汝が魂魄は黄金の如し 24

昨日も今日もアンジェリークは白薔薇を摘んでいなかった。

事実関係の確認はほぼ、済んでいる。問題はそれにどう対応するかで、その対応策も提示されている。

ただ、その提言に対し自分の気持ちが定まらない状態で、二人で会ったとしても何を話す事があるというのだろう。だから、アンジェリークは薔薇を摘まない。

そう…自分でも意外なことに、アンジェリークは気持ちが定められないのだった。

オスカーの提言は、破天荒なものとしか思えなかった。自分は恋人がいる身で、その恋人を嫌いになったとか、仲たがいをしている訳ではない。なのに他の男性と同衾するなんて、普通なら考えられる訳もない。オスカーの提言は一蹴して当然のはずだった。

なのに、アンジェリークはなぜかそれができなかった。そして、今も…

受け入れる勇気も断る勇気もない…そんな心境が一番正しいかもしれない。

もちろん、オスカーの事は嫌いではない。むしろ、好きだと思う。

だけど…自分がオスカーとそんなことをするなんて、考えたこともなかった。だって、オスカーにとって私は守備範囲外だもの…オスカーの相手が勤まるような大人の女性じゃないから…割りきった一時のラブ・アフェアに自分が向いていない自覚はありすぎるほどにある。

でも…そうね…そういう捌けた関係を好むオスカーにとっては、そんなにおおごとではないのかもしれない。

幾許かの好意さえあれば、それは容易いことなのかもしれない。私が思うほどに、すごい決心のいることじゃないのかもしれない。

ううん、違うわ…オスカーにとってこれはラブ・アフェアではないのだもの…人助けとでもいえばいいのかしら…その方法が、情事であるというだけで…そうよ、ただのラブ・アフェアの誘いならオスカーが私にするわけもないし、私だってこんなに考えたりしない。

だから…問題は私の気持ちなんだわ…気持ち?というより、その受取り方なのかもしれない。オスカーに言われた方法を私が特別に意味のあるものだと思わずに済めば…溺れそうな人間が綱や浮き輪を投げてもらうようなものだと思えれば…そうよ、オスカーは私の状態を見ていられないからだと言ったわ。だから、オスカーにとって、あの提言は溺れる人間に手を差し伸べずにはいられない、そんな気持ちなのかもしれないわ。

でも、オスカーだってやっぱり悩んでた…躊躇っていたと思う…だから、自分に言聞かせていたんだと思うわ、それがどんな方法であれ、その人にとって救いになるならそれはいいことなのだと思うようにしたって。

だから、私も同じように割りきれればいいのかもしれないけど…でも、自分が少しでも楽になるためにこの方法を選んでもいいとは私には言いきれない。

それは私はオスカーが好きだし、信頼もしてる…だけど…ああ、また元に戻っちゃったわ…

アンジェリークの思考は同心円をぐるぐる回る玩具のようだ。動いてはいてもどこにも進んでいない。

どうして、私、そんなこと考えられないとも、選んでいいとも、言いきれないのかしら…どちらであれ言いきれてしまうのなら、ある意味簡単なのに。

断りきれないのは…オスカーが言うことに一理あるって思う部分があるから。

オスカーの言葉は、恐ろしいほどすぅっと心に染み込んでくるの。

それは、オスカーの言っていることが正しいから。反発や疑念を差し挟む余地もないほど、真実だから。そう思わせる力がオスカーの言葉にはあるのよ…

だって、オスカーの説明で、私、今まで全然見えなかった自分の問題が鏡でみるみたいによくわかったもの…そう…自分の顔は、自分の物なのに、それははっきりわかっているのに、鏡がないと全体像は自分にはわからないわ。それと同じ事。オスカーは私の鏡になってくれたのよ。だから、私は今までそこに抱えていても、見えなかった気持ちとか、問題が見えるようになったんだわ…

だから、上手くいくかどうかは別として、オスカーの言うことを頭から馬鹿げてるなんて、決めつけられない。オスカーは真剣に私の問題を考えて検討してくれて、私にもよく見えるように問題を整理してくれたのだもの。それだけ真剣に考えてくれたオスカーの言葉を馬鹿げてるなんて一方的に決めたりしてはいけないと思う。

オスカーが、戯れ事を言ったのではないのも、すごくよくわかった。オスカーは真面目に、私が少しでも楽になれそうな方法を考えて、そして、あれが…オスカーが私を抱くことが、多分、最も早く効果のある方法だと思ったからこそ、言ったんだわ。

だけど…だけど…だからといって、「はいわかりました」ってオスカーに抱かれるなんてことが私にできるの?そんなことをしてしまっていいの?

だって、私が前女王陛下のように…宮殿に閉じこもればそれで済むことでもあるのよ。なのに、私は少しでも自分が楽になるために、オスカーを利用するように抱かれるなんてことが許されるの?…オスカーは私を少しでも楽にしようとしてくれてるのはわかる。だけど、それに甘えて、そんなことを望んでもいいと思っているの?

それに…こんなことジュリアスには言えない、言えるはずもない。

そう、これが…単に溺れている人間が救命具を投げてもらうのとは違うことよ。救命具を受取っても誰かを傷つけたり苦しめたりはしないけど、このことはそれとは次元が違うから…

だって、オスカーと私が情を交す事実を知れば、そこにどんな理由があれその事実自体がジュリアスを苦しめる。事実を言えないのももちろんだけど、何故、オスカーと情を通じるのか、その理由を言えば更にジュリアスを苦しめるだけだから。オスカーと私が情を通じると言う事実と同じ位の重さで、いえ、それ以上にその理由はジュリアスを苦しめてしまうだろうから。

一時は全部言ってしまえば、楽になるのかも…と思っていたわ。

でも、そうじゃなかった。オスカーと話してみて、それがよくわかったわ。ジュリアスに全てを打明けても、私の動揺や動転はきっと納まらなかったはずだから。オスカーの言う通り、私が、あいつらはもうこの世にいないことを実感できない限り、心は平穏にはなれないだろうから。それなら、言わないでおいてよかった。ジュリアスを罪悪感と悔恨で苦しめる上に、原因がわかっても彼には打つ手がないことで、二重の苦しみを味合わせるだけだったろうから…そして、僅かでも私の心の状態を緩和できそうな方法がオスカーとの情事だけだとわかったら…私にもわかったのだもの、ジュリアスだって気付いてしまうかもしれない…そうしたらジュリアスは自分から私にそうしろと言ってしまいそうな気さえするの。どんなに自分の心が痛もうと…私が少しでも楽になる可能性があるなら試してみろと…ジュリアスなら言いそうな気がするの。

ジュリアスは、私をとっても大事にしてくれてる。それがひしひしと伝わってくるから、余計にそう思うの。

ジュリアスはとても優しい人だから…私が不安定なことに心を痛めて、どうにかしたいと思ってくれてるのが、すごくよくわかるから。そして、どうにかしたいと思っているのに方策が見つからなくて、もどかしくて苦しんでいたこともわかっているから…だからこそ、その方法がみつかったら…そして、あの人は、人のためと思えば、敢えて辛い決断もしてしまう人だとわかっているから…だから、尚更ジュリアスにこのことは決して打明けられない、相談もできない…

こんなに大切にされているのに、いつまでたっても不安定な自分が嫌だった。ジュリアスの真心も誠意もそのままに受取れない自分が嫌でたまらなかった。その原因もオスカーの言葉で説明できてしまった。いくら、ジュリアスに大事にされても、愛しまれても、それはあいつらが、この世にいないことの証明にはならないから…根本的な解決にはならないから、私は溢れるほどのジュリアスの愛に浸りながら、不安と怯えが拭いきれず、精神は不安定なままだったんだわ…そして、不安定な心はありもしない暗雲を勝手に見つけて、自分から囚われ様としてしまうんだわ…

だから、私の不安定さを払拭するには、きっとオスカーの言う通りにしたほうがいいのかもしれない。そして、それができるのは、オスカーだけなのかもしれないってことも、わかるの。だけど、私は本当にオスカーの言う通りになんてできるの?また私が動転してオスカーを傷つけてしまう可能性だって、否定できないのに。

それに…それに…もしそうしたとしても、その後で、私はジュリアスの顔をまっすぐ見られるのかしら?なにもなかったようにジュリアスと接することなんてできるのかしら?

私…どうしたらいいの?どうすればいいの?わからない…進む事も退く事も、どちらも怖いような気がして…

「陛下、失礼します。」

「きゃっ!あ…ああ、ジュリアス…?」

「陛下…どうなさいました?なにかご懸念でも?お顔の色があまりすぐれませんが…」

「あ、ごめんなさい、なんでもないの。ちょっと考え事をしてて…」

ジュリアスの秀麗な眉が顰められ、表情が僅かに曇った。

「何かご心配でもおありなのですか?最近、おそばに控えることができずに、私も心苦しいのですが……ただ、育成の結果が出るまで、今しばらく猶予を頂戴できますでしょうか…」

「あ…そんな…なんでもないの、気にしないで…ところで今はどんなご用?」

「先日試行してみた協力育成の途中経過を報告にと思いまして…」

今、女王の執務室には他に誰もいない。なのに、どこまでも守護聖としての分をわきまえた態度を崩さないジュリアスに、アンジェリークは理屈でなく、拗ねたくなるような感情が沸き立ち、つい、こんなことを言ってしまった。

「私の顔を見に来たとは言ってくれないの?ジュリアス…」

いきなり小声で囁かれ、ジュリアスは不覚にも一瞬動揺して、つい素に戻った応対をしてしまった。

「そのようなことを、公の場で言ってはならぬ。どこに人の目があるかわからぬのだぞ。」

「だって…」

しょんぼりした様子のアンジェリークを宥めるように、ジュリアスは物柔らかな笑みを浮かべた。

「言わずともわかっていると思っていた。そうでなければ、いちいち簡便な報告を行いに日に2度、3度と宮殿を訪れたりはしない。いや、いい訳じみているな、これでは…そうだ、そなたの顔がみたいから来ているのだ。僅かな時間であっても…変わりはないかと。まとまった時間がとれぬので余計にな。」

「ジュリアス…」

「済まぬ。各人それぞれの協力育成の効果を比較検討しているので、今はどうにもまとまった時間がとれぬ。夜想祭の夜には必ず体を空けるためにも、今成果を出しておきたいのだ。」

「夜想祭…そうよね、夜想祭は一緒にいてくれるんですものね。」

「忘れてはおらぬから、安心するがいい。」

アンジェリークを安心させるように微笑むとジュリアスは、協力育成を行った結果に関して簡便な報告をした。

「とりあえず、見込みのありそうな者同士で協力して育成を行ってみたのだが、やはり、相性というのがあるようで、元々親交の深いもの同士では、コレットの器にサクリアを一時に満たしても、それが乖離することはなかった。最低量のサクリアの放出でも、相乗効果で育成の数値自体はサクリアを放出した総量の1、5〜1、6倍に跳ね上がった。」

「それってすごいじゃない…」

「ああ、これほどまでに手応えがあるとは、正直いって思わなかった。コレットが育成に費やす回数を効率化できるだけでも良しと思っていたのだが、まさかエネルギー総量にも好影響が現れるとは思ってもいなかったのでな。まさに僥倖といったところか。クラヴィスも全くいい所に目をつけてくれたものだ。このペースで育成が進めば、かなり日程的にゆとりができる。コレットにももう少し息抜させてやる時間もとれそうだし…なにより、そなたがバリアを張る日数を減らせるやもしれぬ。」

「今までに、試してみたのは、どういう組みあわせなの?」

「とりあえずはっきりと結果が出たのは、クラヴィスとリュミエール、それと私とオスカーだ。」

「そう…なんていうか…とってもわかりやすい組み合わせね。」

この言い方にジュリアスは思わず破顔した。

「まあ、確かにそうかもしれぬな。先の戦争時に魔法が連携できたもの同士なら、上手くいくのではないかと憶測して試してみたのだ。」

「あ…ああ、魔法…そう…あの時の闘いが役に立ったのね…」

アンジェリークの語尾が僅かに震えたことにはっとした。

ジュリアスは唇を引き締めた。迂闊だった。予想以上に育成の協力が上手くいったので、浮かれてしまったらしい。あの戦争の時の事をアンジェリークの前で持ち出すなど愚の骨頂だというのに…アンジェリークにそれと気付かれないように戦争から意識を反らさねばと、ジュリアスは思う。

「そういえば、オスカーはきちんとそなたの警護についているか?」

「あ…ええ、もちろんよ…」

「ああ、あれがそなたの側についていてくれるから、私も安心して執務に専念できている。そなたの護衛としての能力はあれが最も信頼がおけるからな。おかげで協力育成の分析に集中できたのだ。」

「そう…そうね…あ…他の人ではまだ試してないの?」

「前提条件として、力が十分に補充されていることがまず必要なのでな。で、意外だったのは、どうやら、私とクラヴィスでも上手くいきそうな気配なのだ。ところが、私とルヴァではだめだった。クラヴィスとルヴァも育成ではどうもしっくりいかぬ。こればかりは相性と言うやつか…しかし、それで言ったら、私とクラヴィスも合わなさそうなものなのだがな。」

こんな冗談めかした物言いは、最近のジュリアスにはなかったものだ。育成の手応えにジュリアスはかなり、気分が高揚しているようにアンジェリークには思えた。ここ数日来では、初めてというくらい饒舌である。しかし、ジュリアスの饒舌の本当の理由をアンジェリークは気付かず、ジュリアスの言葉を真面目に考えて返した。

「そうかしら?あなたとクラヴィスって、正反対のようでいて、お互いなくてはならない存在とでもいうの?根っこのところでは一番理解しあって、能力も信頼しあってるみたいに見えるけど?だって、正反対の力って言っても、炎と水みたいにお互いを変質させたり、特質を消してしまう力じゃないもの。光があるから闇はできるし、闇があるから光はくっきりと輝くでしょ?互いの存在があるからこそ、その特質もより鮮明に際立つとでもいうのかしら…なのに、どうして表面上はあまり関わりあわないようにしてるのか不思議だったの。」

「そうか?む…そう言われてみたら、そうかもしれぬな…」

戦争から意識をそらすだけのつもりで言った言葉を、アンジェリークに真剣に検討され、ジュリアスはその思ってもみなかった考えに自分の方が新鮮な思いを抱かされた。アンジェリークは理屈や推論で思考を構築するというよりは、直感的に物事の全体像を把握する。そして荒削りながら、それが本質を射抜いている事も多く、ジュリアスが気付かない視点を指摘されることも、今のようにしばしばあるのだった。

「私が聖地に来た時は、ジュリアスもクラヴィスもお互いになんだかよそよそしくて、その時は、気質が正反対だからってそれが当たり前みたいに思っていたけど、ほんとはそうじゃないんじゃないかって、後から思うようになったの。光と闇って反対の力というより、裏表とでもいうのかしら?本来不可分な存在じゃないかって思って…それで、あの…こんな言い方失礼かもしれないけど、私が来た時より、今のほうがなんだか、2人とも仲良しになった気がするの…違う?」

「そうだな…それは…そなたの存在もあるやもしれぬな。」

「わたし?私がなに?」

「確かにそなたが女王候補だった当時、私とクラヴィスの仲はかなり険悪だったと思う。今にして思えば、それは…いや、これはその内時間のある時にでも話そう。一言で言うのは少し難しいのでな。」

「?」

「ふ…そなたの存在が私を変えたように、私以外のものも、恐らく変わったのだろう。誠、そなたほど得がたき女王はおらぬ。そなたを女王に推して…やはり、私はよかったと思うのだ。それは幾許かの寂しさはあるし、そなたへは計り知れない労苦を背負わせてしまい…済まないと思っている…」

ジュリアスは一瞬目を伏せた。長い金色の睫が瞳の紺碧をより引きたてる。

「ジュリアス…どうしたの?急にそんな…」

「いや…なんでもない…。つまり…そなたの特質が、聖地と我々守護聖全体にいい影響を与えていると思うといいたかっただけなのだ。」

そう、こんな女王は2人と現れないだろう。この掛け替えのない存在を自分は全身全霊で守り支えて行きたい。そのためなら自分はなんでもしよう、どんなことでもできようと気負うことなく坦懐にそう思うのだ。

「そんな…ジュリアス…私はなにも…」

はにかんだように言いかけた唇は、一瞬柔らかな物で塞がれ、それは魔法のようにすぐ離れた。

「…どこに人目があるかわからぬって言ったのはジュリアスなのに…」

その口調は非難がましいものではなく、控え目な困惑と羞恥の滲んだものだった。

「日差しがそなたの唇に瞬間落ちただけであろう?」

ジュリアスが少年のような微笑みをむけた。

自分に向けられた柔らかな笑みは、まさに春の日差しのようだとアンジェリークは思った。峻烈で目もくらむほどの光もあれば、こんな穏やかで心を暖め和ませてくれる光もある。どちらも、まごうことなくジュリアスその人なのだと思う。

私…この人の側にいると甘えてしまう。

この暖かさに、このまっすぐさに、自分の迷いを委ねてしまいたくなる。だから、すぐ、拗ねたような物言いをしてしまうんだわ。

でも、このことだけは…自分で決めなくちゃだめ…これは…私の問題だから。

「どうした?私がふざけたので…怒ってしまったか?」

心配そうな声にアンジェリークは、はっと我に帰った。ジュリアスを痛いほどに見つめていたことに気づいた。

「あ…ううん。ジュリアスは本当に春の日差しみたいだなって思ったの…まっすぐで、暖かくて、私をまるごと包んでくれるみたいで…」

「………」

無防備なほどの率直な言葉に今度はジュリアスが黙りこむ番だった。僅かに頬のあたりが熱く感じる。

「あの…じゃ、夜想祭の時に…」

アンジェリークの言葉にジュリアスは我に返ったように言葉を続けた。

「ああ、明日の夜だな。必ずそなたの許に参る。待っていてくれ。」

名残惜しそうに瞳を細め、ジュリアスは折り目正しく礼をして退出していった。

その広い背中を思わず追って縋りたい気持ちをアンジェリークは必死に押し殺した。綺麗なジュリアス、どこまでもまっすぐで綺麗なジュリアス。こんな迷ってばかりの自分が、その迷いを肩代わりさせるようなことをしてはいけないと、アンジェリークはきつく自分を戒めた。

 

昨晩は宮殿のどこにも薔薇の影はなかった。今晩もないだろう。

そして、恐らく次に薔薇の香りを感じる時は…アンジェリークが結論を出した時…

そのことを考えると、オスカーはどうにも、いたたまれないような気がして一つ所に落ち着いていられなくなる。そんな自分をここ1両日持て余している。冷静な気持ちを保つことが大層困難だった。

なぜ、俺はこんなに浮ついているんだ…考えずとも答えは明らかじゃないか…なのに、まるで、試験の発表結果を待っている餓鬼のようにそわそわ落ちつかない。

彼女はもともと、ステディなパートナー以外との情事をわだかまりなく受け入れるタイプではないだろう。その上、彼女が忌み嫌う物と同じ容姿を持つ自分との情事は、いわばショック療法というか、毒をもって毒を制すという側面があるので、彼女がこんな提言を受け入れるはずがないというのは、オスカーも理屈ではわかっている。

ところが、可能性はないに等しいと思っていたのに、彼女に決定の猶予を与えられたことで、オスカーはかえって動揺してしまった。彼女が真面目に自分の提言を検討してくれているのかと思うと、どうにも落ちつくことができない。

これは…俺は彼女が受け入れてくれることを期待しているということなのだろうか。一縷の望みが捨てきれないから、こんなに落ちつかないのか…期待を抱き、希望を打ち消せないということは、それはつまり…俺はやはり自分が彼女を抱きたいから…1度でもいいから思いを遂げたいと思っているから、あんなことを提言してしまったということなのだろうか…彼女のためを思ってではなく、自分の欲望がああ言わせたのだろうか、俺は自身の欲望を鎮めたいだけなのだろうか…

そうではないと思いたい、だが、そうでないとも言いきれない。

いっそ、早く断ってほしいと思いながら、自分から答えをせっつく事などできるわけもなく、とにかくそのことを考えずにすむよう、コレットの訪いがないとわかっている時刻はひたすら他人の執務室に赴きとりとめのない話で時間を空費した。協力育成の効率を高める為、守護聖同士の親睦を高める事が奨励されていたので、オスカーの行動が不審に思われる心配がないのは幸いだった。

そして、この日の午後、オスカーはオリヴィエの執務室を訪れている。

オリヴィエはにこやかにオスカーを迎え入れてくれた。

もともと、飾り気のない軽口を叩ける間柄だ。この気楽さが今のオスカーには救いだった。ジュリアスやランディとは、虚心で接する自信がなかった。

オリヴィエは自分の椅子に後ろ向きに腰掛け、砕けた様子で背もたれに肘を乗せている。

オスカーは出されたストレートティーを前にソファで長い足を持て余す様に組んで座っている。

「オスカー、街の様子、どうだった?やっぱりなんかうきうき浮かれてるって感じ?」

「ああ、住人たちも祭を開いてもらえるんで嬉しいんだろう。あちこちで飾り着けなんかの準備に余念がないようだぜ。」

「お祭りってさ、なんかその前がわくわくするよね。ご祝儀に街中に夢のサクリア、どわーっとプレゼントしちゃいたいような気分だよ、私は。」

「お、おい、勝手な育成は厳禁だぜ。あのお嬢ちゃんを通さないサクリアはこの地にはきちんと吸収されないから、どこで淀みや暴走がおきるかわからないって言われてるじゃないか。」

「だからぁ。そういう気分だって言ってるだけじゃないさ。私だって一応守護聖なんだから、そんな無責任なことはしないよん。」

「おまえが言うと冗談に聞こえないぜ。」

「だって、このお祭りのおかげで街の雰囲気ががらっと変わったからね。私もなんかしてあげたくなっちゃうんだよ。これで住民が霊震の憂鬱なんて吹き飛ばす気概を養ってくれるといいんだけどね。」

「ああ、協力育成にいい手応えがある分、封印しているものの抵抗も劇化することが予想されるから、俺たちは尚更気を引き締めてかからないとな。」

「あんたさぁ、真面目なのもいいけど、お祭りはお祭りで純粋に楽しんだっていいんじゃない?で、あんた、こんなところで油売ってていいの?」

「どういう意味だ?俺たちに祭りの準備は関係ないだろう?」

「だって、お祭りを誰かと見にいかないの?オーロラ降臨なんてデートの口実としちゃ最高でしょ?今からデートの相手にあたりつけておかなくていいわけ?」

「夜は…俺は宮殿の警備につくつもりだ。」

「ははぁん、さては、あんた、あのお祭りのもうひとつの意味を知らないね?」

「あの祭りはこの地の祈願祭だろう?住民が願掛けするための…他にどんな意味があるっていうんだ。答えは簡潔明瞭にな。そのまわりくどい言い方はよせ。」

「はいはいっと。実はあのお祭りではね、オーロラに願掛けするだけじゃないんだよ。そのオーロラを一緒に見たもの同士は生涯固い絆で結ばれるって言い伝えがあるらしくてね。陛下がオーロラを出してくださるって言うんで、この地の恋人同士や夫婦は今からどこでオーロラを見ようか、いい場所探しに余念がないらしいんだよね〜。それもあって、街中なんだかそわそわしてるって訳。」

「…単なる願掛けだけじゃなく、そういう意味もあったのか…そんなこと、陛下も補佐官殿もおっしゃっていなかったが、何故、おまえが…ああ、そういえば、この祭りの事自体陛下に奏上したのは、確かおまえだったな。」

「単なる世間話のつもりだったんだけど、陛下がすごく乗り気になられてね。やっぱり女の子だなって思っちゃったよ、私は。女の子っておまじないとか、お願い事好きだしね。流れ星ならぬオーロラに願掛けなんて、ロマンティックだしね。それに、固い絆ってものに憧れる気持ちが陛下自身にもおありだったのかもね。なにせ、私たちほど、固い絆が結びにくい人種はいないからね。血縁、友人、恋人がいたとしても…聖地に来た時点で皆、縁切りだもの。その切なさを知ってるからこそ、この地の恋人たちを応援してあげたいとも思ったんじゃないかな、陛下は。明日のことがわからない状態だから余計に…ね?」

「うむ…陛下はそういう方だな…」

オスカーは、今のオリヴィエの言葉で、アンジェリークがなぜあれほど夜想祭に拘り、それでいて、後ろめたさを抑えられなかった訳を合点した。

オリヴィエの言う通り、それはこの地の恋人たちへの加護の気持ちももちろんあったのだろう。自分たちが世間一般で言う恋人同士の幸せを追求できない立場だからこそ、他の恋人たちの幸せをより強く願う、彼女ならそうするだろうというのは、すとんと腑におちた。

だが、自分自身にも固い絆と言うものが叶うなら、それを信じてみたいという気持ちも抜き難くあったのだろう。『自分のため…』と言うのは、そういう意味もあったのか…俺は彼女とジュリアス様との関係を知っているから、その事が気恥ずかしくて言出せなかったのだろう。彼女が誰と固い絆を結びたいのか、俺には否応なくわかってしまうから。

そして、こんな他愛のないまじないに縋っても強固に結びたい絆があることと、その思いの切実さに、オスカーは改めて胸を打たれた。ジュリアスは恐らくオーロラを一緒にみることの意味を知っていたか、教えられたのだろう。こんなひりつくような切実な思いを見せられて、ジュリアスがそれを無碍に断ち切る訳がない。情の深い人なのだから。ジュリアスが夜想祭を快諾した訳も、更に合点が行った。

そして、アンジェリークがどれほどジュリアスと別れ難く思っているか、明日のことがわからない仲だからこそ、護符のようなものにまで縋りたい気持ちもそれに比例して強いのだということを改めて思い知らされた。オスカーはちりちりとした胸の痛みから無理矢理意識を反らそうと務める。

「そ。そういう方だからこそ、私たちも陛下のためには、なんでもしてあげたくなるんだよね。」

「そういえば、おまえは、夜想祭の開催に関しても陛下をサポートしてさしあげたらしいな。陛下から聞いたぜ。」

「ほんの助け船を出しただけだけどね。陛下はオーロラを出したがっていたのに、自分のために出すってことに気が引けてたみたいだったから、ちょっと、もっともらしい理由を言い添えただけさ。だけどさ、女王だからって常に100%他人のために行動しなくてもいいんじゃないかと私は思うんだ。私利私欲に走る訳でなし、他人に迷惑掛ける訳でなし、ほんのささやかな願いを掛ける為に力を使って、みんなもはっぴー、自分もはっぴーならそれが1番いいじゃない?」

「ふ…おまえらしい考え方だな。」

「そうさ、私たちだってさ、宇宙の為、民のため日夜がんばってるけど、これだって100%他人のための行為かっていったらそうじゃないじゃでしょ?私たちだって聖地に帰れないと困るわけだし。民に感謝されれば嬉しいし、やる気もでるじゃない?他人が喜んでくれて、自分も嬉しいことなら、私は元の動機がなんだろうといいんじゃないかと思うんだよね。ま、結果オーライってヤツだけどさ。」

「そうだな…ある行為をして喜んでもらえれば、自分も幸せになる…他人の為なんていうのは結局自己満足でしかないなんて斜に構えなくてもいいのかもしれんな…」

「それ言っちゃったら身も蓋もないじゃん。そこまで深刻に考えなくてもいいと思うけどね、私は。自分がしたくてすることでも、それが相手のためにもなるってんなら、それでいいじゃん。あんたの得意なデートだってそうでしょ?自分も楽しい、相手も楽しいのどこが悪いのさ。相手が楽しんでくれれば自分も幸せな気分になるのは当たり前だし、それが悪いことなわけないよ。私たち守護聖だって宇宙に奉仕するだけの機械じゃないんだから、感謝の気持ちを示されれば嬉しいし、それでは100%利他的な行為じゃないって言われたとしても、私たちだって感情があるから感謝されて嬉しいと思うなって言われたってそりゃ無理だし、それでいいと思うけどね。」

「陛下は責任感が強くて真面目な方だから…おまえがそうやって少し肩の力を抜いてやって丁度よかったんだろうな。」

「気負ったり力んだりしても、いい結果はでないって。それに女王様のハッピーはやっぱり宇宙のハッピーに通じるんじゃないかと思うしね。でさ、話戻るけど、生涯固い絆で結ばれるって聞いたら、あんたもエスコートしたい女性の1人や2人いるんじゃない?」

「そりゃ、逆だ。そんな事を聞いちゃ却って迂闊に誘えるものじゃない。おまえはどうおもっているか知らんが、俺は戯れでこの地の女性に手をだしたりはしないぜ。この地の女性は純朴で遊びなれていないし、俺は約束など与えてやれない。叶えてもやれない期待を抱かせるのは罪でしかないからな。それにもともと夜は宮殿の警備に付くつもりだと言っただろう?」

「そう…そうだったね、あんたは誰にでも声をかけているようでいながら、向こうも納得づくの後腐れのない関係しか結んでこなかった。それがあんたなりの誠意であり、誠実さだったね…」

「おまえ、何か勘違いしてやいないか?俺はひとつ所じゃ留まれないってだけだ。」

「ま、そういうことにしておいてやるさ。」

「それより、何故俺の予定なんざ気にするんだ?さては…誰かを誘いたいのはおまえの方なんじゃないのか?で、俺がライヴァルだと勝ち目がないんで俺が誰を誘うつもりなのか探りをいれたかったのか?」

「馬鹿言ってんじゃないよ。勝ち目がないのは、あんたの方じゃないの?…って、いや…そうじゃなくて…わたしはさ、そういう物に願いをかけたり、縋りたくなる女の子の気持ちがわかるし、大事にしてあげたいんだよ…。とーくーに、何にでも一生懸命で、普段は自分のことより周りのことを無意識のうちに考えちゃうような子が、わざわざお願いしたいと思うようなことは。」

「?それは陛下のことだな?…しかし、それとこれとどういう関係があるんだ?」

がしがしとオリヴィエが彼にしては男っぽい粗野な仕草で頭をかいた。

「つまりね、あんまり護衛、護衛って明日は堅苦しく陛下を縛らないでやってほしかったんだよ。陛下だって1人の女の子なんだし、あんまり行動を制限するとあの子の良さを殺すことになるからね。だから、あんたがもし明日の夜はデートだっていうんなら、私があの子の護衛につこうかと思ったのさ。あんたの替りにがちがち頭の朴念仁が護衛について、陛下を部屋から1歩も外に出さないとか、陛下がせっかく出したオーロラをゆっくり見られないなんてことになったら、かわいそうだからさ。」

「そりゃ一体誰の…まあ、いい。どちらにしろ、護衛は俺がつくし、俺の護衛はもっとスマートかつソフィスティケイトされている。陛下がその気になっても気付かないくらいさりげなく重圧を与えることなく、陛下のプライヴァシーは完璧に守っているという自負がある。四六時中ぴったり張りつかないと護衛ができないなんてのは、無能って自ら言ってるようなものだからな。」

「あんたが、そこまでいうなら大丈夫か…じゃ、陛下のことは任せたよ。あの子が綺麗なオーロラ出せて、それにちゃんとお願いできるように守ってやってよね。」

「ふ…俺を誰だと思ってるんだ?」

「はいはい。失礼いたしました!あ、そうそう、今度私たちも協力育成ってやつやってみない?」

「おまえとか?」

「結構上手く行きそうな気がするんだけどね、私は。少なくとも同じ同期でもあんたがリュミちゃんとするよりは可能性高いと思うよ?」

「ま、それはそうかもな。じゃ、その時のために一応俺も執務室に戻るか。」

「ああ、私のところにコレットが来たら、声かけるから体あけておいて。」

「わかった。」

軽く手をふってオスカーはオリヴィエの自室を辞した。

自分の屋敷に戻る道すがら、オリヴィエがアンジェリークのことを1人の女の子として扱うのは、ヤツならではの優しさだと思った。

女王であるアンジェリークは、17才の少女の姿を留めているにも拘わらず、それらしく振舞うことや、それらしく扱ってもらうことはほとんどないのだから。

女王として敬われ、奉られても、気の置けない付合いをしてくれる人間はほとんどいなくなってしまう。それは、寂しく、そして気の張る事に違いないのだから。

もともと夜想祭のことをアンジェリークに教えたのはオリヴィエだし、アンジェリークが夜想祭を開きたい、つまりオーロラに何かの願いを掛けたいと切望していることは、勘のいいオリヴィエのことだ、その場ですぐ察したのだろう。そしてそのことを知っているから、あまり杓子定規な護衛をしないでやってほしかったのか…これもまったくあいつらしい、とオスカーは思った。

しかし、がちがち頭の朴念仁とは…一体誰を頭に思いうかべていたのだろう?

ヴィクトールか…それともジュリアス様か…

オスカーは思わず緩む口元が押さえきれなかった。ジュリアス様ならそんな心配はいらないということを、オリヴィエは知らないのだから、無理もないが。

ジュリアスが最もアンジェリークの身心を案じているということは誰からみても明かだったし(そして、そのことが不自然に思われないのが、彼の特質だとオスカーは思った)彼女の身の安全を思えば、ジュリアスなら彼女を夜に屋外に出すなど言語道断だと言いきりかねないとオリヴィエなリに案じたのであろう。

ジュリアス様は、融通の効かない方ではないし、本来は情の深い方なのだが、立場上あまりそれを前面に出すのは不都合もあろうし、その機会もあまりないから、ステロタイプなイメージを持たれてしまうのだろう。俺がいくらジュリアス様はそれだけの方ではないと口で言っても、オリヴィエ自身がそういう場面を実際に見聞きしない限り、意外だとは思っても、その印象が完全に覆る物ではないだろう。言葉…特に伝聞というのは、実体験に比すればほとんど無力なのだから。

しかし、オリヴィエのやつ、アンジェリークが一緒にオーロラを見たい相手がいるのだと思いもよらず、アンジェリークの望みを邪魔することがないように自分が護衛につくつもりだったとは、思いもよらなかったが。

大丈夫だ、オリヴィエ。心配しなくてもアンジェリークは俺が守る。彼女がジュリアス様と一緒にオーロラを見られるように、それを誰にも邪魔されないよう、誰にも気付かれないよう、俺が護衛につくということを対外的には打ち出しておく。

それに…どうしても考えこんでしまう気鬱から気をそらすだけのつもりだったが…俺はおまえとの会話で、幾分気持ちが軽くなった。

人間である以上、100%利他的な行為などないのかもしれない。

それが、どんなに大切に思い、愛しく思う人のための行為であっても、その人の笑顔が見たいと思い、その笑顔に震えるほどの喜びを覚えてしまうのなら、それは自分のためでもあるかもしれないが、それは悪いことではないのかもしれない。

自分がしたくてするからといって、せずにはいられないだけかもしれないからといって、でも、それが悪い訳ではない。それでその人がいくらかでもいい状態になれるなら、それでいいと思うほうが、確かに救われる。

そう、自分はアンジェリークには、そう言った。自分はしたくてするだけだから俺の都合は何も気にしないでくれと告げたが、逆にそのせいで、俺は自分の欲望を遂げたいだけなのかもしれないという罪悪感に苛まれてしまっていたんだ。

俺は…俺がなによりもしたいことはなんだ?

彼女の心からの笑顔を取り戻す事。

彼女が自分で生み出す不安に囚われない様、心の傷を少しでもいいから塞いでやること。

ただし、あくまで彼女が耐えられる方法でだ。

彼女がどんな結論を出そうともういい。あの方法がだめなら、難しくても他の方法を探すだけだ。

そして、万が一、彼女があの方法を受け入れたら…その時は自分自身を罪悪感で追い詰めるのはやめよう。

頭においておくことは常にひとつだ。

彼女の十全の笑顔を取り戻すにはどうしたらいいか、これだけを考えろ。

ジュリアス様が、彼女のためにこの地の育成に専念されているように。恐らくは今だ減じてはいないであろうあの方自身の懊悩には、封印を施したまま、彼女のために自分ができることを第一義に考え行動しているように。

俺も自分にできることだけを虚心に考えろ。

明日の夜想祭…君が何の憂いもなくジュリアス様とオーロラを見られるように、とりあえずは力をつくそう。

 

結局その日、オスカーに育成の協力依頼はなされず…コレットは今日は学習のほうに専念したらしい…オスカーはそのまま夕刻宮殿に赴いた。

宮殿にも、アンジェリークの服にもどこにも白薔薇はなかったが、オスカーは昨日までの、追いたてられるような焦慮はもう感じなかった。

彼女がどんな結論を出そうと、俺は俺自身の信ずるところに従って、できる限りのことをするだけだと静かに思えた。

時折アンジェリークが、迷いの隠せぬ、それでいてすがるような瞳を向けているいることを感じると、オスカーは、アンジェリークを安心させたくて、できうる限りの物柔らかな笑みを返した。

彼女にどんなプレッシャーも感じてほしくなかった。

俺のことを案じたり、気遣って結論を出すのではなく、彼女自身の考えで結論を出してくれていいのだと、俺は、それがどんなものであれ、虚心坦懐に受けとめるという思いをこめたつもりだった。


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