汝が魂魄は黄金の如し 7

この浮遊大陸は何処の宇宙に属しているものなのか。

ある限りのプローブを飛ばしては、それが持ち帰るデータをエルンストは朝から分析し続けていた。

そして、ある結果がでるたびに、今までのデータを破棄して、新たに計算に取り組むという行為を数えきれぬほど繰り返していた。

嘘であって欲しい…これはなにかの間違いだ。どこかに、この結果を否定できる数値があるはずだ。

そう思いながら、何度も調査結果を精査した。

それははじき出された結果を否定したい一心ゆえであった。不休の解析を続ける。どこかにきっと見落しがあるはずだ。この結論を覆す基本的な要因が抜け落ちているに違いない。何度エンターキーを叩いても同じ演算結果をだすコンピュータに苛だちを隠せず、違う結果が導き出せないか、ありとあらゆる異なるアプローチからデータにアクセスしつづけた。

研究院のスタッフには交代で休みをとらせたが、機材もコンピュータも一秒たりとも休ませない。まる一日かけて…最早日付のかわろうという時刻だった…どんな角度から何度計算を試みようと最初から出ていた結論を否定できないことがわかったとき主任研究員の薄い唇から、うめくような吐息が零れた。

もともと血色のいいとは言えない顔色は完璧に色を失い、普段は怜悧なほど知的な光を宿した瞳に、今は光がない。

研究スタッフはこんな様子の主任を見たのは初めてだった。

「…至急、女王陛下と、新宇宙の女王にご報告申し上げたいことがあるから研究院にお越しいただけるようにと、補佐官どのに伝えてくれ…こんな時刻に申し訳ないが一刻を争うからと…」

絞り出す様な口調で部下に命じると、エルンストはどっかと事務椅子に深く座りこみ顔を手で覆った。

脂の浮いた顔と、コーヒーの飲み過ぎでねばつく口中が不快だったが、こんな不快さなどいかほどのものであろうか。

喉もとにこみあげてくる絶望を必死に押さえこむ。

落ち付け、落ち付くんだ、私がうろたえても事態が変わるわけではない。むしろパニックを誘発するような態度は絶対に慎まねばならない。

御前報告する時には筋道たて、冷静に事態を告げてみせようと、エルンストは頭の中で報告内容を構築した。

 

「こんな遅い時間にお呼びたてして申しわけありません。しかし事態は一刻を争います。」

王立研究院に集まったそれぞれの宇宙の女王とその補佐官を前にしてエルンストはまず詫びてから、即座に本題に入った。

悪い結果ほど、誤魔化さず、迅速かつ簡潔に報告すべきだとの信念を持って。

「この浮遊大陸が次元の狭間に存在していることが明らかになりました。」

「な…嘘でしょ!エルンスト、次元の狭間っていったら別名死の空間じゃない!そんなことって…」

さすがにレイチェルの反応は早かったが、他の3人は次元の狭間のもつ意味合いを把握しかねているようだったので、エルンストは今自分たちが置かれている危機的状況を淡々と、客観的な事実のみを冷徹とも言える態度で説明した。

曰く、次元の狭間は遅かれ早かれ周囲の空間に吸収され消滅してしまうこと、そして、この大陸が存在している次元の狭間は今現在急速な収縮を始めており、このままの速度で収縮が続けば、この次元は30日後には大陸もろとも消滅してしまうのが明かなこと。

「消滅を余儀なくされた空間…だから死の空間なのね…」

ロザリアが一語一語そのもつ意味を確認するように、思考を言葉に変える。

レイチェルはあからさまに度を失ってうろたえ、この酷い告知を行ったエルンストを感情的に責めたてる。

コレットはただ呆然として、何も言葉がでてこないようだ。

アンジェリークももちろん衝撃を受けていた。

30日後にはこの大陸もろとも私たちは皆消えてしまう?あとかたもなく?

いきなりの死の宣告にも等しいエルンストの告知にレイチェルがうろたえる気持ちはわかる。でも、逆上してエルンストの態度を攻めたとて、事態が変わる訳ではない。ましてや、こんな絶望的な告知を行うことをエルンストだとて平気な訳はあるまい。自分自身もその当事者であり、こんな嫌な事実を告げる役割など引き受けたい訳がないだろう。しかし、事実に目を瞑り、報告を怠るのは破滅への道程を加速させるだけだ。むしろ、努めて冷静さを保った上で動かしようのない事実を、考えうる限り迅速かつ客観的に告げようとしたエルンストの態度は賞賛されるべきものであり、決して非難される筋合いはない。

レイチェルは存外に脆いとアンジェリークは思わざるを得ない。コレット失踪の折も意外なほど精神的な脆さを見せたが、これは新宇宙が今まで困難らしい困難をかいくぐり、その対処をしてきた経験がないからだろう。本当の意味で挫折も蹉跌も経験したことがないから、いざ、自分の手に余る事態に放りこまれた時、どうしていいかわからなくなってしまうのだろう。そして、事態を告げたエルンストにすべての責任があるかのようになじるのだ。

他者を攻めることで自分の気は一時晴れるかもしれないが、それはなんら根本的解決にはならない。恐らくレイチェルもそれはわかっているはずなのに、そうせざるを得ないところが彼女の弱さであり脆さである。心にかかる負荷を自分のうちに溜めることができずに、すぐ撥ね退け様とするのは、それだけ器が脆く小さいからだ。

今、しなければいけないことは、うろたえ逆上することではない。問題点と、その効果的な対処法を考えることだ。こうしている間にも時間はさらさらと掌から零れ落ちていき、とり返すことはできないのだから。

女王試験のとき、ジュリアスが教えてくれたようにアンジェリークは考えてみる。問題点を明確に把握しなければ、その効果的な対応策も見出せないというジュリアスの言葉が蘇る。

考えるのよ、アンジェリーク。今直面している困難は、つきつめて言えば何?

問題は次元が縮まってしまうこと。風船が萎むように小さくなっていっているということ。

なら、その対策は?なにか、手立てはないの?

どんなことでもいい、自分たちが生き延びる可能性を高める方策はなにかないの?

なんとか次元回廊を開くことができれば、最低限自分たちが助かることはできるかもしれないが、根本的な解決ではない以上、これは最後の手段とすべきだろうとアンジェリークは考える。

30日で次元回廊を開く手段がみつかるとは限らないし、自分たちが、何も見ない振りをしてこの地から逃げ出すことは、より悪い事態を引き起こしかねないからだ。封印を解かずにこの地を去っても再度この地に召還されない保証はない。自分たちを召還したものの強引さを思えば、封印を解かない限り何度でも自分たちをこの地に呼び寄せかねない。その時残された時間は今よりもっと少ないかもしれないのだ。

それなら、とにかく封印を解く可能性を高めなくては。

30日でこの地の封印を解けるという可能性は低いだろう。あまりに期間が短すぎる。

今日一日、コレットはとりあえず育成に励んでくれた。最初のこととて、今日大陸に送ることができたエネルギーは数値にして100くらいだったらしい。

彼女の体に一度補充してからサクリアを放出することを考えれば、毎日エネルギーを送ることは難しいだろうから、これからも平均した一日の育成量はせいぜいそんなものだろう。それを休みなしで大陸に注いだとしても、どう考えても30日では絶対量が足りない。

それなら、この期間を引き延ばすことはできないか…そう考えたとき、アンジェリークに天啓のようにある考えが閃いた。そして、自分がこの地に召還された本当の意味と期待される役割も。

風船がしぼんでいくのなら、膨らませればいいんだわ。内側から。

「おちついて、レイチェル、ここは私に任せてちょうだい。」

そしてアンジェリークは、自分のサクリアでバリアを張り、その内圧で収縮しようとする力に拮抗できないかということをエルンストに提言した。

エルンストが一瞬救われたような顔をしたが、すぐに前以上の懸念顔になり、アンジェリークをおし留める。

「いけません、そんなことをすれば陛下のお体に多大な負荷がかかることになります。とても王立研究院として認めるわけには…」

「こんな時に自分の体のことなんて考えられないわ。次元の狭間の収縮速度を抑えられるのは私だけなんですもの、がんばらなくちゃ。」

別に悲壮な覚悟を抱いている訳でも、ヒロイズムに酔っている訳でもない。自分の体を労ったとしても30日後に消滅してしまっては元も子もないからだ。生き延びる可能性があるなら、少しでもその確率をあげるためにできることをするだけだ。

私、全然、迷いがない…生き延びるたためとはいえ、体に負担がかかるのは確かなのに、全然平気、どうしてなのかしら…アンジェリークは自分でも不思議に思う。

女王や守護聖が一斉に消滅してしまったら、私たちの宇宙はどうなってしまうのか心配だから?それも確かにある。だけど、それだけじゃない。私、そんなに立派じゃない。本当は真っ先に考えたのはそのことじゃない。誰にも言えないけど…私に迷いがないのは、それは私が生きることを、生きる為の努力をすることを多分彼が望むだろうから。

こんな時頭に思い浮かぶのは、常に自分のことを真っ先に考えてくれる彼のこと。彼ならどうするだろう。何を望んでどう行動するだろう。ついそんなことを考えてしまう。

彼なら、わが身かわいさに皆がみすみす虚無の空間に飲みこまれてしまう危険をそのままになどしないだろう。きっと、皆が生き延びるために、できる限りのことをしようとするに違いない。

そして、彼は私が生きることも望むはず、きっと。理屈でなく、そう信じられる。

彼のためにも私は生きたい。そして彼をむざむざ虚無の空間に飲みこませるようなこともしない、絶対に。そのためにできることならなんでもする。今一時自分の身をかわいがって、皆もろともに消えてしまったら、悔やんでも悔やみきれない。そんなことは絶対にいや。

むしろ、そのための力が今自分にあってよかったとさえ思える。

なおも反対意見を言い募ろうとするエルンストを、ロザリアが遮った。

陛下のサポートは私がしますからと…

ロザリアはわかってくれている。

今、近視眼的に女王である自分の体を労ることは、結果として、破滅への近道になってしまうこと。

今しなければならないことは、生き延びる可能性を高めること。

そのために、自分の負荷をできる限り減らす様尽力するとロザリアは言ってくれているのだ。

本当はエルンストもわかっていた。こうするのが考えうる限り最善の方法なのだと。

ただ、それを手放しで喜ぶことが感情としてできない、許されないことだということを彼もわかっているだけだ。

自分たちが生き延びる可能性を高めることは、女王の命を削るような犠牲の上に成り立つとわかっていて、どうしてそれを手放しで歓迎できようか。

むざむざ死を待つのはもちろん到底容認できない。自分から何も働きかけず、運命を呪い嘆くだけでは動物にも劣る。どんな動物でさえ、死の瞬間まで生きる努力を放棄することはしない。しかし、他者の、しかも、敬愛する掛け替えのない存在を踏み台にするような真似をしてまで、自分たちの生き延びる可能性を高めることを、全面的に喜び同意することなど、そんな人間として恥かしい真似ができるはずがなかった。

だが、アンジェリークは、これ見よがしな悲壮感も、使命感も漂わせず、ただ自分のできることをするのだというすがすがしい決意を湛え、穏やかな笑みさえ浮かべている。

自分がここにいる意味があってよかったとさえ思っているようだった。

エルンストの身中を、より熱く深い敬愛の情と、比類なき忠誠心が満ちていく。この時代にうまれ、この女王に仕えることのできたわが身の幸運を噛み締める。

エルンストはわが身を戒め、引き締めた。

女王の意を無駄にしてはいけない。

女王にしかできないことがあるように、我々はそれぞれにできることを懸命にすることで、この女王の恩に報いるしかないのだから。

エルンストは、アンジェリークのサクリアを数値化してデータにインプットし、計算しなおした。

「陛下のお力で収縮を最大限食い止めたとして、115日、ここまで引き伸ばすのが限界でしょう」

「そう…115日…」

エルンストは、なにかふっきったように頭をあげると、冷静に、だが、はっきりとそれぞれの役割無分担について述べ始めた。

「いずれにせよ、現在我々にできることは限られています。王立研究院は次元回廊を開くことに尽力するとともに、アルカディアの解析をすすめます。陛下にはバリアを維持していただき…」

ここまで言って、僅かにアンジェリークに痛ましげな視線を送った後、エルンストはコレットに強い視線を投げた。

「アンジェリーク、あなたにはこの大陸の育成に専念していただきたい。」

コレットはわかってくれているだろうか。自分の役割の重要性を。いくら周囲が尽力したとて、陛下がその身を削ってこの地を維持したとて、あなたが義務を果たしてくれないことには、その全てが無駄になってしまうことを。

どうか、どうか陛下のお心を汲んでほしい、そして、自分しかできないことをきちんと行って欲しいとエルンストは祈らずにはいられなかった。

そしてアンジェリークがこの場を取り纏めた。

「大変な事態にまきこまれてしまったけど、諦めさえしなければ光は見えてくると思うの。このことはみんなには私から伝えておくわね。明日から、一緒にがんばっていきましょうね。」

アンジェリークは、この場にはいなくても影のように自分に拠りそうジュリアスの意識を感じていた。彼ならどうするだろうと自分へ問うことで、アンジェリークはいつも、自信を持って裁可を下すことができるのだと思っている。

彼はこのことを聞いたらなんと言うだろう。きっとまた無茶をすると言って最初は私を叱るだろう。でも、結局これが最善なのだとわかってもくれるだろう。

そう、どんなことでも諦めさえしなければ、きっと活路は見出せる。例え死んでしまいたいと思うような事態にみまわれることがあっても…あの時、そう決めたから。決して諦めないと。あの時に比べたら、今はずっと希望があるのだから。

皆に解散を命じて、アンジェリークも自分の私室に引き上げていった。

 

「アンジェリーク!こんな真夜中にどこに行っていたのだ!部屋におらぬから心配したぞ。」

私室のドアを開けたとたん、厳しい叱責口調の声が耳に飛び込んできた。

「ジュリアス!来てくれてたの?」

アンジェリークは気にした風もなく、ジュリアスに笑顔を向ける。

ジュリアスは一瞬反射的に微笑みを返しそうになって、慌ててしかつめらしい顔を作るとアンジェリークに説諭を始める。

「こんな遅くにどこに行っていたのだ?ロザリアのところかと思えばロザリアもおらぬし。このような時間に外出するのは感心せぬ。姿を現した住民はみな純朴で他意のなさそうな者ばかりだが、この地に未知の危険が潜んでないとは限らぬのだぞ?あまり…私を心配させてくれるな…」

アンジェリークが霧をはらったせいか、コレットが僅かではあっても育成を始めたからか、恐らくはその両方なのだろうが、もともとこの大陸に住んでいたという住民が、この日、霧の中から姿を現していた。

今は害のある生物は発見されていないが、育成がすすむにつれ住民が姿を現したように、そう言う類の生き物が出現しないという保証はない。

昨日の今日ということでまだオスカーと警護の打ちあわせもしていなかった。

一日目は育成の経過をみることと、その結果現れた住人たちとの折衝や、事務処理で終わってしまった。近衛がいる訳でもないこの地で、ジュリアスはアンジェリークの身を案じて今夜も様子を見に来たのだった。

ところが、真夜中だというのに、アンジェリークが自分の部屋にいない。ロザリアのところかと思えばロザリアの部屋も不在で、ジュリアスは一人所在の知れぬアンジェリークを案じてやきもきしていたのだった。

そしてアンジェリークは、ジュリアスのその心の動きが目に見えるようにわかってしまうので、厳しい口調にも反発は感じず、逆に笑みが浮かぶのだ。

「一人じゃなかったし、危ないところになんて行ってないから安心して、ジュリアス。実はエルンストから呼び出されて王立研究院で報告を聞いていたの。」

「なに?何か、新しいことがわかったのか?!」

「ジュリアス、これは私、明日話そうと思っていたことなんだけど…」

そしてアンジェリークはエルンストの報告をほぼそのまま繰り返してジュリアスに伝えた。

「この大陸が次元の狭間にあり、しかも、30日後の消滅が避けられぬというのか…」

さすがのジュリアスも言葉を失っている。

「なんとか、そなただけでも元の宇宙に返せぬものか…どうにかして次元回廊を開くことはできないのだろうか…」

「エルンストは次元回廊を開く方法を最優先で探すと言っていたけど、それがこの30日の間に見つかる保証はないわ。それに例え次元回廊が開けても私は私だけ助かるなんて嫌よ、ジュリアス。帰る時は皆で一緒に帰るの。絶対に。ね?でも30日はあまリに短いわ。封印を解くのも次元回廊を開く手立てをみつけるにも。だから、私考えたの。なんとか、この期間を延ばせないかって。それで思いついたの。この街を覆ったようにバリアを大陸全体に張って内側から支えるようにすれば、収縮を遅くさせられないかしらって。そしたら、私のサクリアでバリアを張れば30日を115日まで引き伸ばせることがわかったの。約4倍よ。きっと謎が解ける確率も元の宇宙に帰れる確率もずっと高くなるわ。」

「な…なんだと?!」

晴れ晴れとした口調で事の成り行きを話すアンジェリークに、ジュリアスは一瞬絶句した後、大音響の雷を盛大に落した。

「なんという無茶を!そなた、それがどれほどその身に負担をかけるかわからぬ筈があるまい!この大陸全体に、しかも、次元の収縮力に拮抗するほどの内圧でバリアを維持などしたら、そなたのサクリアが滅する時期が早まるだけではない!体がぼろぼろになってしまうかもしれぬのだぞ!」

サクリアの無理な放出は、湧水を無理やりポンプでくみ上げるようなものだ。いくら源泉が豊かであろうと、自然に涌き出る量以上に汲み取ろうとすれば枯渇も早まるし、地盤沈下のような弊害がおきる。

自然に満ちる以上にサクリアを放出しようとすれば、それに見合う代価も必要になろう。何もないところからエネルギーは抽出できない。それはつまりアンジェリークの生命力自体をサクリアに変換して放出することを意味する。

ジュリアスは即座に部屋から出て行こうとした。

「ジュリアス、どこに行くの?!」

「きまっている、王立研究院だ。首座として女王陛下の身に多大な負荷をかけることを許す訳にはいかぬ。エルンストに言って他の方法を探させる。」

「だめ、それじゃ間に合わない!そんなことしてる間に次元はどんどんしぼんでいくのよ!」

ジュリアスはアンジェリークに向き直ると、きっとした表情できっぱり断言した。

「それでもだ。なぜ、そなた一人が己の身を犠牲にしなければならぬ?誰も犠牲にならずにすむ方法はないのか?なぜ、誰もそなたの提言に疑問を挟まなかったのだ?私がその場にいれば、そんな、そなた一人にだけ負担を負わせる方法を絶対許したリはしなかったものを!」

最後の言葉は最早叫びに近かった。

「ジュリアス、ジュリアス、お願い、おちついて!」

ジュリアスは苛立たしげにかぶりをふると、アンジェリークの細い肩をがしと痛いほどに掴んだ。

「なぜ、おちついてなどいられる?アンジェリーク、私をかいかぶるな…私は…そなたが、愛する者がその身を、その命を削ってこの世界を支えることを目の当りにして平気でいられるほど強くはないのだ…」

「ジュリアス…」

「頼む、アンジェリーク、考えなおしてくれ。首座として女王の身を案じての言ではない。そなたが目の前で消耗して行く姿を見るのを…それを手を拱いて見ていることなど、私には耐えられぬ。ましてや、そなたがその身を削って保つこの地でのうのうと過ごすことなど、そんな人として恥かしい真似は私にはできぬ。なぜ、誰も異を唱えなかったのだ…そなた一人に犠牲を強いることを恥じるものは誰もいなかったのか…」

苦渋に満ちた声音を絞り出すと、ジュリアスはアンジェリークの体をきつく抱きしめた。

「こんなに細く華奢なこの体をこれ以上削るような真似をしたら、そなたはいったいどうなってしまう?…漸く回復してきたと思って安堵していたというのに…やはり、だめだ!そなたの身を儚くするような所業を認めるわけにはいかぬ!」

しかし、アンジェリークの声はどこまでも穏やかだった。

「ジュリアス、でも、あなたが私の立場ならきっと同じことをしたはずよ…」

ジュリアスは痛ましげな瞳でアンジェリークを見下ろした。アンジェリークはジュリアスに穏やかに訴える。

「勘違いしないで、ジュリアス、私は自分を犠牲にする訳じゃない。自分を殺すつもりはないわ。私は皆と一緒に生きたいの。皆と一緒に聖地に帰りたいの。そのためにできることをするだけ。自分の身を大事にしてもらっても、結局30日後に消えてしまうんじゃ、なんにもならないもの。」

「アンジェリーク…」

「あのね、ジュリアス…私、あなたに会えないでいた間、考えたことがあるの…」

刹那、アンジェリークの表情に恐ろしいほど凄惨な影がよぎったように見えたのは、目の錯覚か?ジュリアスはアンジェリークに気圧されるように黙った。

「今度会えたら…もし、生きて会えたら…できる限る一緒にいられるよう努力しようって。私たちがいつかお別れすることになったとき、悔いることのないように、いられる限りはずっと一緒にいられるようできる限りのことをしようって。もちろん、あなたも私と同じ気持ちでいてくれてるってことが前提だけど…」

いつか来る別れのことを忘れる日は一日としてない。意識して考えることはなくとも、決して脳裏から消去することはできない。僅かに互いに肌を合わせ、愛しあう喜びに我を忘れる瞬間だけが、それを考えないでいられる時間なのかもしれない。互いになるべく考えない様にし、決して口には出さないことでもあった。しかし、アンジェリークは今敢えて、このことに言及する。

「私の治世は結果として短くなってしまうかもしれない。でも、何もせずに30日後にみんなで消えてしまうなんてもっといや。できることがある限りはするわ。あなたを、皆を虚無の空間に飲みこませたりしない…だから、わかって、ジュリアス。私は自分を犠牲にするんじゃないの。あなたと一緒にいられる時間を少しでも延ばすため、一緒に時を重ねていける可能性を少しでも多くするために自分にできることがあるならしたいの。これは、私がしたくてすることよ。仕方なくとか、いやいや強制されてすることではないのよ。」

「しかし…しかし…」

なおも苦渋するジュリアスにアンジェリークは微笑みかける。

「私のことを心配して他の方法を探そうとしてくれる気持ちはとても嬉しいわ。でも他の方法を探す間にもどんどん時間は過ぎて行ってしまうわ。結局いい考えがないとわかったとき、残された時間が10日足らずだったら?それからバリアを張っても、伸ばせるのはせいぜい3、40日といったところでしょう?この程度では封印を解くことはおろか、次元回廊を開く術も見つけられないかもしれないわ。だから、今からできることをしないとだめなの。みんなで生きて帰る為には、今から動かなくちゃだめなの。私たちは…私も守護聖もこんな所で消えてしまう訳にはいかないわ。そんなことになったら私たちの宇宙はどうなってしまうの?だから、皆で生きて帰らなくちゃだめなの。本当はジュリアスもそのことはわかっているでしょう?それに、何より私はあなたと一緒に聖地に帰りたいの、ジュリアス…」

「アンジェリーク、そなたの言っていることはわかる。確かにそれは正しいかもしれぬ。だが、それでも私は……」

「大丈夫、私一人でなにもかも背負う訳じゃないわ。ロザリアも潜在してるサクリアを放出してくれるって言ってるし、私だってなにもないところからバリアは張れないわ。そのためのサクリアは皆から遠慮なくもらうから。みんなのほうが大変かもしれないわよ?育成にもサクリアを出して、私にもサクリアをとられて…ね?」

わざと明るく振舞うアンジェリークに、ジュリアスは自分自身でも扱いきれない感情に激しく魂をゆすぶられる。

彼女を不憫と思うほど傲慢ではない、哀れと思うほど高所にたつ人間でもない。ましてや、彼女の行為を当然と思えるわけもなく、単純に感謝することもできない。

ただ、その潔さに圧倒される。その責任感、慈愛の心の豊かさは計り知れない。そして、この迷いのなさは地位に伴う責任感だけからのものではない。可能な限り自分と生を重ねていくためだと言いきられ、逆に、自分はそこまで彼女に思ってもらうほどの人間かとジュリアスは自問したくなった。

これほどに迷いなく愛され、これほどの決意を愛する女がしているのだ。

この決意を無駄にするのは彼女の本意ではない。高潔な彼女の魂を曇らせるような振る舞いはすまい。

「わかった…もう何もいわぬ。私もできる限りのサポートをする。ただ、ひとつだけ私のいうことも聞いてほしい。」

「なに?ジュリアス?」

「この宮に夜だけでも、、私のこられぬ時だけでもいい、護衛を置いてくれ。オスカーに命じておくから…」

「いらないわ!」

即座に驚くほど強い口調でアンジェリークがジュリアスの言葉を遮った。

「アンジェリーク?」

その勢いに驚くジュリアスにアンジェリークもはっとしたように一度黙りこんでから、今度は落ち付いた声音でしかし、同じ言葉を繰り返した。

「あ、いえ、護衛なんて必要ないわ、ジュリアス。ここには危険な人や動物もいないみたいだし…」

「そんなことは今の時点ではわからぬではないか。いくらそなたがバリアを張っているとはいえ、逆に一度バリアの内部に侵入されたら、一たまりもないのだぞ?」

「自分の身は自分で守れるわ!あの時みたいに力を吸い取られてる訳じゃないんですもの!」

アンジェリークが彼女にしては苛立たしげで神経質な素振りで、かぶりをふる。声のトーンにとげとげしいものをジュリアスは感じ、いぶかしく思う。

「どうした?なぜ、そんなに頑なになる?それは、今、そなたは確かに力を取り戻してはいるが、バリアの維持で消耗するのは確かであろう?そなたの消耗を少しでも減じるためにも、夜は安心して休んでもらいたいのだ。私がともにいられる時はいいが、そうとばかりも限らぬしな。それに、有体に言って、警護に関してはオスカーのほうが余程適任であろうし…」

「私は一人でも平気よ、それに、みんなも育成でサクリアを放出するのに、無理させられないわ…皆にこそちゃんと休んでもらいたいし…」

アンジェリークがどこか歯切れ悪く抗弁する。

「そなた一人がサクリアを枯渇させる怖れも顧ずこの地を維持するのに、己の無理や疲れをいい訳にするほど恥知らずなものは守護聖のうちにはおるまい。頼む、私のためにも護衛をつけてくれ。私が一緒にいられぬ日だけでもよいから…」

「わかったわ…なるべくジュリアスが一緒にいてくれるのね、それなら…ジュリアスのこられない日だけなら…」

納得はいかぬが、あからさまに不承不承という呈でアンジェリークはそっぽをむいて、言葉だけ肯定の返事を返した。

「何が不満なのか、私にはわからぬが…そうやって拗ねていると子どものようだぞ?」

「だって…」

「私がそなたのためにしてやれることは決して多くない。せめて、できる限りの事をさせてもらいたいのだ。」

「それなら…」

アンジェリークはジュリアスにぎゅっと抱き付いた。広い背中に腕を回して、その身を引き寄せ様とする。

「こうして一緒にいて!ずっと抱きしめていて!それが一番嬉しいの。そうしてもらえれば私は…私は…」

突然頤を摘み上げられ、アンジェリークは触れるだけのキスを落された。

「抱きしめるだけでよいのか?私はそれだけでは、少々寂しいが…」

「やだ…ジュリアス…」

アンジェリークは、つい今しがた強引なまでの抱擁をしかけた時とはうってかわって、頬を染めて瞳を伏せる。心の揺れを表すようにふるえる睫を見るうちに、ジュリアスの身中に息苦しいほどの愛しさが満ち溢れていく。

「そなたが望むならいくらでも抱きしめよう。この腕はそなた一人のためにあるのだから。抱きしめるだけでは私は少し物足りないが我慢するから、安心するがいい。」

アンジェリークの頬を大きな掌で撫でるように包みこんで、軽く微笑みかけた。

アンジェリークは困ったような瞳で否定の言葉を発する。

「そ、そんなこと言ってない…そういう意味じゃないの…」

「では、どうしてほしい?してほしいことはなんでも言ってくれ。」

「じゃ、今夜も一緒にいてくれる?」

アンジェリークがジュリアスを試すような視線で見上げる。

「そなたの望みとあれば…」

ジュリアスは安心させるように微笑むと、拗ねた瞳を閉じさせるように瞼に口付けてから、額、頬、鼻の頭に口付け、そして芳しい唇に最初はそっと、すぐさま、激しく深い口付けを与えた。

アンジェリークが唇を開いて答える。

アンジェリークの舌を引きぬきそうなほど強く吸いながら、舌を弾かせるようにからめあう。

アンジェリークが同様の熱意でジュリアスに応えようとしているのがわかる。

アンジェリークとの口付けを堪能しながら、ジュリアスは以前ルヴァから聞いたいろいろな民族に伝わる異類婚の説話をふと思い出した。

いろいろな民族に人ならざるものとの婚姻の話が伝わっているが、その中に鶴を妻とした男の話があった。その鶴は夫の知らぬところで、夫のために自らの羽毛を用い美しい綾錦を織っていたという。

自分の身を削ってまでも、愛する男のためになにかを与えようとするその姿は、まるで、アンジェリークのようだと思うのはおこがましいだろうかと、ジュリアスは思う。

自分の正体が鶴と知れたとき男の元から鶴は去る。男は、鶴がわが身を削って、男に恩恵を与えていると知らなかった。もし、それを知っていたら男はどうしていただろうとジュリアスは考えざるをえない。

ただ、鶴がその身を削っていたのは、単に男に経済的な恩恵をもたらすためだった。それがわかっていれば、男は妻の命を削ってまで金銭を得ようとはせず、そんなことをやめさせただろう。

だが、妻がその身を犠牲にしなければ早晩二人はともにいられなくなってしまうのだと聞かされたらどうだっただろう。愛する女がやつれていくのをそれでも黙って見守るしかなかっただろうか。

しかし、自分は何も知らなかった男ではない。自分にもできることはあると信じたい。自分は、ただ、妻がやつれるにまかせていた男ではないとジュリアスは思いたかった。

「ん…んふ…んんっ…」

アンジェリークの唇の隙間から零れる吐息がつやめいたものにいつしか変わっていた。

ジュリアスは一度唇を離し、軽く笑んで耳元に囁きかけた。

「一緒にいるだけでよかったのだな?」

「もう、意地悪…」

ジュリアスの胸に顔を埋めるアンジェリークをジュリアスはひょいと抱き上げ寝室に向かった。

迷いを見せないアンジェリークだったが、不安がないといえば嘘になろう。

今一時でもいい、熱く深く、その身を貫くことでその不安を僅かでも払拭させてやれたら、とジュリアスは思う。

いや、肌を確かめることで不安を払いたいのは、実を言えば自分の方なのだともジュリアスは思った。

アンジェリークの身が、その命が削りとられていく様を、自分は本当に冷静にみていられるのか。

このか細い体が、さらに細くなり、本当に消えゆくばかりになってしまいはしないかと、慄いているのは自分の方なのだ。

だから、今だけでも、彼女は確かにここにいるとその身をもって確かめずにはいられない。この熱くしなやかで瑞々しい存在は絶対儚くなったりしないと、自分自身に信じこませるために。

彼女と再会を果たせた時の恐ろしいほど消耗した姿は決して忘れられない。

あんな姿には二度とさせたくない。見たくない。

でも、その怖れのある選択しか今は選べない。

自分のできることがあれば、どんなことでもしてみせる。その覚悟はあるのに、自分が直接できることが哀しいほどに少ないのがもどかしい。

自分でこの地を育成できたら、この地の封印を解く力が自分にあったらと、詮無い事とはわかっていてもジュリアスは思わずにはいられなかった。

それが叶わぬ以上アンジェリークの負担を最小にするためにも、コレットには育成に専念させねば。そのための環境を整えねばならない。

それくらいしか、自分にしてやれることはないのだ。

「ジュリアス?」

どこか、うわのそらのジュリアスに気付いたのか、アンジェリークがすねたように鼻をくふんとならした。

ジュリアスは、目の前の柔肌に集中し、没頭しようとする。着衣の胸元をはだけ彼女の豊かにもりあがった乳房とその可憐に色づく先端を目にすれば、それは容易いことだった。

ただ、これからは彼女の消耗も激しくなろう。

例え彼女が望んだとしても肌を合わせるよりは、休息をとらせることに留意せねばなるまいな、とジュリアスは頭の片隅で思う。

あと何回肌を重ねられるか、漠然と抱えていた不安が重苦しい現実となってジュリアスにのしかかる。

だが、だからこそ、今、この一時がどんな宝よりも貴重だと心から思える。

自分でも制御できない激情に翻弄されるままに二人の時は重なって過ぎて行く。

あまリに愛しく大切で、でも、その気持ちをどう表したらいいのかよくわからぬままに貪るようにジュリアスは愛をぶつけてしまいそうになる。愛を与えるのではない。もっと貪欲で抑制の効かない荒削りな思いをこれでもかと打ち据えんばかりアンジェリークにたたきつけそうになってしまい、そのぎりぎりの所で漸く踏みとどまっているような有様だ。

アンジェリークが苦しげに眉根をよせ火のような吐息ときれぎれの小さな叫びを零すごとに、さらに、激しく声をあげさせたくなる。

何もかも忘れたい、忘れさせてやりたい。生半なことではそれは叶わぬから、勢い、愛の行為は苦痛と見違えんばかりに重く激しいものに傾斜していき、そして炸裂した。

その途端に時間の流れが反転し、水の中を歩いているような錯覚に捕らわれる。ゆったりとたゆたうような感覚に流されるように、上気して息をあらげるアンジェリークの上にゆっくりと沈んでいく。

比喩でなく嵐のように、熱に浮かされたようにアンジェリークを求めた後、気だるい浮遊感に揺られたままアンジェリークに何度も口付けた。

口付けの合間にアンジェリークの手を求め、指をからめて握り締めた。

「こうして…手をつないだまま供に眠ろう…今宵…」

その手を持ち上げて口付けてから、もう一度固く握り返した。

「ずっと離さない、このまま…だから、安心して休め…」

アンジェリークはうっすらと微笑むと童女のようにあどけない顔で眠りについた。


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