眠れなかった。
ジュリアスが今夜は供にいると言ってくれ、肩を抱かれてそのまま床にいた。自分のためにあつらえたかのような、二の腕と胸元の狭間のくぼみに頭を預け、ジュリアスの意外に逞しい胸板をなでるともなしに手をさ迷わせた。その温もりを掌にかき集めるかのように。
「どうした?眠れぬのか?」
物憂げにジュリアスが顔を向けた。豪奢な金の滝がアンジェリークの肩を洗う。
「あ…ごめんなさい、くすぐったかった?私、起こしちゃった?」
「いや、眠ってはいなかったから…それにそなたの手はひんやりとしてむしろ心地よい…」
アンジェリークは安心したようにもう一度ジュリアスの胸を包むように腕を回した。
私を暖めてくれるこの温もり、この温もりがあるから、今まで生きてこられたと、アンジェリークは誇張でなくそう思っている。
あの時、死にたい…と私は思ったのだろうか…記憶が…その時というより、その後で私は何を思っていたのか、よく思い出せない…忘れてしまいたいことはなかなか忘れられないのになぜ?…なにも考えられなかった…なにも感じられなったのかもしれない…死のうとは思わなかったような気がする…でも、生きようとはっきりと思ったのは、絶対に死なない、死ねないと思ったのはその後…この温もりを思い出したからだ…
力任せに引きちぎられた服の残骸とおぞましい体液が体のあちこちに付着したまま、アンジェリークはどのくらいの間人形のように床にころがっていただろう。
なにも感じない、なにも考えられない、体が、心が敢えて人形のようになることでアンジェリークの精神の崩壊をぎりぎりの処で保っていた。
怖いほどの静寂にひたひたとその身を浸しているうちに自分が何者かも見失いそうになって、アンジェリークはそろそろと首だけを回して様子を窺った。油のきれたぜんまい仕掛けの人形のようにその動きはぎこちない。
しんと静まりかえった塔のなかに、先刻までの暴虐の痕は感じられない。自分の体に多数残された痕跡を除いては…
もう…誰もいない…?あれは…あいつらは…もう、去っていった?あの…信じられない姿をしたあの悪夢は…
アンジェリークは細々とサクリアの気配を探り、どうやら小さな結界は張られたままらしいことを確認して安堵した。
ロザリア…ロザリアだけは守れただろうか…何をされても、意識を失う事はできなかった。気を失ってしまったほうが楽だったかもしれないが…私が意識を失えば結界が消えてしまうかもしれない、眠っているロザリアがモンスターに襲われたら…何よりこいつらにロザリアのことを気付かれたら……私を守って起きている間ほとんど一人で結界をはり、食料を確保し、時おり襲ってくるモンスターを退け…毎日へとへとになって僅かな時間だけ死んだように眠っているロザリア…ロザリアにだけは指一本触れさせない…その気持ちだけで、ひたすらわが身に振るわれた暴虐をやり過ごした。殺されるかもしれないとも思ったが、仮借も容赦もない力の行使にアンジェリークに抗う術はなかった。それほど、その悪夢は圧倒的な力で自分を踏みにじっていった。アンジェリークにできたことは幼い頃布団を被って雷をやりすごしたように、いつかは、この恐怖もきっと私の上から去っていくと必死で自分に言聞かせることだけだった…それがどんな終わり方であろうとも…
アンジェリークはぎくしゃくとした動きで半身だけ身を起こした。
ロザリアが起きる前に…僅かな時間しか眠らないロザリア…前に疲れてるみたいだからってたくさん寝かしておいたら、酷く怒られたわ…なんとか…気付かれないように…しなくちゃ…ロザリアにこれ以上心配かけられない…
動こうとすると体中が軋む様に悲鳴をあげた。痛む体を騙し騙し這いずる様にロザリアのいる寝室と反対のシャワールームに向かった。この暴虐の痕跡を肌に留めておくことはもう一秒たりとも耐えられなかった。
熱い湯を全身に浴びるとそこら中に傷があるのか、酷く湯がしみた。構わず皮がむけるほど体中をこすった。汚い…汚い…いくらこすっても汚れが落ちない気がした。そう思った途端、激しい吐き気が込み上げ、アンジェリークはシャワー室の床にへたりこんで何度も吐いた。吐くものなど何もなかったが、からえずきが止まらなかった。自分のなかに汚いものが一杯詰まっている気がして、それをすべて吐き出してしまいたかった。止まらぬ吐き気のあまりの苦しさに、涙が滲んだ。そうだわ…もう泣いてもいいんだわ…我慢しなくてもいいんだわ…激しい水音に紛れて大声で泣いた。
痛いほど容赦なく降り注ぐシャワーに打たれながら、タイルに座りこんだまま泣いて、泣いて、泣き続けた。
そして、ひとしきり泣いた後にふと、自分という存在がどうしようもなく汚く思えて…消しゴムで消す様に消せてしまえたらいいのに…という思いが、本当にふと頭をよぎった。死にたいと明確に思ったわけではない。こんな目にあった自分を消し去ってしまいたい、なかったことにしてしまいたいという、もっと単純な思考だった。
この世から消えちゃえば…こんな自分を認めないですむ?自分を嫌と思わずにすむのかしら…
一度捕まった思考はあり地獄に嵌るように、負の螺旋を描き始める。
私は人質だもの…私が捕まってたから、守護聖たちも抵抗できずに捕まってしまったわ。私がいたら、守護聖たちもあいつらを正面切って攻撃できないわ…それに吸い取られた力はあいつらに力を与えてしまっている…私なんかいないほうがいいんじゃないかしら…私がいなければ、皆はもっと身軽になれるのではないかしら…
それは魔に魅入られたような瞬間だった。
底無しの虚無がぽっかりと顎をあけて、アンジェリークを手招きしていた。その禍禍しい虚無の誘惑は抗い難いものに思えた。
私はいないほうがいいの?でも、それにはどうすればいいの?それに…いなくなるってどういうこと?この世から消えちゃうってどういうこと?消えちゃったら…どうなるの?…
アンジェリークはのろのろと自分の手をあげ、見るともなしに自分の掌を見つめた。
私がこの世から消えてしまえば…皆に心配をかけることはなくなるかもしれない…でも、誰にも、会えなくなる…話せなくなる…触れられなくなる…消えるってそういうこと?…誰とも、何とも一切の係わり合いがなくなってしまうってこと…?
夜眠る時、ジュリアスがいつも握ってくれるこの手、ジュリアスの背中にこの手を回した時はその体の厚さ重さに、生きている実感が…その喜びが染み入ってくるようだった…あの安心感も温もりも二度と感じられなくなるの?全部失くしてしまう…ううん、自分から捨ててしまうってこと?
…………いや…
そんなのはいや!
アンジェリークは我知らず自分で自分の体を抱きしめていた。
私、今、生きてる。倒れそうになりながらも、まだ生きてる。一人で閉じ込められていたら、とっくに死んでいたかもしれないのに、まだ生きてる。それはなぜ?誰が私を守ってくれていたの?どうして私はこの幽閉に耐えていられたの?
それは…それは私が一人じゃなかったから。
私を守る為、わざわざ戻ってきてくれたロザリア。私が今、自分を守れる力がないから…私を守る為に全ての力をふりしぼって自分が倒れそうになっているロザリア。
命の危険も顧ず怪物たちと闘っているであろう守護聖たち…ジュリアス…ジュリアス!この宇宙を守ろうとするは彼の意識として当然だろうけど…でも、一刻も早く私を助け出したいときっと思ってくれてるはず…
その人たちと会えなくなっていいの?自分から手を離してしまっていいの?
その人たちが自分の身も顧ず力を尽くしているのは何のため?
変な謙遜をして何になるの?ロザリアもジュリアスも私のために…守護聖たちも皆私のために、必死になってくれてるのに!
なのに、いざ、助けだそうとした時、私がいなくなっていたらその人たちはどう思う?殺されたんじゃない。自分からいなくなったりしたら、…ううん、言葉を誤魔化しちゃだめ…自分から死んでしまったら、なぜ、死んでしまったのかって、きっと…そう、悲しいのと同じ位怒りを覚えると思うわ、怒りながら泣くわ。どうしようもなく悲しく寂しく思うわ。自分たちを信じて待っていてくれなかったのかと、裏切られたような気がすると思うわ。例え理由を知ったとしても…きっとそれは同じ。だってどんなことがあっても、それでも、大切な人には生きていてほしいと私なら思うから…あきらめないでほしかったって思うから。そして、救出が間に合わなかったって、自分たちが遅かったって後悔するかもしれないわ。ずっと後悔の重い十字架を背負うのかもしれないわ。私は、私の大切な人たちにそんな思いを味あわせていいの?私のために必死になってくれている皆を知ってるのに…その思いを弾き返して、撥ね退けて、自分からなにもかも捨てるような真似をしていいの?そんなのだめ!そんなことしていい訳ない!
私…消えたりしない。あの人に会いたい、もう一度会いたい。会うまでは死ねない。殺されるかもしれない…そう覚悟したわ。でも、殺されずにすんだ…生きていればまたジュリアスに会えるかもしれない。なのに、それを自分から捨てるなんてこと絶対にしちゃだめ。せっかく迎えに来たとき、私がいなかったらジュリアスはどれほど哀しむの?どれほど嘆くの?それがわかるから…
アンジェリークは苦労してたちあがった。ずっと同じ姿勢でいた関節が強張って痛かった。それでも、壁に手をつきながら立った。そして蒼白な顔で新しい服を揃え身支度を整えた。横顔に血の気はなかったが、その瞳には光が戻っていた。
その後、この一念だけでアンジェリークは残りの幽閉の日々を乗りきったといっても過言ではなかった。
身に残っていた痕跡を綺麗に拭い去ってしまえば、当時憔悴しきっていたロザリアに自分の微妙な変化が気付かれることはなかったと思う。
自分が立っていられないほど消耗しているのは、その当時ある意味日常と化していたから、半ば寝た切りのようになってしまっても、ロザリアに不審がられることはなかった。
ロザリアには気付かれたくなかった。
こんなことが私の身におきたと知ったら、私を守れなかったと、何のために自分はいたのかと、ロザリアは自分のことを責めるに違いない。今でさえ体力も精神力もぎりぎりの所で彼女自身と私を守っているロザリアなのに。このことを知ったら、二度とこんなことがないようにと更に無理をしかねない。
二度…それがもっとも恐ろしいことだった。
どうやってあいつらが入ってきたのか、アンジェリークはわからなかった。でも、いくら退けても塔内にモンスターがいなくならなかったように、自分たちにはわからない抜け穴のようなものがあるのかもしれない。モンスターがいるのだから、あいつらがまたこないとも限らない。
この後、結界を張る時、アンジェリークは必ず自分も結界の内側にいるように心掛けた。ロザリアが休んでいる間、替りに仕事を何もできなくなったが仕方なかった。ロザリアが目覚めている時はどんなことであれ、一人で行うのは危ないからとロザリアと行動を供にするようにした。
警戒をおこたらなったせいか、闘いが激化して捕虜を嬲りものにする余裕もなくなったのか、その禍禍しい来訪者は二度と現れなかった。
しかし、今日こなかったというのは、明日もこないという保証ではない。そんな緊張に耐える日々ももう限界かと思った時に、アンジェリークはコレットと守護聖たちに救出されたのだった。
目の前に現れた守護聖を見て、最初は恐怖に凍り付き、そして、その瞳の色を見て安堵のあまり気を失った。気力だけで張っていた意識の糸がぷっつりと途切れたのだった。
最後の闘いを終えて、皆が聖地に帰ってくる。
アンジェリークは避難先の辺境でその朗報を聞きながら、喜びの影に隠れながら徐々に募っていく戸惑いを持て余していた。
第一報の音声のみの報告によると皇帝とその一味は倒されると、かき消す様に消滅してしまったという。死体は愚か彼らの存在した痕跡は、比喩でなく塵ひとつなにも後に残らなかったらしい。
まるで侵略者の存在そのものが悪夢だったかのようだとアンジェリークは思った。恐怖と苦痛の記憶は確かに存るのに、現実にその痕跡は微塵も残らないとは…まさに悪夢そのものだった。
洗脳され、モンスター化していた住人たちも、皇帝の消滅とともに夢から醒めたように正気に戻ったという。
これで…もう安心…なのかしら…私も、あの悪夢から覚めるとこができるのかしら…もうあの影に怯えなくてすむのかしら。
救出されてからアンジェリークが意識を取り戻さぬうちに、守護聖たちは最後の闘いに赴いていた。
茫漠と夢とうつつをいきつ戻りつする間に、ジュリアスの声を聞いたような気もしたが、はっきりとした記憶はない。
意識を取り戻した後は静養も兼ねて、二度と敵の手におちることがないよう、辺境の惑星に避難した、いや、させられていたのだった。でも、もうそれも終わる…終わったのだ。
これで自分も聖地に帰れる…どうせなら皆が帰る日にちにあわせて、自分も聖地に帰りたかった。
しっかりと意識を取り戻した上で守護聖たちに…ジュリアスに会うのは幽閉されて以来、アンジェリークとしてはこれが初めてになるからだった。
きちんと見送ることもできぬまま、守護聖たちを闘いに行かせてしまった。彼らが必死になって闘っている間、自分は戦禍の及ばない後方で安穏としていたという申し訳なさもある。その思いが悔いとなってアンジェリークの心を塞いでいた。尤もここまで消耗していては同行しても足手まといになるだけなのがわかってもいたが。
自分だけが救出されても闘いは終わったわけではない。むしろ私の救出ができて初めて、守護聖たちは敵の殲滅という純粋な戦闘に赴けたのだということはわかっていた。
しかし敵の本拠地にこちらから出向かねばならぬ闘いはいろいろな意味で不利な条件のほうが多い。
敵は迎え撃つ準備を怠りなく行っているだろうし、それでなくとも必死に応戦してくるだろう。彼らにはもう後がないのだから。
アンジェリークは祈った。今は祈ることしかできなかった。皆の無事を。宇宙の行く末を。
万が一守護聖たちが倒れたら、私が出なくてはならない。刺し違えても皇帝を倒さなくてはならない。その後の宇宙の混乱と指導者なき混沌の到来を考えたら、私や守護聖が死ぬ事態はなるべく避けなくてはならないが、それでも外宇宙の侵略者に宇宙をのっとられるよりはいい。今は力を吸収されなくなったから、体は回復しつつあるが、まだ平常時には程遠い状態だった。それでも、最悪の時のことを考えたら、今、自分のしなくてはならないことは体力の回復と温存、これに尽きた。
それ故、救出されたといってもアンジェリークの心は真の平穏とはほど遠い状況だった。その緊張感は幽閉時から幾分和らいでいたとはいえ、質的には同一のものだった。
気力と使命感だけで自分を支えていたという点で。
だから、守護聖が侵略者達を皆倒し、しかも、自分たちには犠牲は誰もでなかったことを聞いた時、アンジェリークは安堵のあまり涙がとまらなかった。久方ぶりの暖かい涙だった。そして同時に心に浮かんだのは目に見えぬ神々への純粋な感謝の念だった。
この宇宙にサクリアというものを満たし、それを司る者を無作為に抜き出し管理をまかせるこの宇宙のあり方には、自分たちに明確には感知できずとも大いなる意思の力を感じずにはいられない。この宇宙を作った意志は、自分たちの宇宙を救うためにありったけの力を注いだ彼らを見捨てはしなかった、純粋にそう思い感謝した。
皆闘いで傷ついているであろう。疲れているであろう。平和を取り戻したことを目に見える形で皆に実感してもらうために、何より、見送ることができなかったから、せめて守護聖たちをねぎらう為に、きちんと出迎えをしたかった。そのため、勝利の第一報を聞いてからすぐ、自分も聖地に帰りたい旨と祝賀会の準備を命じた。
しかし、興奮が冷めるに従い、アンジェリークの心に僅かな影がさしていった。
今までは、緊張と使命感で張り詰めて生きてきた。彼に…ジュリアスに会って、ジュリアスの無事を確かめて、そして、助けてくれたことに、きっと、とても困難な旅だったろうに、それに耐えぬいて助けに来てくれたことにお礼を言って…それまではどんなことをしてでも生き抜くつもりだった。でも、その後は?
ジュリアス達に会うまでは、平和を取り戻すまでは死ねない、絶対に死なないと言聞かせてきた。
その自分を底支えしていた力がなくなってしまって、アンジェリークは突然自分の足許がはかなく揺らぎ崩れていくような心細さに襲われた。
私…ジュリアスと普通に話せるかしら…ジュリアスとどんな顔で会えばいいの?今まで通り、なにも変わらずにジュリアスに接することができるかしら…ジュリアスに…私はあの事を言うの?言わないの?私、どうするの…どうすればいいの…
自分を叱咤激励してきたやっとのことで立っていた論拠が失われた時、アンジェリークは自分を完膚なきまでに打ちのめした現実の重さに改めて喘ぎうめいた。
わからない…私、どうしよう…どうすればいいの?
その逡巡がアンジェリークから生きる気力を萎えさせた。救出されてからめきめきと回復していたアンジェリークが食物を受けつけなくなってしまったのはこの勝利の第一報を聞いた後だった。
必死に自分自身を保たねばならなかった第一の動機が失われてしまい、今まで無理に無理を重ねてきた反動がより強く重くアンジェリークを押しつぶしたのだった。
今まで無理やり燃料を注いで必死に燃やしていた炎がいきなり燃え尽きたかの様だった。
アンジェリークが何も食べようとしない、無理に何か食べても吐いてしまう、憂慮したロザリアはすぐに御典医にアンジェリークを診せた。衰えた体力が回復の端緒についたばかりだったから、その心配も並大抵ではなかった。
勝利による緊張の緩みで、今までの疲れが一気に出たのだという医師の言葉をロザリアは信じ…実際それはとても納得のいく説明だったから…アンジェリークを案じて、なんとか食物を口から摂らせようと必死の努力をしてはそれが果たせず、その美しい弧を描く眉が悲しげに顰められる日々が続いた。
それでも、アンジェリークのたっての願いでもあり、実際、馴染み深い心安らぐ聖地のほうが、アンジェリークも落ち付くかと思い、二人は予定通り、守護聖達の帰還にあわせて自分たちも聖地に戻った。
点滴による高カロリー輸液でこの数日は体力を保っていた。
顔色は酷いものだった。でも、今夜は皆が帰ってきた祝賀会だった。アンジェリークは頬と唇に自然に見える淡い色の紅をのせ、自分の顔色をどうにかつくろってその集まりに出席した。
女王として皆の苦労をねぎらい、取り戻せた平和を寿ぎ、そのために尽力してくれたコレットと守護聖たちに謝意を示した。
ダンスをする体力などまったくなかったから、自分は象徴として玉座に座っているだけで済むのはありがたかった。
それでも無事に帰ってきた皆の姿をみるのは、純粋に大きな喜びを改めてアンジェリークにもたらした。
皆、ほんとに、よく無事で…一人も欠けることなく戻ってきてくれた…戦争というものの質を考えればそれは奇跡に等しいことだった。命だけではない。誰も何も自分の体から失ったものはなかったのだから。
気付くとアンジェリークはジュリアスの姿を瞳で追っていた。
少し痩せたと思う。目に見える傷はないが、服に隠れた体の方は大丈夫なのだろうか。ああ、ジュリアス、あなたが生きて帰ってきてくれた、もう一度会えた、それだけでも自分が生きていた甲斐があった。あなたのそばに駈け寄りたい、あなたの無事な姿をこの目でもっとはっきり、何より触れて確かめたい。これが幻ではない、夢ではないと確かめたい。
ジュリアスも思いは同じだったのだろうか。
時折二人の視線は熱く絡み合った。守護聖たち、とりわけ惜しまず尽力してくれた新宇宙の女王をねぎらう催しであったから、あからさまに二人で寄り添う訳にもいかず、時折視線を交すだけで、アンジェリークはジュリアスと言葉らしい言葉を交せなかった。
だが、その宴が果てて三々五々皆が自室に引き上げる頃合になると、アンジェリークは皆をねぎらった上でそそくさと先に退出してしまった。
ジュリアスが自分をエスコートして退出したいと目で訴えていたのを知っていながら、いや、それに気付いたからこそ、逃げる様に退出してしまったのだ。
まだ、アンジェリークには心の整理がついていなかった。
二人になればきっとお互いに会えなかった間のことがどうしたって話に出よう。その時のことをどう話すのか、どこまで話すのか、いや、第一、どんな顔で会えばいいのか…あんなことがあった後で、私はジュリアスに普通に接することができるのか…正直言って怖かった。何があったか知られることが怖いの?私はなにも知られたくないの?それとも、全部打明けてしまった方がいいのかしら?その決断を迫られること自体が怖かった。その覚悟がアンジェリークはできていなかった。
その晩、ジュリアスが私室を訪ねてきた。半ば予想していたことだった。
自分だって、久方ぶりの逢瀬なのだ。普通に考えたら二人きりで過ごしたい。何から話したらいいかわからないくらい、本当なら話もある。
だが、アンジェリークはわざと残しておいた女官に慇懃にジュリアスの来訪を断らせた。
ジュリアスが恐らく傷心することはわかっていた。
それでも、この時、アンジェリークにジュリアスと対峙する心構えはまだできていなかった。
何より、救出されて日も経っているのに病み衰えたままのような自分の姿をつぶさにみられ、その訳をいぶかしがられるのが怖かった。
今日も食事は喉を通らなかった…カトラリーでつつくだけつついた食事の盆を下げさせ、アンジェリークはベッドの上で溜息をついていた。
いつまでも、こんなことではいけない…わかっているのに、体が受けつけてくれない。自分は緩慢な死を望んでいるのだろうか…そうは思いたくなかった。なにもかも永遠に先送りすることなどできないとわかっているのに…昨晩来訪を断ってしまったジュリアスのことにしても、いつまでも会わずにいられる道理もないのに…訳も知らせず、ジュリアスと二人で会うことを避けつづけたりしたら、ジュリアスが傷つく、その理由がわからず苦しむ。それがわかっているのに、では、いざジュリアスと二人きりになったらどう接したらいいか考えるだけで途方にくれてしまう。何も喉に通らなくなる。
何度ついたかわからない溜息をまたひとつ零したその時、ドアの外が何やら騒がしくなったと思うと、いきなり、本当にいきなりジュリアスが部屋に入ってきて、アンジェリークの寝台の傍らに跪いたのだ。アンジェリークは比喩でなく硬直した。思考も、体も、言葉も。この病みやつれた様子を見られてしまった。気付かれてしまった。そう思ったら、もう何をどうしていいのか、まったくわからなくなった。
しかし、ジュリアスはただせつせつと自分の身を案じる言葉を並べていた。自分を詰問するようなこともなく、ただ、打ちひしがれ弱っている自分に手を差し伸べることを許してくれと懇願された。
その言葉に、胸が熱くなった。アンジェリークは女官たちの手前、必死で涙をこらえた。
ジュリアスへの感謝の思いで胸ははちきれそうだった。ばかな私…私だって、ジュリアスが弱っていたら、なぜそんなことになったのか詰問したり訳を知ろうとする前に、目の前で辛い思いをしているあなたをなんとかしたいと思うにきまっているのに…目の前で弱っているあなたに手を差し伸べさせてもらえなかったら、それがどんなに寂しくつらいことか、少し考えればわかりそうなものだったのに…こみあげる思いに短い礼の言葉を絞り出すのがやっとだった。
とにかく元気にならなくちゃ…少しでも、少しづつでも…ジュリアスにこんな心配をかけてちゃいけない…ロザリアも、なかなか元気になれない私の様子に心を痛めてるってわかっていたのに…
それからジュリアスは今までの空白を取り戻そうとするかのように、付きっきりでアンジェリークの世話を焼いてくれた。
この高雅な男性が、いくら自分が女王とはいえ、なりふり構わぬ様子で自分に甲斐甲斐しく仕えてくれるその様がアンジェリークは申し訳なかった。周囲になんと思われるか…自分ではない、ジュリアスがだ…も気になったから、一日でも早く体調を取り戻さねば、と強く思うようになった。そのため、喉を通らないと思った食べ物も、ジュリアスが口に運んでくれる時は、嫌といわず無理にでも飲み下した。ジュリアスが、あれなら食べられそうか、これならどうだと、喉越しや口当たりのいいものを懸命に探してもってきてくれるので、尚更食べなくては申し訳がたたなかった。
ジュリアスは自分について世話をしてくれている間にあの闘いについてわかったことを、いろいろと話してくれた。
自分たちが闘った皇帝の腹心たちは守護聖のレプリカだったこと。それは自分達の血液を元に作った器に皇帝の魔導という未知の力で魂を封じこめた人造生命だったこと。皇帝は守護聖の血液を集めるためもあって、自分たちに近づいてきたらしいこと。そしてなぜ、皇帝がこの宇宙を侵略しにきたのかその訳…これは、皇帝の恋人だったという女性の残留思念をコレットが感じ取ったことで初めてわかったことだった。コレットの共感能力、シャーマンとしての力はやはり比類ないものだったということだろう。コレットがいなければあの侵略の背後にあるものはわからなかっただろう。
しかし、この時アンジェリークは侵略の理由より、もっと卑近な事実に激しく動揺した。この戦争の原因となったある女性の生き様、死に様を自分の立場と対比して考えられる様になったのは…自分の意志によらず追いこまれた境遇の類似性や選んだ結末は正反対であったことへの様様な感慨など、いろいろ考えられるようになったのはもっと後のことだ。
口にださなかったものの、自分が見た以外にもそれぞれ守護聖の偽者が作られていたとはっきり聞いて…半ば予想していたことだったが…とてつもなく恐ろしく嫌な気分に襲われた。あの二人にしか襲われなかったことは単なる僥倖だったのかもしれない。もっともっと最悪のシナリオさえ用意されていたのかもしれないと思うと、また込み上げてくる吐き気を堪えるのにありったけの精神力をつかわねばならなかった。
そして、あいつらがその死に際して跡形もなく消えてしまったというのも、もともとこの宇宙に存在しない生命が自然の理を捻じ曲げて無理やり具現化させられたものの末路として、それはあまりに当然の結末のように思えた。
ジュリアスはジュリアスで、自分の話の合間に幽閉時はさぞかし辛かったことだろうと、アンジェリークに話を向けてきた。
しかし、アンジェリークはあまり多くは語らなかった。あの当時のことを思い出すのは辛いのだとジュリアスに言った。その言葉に嘘はなかった。一回告げたらジュリアスはそれ以上もう詳しく聞いてはこなかった。
そして、一度夜の来訪を断って以来、ジュリアスは私的なアンジェリークの部屋への訪いも、ぷっつりと自分からやめていた。昼間は付きっきりで何くれとなく世話をしてくれるのに、私的には決して近づいてこようとしなくなっていた。
それは気を悪くしているからとか隔てをおいているからではなく、ジュリアスなりの気遣いであることは明かだった。ジュリアスはとにかく自分が一日も早く回復することを望んでいる。それ以外のことは眼中にない。私に滋養をとらせ休息させることしか考えていないのだ。その気持ちがひしひしと伝わってくるから、アンジェリークはジュリアスが供する食物だけはなんとか受け入れた。それが1番ジュリアスを喜ばせ、安心させるから。
無理にであろうとも摂取した栄養は少しづつではあったがきちんとアンジェリークを回復させていった。
もう、一人で長時間起きて、たっていられるようになっていた。サクリアも順調に身体に満ち始めた。
まだ本調子ではなかったが、もう、これなら…普通に生活できる。そう思ったとき、アンジェリークはある種の覚悟を決めてジュリアスを私的に呼び出した。
自分でもどう転ぶかわからなかった。
その場の成り行きで…結果次第で、どうするか決めるつもりだった。ぶっつけ本番のテストを受けるみたいに。
ジュリアスが来てくれた。
何も言わずに抱き付いた。体の震えが止まらなかった。
ジュリアスは戸惑っていた。
それでも、唇をねだると応えてくれた。最初はおずおずと遠慮がちに…しかしすぐにこの上なく情熱的にアンジェリークの唇を食み舌を吸ってきた。久方ぶりの甘い唇の感触に、ジュリアス自身も意外なほど火をつけられてしまったのかもしれない。
ジュリアスの柔らかい唇と舌を受けながら、アンジェリークもまた、ジュリアスという存在の掛け替えのなさをいやというほど噛み締めていた。
力強い腕、逞しい体躯、自分を包むような髪、仄かに漂ってくるジュリアス自身の香り…隙間なく触れ合って初めて感じられるもの、そのなにもかもが懐かしく、慕わしく涙がでそうだった。永遠にでも口付けていたいと思った。でも、その気持ちと唇を無理やりふりほどき、まだキスしたりなさそうなジュリアスをアンジェリークはまっすぐ見上げ、そして、自分を抱いてくれと言った。
キスには即座に応えてくれたジュリアスも、これには驚き、応えようとはしてくれなかった。しかし、アンジェリークは退く気はなかった。駄々っ子のように執拗に、思いが通るまで何度でも要求した。
最後にはジュリアスも根負けして…何度も何度も気遣いの言葉をかけながら…それでも、自分をベッドに運んでくれた。
アンジェリークは緊張していた。これは賭けだった。踏みにじられたのが自分の体の最後の記憶なんて悲しすぎる。忘れる事、なかったことにできないなら、あの忌まわしい事実をジュリアスに塗りなおしてもらえないだろうか…せめて、優しい慕わしい思いを体に上書きできないだろうか…
でも、自分の体は、ジュリアスを…男性と言うものを受け入れることができるだろうか、忌まわしい記憶に心が占められて、体は閉じたまま開かないかもしれない…それが心配でたまらなかった。体が反応するかわからないのにジュリアスに情交を要求したのは、考えてみれば失礼なことだった。でも、アンジェリークも考えているだけではもうどうにも手詰まりだったのだ。もし、試みて、自分の体が開かなかったら…自分の体は嫌な思い出に閉ざされてしまったのなら、そのことをジュリアスに打明けようと思った。その結果、ジュリアスが自分をどう思うか…怖かった…ジュリアスは離れていってしまうだろうか…でも、何も告げずに拒み続ける方が多分ジュリアスは傷つくと思うから…
ジュリアスは壊れものを扱う様に自分に触れてきた。自分の体が惨めなほど痩せ衰えてしまったからだろう。捨てられた子猫のようにがりがりになってしまった…こんなみっともない体を晒さないほうがよかった?でも、思いきらないと、決心が鈍ってしまいそうで…ずっとうやむやにしてしまいそうだったから…ジュリアスの手も唇も羽が触れるように微かに肌の上を滑っていく。唇が首筋からのどの窪みに押し当てられる。ジュリアスの吐息が肌にかかる。大きな掌が乳房を包みこみ、やわやわとその存在を確かめる様に静かにもみしだく。首筋から降りてきた唇が乳房の先端を捕らえ、恭しく口付ける。その合間に幾度となく繰り返される自分の体を気遣う言葉…どこも辛くないか?苦しいところはないか?
そのたびに、大丈夫、大丈夫とアンジェリークは繰り返した。実際、自分でもいささか驚いたことにその言葉は本心だった。誤魔化しは微塵もなかった。私、嫌じゃない…ジュリアスに触れられても怖くない…平気…ううん、むしろ安心できる…心が温かくなっていく…ジュリアスの優しい瞳をみていれば…何も怖くない…
ジュリアスの愛しみに満ちた穏やかな愛撫と言葉に体も綻んでいく。滾々と泉が湧くように、心の中に暖かな思いが満ち満ちて、溢れていく。
私にとって男女の交わりとは最初からこういうものだった…お互い愛しんで大切なものを分け合って与え合って、重なりあって交じり合って、分かち難い思いを共有して…ジュリアスが私に教えてくれた…とてもとても幸せな時間…
その時アンジェリークは豁然と悟った。
これが…この幸せで暖かな営みこそが情交なら…あれは、あんなものは情交でも性交でもない。あれは…ただの一方的な暴力だった。激しい殴打や打擲となんら変わらない、恐怖と苦痛で私の体も思考も麻痺させ、全ての尊厳を奪い、私の心を引き裂いたあの行為…あの時どんな事象のどんなレベルであれ、あいつらと私の間に「交わった」物などなにもなかった…単純な行為だけでみたら似ていても、まったく違うものだった。
アンジェリークは涙がでそうだった。ジュリアスの行為は、愛しみ、慰撫、1つに溶け合いたいとの思い、全部が愛しいという思いに裏打ちされたものだった。限りなく豊かで限りなく優しい思いだった。同じように見える行為でも、並列して論ずるのが申し訳ないくらい、ひとつはこの上なく崇高であり、もうひとつは汚辱に塗れたものだった。
だから…私、きっとジュリアスを受け入れられる…まったく違う物だって思えたから…なにもなかったように、以前通りに…恐ろしい暴力の記憶もきっとジュリアスと一緒にいるうちに薄れていくに違いない…ジュリアスがいてくれれば忘れることができるだろう…
そう思った時、丁度ジュリアスがゆっくりと探る様にアンジェリークのなかに入ってきた。
暖かかった…じわじわと温もりが体中を満たした。背中に腕をまわして引寄せるようにジュリアスを抱きながら無意識に「…忘れさせて…」と思ったことを口の端にのせていたらしい。
いきなり、息も止まるほどきつく抱きしめられた。
ジュリアスが自分を抱きながら、何度も何度も謝罪していた。すまなかった、迎えに来るのが遅くなって本当にすまなかったと。
アンジェリークも謝罪されるだけ答えた。信じてたから。きっと来てくれるって信じてたから。
ジュリアスが感極まったように切切と訴えた。
「なにもかも忘れろ、忘れてしまえ。もう、おまえをおびやかすものは何もない…これからはいつも私が一緒だ…」
こらえきれなかった。アンジェリークは声をあげて泣いた。ジュリアスの前で初めて声をあげて泣いた。
ジュリアスは黙ってただずっと抱きしめていてくれた。髪を撫でながら、涙を唇で拭いながら。ひとつになったまま、ずっと抱きしめていてくれた。白皙の胸が自分の涙でしとどにぬれても腕を緩めず、動くこともなく、1つに結ばれたまま抱きしめ続けてくれた。
アンジェリークは、もう何も言うまい、言わなくてもいい、とこの時決めた。
私が幽閉されていたというだけで、こんなに済まながって、こんなに自分を責めているあなた…私を救い出すのが遅くなったと、何度も謝るあなた…事実を今更うちあけても、それはさらにあなたを苦しめるだけ…だから、もういい。あなたがいてくれれば、きっと大丈夫だから…
この時、アンジェリークは心底そう思ったのだ。
自分はジュリアスと、あの出来事とは切り離して考えられた。それなら、敢えてジュリアスを苦しめ後悔させるだけであろう出来事など言わなくてもいい。きっと何もなかったように、今まで通りになれるだろうから…と思ったのだ。
だが、アンジェリークが思ったほどは、その事実は簡単に記憶の奥底に埋もれてはくれなかった。
何度あの悪夢を見、そのたびに夢で良かったと思い、しかし、あれは夢ではなかったということも思い知らされ枕を涙で濡らしただろう。
ジュリアスが側にいてくれる夜はよかった。悪夢に飛び起きても、側にいるジュリアスの温もりを感じれば心は落ち着いた。しかし、そんな夜はそう多くなかった。
目の前で泣けば、ジュリアスが心配する。泣いても訳がうちあけられないから尚更だ。だからなるべく泣かないようにしてきた。
しかし、今日は…オスカーとランディの前で混乱のあまり、精神の失調をきたしたあげく、目覚めた時は夢と現実の区別がつかなかなり、現実を思い知らされた落胆に身も世もなく泣き崩れてしまった。
ジュリアスが闘いから帰ってきた後初めて過ごした夜に思いきり泣いてから、アンジェリークはジュリアスの見ている前で泣いたのは今日が初めてだったかもしれない。
でも、あの時は泣いただけで、何があったのか、なぜ自分はこんなに泣いているのか、自分はジュリアスに言えなかった。
私の衰え様を見て、何度も何度も謝るジュリアスにそれ以上のことを言えなかった。
あの時何もうちあけなかったことで、アンジェリークは打明ける機会を逸したのだともいえた。
ジュリアスは、自分の消耗はひとえに何時果てるともしれなかった幽閉のため、それだけだと思っている。
そして、アンジェリークは、予想もしていない事実を他人に告げる、それがいかに難しいことであるかをひしひしと感じていた。
悪い事であればあるほど、予想もしていなかったことであればあるほど、それは難しい。人は思いもよらなかった悪い事実を聞かされたら、驚き、戸惑い、為す術もなくうろたえてしまうだけだろう。
それに、アンジェリークもこの事実を言葉にする事自体が未だに辛くて果たせない。
今だ、あのことを思い出し、口にしようとするだけで、胸が真っ二つに裂けて血が迸りでるかと思うほどの痛みに目がくらみそうになる。
そして、アンジェリークは思う。人は真に苦悩の只中にいる時は、その苦悩を口にすること自体が辛くて難いのだと。辛い事を辛いと言えるようになるのは、その事実からいくらかでも距離を置けるようになって初めてできることなのかもしれないと。
どうして、いつまでも私は忘れることができないの?
あの時は、忘れられると思ったのに…ジュリアスの優しく、それでいて情熱的な思いを感じられるから大丈夫だと思ったのに…
でも、それがうまくできないから、ジュリアスを今更悩ませてる、ジュリアスは私のおかしな態度の原因がわからなくて悩んでいる。でも、ジュリアスがそんなことを今更聞かされたらどれほどショックをうけるか、それが否応無くわかるから…相手が思いもよらない事を告げるのが、こんなに勇気のいることだったなんて、こんなに難しいことだったなんて…それがいいことじゃないから尚更言いにくい。そして時間が経てば経つほど、ますます本当のことを言えなくなっていくの…だって、今更言って何になるっていうの?ジュリアスだって、今更打明けられても、困惑するだけじゃないの?
でも…言えないからといって、忘れられる訳じゃない。忘れなくちゃと思うほどに、却って意識がそこから離れなくて苦しい…
そのせいで、私はオスカーの事もひどく傷つけてしまった。
前は心を、今度は体までも…自分の苦しさにばかり気をとられて…オスカーを傷つけた。なのに、何もなかったとこにしてくれたオスカー。訳を聞くどころか、私を責めるどころか、すべて隠し通そうとしてくれたオスカー。それはなぜ?私が負わせてしまった怪我を隠して、周りに口止めまでしようとしてくれた…ジュリアスがそう言っていたもの…それはなぜ?
………わかってる。それはきっと私のため…
私が訳をしられたくないだろうと思って、何もかも自分一人で背負ってくれて…
オスカー、オスカーにはきっとわかったのね…全部じゃなくても、私になにがあったか大体のところを察したのね、きっと…いつも、オスカーには隠し事ができなかったもの、不思議ね…
私、謝らなくちゃ…明日、きっと謝らなくちゃ。オスカーが何もかも知っていても…それなら尚更謝らなくちゃ…自分が苦しいからって、それは他人を傷つけていいってことじゃないもの。
いつのまにかジュリアスは眠っていたのだろうか。
アンジェリークを抱く腕の力が弱まっていた。
アンジェリークはジュリアスの手の甲を自分のほほに摺り寄せた。ジュリアスの繊細で美しい手がアンジェリークは好きだった。この手が自分の体を優しく愛撫してくれるのが好きだった。
この手にいつも救われてきた。
私を導き、引き上げ、後押ししてくれる力強く優しい手だった。
だから、どうか今度も勇気を頂戴…オスカーにきちんと謝れるように。だってジュリアスも、同じ立場ならきっとどんなに気が進まなくても、それでも謝りに行ったと思うから。そうよね?ジュリアス…