落ち付いたたたずまいを見せる森林に囲まれた小さな村だった。この宇宙でも辺境に属する惑星だ。しかし、いくら辺境にしても人の気配がなさすぎる。質素だが居心地よさげな住居はあるのに、路上には人影ひとつみえず、人の生活している息吹や猥雑な活気というものが悉く剥落していた。
その村の領主の館だろうか、他の家々よりは多少贅を尽くしたある館の前でどことなく粗野な空気を纏う男が二人で対峙していた。この村の住人というには、なにか場違いでそぐわない男たちだった。
1人は赤毛の青年、1人は栗色の髪の少年、二人ともに、血の色をそのまま映したような赫い瞳が異様な光りを放っていた。その禍禍しい色の瞳は、よそからとってつけたように彼らの容姿に馴染んでいなかった。
「この体に慣れろったってなぁ…とりあえず二人で闘ってみる?」
「…そうだな…んじゃ、早速やろうぜ!」
しばらくの間、筋肉のぶつかりあうくぐもった音だけが人気のない街に響いていた。ややあって赤い髪の男が片手をあげ組手を静止させた。
「ちっと待てや。やっぱり体がなんか思い通りにうごかねーから、技が入らなくてかえってストレスたまんねぇか?これってよぉ。」
「でも、体動かして俺たちの思い通りに動くように馴染ませないとさぁ。それが今の俺たちの仕事だっていわれたじゃんか。いざ闘う時に体がうまく動かないようじゃ困るってさぁ…」
「だからよぉ、要は体うごかしゃーいいんだろ?何も俺達がお互い痛い思いしてストレスためなくてもよぉ、もっと楽に気持ちよく体動かして、馴染ませる方法があるじゃねーか。」
「………っていったってさぁ、この村…いや星中無人なんだぜ?残ってるのはモンスター化しちゃった使えねー奴らだけじゃん、ここ。この前の戦争と違って俺達が慰みものにできる捕虜なんていねぇんだぜ?この館に閉じ込めてるのは、男のガキ3人だしさ。それともゲルハルトはモンスターや男でもいいからやりたいわけ?」
「んなわけねぇだろっ!あーあ、前の戦争じゃ襲った街や村でやりたい放題できたのによー!どっかに女残ってねーのかよお、きしょー!」
「…あ!いるじゃん!女!女の捕虜!この星じゃないけどさ、さっきユージィンが言ってたじゃん!」
「んぁあ?んだよ、それ、詳しく話せよ!」
「さっき聞いたこともう忘れちゃったのかよぉ?ったくどーしよーもねぇ鳥頭なんだから…だからよぉ…」
悲劇の切っ掛けは小さなものだった。彼らにとってはたわいないやりとりだった。
力こそが正義であり、敗者・弱者にはなんの権利もない世界に生き、そして1度死んでいった彼らにとって闘いとその勝利に付随する略奪と暴行は役得という以上に当然の権利であった。
自分たちが敗者だった時なされた仕打ちは、勝者の立場に成り代わった時当然のように繰り返され、その暴力は当人達も無意識のまま連鎖していく。
敗者が苦痛にうめき、尊厳を粉みじんに打ち砕かれる様を見ることは、彼らにとっては単なる戯れであり、娯楽の1つにしかすぎない。敗者の精神など道端の石ころ同然だ。一時気分がすかっとするから、自分達が思い立った時蹴飛ばし踏みにじる、それだけだ。その行為に何ら痛痒を覚えるものでもない。蹴飛ばされる石ころの気持ちなど誰が斟酌しよう?
自分達がそうされてきたから、そうするのだ。彼らはそうすることしか他人と関わる術を持たない。
無人の街に不釣合いな粗暴な話声が止み、その男達は二人連れ立って何処かに姿を消した。
先の戦争時における、旧い城跡をもつ小さな惑星での一景であった。
ジュリアスは王立研究院でアルカディアの様子を、とりわけアンジェリークの維持しているバリアの様子を注意深くみていた。
研究院ではこのアルカディアとアンジェリークの張っている結界の数値が目に見える形に変換され3Dホログラムで投影されている。大陸に充たされているエネルギーもバリアのエネルギー値も、刻一刻と変動する数値はそのままリアルタイムでこのホロに反映されるようになっている。
アルカディアを包みこむアンジェリークの結界は綺麗な真円の球形を描いていた。これはアンジェリークの力が偏りなく満遍なく全方位に放射されていることと、アンジェリークが最も少ないサクリアで効率よく結界を維持していることの証左に他ならない。
完全な球体は最小の表面積で最大の体積を含有できる立体だから、結界が綺麗な真円を描いているということは、アンジェリークのサクリアにも歪みや変調がないことのなによりの証拠になる。
この様子にジュリアスは安堵する。霊震という形で時たま現れる負のエネルギーの流入も今のところアンジェリークの体や精神に目立った負担は与えていないようだ。
しかし、このアンジェリークの結界のどこに隙があるというのか、一分の隙もなく張られているように見えるこのバリアのどの間隙を縫って、あの忌まわしい力はこの大陸にもたらされているというのか、ジュリアスにはわからない。
唯一の可能性は内部にある。ジュリアスが以前アンジェリークに懸念を示したようにバリアというのは内部からの攻撃にはまったく無防備だ。結界の内側にあるこの大陸に未来からの力の流入の足がかりとなる楔のようなものが打ちこまれているとしたら…ジュリアスは銀の大樹が怪しいとにらんでいた。あの謎の大樹はよきにつけ、悪しきにつけ、未来の世界と今の時代を繋ぐゲートのような気がしてならない。ゲートは通るものを選べないので悪しき力の通り道にも利用されてしまっているのかもしれない。しかし、あの銀の大樹の根元に封じられし魂の存在をアンジェリークが感じている以上、無闇に切り倒す事もできない。そのものの解放こそが今の事態を解決できる唯一の対策である可能性が高いから。
「まさに獅子身中の虫…やっかいなことだ…」
アンジェリークの張るバリアはあくまで収縮する次元に拮抗するのが第一義であるにしても、本来これほどきっちりと張られた結界に侵入できる力など、そうあるわけがない。にもかかわらず、霊震がたびたび起きていることを考えると内部にエネルギーの流入口があると考えるほうが自然だろう。
あの銀の大樹の存在は事態解決の鍵であると同時に諸刃の危険を抱えているような気がしてならない。それがわかっていてなお、ジュリアスはこうしてアンジェリークの調子を注意深く見守ることしかできない自分が大層もどかしい。
しかし、とりあえず今日のところは問題はなさそうだった。あとで、時間を割いてアンジェリークの様子を見に行こうと思いながら研究院をあとにしようとした、その時だった。
ホロのバリアが揺らいだ。強風に呷られたシャボン玉のように球の表面がざわざわと波立ち、歪み、あろうことか次の瞬間ボールを殴ってつぶしたかのような大きなへこみが生じた。
それはほんの一瞬の出来事だった。しかし、変事を察するには十分だった。
アンジェリークになにかあったのだ。さもなければこんなにサクリアが動揺するはずもない。
「アンジェリーク!」
嫌な予感が押さえようもなくジュリアスを苛む。ジュリアスはわき目もふらず、仮宮を目指した。自分の心臓の音が耳について不愉快極まりなかった。
「オスカー様、医者をつれてきました!陛下は大丈夫ですか!」
初老の医師の手を引っ張って息せき切って宮殿に駆けこんで来た時、ランディは一瞬目の前の光景が理解できなかった。自分のいない間にいったい何があったというのだろう。
苦しんでいたアンジェリークは床にへたりこんでオスカーにとりすがるようにひたすら泣きじゃくっている。
そのアンジェリークを介抱していたはずのオスカーはというと、力なく跪いたまま呆けたように、それでいて限りない苦痛を思わせる表情でアンジェリークをみるともなしに視線を泳がせていた。
「オスカー様!陛下は!陛下はどうなさったんです!」
オスカーはランディの声にはっと我にかえり、慌てて口元に手をやり付着していた血液を拭った。
ランディに何が起きたのかを悟らせる訳にはいかない。
咄嗟にアンジェリークはと見やる。彼女もランディの声にはっとしたように泣くのをやめて顔を上げたが、そこにいるのがランディだとわかると一瞬ひきつるように表情が不自然に痙攣した。
『いかん、また発作を起こすかもしれん』
迂闊だった。オスカーは今気付いてしまった事実のあまりの衝撃の大きさに呆けていた自分を罵り叱咤した。ランディがほどなく帰ってくることなど自明であったのに、呆けている場合ではなかった。この状態を見られただけでもかなりいい訳が苦しいが、まず、なんとかランディをここから遠ざけねば。
俺とこいつが二人揃ってアンジェリークに近づくことは何がなんでも避けなければならない。
しかし、こいつにその訳を絶対知られてはならない。今のこいつでは彼女の悲劇を、その苦しみを受けとめることは恐らくできまい。少年らしい潔癖さが、かえって彼女の心に回復不能な傷を与えてしまう怖れのほうが大きい。何より、アンジェリークが知られることを望んでいまい。
「ランディ、陛下の御身は大事ない。恐らくストレスからくる過呼吸だ。鎮静剤を打ってもらえれば多分落ち付く。ドクター、お願いします。」
オスカーは痛む肋骨を悟られないように、わざと勢いよくさっと立ちあがると自分の体躯でランディの姿が彼女の視界に入らないよう遮ってから、アンジェリークの体を支えて寝椅子に座らせた。
医師がアンジェリークの様子を診ようとすると、アンジェリークは慌てたように
「わ、私じゃなくて、オスカー、オスカーのことを…」
と喘ぐように医師に言い募った。
オスカーは慌ててアンジェリークの言葉をさえぎる。
「陛下、診ていただくのは陛下の御身です。俺には、なにも、どこも医師に診てもらうような所はありません。そうですね?」
噛んで含めるように、しかし反論を許さぬようにきっぱり言いきると、アンジェリークは一瞬怯えたように大きく瞳を見開いて黙した。
『あなたが自分にサクリアをぶつけたことを誰にも知らせる必要はない、何も言わなくていい、何も起きなかった、それでいいのです。』
オスカーのこの意図はアンジェリークに通じただろうか?通じたとオスカーは思う。だからこそ、アンジェリークも黙ったのだろう。
彼女と俺の間に何があったのかを誰かに知られ、その理由はなぜかと問われたらアンジェリークがより苦しむ。その理由を話さざるを得ない状況に追いこまれる事態が…それが彼女にとってどれほどつらい事か想像にあまりある。自分の意志で秘密を明かすならともかく、懸命に彼女が隠そうとしていることを、自分の不用意な態度が原因(もと)で、無理やり白日の元に晒すような真似だけはしたくない。
アンジェリークを無理に黙らせ、強引に何もなかったことにしたのはあまり上手いやリ方ではないのは承知の上だ。これでは俺がアンジェリークの抱える問題に気付いてしまったと言っているようなものだが、周囲に、とりわけランディに何も気付かせないためには、こうする以外どうしようもなかった。
済まないと思う。彼女が懸命に隠したがっていたことに気付いてしまったことも、その事実に気付かなかった振りができなかったことも。
だが、君が誰にも知られたくないなら、俺が砦になってみせる。俺は誰にも何も言わない、何も悟らせない。こんなにも傷ついている君を、これ以上苦しめたくない、傷つけさせはしない。そのためなら何でもしよう。そうアンジェリークに告げてやりたかった。気休めでもいい、少しでも彼女を安心させてやりたかった。が、今は何も言えない。言うことができない。とにかく今は、ランディにだけは何も悟らせる、いや、どんな疑念も抱かせてはならない。
自分の肋骨がどれほど悲鳴をあげようと、オスカーは平素通り振舞う決意をしていた。自分がアンジェリークにサクリアをたたきつけられた事は決してランディに知られてはならない。ランディがその事実に気付けばなぜそんな事になったのかいぶかしがり、理由を知ろうとするだろう。今一時理由をうやむやにしたとしても、ランディからこの事実が周囲に知れれば、なぜそんなことになったのか、必ず疑問に思うものがいよう、いろいろと理由を憶測されよう。だから、事実そのものをなかったことにしなければならない。今自分が呆けていたこともランディがかなり不可解に感じているのは明かだから、尚更本当のことを知られるわけにはいかない。
「オスカー様、陛下はいったい…」
ランディがあからさまに不審気な顔でオスカーに問いかけてきた。
「ランディ、ちょっとこっちに来い。俺達がいては診療に差し支える。ドクター、陛下をお願いします。」
オスカーはランディを引きずるように強引に引っ張って廊下に出た。
ランディの肩を両手で抑えこみ、威圧的に感じられるほどまっすぐにランディを見据えた。
「ランディ、いいか、よく聞け。陛下の呼吸困難は簡単にいえば精神的なものが原因だ。ストレスから呼吸が過度に荒くなって、体にはなんの異常もないのに息苦しさを感じることがあるんだ。俺は軍にいた時、新兵がそうなるのを見たことがある。気持ちが落ち付けば何の心配もいらない。」
「精神的なものって…」
ランディが眉を顰める。
正念場だ。ランディを納得させろ。疑問を抱かせるな。
「考えてもみろ、陛下は一人でこの世界の結界を毎日維持されている。それだけでも心身ともに大変な負担だろう?そこにきて最近の霊震だ。陛下にとっては懸命に張っているバリアに悪意をもった石礫をぶつけられてるような状態なんだ。しかも、それはいつ投げつけられるかまったく予期できない。おまえだっていつどこから石をぶつけられるかわからないような毎日を送ってたら、どうだ?これでストレスが溜まらない方がおかしいだろう?精神的に追いつめられて情緒不安定になったり、体調だっておかしくなって当然だとは思わないか?」
「そりゃ…そうですよね…」
「俺は陛下が昏倒した原因がそういう心理的重圧にあるらしいと気付いて、陛下の抱える負担の大きさ重さに一瞬言葉を失ってしまった。情けないがどうしたらいいのか、一瞬途方にくれちまったんだ。だが、いいか、これからが肝心だ。俺達は陛下の御身の負担がどれほどのものかよく知っている。陛下にかかるストレスが多大な物であることもな。だから、陛下のお体に変調があったとしてもその理由に察しがつく。そして、悔しいが陛下の務めを肩代わりすることはできないから、より一層陛下の負担を軽くできるように自分たちのできることで尽力するしかない。しかし、この事が街の住人に知れたらどうなる?それでなくても霊震で動揺している住人が、陛下が体調を崩されたことを知ったら、ますます動揺するとは思わないか?何せこの世界の維持は1人陛下の御身にかかっているんだからな。」
「…はい」
「だから、いいか、ランディ。陛下が体調を崩された、このことは絶対に誰にも口外無用だ。絶対誰にもだ、いいな?後でドクターにも決して陛下を診察なさったことは口外しないように釘をさしておけ。」
「…聞き捨てならんな、オスカー。陛下の御身に何かあったことを内内に処理しようなどとは…」
「ジュリアス様!」
「ジュリアス様…」
一人は明かな安堵を見せ、一人は必死に動揺を押し隠そうと視線をそらし、それぞれがそれぞれの思いで仮宮に現れた筆頭守護聖を認めた。
「話は後だ。」
ジュリアスは簡潔に言うとアンジェリークの私室に気ぜわしくノックしながら、返事は待たずに足早に入室した。
オスカーとランディが無言のままそのあとに続く。
丁度通りがかって聞いたオスカーの言葉から、アンジェリークが体調を崩したらしいことはわかった。やはりあのバリアの動揺はそれか…と思ったが、しかし、アンジェリークがどのような様子で、どの程度具合が悪いのかまではわからなかったから、ジュリアスは現況をきちんと把握したくて火で炙られているように気が急いていた。
アンジェリークが寝椅子に横たわっているのを見た時は一瞬息が止まった。顔色がよくない。が、落ち付いて見れば、それほど病的な気配は感じられなかった。医師はもう診察を終えたのか器具をかばんに仕舞っているところだった。
「陛下!どうなされたのです!ご気分が優れないのですか?」
ジュリアスがアンジェリークの元にかけより御前に跪いて尋ねる。至高の存在であるアンジェリークを見下ろす事はできないからだ。心の底からのアンジェリークを憂慮していることが声音から否応なく伝わってきた。
「あ…ジュリアス?どうして?」
アンジェリークがジュリアスの姿を認め寝椅子から体を起こした。一瞬、ジュリアスと後ろで控えているオスカーの顔をアンジェリークが交互に見やった。オスカーはアンジェリークの瞳から非難と哀しみの混交した思いを読み取った。
違う…アンジェリーク、俺はジュリアス様にお知らせしていない…決して知らせるつもりなどなかった…なぜ、ジュリアス様はこんな時に限って仮宮にいらしたんだ…オスカーは決して口に出せない思いに苦しくなって首をうちふるようにアンジェリークから視線を外した。
ジュリアスはアンジェリークの茫洋とした様子に気をとられ、オスカーと彼女の間に交わされた視線の意味など読む余裕はない。心は焦燥に焼け爛れそうだった。
「陛下…お尋ねしたいのは私のほうです。今はご気分は大丈夫なのですか?研究院でアルカディアの様子を見ておりましたところ、陛下の維持されているバリアが一瞬大きく揺らぎ不安定になったのです。それで私は陛下の御身になにか起きたのではないかとあわててかけつけてみれば、かような有様。陛下のご様子に私は心臓がつぶれる思いでした。いったいどうなされたのです。」
「バリアが揺らいだ?ああ…ごめんなさい、ジュリアス、私が…私のせいで…アルカディアは?アルカディアに…大陸や民に異常はない?」
アンジェリークが救いを求めるようにジュリアスを見た。
「ご心配には及びません。幸いバリアが不安定になったのはほんの一瞬でした。ただ、あのように陛下のサクリアが動揺した様に私はいても立ってもいられぬ心持ちで、不躾とは思いましたが慌てて馳せ参じた次第です。陛下、ご気分はいかがですか?お顔の色が優れませんが、どこか痛むのですか?お苦しいのですか?」
「いえ、今は…今は平気…その…」
言いよどむアンジェリークの言葉をランディが引き取った。
「あの…俺とオスカー様が今夜の警備のことで陛下の元に参内したら陛下が突然息ができない、苦しいって言って倒れちゃったんです。で、俺、オスカー様に医者呼んでこいって言われて慌てて街からドクター連れてきて、それで…」
それを聞いてジュリアスの顔色がかわった。
「なに?ドクター、陛下はどこがお悪いのだ?」
「今、診察を終えましたが、お体にはどこにも異常は見受けられませんでした。ただ、非常に気分が昂ぶっておいででした。呼吸困難を訴えられましたが、私が診ました折には大分落ち付かれていらっしゃいました。恐らく息苦しさは精神的なものが原因と思われましたので、今、鎮静剤を打っておきました。気分が落ち着かれれば恐らくなにも問題はないと思われます。」
「そう…か…」
ジュリアスは幾分安堵したように、それでもいまだ懸念の消えぬ瞳でアンジェリークに向き直った。
「陛下、今はどこかお苦しいところ、痛むところなどはございませんか?」
「あ…ええ、平気…でも、なんだか頭がぼうっとして…」
「薬のせいでございましょう。少しお休みください。今ロザリアを呼んでこさせましょう。彼女に傍につかせておきますゆえ…」
ジュリアスはアンジェリークを寝椅子に横たえさせてから、呼び鈴で仮宮で雑事諸般の用事を手伝いに来ている街の住人を呼び、ロザリアをここによこしてアンジェリークについていて欲しい旨言付けた。
本来なら自分がアンジェリークの傍にいたい。眠りにつくまでその手を握っていてやりたい。アンジェリークの不調が精神的なものだというなら、尚更傍についていてやりたい。しかし、今はそれは叶わぬ。今は先にしなくてはならないことがある。
「ドクター、申し訳ありませんが、陛下の安否は人心の動揺に繋がりますゆえ、陛下の体調が思わしくなかったことはどうか街の人々には御内密に願いたい。」
医師には守秘義務があるが、それでもなおジュリアスは有無を言わせぬ口調で診療を終えた医師に念を押した上で街に返した。
そこにロザリアが血相をかえてアンジェリークの部屋に飛びこんできた。
「陛下!どうなさったのです!」
「ああ、ロザリア、済まぬが陛下についていてやってくれ。今医師の診察は済んだ。とりあえず大事ないとのことなのだが、お疲れのご様子なのでそなたが傍についていてやってほしい。私も後でもう一度様子をみにくるつもりだが…」
そこまでいうとジュリアスは傍らに控えているオスカーとランディに向き直った。
「さて…おまえたち二人とも私の執務室に来てもらおう。詳しく話しを聞かせてもらいたいのでな…」
「いったい何があったのだ。最初から詳しく話せ」
ジュリアスの執務室である。執務机にかけたジュリアスの前にオスカーとランディが居心地悪げにたたされていた。
オスカーが話しをひきとる。ランディに余計な事を言われてはまずい。なるべく冷静に理路整然とランディも見知っている事実のみを羅列するよう心掛ける。知らせたくないことは、綺麗に省いて。
「さきほどランディが申し上げた通りです。今夜の警備のことで陛下にご報告しておきたいことがあったので二人で参内いたしました。すると陛下が突然苦しい、息ができないとおっしゃられ、がっくりと崩れるように倒れられてしまったのです。俺はランディに街まで医者を呼びにいかせ、自分は陛下の介護にあたりました。」
ランディが肯定の証に無言で頷く。
「…続けろ」
「陛下は呼吸困難を訴えられておいででした。しかし、私が見ましたところ、気道が何かに塞がれている様子はなく、また顔色から心臓関係でもなさそうに見受けられました。そこで、俺はこの症状は過呼吸ではないかと考え、陛下に落ち付いてゆったりとした呼吸をしてくださるようずっと傍についてお声をかけておりました。過呼吸の場合、とにかく激しい呼吸を止めさせねばなりませんので。」
「なぜ、そなたはそう判断した?」
「士官候補生であった折、新兵がストレスや緊張からこの発作をしばしば起こすこと、とその具体的な症状、そして応急処置の訓練を受けておりました。陛下のご様子がその特徴に合致していたからです。」
「ふむ…確かにドクターも陛下の呼吸困難は精神的なものであろうと言っていたな…緊張やストレス…陛下の身心にかかるご負担は霊震の頻発とともに否応なしに高まっておいでなのは悲しい事だが事実だからな…」
アンジェリークの精神的負担は間違いなく増大している。それはわかる。
ただ、アンジェリークのストレスはこういっては酷なのだが、今は恒常化しているともいえる。それがなぜ、今日に限って発作を起こすほど精神を激昂させたのか…ジュリアスはなにか心にひっかかるものを感じる。が、それは茫漠として手に掴もうとするとするりと逃げてしまった。とりあえず、今は事態をきちんと把握することが先決だと思いなおし、ジュリアスは話しを続けた。
「そして、そなたは自分の知っている応急処置を陛下に施していたというのだな?ドクターも自分が診たときは陛下が大分落ち付いていらしたと言っていたし…その点はわかった。」
ジュリアスはオスカーを見据えた。
「だが、そなたはなぜ陛下の大事を内内で処理しようとした?ランディに緘口を強いていたな?このような大事の報告を怠るような真似は首座として見過ごせぬし、解せぬ。その点についての申し開きはあるか?」
アンジェリークの変調は別にオスカーの責任でもなんでもない。
警備責任者とはいっても、外的な要因でアンジェリークが害されたわけではないのだから、アンジェリークの変事が知られたからといってオスカーが処罰を受けるような事はない。つまり隠蔽に意味はないのだ。
なのに、なぜオスカーはアンジェリークの昏倒を隠そうとしたのか、それがジュリアスにはわからなかった。
ややあってオスカーが口を開いた。
「…いえ、私がランディに緘口を強いたのはあくまで一般住民に対しての事です、ジュリアス様。ジュリアス様がドクターに念押しされたように、私もこの事実が街に知れれば人心の動揺は避けられないと判断し、ランディには口外無用との命を出しました。ジュリアス様への報告を怠るつもりはございませんでした。」
「ほう?私には報告をする意志があったと申すか?」
なぜだろう、信じない理由などないにも拘わらずジュリアスはオスカーの言に素直に承服し難いものを感じ、口調が皮肉気にはねあがった。
「無論です。ただ、ジュリアス様に報告し指示を仰ぐまでは、他の守護聖にも陛下のご容態は伏せておいたほうがいいかと思いまして…守護聖にも動揺する者もおりましょうから…そう言う意味で誰にも他言無用と申しました。俺からジュリアス様に報告さしあげ、守護聖には知らせてもよいかの判断がつくまで何も誰にも言うなという意味でランディに話しをしていたのです。ジュリアス様はその話の途中に丁度あの場にいらしたのです。」
オスカーの態度は尊大なまでに落ち付き払っていて冷静そのものだ。言にも筋が通っている。しかし、その冷静さがなにかジュリアスには作り物めいて感じられてしまう。陛下の変事に対してどうしてこの男はこんなにも冷静でいられるのだ?自分でも言っていたではないか、守護聖にとっても陛下の変調は一大事であると。ランディなどはその若さを差し引いても、いまだどことなくそわそわと落ち付かないのに。まるで冷静な自分をわざと印象付けたいと思っているかのようなオスカーの態度がジュリアスには不自然に思えた。しかし、それはあくまで感覚的なもので、糾弾するような根拠はなかった。
ランディに同じ事を問うたとしても、これ以上のことはわかるまい。
オスカーの言はあくまでオスカーがその時点で心に決めていたというだけで、外から確かめる術はないし、ランディに対して緘口令を敷いたというだけでは、叱責の対象となるどころか、人心を徒に動揺させぬよう心掛けた慎重なその対応を賞賛すらするべきである。非はどこにもない。軍人としての前歴が、突発時においてもオスカーに冷静沈着な行動を取らせたということだろうと、結局ジュリアスは結論付けざるを得なかった。
「…わかった。私に対して報告を怠ろうとしたのではないというなら問題はない。街の住人に知らせぬようにとの留意は当然のものであるしな…」
自分に言聞かせるようにジュリアスはつぶやいた後、ジュリアスは顔をあげてランディに訓戒した。
「ランディ、今聞いての通りだ。そなたも無闇と陛下のご不調を他に漏らさぬよう心掛けよ、よいな。」
そう言ってからジュリアスはふと思いついたように二人のどちらにともなく問うた。
「そういえば、今夜の陛下の警護はどうなっている?」
「俺が今夜は街の歩哨に立たねばならないので、ランディにやらせてみようと思っておりましたが…」
「あ、はい、それで今夜は俺が陛下の警護にたちますってご報告に参内してた所だったんです。」
「…ふむ、陛下のご様子が気懸かりだ。ランディ、よい。今宵は私が陛下のおそばに控える。街と新宇宙の女王の警備のほうにおまえたちはあたってくれ。」
「御意」
オスカーが即答する。その承諾の返答で今夜ランディはアンジェリークの警護に立つことはなくなった。
「では、もう下がってよいぞ。私も陛下のご様子を見に参る。」
ジュリアスが立ちあがって執務室から出ようとしたのを受け、オスカーとランディが脇に控える。
と、ジュリアスの腕が僅かにオスカーの体に触れた。
「…っ!」
オスカーの顔が一瞬能面のように強張り、顔から血の気が失せた。
「どうした?オスカー、そなたもあまり顔色が優れぬようだが…」
オスカーが何かに耐えるようにゆっくりと息を吐いた。
「…陛下のご容体を思えば、血色のよくなるはずもありますまい。俺が陛下のことを案じていないとでもお思いですか?ジュリアス様」
「む…そうだな、道理だ。」
卒のない答えだ。しかし、それなら先刻の傲慢なまでに落ち着き払った態度はなんだったのだ?
オスカーがアンジェリークを軽んじている気配など微塵もない。むしろオスカーは恐らく全身全霊でアンジェリークに忠誠をささげている。その思いは自分のものに比しても決して軽くはあるまい。それは確かに感じられるのに、なぜ今日に限ってオスカーの言葉は素直に自分の身に染み渡ってこないのか。
自分でもなにかわからぬいがいがした思いに苛まれながら、ジュリアスは自分の部屋を出、仮宮にむかった。
アンジェリークと話がしたかった。そんな発作を起こすほどに精神的な負担が重くなっていたのなら、なぜ自分に頼ってくれなかったのだという寂しさと腹立ちに似た感情が、このもやもやした思いの原因だろうと自分では見当をつけた。
アンジェリークの部屋を訪ねたとき、まだアンジェリークはよく眠っていた。
「ロザリア、その後陛下に異常はないか?」
「ええ、私が見ている間はよくお休みでしたわ。…聖殿内であればいつでも人手も人目もふんだんにあったから、陛下がこんなことになってもすぐさま、お助けできましたのに…いえ、こんな状態になることなど本来あるわけございませんでしたのに…」
「言っても詮方ないことだ。街の住人は我らの使用人ではないし、仮宮のきりもりもかなりの部分彼らの好意に頼っている以上、かえって無理もいえぬ。今ある人員でまわしていくしかないのだ。」
ジュリアスは柔らかな笑みをロザリアに向けた。
「それにもかかわらず、そなたはよくやっている。住人との折衝があるゆえ、執務は聖地にいたときより煩雑を極めているであろう?目立たぬ地味な職務も厭わず、我らが動きやすいようにそつなく手を回してくれているそなたには、感謝の言葉もない。そなたが見えぬ所でも陛下の支えになってくれているから、陛下も生来の明るさを失わずにいられるだろうし…」
「ジュリアスにそこまで言っていただけると、くすぐったい気分ですわね。でも、悪くありませんわ。それに…多分、気持ちは一緒ですもの。」
ロザリアが一瞬愛しむような視線を眠っているアンジェリークに落した。
「ロザリア、後は私が陛下のおそばについていよう。私が呼び付けた時も、住人達との折衝の最中であったのだろう?済まないことをした。執務が残っているなら、戻ってくれ。」
「陛下以上に大切なものなどありませんもの。でも、そう言っていただけるならお言葉に甘えますわね。それでは陛下をよろしくお願いしますわ。」
優雅な礼をして、ロザリアは辞した。
やはり、立ち居振舞いの優雅さにおいては、ロザリアに一朝の優があるなとジュリアスは思う。
この典雅な補佐官はもしや、我々のことに気付いて見て見ぬ振りをしてくれているのやもしれぬ。気持ちは同じと彼女は言った…そう、アンジェリークによかれと思えること、彼女の幸せをまず第一に考えて動くという点で私とロザリアは同じなのだろう。そして、彼女に容認されているということは私の存在がアンジェリークにとっても良い効果があると一応判じられているということであろうか。
その期待を裏切るわけにはいかぬな、ジュリアスは思う。万が一にでもアンジェリークを泣かせたら私は真っ先にロザリアに完膚なきまでに叩きのめされるであろうし。
だからではないが…アンジェリーク、何を一人で抱えこんでいた?体に明確な不調をきたすまで、それほど追い詰められるまで苦しかったなら、どうしてそれを私にも預けてくれなかった?
童女のようなあどけない寝顔には、彼女の不調を思わせるものは今は見うけられなかった。
なにか…また、何かのひっかかりをジュリアスは感じた。
彼女が時折見せる精神の激昂、昂ぶり。常の彼女には似つかわしくないささくれだった感情の嵐。崩れ落ちてしまいそうな脆さ、危うさを感じさせるこの感情の不安定さがジュリアスには気に掛かって仕方ない。
もちろん彼女とて感情の動きは普通の女性とかわらぬ。いつも晴れやかな気持ちでいられる訳ではない。落込む時も不機嫌な時もある。それでなくとも今彼女の置かれた状況を考えれば精神的に不安定にならないほうがおかしい。それはわかりすぎるほど、わかっている。
しかし、何かそれゆえの不安定さとは違う気がするのだ。今のこの困難な状況にあっても、彼女はなるべく過不足なく事実を捉え、その対応策を考える冷静さを失ってはいない。霊震の起きた時のように、問題が起きても周囲に意見を求め、吸い上げ、自分自身で考え、今後の方針をまとめあげ、諸事全般に落ち付いて対処できている。
にもかかわらず、突然、意外なところで、追い詰められた獣のような余裕のない振る舞いをすることがある。
こんな様子は戦争を経験する前にはついぞ見た覚えがない。断言はできぬが戦時の虜囚体験がトラウマになっているせいではないかと思う。だが、彼女は二六時中不安定な訳ではない。激しく感情を昂ぶらせる時には何か共通の要因があるような気がする…それは何だ?
もう少しでその手がかりがつかめると思った時、アンジェリークが身じろぎ、ぽっかりと目を覚ました。
心配そうに覗きこむジュリアスを認めると無心に微笑んだ。
深い翡翠の瞳に吸いこまれそうな錯覚をジュリアスは覚えた。
アンジェリークがゆるゆるとジュリアスに腕を伸ばす。
「ジュリアス、いてくれたの?ここにいてくれたの?よかった…あれは夢だったの?怖…かった…」
いまだ夢見ているような口調でアンジェリークが独り言のようにつぶやく。ジュリアスは伸ばされた手をしっかりと握りかえした。
「怖い夢を見たのか?安心しろ、私はいつもそなたの傍にいる。どこにもいかぬ。」
「ああ…ジュリアス…私…怖かった…怖くて…苦しくて…いたくて…辛くて…夢?夢よね?あれは夢よね?」
「ああ、大丈夫だ。私がいる。何にもそなたを傷つけさせぬ。」
ジュリアスの言葉に安心したようにアンジェリークは一度目を閉じて枕替りのクッションに頭を沈みこませた。
そしてもう一度瞳を開けると、不安げにジュリアスに問うた。
「ここ…どこ?聖殿じゃない?」
記憶が混乱しているようだ。聖地に戻った夢でも見ていたのだろうかとジュリアスは思い、子どもをあやすように不安を与えないようにゆっくりと柔らかい声でアンジェリークに答える。
「ここはアルカディアのそなたの私室だ。そなたは苦しいと言って倒れ、医師の診察を受けたあと薬で眠っていたのだ。気持ちが落ち着けば、もう心配はないと医師は言っている。」
「アルカディア?アルカディアって…」
そこまで言ったとき、アンジェリークが弾かれたように体を起こした。
その瞳には明かな落胆と傷心の色があった。
「ああ…」
絶望を思わせる声がアンジェリークの唇から漏れた。花びらのような唇におよそ似つかわしくない苦渋に満ちた声だった。
「どうした?アンジェリーク?まだ、どこか苦しいのか?」
慌ててジュリアスがアンジェリークの背中に腕をまわしてその体を支えた。
アンジェリークはぽろぽろと静かに涙を流し始めた。
「ああ、ジュリアス、ごめんなさい、心配かけてごめんなさい。なんでもないの、どこも苦しくはないわ…」
しかし、口ではこう言ってもアンジェリークの涙は止まらない。嗚咽を噛み殺して体は細かく震えている。なんでもないといわれて信じる事も引き下がる事もジュリアスはできなかった。
「なら、なぜそのように悲しそうに泣く?何がそなたを憂いに沈ませているのだ?私にできることはないのか?」
アンジェリークは一瞬すがるような瞳でジュリアスを見つめ、何か言おうとするように口を開き、ややあってから力なく瞳を伏せた。
「ごめんなさい、本当に体はなんともないの。あのね…すごく怖い夢を見てたの。でも、それは聖地でのことだったので、私、それが夢でよかったって安心したのと、でも、聖地に戻れたんじゃなかったんだってわかってがっかりしたのがごちゃごちゃになっちゃって、なんだか涙が止まらなくなっちゃったの。ごめんなさい、私、ちょっと情緒不安定みたい…」
「本当にそれだけなのか?」
ジュリアスは何か釈然としないものを感じたが、この様に弱々しく見えるアンジェリークを詰問するのも躊躇われた。
「……そなたが不安定になるのも無理はないと思うが…結界の維持に加え、いつぶつけられるかわからぬ負のエネルギーの流入に気の休まる暇もないであろう…すまぬ、私にはどうにもしてやれぬことばかりだ。宇宙を司る守護聖の首座よ、筆頭よと言っても、私にできることはあまりに少ない。そなたが目の前で泣いているのにこうして手を握ってやることしかできぬ…」
「そんなことない!」
アンジェリークが強い口調で否定した。
「あなたがいるから!あなたがいてくれるから、私生きていけるの。どんなことでも耐えられると思うの。だから、どうかそんなこと言わないで。こうして傍にいてくれるのが私には何よりも嬉しいし、力になることなの!」
「それなら…」
ジュリアスは一呼吸をおいてから、静かに真摯に言葉を発した。
「もっと私に頼ってくれぬか?何か憂いがあるなら、私にもそれを背負わせくれ。どうか、倒れてしまうまで一人でなにもかも抱えこまないでくれ。私では何もそなたの力になれぬのではないかと、不安になるのだ…」
ジュリアスはまっすぐな瞳でアンジェリークを見つめた。
アンジェリークはその一点の曇りも迷いもないジュリアスの視線が眩しいかのように目を眇めてから、力なく顔を伏せた。
「ジュリアス、ごめんなさい、私、あなたに心配ばかりかけて…本当にごめんなさい…」
ゆらゆらと頼りなく揺れる肩をジュリアスは思わずきつく抱いていた。
「そんなことは気にするな。そなたが愛しい、何よりも大切だ。だから気にかかる、それだけなのだから…今の状況ではすべて…という訳にはいかずとも、少しでもよいからそなたの愁眉を開いてやりたいと思うのだ…」
「ジュリアス…」
アンジェリークはそれ以上言葉を発しず、すがるような瞳でジュリアスを見つめていた。
ジュリアスは気付かれぬように嘆息する。
なにかあるのは確かなのだ。しかし、ここまで誘いをかけてもそなたは私に何も言おうとせぬ…言いたくないのか…私には言えぬようなことなのか…
気にならないといえば嘘になる。しかし、回復したばかりの彼女を詰問などしたら、また体調を崩すやもしれぬ…今は、とにかく安静に過ごさせるのが先決か…
アンジェリークの心ごと包み込むようにジュリアスは彼女の頬を両手で包みこみ、涙の痕を唇で辿る。
そのままアンジェリークにそっと口付けた。アンジェリークも素直にそれを受けた。
「今夜はこのまま私がそばにいる。だから、安心して休むがいい。」
「一緒にいてくれるの?大丈夫なの?」
「ああ、オスカーの替りにランディがそなたの警護にあたると言っていたのだが、そなたの様子が気になったので、私が今夜はそなたの傍にいると彼らには告げておいた。」
アンジェリークの顔が俄かにかき曇った。
「オスカー…?…あ、オスカーは何か言ってた?その、私のことを…」
「そなたが不調を訴えた時、オスカーが丁度その場にいあわせたそうだな。そなたが1人の時でなくてよかった。私はそなたが倒れたことをあれがランディに口止めしていた時に丁度研究院から宮殿についた処だった。オスカーがそなたの昏倒を内密に処理しようとしたのが気になり、その真意を尋ねたが人心の動揺を押さえる為に住民に他言無用と注意を促していただけだと言われ、是非もなかったのでそのまま返した。そなたの症状は軍隊で見知っていたので、応急的に処置を施したと言っていたが、それだけだ。今夜は町の歩哨にたつそうだ。」
「そう…その…オスカーはなにか様子がおかしくなかった?どこか具合が悪そうだとか…」
「いや…確かにあまり顔色はよくなかったが…別段変わりはなかったように見受けた。なぜそんな事を聞く?」
「あ…ううん、なんでもない…」
気まずそうに瞳を伏せたアンジェリークの様子にジュリアスは不審を覚える。
体調を崩したのはアンジェリークだ、なぜオスカーの事を気遣う?なぜそのように顔を曇らせる?
今の今までジュリアスに向けられていたアンジェリークの瞳は何か別のものに気をとられているように中空をさまよっている。その横顔は憂いと懸念に縁取られている。
その時、ジュリアスははっと気付いた。
アンジェリークが激昂するとき、あからさまに顔を曇らせるとき、常になく感情を昂ぶらせる時、その共通するキーは…もしや…
それはオスカーだ。オスカーの存在だ。
体調を崩した時にオスカーが偶々その場にいあわせた?もしや、それは逆ではないのか?オスカーがいたから、そなたは感情が昂ぶり、体調を崩したのではないのか?
オスカーを護衛につけると私が言った時の、そなたらしからぬ激昂のその訳は?なぜ、護衛をつけることをあれほど厭うたのだ?
オスカーの名を出した途端、なぜ、そのように顔を曇らせ、心ここにあらずといった風情となる?
アンジェリーク、何を考えている?何を見ている?
憂いに満ちた横顔が自分以外の存在に気を取られていることを否応無しに感じ、ジュリアスは心をどす黒く焼き焦がす息もできぬような感情を産まれて初めて味わっていた。