汝が魂魄は黄金の如し 23

ジュリアスからは、今夜も宮殿に参内する旨は伝えられなかった。

オスカーは、一言では表せぬ複雑な胸中を抱え、宮殿に入った。

アンジェリークの身を誰でもない、自分自身で守れることは名誉なことだし、他人任せにするよりオスカー自身もずっと安心できる。しかも、アンジェリークと接する時間が多くなるのは、純粋に喜ばしいことでもある。

しかし…今夜、アンジェリークは俺との時間を取ってくれるだろうか。

昨日、嫌なことを思い出させて…それは確認のために必要なことだったが、彼女を酷く泣かせ傷つけてしまっている。

彼女の顔を見るのが、辛い、気がすすまない…そんなことを思ったのは、俺に対する嫌悪をあからさまに見せられたりはしないかという恐怖故だった。いっそ、今夜は時間を作ってくれないほうが、いいかもしれない…俺自身の気持ちも固まっていない…そんな弱気なオスカーを叱咤するように、宮殿ホールの正面の花台には、清楚な白い薔薇が活けられていた。

オスカーは僅かでも俯き加減となっていた自分の心を恥じた。

俺が思い付いたあの考えは…まだ自分自身が確信しているわけではない。こんな気持ちで彼女に告げるのは時期尚早だし、自分が自信を持てない考えなど述べても、人に聞いてもらえ、納得してもらえるわけもない。まだ…言わなくていい。

自分自身にそう言聞かせ、オスカーは女王の執務室に向った。

 

今夜も飾らない、どちらかというと質素な食事の終わった後、オスカーはまた頃合を見計らってアンジェリークの私室を訪れた。

オスカーには、最早アンジェリークに確かめたい事実はない。提案することは、まだ煮詰めていない。アンジェリークの方に用件がなければ、今夜の逢瀬は短時間で終わるはずだった。

小さなノックをする。音もなくドアが開き、心得た様にオスカーはしなやかにその身を部屋にすべりこませる。まるで幾夜もそうしてきたようにその動きに淀みはない。

アンジェリークも無言でオスカーを招き入れ、やはり昨晩のように、椅子を勧め、コーヒーを抽れてから、自分も腰掛けた。やはり幾夜もこうしてきたように…

「陛下…いや、アンジェリーク…今夜は…」

「オスカー……あの…昨晩はごめんなさい…私、取り乱して…あなたに助けてもらって、ちゃんとお礼も言わないで…」

「そんな…謝るのは俺の方です…あなたを不用意に傷つけてしまった…もっと俺が言い方を考えればよかったのに…」

「あの、そのことなんだけど…それで…それで、私どうしても気になってしまって…どうしても知りたいの…」

「何をです?」

「オスカー、オスカーが昨日私に聞いた事…あれは、どうしても必要だったから聞いたことよね?そして、それはどうして?何故、私があいつらの正体に気付いていたかどうかが、重要なの?このことは、私が嫌な記憶を振り払えない事と関係があるの?あるとしたら、どんな関係があるの?」

「アンジェリーク…」

ぐ…とオスカーは詰まった。迂闊だった。アンジェリークは敏い女性だ。俺の質問の意味を考え、彼女自身の心の問題を考えれば、その二つに関係があるということは、気付いて当たり前だ。しかし…その関係を明かにすれば、俺が打つ手が見つけられず立ち竦んでしまっていた理由も、きっとわかってしまう…俺はどうすればいい…

唇を噛み締め、顔を曇らせているオスカーに、アンジェリークは畳み掛ける様に懇願した。

「お願い、オスカー、教えて?何かとっても重要なことのような気がするの。だけど、何故、そして、どういう風にこの事が関係してくるのか、私にはわからないの。一生懸命考えてみたけど、わからないの…取り乱さないって約束する、もうあんな風に泣かない、だから、お願い、教えて…」

オスカーははっと顔を上げた。アンジェリークは自分が取り乱すのを恐れて、俺が何も言おうとしないのだと誤解しているようだ。そうではない。君が、取り乱すのを疎んじて何も言えないのではないのだ。

「違う、違います。あなたが泣くと思って、俺は躊躇っているんじゃない。アンジェリーク、アンジェリーク、どうか、落ち付いて…取り乱しても、泣いてもいんです。泣くことを怖がらなくていいんです。だから、どうぞもっと気を楽にして…あなたが、また泣いても、取り乱しても、それは当たり前なんです。それはちっとも悪い事じゃない。気にしなくていい。だから、どうぞ、自分を縛らないで、もっと心を楽になさってください。」

「だって…だって、オスカー…私が取り乱すと思って、今も何も話そうとしてくれないのでしょう?昨日、もう辛いことは、私が泣くようなことは聞かないってオスカーは言っていたから…でも、私、このことはどうしても聞かなくちゃいけない事のような気がするの。何を言われても、私、我慢するから…お願い…」

オスカーは諦めたように長く嘆息した。

アンジェリークは真実を知りたがっている。自分の立っている所がわからなければ、そこからどこに進んでいいのかもわからないのだから、知りたいと思うのは当然なのだ。そして、自分の足許は自分にとっては最も見えにくい場所であるのも、オスカーにはよくわかる。

ここまでアンジェリークに懇願されては、オスカーにそれを退ける術はなかった。少なくとも自分の知っていることと、自分が確証していることだけは、言わずばなるまいと腹を括った。

「わかりました。約束します。あなたが泣いても、取り乱しても、俺はあなたに聞かれたことは、きちんと応えます。だから、そんなに思いつめないで…もっと気を楽にして…」

「でも…」

「それに…もし、あなたが泣いて取り乱しても、俺があなたの涙を払えると思います。昨日あなたは俺のサクリアが悪夢を焼き払ってくれたようだと言ってくれた…嬉しかった…こんな…こんな身でもあなたを少しでも楽にしてあげることができて…俺にそういう力があって…尤も俺の不用意な言葉があなたを苦しめたのだから、そんなことはして当たり前…いや、最初からそんなことにならないように注意しなければならなかったのに…軽率でした…」

「オスカー…」

「だから…安心してください。万が一、あなたが取り乱し、悲しい涙に染まって何も見えなくなった時は、俺が必ずその涙を払ってみせます。俺の持てる力の全てを持って。だから、泣いてもいい、取り乱してもいいんです。どうか我慢しないで…せめて俺の前でだけでも…あなたはもう十分すぎるほどの哀しみに耐えてきたのだから…」

アンジェリークの眦からほろりと涙が零れた。

「あ…大丈夫、これは、あの、ほっとして、嬉しくて出ちゃった涙だから…だから心配しないで、オスカー…ありがとうオスカー…」

オスカーに言われてみて、アンジェリークは初めて自分がどれほど気を張り詰めていたか、どれほど余裕がなかったかよくわかった。今不意をついて触れられたらそのまま自分の精神はぷつっと音をたてて断ち切れそうなほどだった。

泣いてはいけない、取り乱してはいけない。そう自分を縛っていた。でも、取り乱さないでいられる自信もなかった。だから、心は固く縮こまっていて、まったく余裕がなかった。

オスカーは私がゆっくりと息がつけるようにしてくれた。

取り乱してもいい、泣いてもいい、また何も見えなくなってもオスカーがその闇を焼き払ってくれる…昨日、そうしてくれたように…そう思うだけで、緊張が解けた。泣いてもいいのだと思うと、不思議に泣くことが怖くなくなった。崩折れたら差し出される手があると思える事は、これほどに心強いことなのかと知った。

アンジェリークはゆっくりと詰めていた息を吐き出した。オスカーが見ている限りでも、がちがちに強張っていた体の線が柔らかくなり、硬さが取れたのがわかった。

「そうね、泣いても…また、何もわからなくなっても、オスカーが側にいてくれるから…きっと大丈夫…ありがとうオスカー…」

アンジェリークはくっと顔をあげると、決然と、しかし思いつめた様子ではなく、再度オスカーに懇願した。

「だから、尚更教えて?オスカーが昨日私に聞いたことは、何が重要なの?何がどう関係あるの?どうか教えて…」

オスカーは一度俯いてから、顔を上げ、アンジェリークを心配そうに見つめた。

「これはあくまで俺の仮説です。そして…あなたにとってはまた辛いことを聞かせることになってしまうと思う…」

「…」

黙って頷き、アンジェリークは同意を示した。オスカーはその仕草に言葉を続けた。

「あなたは俺の姿に恐怖する。しかし、それは俺自身に怯えているのではない。俺が何物なのか一瞬では判断がつかず、混乱してしまうからだ。ここまではわかっていました。そして、俺は、俺たち守護聖は絶対混乱しないのに…同じように偽者を見ているのに、俺たちは混乱しないのに、あなたは混乱してしまう、その理由を、俺たちとあなたの違いを俺は考えてみたのです。」

「ええ…」

「俺たち守護聖は、例えどんな時でも今この地にいる守護聖が本物か偽者か等と、迷ったりはしない。ロザリアも同様です。ただし、俺たちとロザリアでは迷いがないといってもその意味が違う、ロザリアは偽守護聖を実際に見ていないから混乱しない。本物の守護聖しか見たことがなく、偽守護聖の事は話に聞いていてもその実感が掴めないから、逆に迷わないですむ。俺たちは、あいつらと直接対峙して、それぞれ自分たちの仲間と同じ顔をしたヤツがこの世にいるというあの喩えようのない気色悪さを実感しています。二つ同じ顔を並べてみることで、そいつらが外見を模してしても、その精神のありようが滲み出ると本物とは似ても似付かない印象になるので、身間違え様がないことを直接見知っている。しかし、あなたは偽者を見たが、俺たちと偽者が同時にいる場面は見ていないのです。それぞれに切り離した場面でしか…」

「あ!…」

「しかも、その当時、そいつらが俺たちの偽者であるとの確信も抱けなかった。当たり前です。あいつらがわざわざ自己紹介をする訳がない。しかも、恐らく最初は容姿を利用して俺たちを装ってあなたに近づいたことと思う、あなたに警戒されないために…」

「そう…そう…だった…わ…」

苦しそうにアンジェリークがもがいた。

「あなたは最後まで、そいつらの正体はわからなかった。守護聖でないと思う、しかし、守護聖でないとも言いきれない。何せ、そいつらはまったく同じ容姿でしかも、守護聖を装って近づいてきた挙句、あなたを蹂躙していった。そしていきなり現れ、あなたを蹂躙し去っていったものが一体なんだったのかあなたにはわからなかった…偽者であるという確信を抱けないまま、混乱のうちに全ては終わってしまった。だから、あなたは今でも混乱してしまうのです。いきなり目の前に現れられると、これは俺なのか、それとも訳のわからない何かなのか…守護聖の振りをして自分にひどい事をする者かもしれないと、咄嗟に警戒して警報が鳴ってしまうのです…」

「あ…」

「あなたは我々が同時に二人いる所を見ていない。俺たちと、偽者を切り離した場面でしか見ていない。だから、本当にあいつらが偽者だったという確証が掴めていないのです。その実感がないのです。あるのは、俺とランディの肉体があなたにひどい事をしたというその事実だけだ。だから、あなたは、あいつらが俺たちの偽者だったということを心の底から納得していない。実感していないからこそ、今目に前にいる俺たちが、何ものなのか自信が持てずに混乱してしまうのです。当たり前だ。あなたが襲われた時だって、それが何ものかなんてわからなかった。なら、今目の前にいるこれ…つまり俺たちですが…の正体だって何なのかなんて確証はない。確信できない。万が一、また自分を虐げる方の守護聖だったらどうしようと、無意識のうちに警戒してしまう。だから、怯えが抑えられないのです。」

「でも…でも、あいつらは死んだって私は知っているのに…なのに、どうして…私は…」

「あなたは、俺と同じ容姿を持つものが同時に存在していたというその事実を実感していないばかりか、そいつらの死もはっきりと確認していないからです。」

「あ!」

「俺たちはあいつらを生きたまま引っ立てて、あなたの目の前で処刑するべきだった…できれば、あなた自身で引導を渡せればもっとよかった…そうであればあなたもあいつらの存在とその死が自分のものとして、実感できたはずだった…」

「あ…そんな…」

「俺たちはあなたがそんな目にあっていたとは露しらなかったから、あっさりとその場で殺してしまった…死体も回収できなかった…塵となって消えてしまったから…俺たちがあいつらの死体を…それが無理でも首級だけでも持ちかえることができて、俺たちがいるその場でそれをあなたに見せることができていれば…それがどんなにおぞましいものであれ、その衝撃があれば、あなたはそいつらの正体を肌身で実感できたはずなのです。ここに俺はいる、なのに、目の前に俺と同じ顔の生首があれば…例え生きている所は見ずとも、俺と同じ顔の人間が二人いたことを、そして、そいつらが二度と現れる心配がないことも心の底から実感できたでしょう。」

「やめて!そんな怖いこと…」

「いえ、これは本来必要なことでした。そして、死体を確認する事で、あいつらの死を、絶対の消滅をあなたがやはり、実感できていれば、あなたは、俺たちに怯える事も、混乱することもなかったと思うのです。あなたは、偽者が偽者であると確認する手段も、確証も得られなかった。あなたがわかっているのは、俺とランディの肉体があなたに惨いことをした、その事実だけです。そして、いくら言葉を尽くそうと、実体験の伴わない空々しい言葉は、あなたが被った悲劇を覆すだけの力を持たなかった。だから、あなたはいまだに怯えてしまうのです。俺が俺である確信がいまだにもてないから。あいつらが、俺たちの偽者である確信も持てないでいるから…そして、あいつらの消滅もまた実感できないでいるから…」

「あ…あぁ…」

「俺は自分の仮説を確かめるために、あなたは偽者の正体に気付いていたのか確認したかったのです。そして俺の仮説なら…あなたがいまだに悪夢を払えない訳が説明できてしまうのです…。あなたは様様な面で実感が持てずにいるためにあなたの中であの悪夢は消滅していない。いまだにそこにある。あなたは普段はそれに理性で蓋をしている。しかし、その悪夢はまだ消えたわけではないから、隙あらばその蓋を押しのけて出てきてしまう。箱に捨てたつもりでも、その箱は空になっていないから、何かの拍子でその中身が出てきてしまうことがある…その刺激が、俺とランディの姿だということでしょう…」

「……待って…それって…それってつまり…」

アンジェリークはオスカーの言葉を必死に噛み砕こうとする。

「私は…私は、あなたたちと偽者が一緒にいる所を見ていない、あいつらが死んだ所も見ていない…だから、いまでも、いつまた理不尽に襲われるかわからないと怯えているから、あなたやランディが一緒にいる所を見たり、笑って近寄ってこられると、怖くてどうしたらいいかわからなくなってしまう…」

ここまで自分で言った時、アンジェリークの双眸が恐怖と絶望に見開かれ、顔は蒼白になった。

「待って…待って…それじゃ、それじゃあ、私は…どうやって、あいつらが偽者だったって今更実感することができるの?オスカー、あなたが言った通り、今更二人一緒にいるところも、死体も見れないのよ、それじゃ…私…どうすればいいの?ずっと…ずっとこのまま、永遠に、いつまた自分を襲うかわからない影に怯えていかなくちゃいけないの…」

アンジェリークが呆然と力なく、椅子に沈みこんだ。

「アンジェリーク!!どうか、気をしっかりもってください!」

「だって…どうして?どうしてそんなことがいえるの?オスカー…。だってもうどうしようもないじゃない…どうにもしようがないじゃない…あいつらが偽者だってことは、私は知識としては知っていたわ。それでも、あなたを見ると怯えてしまう自分がわからなかった。でも、あなたに言われてすごく腑におちたわ。そうよ、私は、アレが、あなたたちじゃないって、確信を持てなかった。今だって心の底では持てていないのかもしれない。上滑りな知識でだけ、あいつらの正体を知っていただけで…あいつらがもうこの世にいないってことも、後でそう聞いただけで…でも、あなたの言った通り、もうそれを確かめる術がないのも事実だわ…だったら、もうできることなんてないじゃないの…私は、いつまでもあなた自身ではないあなたの影に怯え、動転していつあなたを傷つけてしまうかわからない自分に怯え…もう…どうしようもないじゃないの…」

アンジェリークの心は砂でできた城のように崩壊寸前だった。あまりの絶望に涙も出なかった。

自分の心がどうにもコントロールできない理由に、オスカーの説明がぴたりと嵌りこんだ。言われてみて自分の不可解な心の動きが、手に取るように見えるようになった。

しかし、理由がわかった時点で、打つ手がないこともわかってしまった。

時間は巻き戻せない。自分には真実を真実と確信する術がない。

自分自身の辛い経験を過去のこととして抹消することができないのだから、それは無理矢理にでも封印するしかない。

そして、その上で自分がしなければならないことは…感情を制御できずに動揺した挙句にオスカーとランディを傷つけるようなことだけは、避けなければならない…それには…

「オスカー、あなたが…昨日、言ってたことがわかったわ…どうしたらいいのかわからないって言ってた訳が…時間は戻せない、あいつらの死体を見ることもできない…私はあいつらが偽者以外の何物でもないこと、あいつらは滅んで二度と私の前に現れない事を実感する術がもうないから…だから、あなたは、私を安心させてやる術がないって言ったのね…」

「アンジェリーク!昨日は!昨日は確かにそうだったが!」

「昨日だけじゃないわ……明日になっても、いくら考えても、この後何百年時間が経っても、時間を巻き戻すことだけはできない以上、できることなんてないわ…ありがとう、オスカー…それでも、私、自分が何に怯えていたのかわかっただけでも…よかった…これであなたたちを傷つけないためにどうすればいいのかだけはわかったから…」

「何を…何をするつもりだ!アンジェリーク!」

「誤解しないで、私は女王だもの。自分を儚くしたりしない。そんなことは許されない。でも、あなたたちも同じように大切、絶対に失う訳にはいかない存在…でも、度を失ったら私はあなたたちに何をしてしまうかわからない…あなたの怪我が大した事はなかったのも本当にただの偶然だもの…でも、長い長い年月の間に私の痛みが自然と薄らぐ可能性もあるけど、とりかえしのつかない事をしてしまう可能性だって同じ位あるわ。だから…聖地に帰れたら私は…」

オスカーははっとして立ち上がった。アンジェリークは以前に俺が想像した最悪の事態をも予見していしまった。故意ではないといえ、女王が現職の守護聖を死に至らしめる…その恐ろしい可能性も否定できないことを、彼女は気付いてしまったのだ。そして、そんな事態を招かないために、彼女ができることと言ったら…オスカーはアンジェリークに覆い被さる様に詰め寄った。

「だめだ!そんなことはしてはだめだ!誰にも会わず、誰にも接することなく時の虜囚として、ただサクリアの器として生きていくなんて!そんな哀しいことをしてはだめだ!」

アンジェリークはオスカーの視線に屈したように横を向く。

「オスカーにはやっぱり、なんでもわかってしまうのね…私がしようとしていることも…でも、それ以外にどうしようがあるっていうの?オスカーは以前言っていたわね?最悪の事態を考えてそれに対する手立てを講じなければ、危機管理にはならないのだと…取りかえしのつかない事態が起きてから悔いても遅いんだって…この土地では、聖殿の奥深くに閉じこもって誰にも会わないなことは難しいけれど…もし、聖地に帰れたら…それで…そこで皆とはもう二度と会わないわ…あなたたち二人にだけ会わずにいるなんてそんな不自然なことはできないから…」

「だめだ!そんなことをしてはだめだ!アンジェリーク!」

「いいえ…前の女王陛下と同じようにするだけですもの。心配はいらないわ。ああ、でも…この後いっそ、サクリアが綺麗になくなってしまえば、あなたにそんな哀しい顔をさせないですむのかしら、オスカー…ジュリアスにも…二度と会えなくても、ジュリアスも仕方ないと思ってくれるだろうし…」

諦めたようにここまで言うと、アンジェリークの双眸から涙がはらはらと止め処もなく溢れでた。

前女王陛下は宮殿の奥深くに住まい、補佐官であるディア以外には誰にも会おうとせず、首座であるジュリアスも滅多に尊顔を拝することはなかったという。自分が女王になってみてわかったが、いくら身の安全に万全を期する為であっても、滅びつつあった宇宙の保全に忙殺されていたとしても、そこまで頑なに人を排さずとも女王の執務は行えると思う。ということは、前女王陛下にも、なにか…人とは会うに会えない訳があったのかもしれない。そして、前女王陛下ができたことが…私にできないはずはない。ただ…今までが…ジュリアスや皆と過ごしてこられた時間があまりに楽しく幸せだったから…一度にそれを諦めきるのが辛いだけ…

「今だけ…今だけ泣かせてくれる?ここにいられる間は、あなたたちと一緒にいられるんだから、まだ、あななたちとおしゃべりしたり、外にでかけたりできるんだからって、思うようにするから…この間に思い出を一杯作るから…そう思って明日から、また笑ってみせるから…」

オスカーはアンジェリークの前にひざまづいて激しく首を振った。

「だめだ!だめだ、アンジェリーク!そんなことをしてはだめだ!そんなことをしても、誰も幸せになどなれない!君も!ジュリアス様も!そして、そんなことで命を永らえる俺自身も!」

彼女の震える手を握ってやりたかった。しかし、できなかった。彼女の手に触れる寸前でオスカーの手は止まったままだった。

「俺は…いや、俺だけじゃない。守護聖は皆、君が俺たちの傍らに在ってくれる女王でいてくれてどれほど救われたことか…あなたを守り、支え、供に宇宙を導いていけることの実感がどれほどの励みであり、やりがいを培ってくれたことか…それは…それは皆、あなたに必要とされていると、あなたが俺たちに思わせてくれるからだ。あなたの笑顔が、労いが、喜びがあるからだ。訳もわからず、いきなりあなたが誰にも会わなくなり、象徴と孤高の存在になってしまったら、皆がどれほど哀しむか…寂しく思うか…そしてあなた自身も…そんな生き方が幸せなはずがない…」

心の柔らかな部分を故意に鈍磨させなければ、とてもやりすごせないような部分が守護聖の生き方にはある。それを光喜あるものに変えてくれたのは、君の笑顔だった。君の笑顔を守ることが、俺の喜びであるのに、その笑顔の喪失と引き換えの安泰な治世など、いかほどの価値があるというのだ。オスカーは叫び出したいような激した感情と、底無しの哀感とがない交ぜになって、言葉がうまく出てこない。

アンジェリークはオスカーの内面など知る由もなく、哀しそうに首を横に振るだけだった。

「でも、少なくとも…あなたたちを傷つけないですむわ…守護聖を危険に晒すことはできない以上、わたしには、もうこうするしか…」

「待ってくれ!全てを諦めてしまう前に……できることがあるかもしれないんだ…」

「なんですって?オスカー…?」

アンジェリークが信じられないといった面持ちで、食い入るようにオスカーを見つめている。本当は言うつもりはなかった。自分でも確信の持てる方法ではなかった。第一アンジェリークが受け入れる訳がないとも思う。

しかし、このままではアンジェリークは…自らのサクリア全てを意図的に涸れるまで使い切って、聖地に皆を送り届けた途端、自分一人聖地から去るか、よしんばサクリアが回復しても、自分自身を宮殿に幽閉して誰にも会わずにサクリアの衰えを待つだけの、サクリアの傀儡になる決意をしてしまう。

アンジェリークの意図は痛いほどわかった。守護聖も女王も自分の意志ではその地位を降りられない、互いの在任期間もわからない、その間は聖地にしか居場所がない、顔をあわせないようにしようにも逃げ場がないのだ。しかし、なんの落ち度もない俺とランディだけを退ける理由を明示できない以上、彼女自身ができることは自らの軟禁幽閉しかない。偏に俺たちを傷つけない為に…

しかし…そんないつ果てるともしれぬ永劫とも思えるほどの時間を、ただ、サクリアを調節するだけの道具として生きていくつもりだなんて…彼女一人をそんな境遇に陥らせていいわけがない!黙ってみていることなどできるわけがない!そんなことを彼女にさせるくらいなら…他に方法があるのなら…例えそれがどんな方法であっても…

オスカーは瞬間とてつもなく辛そうな哀しそうな瞳でアンジェリークを見つめた後、大きく深呼吸してから、噛んで含める様にこう言った。

「アンジェリーク、いいか、落ち付いて聞いてほしい。先入観や世間一般の常識というものに捕らわれず俺の言葉を虚心で聞いてくれるか?」

「…」

アンジェリークはオスカーが何を言出すつもりなのか訝しんだ。今更、何を言うことがあるのだろうと。

しかし、オスカーは今まで、意味のないことなどしたことはない、言ったことはない。そして、いつでも自分を助けてくれた。助けようとしてくれた。だから、アンジェリークは素直にオスカーの言に耳を傾けるべく、こくんと頷き、オスカーの言葉を待った。

「俺は確かにこの問題に徒手空拳だった。君と同じように、時間は戻せないこと、死体の確認などどうやってもできないこと、だから、俺が俺であることを君に信じてもらえない。この点で躓いていた。しかしだ…逆から見方を変えてみたらどうだろう。君が「俺は俺である」「オスカー以外の何物でもない」ということを、実感してくれたら、肌身で知ってもらえたら…君は混乱しなくなるのではないだろうか。君の混乱は確信が持てないこと。あいつらが偽者である確信が持てないのなら、逆に俺が俺であることの確信を持ってもらえれば君は混乱しなくなるのではないだろうか。君が混乱しなくなれば、君は俺たちを傷つけることを心配する必要もなくなる。君は自分をサクリアを操るだけの道具に貶める必要もなくなる…」

「でも…でも、どうやって?あなたがオスカーであることは、オスカーはオスカーだってことは、私も頭では知っているのよ?だけど、知っているだけじゃ、だめなんだもの…この前も、だから、私はあなたを傷つけてしまったのだし…」

「そう、知識として知るだけじゃだめだった…だが…その肌身でもって感じることができれば…」

「え?…」

「アンジェリーク、俺たち守護聖は、闘いの場で乱戦や混戦になっても、仲間と偽者を取り違えることはなかった。いちいち瞳の色を確認しなくてもだ偽者は偽者と容易に知れた。これはなぜかというと、同じ顔、同じ体でも、その闘い方、くせ、表情なんかが、人間の中身に呼応してまったく違うものだったからだ。同じ戦闘と言う状況下で、まったく異なる仕草、対応、行動をとることで、本物と偽者の彼我の区別がより際立った。つまり、同じ状況下で、異なる行動をとることが、人間と言うのは最も差異を明確に感じるものなんだ。同じような境遇でもまったく違う行為をすると「こいつは、見た目は同じようでも俺の知ってるいるヤツではない」とよりはっきりわかるものなんだ。つまりその身をもって実感できる…」

「オスカー、私、あなたの言っていることの意味がわからない…だって、あなたが、あなた以外の何物でもないことを、私がわかるようになれば混乱しなくなるって言っていたこと、これはわかるわ。でも、闘いであなたたちは、混乱しなかったことと、これと何の関係があるの?戦闘では同じ顔でもまったく違う行為をするから、偽者は偽者だって、すぐわかったってことと…」

「ある同一の状況下に置かれた時、見た目が同じでも、その人間がまったく違う行動をとるところを目の当りにすれば、その人間は、自分の知っている人間と違うらしいと自ずとわかるだろう?それこそ、その身をもって実感できるはずだ。同じ状況に置かれた時、俺があいつとまったく異なる行動をすると、君にわかってもらえれば…俺は俺であると実感してもらえるのではないかと…俺は考えたんだ…」

ここまで言うとオスカーは苦しそうに俯いてしまった。

「同じ状況で異なる行動…?」

オスカーは諦めたように首を横に振った。

「いや、済まなかった…俺自身もまだ整理できていない。確信の持てない考えなんだ。今のは聞かなかったことにして…」

その時アンジェリークが「あ!」と声をあげた。オスカーは思わず顔をあげた。アンジェリークの瞳が驚愕に零れ落ちそうなほど見開かれていた。

「オスカー、オスカー…それってまさか…、同じ状況で、オスカーが違う行為をすれば、オスカーはオスカーだって、私が実感できるかもしれないって、それってつまり…」

アンジェリークはそれ以上言葉を発することができず、助けを求める様にオスカーを見つめた。アンジェリークの口から、こんなことを言わせることなどできない、言える訳もない。

「…そうだ。アンジェリーク…君が俺と…俺と寝てみれば、俺が君を抱けば…そういうことだ…」

オスカーは、苦渋に満ちた声音で、途切れ途切れに、やっとのことでこれだけ言った。

言ってしまった…オスカーはアンジェリークの顔をまっすぐに見られず、顔を背けた。

 

何分くらい、二人は黙りこくっていたのだろう。

ものすごく長い時間のような気がしたが、実際は一分も経っていなかったかもしれない。

しかし、沈黙に耐え切れず、オスカーは冗談めかして手を上げた。

「悪かった、今言ったことは忘れてくれ…馬鹿なことを言った…」

彫像のように固まっていたアンジェリークが息を吹き返した様に、ぎこちなく首を振った。

「いいえ…いいえ、オスカーは馬鹿なことなんて言ったことはないわ、あなたが言うことに意味のなかったことなんて、ないわ…」

「アンジェリーク…?」

「オスカー、あなたは…真剣にそう考えたのでしょう?そうすれば、私は、あなたがあなた以外の何物でもないって、心から実感できると思って…」

そうだ、俺は冗談や、ふざけてこんなことを言ったのではない。それは確かにそうだった。そして、一度口にしてしまった以上、アンジェリークに無用の誤解を与えない為に、真剣にその意図を説明したほうがいいとオスカーは思いなおした。

「…そうだ。理由はさっき言った通りだ…過去に起きたことの証拠はもう提示できない。死体は存在しない。そもそも君に死体を確認させたかったのは、そのことであいつらはもうこの世にいない。つまり、この世にこの容姿を持っているのは一人、炎の守護聖である俺しかいないのだと君に確信してもらいたかったからだ。しかし、死体を確認する事が本来の目的じゃないと俺は気付いた。本来の目的は…俺は俺であること、俺でしかないことを、君に確信してもらうことだ。そうすれば、敢えて死体なぞ見せる必要がないことに気付いたんだ。俺が俺であると君が実感してくれれば、君はもう俺が何者かと混乱し取り乱す心配がなくなる。ここにいるのは、俺以外では有得ないと実感してくれれば、少なくとも俺の容姿に警戒警報を出す怖れが激減する。そうなれば…君が動転して俺たちを傷つける心配もなくなる、君の心もいくらかでも平穏を取り戻せる…そう考えたんだ…」

アンジェリークは真剣な面持ちでオスカーの言に耳を傾けてくれていた。

オスカーは、アンジェリークが、自分の提言を冷静に考えようとしてくれているらしいことに驚いていた。それはもちろん、冷静であろうと彼女が必死に自分にいい聞かせたいるためだろうが…それでも、激怒したり、自分を軽蔑しないでくれたことに、オスカーは恐ろしいほどに安堵していた。

アンジェリークの反応に息を止めて硬化していたのは自分も同様だった。

何を馬鹿なことを!と吐き捨てるように一喝されると思っていた。蛇蝎を見る如き視線を浴びせられるかと覚悟し、それを正面から身据える勇気がなく、顔を背けた。

なのに、アンジェリークからかけられた言葉は自分を非難するどころか、自分を信頼しているがゆえに、その理由を確認するための言葉のようだった。

ありがたかった。ただ、その信頼の気持ちがありがたかった。

「君が、こんな提案を受け入れるはずがない、君に軽蔑されるのがオチだと思っていたから、言うつもりはなかった…しかし、君が、俺たちを傷つけない為に、敢えて自らを虜囚のように幽閉するつもりと知って…黙っていられなくなった…君にとって、どちらが受け入れやすいことなのか、俺にはわからない…俺に抱かれるなど、考えられないのも無理はない。だが…君がサクリアの傀儡となって眠ったまま生きるような生しか送れないというなら…人間としての喜びも愛も全て捨てなければならないというのなら…それしか方法がないと思う前に、こんな馬鹿なことでも…試してもらいたいと思った…それで君が自らを幽閉しないでくれるなら…君が今まで通りに過ごせ、いつも俺たちの側に在る女王でいられるなら…それには意味があると思った…君が自らを幽閉するよりは、いいことだと思ったんだ。君にも、ジュリアス様にも、そして俺自身にとっても…」

「オスカー…私…馬鹿なことだなんて思わない…あなたはいつも私のことを真剣に考えてくれた…いつも私を守ってくれた…それがわかっているから…だから、このこともあなたが、本当に私や、ジュリアスとのことを考えて言ってくれているのはわかる…だけど、私には、あなたにそこまでしてもらう謂れがないわ…」

「謂れ…?どういうことだ?」

自分と褥を供にするなど…同衾するなどとんでもない、触れられるのも躊躇うのに、肌を合わせるなど虫唾が走る…アンジェリークはここまであからさまにはいわないかもしれないが、そういう意味合いでオスカーはアンジェリークが自分の言葉に唾棄するものと思っていた。

しかし、アンジェリークが言った言葉は拒否は拒否でも…乗り気でないというよりは…これは…謂れがないというのは…申し訳ながっている?どういうことかオスカーにはまったく訳がわからない。

「そう…あなたにそこまでしてもらう理由がないわ…これは、あなたが私の体を警護することとは訳が違う…あなたが私の体を災厄から守ってくれるのは、私が女王としての務めを果すのに、支障がないようにだわ。例え私が宮殿に閉じこもりきりになっても、女王としての責務は果せるのだから…だから、無理して、私に今まで通りの生き方をさせてくれなくてもいいのよ。私が女としての愛を諦めることになっても、それどころか守護聖の誰とも会わず、言葉を交わす事もなくても、女王の護衛責任者としてのあなたは、義務や責務を疎かにしたことにはならないわ。それに前にも言ったけど、あなたの偽者が私を酷い目に合わせたからという理由で、あなたが責任を感じる事でもないわ。あなたは何も悪くないのだから…だから、あなたが贖罪する必要なんてないの。好きでもない女を無理に…義務や義理で抱くのは苦痛ではないの?あなたにそんなことをさせられない、自分が少しでも楽に生きるために、あなたを利用するみたいなことはできない。あなたに抱いてくれなんて…私には言えないわ…」

「違う!アンジェリーク!逆だ!俺は、俺は君を…っ!」

「え?」

オスカーは苛立たしげに頭を振って、渾身の精神力で漸く続く言葉を飲みこんだ。

思わず自分の気持ちを告げてしまいそうになってしまった。

そんなことをしてもアンジェリークが困るだけだ。俺は女王の騎士に徹すると誓ったはずなのに…

ましてや、俺が君に気持ちを告げてしまったらどうなる?

俺が君を抱くと言ったのは、自分の欲望を満たすため…そう思われてしまいかねない…しかし、これは彼女が自分自身を幽閉させずにすむかもしれない方策だと真剣に俺は考えたのだ。彼女が自身を幽閉しないですむなら、どんな馬鹿げたことであっても検討してもらいたいと思う。だが、邪な気持ちから出た言葉だと思われたら、それを考えてもらうことすら不可能になってしまう。

そして…俺はそういう気持ちが欠片もないのか?と問われたら、そうではないと言いきる自信はやはりないのだ…

だって、こんなにも愛しい、こんなにも大切で仕方ない、彼女の笑顔を守るためならなんでもできると掛け値なしに思えてしまう。愛しているか?と問われたら、魂の全てをもって愛していると即座に言える。愛しいと思う相手と結ばれたいと思うこと…これは人としてあまりに当たり前の情だから…俺はその気持ちを否定する事はできないから…

しかし、これはアンジェリークに告げていいことではない。それだけは圧し留めなくてはならない。どれほどこの思いは溢れ出そうと。この思いに自らが溺れそうであろうとも。

「アンジェリーク、これは…とある人間が言っていたことだ…人のため…その言葉で行われる行為は、本当はその人のためにするんじゃない。本人がせずにはいられない、しないと気がすまないからするだけなんだと。俺は、君のため…というおためごかしも言える。しかし、実のところは俺が、俺自身が耐えられないんだ、そいつの言う通り。君がサクリアの道具としてしか生を送れないことに。人間として、女性として、人を愛し愛されて生きる可能性を全て捨てて、サクリアの傀儡としてしか永の生を許されないことに…」

俺の気持ちが彼女に気付かれなければそれでいい…そして、俺のこの言葉も…嘘ではない。第一義ではないというだけで…

「だが、例え動機が、自分の気がすまないからでも、それは、自分自身のためでしかないかもしれなくても、結果としてその人が僅かでも楽になれるなら…それがその人にとって良い結果をもたらすなら、俺はそれは悪い事ではないと思う。君が夜想祭を開くのと一緒だ。それはもともとは民のためではない、自分自身のためだと君は言ったな?しかし、その行為でこの地の民は確かに救われる、心が楽になれる。それなら、それはいいことなのだと、ジュリアス様もオリヴィエも言った。俺もそう思う。このこともそうは思えないだろうか。俺は君が生きながら虜囚の身になることを見ているのがつらい。黙ってみていることなどできない。その訳を知っているから尚更だ。だから、君がそんな境遇にならずにすむためにできることなら、どんなことであれしてみたいと思う。してみる価値があると思う。それとも君は…君自身は今まで通り、皆と自由に会って話して出かけて…という立場より、誰にも会わずに治世を終える事を望んでいるのか?そうではないだろう?」

「それは…!でも…でも…」

「君が躊躇っているのは…セックスは人が最も深い部分で触れ合う行為だからということもあるのだろう…だが、俺自身はセックスは恋愛感情の証明でないものがあっていいと思う。労りや、慰めや、思いやり…そこに男女の恋情はなくても、慰撫のための情交があってもいいと思う…俺は少なくともそう思っている。それに守護聖と女王の間のある敬愛の感情も好意とは言えないだろうか…それでも、君の見方ではやはり、これは好きでもない女を義理で抱く事になってしまうのだろうか…」

ここまでは言ってもいいだろう…例えそれが男女の情でなくても、皆、守護聖はアンジェリークの事が好きだ。そういう意味で受けとってもらえるように、皆と同じように君が好きだと思ってもらえるように…

「だから、俺のことは考えないでくれていい。少なくとも、俺は…俺の方は好きでもない女を義理や義務で抱くなんてことは思っていない。何もしないで手を拱いて見ているだけのほうが、俺はよっぽど辛い。君が人生の喜びを全て諦めた犠牲の上で、俺一人がのうのうとおめおめと生きていくことなどできるわけもない…だから、俺のことは考えなくていいんだ。だが、君が…やはり恋情のない男の腕に抱かれたくない…そんなことは考えられないと言うなら…それは俺にもわかる…それなら、はっきりそう言ってくれていい。それが当たり前なのだから…」

「………オスカー…少し考えさせて…」

「………」

比喩でなくオスカーは言葉を失った。

アンジェリーク自身の気持ちは?と問うたら、それは問答無用で一蹴されるものと思っていたから。

まさか、少しでもアンジェリークが検討する気があるとは思ってもいなかった。、

「いいんだ、アンジェリーク…これは、さっき言った通り、俺が…俺の気が済まないから言ってみただけで…君は気にしなくていいんだ…」

みっともなくも、動揺が抑えられない。

「どうして?オスカーは、そのことが有効だと思ったから…言ってくれたんでしょう?私が自分で自分を幽閉しないでも済むように…でも、オスカー…私は、私は本当に、それを望んでもいいのかしら…サクリアのある間、少しだけ自分のことを考えて生きてもいいのかしら…それは許されることなのかしら…」

「俺は…俺はそれでいいと思う。俺たち守護聖や女王は義務と責務からは逃れられない、逃れてはいけない。しかし、その義務をまっとうする上で、ささやかな心の支えを欲する事の何が罪になるというのだろう…あなたも、そして、ジュリアス様も…そして、あなたが自身を幽閉することで哀しむのは俺とジュリアス様だけではない。守護聖の皆が、聖地の住人皆が嘆くことは必定だと思うから…」

「オスカー…どんな結論であれ、自分で考えて自分で出すわ。それまで…待っていて…」

「ああ…」

二人ともに、どちらからともなく視線を外す。

「すまない、長居をした。なにかあったら…遠慮なく呼びたててくれ。そのためのこの身だから…」

「オスカー…」

オスカーはアンジェリークの前にひざまづき、礼をして部屋から立ち去った。

控えの間にひきとったものの、休むような気分にはとてもなれなかった。

アンジェリークが、熟考したとしても、その結果は自ずと明かに違いない…しかし、それではやはりアンジェリークは自分で自分を幽閉してしまうのか?

俺は…俺は…いや、何も考えないほうがいい。彼女は自分で考えると言ったのだから…

だが、彼女が自らを幽閉する決意を翻さないのなら…その時は俺はどうしたらいいのだろう…

彼女が俺の腕に抱かれるとは思えない。しかし、このままでは、無事に聖地に帰れても彼女は孤高の女王として孤独と寂寥に塗れた治世を何時果てるともなく…俺かランディか彼女自身のサクリアが潰えるまで、続けなくてはならない。

彼女をそんな身におとしたくはない。なんとかして他の方法を…俺が俺でしかないと、彼女にわかってもらえそうな方策を考えなくては…聖地に帰還する前に…しかし、一体どんな手立てがあるというのか…

オスカーの心はまったく晴れ渡る気配を見せなかった。

 

 

翌朝、執務前の御前会議でジュリアスから、育成に関する新らしい方法の提案が為された。

ジュリアスの提案は、コレットが育成に来たら、各々親交の深い守護聖と二人で協力してサクリアを一地点に注ぎこむ方法を試してほしいというものだった。

というのも、先の闘いの時、親交の深い守護聖同士が協力して魔法を発動させ、効果を倍増させられたことを考えると、育成においても同じ方法が可能ではないかということが、クラヴィスから提唱されたからだという。その経験を参考にしてほしいとジュリアスが付け加えた。

その事を指摘され、守護聖一同は多いに納得し、試行の気運が高まった。

この協力育成が上手く発動すれば、今は綱渡り的な育成の進行状況も余裕が産まれる可能性が高い。

短時間で効率のよい育成法が確立すれば、多少の突発事態にも慌てず対処できるし、何よりコレット自身に余裕ができる。あの心やさしいおとなしやかな新宇宙の女王が、重責に喘いで押しつぶされてしまう心配が相当に減ずる。

アンジェリークも、明るくなりつつある見とおしに意欲を見せている守護聖たちの様子に安心したような笑みを浮かべている。

そしてジュリアスの提言が終わると、次に補佐官のロザリアから、この地土着の祈願祭『夜想祭』という祭りを人心の安定と慰労のためにアンジェリークが開くことが告げられた。

この祭りにはオーロラの光臨に大きな意味があるので、雪祈祭と同様にアンジェリークがその力を使ってオーロラを出してくれることと、オーロラの発生に活発な太陽活動が不可欠なので、太陽活動を観測した結果、祭りの開催は3日後が適当と思われることも付け加えられた。

育成の進行によって、霊震の激化が予想されるので、人心の安定のためにも、この祝祭は有効であろう、また、人心に希望を与えたいと願う陛下の温情を皆も心にとめておいてもらいたいという、ジュリアスのコメントでその朝の会議は締めくくられたのだった。


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