汝が魂魄は黄金の如し 29

身体がふわふわと中空に浮かんでいるような浮遊感があった。

なにかとても快い、心地良い感触。暖かくて、安心できて、寛げて…次の瞬間、高所から落下するような感覚に意識が軽い悲鳴をあげた。びくんと無意識に身体が震えた。

どこか遠くの方で、何か聞こえる。低い…穏やかな…誰の声?宥めるような…あやすような…心が落ち着いていく…私…知ってる…とてもよく知ってる…何か暖かいものが唇に触れている…不意に涙が出そうになり、その暖かさに追いすがろうとした途端、それはふぅっと消えた。途端に沸き起こる寂寥感と獏とした不安…

その時、軽やかに踊るような高い音程の囀りが耳に飛び込んできた。

『小鳥の声…?』

生きていることの喜びを高らかに謳いあげている小鳥の囀り。生まれたばかりの朝の光を浴び、今日もまた、無事に夜明けが迎えられたことへの純粋な感謝と喜びの歌。

アンジェリークはその弾むような囀りに意識を捕らわれた。まどろみが少しづつほころびていく。まだ開けられぬ瞼にも微かに白い光を感じる。

『朝?…朝なの?』

そう感じた時、反射的にこんな言葉が頭に浮かんだ。

『起きなくちゃ…帰らなくちゃ…』

ぼんやりとして頭がうまく働かない。瞼が重い。目が開けられない。帰る?私はどこに帰らなくちゃならないの?朝になったら…朝になったら…

『!』

思い出した。

そうだ。夜が明け切る前に、宮殿に人が来る前に、自分の部屋に帰らなくてはならない。

昨夜、そのままオスカーの腕の中に居た。居続けた。オスカーに望まれたから…でも、自分自身も確かにその場をすぐには離れがたかったのだ。

オスカーは黙ったまま、静かにアンジェリークの身体を抱き寄せていた。目を離したら自分が消えてしまうとでも思っているかのように、じっと見つめられたままだった。でも、その瞳の色は優しく穏やかで暖かかった。ゆったりと落ちついていて、情事の最中に、たまさか氷青色の瞳をよぎった哀しみや焦慮のようなものはもうオスカーから微塵も感じられなかった。

オスカーはアンジェリークを抱きしめながら、飽く事なく髪や背中をなでさすっていた。そうするとアンジェリークが安心すると知っているかのように。でも、それ以上の事はしなかった。ただオスカーは情事の後も交合を解いていなかった。自分から押しのけるように身体を離すのもなんとなく躊躇われ、アンジェリークはひとつになったまま、ずっとオスカーの腕の中にいたのだった。

自分の中のオスカーは、もう回復しているように感じられた。もしかしたら最初から衰えていなかったのかもしれないが…とにかく確かな量感を保っているようなのに、オスカーは能動的に動こうとはしなかった。まるで、オスカーは自分の胎内にいる感触をしみじみと味わい噛み締めているかのようで、アンジェリークは気恥ずかしくて目を伏せたままだった。でも、抜いてくれとも、かといって、動いてくれなどといえるわけもなく、羞恥の感情は拭い難かったが、そのままおとなしく抱き寄せられていた。

オスカーは言葉少なだった。というより、ほとんどしゃべらなかった。でも、考えてみたら自分もオスカーに話すことなどないのだった。言葉がみつからないのではない。気まずくもない。こうして肌を寄り添わせていることが何よりも雄弁に思えて、言葉が必要ないのだ。それでも時折、このままこうしていていいのか戸惑ってオスカーを見上げると、オスカーは必ず瞳を細めて柔らかく微笑んでくれ、それでアンジェリークは安心する、そんなことを何度も繰り返したような気がする。

なんとなく気恥ずかしく、瞳を伏せてオスカーの胸に顔をうずめているうちに、なにもかも委ねられるような安心感と、心地良い人肌の温もりにアンジェリークはいつしか、うとうととしてしまったらしい。心から寛ぎきって寝入ってしまったようだった。

正体なくオスカーの腕の中で寝入ってしまったことを思うと、また、顔から火がでる想いだった。昨晩の優しくも情熱的な情事より、こんな些細なことが恥ずかしく感じる自分を変だなと、ふと思いながら、腕を伸ばしてオスカーの肌を探した。オスカーがまだ寝てくれていますようにと祈りながら。オスカーがまだ眠っていたら、そっと床から抜け出して身支度をしてしまおうと思いながら。

伸ばした腕の先に触れたのは冷たいシーツの感触。一気に意識が覚醒した。アンジェリークはびっくりして跳ね起きた。

「オスカー…?」

いない。誰もいない。自分は一人だ。

「…オスカー…いないの?どこにいってしまったの…?」

無償にこみあげる寂しさに、まるで自分は親にはぐれた子供のようだと思いながら、はっと気付いた。

自分がいるのは、自分の部屋の寝台だった。オスカーの泊っている客間のベッドじゃない。慌てて首をまわし周囲を見れば、確かにここは自分の私室だった。

自身を見下ろせば、いつのまにかきちんと夜着も身につけている。

『夢?昨夜のあれは…全部夢だったの?』

一瞬アンジェリークはそう思いかけた。

だが、身体を動かそうとした途端、股間をつ…と流れる暖かいものを感じた。同時に身体の最深部に残る甘い疼きと、そして紛うことなき炎のサクリアを…。

「ああ…」

夢じゃない、あれが夢の筈がない。だって、私の身体は今もずっと温かい。オスカーのサクリアが…暖炉の燠火のように暖かく穏やかな、だが紛れもない炎のサクリアが自分の身中の最も奥深い所にしんしんと染み渡っていた。

女王のサクリアは白色光のように、全てのサクリアの性質を少しづつ合わせもち、それが渾然一体と混じりあっている。その炎の領域にオスカーのサクリアが呼応して溶けて混じり、自分の身体を内側から温めてくれていた。まるで体の中心に火が灯されたように。

同時に一瞬でも、あれが夢だと思ったこと、一人取り残されたのかと寂しく思ったことを、恥かしく感じた。

オスカーはいつも私の気持ちが何故かわかっていた。私が夜明け前に自室に戻らなくては…と思っていたことも、言わなくてもわかってくれていたんだわ…そして、私が眠っているうちに、人目にたたないうちに、私をそっと戻してくれたのね…巣から落ちた雛を人知れず戻すように…

敢えて後朝の別れなど惜しまなかったことも、オスカーの優しさなのかもしれないと思った。

まるで夢のようだと思わせることで、現実味を無くす事で、私の心を軽くしようとしてくれたのではないのかしら…

自分たちが恋人同士であったなら、情事の後一人自室に戻されたら、その寂寥感に侘しくてならなかっただろうが…私たちは恋人同士ではないのだもの。情緒纏綿たる別れは必要でも、良いことでもない。一時の情に自分も流されず、私も流されないようにしてくれたのがオスカーの誠意なのだと思う。

オスカー…本当にありがとう。あなたのしてくれたこと、あなたの優しさ、私、一生忘れないわ…いつか聖地を去って、ただの人間に戻って生涯を終える時まで絶対に忘れないわ。

だって、朝の光がいつもと違う…得体の知れない何かに、もう、怯えていない自分がわかるの。

アンジェリークは予感していた。悪夢にうなされて冷や汗に塗れて起きる朝も、冷たい涙で枕を濡らす朝もきっと減っていくだろうと。完全に消える事はないかも知れないけど…もう、あの忌まわしい記憶は、文字通り過去のものにできたような気がする。隙あらば自分を脅かそうといつも触手を蠢かしている生々しいものではなくなったような気がする。

過去を消す事や完全に忘れ去ることはできなくても、風化・劣化させることはできる。そのためにも、あれはもう過ぎたことなのだと、今はもう脅かされる心配はないのだと信じることが自分には必要だった。過去のものと思えずにいたからその事実と距離を置くことができず、いつまでも自分はその渦中にいるような気がしてたから、自分はそれを誰にも言えずに苦しんでいた。言おうとすること自体が苦しくてたまらなかった。私につけられた傷はじくじくとつつかれ通しで、塞がる暇がなかったから…その傷はいつも生々しく痛んでいたから…それはオスカーが指摘した通り、オスカーとランディの容姿が折々に否応なく恐ろしい記憶を呼び覚ましてしまっていたからであり、オスカーの言は誠に正鵠を射ていたのだ。

だけど、オスカーが教えてくれた。私に心の底から信じさせてくれた。目の前にいるこの人はオスカー以外の誰でもないのだと。目の前にいるオスカーはオスカー本人でしかありえないことを。それを心底納得できたから、私はもう外見だけで混乱したりしないですむと思う。あれはオスカーとはまったくの別人だと今は寸分も疑うことなく信じる事ができるから、過去は過去のものとして距離を置くことができるようになると思う。恐怖は、今、生きているものではなく、記憶に埋めてしまえるものに変質してくれた。

それに、オスカーがしてくれたことはそれだけではなかった。

何もかも知っているオスカーが、私のことを「綺麗」だと言ってくれた…私は何も変わってなどいないと断言してくれた…無理矢理振るわれた暴虐で人は決して汚れたりはしないのだと言ってくれた。それが、私にとってどれほどの慰めとなったか、どれほどの救いとなったことか…

自分ではなるべく考えないようにしていたことだった。でも、無理に眼を反らさねばならないということは本当は意識しているということ。忘れなくてはと思うことほど、本当は忘れられないのと同じ。そう、自分は、どこか、なにか、消えない汚れをつけられてしまったような気持ちが心の根底にあったのだと思う、だから、オスカーに「綺麗だ」といわれても最初は素直にそれを聞けなかった…

でも、オスカーは気休めやその場限りの慰めを言っているのではないと、直感的に感じた。真剣に心底、私は汚れていないと言ってくれたのだと感じた。私の身に起きたことを何も知らない人が言うのとは違う、自分で自分に言聞かせるのとも違う、何もかも知ったうえでオスカーが、ああ言ってくれたから、第3者であるオスカーが認めてくれたことだから…私は救われ、癒された。オスカーはいつも誠実だから、オスカーの言葉は信じられるから。だから、私は、もう、俯かずに生きていける。自分に何も責任のないことで、やましさを感じることなく生きていけると思えた。ただの女になった後も、顔をあげて、前をみて歩いていける勇気をオスカーがくれたのだと思った。

オスカーは自分もまた救われたのだといってくれたが…でも、自分が足を取られて動けずにいた懊悩のどぶどろを振り払えたのは絶対にオスカーのおかげなのだ。女王でいる間のことだけじゃない、生涯にわたる救いを示してくれたのだ。

私はオスカーを一杯傷つけてしまったのに、いつも優しく微笑んで許してくれたオスカー、自分の心の痛みには眼を瞑り、いつも私を助けてくれたオスカー。

オスカーは、私を綺麗だと言ってくれたけど…オスカーこそ、本当に綺麗な心を…何事にも曇ることのない美しく強い心を持っていると私は思う…

「オスカー…ありがとう…ほんとうにありがとう…」

アンジェリークの双眸から静かに涙が零れた。しかし、その涙は暖かいものだった。

 

朝まだきの仮宮に人影はない。

アンジェリークを自室にそっと送り届け、オスカーは客間に戻ってきた所だった。

一睡もしていなかった。だが、オスカーの心は晴れやかだった。

眠る事など考えられなかった。眠気自体がまったく生じなかった。アンジェリークが自分の腕の中にいる、いてくれる。今、この時だけは…穏やかなものであったが、紛れもない高揚感に身中を満たされていたからだ。

アンジェリークの華奢なたおやかな体の感触をこの手にしみこませたくて、全体の輪郭を確かめるように抱きすくめながら、何度も何度もその肌に掌を滑らせた。

放った後も、引きぬく気になどなれず、アンジェリークが何も言わないことに甘え、そのまま彼女の内に留まっていた。少しでも長く、少しでも多く彼女と繋がり、触れ合っていたかった。

アンジェリークは嫌がる素振りこそ見せなかったものの、時折落ちつかない様子でみじろぎし、問いかけるような瞳でオスカーを見上げることがあった。胎内で存在を主張している自分の物に、どうしていいかわからなかったのだろう。

彼女が戸惑っているのはわかっていた。動くわけでも引きぬく訳でもなく、ただ、繋がったまま抱きしめられていることに。だが、オスカーはそれで幸せだった。というより、そうしていたかった。こうして別ち難く繋がり触れ合っていると全身で感じられることが何よりの至福だった。

アンジェリークが僅かでも嫌がる素振りを見せたら止めるつもりだった。だが、彼女はいつまでも自分を許容してくれていた。自分が彼女に懇願した言葉…『今しばらくこのままでいてくれ』と言った言葉を字義通りに懸命に守ろうとしているのかもしれない。

そんな彼女の健気さ、純粋さが愛しくてならなかった。何より、もう自分オスカーを躊躇いなく丸ごと受け入れてくれているその気持ちが嬉しかった。

慕わしさと感謝の気持ちと愛しさと…ありとあらゆる暖かく喜ばしい感情が胸に溢れて、その分、言葉は少なくなって、それでも、暖かな満たされた想いを少しでも伝えたくて彼女を柔らかく撫でながらかき抱いた。

労るような、慈しむような自分の愛撫に、アンジェリークの身体もとろんと柔らかく弛緩している。

気がつけば、いつしか穏やかな寝息が聞こえてきた。アンジェリークはオスカーに抱かれたまま、すやすやと寝入っていた。

それをオスカーは純粋に嬉しく思った。心から寛ぎ、安心し、その男を信頼していなければ腕の中などで眠れるはずもないのだから。

オスカーはアンジェリークの身体を改めて包む込むように抱きなおしてから、飽くことなくその穏やかな夢見るような寝顔に見惚れた。時間の感覚などとうになかった。気付くと窓の外が白み、夜が明け染めようとしていた。

もう間もなく夜があける。この世のものとも思えぬ至福の時は、まさに放たれた矢のようだ。

だが夜が明ける前に、彼女が目覚める前に、彼女を自室に送り届けねばならない…

オスカーは名残惜しげに腕を解いた。

できれば朝の目覚めを供に迎えたい、互いに含羞を湛えながら優しく微笑みあって労りあって…一瞬心に浮かんだ渇望をオスカーは文字通り首を振って振り払った。身にすぎた願望だ。万が一、彼女がそのように振舞ってくれたとしても、別れが辛くなるだけだ。それに彼女の心に深く自分の痕跡を残すような真似はしてはならない。彼女の優しさや情の深さがわかっているからこそ、そこにつけこむように、心に楔を打ち込むような事をすべきではないと自制した。

アンジェリークが僅かに身じろぎした。幸せそうな寝顔は変わっていない。憂いやかげりはどこにも見られない。仄かに口元を綻ばせ、自分に微笑みかけてくれているような、見ている自分の方が幸せになる寝顔だった。

こんなに愛らしい、幸せそうな寝顔を見る事ができた。自分の目の前で、腕の中で、安心しきった寝顔を見せてもらえた。そんな自分は心から幸せだと思えた。

彼女を起こさないように注意して夜着を着せ、眠り姫を運ぶように細心の注意を払って彼女を私室に戻した。

彼女をベッドに降ろした時、彼女が無意識に自分を求めるように腕を伸ばしてきた。まるで、頑是無い子供が置き去りにされるのを怖れるようなその仕草に、オスカーは彼女をなだめるように低い言葉を発しながら思わず口付けをおとしていた。

その甘く柔らかな唇の感触を心行くまで味わいたいという熱望をどうにか抑えこみ、オスカーは唇を離した。

彼女に安らかな笑みが戻っていた。

オスカーは彼女が眠っていることを確かめた上で、生涯口には出さぬと誓っていた言葉を一回だけ口の端にのせ、そして扉を閉じたのだった。

ドアの閉まる音が、訣別の…彼女との訣別ではない、自分の行き場のなかった想いへの訣別の合図に思えた。寂しくも虚しくもなかった。自分の想いは受けとめてもらい、落ちつき所を得られた。自分がそれに救われたのもまた事実だったから。

明日から…いや今日から俺は純粋に彼女を守護する騎士に徹する。あくまで臣下として。

だが、今は…薫る彼女の残り香にしみじみと浸っていたいとオスカーは思った。出仕するまでにわずかでも仮眠をとろう。彼女の香りが仄かにくゆるベッドに身を横たえ目を閉じた。彼女の香りを胸一杯に吸いこむと、この掌に、この瞳に、焼き付いた残像が鮮やかに蘇る。オスカーは、自分は存外感傷的な男だったのだなと思った。

 

夜想祭の数日後、アルカディアの事態は急転を告げる。

それまでは、育成を行う、その育成に反発するかのように霊震が起きるというルーティンが繰り返されていた。霊震という反作用を除けば、自分たちの行為はきちんと出口に向っているのか、手応えのない日々が続いていくのかと思っていた矢先、封印されている物が一瞬ではあったが実体化したとの報告がなされたのだ。

たまたま街の視察の帰りにコレットと出会ったヴィクトールが不穏な気配を感じ取り、コレットの求めに従って銀の大樹の許に赴き、そこで『その者』に出会った。

ヴィクトールはその者が姿を消した後コレットを部屋まで送り届けたその足で宮殿に報告に即刻参内したのだった。

ヴィクトールが訪れた時、宮殿は夜にも拘わらず、ざわついていた。

たた人であるヴィクトールにも感じ取れたほどの禍禍しい空気に女王や守護聖が気付かぬはずもない。警戒を強め様とした途端にその気配が跡形もなく消えてしまったところであった。事態を読みきれない苛立ちが宮殿を覆っていた。

 

その少し前のことだ。アンジェリークは己のサクリアで張っているバリアに触れてくるおぞましい思念を突然感じた。バリアの隙を探しているような思念の触手に撫でられるおざましさに息が一瞬止まり、油汗が流れた。ほとんど間を置かず血相を変えてオスカーがアンジェリークの私室に飛びこんできた。オスカーもまた、単なる余剰エネルギー反発である霊震とは明かに異なる能動的な悪意を感じ、その瞬間考えるより先に走り出していたのだった。アンジェリークの部屋に向って。

「陛下!ご無事ですか!」

アンジェリークがあきらかに安堵の表情でオスカーに振りかえった。

「っ…オスカー…ええ…気持ち悪いけど…体は平気。何かがこのアルカディアを…バリアを舐め回す様に探っている…どこかに綻びがないか探しているみたい…うっ…」

「陛下!陛下の精神に直接アレが触れない様、俺が炎の結界を張ります。その中にお入りください。一時的なものですが少しはマシでしょう。お身体の方は、俺がこの身に替えましても守ります。このまま俺が御側に…」

「オスカー…無理しないで…」

蒼白な顔で気丈にも自分に微笑もうとするアンジェリークの様子が却って余裕のないことを示す。オスカーは効果があるかどうかわからぬまま、アンジェリークの周囲に炎のサクリアを張りめぐらそうとしたその瞬間、その凶手の気配はふっとかききえたのだった。

「あ…なに?消えたわ…」

「陛下も感じられましたか?突然…気配が消えた…一体どうなっているんだ…」

「アンジェリーク!無事?変わりはなくて?」

真っ青な顔でロザリアが駆けこんできた。

「ロザリア!ええ、私は平気、オスカーもいてくれたし…あなたこそ、なんともない?」

「ええ、わたくしは…でも、今のは一体なんだったのかしら…」

「ロザリアも感じたでしょ?あの、とてつもなく嫌な感じ…それがいきなり消えて…気味が悪い…」

その時ホールからがっがっと遠慮のない重い音が響いて来、オスカーが思わず剣を身構えた所に、切羽詰った様子で現われたのがヴィクトールであった。

「陛下、ご無礼は承知で即刻ご報告申し上げたい旨がございます。」

「将軍!いくら将軍でも、こんな刻限に取次ぎもなしにいきなり陛下のお部屋にいらっしゃるなんて…」

ロザリアの言葉をアンジェリークは遮った。

「いいのよ、ロザリア。ヴィクトール、それは今のあのことに関係しているのね?なにかご存知なのね?」

「は…実は…」

「陛下!大事ございませんか!?」

ヴィクトールが事の顛末を報告しようとした矢先に、やはり血相を変えたジュリアスがアンジェリークの私室に飛びこんできた。

ジュリアスは私邸で書類をみていた所だった。突如、とてつもなく邪悪な気配を感じた。アンジェリークが危ない、それは直感だった。しかし、その気配は宮殿につく前にやはりいきなり消失した。その唐突さが余計に不気味で、ジュリアスは尚更アンジェリークの身が案じられ生きた心地もしないまま、今宮殿に辿りついたのだった。

「ジュリアス。私は平気よ。オスカーがいてくれたし…それより、丁度よかったわ。将軍が、今感じたあの嫌な感じのことを何かご存知みたいなの。ジュリアスも一緒に聞いて。」

「ヴィクトールが?確かにあの邪悪な気配と、その突然の消失は不可解…ヴィクトールが何かを見たのならそれは僥倖だったと言えましょう。すまぬ、私も同席させてもらう。話を聞かせてほしい。」

「は…」

ヴィクトールは恐縮しつつ、銀の大樹の許に現われた人型のことを報告した。

銀の大樹が嫌な紫の靄に覆われていた時、それは突然現われたこと。まばゆい白銀の光を放ち、それが現われた途端、樹を覆っていた紫の靄が消え、同時にこの地を覆っていた禍禍しい空気も霧消したこと。そして、それが語るには、今は退けても敵は再来する、敵とは虚無に生まれた負の思念であり底無しの悪意であり、人型はその邪悪な思念を『ラ・ガ』と呼んでいたこと。敵を倒すのがその物の使命であるが、封印を完全に解かないことにはそれは不可能だから、この地に愛と力を更に注いで欲しいとコレットに嘆願して、その存在もまた姿を消したことを順序だてて簡潔に報告した。

「それが封印されているものであることは間違いないようでした。それは自分の名前を忘れておりましたので私は便宜上、それに『エルダ』と名づけたのですが、それに私の声は届かぬようでした。アンジェリークが…失礼、新宇宙の女王が介在して私の言葉をそれに伝えました。」

「アンジェリークは…コレットはその物のことをなんと言っていた?」

「初めて会った気がしない、昔から知っているような気がすると。そしてアレは絶対悪いものではないと、彼女は言っておりました。」

それを聞いても、その場にいた者は全員、そのコレットの印象を鵜呑みにする気はなかった。彼女の言葉は恐らく真実であり、本質を射ていることを承知の上で。彼女は優れたシャーマンだから、その物の本来の性質や感情を直感的に読み取る。それは事実なのだが、だからこそ、注意が必要なのだ。悪意がないということ=自分たちに害を為さないということではないからだ。肉食動物に草食動物への悪意など微塵もないだろう。だが、肉食獣は草食獣を補食する、草食獣にとっては悪意はなくても自らに害為す存在なのだ。過去、実際彼女は皇帝の本来の精神に共鳴してしまったために、皇帝を悪人ではないと信じきっていた。実際皇帝は自分たちに悪意は持っていなかった…彼の敵意は本来の宇宙にいる血族に向けられており、自分たちは単に利用価値のある存在、いわば草食獣の立場でしかなかったからだ。だが、その悪意のない、本質は確かに悪人ではなかったかもしれないその皇帝が自分たちの宇宙にしたことは何だ?我らの女王にした仕打ちは何だ?自分たち守護聖はそれを忘れることはできないし、過去の経験から何も学ばないほど愚かでもない。少なくとも、この場にいる、ジュリアス、オスカー、ロザリアはコレットの直感は正鵠を射ていたとしても、おさおさ油断を怠るつもりはなかった。彼女の能力は能力として認めているからこそ、強い精神には共鳴してそれに巻きこまれてしまいがちな彼女の弱点もわかっていたからだ。

その場にいる者の気持ちを代弁するようにジュリアスが尋ねた。

「ヴィクトール、率直なところ、そなたの印象はどうだ?」

「正直に言ってよくわかりません。情報が少なすぎます。敢えて言わせていただけば、確かに禍禍しいものではない。あれの出現と同時にあの嫌な空気が消えたのは紛れもない事実です。あれが、あの禍禍しい凶眼…ラガと言うものと闘っているのも事実でしょう。ただ、だからといってそれを信用していいかどうかは別物ですから…」

「もっともな意見だ…」

「明かにあれは『人ならざる者』でした。人型をとってはおりましたが…なんというか、まったく空気が違うのです。守護聖様方とも違う…その空気は確かに悪い物ではないのですが…そう、どちらかというと、暖かなすがしい空気です…私の個人的な感覚なので当てにはなりませんが。」

報告を聞き終わったアンジェリークがついと前に出た。

「じゃ、いい?ヴィクトールの言ってくれたことを整理してみましょう。ひとつ、ラガは誰にもわかる嫌な存在で、エルダはそれを退ける力がある。2つ、エルダとラガは闘っている。3つ、エルダはラガに封印されていて今は力が十全に出せないけれど、育成を進めて封印を完全に解いてほしがっている。ここまではいい?」

皆、神妙な面持ちでアンジェリークの言葉を聞いていた。

「これは私の勘だけど、私は、ヴィクトールの言っていた印象が正しいと思うの。実際、あのとてもおぞましい空気はエルダの出現で消えたことは事実だもの。みんな、それは感じたでしょう?それなら、やっぱり、私たちはエルダの解放を進めるべきではないかしら。確かに、エルダに悪意がないってことは、害にならないってことではないけれど、もう一方のラガには明かな悪意と敵意があるのだもの。住民を大陸ごと消そうとしているようなね。この場合、どちらにつくのがよりリスクが少ないかは自明だと思うの。」

「陛下、そのように簡単にお決めになってしまってよろしいのですか?」

「だって、ラガを放っておけばこの大陸は早晩消滅してしまうのよ?でも、エルダを解放すればそれが防げるかもしれないのでしょう?エルダが信用できる存在かどうかは問題じゃないわ。私たちの目的は私たちを含めた住民たちの安全だわ。なのに、私たちにはここに明かに存在する悪意…私たちを宇宙ごと消滅させようとしている悪意を直接叩く手段がないのよ。できるのはバリアを張って抵抗することだけ…それも持ちこたえられる限界の決っている…このままでははっきり言って負け戦だわ。守っているだけで、じりじり押されている上、私たちには戦う方法がないのですもの。でも、エルダは、それと闘えるのよね?封印を解かぬ限り、ラガを倒すことは不可能と言う事は、封印を解ければエルダにはラガを倒す力があるってことなのではなくて?それなら、私たちは住民のためにも自分たちのためにも、エルダの解放に賭けるしかないと思うの。」

「なるほど…エルダの正体はわからずともそれは問題ではない、利害は一致しており、エルダを支援する事は自分たちの救済にも通じる…いわば同盟を組むということですね。闘いはエルダに任せ、我々は後方支援にあたるという…」

「あ…やだ、そこまで堅苦しく考えてなかったけど…でも、ラガに味方なんてできないもの、だったらエルダを応援したほうが自分たちにとってもいいと思っただけ…」

「だが、陛下のおっしゃることは確かに理にかなっていると私も思う。我々は陛下のご意志に従うのが良策であろうと私は思うが。オスカー、そなたの意見は?」

「敵が共通の場合、同盟を組むことは理にかなっています。特にそれぞれ単独の力では敵に打ち勝てないことが明かな場合、連合策を組むのは兵法の基本です。同盟相手が信用できるかどうかはこの場合問題ではありません。それは勝利の後に考えればよいことです。今、眼前の敵を倒さねば、自分たちは滅んでしまうのですから…」

「ヴィクトールも異論はないか?」

「は、陛下のお考えは実際最善策であると思えます。というより、我々には確かに他に選択肢はありません。」

「そのようですわね。」

「陛下、では、明日会議を開き、ヴィクトールに今と同様に報告してもらった上で、陛下の御意ということで育成の持つ意味とエルダの解放を守護聖たちに更に周知・徹底させましょう。」

「お願いするわね、ジュリアス。あ、でも、最初から決めつけないで、このことは提案する形にしてみんなの意見も聞いてね。今、ここだけで決めていいことではないと思うから。」

「御意」

「皆、ジュリアスもオスカーもロザリアも、私を心配して来てくれてありがとう。ヴィクトールもわざわざ、すぐに報告に来てくれてありがとう。おかげで今後の目処もたったし、なにより私も安心できたわ。あの感じ、とっても気味が悪かったんですもの。なにもわからないままだったら、きっと気になってしまってよく眠れなかったと思うし…」

臣下の行いに感謝の意を示し単に労うだけでない。その言葉も形だけの労いではない。暖かい血の通ったアンジェリーク自身の言葉だから、皆、励みを覚え、心が暖かくなる。確かに女王らしくないと言えばその通りなのだが、彼女のこういうところが我々に彼女のために働くことが喜びだと思わせてくれ、高い士気を維持しているのだと、ジュリアスは改めて思う。

同時にジュリアスはアンジェリークの聡明さに舌を巻いていた。もともとあまやかな外見からは意外なほどにアンジェリークは聡い。だが、今の状況分析は実際、他に選択肢がないとこの場の全員を納得させた。

彼女はそれほど意識していないようだったが、以前より思考がより研ぎ澄まされているようにジュリアスは感じた。何を捨て、何を選ぶか、最も肝要な目的は何なのか、その優先順位の付け方や選択眼の堅実さは、それが直感的な物であっても、見事といわざるを得なかった。

彼女は大人だ。女王候補だった時とは比べ物にならないくらい大人になった。いや、彼女の立場、責任、義務を考えれば、彼女が大人の思考を身につけるのは当然といえば当然なのだが…短時間に余分な要素を取り除き、恐らくは正しい方向性を選び出したアンジェリークの決断力はすばらしかった。この地での待ったなしの状況が彼女の能力に更なる磨きをかけているのであろうか。

「遅くまでひきとめてごめんなさいね?今夜は皆ももう休んで?ね?」

ジュリアスの思考はアンジェリークの愛らしい声に中断された。

「陛下、お身体の方は、もう、本当にお変りはございませんか?」

ジュリアスがアンジェリークに念押しをした。このまま帰ってしまうのがなんとなく躊躇われ、後ろ髪をひかれた。

「ええ、今はもうなんともないわ。だから、ジュリアスも無理しないで休んで?」

「ジュリアス様、今夜は俺が陛下の御側に詰めております。私がお守りいたしますからどうぞご安心を。どんなことからも、この身に替えましても陛下をお守りいたします。」

「あ…ああ、そうだな、オスカーが宮殿に詰めているのだったな…では、陛下をよろしく頼む。」

「はっ」

その場にいた者は静かに散っていき、ジュリアスもまた静かに宮殿を辞した。

オスカーが宮殿に居るのだから、アンジェリークの身の安全は確かに信じられる。それでも今夜、アンジェリークの側についていなかったことがジュリアスは悔やまれた。夜想祭以来、まとまった時間を取れずにいたのだが、ここ数日協力育成の成果は堅調であったし、霊震は続いていたもののそれ以外に不測の事態は起きていなかった。状況が落ちついているようなら、アンジェリークの様子を見るためにも一緒に過ごしたいと思っていた矢先だった。

邪悪な思念と戦う者『エルダ』の覚醒…封印されている者が目覚めたというとこは、確かに封印が緩んでいるという証左であろう。しかし、その封印はその物の言う通り完全に解けてはいないからこそ、エルダは僅かな時間しか実体化できなかったに違いない。そして、コレットにより多くの育成を嘆願して消えたということは…アンジェリークの考える通り育成により確かにエルダはラガに対抗する力を取り戻せるのだろう。

しかし、それは恐らくエルダを封印していた存在、ラガも必死になって反撃してくる、もしくは育成を妨害してくる怖れが増大する事を示唆している。

今まで以上に気が抜けぬな…

アンジェリークを無事に聖地に連れて帰る、その目的のために、些事に拘っている暇はない。聖地に戻り、アンジェリークと微笑みを交し合う日々を取り戻すのが第一義だと自分に強く言聞かせ、ジュリアスは私邸に戻った。

 

翌朝、守護聖とその他の関係者を召集した会議が開かれた。

ヴィクトールから昨晩、封印されている存在が暫時であったが実体化した事実と封印している悪意の存在が言及された時、場にざわめきが起きた。ジュリアスがそれを制し、女王の名においてアンジェリークの言を伝え、その場に列席している者に意を問うた。

自分たちには戦う手段がなく、また、明かに悪意を持って自分たちを滅しようとする存在と、それに対抗しうる存在がいればどちらに協力すべきなのは自明だった。例え封印されし者『エルダ』の正体もわからず、それが信用できるかどうかわからずとも、これと手を組むしかないという状況をその場にいた者全員納得したように見えた。その時は…

だが、事はそう簡単に運ばなかった。

ジュリアスが懸念した通り、この日から、育成が進むにつれ霊震が劇化していく一方となった。霊震が育成に対する反作用や抵抗なら、霊震が劇化するのは、むしろ喜ばしいことと言える。それだけ敵が追い詰められているということを意味するからだ。

しかし、眼の前に提示される悪化していく環境に、動揺を隠せないものが守護聖にも出た。ジュリアスにとってその事実は、自分で思う以上にストレスとなった。女王を支える守護聖は一枚岩であるという信念が本来の身内である守護聖自身に否定される。育成の手応えは悪い結果でしか出てきていない現状に対する苛立ちも、自分たちに直接できることのないもどかしさも心情としてはわかる。しかし、本来民を牽引する自分たちが、民の不安の感情に巻きこまれていてどうするのだと苛立たされる。女王の決定である育成とエルダの解放に異義を差し挟むことは、女王への反逆にも取られかねないということにも気付かぬ若さゆえの視野の狭さに手を焼かされる。彼らは目先の危険に動揺し不安や苛立ちを抑えて何がもっとも優先すべき目的なのか見極める事ができない。目的の遂行に手段を選ぶ時間も、またその選択肢自体がほとんどないことも感情的に納得しない。

事あるごとにルヴァとともに説諭したのだが、それは権威の押し付けにしか取られなかったようだ。自分たち年長の守護聖とて、女王の言だから無定見に従っている訳ではない。現実にそれしかラガを打ち破る可能性がないのだ。この地の民の見た目の安全だけに気をとられ大局的に物事を見ずにエルダの解放を放棄することは即ちラガの力を助長する。その先に自分たちを待っているのは破滅、それも、自分たちの宇宙の未来も含めた破滅しかないと言うのに多発する霊震にばかり気をとられてしまう若者たち。霊震を抑えることが住民を救うことではない、この場合エルダが信じられる存在かどうかも問題ではないのだ。悪く言えば、お互いを利用しているだけの関係であっても、要は結果が大切なのに、純粋で頑ななまでに潔癖な精神はそれを良しとできない。

若手の守護聖の不信感に、コレットもまた影響されている。育成の動きが鈍い。無理もない。コレットの眼前でゼフェルが育成への不信を露にしたからだ。コレットの手前、女王の決定に異を唱えることの無礼を窘めるだけに留めたが、それも、さらなる反発を招いてしまったようだ。

バリアの維持はいよいよアンジェリークのサクリアを消耗している。こんな内部のことでアンジェリークの心を悩ませる訳にはいかない。

そう思って自分たちでなんとか若者たちの不信を払拭しようと努力していたのが仇になった。

ある日ゼフェルたち若者が、独断専行して銀の大樹を計測することでエルダの正体を突き止めようとし、逆にラガに襲われたのだった。

 

ゼフェルが前日から館に戻っていないというので、守護聖たちは秘密裏にその消息を探っていた。住民たちに守護聖が一体となっていないことを知らせる訳にはいかない。

探索の過程で他の若者たちも姿を消していることがわかり、途端にコレットがあからさまな動揺を見せた。それを見て取ったオリヴィエがコレットを責めて聞こえない様注意しながら、若者たちが銀の大樹に向ったことを聞き出した。

ジュリアスは、守護聖を二手にわけた。懸念はあったもののとりあえず差し迫った危険の少なそうな宮殿にはルヴァ、オリヴィエ、リュミエールを向わせ、残りの者と自分で銀の大樹に向った。アンジェリークの許に自分が直接赴かずとも、彼女ならそれは必要なことだとわかってくれることは無理なく信じられた。

銀の大樹はエルダとラガの力が拮抗しているいわば最前線である。そんな場所に無防備に飛び込んでいくことがどれほど危険なことか、若者たちはわかっていない。

若者たちがいた。銀の大樹を半円を描くように囲んでいる、地に縫いつけられているようにぎこちなく立ち竦んでいる。

見れば、銀の大樹の周囲を手で触れられそうなほど濃密な邪悪な気配が渦巻いていた。純粋な負の思念であるラガを、ジュリアスたちもこの時初めて目のあたりにした。

それを見た刹那、オスカーは寸分の躊躇いもなく剣を抜き、ラガに切ってかかったのだ。無謀だった。その行為は若者たちを助けようという義勇心と、自分の能力への信頼ゆえであろうが、あまりに危険だった。直接攻撃が有効だという保証はなにもない。しかし、その迷いのない潔さは、これが武人と言うものかと瞬間ジュリアスを素直に感嘆させた。

オスカーが剣を抜いて中空に浮かぶ赫い凶眼に切り掛かる様をみてコレットが鋭い悲鳴をあげた。その時突然、異形の人型が眩い光を放って現われ、邪悪な思念を一瞬にして蹴散らした。その場にいた全員が瞬時に確信した。これがエルダだと。

ラガを退けてからエルダはコレットに話しかけてきた。この地を愛で満たさなければ、自分はラガを本当に倒す事はできないと。もっと育成を進めてほしいと哀しげなまでに懸命にコレットに訴え、それは消えた。

若者たちは今起った出来事に呆然としたままだった。

ジュリアスとオスカーは2人で順に彼らに猛省を促した。

若者たちは居心地悪げであった。自分たちの行為が勇み足であり、蛮勇でしかなかったこと。実際に接したラガの邪悪さと、エルダの穏やかな空気、そして自分たちを救ってくれたという事実に、エルダや女王の方針に対する疑念はかなり薄れたようであった。もっとも、若さの肥大した自尊心ゆえ、その場で明かな謝罪や反省は表に出せないようだったが。

尚も説諭したそうなジュリアスの気を反らすかのように、オスカーが宮殿にいるアンジェリークへの懸念を口にした。

言われてみて、その通りだと気付いた。何よりもまず彼女自身の安否を確認し、若者たちを心配しているであろうアンジェリークを安心させ、また、今後のことを話し合わなければならない。

「そなたたちには、陛下の御前で今自分たちの見聞きしたことを報告してもらおう。申し開きがあればその時にするがよい。」

この時ジュリアスはかなり怒っていたといっていい。アンジェリークの苦労も、その決断の意味もわかろうとせず、勝手な事をして自らを危険に晒し、周囲を心配させた彼らに腹が立って仕方なかった。守護聖の命は1人自分だけのものではないのだ。一人の守護聖の不慮の死がどれほどの混乱を宇宙に招くか、不安定になったサクリアがどれほど多数の命を危険に晒しかねないか、若者たちは全くわかっていない。この地の民を救う事はゴールではない、その後は自分たちの宇宙を導いていかねばならないことも彼らの視野にはない。目先の事にのみ捕らわれその先を見据えて動こうとしない彼らにどうしようもない憤りを感じていた。しかし、ラガと直接対峙した当事者としての証言は貴重である。だから若者たちを携え、ジュリアスとオスカーは宮殿に急いだ。コレットはヴィクトールに預け、私室に送らせた上で今夜は護衛についてもらうことにした。

アンジェリークは落ちつかない様子で執務室にいた。

ジュリアスとオスカーに付き添われ、バツの悪そうな、それでいて不貞腐れたような顔で最初にゼフェルが執務室に入ると、アンジェリークはいきなりゼフェルに駆けよって、その線の細い身体にぎゅっと抱きついた。

「ゼフェル!ゼフェル!無事でよかった!」

「ぅわっ!アンジェ…じゃねえ、陛下!な、なんだ、いきなり!?離せよ!」

身体中真っ赤になって棒を飲み込んだ様に一瞬硬直した後、慌ててゼフェルはアンジェリークを押しのけた。

「ゼフェル!陛下に対し、なんという無礼を!」

「お、俺じゃねー!抱きついてきたのはアンジェの方だ!」

「あ、ごめんね、ゼフェル。ゼフェルの無事な姿を見て、安心しちゃって…」

「アン…陛下…」

「皆も無事でよかった…本当に…」

職員室に呼び出された子供のように居心地悪げに佇んでいた若者たちは、当然下されると思った叱責なり罵倒なりではなく、心からの安堵と自分たちへの憂慮をあからさまに示すアンジェリークの言葉に声もなく呆然としていた。

「ゼフェル、お願い、もう一人で無茶をしないで?一人で何もかも抱えこまないで?疑問や納得いかないことがあったら何でも話して?女王がいて、守護聖が九人いるのは何故か考えて?一人で何もかも抱えて悩んで苦しまないで。私、ゼフェルたちに何かあったらどうしようって、本当に…本当に…」

最後の言葉は涙に飲みこまれてしまった。顔も覆わず、童女のように衒いなくぽろぽろと涙の粒をアンジェリークは零す。滑らかな頬を幾条も流れおちる涙にゼフェルはみっともないほどうろたえた。

「わ、わ、泣くな!泣くなアンジェ!じゃねえ、陛下!頼む、泣かないでくれ!」

「…ゼフェル、あなたの気持ちは私もわかるつもりよ、私たちのしていることが正しいかどうかなんて保証はないんですもの。エルダが信じきれないのも…でも、お願い。一人で考えても答えのでないことなら、周囲に声をかけて?きっと一緒に考えてくれる人がいるわ。一人ではどうにもできないことでも、助けてくれる人がいれば乗り越えられるわ。私のしていることが納得いかないなら、どうか私に話して?なんでも一人で決めて一人でやってしまわないで?それは私たちを信じられないからなのかなって…私、ゼフェルに信じてもらえてないから、私が頼りないから…ゼフェルは一人で無茶をしたのかと思って哀しくて…その結果取り返しのつかないことになったら、どうしようって、本当に心配で…」

ゼフェルはアンジェリークの言葉で自分のしたことの意味をこの時初めて理解した。自分は埒の開かない現状を一人で打開するつもり、できるつもりだったが、それは周囲と女王であるアンジェリークへの不信の表明になってしまうことと、一人でなんでも出切ると思うことが思いあがりであったことに今漸く気付き、本気で反省した。それまでは、『ちょっとしくじっちまっただけで、別に俺は悪いことしたわけじゃねー』と開き直る気持ちの方が強いくらいだったのだが。

「悪かった!本当に悪かった!そんなつもりじゃなかった!おめ…陛下を信じてないんじゃねーんだ。陛下はなんも悪くねー!俺は陛下を泣かせたくなんかないんだ!陛下やコレットだけに苦労押し付けて、自分たちは何もできることがねーのがたまんなかっただけなんだ!陛下を少しでも楽にしてやりたかったのに…俺は…俺のしたことは…陛下を悲しませただけ…か?」

ゼフェルを安心させるようにアンジェリークは涙に濡れた顔のまま、にっこり微笑んだ。

「ううん、ゼフェルの気持ち、嬉しい。それに何より、ゼフェルたちが無事で嬉しい。だから、お願い、本当にもう一人で無茶はしないで。皆、すごく心配してたの。最初からわかってもらえるはずがないって決めつけないで。差し出そうとしている手を拒まないで、お願いよ、ゼフェル…「どうせ」って最初から信じてもらえないのは、何よりもとても辛い…」

「ご、ごめんなさい、ごめんなさい、陛下」

「僕たち、そんなことを皆さんに思わせたなんて、考えてもいなくて…」

「俺たち、本当に考えなしでした、すみません、すみません、陛下」

若者たちは口々に心からの謝罪を述べた。ジュリアスたちが反省を促しても半ば開き直ったような態度しか見せなかった先刻が嘘のようだ。

強圧的に理詰めで指導するだけでは、理屈は正しくても反発心も一緒に芽生えてしまうのだ、アンジェリークのような飾り気ない心よりの理解と共感があって初めて、人の心に言葉は染みこむものなのだ…アンジェリークの陽光のような心が彼ら本来のまっすぐな心を表に引き出したのだとジュリアスは感じいる。

「ううん、いいの、皆無事だったし、これからは疑問に思ったことは何でも聞いて?皆で考えて、皆で立ち向かっていきましょう。わたしたちは一人じゃないのだもの…」

この一言で彼らへの処分はないものと言外に決ったようなものだった。ジュリアスは一瞬、『何も処罰を下さないのはどうかと思う』と口を鋏もうとしたのだが、すぐにその考えを打ち消した。確かに形だけの処罰を下して更なる反抗心を煽るより反省を促し心をいれ替えさせる方が、結局プラスになるとジュリアスも断じざる得なかった。

「はいはいはーい、じゃ、ここいらで、その場にいなかった私たちに何があったのか説明してもらえないかなー?」

オリヴィエの言葉で皆の意識が綺麗に切り替わる。

「あ、そうね。何を見たのか、聞いたのか、そして、それをどう感じたか、詳しく教えてくれるかしら?ゼフェルたちのおかげで新しくわかったこととか何かないかしら?」

アンジェリークのこの言葉に若者たちは我先に自分たちの見聞したこと、感じたことを話し始めた。ラガは、無駄な足掻きはやめろ、いずれ宇宙は虚無と同化し魂を共有する、その時自分は完全な存在に、全てになるのだと主張していたという。そして、そのラガを退けたことで、自分たちのエルダへの不信が払拭されたこと、実際エルダの持つオーラは慈愛としか言えないようなものだったこと、しかし、やはりエルダと意志の疎通が可能なのはコレット一人だったことを口々に語った。

「そう…ラガの目的はこの大陸だけでなく全宇宙を虚無にすることだというのね…そんなこと、させる訳にはいかないわ。でも、わざわざ自分の目的を私たちに教えたのは何故かしら…言わなければ私たちにそれを調べる術などなかったのに…」

「それはブラフ…いわば張ったり、もしくは牽制でしょう。自分はこんなにすごい事ができる、するつもりだ。こんな事を聞かれもしないのにわざわざ我々に言う意味は明白です。つまり、その事で我々の士気をくじき、やる気を失わせようとしているということだと俺は思います。俺たちが竦んで諦め意気阻喪することを狙ったのでしょう。それは即ち、俺たちの行動が正しく、ラガにとっては好ましくないからこその行動ではないでしょうか。」

「あ…なるほど…俺、どうしよう、こんな相手に勝てるのか、ってそんなことばかり気になっちまってた。」

「敵の表面の言動に惑わされるな。ひとつの行為には必ず何らかの隠れた意志や意図があるんだ。聞かれてもいないことを敢えて言う、それは聞かせたいからだ、なら、何故そんなことを聞かせたいのか、聞かせることによってそいつにどんなメリットがあるのか、そこまで考えろ、言葉の背後にあるものを読め。霊震の劇化だって、それは即ちラガの苦し紛れの足掻き、育成が効果があるからこその反作用だということは少し考えればわかるはずなんだ、そんなことも気付かず目先の危機に踊らされ、敵の思う壺にはまった自分を反省しろ、ランディ。」

「オスカー様のおっしゃる通りです。すみません」

「ま、それはもういいとして、私もオスカーの言う通りだと思うよ。やっこさん、それだけ余裕がなくなってるってことじゃない?つまりは、私たちのしていることは間違ってない、しかも、ゴールも近いってことじゃないのかなー?」

「しかし、それは、ラガの抵抗もより劇化するということだ。その抵抗にいちいち動揺していては勝てるものも勝てなくなる。」

「…そうだな…窮鼠猫を噛む…追い詰められるほどにあれがどんな手段に出てくるかしれたものではない。油断は禁物だ…だが、我々が確固たる信念をもって動いておれば無闇に恐れる必要もあるまい。」

「そうね。私たちは私たちのやってきたことに自信を持ちましょう。そして強い決意で育成をすすめましょう、育成が進んでエルダの力が完全に解放されればきっと事態は開けるわ。ラガの邪魔が酷くなればなるほど、それは自分たちは正しいゴールに向っているからだって信じて事にあたってほしいの、特に育成の当事者であるアンジェリーク…コレットへのサポートは今以上に綿密にね。彼女が迷ったり怯えたりしないようにしっかり支えてあげてね。」

「はい」

守護聖たちが心よりの賛同を示す。

「皆さん、遅くまでお疲れさま。どうぞ、もうお休みになってください。明日、このことを協力者の方々に報告する会議も開かねばなりませんので…」

ロザリアが解散を促すと、守護聖たちは三々五々退出していった。アンジェリークとロザリアも自分たちの私室に戻るという。

その中でジュリアスは今夜はアンジェリークの許に留まるとオスカーに言った。

今後の事で陛下と相談したいこともあるからと。

オスカーはあっさりとジュリアスに護衛を譲り宮殿から退出した。

ジュリアスはオスカーの淀みのない仕草に、なにか心にかかるものを感じた。が、それは悪い印象ではなくむしろその逆だった。

オスカーはなにか変わった。以前にも増してアンジェリークを案じる様子は真摯で真剣だが、その姿はどこまでも自然体でさらりとした透明感がある。なにかさっぱりとした充実感を感じさせる。

そうだ、以前はアンジェリークを案じる時、隠し切れず包含していた憂慮や焦慮の雰囲気が今はない。あのゼフェルに、そして自分にも通じる感情、彼女のためになにかしたいのに、できることのないというじれったさが、以前はオスカーにもあったような気がする。アンジェリークの心の問題の正体にまだ気付かず、オスカーの許に探りを入れに赴いた時、ジュリアスは、オスカーもまたアンジェリークの苦悩に気付きながら打つ手のない焦慮を同じように抱えているような印象を受けたことを思い出した。

しかし、今のオスカーにはそのような焦慮や焦れが感じられない。どこがどうというわけではないのだが、なにかさばさばとした印象を感じる。

アンジェリークをとりあえずは無事に聖地に帰す。限られた刻限で最優先の目的を見極めることで、自分が迷いをたち切ったように、オスカーもまた、優先事項を徹底することで自分自身の焦慮を克服したのだろうか。

アンジェリークも自分もそうだが…この限られた状況下に置かれることで、我々はどうしても譲れないもの、どうしても為し遂げねばいけないことを、過酷なまでに選ぶ眼を養わされたのかもしれないとジュリアスは考えながら、アンジェリークの私室に向かった。

今夜のことでいろいろ話したいことがあるが、アンジェリークは疲れていないだろうか。アンジェリークの様子次第で、今しばらく語りあうか、彼女をすぐ休ませるか決めるつもりで、ジュリアスは女王の私室に足を向けた。

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