汝が魂魄は黄金の如し 26

オーロラは見事な物だった。漆黒の天空を背景に裾を翻し、ひらめき、なよやかに揺れる光の緞帳の舞は自らを誘いかける様でもあり、包み込む様でもあり、オスカーは飽くことなくその光景に見入った。
ただの自然現象なら、どれほど美しいものであってもここまで心を奪われなかったかもしれない。しかし、この誰もが目を見張る光景を一人の女性が…たおやかに愛らしい少女と見紛うばかりの一人の女性が作り上げている…そう思うと、オスカーは一層深い感慨を抱ずにはいられない。

オスカーはそのオーロラを一人見あげながら思った。

アンジェリーク、君の思いは確かにこの空に結実している。

君が何故、このオーロラを出したかったか、何をオーロラに祈りたかったか、俺は知っている。その思いの真剣さ、切実さが、この光をより鮮烈に煌かせていることも。

その君の思いが、この地の民たちを元気付ける、勇気付けている。

祈るということは信じる気持ちを行動で表すことだろう。何かを信じたいと思う時、人は祈る。そして祈るために人はその対象を欲する。人は何もないところに祈りは捧げられないのだから。そして、祈りを捧げる対象として、これほど捧げ甲斐のある物を示されたこの地の民はこの瞬間真実幸福であろう。

この美しく鮮やかなオーロラを見ることができて、民たちは明日への希望を育み、こんな現象すらおこせる君への信頼と忠誠は否応なしに高まるだろう。君への信頼は、例えこれから先幾多の困難が待ちうけていようとも、それを乗り越える自信と気概に通じるだろう。

誠、動機は大した問題ではないのだ。君が誰のために、何のためにオーロラを出したかったか、そんなことを気にする必要も喧伝する必要もないのだ。

君がオーロラを出したことで、悪く転ぶことなどひとつもない。むしろすべからく事態はよい方向に向うだろう。皆の心は前に向って進む力をもらえる。君を信じて一丸となる求心力も高まる。

だから、君は何も気にしなくていいのだ。このオーロラの美しさ、鮮やかさが、つきつめて言えば一人の男性への想い故に導かれたものであっても。それはこのオーロラの美しさを増すことはあっても、損う事は決してないのだから。そして君が想いを捧げるにその男性ほど相応しい人間はいないのだから。

そうは思っていても、この気持ちは真実自分自身のものであっても…ともすれば、自分の胸の痛みに気が向い、それに捕らわれてしまいそうな時がある。

そのまま自己憐憫のぬる甘い羊水に浸るのは、どれほど心地良いだろうという誘惑もある。

それでも、俺は踏みとどまる。踏みとどまってみせる。さもなければ、人間として男としてあまりに情けない。

それは…君の生き様をみているからだ。

男の俺には、恐らく決して想像しきれないような惨い経験を経て、その傷の痛みに今尚苦しみながらも、ぎりぎりの所で己を見失うまいと必死に立っている君を知っているからだ。自己憐憫の海に溺れることなく、自己破壊の衝動に身を委ねることもなく、辛い思いをしたからこそ、尚一層優しく強くなっていく君を知っているからだ。

自分の痛みを宥めるだけで精一杯であってもおかしくないのに、それでも、ジュリアス様のことを、俺のことを、この地の民の事をまず考えてしまう君を知っているからだ。

そんな君に惹かれ…知るほどにもっと惹かれていく。ならば、俺も君に恥かしくない生き方をしたい。そうでなければ君を知り、君を愛した甲斐がない。例えそれが君に知られることはなくとも、君を愛するに足る人間でありたい。それは自己満足でしかなくとも、君に関わるに相応しい男でありたいんだ、俺は。

君のような女性に出会え、いくらかでも人生にかかわり合えた。これはやはり幸せなことだと思うから。君を知らずにいた人生を思えば、それがいかに幸運なことだったかとわかるから。

そう、俺がオーロラに願掛けをするとしたら…それは君の願いをかなえてやってくれということだ。そのためなら俺は力を惜しまないだろう。

君は今、傷つき癒しを欲している。しなやかに強く優しい魂にも休息と慰めは必要だ。傷ついた故に今一時翳り輝きを失っているのなら、その下に変わらずに存在しているであろう輝きを取り戻させてやりたい。少しでもその手助けをしたい。その気持ちに偽りはない…

またオーロラが鮮やかに一閃した。彼女の生きたいという願いが、生きようとする決意が、その気力の充実がそのまま目に見える形となって空に広がっているようだった。この大陸を包みこむように翻る光の裳裾は、全てを慈しみ愛しもうとする彼女の心栄えそのものだと思った。そしてこの輝きを導いているのは同じほどの真剣さと熱意で彼女を支えようとしている男の想いなのだ…

生命力に躍動する彼女のサクリアの勢いに気おされているのか、今宵は不穏な波動の気配も感じられない。今夜は霊震の心配もなさそうだ。そう思ったオスカーは踵を返して私邸へとむかった。オーロラの光も存分に堪能した。もう十分だ。

そう思いながら、オスカーはもう一度夜空を見上げた。しかし、オスカーにとっては文句なしに美しい煌きに満ちている今の光の緞帳よりも、まだ輪郭もぼやけ色もはっきりとはしなかった夕刻のオーロラの方がなぜか美しかったと思えるのだった。

 

熱病のように互いを求め合う激情は潮が引くように1度なりを潜めた。

その分アンジェリークの体を気遣う思いがいやましたのだろう。ジュリアスは、どれほどアンジェリークが強請ろうと、屋外にいることをそれ以上許さなかった。

「もうこんなに肩が冷たいではないか…部屋に入らねば…」

ジュリアスは冷えてきたアンジェリークの体をストールで大切そうに包みなおし、そのまま有無を言わさずアンジェリークを寝室に運びこんだ。

「風呂にでも入って暖まったほうがいい。」

そういって準備をしようとしたジュリアスのローブをアンジェリークが子供のように引っ張っておし留めた。怪訝そうに振り向いたジュリアスにアンジェリークは一緒に床に入ってくれと頼んだ。

「暖まるなら…ジュリアスが抱いてくれるほうがいい…抱いててくれれば暖かいから…」

「アンジェリーク…」

ジュリアスはアンジェリークの飢えるような求めに一瞬うろたえたものの、すぐにアンジェリークの体をきゅっと抱きしめなおした。一度抱擁を解いてから此度は肌に温もりを染み入らせることができるように、互いの身につけているものを全て取り去った。全裸にしたアンジェリークをひんやりとしたシーツの上に横たえてから、自分もその脇に体を滑りこませアンジェリークの体を自分の全身で覆うようにしっかりと抱きしめた。

「これで…寒くないか?」

「ん…ジュリアス…あったかい…」

アンジェリークがジュリアスの金の髪で彼女自身の体を包んで欲しいとでも言うようにしがみ付いてくる。そんなアンジェリークの様子が不憫でジュリアスは彼女の体を抱く手に一層の力をこめる。

追いたてられるようにアンジェリークが肌を求めてくることはあの戦争の後間々あった。その訳が以前はジュリアスはわからず、戸惑いながらも求められるままに、彼女と情を交していた。ジュリアスも恋を知り染めた若い男なのだから、愛する女性からの求めは純粋に嬉しかったし、それに応えることに異存のあろうはずもない。少々の不可解な気分など、愛を交す喜びの前には霧消した。

しかし今彼女を突き動かしている衝動は愛欲ではないことがジュリアスにはわかっている。彼女は文字通り肌の温もりを求めているだけなのだろう。心が寄る辺なく頼りないから、しっかりと自分につなぎとめる様に抱きしめてやり、自分の温もりを感じさせてやることが肝要なのだ。愛撫や挿入は…彼女がそれを本当に求めた時でいい。彼女から求めないならこのまま抱いているだけの方がいいだろう。

そんな気持ちで彼女の体をできるだけ隙間のできぬよう抱きしめた。

愛しげに頬ずりすると、アンジェリークがくっと顎を上げて口付けを強請ってきた。差し出されたかわいらしい舌に自分の舌を絡ませついばむように味わった。

自分をいつまでも抱きしめ口付けているだけのジュリアスを不思議そうにアンジェリークが見上げた。

「ジュリアス…?」

「どうした?」

「あの…もういいの?疲れてる?」

「いや…欲しいのか?」

「や…ジュリアスのばか…」

自分の胸に顔を埋めてしまったアンジェリークの髪をジュリアスは愛しげに撫でさすった。

「意地悪を言っている訳ではないのだが…そなたはただ抱きしめてほしそうに見えたから…」

アンジェリークははっとしたようにジュリアスを見た。

「ジュリアス…ううん…私、ジュリアスが欲しい…」

「わかった…」

指を絡めあわせてシーツにおしつけた。首筋に顔を埋めた。性急すぎた先刻の埋めあわせをするように、ジュリアスの愛撫はしっとりとゆったりとアンジェリークを酔わせた。

 

ジュリアスが自分の隣で穏やかな寝息をたてている。アンジェリークは僅かに身じろぎジュリアスの端麗な横顔に見惚れた。

やはり、連日の根を詰めた執務で疲れていたのだろう。果ててすぐにジュリアスはアンジェリークを抱きしめたまま寝入ってしまった。

執拗なまでに愛撫された後の挿入もまた時間をかけてとても丁寧になされた。アンジェリークはいつにもまして労るようなジュリアスの愛撫に心が穏やかに充たされた。

ジュリアスはこの頃、前よりもっと優しい。甘やかすと言うのではないけど…大事に大事にしてくれるの…まるで壊れ物でもあつかうみたいに…

私がよほど危なっかしく見えるから?

それともジュリアスが話してくれたように…クラヴィスと女王陛下のことが頭にあるから?今は特に…明日のこともわからないから?

私…ジュリアスのあんな話し、初めて聞いたわ…クラヴィスのことは聞いたことはあったけど…詳しくは知らなかった…女王陛下があまり宮殿からお出ましにならないのも、確かに私も女王様はそういうものだと思って女王候補だった時は不思議に思わなかった…自分が女王になってみて初めて昨日の自分と今日の自分が大して変わらないことに気付いた。私の感情も思いも女王になったからと言って替わる物ではなかったわ。だから…女王陛下が誰にも会おうとなさらなかったのは、きっと訳がおありだったのだろうとは思ったけど…もしかして、それはクラヴィスのことと関係しているのかも、くらいは思ってたけど。

でも、私が気になったのは…ショックを受けたのはそのことじゃない。

ジュリアス…私が前の陛下みたいに宮殿の奥から一歩も外にでないで、誰にも会わなくなったら…寂しいし、切り捨てられ、見捨てられたように思うかもしれないって言ったわね。私、あの時ジュリアスにそう言われて「あっ!」って思ったの。私のしようとしていたことって…もしかしたら、あの異世界の女性と同じだったのかもしれないって…

ジュリアスからクラヴィスと前女王の逸話を教えられ、もし、自分たちが同じ立場だったらどうなっていたかという仮定の話をされ、ジュリアスの言った「そなたが何もかも一人決めして、私の前から姿を消してしまっていたら見捨てられたような気がしただろう」という言葉を聞いた時、アンジェリークの脳裏に突如自分のあの辛い過去の記憶と、戦争の遠因となったある女性の逸話が二重写しで蘇った。

『恋人の前から姿を消す事を、誰にも何も言わずに1人で決めてしまう』

これが、多分記憶を触発したキーワードだったのだと思う。

これは、あの暴虐の後、自分が暫時駆られた暗い誘惑と同じだった。あの女性の自死という選択も本質は同じだろう。そして、前陛下がクラヴィスに2度と顔を見せなかったその選択も…

状況の違いはあれ、突き詰めて言えばこの心境は自分も含めた3人の女性に共通のものだったと思う。しかし、選んだ結果はそれぞれに全く異なっていた。異世界の女性は完全な自己の消滅を選び、前陛下は他人との接触のみを断ち、そして自分は自己の消滅の誘惑に瞬間駆られはしたがそれをなんとか振り切り、そして今は他者との交流を断つかどうかで逡巡している…同じような心境におかれても、自分はなぜ他の2人の女性のような行動を選ばない、もしくは選ぼうとしないのだろうか。

アンジェリークが自己の消滅の誘惑を振り切れた理由は明白だった。自分でもそれは自覚していた。自分があの蹂躙に耐えて、なお生きようとしたのは何故だったのか?自分が誰にも訳も知らせずいきなり消えてしまっていたら、残された守護聖たちもロザリアもどれほど嘆き哀しみ、自分たちを責めるかを思ったからだ。何も知らせず、自分で自分を処分してしまうようなことは、自分を思ってくれている人たちへの手酷い裏切だと感じたからだ。他者との情緒的な結束、その強さと確かさが、アンジェリークをこの世に繋ぎとめた。

そして、自分とは全く反対の選択をしたあの女性。あの戦争の遠因となったある女性の自死の顛末。アンジェリークはその顛末を聞いた時、こう感じたことをジュリアスの言葉から思い出した。その女性は、恋人に何も言わずに自分さえ居なくなればいいとばかりに自分を滅することで、残された恋人がどれほど嘆き哀しみ苦しむかを考えなかったのだろうか、最初から全て諦め、現実から逃げてしまうことが、結局は恋人への不信であり裏切になると考えなかったのだろうか。自分1人が犠牲になればいいという考えは、ある意味とても傲慢なもので…それは恋人が差し伸べようとした手を手酷く撥ね付けたことになると、思わなかったのだろうかと。

そして、慄然とした。

私がしようとしていたことも同じ?自分1人が犠牲になればいい、自分1人が我慢すればいい、誰にも理由も何も言わず、何も知らせず…1人決めして隠遁することは、本質的には同じことなのではないの?私は最初から逃げることだけを考えていたの?

そんなことをしたら…皆が、ジュリアスがどれほど苦しむか、私は真剣には考えてなかった?心の底では辛いのは自分だけだと、自分が一番辛いのだと思ってた?黙って隠遁してしまうことは…差し出されるであろう手を、最初から払いのけようとするのと、それでは一緒ではないの?払いのけられた方がどれほど哀しく苦しく思うか、考えていなかった?

私が塔内で自死を選ばなかったのは何故?残された人がどれほど苦しむかを考えたからじゃなかったの?

それがわかっていたのに…わかっているのに、なのに、誰にも何も言わず何も知らせず、皆を切り捨てるような真似をしたら…それがどれほど皆の心を傷つけるか…自分たちは信頼されていないと思わせ、誰のことも全く頼りにせず、皆を見捨ててしまったと思わせてしまうのではないの?

何故、そんな選択をする前に、相談してくれなかったのかって思うのではないの?

それくらいなら、理由を言って…訳をわかってもらった上で、自分を幽閉した方がいい。皆ショックは受けるかもしれない、でも、それなら仕方ないと思ってくれるかもしれない…少なくとも皆を切り捨てるのではないことをわかってもらえれば、皆の心を無用に苦しめることはないと思うし…

何も言わずに一人で勝手に閉じこもってしまうよりは、全然いいと思う。

だけど…待って…

皆が訳を知ったら…私がオスカーとランディを避けたい訳を皆が知ったら…私が怖いのは本当はオスカー本人じゃないのに、オスカーに会わないようにしなくてはならない訳がわかったら…私が本当に怖れているのはオスカー本人ではないのだから…オスカーの影とオスカー本人を混同して動揺した挙句傷つけてしまう可能性があるから、オスカー達と会えないのだとわかったら、それなら、私が混同しなくなるにはどうしたらいいか、それを考えてしまう人もいるかもしれないわ…

私が自分自身を幽閉しないですむための方策を、なんとか考えようとする人がきっといるわ…それは…それは…

そして、その人が考えた末にあの方法に気付いてしまったら?

オスカーが思いついたように、仄めかされて私が気づいたように、誰かがあの対処法に気づいてしまったら?

そこまで考えが至った時に、アンジェリークの結論もまた決ったのだった。

隣で眠っているジュリアスの顔がとてつもなく美しく穏やかに見えた。

私が守りたいもの…私がかなえたい願い…それは…つきつめて言えばひとつなのかもしれない。女王としては決して誉められたことではないと思うけど…でも、だからこそ私は女王でいられたのだとも思うから…

ジュリアスの胸に頬を預け、その白皙の肌の感触をいとおしむように、アンジェリークはそっと頬をすりつけた。

 

祭りが終われば、また、何事もなかったかのように封印を解く為の日々が始まる。

育成も力の補充の依頼予定もなかったので、オスカーは王立研究院にアルカディアの現状を確認しに行ってみた。

今はバリアは綺麗な球形に戻っている。もともと意識的に歪ませたものだから、アンジェリークが恣意的に力を加えなければ最小の面積で最大体積を有する真円の球形にバリアは自然と型とられるのだろう。もはや期日は2ヶ月を切っているが、協力育成の数値を見れば、時間的な問題はほぼクリアできている。あとは封印しているものの抵抗と言うか逆襲が気懸かりだ。追い詰められた存在は必死に反撃してくるだろう、このまま順調に育成が進むだけと考えるほど自分たちも甘くはない。万が一アンジェリークの身になにかあれば、この期日を待たずしてこの地は崩壊するのだ。油断は禁物だ。隙を見せてはならない。一層彼女の身辺に注意を払わねば…とオスカーは改めて思う。

今日はジュリアスから特に連絡を受けていない…ということは、今夜の警備は俺がついて構わないということだろう。夕刻に1度報告に顔を出し、身支度を整えてから夕食時にもう1度宮殿に参内する、いつものようにそれでいいだろう。

そして、滞りもなく一日の執務を終えたオスカーは格段に思う所もなく宮殿に参内した。ホールに入った途端一瞬息が止まった。

正面の花台に白薔薇が清楚にアレンジされていた。オスカーは薔薇の前で魅入られたように長いこと立ち竦んだ。動けなかった。

『そう…か…』

そうか…ともう1度オスカーは心の中で呟いていた。

 

自分でも意外なことにオスカーの心は平静であった。

結論を出してもらったことに安堵した部分もあったからかもしれない。もともと彼女の返答は予想がついている。自分の突拍子もない提言を一蹴せず真摯に検討してくれただけでも、その彼女の気持ちがありがたかった。

女王と補佐官と供にとる夕食も、おちついた当たり障りのない話題で和やかにやりすごす。3人とも自分たちの過ごした夜の事はお互いに尋ねない。街の様子や民の様子を語り合い、祭りを開いてよかったと無難に締めくくる。

アンジェリークは今宵、髪の一部を軽く結いあげそこに白薔薇をさしていた。静かで言葉少なかったが、思いつめた様子はその横顔からは伺えない。オスカーに迷うような視線も投げかけては来ない。

アンジェリークの心が既に決ったからだろう。きっと、昨晩ジュリアスと過ごしたことが、アンジェリークの気持ちを定めさせたのだと思う。

今夜、後でアンジェリークの答えを聞いたら、あとは…期限内になんとか別の方法を考えねばならない…困難の度合いが高いのは承知だが。2人でなんとか出口を、壁を回避する道を探さねば。壁があるからといって、決して諦めないでほしいと、彼女を勇気付けねば。

そんなことを考えながら、オスカーは静かにカトラリーを置いた。

 

夕食が済んでから周囲が静かになる頃合い…いつもは1〜2時間くらい経過した頃を見計らって、オスカーはアンジェリークの私室を訪れていた。

その間に育成結果を検討することもあるが、概ね身支度を整えなおすくらいである。聖地と異なり王立宇宙軍関係のデスクワークや出張・公式行事に時間を割かれることがないので、書類作成もほとんどなく育成にだけ専念できる…というか、それ以外に仕事らしい仕事のないこの地だからこそ、オスカーはアンジェリークの護衛に力を割いていてもあまり体に負担を感じずに済んでいた。

そろそろ頃合いだと思い、シャワーを浴び、体にぴったりとしたアンダーウエアの上に甲冑を着けなおそうとした時、ほとほとと小さな音が聞こえた。

「?」

風が窓を叩いたのか、木々の梢が揺れた葉ずれの音かと思うほど、それは微かで控え目な音だった。そのまま、甲冑を手に取ろうとすると、もう1度小さなしかし規則的な音が聞こえた。これは…誰かが扉を叩いている?…まさか?!

オスカーは急いで、しかし、あくまで静かにドアを開けた。

「オスカー…」

果してそこにはアンジェリークがすがるような頼りなげな瞳で佇んでいた。肩にかけたショールを胸元で引き絞るようにきゅっと拳で押えて、オスカーを見上げている。その胸元で合わされた手はまるでオスカーに祈りを捧げているかのように見えた。

「陛下…」

オスカーは一瞬虚を突かれたものの、すぐに我に返り人目に立つ前にと思いアンジェリークを自分が宛がわれている客間に招き入れた。

「とりあえずお入りください…」

アンジェリークがこくんと頷き、まろびこむように部屋に入ってきた。

オスカーはそのアンジェリークの様子に戸惑った。アンジェリークの張り詰めた表情と固く結ばれた唇に、なにか言い知れぬ緊張を感じてしまう。

とりあえず椅子を勧めようとして、1人がけの椅子は自分の甲冑が投げ出されたままだったことに気付きソファを手で勧めた。アンジェリークは素直に、しかし、浅くそのソファに腰掛けた。

この客間はあくまで女王の従者の仮眠のための控えの部屋だから、調度も贅を尽くしたものでもなんでもない。宮殿内の一室として違和感のない程度の調度で統一され、快適で清潔はあっても、無機質で素っ気無い作りである。続きの間などというものはもちろんない。きちんとメイクされているビジネスホテルの一室に酷似している。

こんな部屋はアンジェリークに全くそぐわない。女王であるということを抜きにしても、彼女の物柔らかな風情はこの無機的な部屋に痛々しくさえ見えてしまう。居心地悪げにソファに腰掛けているので尚更だ。

オスカーは放り出したままの甲冑を手にとるか否か一瞬迷ってから、まず、その場で尋ねた。

「陛下…このようなくだけた身なりで眼前に控えるご無礼を暫時お許しください。今、すぐ身なりを整えますので。しばし失礼いたします…」

と断ってから、甲冑を身につけようとしたオスカーをアンジェリークがおし留めた。

「あ、そんな、そのままでいいわ、オスカー。私が…いきなり訪ねてきた私がいけないのだもの…だから気にしないで…」

その言葉にオスカーは手をとめ、先刻から気になっていたことを漸く口にした。

「陛下…アンジェリーク…いったいどうなさったのです?あなたから、こんな所にいらっしゃらなくとも、私の方からお伺いいたしましたものを…白薔薇はきちんと確認しておりましたし…」

アンジェリークが瞬間苦しそうな顔になり、しかし、まっすぐにオスカーを見つめた。

「いいえ、オスカー…今日は…今夜は私の方から尋ねなくちゃだめだと思ったの。私がオスカーに言わなくてはいけないことなのだもの…あなたの訪れを待っていてはいけないと思ったの…」

「それは…つまり、俺の提言に答えが出たと…そういうことでしょうか…それを告げてくださるためにわざわざ御身自ら足を運んでくださったのですか…」

静かに、あくまで静かに確認のためにオスカーは尋ねた。アンジェリークなら確かにそれは自然な行為だと思った。宇宙の女王としてではなく、1人の女性であるアンジェリークなら、そのように振舞うのも自然に思える。

「ええ…お願いがあるほうが待ってるなんて失礼だもの…自分からお願いに行かなくちゃ失礼だと思ったから…」

『願い?断りの言葉も…そうだな、それはしないでくれという願いとも言えるからな。アンジェリークは優しいからきつい表現をしないのだな』

そう一瞬思ったオスカー。そのオスカーを見つめながら発せられたアンジェリークの言葉。

「オスカー、私、可能性があるなら…オスカーに助けてもらいたい…そう思って…オスカーにお願いしに来たの…」

オスカーの思考は空白となった。

 

言葉を発するのは大層困難だったが、オスカーはやっとのことでこれだけ言った。

「アンジェリーク、それは…つまり…助けてもらいたいとは…俺の提案を試してみると…そういうこと…だと思っていいの…か?」

アンジェリークの言葉の意味をはきちがえてなければ、自分の沈黙と空白の時間が彼女にどれほど居たたまれない思いをさせてしまうか、それを考えたらどんなに頭は混乱していようと、何か言わなくてはならないと、とにかく沈黙を避けるためだけに、言葉を発した。自分でも意味のある言葉を言っているのか自信がなかった。

「もし…もし…オスカーの気持ちが変わっていなければ……お願いできるものならば…そう思って…来たの…」

「そう…か……」

オスカーは今度こそ絶句してしまった。何か話さねばと思うのに、続く言葉を選ぶことができない。何を言うべきなのか全くわからない。何を言っても場違いで、彼女の気を害してしまいそうな気がした。

オスカーの固まったような態度にアンジェリークが居心地悪げにみじろぎした。

「でも、お願い事がお願い事だから…オスカー、今考えてみてやっぱり嫌だと思ったら無理はしないで…私のわがままだから…試してみるなんてこと自体、本当はあなたにとても失礼だってこともわかっているから…ごめんなさい…」

オスカーははっと我に返り、慌ててアンジェリークの懸念を否定した。

「違う!そうじゃないんだ!そんなことを思うくらいなら、君にあんなことを提案したりしない!その…てっきり君は断ってくると思っていたので…君の言葉に驚いてしまって…あ…すまん、君の決意に水を差すようなことを言ってしまって…」

もっとほかに言いようはないのかと、オスカーは自分をどやしつけたくなる。しかし、アンジェリークは特に気を悪くした様子もないようだった。

「ううん、自分でも私…なかなか決められなかったもの…オスカーがそう思うのも無理ない…」

「いや…時間をかけて考えてくれて…俺の提案を真面目に考えてくれただけでも、俺はありがたかった…俺が真剣であることを認めてくれて嬉しかった…その…言いにくいんだが、確認させてもらっていいだろうか…本当に君は決心したのか?その…俺と寝てみると…」

こんなこと改めて聞くものじゃない、彼女が居たたまれない思いをするじゃないか、と心の声がするものの、オスカーはどうしても確かめずにはいられなかった。

アンジェリークがショールをきゅっと握りなおし、大きく頷いた。

「オスカー…私、あなたを利用するみたいなことしていいのかって今でも思う。私にそんな権利があるとも思ってない。それにこのことはやっぱりジュリアスへの裏切じゃないかって気持ちもあるし…本当は自分1人が我慢すればいいことだって、昨日までは思っていたの…でも…」

「でも?」

「自分1人がいなくなればいい、我慢すればいい…ってもしかしたら、何か違うのかもしれないと思ったの。自分1人で何もかも決めてしまって何も言わずに姿を消すことは…あなたの体を傷つけないために、そして、ジュリアスの心を傷つけないためにと思って黙って身を隠してしまうことは、もしかしたら、本当の事を言うより、却って周りを傷つけ哀しませることかもしれないって思ったの…」

「アンジェリーク…」

「オスカー、私が自分を幽閉したら、自分やジュリアスだけでなく皆哀しむって言ってくれたわね。私、でも、あの時オスカーは私を慰めるため、私の心を軽くするため、嘘ではないにしても大げさに言ったのだと思ってたの。でも、昨日…たまたまジュリアスから前女王陛下とクラヴィスの話を詳しく聞いて…陛下が誰にも会おうとしなかったことは、もしかしたらクラヴィスだけでない、守護聖皆の気持ちを寂しくさせることだったのかもしれないって思ったの…誰にも会わない…戴冠したその時からそう言う風にしていれば、まだ女王とはそういうものだって思えるかもしれないけど…周りも仕方ないって思うかもしれないけれど、私はそうじゃない。聖地に帰ったら、突然、理由も言わずに……皆を切り捨てるように自分を閉じ込めなくちゃならない…でも、理由もわからずそんなことを突然されたら、残された人たちはどう思うかしら?私のことはなんといわれてもいいわ。でも、きっと…皆に自分たちを信じてない、見捨てたような、哀しい、惨めな思いを抱かせてしまうかもしれない…それはきっと、酷く皆を傷つけることだと…皆の信頼を裏切ることではないかとそう思ったの…」

「………」

「昨日からずっとそのことを考えてみたの。何も告げずに一人で身を隠すようなことは皆に嫌な思いをさせてしまう、それなら…理由を全部言ってから自分を幽閉するほうがいいって、その可能性も考えたわ…そうすれば少なくとも、皆は見捨てられたような気持ちや裏切られたって気持ちは抱かないですむ。仕方ないと思ってくれるかもしれない…皆の方はこんな目にあった女を女王と仰ぐのは嫌かもしれない…そう思う人もいるかもしれないけど…っぅ…」

アンジェリークは込み上げてくるものを必死におし留めようと自分の口を覆った。泣いてはならない。今は泣く時ではない。

そんなアンジェリークの前にオスカーが勢いこんで跪まづき、激し頭を振った。

「アンジェリーク!そんなことを思うやつはいない!そんなことを思うやつは人間のくずだ!どうして!どうして誰よりも辛い目にあった君を…、なにも悪くない君をそんな風に思うやつはいない!」

「…っ…ありがとう。オスカー。私はなんと思われてもそれは我慢できると思ったの。自分のするべきことはして…役目が終わったら黙って聖地を去ればいい。その頃には幸い外界ではあの戦争は既に歴史の1コマになっているでしょう。私のことを知っている人もいないし…それが1番いいって一瞬考えたの。でも、皆に理由を言ったら…私がどうして精神的に不安定なのか、オスカーとランディ本人が怖い訳ではないのに、あなたたちを避けなくてはいけない理由がわかったら…それなら、その不安定さを減じるためにどうすればいいのか、考えてしまう人がいるかもしれない…」

「…それは……」

「…オスカー、あなたが気付いたように、あなたに言われて私が気付いたように、私の不安定さの理由がわかれば…皆が知っていることなら1人で考えなくていいのだもの…誰かに相談したり、どうしたらいいのか話あったりできる環境なら、あいつらは死んでいるのに私があなたに怯えてしまう理由に誰かが気付いてしまうかもしれない。そして理由がわかった時点で、あなたが思いついたこの対処法に誰かが思い至ってしまうかもしれないわ。…私が少しでも楽になると思うなら、私が自分を幽閉しないですむのなら…あなたさえよければ、いえ、あなたに頼んでさえ、私と寝てやってくれと言ってしまう人がいるかもしれない…」

「む……」

アンジェリークに言われて、オスカーは考えこんだ。

確かに、全ての情報を開示すれば、アンジェリークを救う為手立てを考える者がいよう。いないと思うほうがおかしい。そして、誰かがこの方法に気付きそれを声高に公に要請したりすれば、当たり前だが俺も彼女も断りにくい。しかも、その結果をつぶさに注目されるようなことになれば……彼女は一層心を傷つけられ、居たたまれない思いをするのではないか?結果を出さねばならないという無意識のプレッシャーが、彼女に意に添わぬ俺との情事を我慢して受け入れさせてしまうのではないか?それでは…それでは凌辱と一緒ではないか!なんの効果もないどころか、彼女の状態を悪化させかねない。

だが…この方法に気付く人間はそう多くはないだろう。人の心の機微に敏いオリヴィエか、時たま物事の本質をずばりと射ぬくクラヴィスか…そして、誰よりもアンジェリークの事を案じているジュリアスか…。だが、オリヴィエやクラヴィスなら、気付いたとしても敢えて口には出さないかもしれない。少なくとも事を公にするような愚を犯すわけはない。それは信用できる。

しかし、ジュリアスなら…ジュリアスがこの解決法に気付いたら、もちろん、公にはしないだろうが、全て承知の上で、アンジェリークに、そして自分にそれを秘密裏に依頼しかねない。どんなに自分の心は苦しくても…彼女を少しでも楽にしてやれる可能性があるなら、彼女が自分を幽閉しないで済む可能性があると思えば、自分からそう言いだすかもしれない。

そこまで考えたとき、オスカーはアンジェリークの心の奥底にあるものが見えたような気がした。

そうか…そうなのか…君は、自分にとってはどれほど辛いことであっても、君の為ならそれをいいだしかねない、そのジュリアス様の心情を慮って…君を愛する男として、必要だと思えばそれが心情的にはどれほど辛いことであっても、自分から俺に君と寝てやってくれと言いだしかねない…ジュリアス様はそういう方だ…それを心配して…そうなんだな…それくらいなら…ジュリアス様に承知の上でそんな辛い選択や提言をさせるくらいなら…ジュリアス様に何もしらせないで済むようにしたいと…君はそう考えたのではないか?…アンジェリーク…

オスカーは顔を落として、長々と嘆息した。

「……そうだな…皆が承知の状態でこの方法を強要されたりしたら…ましてや結果をつぶさに注目されたりしたら、この方法は却って百害あって一利なしだし…君にとっても辛いだけだろう…わかった…」

アンジェリークの、恐らく真実の意図には敢えて言及せず、オスカーはアンジェリークの言を理解した旨を示した。

アンジェリークは唇を噛み締め、泣きそうな顔でオスカーを見あげた。

「オスカー、オスカー、ごめんなさい、ごめんなさい、あなたの優しさに甘えて…つけこんで、あなたを利用するようなことをお願いしてしまって…本当にごめんなさい…」

「君が謝ることじゃない。もともと言出したのは俺だ。だから君はなにも気にしなくていい、アンジェリーク…」

「オスカー…」

「ただ…ひとつだけ約束してくれ…」

「何?」

「絶対に無理はしないと…何も我慢しないと、約束してくれ…嫌だとか怖いと思ったら、すぐに言ってくれ。俺の体を傷つけることも恐れなくていい…」

「オスカー…だって、そんな…」

「俺は君に無理をさせる気も急く気もないが…それでも、君は思わず力を放ってしまうこともあるかもしれない。だが、何も気にしなくていい。不意打ちだと避けるのは苦しいが、来るとわかっているものなら、容易に防げるものなんだ。俺は1流の武人だからな?だから…君は俺を傷つけることを恐れないでくれ。伊達に鍛えているわけじゃない。何も心配はいらない。どんな遠慮も…な?」

「オスカー…オスカー…」

柔らかく自分に微笑みかけるオスカーに、なんと言っていいかわからずアンジェリークの双眸から静かに涙が零れた。

オスカーはアンジェリークの前に跪いたまま、躊躇いがちにその頬にそっと手を近づけ、触れる寸前でその手を止めた。

「触れても…いいか?」

アンジェリークは黙って頷き、瞳を閉じた。すると、オスカーが即座にこう言った。

「アンジェリーク、瞳を閉じないで…俺を見てくれ。」

アンジェリークは言われるままに瞳を開き、物問いたげな視線をオスカーに投げた。

オスカーが掌を上にして、その手をアンジェリークに差し出した。大きく力強く、それでいて形のいい指が繊細さを感じさせた。

「これが俺の手だ。紛れもない、俺、オスカーの手だ。この手は君にひどい事をしないと…決して君を傷つけない…そして…」

オスカーはアンジェリークによく見えるように示した手をゆっくりと動かし、そのままアンジェリークの手を取った。白い小さな手は細かく震えている。その手の甲に貴婦人への礼としての口付けを落とした。

「あ…」

オスカーに片手の甲は預けたまま、アンジェリークは自分の胸元でショールを抑えていた手を更に引き絞った。

アンジェリークの前に跪いたまま、オスカーは一度顔をあげ、アンジェリークを許しを請うような瞳で見つめた。

「そして、これが俺の唇だ。この唇も決して君がいやがることはしない、君を不安にさせたり、怯えるようなことはしないと誓う。…それを君の目で確かめてほしい。だから、瞳は閉じないでくれ…できるだけ…」

「ん…」

小さく頷くアンジェリークの頬をオスカーの両手が柔らかく包みこみ、指先がそっと涙を拭った。

アンジェリークは一瞬ぴくりと震えた。しかし、自分が怖れていたような恐怖心も嫌悪感も涌いてはこなかった。

「体の力を抜いて…俺の声を聞いて…俺の目を見て…」

オスカーの端正な顔が近づいてきた。煌煌しく端麗な容姿のジュリアスとは全く異なる美しさがオスカーにはある、とアンジェリークは不意に思った。冬の湖水のようなオスカーの瞳を意識して見入っていると、その中に吸い込まれそうな酩酊感を覚えた。

腑抜けたようにオスカーの瞳を見つめ続ける。これ以上は近づけないというくらいオスカーの顔が近づく。吐息が頬に触れるほどに。

「そのまま俺の目を見ていてくれ…そう…そのまま…」

直後に自分の唇が温かく柔らかいものに塞がれた。羽毛でそっと撫でられたように柔らかく、暖炉の燠火のように暖かな感触だった。オスカーの顔が少しはすかいにかしいでいる。僅かに細めた氷青色の瞳が優しげだった。

『不思議…私…嫌じゃない…怖くない…こうして、この瞳を見つめていると…この瞳に見つめられていると思うと…』

自分が今何をされているかはわかっていた。それでも、嫌悪感は涌いてこなかった。闇雲な恐怖心も。だが、まだ漠然とした不安は拭いきれていない。自分はこの先も…オスカーを払いのけずにいられるのかわからない。

でも、オスカーと約束した…我慢はしないと。我慢してしまったら、それは程度の差こそあれ、私が受けた蹂躙と根本的には同じことになってしまうから…我慢してやり過ごしてしまっては、私の心は変われない…だから、オスカーは私に言ったのだ。決して我慢してはいけないと。わかった上で、無理をしないで、オスカーを受け入れられれば…もしかしたら…

一時足ぶみしても、躊躇っても、きっとオスカーなら待ってくれる。退いてくれる。私が大丈夫になるまで待ってくれる。そう思えるから…理屈でなくそう思えるから、今も怖くないのかもしれない。待ってもらえると信じられることが、安心なのかもそれない…

優しいオスカー…どうしてこんなに優しくしてくれるの?

オスカーの口付けは、どこまでも優しく暖かかった。触れるだけでそれ以上には入ってこない。

片手は頬から移り、自分の髪に触れた。オスカーの掌が視界から消えて自分に見えない部分に触れたことで一瞬体が強張った。

「アンジェリーク…アンジェリーク…」

オスカーが1度唇を離し、呪文をささやくように低い声で耳許に囁いた。同時に自分には見えないオスカーの手は髪を柔らかく何度も何度も撫でていた。

ただ名前を呼ばれているだけだった。睦言でも慰めの言葉でもない、無理に自分を安心させようとする言葉でもない。

なのに、アンジェリークの心の波立ちは、静かに呼ばれた自分の名で確かに鎮まったのだった。

「は…」

無意識に詰めていた吐息を吐き出した。固くなっていた体から力が抜けた。

それを見計らったようにオスカーが背中に腕を回してきた。オスカーの胸にかき抱かれた。しかし、腕の力は決して強いものではなく、アンジェリークをふうわりと包むようだった。

再び唇が重なった。しかし、それはすぐに離れた。

「アンジェリーク…」

そして、耳に流しこまれる自分の名。

小さな口付けと、自分の名を呼ぶ声とが際限なく繰り返される。オスカーの手は自分の背中をさする様に撫でているのを感じた。

目に見えないオスカーの手を背中に感じても、アンジェリークの体は先刻のようにはもう強張らなかった。

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