもお茶やおしゃべりに歓待されて逆に公用を忘れてしまうほどだったのに。
用件だけ報告させて、早く俺を返したいのだろうか…どうしてもオスカーはそんな風に感じてしまうのだ。
やはり、陛下を守りきれなかった俺を陛下は疎んじておられるのか。最早信頼に当たらぬと見限っているが、優しい陛下はそれを俺に悟られまいとするので、なにかぎこちないのか、早々と帰そうとするのかと、思いはどんどん雪崩をうって悪い方へと転げ落ちて行く。
だが、落ちこんでいてもこの事態を打開できる訳ではない。補佐官のロザリアがいないのは…恐らく現地住民との折衝にでも出かけたのだろう…はチャンスといえる。
「陛下の護衛をジュリアス様からおおせつかりましたので、そのご挨拶に…」
オスカーはなんとか感情を表さずにアンジェリークに最敬礼の姿勢をとる。
「ああ、ジュリアスから聞いてます。私はいいって言ったのだけど…」
困ったように、くすりと笑んでアンジェリークは付け加えた。
「ごめんなさいね、オスカーを煩わせて。育成のお手伝いやコレットとのお付き合いで忙しいでしょう?私は自分で自分のことはできるからって言ってるのに、ジュリアスは信用してくれないのよ。そんなに頼りないかしら、私。」
そんなことはないと言わせて護衛をやんわりと断るつもりなのだろう。ジュリアスからアンジェリークが護衛をつけることに乗り気でないと聞いていなければ、誘導されてしまったかもしれない。オスカーはあえて明確な返答を避ける。
「我々守護聖の仕事は、まず陛下のご安泰を守ることですから。それ以上に大切なことなどありません。」
「そう…そう言ってくれて嬉しいけど、忙しい時は無理しないでね。あなたたちが今一番力を割かなくてはいけないのは育成のお手伝いなんですもの、それ以外のことに煩わせるのは申し訳ないのよ。」
「我々は陛下に安心して休んでいただきたいのです。そのために、俺に…いえ、私にできることをさせていただきたい。煩わしいなどと露ほども思ってはいません。むしろ陛下をお守りできることは私の喜びです。」
「でも…」
どこまでもアンジェリークは警護はいらないと主張する気のようだ。守護聖を育成以外の用件で煩わせたくないというのは半ば以上アンジェリークの本心かもしれない。しかし、警護するのが俺でなかったらここまで彼女は警護を受けることに難色を示しただろうか、とどうしてもオスカーは思ってしまう。
やはり彼女は俺を側に置きたくないのか…しかも、もっともらしい理屈で俺を遠ざけ様としている、遠ざけたいのなら、せめてその本当の理由をきかせて欲しい。オスカーは思いきって真正面から自分の懸念をアンジェリークにぶつけてみようと思った。
「陛下、陛下は私が信用できないから、私の護衛など必要ないとお思いかもしれません。実際私は先の闘いの折、陛下をお守りすること能わず、聖地が堕ちるにまかせてしまいました。聖地の警護責任者として取り返しのつかない失態を侵してしまい、そのことに関して言い訳する気は毛頭ございません。そのことで陛下が私の力を信用ならぬと見限るお気持ちも、お腹立ちのお気持ちも重々承知しております。しかし、その上でお願い申し上げます。今一度陛下の信頼を取り戻すチャンスを私にお与えいただけないでしょうか。私の失態にお腹立ちならいかような処分でも甘んじてうけます。ですから、どうかこれを限りに私をお見捨てくださるな…」
一気に懇願した。自分で自分が見限られていると口にださねばならないのは、身を切られるより辛かった。しかし、今言わなければ、ずっとこのままの状態が続くのか?それはもっと耐え難い。
アンジェリークの顔をみるのが恐ろしかった。そこに図星を言い当てられてうろたえるアンジェリークの顔をみるのが怖かった。それでもオスカーはまっすぐにアンジェリークを見据えた。
そして実際アンジェリークは激しく動揺していた。とてもショックを受けたようで声が震えている。
「どうして?どうしてそんな風に思ったの?私、オスカーのことを信用できないなんて、見限ったなんてそんなこと考えたこともなかったわ!」
思いもよらなかったことをつきつけられた、そんな感じだった。しかし、オスカーはアンジェリークの言葉は自分を気遣い、自分に本心を悟らせないための誤魔化しだと思った。
「いいのです、陛下。お気遣い下さるな。あの闘いのあと、陛下は私に何かわだかまりをもたれた。それがわからぬ私ではありません。私が陛下をお守りしきれなかったことに失望、落胆、信用の失墜、立腹、そんな感情をお持ちになるのは無理からぬことです。ですが、それならはっきりと叱責なさってください。何も言われず、ただ、見限られることのほうが私にはつらい。そしてお優しい陛下はその気持ちを隠すためにか私を遠ざけ様と、距離を置こうとなさっているように私には感じられるのです。叱責されることより私には隔てを置かれることのほうが、より苦しく耐え難いのです。勝手は承知の上で、重ねてお願い申し上げます。どうか、陛下のお気の済むようにいかようにもご処分下さい。その上で、もう一度私に機会をお与えいただくわけには参りませんか…」
オスカーはアンジェリークの裁定の言葉を待った。これでだめなら仕方ない…しかし、オスカーは次の瞬間心底驚愕した。うろたえるのはオスカーの番だった。
アンジェリークが大粒の涙をぽろぽろ流して「ごめんなさい、ごめんなさい、オスカー」と堰を切ったように謝りながら泣きじゃくり始めたのだ。
「へ、陛下…どうなされたのです…」
オスカーは、自分は大抵の突発事態に対処できる人間だと今まで思っていた。しかし、今突然激しく泣きじゃくるアンジェリークにどう接していいのか、何をいうべきかまったく思い付かなかった。
オスカーは馬鹿みたいにつったっていることしか、こんなつまらないセリフしかいえない自分に自己嫌悪を感じながら、いったい何がどうしたのかまったくわからず途方にくれた。アンジェリークはなおもしゃくりあげながらオスカーに謝罪の言葉を続けている。
「ごめんなさい、オスカーにそんな風に思わせていたなんて、本当にごめんなさい。でも、信じて。私オスカーのこと、信頼してないとか、怒ってるとか、ほんとうにそんなことは一度も考えたことなかったの。あのことも…オスカーが悪いんじゃない。誰もどうしようもなかったことよ。だから自分を責めたりしないで。オスカーは何も悪くないのよ。悪いのは私なの…」
「陛下…なにを…」
アンジェリークの言っていることが理解できない。そんなオスカーの戸惑いも気付かぬ風でアンジェリークはただひたすら、わだかまっていたものを堪えきれずに吐き出すようにひたすら同じ謝罪の言葉を繰り返す。
「私が悪いの。オスカーにそんな風に思わせてしまった私が悪いの。そんなつもりじゃなかったの…ごめんなさい。ごめんなさい、オスカーをそんなに悩ませていたなんて知らなくて…ごめんなさい…」
なおもあやまり続けようとするアンジェリークは、その場にくずおれてしまいそうなほど脆く見えた。会議の時の凛とした女王の姿はそこにはなかった。
それは一人の打ちひしがれた女性だった。哀しみ、怯え、慄いていて、理屈抜きに手を差し伸べずにはいられない…そんな存在。
何がここまで彼女を心弱らせたのかまったくわからない。しかし、彼女の様子を黙って見ていることなどできなかった。勝手に体が動いていた。
「もういい!泣かないで!もう泣かないでくれ、アンジェリーク!」
オスカーは夢中でアンジェリークのことを思い切りその胸にかき抱いてしまった。きつくきつく抱きしめる事で謝罪の言葉を紡ぎ出す唇を封じたかった。
アンジェリークがひゅぅっと音をたてて息をのむ気配にはっと我に返った。自分の腕の中でアンジェリークが小刻みに震えながら、身を硬く強張らせている。オスカーはアンジェリークの体を慌てて手放した。
「も、申しわけありません…また、陛下の信頼を損ねるようなことを…」
アンジェリークは息も絶え絶えな様子で、それでも気丈にオスカーを気遣う素振りを見せる。
「い、いえ…そんなことはないわ、心配しないで…だって、悪いのは私なんですもの。どうか許して、ごめんなさい、オスカー…」
自分の腕に一瞬でも抱かれて動揺していないはずがない。瘧のように震えていた体がそれを示している。それでも、動揺を押し殺して直も謝罪しようとするアンジェリークがオスカーは哀れでたまらなくなった。どうして、そこまで俺に気遣うのだ?もういい、こんなアンジェリークを見てまで、アンジェリークの気持ちを暴きたいのではないのだ。
「ああ…私がおかしなことを言ったばかりに…申しわけありませんでした。あのような世迷言で陛下のお顔をかように曇らせてしまい…私の勝手な思いこみで…真に申しわけありませんでした」
「いいえ、いいえ、悪いのは私なの。オスカーは全然悪くないの。なのにオスカーにそんな風に思われるようなことを私がしてたんだわ。だけど、信じて。私、オスカーに失望したとか、そんなこと本当に思っても見なかったの…」
「陛下、陛下のお言葉を信じずして、守護聖はどうやって生きて行けましょう」
「ごめんなさい、オスカーは本当に悪くないの。私が悪いの…オスカーを悩ませて、苦しませて…本当にごめんなさい…」
「ああ、どうかもうお謝りにならないでください…顔をおあげになってください…」
「どうか、どうか信じて、信じてとしか言えないのだけど…」
アンジェリークは祈るように手を組みあわせ、すがるような瞳でオスカーを見つめていた。
オスカーは自身の動揺を懸命に抑えこみ、アンジェリークの言葉を改めて考え直してみた。なるべく理路整然に、冷静にと、自分に言い聞かせながら。
アンジェリークは自分オスカーが誤解しても仕方ないような態度だったことを認めている。認めているから謝っているのだ。そして、その訳は自分が思っていたようなことではないらしい。ここまで無防備な様子で何かを取り繕えているとは思えない。しかし、誤解を招くような態度をとった訳は自分には言えないらしい…
本当は訳を知りたかった、しかし、一介の守護聖である自分が女王を詰問などできるはずもない。
地位の問題を抜きにしても、こんなに心弱り、怯えているような女性に尋問のように、本人が隠したがっているらしいことを、オスカーは問い詰めたりしようなどと思えなかった。
「陛下、お顔をお上げ下さい。私などのために、どうかそのお顔を曇らせないでください。あのような世迷言は二度と口にいたしませぬので…」
「本当に本当にごめんなさい…」
ジュリアスに事後を託したほうがいいだろうか。今のアンジェリークはあまりにか弱く、か細く、消え入りそうに儚げに見えた。自分ではアンジェリークの心を強くしてやれない。自分がいる限り彼女は何かわからぬ自責の念で自分を責め続け、もっと心弱るだけだ。かといって、こんな状態のアンジェリークを一人置いて退出する気にもなれない。
「陛下、その、誰かお呼びいたしますか?ジュリアス様でも…」
「だめ!ジュリアスには何も言わないで!お願い!」
鬼気迫るほどの激しい言葉だった。オスカーがその勢いにたじろぐほどだった。
「…わかりました。その…私はここにいても陛下のお心を乱すだけのようですので、これにて失礼いたします。」
「あ…オスカー…」
アンジェリークは一瞬オスカーを呼びとめるように腕をあげかけ、しかし、結局そのままその腕を下におろした。
「私めの警護はお許しいただけますか?」
アンジェリークは黙ってこっくりと頷いた。
「それだけ、お許しいただければ十分です。では…」
一礼してオスカーはアンジェリークの許から立ち去った。
自分の執務室に帰る道すがら、混乱している頭をオスカーはどうにかなだめようとしていた。
これでよかったのか、正直言ってオスカーはわからなかった。
自分はアンジェリークの信頼を失ったわけではなかったらしい。しかし、それでは、アンジェリーク自身も認めている、今までのぎこちない態度の説明がつかない。しかし、どうやら本当の訳はいいたくないらしい。そしてアンジェリークは重ねて自分の責任ではないということを訴えてくれた。それを信じぬ理由はない。というより信じるしかオスカーに救いはない。
本当の訳はまだわからぬが、それでも、今までの状態よりは一歩前進かもしれない…オスカーは思い返す。なにか、彼女は激しい苦しみを抱えているような気がしてならない
そして彼女は自分の抱える苦悩をジュリアスには知られたくなさそうだった。本来最も頼りにすべきジュリアスをあんなに心弱った状態にも拘わらず、呼ぶことを頑なに拒んだことからそれが察せられる。
ということは、ジュリアスでは、アンジェリークのこの苦悩を開放することは難しいだろう。悩みの本質を知らせないでそれを解消することなどできないのだから。
それなら…1歩退いた位置にいる俺にできることはないだろうか。
なんとかアンジェリークの胸襟を開きたい。彼女の抱えている苦しみを解き放ってやりたい。
あんな心弱り、哀しそうな、苦しそうな彼女の姿は見たくない。見ていられない。
ジュリアスに打明けられないなら、そして、ジュリアスとの関係に気付いている自分になら、なにか、密やかに目立たぬように、手助けができるのではないだろうか。
いや、それより、単純に自分が何かしたいのかもしれない。彼女が苦しんでいるなら、それをなんとかしてやりたいと思うのは未だアンジェリークに思いを寄せているオスカーには当たり前の感情の帰結であった。
オスカーがこんなことを考えていることを思いもよらず、アンジェリークはオスカーが立ち去った後も、同じ姿勢のまま一人呆然と佇んでいた。
滂沱のように溢れる涙がどうしても止められなかった。