汝が魂魄は黄金の如し 30

アンジェリークが自分の部屋に引き上げて程なく規則的なノック音が響いた。

「陛下、ジュリアスです。念のため、今夜は私が宮殿に留まることにいたしましたのでそのご報告に…。」

ジュリアスが皆まで言う前にドアが勢い良く開いた。

「ジュリアス、そんなところで話してないで、入って?あ…もちろん、ジュリアスの都合がよければだけど…」

瞳を輝かせ勢いこんで扉を開けたかと思えば少女のようにはにかむ。こんな目まぐるしい表情の変化がなんとも愛くるしく、ジュリアスの口元は自然と綻んでしまう。そんな状況ではないと頭ではわかっているのだが…

「では、お言葉に甘えて、お邪魔させていただきます。明日以降のことで少々ご相談したいこともございますので…」

宮殿にまだ人がいるかもしれないことを考え、ジュリアスはそれらしい口上を述べながら滑るように女王の部屋に入った。部屋に入りながら、ふと、オスカーの言を思い出す、聞かれもしないことをこうして述べるのは確かにわざわざ聞かせたいからだ。この訪問を訝しがられない為に…この場にオスカーが居たら、自分の意図はすぐに見ぬかれてしまっていたであろうなと思う。

「よかった!私もジュリアスにちょっとお話ししたいことがあったから、ジュリアスが来てくれて嬉しいわ。」

ジュリアスの仮宮の滞留を喜ぶ言葉とは裏腹に、アンジェリークはドアを閉めるといきなり真面目な顔でジュリアスに向直り、若干沈んだ口調でこう告げた。

「ジュリアス、ルヴァから聞いたわ。ゼフェルやランディたちはここしばらくずっと様子がおかしかったんですって?それをジュリアスと二人で何とか諌めようとしてたのに力及ばずこんなことになってしまって…ってルヴァが申し訳なさそうに私に教えてくれたの。それでこの頃いつも忙しそうだったのね?何故私には何も言ってくれなかったの?私、ゼフェルやランディがそんなに動揺してるなんて知らなかったわ…あなたが忙しかった訳も…女王失格ね…」

ジュリアスは項垂れるアンジェリークの頬に手を添えて顔を上げさせ、慌てたように言い募った。

「いや、そなたは何も悪くない、知らなくて当然なのだ、私が知らせないようにしていたのだから…そなたを煩わせたくなかったのだ…そなたの言が守護聖にきちんと浸透していないなどと知らせたくなかった。それでなくとも、そなたは重圧を背負っているのに、これ以上そなたの心を悩ませたくなかった。心痛の種を増やしたくなかったのだ。」

敢えて口には出さないが、アンジェリークのサクリアはいよいよ逼迫しつつあるのがジュリアスには感じられる。バリアの維持がそれでなくとも多大な負担になっているのに、本来一丸となって女王を支えるべき守護聖内の不協和音でアンジェリークの心を沈ませ心配事を増やしてはならないと、ジュリアスは、この件をずっと自分の所で遮っていた。

「ジュリアス…」

「だから、我々年長のもので何とかしようとしていたのだが、それが却って仇になってしまった…私は、先刻思い知らされた。それまで不貞腐れていたようなゼフェルがそなたの心のこもった言葉で初めて自分を省みた。私やルヴァがいくら諭しても反発するばかりだったゼフェルがだ。最初からそなたから言葉をかけてやっていれば、若者たちがあれほど依怙地になることも、その挙句思い余ってあのような危険な暴挙に出ることもなかったのかもしれぬ。誠に私の不徳だった。」

びっくりしたように大きく目を見開き、今度はアンジェリークが慌てて言い募った。

「ジュリアス、そんな事言わないで!あなたを責めるつもりなんてないの!それに、ジュリアスがいくら心を尽くしてもわかってもらえなかったのなら、私が言っても同じことだったと思うわ。ゼフェルもランディも、言葉だけでは…それが誰の言葉であっても、きっと納得できなかったのだと思うわ。人は…言葉だけではどうしてもわからないことがあるから。自分の目で見て、聞いて、自分の身体で実感しないとわからないことがあるのよ、そうして心底納得して、初めて心が変わるってこと、あると思うの…だから、ゼフェルもランディも、確かに危ない事をしたけど、だからこそ、彼らも納得できたのでしょ?ラガの邪悪さや、エルダにはラガを退ける力のあることを。だから、これからは、もう、彼らも疑念を抱かずに育成に協力してくれると思うの。」

「確かにそれはそうかもしれぬが…」

一呼吸おいてから、ジュリアスは鹿爪らしい顔と口調でアンジェリークに問う。

「しかし、あれでよかったのか?アンジェリーク。」

「え?何のこと?」

「ゼフェル達への処分だ。これほどの大騒ぎを引き起こし、周囲に多大な迷惑をかけ、公のものでもある守護聖の身を危険にさらし、あまつさえ、女王であるそなたの言にあからさまな不服を示し反抗した。立派な反逆罪、多少譲っても命令不履行だ、何らかの処罰を下さぬと示しがつかぬのではないか?今夜でなくとも、沙汰はおって知らせるということにしてもよいし。」

アンジェリークは一瞬きょとんとした顔をし、直後にくすっと笑った。

「ジュリアス、わざとそんなに怖い顔しないで?もし、本当にそう思っているのなら、あの場でそう言ったのではなくて?それにジュリアスもほんとはわかっているのでしょ?ゼフェルやランディに何か処分を下しても何にも得るところはないわ。育成がその分滞るし、ここには女王府のうるさいお役人もいないから示しをつける必要もないし、住人たちはゼフェルたちのしたことなんて知らないし、知らせる必要もないし…今、大事なのは形式じゃないわ、ここではそんなものは必要ない。大事なのは皆が心から納得して協力しあって育成を進めて…無事に聖地に帰ることだもの。彼らを処分したって聖地への道が近くなるわけじゃないのだもの。」

「…まったく、そなたには敵わぬな…では、不問に処すと公式に言っていいのだな?」

やれやれといった面持ちでジュリアスは息をついた。しかし、内心ではアンジェリークの判断力を再認識した思いだった。最も大事な要点を選びぬくその直観は揺るぎ無い。

「だって、ゼフェルたちのおかげで逆にわかったことも一杯あるし、このおかげで、もう守護聖に不信が生まれることはなくなると思うのよ。皆エルダの解放を心から納得してくれたのだし、却ってよかったわ。」

「それは、偶々結果が良かったからであって、あくまで幸運だったに過ぎないのだぞ?そなたの決定には従うが、うるさ型の私が若者には明日きっちり釘を刺すとしよう。偶然結果が良かったからと言って、勝手をして良いと勘違いされては困るからな。女王への不服従を甘く考えられるのもな。」

「…ジュリアス。損な性格ね?そういう役回りをいつも買ってしまうのね…」

アンジェリークは慈しむような仄かな笑みを浮かべる。ジュリアスも優しい瞳で頷き返す。

「私が言わねば言う者がいないであろう?必要なことだからな。」

するとアンジェリークは一転真面目な顔に戻り、訥々と話し始めた。

「ジュリアスの言うこともわかるけど…でもね、私は、やっぱりこの事があってよかったと思ってるの、えと…転ばなくちゃ転んだ痛さはわからないでしょう?いくら口で説明しても、転んだことのない人にはわからないでしょう?失敗とか、嫌な思い、辛い思いをして初めてわかることもこの世には一杯あると思うの。だからね、愚かに思えることでも、辛かったことでも、意味のないことなんてないと私は思うの…ううん、思いたいの。どんなことでも…実際に経験をしたからこそわかることもあると思いたいの。ただ嘆いていないで、なかったことにもしないで、そうしたらきっと、そこに意味をみつけられると思うの。意味をみつけようとすることが大切なんだと思うの。だから、ゼフェルもランディも、今度のことで一杯わかったことがあるなら…それは決して無駄じゃないと思うの。この地の育成に限らず、ね…」

ジュリアスはアンジェリークの言葉にはっとした様に顔をあげ、改めてアンジェリークの表情を見つめなおした。

アンジェリークの顔に翳りや憂いは感じられなかった。自分に必死に言聞かせている風でもなかった。

ただ、静かにゆったりとした空気がある。力みも気負いもなく、痛々しいほどの懸命さもない。

『明鏡止水…』

そんな言葉が自然と思い出された。

アンジェリークの心は静かに澄んでいる。そのおもては曇りも揺れもない。それでいて、冷たく頑なに凍てついているわけでもない。静かな湖水の奥深いたたずまいを彷彿とさせる。

ジュリアスはアンジェリークの言葉が、単に若者たちに向けられたものとは到底思えなかった。嫌な思いや、辛い思いをしたからこそ初めてわかることもある、その言葉の意味を、重みを、ジュリアスは知っているから。

だが、その言葉は無理矢理に絞り出されたものという印象はない。むしろ、アンジェリークは、心からそう信じて言っているのだと感じる。

その姿に、以前までの触れるのが怖いような脆さ、不安定さはない。

そこに気づいた時、ジュリアスの頭にある考えが突然閃いた。

アンジェリーク、そなたは、もしや自分の心の痛みに折り合いをつけられたのか?どんな出来事にも意味を見出そうとし、その経験を無駄にするかしないかは自分次第だと…考えることで、考えようと努力することで折り合いをつけようとしているのか?

アンジェリークの言葉の意味はわかりすぎるほどにわかる。自分も同じ事が言えるからだ。彼女と引き離され、助けるに助けられずにいた苦い経験が彼女の掛け替えのなさをより深く自分に知らしめた、同時に、聖地の安全と自分たちの能力への驕り、甘え、油断…侵略という手痛い経験とそれに続く甘い見通しによる対策の遅れ…この苦い経験がなければ決して気付かぬ事柄だったのも確かだ。

しかし…その為に、自分たちは…特にアンジェリークは、なんと大きく辛い代償を払わされたことか…辛い経験にも一見愚かな行動にも意味をみつけようとすればそれは明日の糧になる…そう言おうとするアンジェリークの強くあらんとする心に、そう思わなければやりきれないのかもしれないアンジェリークの過去の悲劇に、ジュリアスは目頭が熱くなる。知らず知らず長い嘆息をついた。

「そう…だな…痛い目にあわねばわからぬこともある、自分が同じ立場にならねばわからぬことも多い、人間とは本当にやっかいな…愚かな生き物なのかもしれぬな…」

「ええ、理屈で考えているだけでは、言葉で聞いただけでは…頭でわかったつもりでも、本当はわからないことが一杯あると思うの、でも、私は人間って愚かなだけではないと思うわ、だって…気付いたらそこからやりなおせるもの、何度でも、やりなおしはできるもの。生きている限りは、諦めない限りは…」

「アンジェリーク…」

「ジュリアス、私はそう思うようにしたの、そう考えるようにしようと思ったの。生きてると、自分の力ではどうしても避けられない困難に巻きこまれることがあるわ、個人の努力では避けられない命運というものがあるわ、この前の戦争も、今度のこの地への召還とラガへの抵抗もそう…でも、困難をくぐった先には、だからこそ得られるものがあると思えるの…んと…例えば、今、苦しくても、聖地に戻れればきっと皆もっとお互いに信頼しあえるようになるんじゃない?こんな困難も乗り越えたという自信が、きっとこれからの人生に大抵のことにはへこたれない力をつけてくれると思うし。だから、ほら、そう思えば、今の状況も無駄じゃないでしょ?」

「アンジェリーク!」

「きゃ…」

ジュリアスはアンジェリークの身体を渾身の力で抱きしめていた。感に堪えぬようにアンジェリークの髪に幾度も頬を擦り付けた。

「そなたは…そなたはいったい、どんな思いでその言葉を言っているのか…どんな心境で、そんな言葉を言えるようになったのか…一番辛かったのはそなたなのに…一番苦しかったのはそなたであろうに…」

「…ジュリアス…?」

「あ…いや、アンジェリーク、それなら尚更、私達は何が何でも聖地に帰らねばならぬな…この貴重な経験を無駄にせぬためにも。これからの人生に役立てるためにも…諦めず、生きていれば、何でもできると信じて…」

「ええ、ジュリアス、帰りましょう、一緒に帰りましょう。聖地に…私達の生きる場所へ…」

「ああ、アンジェリーク、そして、そこで、私達は可能な限り…許される限り命を重ねていこう。今改めてその誓いをたてる…」

ジュリアスはアンジェリークの秀でた額に、滑らかな頬に唇を滑らせてから、長い口付けを落した。

ジュリアスは唇を触れるや否やいきなり深深と舌を差し入れて強く吸い上げてきた。その口付けは、性急で余裕がなかった。それがまた、ジュリアスの懸命さの現われのようでアンジェリークはそれを嬉しく、愛しく感じる。

しかし、口付けに酔う傍ら、頭の片隅でジュリアスの言葉が何か意識にひっかかっていた。

『一番辛かったのはそなたなのに、一番苦しかったのはそなたであろうに』

ジュリアスは何のことを言っていたの?私が一番苦しかったって…バリアの維持の負担を言っているの?それなら、昔のことみたいに言うのはなぜ…それとも幽閉されていたこと?それならロザリアも同じ事…私だけが辛かったんじゃないわ…

…!…まさか…

思い当たることはある、ありすぎるほどにある、だけどジュリアスが知っているはずはない……でも、まさか…知ってる?…ううん、まさか、そんなはずない…でも…でも…まさか…

アンジェリークは思わず瞳を開けてジュリアスを問い掛けるような眼差しで見つめた。

ジュリアスがそれに気付き、名残惜しげに唇を一度離した。二人の間に銀糸がかかる。

「どうした?そんな目で私を見て…」

「あ…ううん…なんでもな…あ!…あの今夜は泊っていけるの?」

ジュリアスが物柔らかく微笑んだ。

「そうしたいのはやまやまだが…今夜は宮殿に人が多すぎた。私がそなたの部屋に入った所を見かけた者もいるかもしれぬので、今宵は客間で休むとする、残念だが…」

「そう…」

アンジェリークは落胆したのか、安堵したのか自分でもわからぬ溜息をついた。

「そんな顔をするな…今度訪れる時はそなたと供にすごすと約束する。折々になるべく顔も出すよう心掛けよう。」

「ん…約束よ?ジュリアス…」

「だから、尚更今は、せめてそなたの唇を味合わせてくれ」

言うやまた暖かいもので唇が塞がれ、舌を絡めて吸われた。喉をならすように思いきり口付けを堪能しながらも、アンジェリークの心の隅にはジュリアスの言葉が掛かったままだった。

 

雨降って地固まるとでもいうのか、アンジェリークの言った通り、その後守護聖たちは迷いなく育成に協力してくれるようになった。実際にラガとエルダと接したことがやはり良い動機付けになったようだ。尤も首座の守護聖から若者たちが改めてたんまりとお説教を食らったのは言うまでもない。

一時の迷いから幾分育成が滞ってはいたが、協力育成を見出していたおかげで遅れはすぐ取り戻せる。時間的にはほぼぎりぎりの線になってしまったが、それでも2、3日中に注ぎこんだエネルギー量は臨界に達する筈であった。

一度エルダに退けられて以来、霊震も徐々に沈静化している。まさにパイの奪い合いだ。エルダの力の増大に伴い、ラガの力が削がれているのがはっきりとわかる。

この分なら、育成の完成とエルダの解放は時間の問題と思われた時、それは起こった。

銀の大樹の様子がおかしいと住民から聞いて視察に行こうとしたヴィクトールが、コレットの名代としてレイチェルをその場に連れていっていたのだが、そのレイチェルがいきなり紫の靄に包まれて昏倒し、そのまま意識不明の重態に陥ったのだった。

 

その報告を聞いた時、ジュリアスは折り悪くコレットを執務室に呼び出した所だった。

育成に最後まで気を抜かないようてこ入れの意味で褒賞の指輪を…これにはコレットが自信を持って物事にあたれるよう光のサクリアを封じこめてあった…与えようとしていた所だった。これを身につけていれば自分のサクリアがそれと気付かぬ程度にコレットの自信と気概を底支えしてくれるだろう、彼女が迷い、立ち竦んでしまうことが今は最も避けるべき事柄だった。ラガは、目だった抵抗を見せていないが、このまま立ち枯れるように敵が滅するとはジュリアスは思っていなかった。最後の最後まで気を緩めるのは危険だという理屈ではない危機意識でジュリアスはコレットを励ましていた、その時だ。

王立研究院の職員があわてふためいて緊急報告があると入室してきた。レイチェルが意識不明の重態に陥っているという。ジュリアスは瞬時それをコレットに告げるかどうか迷い、すぐに思い返して事実を告げた。普段彼女の管理を一手にひきうけているレイチェルが姿を見せなくなれば何が起きたか隠し通せるものではないと判断したからだ。

ジュリアスはコレットにレイチェルの様子を見に行けと即座に命じた。自分の目で確かめねば却って不安が募りコレットが動揺することを案じた。ただしドア越しにレイチェルを確認するだけで救護室には立ち入らぬ様に、その後はすぐ部屋に帰り、詳細がわかるまでは部屋から絶対出ないことを厳命した。未知の病原体による伝染病だったりした場合、コレットに感染でもしたらとり返しがつかない。ここは聖地ではない。しかも未知の土地だ。自分たちの知らない病気や免疫のない病原体がいてもおかしくない。

ジュリアスは職員から現況を詳しく問いただし、即刻レイチェルの徹底した隔離と24時間体勢の監視を命じた。特に、コレットと陛下…アンジェリークは、絶対に救護室に近づけないように手配する。その後自分も救護室に向った。

救護室の前につくと、ヴィクトールが憔悴した面持ちで佇んでいた。コレットの姿はない。言われた通りに自室に引き上げてくれたかと安堵した。

「ジュリアス様、俺…私が一緒についていながらとんでもないことに…あの紫の嫌な靄があっという間にレイチェルの全身を覆って…」

「何?ヴィクトール、どういうことだ?レイチェルは病で倒れたのではないのか?銀の大樹に近づいたのか?そこで何があったのだ?」

そしてジュリアスは前述の事情を知ることになる。レイチェルは未知の病原体に倒れたのではない。銀の大樹から発生した紫の靄に包まれ意識を失ったということは…

「ラガ…もしやラガの仕業か…」

「はい、私も、ラガが関係していることは確かだと思います。私の不注意でした…」

「今、そんなことを言っても何にもならぬ。それより陛下の御前で起きた事を詳しく報告してもらおう。これがラガの襲撃だとしたら即刻緊急会議を開かねばならん。ここにいても我らにできることは何もないしな。」

ラガがレイチェルに何かしたというのであれば一般の病気より更にやっかいだ。ジュリアスは職員により一層の隔離と監視の強化を命じ、ヴィクトールと供にアンジェリークの執務室に急いだ。

途中、ロザリアに守護聖全員を緊急で召集してくれるよう頼んだ。アンジェリークにも報告は行っているはずだ。ロザリアに召集を依頼した時、彼女は何の理由も尋ねずてきぱきと即刻動いたから。

アンジェリークは不安げな面持ちで執務室にいた。

守護聖が集まるまでとりあえず、ヴィクトールに詳しい報告をしてもらうことにした。

「レイチェルは、今、絶対安静なのね…」

「は、体温が極端に下がって命を維持するのがやっとの状態です。痛み刺激にも反応しない最重度の昏睡で…今のところ何をしても意識は戻りません。」

「ジュリアス…これはラガね?紫の靄は多分ラガの思念の触手のようなもの…」

「間違いないでしょう。ただレイチェルを襲ったその目的がわからない…レイチェルの命を奪うつもりだったのか…だが、かなり力を失っているから、その場で命は奪えず昏睡させるのが精一杯だったのか…」

「そうね…酷な言い方だけど、レイチェルがいなくても育成に支障はないわ…だから、ラガにはレイチェルを襲う理由がない…育成を妨害する気なら、私かコレットを襲うのが本当でしょう?最後の足掻きで自分の一部をレイチェルに宿して再起を図るつもりかしら…」

「いや、本来はコレットが銀の大樹を見に行く筈だったのです。なので間違えて襲われた可能性も否めません。」

「それなら、ますますかわいそうだけど襲われたのがコレットじゃなくてよかったわ…あ、レイチェルを助けないと言っているのでなくてよ?もちろん全力でレイチェルの回復には取り組んでもらうわ。」

「陛下のおっしゃりたいことはわかります。レイチェルもコレットを救えたのなら彼女の役職を考えれば本望とさえいえるでしょう。」

替る者のいない女王を守るためにレイチェルが身代りになったことは大局的に見れば喜ばしいことなのだ、補佐官としてコレットの身が守れたと知ればレイチェルも本望だろう、自分も要人を守るためなら喜んでこの身を差し出すだろうと根っからの軍人であるヴィクトールは思うからだ。

「あ、そんなに深刻にならないで。もし、間違えられた、もしくは自分の一部を残すのが目的ならレイチェルの命はとりあえずは大丈夫だと思うわ。ヴィクトール、皆が集まる前にコレットのところに行って、安心させてきてあげてくださる?皆が集まったらお呼びするわ。」

「は…」

ヴィクトールが足早に宮殿を出ていった。ジュリアスは先刻から黙って何かを考えこんでいる。

「ジュリアス、どうしたの?」

「陛下の先ほどのお言葉を考えていたのです。ラガの目的は育成の妨害…そのためにコレットが邪魔だ…コレットを直接襲うことには失敗した…なら、次の手段として考えられることは…コレットさえいなくなればいいとあれが考えれば…もしや!」

「ジュリアス?」

その時、いきなりロザリアが息を切らして駆けこんできた。

「はぁはぁ、へ、陛下、ジュリアス、今救護室から報告が…レイチェルがいきなり飛び起きて、すごい勢いで職員を振り切り姿を消したそうです。とても女性の力とは思えなかったと…どこに行ったのかも見失ってしまったと…」

「いけない!陛下!もし、何が起きたのか知らないコレットにレイチェルの姿をしたものが近づいてきたら…コレットは!」

「!ジュリアス!大変だわ!コレットが危ない!」

アンジェリークも即座にその意味を理解した。人はその外見に容易く騙される、それが見知った人ならば簡単に側に近づけてしまう、どこか変だと思っても、とてつもない違和感を感じても…そして真実に気付いた時はもう逃げられないくらいそれは側にいるのだ。凌辱する事も命を奪うことも簡単にできるほどの距離に…

コレットの住居に最も近いのはこの仮宮だ、誰かを呼んだり待つ暇はない。アンジェリークとジュリアスは目で頷きあい二人揃って走り出していた。

 

ヴイクトールはコレットを必死に慰めようと苦慮していた。自分がついていながら力及ばなかったことを心から謝罪し必ずレイチェルを助けると言聞かせていたが、コレットの方はレイチェルが自分の身代りになったと気鬱は酷くなるばかりだ。無理もないのだが。

その時、唐突にドアが勢い良く開き、レイチェルがコレットの部屋に飛び込んできた。

コレットが驚きながらも喜びの声をあげる。しかし、ヴィクトールはレイチェルの何も写さない瞳に全身の力が萎えるような脱力とおぞましい気色悪さを感じた。

「待て!近づくな!コレット!」

直後にジュリアスが険しい表情で駆け込んで来た。続いてアンジェリークも。

一瞬コレットがジュリアスの怒声に床に縫いつけられたように動きを止めた。その間にジュリアスがレイチェルとコレットの間に割ってはいる。コレットは何が起きたのかわからず戸惑うばかりだ。

するとレイチェルの周囲に紫の靄がたゆたい、その口から出る見知らぬ女の声が、守護聖たちの努力を無駄なことだと嘲笑った。諦めて育成を止めろと。

「おまえはラガか!レイチェルにとりつくとは卑怯な真似を…」

ジュリアスがダガーをレイチェルに付きつけた。しかし、レイチェルの身体は勝ち誇ったようにわざとダガーの前に差し出される。

「おまえにできるのか、この娘の命を捨てても…」

「やむを得まい…」

コレットが悲鳴をあげる。ヴィクトールがコレットを制する。手の内を晒すわけにはいかないのだ。レイチェルの命を粗末にする気などない。しかし、その値打ちがわかればラガが強気に出る口実を与える。ラガは我々に指先一本で命令すればいい。刃物を自分の憑依している身体の喉笛につきたてるだけで育成など簡単に止めさせられることを知られてはならないのだ。酷なようでも、レイチェルの身体を質に取ってもそれに意味はないと敵に思わせねばならない。その間になんとかレイチェルの身体の自由を封じねば、とヴィクトールがレイチェルの隙を狙っているその時だった。ジュリアスがレイチェルの腕を取ると同時に叫んだ。

「陛下!お力を!」

「まかせて!」

アンジェリークがサクリアで鎖のイメージで作りレイチェルの周囲に巻き付けた。途端にレイチェルの動きが止まった。

女王の力を怨嗟するぞっとするような呪詛の言葉を吐いてレイチェルは沈黙し、そして糸の切れたパペットのようにくず折れた。

レイチェルの身体を咄嗟にジュリアスが支えた。アンジェリークはほっとしたように息をついたが、その呼気は荒い。肩が大きく上下する

「これで…とりあえずは…だい…じょうぶ…ね…」

アンジェリークの顔からすぅっと血の気が引いた。目の前が突然ま暗くなる。レイチェルを追う様にアンジェリークの身体も床に崩れた。

「陛下!陛下!お気を確かに!」

慌ててアンジェリークを抱きおこすジュリアス。軽い。また軽くなっている…蒼白な顔で意識が朦朧としているアンジェリークに声をかけながら、動転しそうになる自分の心も必死に鎮めようとした。

その声を遠くでアンジェリークは感じていたが、それはどんどん遠のき…遂には掴めなくなった。

残り僅かなサクリアを無理に絞り出す様に急激に放出したため電圧がおちる如く意識が途切れた。それはアンジェリークの身体を守ろうとする無意識の防御反応だった。

「陛下!ジュリアス様!ご無事ですか!」

そこにオスカーが駆けつけた。緊急召集を受けて宮殿に赴けば、僅かの差でアンジェリークとジュリアスがコレットの住居に向ったと聞き即座に踵を返した。その場に足を踏み入れるなりただならぬ様子を理解した。

「良いところへ!オスカー!すまん、陛下を宮殿にお連れして介抱の手配を頼む。私はレイチェルを研究院に運んで今後の指示を下さねばならぬ。ヴィクトール、そなたはコレットの側についてやっていてくれ。」

「はっ」

瞬時に状況を読み取ったオスカーは余計な質問は何も鋏まずに軽々とアンジェリークを抱きあげて仮宮に急いだ。

アンジェリークの事が気懸かりでならない。自分はどこまで過酷な運命を愛する女性に背負わせてしまうのだろうか…しかし憂慮に心を曇らす時間すら、今のジュリアスにはない。ジュリアスはレイチェルの身体を抱き上げ王立研究院に急いだ。

 

レイチェルの身体を王立研究院の奥深くに安置する。今はアンジェリークの残留思念がその身を縛っているが、レイチェルに憑依したラガは自由を取り戻せば、その身体を盾として育成の中断を迫るだろう。絶対に体の自由を与えてはならないので、惨い事は承知できつく拘束しなければならなかった。その上で目を離さぬ様厳命してから、ジュリアスは急ぎ宮殿に戻った。

アンジェリークは私室で安静を取っている。よく眠っているようだ。ロザリアが側についてサクリアを放射している。昏倒はサクリアの急激な減少のせいではないかと思うので、輸血をする如くできる限りサクリアを与えてみるといいかもしれないとオスカーが提案し先刻まで手伝ってくれていたという。私にはあまり大した量は出せないのだけれどオスカーも手伝ってくれたから…実際、顔色が少しよくなってきたのよ、とロザリアが言った。

ジュリアスはそのままアンジェリークをロザリアに預け、女王の執務室に向った。彼女を案じる気持ちも一時棚上げにして、各守護聖と今後の対処を相談しなければならない。守護聖たちはもう執務室に皆集合していた。当事者であったヴィクトールにはコレットの護衛を依頼してしまったので、ジュリアスは自分自身で、ざっと、しかし、要点をまとめて今起きた事の顛末を説明した。

「窮鼠がこのような形で反撃してくるとは…しかし卑劣な…」

「それだけ、追い詰められてるってことでしょ、敵も。そう思わないとやってられないね。」

「レイチェルも…それに陛下も大丈夫なんでしょうか…」

「マルセル案ずるな、陛下の昏倒は一時的、一過性のものだ。いわば貧血のようなもので間もなくお気づきになられるだろう。レイチェルの方は…本体が滅すれば触手である憑依体も滅する。本体なくして生きていられる触手など存在しないからな。」

自分でも確信があるわけではない、アンジェリークの容態も敢えてなんでもないことのように冷静に言わねばならないことが、ジュリアスの胸を締めつける。

「そうだ、こんな時に俺たちが動揺してたらお目覚めになった陛下に笑われるぜ?親においてきぼりにされた子供じゃあるまいし…俺たちが陛下をお助けするんだと思わなければ何の為の守護聖だ?俺たちが育成をすればエルダが目覚める、目覚めたエルダがラガの本体を叩けば、めでたくレイチェルの意識も戻る、だから、俺たちは迷わず育成を進める、それをわかってもらえるようふさいでるコレットを勇気付け励ます。これしかないだろう。」

「実際、それしか私たちにできることはございませんね…」

「陛下のお言葉を思い出せ、邪魔が激しくなるってことは、正しいゴールに近づいてるってことだと、陛下もおっしゃっていただろうが。つまり、俺たちは正しいんだ。これほどの妨害を受けているんだからな。」

自信満々のオスカーの言に若者たちの瞳から動揺が消えていく。視線は合わせず微かな笑みを唇に乗せつつオリヴィエが目立たぬ様にオスカーのわき腹を小突いた。オスカーはふっと片頬で笑んでそれに応える。ジュリアスが安堵したように言葉を継いだ。

「うむ。あと、僅かで封印を解くエネルギー量も溜まる予定だ、オスカーの言う通りこれが最善最短の道と信じ皆でコレットをフォローしてもらいたい。ルヴァ、すまんがコレットへの説明役はそなたに頼む。コレットを怯えさせないよう、しかし、育成を行う事がレイチェルを救うことになることを信じさせてやってくれ。では、今日はこれにて解散する。」

ジュリアスは慌しく方針をまとめる宣言するや否やそそくさと宮殿の奥に消えた。守護聖たちもそれを受けて退出していく。しかし、オスカーは何やら思案顔で動こうとしない。

常ではない忙しさがジュリアスの今の気持ちを何より雄弁に物語っているとオスカーには思えた。ジュリアスの憂慮の深さにふと不安を覚えた。

「オスカー、戻らないの?」

「ん?ああ、陛下の護衛を強化したほうがいいか考えていた…ジュリアス様に相談してみるかと思ってな…」

咄嗟にもっともらしい事を言いつくろって同僚には先に帰っていろと手で合図し、オスカーは一呼吸置いてから宮殿の奥に足を向けた。

 

「ロザリア、陛下はまだお目覚めにならぬか?」

「ああ、ジュリアス、でも、顔色がもう戻っているでしょう?そんなに心配はいらないと思うわ。」

「そうか…ここは私が変わろう、そなたはもう休むといい。明日はレイチェルの替りにそなたにコレットのフォローを頼まねばならぬからな。」

「では、お言葉に甘えて…あなたがいる方がアンジェも嬉しいだろうし…」

「…」

ジュリアスは無言で頷きロザリアを見送った。アンジェリークの額に掛かる髪をかきあげる。確かに頬に微かに朱が差している。ジュリアスは安堵の息を長々とついた。しかし逡巡は増しこそすれ消えたわけではない。

あの場ではああするより仕方なかった。レイチェルの動きを封じるのにアンジェリークの力を借りるしか…しかし、そのためにまた、彼女に更なる負担をかけざるを得なかった。この昏倒は確かに一時的なものだが、多少サクリアを集中させただけで、意識のレベルが維持できないほどに消耗はもう限界まできている。エルンストも言っていた。実はアンジェリークのサクリアは意識を保っているのが不思議なほど僅量しか残っていないのだと。

ラガを倒さねば我らに未来はない、しかし、それがアンジェリークの犠牲に上に成り立つものであることが、ジュリアスをやり場のない憤りと鬱屈で苛む。これ以外どうしようもないことはわかっている。彼女自身が自分の境遇に不満を述べている訳でもない。しかし、一人の女性にこれほどの苦渋を舐めさせる権利が一体誰にあるというのだ…

「すまぬ…アンジェリーク…そなた一人に苦労をかける…私は…私は間違っていたのだろうか…そなたを女王にと望んで…私がそなたを女王に推さなければ、そなたをこのように苦しめずに済んだのだろうか…私が自分の信を曲げてもそなたを補佐官に据えていれば…」

「……そんなことはありますまい…それに、ジュリアス様のそのようなお言葉を聞いて陛下はお喜びになるでしょうか…」

「オスカー…」

顔を上げずとも声でわかった。ジュリアスはこの場にオスカーが来たことに何ら疑問が涌かない。むしろ当然のような気がした。だから口調は落ちついたものだった。

「申し訳ありません、陛下のご容態が気に掛かって参ったのですが、いらぬ差し出口を…」

「私の言を聞いたか…しかし、そなたは驚かぬな…やはり…知っていたのだな…」

「はい…」

二人の男は黙ってアンジェリークの顔を見つめた。

「…オスカー…私はアンジェリークを女王にと望んだ自分を正しいと信じてきた…しかしこんな彼女をみていると…彼女を女王にしたがために…私が彼女を女王にと望んだ為に彼女には一方ならぬ重圧と苦悩を背負わせてしまったのではないかと迷いを感じずにはおれぬ…本来なら幸せにしたいと、笑顔を守りたいと思う女性に私が与えたものは…その反対の物ばかりのような気がしてならぬ…今更ながら彼女を女王に推すべきではなかったのかなどと…無益な考えだと思う…思うのだが…」

「ジュリアス様、アンジェ…陛下は、人に言われたからといって…それが愛する男性の言だからといってそれをそのまま鵜呑みにし、言いなりになる女性でしょうか?」

「!」

「ジュリアス様も本当はおわかりのはずです。陛下は聡明な方です。自分で考え、自分で判断できる。でも、自分一人では荷が勝つと思うようなことなら自然に助言を求めることもできる。自分一人でできること、できないことの判断を極自然と線引きのできる…真実賢いお方です。そんな方が誰の意見であれ盲従されるでしょうか…陛下はご自分の判断で女王位につかれたのです。ご自分で考えご自分で決意されたのです。陛下が女王に即位したことを後悔したり、それをジュリアス様に責任転嫁するとは俺には思えない…それは、陛下がご自分の意志で決断されたからです。そして、実際陛下ほどこの時代の女王に相応しい方はいなかった、俺はそう思います。」

「ああ…こんなことに巻きこまれても、ここまでのことができたのはアンジェリークならばこそ…それはわかっている、わかっているのだ!しかし…私が彼女を女王にと望まなければ…補佐官にしていれば…彼女は…もしや彼女をあんな辛い目に合わせずにすんだのではないか…そんな思いに時折どうしようもなく苛まれる…こんな彼女の姿を見ていると特に…」

「しかし、陛下のご苦労は、この時代の女王であれば誰でも被っていた可能性が否めません、陛下が被らなければ即ちロザリアの肩にかかっていた苦労かと…」

「よい、無理に理屈をつけて取り繕わずとも…私がいいたいのは…彼女に女性として最も辛い経験をさせてしまったというその苦い事実だ…女王として幽閉されていなければ…その上力を全部吸いとられてなければ…退けられたかもしれんあの惨劇だ…」

「ジュリアス様…それはどういう意味…」

「いいのだ、オスカー…もう、いい…だが、そなたは今までずっとこうして彼女を守ってくれていたのだな…誰からも隠し通すことで…全てはアンジェリークのために…私からも礼を言う。彼女を守ってくれていたことを…だが、私にはいい、私も知っている…彼女の身におきたことを…彼女の受けた暴虐を…」

オスカーは大きく嘆息した。

「………ご存知でいらしたのですか…彼女からお聞き及びに?」

「いや…そうではない…彼女からは何も…だが…」

その時、アンジェリークが苦しそうにみじろぎした。

二人の男は慌てて口を噤んだ。

「少々声が高かったようだ…すまぬ、そなたさえよければ、隣室で少し話しをせぬか?いや…私が…そなたと話したいのだ…だが、彼女が目覚めた時に側にいてやりたいので場所は変えられぬからな…」

「俺でよければ…」

ジュリアスとオスカーは女王の私室の居間にあたる部分に居を移した。アンジェリークの気配がすぐ察せられるよう、寝室のドアは敢えてきちんと閉めずに少し開けておいた。

 

『ん…』

アンジェリークは先程から自分の耳に入ってくる音を振り払う様に首を振った。その音は耳に心地良く慕わしく響くものだったが…でも、今は静かに休んでいたい…そう、思って音源と反対の方向に無意識に寝返りを打った。それでも、その音は容赦なくアンジェリークの神経に触れてくる。

『何…何か聞こえる…何を言ってるの?…』

少しづつ知覚の閾値があがってくる。耳に入ってくる音が意味を持ち始める…

 

主が不在の私室で男二人は敢えて視線を合わせぬまま、テーブルを差し挟んでいる。

話しがあるといいながら、ジュリアスはその端緒を探しあぐねているようだ。それを見取ったオスカーはとりあえず自分の懸念を先に口にした。

「ジュリアス様、ぶしつけで申し訳ないのですが…ジュリアス様が陛下の身におきたことを知っていることを…陛下ご自身はご存知なのですか?」

アンジェリークから直に聞いたのではない…ジュリアスは確かそう言っていた。ということは、ジュリアスがアンジェリークの悲劇に気付いたことを、アンジェリーク自身は知らないということもありうる。一体ジュリアスは何故気付いたのか…気にならないでもなかったが、それは重要ではないから敢えて聞かなかった。そういえば、ジュリアスの方も、何故、どうして自分がその事実を知っていたのかを尋ねようとしない。自分が彼女に力をぶつけられたことで気づいたように、ジュリアスにも悲劇を類推しうる出来事があったのかもしれない、供臥しした時に彼女がうなされたか、うわごとが漏れでたか…考えればジュリアスが気付く要因はいくらでもある。が、それは本質的に重要事ではない。だから、俺もジュリアス様もそれを互いに尋ねようとはしない。問題は…大事なことは、どうすればアンジェリークを守っていけるか、それだけだから。

ジュリアスは、話の端緒をオスカーが開いてくれたことに安堵したような声で応えた。

「いや、知らぬ、知らぬと思う。少なくとも私からは知らせてない…それで…私は自分がどうすべきか考えている。ずっと…考えているのだ…もう、知っているから無理せずとも良いと言ってやった方がいいのか、彼女はいいたくなさそうだったから素知らぬ振りをしていたほうがいいのか…自分でも、どうしてやった方が彼女が楽になるのか…いまだ確信が持てぬ。今は、何も告げていないのだが、このままの方がいいのか、いけないのか、結論を出す決め手がみつからぬ…」

以前、アンジェリークが何かに悩んでいることは気付いていてもその悩みの正体がわからなかった時は、ジュリアスはアンジェリークが何に悩んでいるのか、もし、聖地に帰れることがわかればその時再び尋ねてみるつもりだった。そして悩みがあるのなら2人で考え解決していこうと言うつもりだった。しかし、彼女の苦悩の理由を知り、単純にそうすることができなくなった。それを一概に良い事とはいえなくなった。二人なら解決できるという問題でもなければ、また、無理矢理聞き出してもいいような問題ではないことをどうしようもないほど理解したからだ。真実を白日の元に曝すのが単純に良い事と言えぬ問題だからだ。そして、ジュリアスはいまだに結論が出せないでいる。聖地に戻れたら…どうすべきなのか…アンジェリークにどう接するのが一番いいのか…

そして、これが、ジュリアスの話したいという用件かとオスカーは判断した。ジュリアスの逡巡は痛いほどわかる。自分だってあの晩、彼女の方から訪ねてきてくれるまでは彼女にどう接すればよいのか途方にくれていたのだ。『手助けさせてほしい』といえたかどうかすらわからない。

「陛下ご本人は…ジュリアス様には知られたくない、知らせたくないと仰せでした…しかし、それは…」

「知られたくない…か…いや、彼女に私への不信や隔てがあるから言えないのではなく…恐らくは私の心情を慮って言うに言えないのだろうな…しかし…やはりそうか…私には知らせたくないと…はっきりそう言っていたのか…」

「それはそうなのですが…」

「いや、わかった。それが彼女の望みとはっきりわかってよかった…」

オスカーがまだ何か言いたそうな様子をジュリアスは敢えて遮り、顔を落としたままふぅと吐息をついた。

「そうか…ただな…それでは、私は何も知らぬことになっているから、今もそうだが、これからも表だってあれを慰めいたわってやることができぬ…それがもどかしいが…しかし言いたくないことを無理に聞き出すような惨い真似もできぬからな…あれが何かに悩んでいることにはずっと以前から気付いていた。それが気に掛かり問い詰めたこともある…何か悩んでいるなら打明けてほしいと…それでもあれは何も言わなかった、辛すぎてどうしても言えなかったのだろう…今となっては詰問するように問いつめてしまったことも悔やまれる…」

「ジュリアス様…」

「私には何も知らせたくないと思っている彼女に、私はかけてやる言葉がない…その代りといっては何だが…オスカー」

「はい…」

「事情を知っているそなたが…それをアンジェリークも知っているそなたが、これから、彼女を影となり日向となって支え慰めてやってはくれないだろうか…」

「ジュリアス様…それは…」

オスカーは思わず椅子から立ちあがりかけ、それをジュリアスは首を振って受け流す。

「今、既にそなたの存在自体が彼女の慰めになっているように私には思えるのだ…アンジェリークは…最近、以前より精神的には落ち付いてきたような気がする。体力的には消耗し切ってるいるにもかかわらず、穏やかに笑む。以前の様に、いや、前以上に静かな、穏やかな、澄んだ笑みを見せるようになった。そして無闇に激昂したり、何かに怯えるような仕草が格段に少なくなってきた。きっと、全ての事情を知り相談しようと思えばできる人間がいることが良く作用しているのだろう。だから…オスカー、これからもそなたが…」

「…いえ、それは…俺にはできません…」

皆まで言うまえにオスカーが静かにジュリアスを遮った。

「どういうことだ?オスカー」

ジュリアスが心底意外そうな声を出した。そこには欠片も怒気はない。ただ、アンジェリークを慰撫する依頼をオスカーが断ったことが信じられなかった。

オスカーは、あくまで静かに落ちついた口調で考えを語る。

「陛下を日向で支えるのは…いや、影でも日向でも支えるのはジュリアス様であってしかるべきだからです。ジュリアス様でなければならないからです。俺ではなく…」

「しかし、それは私には…」

「いえ…俺は常々、ジュリアス様には真実を知らせるべきだと思っていました。しかし、事は彼女の問題である以上、彼女が望まないのなら、それを第3者である俺から知らせることはできませんでした。そして事情を知っているのが俺だけであったから、俺は彼女の相談相手になろうとしていました。」

「ああ…」

知っている、どれほど自分が探りをいれようと決して何も掴ませなかったオスカー、アンジェリークに負傷させられた事実を隠し通したオスカー、しかし、自分には何もかも打明けた方がいいと、アンジェリークに助言していたことも自分は知っている。だから、私はこの男を信頼できるのだ。その信義の厚さも、その能力も…アンジェリークを守ろうとするその想いの熱さ強さも…

「しかし、ジュリアス様が既にご存知ならば…話しは別です。もう、俺が替りに彼女の悩みを聞く必要もない。最も彼女が頼りにしている男性がそのまま守り人となり、支えとなれるのですから…」

そう、俺はもう必要ない。実際俺の役目はもう終わっている。彼女を抱くという乱暴な手段ではあったが彼女が俺と偽者を混同する怖れをなくした。確かにこの方法だけは…俺でなくてはできないことだったと思う。しかし、傷口を刺激する要因を失くした今、彼女の傷はもうおいそれと開くことはないだろう。あとは、ゆっくりと傷跡を薄くしていくだけだ。傷跡を優しく労るのは…それが最もよくできるのはジュリアスなのだから。ジュリアスが事情を知っているのならそれが一番いいのだから。もう俺がなすべき事は何もない。

「いや、しかし、それを…私が知っていることを私は彼女に言うことができぬ。彼女は私に知られたくないのだろう?それでは私は表だっては動けぬ、やはりそなたという存在がいてこそ…」

「ジュリアス様、陛下がなぜ、ジュリアス様に知らせたくなかったか、その訳をご存知ですか?」

「それは…女性がそのようなことを、認めるのはどうしようもなく辛いという事実と…それを知った私が悔恨にうちのめされると案じたからだろう…確かに、私はその事実を知ったとき後悔に苛められた。彼女が最も救いを必要としていたときに側にいてやれず、彼女を助けられなかった悔恨に打ちのめされた。自分の迂闊さをどれほど呪ったことか…だが…本来、私の感情など考える必要などないのだ、なのに、あれはいつも自分のことより、他者の感情を考えてしまう、最も辛いのは自分であるのに…最も苦しいのは自分であるのに…それでも、他人の苦しさをまず考えてしまう…」

「俺にも…俺を傷つけてしまったと、彼女は謝りました…そんな必要はないのに…最も辛いのは彼女なのに…でも、彼女はまず自分の痛みより他者の痛みを強く感じてしまうから…」

「ああ…」

「でも…俺はこう思うのです。ジュリアス様が既に事実をご存知だとわかれば、彼女ももっと力を抜くことができるのではないでしょうか。ジュリアス様を傷つけまいと張り通しの神経を少しでも緩めることができる…それに彼女自身、ジュリアス様に自分が辛かった、苦しかったと率直に吐き出せるようになれば楽になる…それに…何が起ころうとジュリアス様の愛が揺るぎ無いと知れば、それも彼女の力になると思うのです。」

「な…!当たり前だ!自分の迂闊さを責めこそすれ…なぜ彼女への愛が揺らぐ?彼女は…そんな不安を抱えているのか?…助けてやれなかった…気付いてやれなかった…そんな自分を責めこそすれ、私が彼女を愛する気持ちが何故揺らぐと思う?そんなこと在る訳がない…」

「いえ、陛下はジュリアス様を信じています。ジュリアス様の愛が揺らぐことはないだろうと…でも、『だろう』はあくまで仮定なのです。実際に『揺らがなかった』という事実の方が、より彼女の心を力づけられると俺は思うのです。それに…彼女が真実を言いにくいのは、ジュリアス様が何もご存じないと思っているから…それこそ一から克明に状況を説明しなければならないということが、重荷になっているということもあるのです。何も知らない、そんなことを想像だにしたことのない相手に、それを告げなくてはならないとしたら…これは相当に気の重いことでしょう、相手にショックを与える、相手からどれほど痛ましい視線を向けられるか、それを思うと辛い…その相手がジュリアス様であっても、そんな不安はあって当然なのです。でも、ジュリアス様の方から事情は知っていると仄めかしてあげれば、彼女は辛い事実を克明に口に出さなくてすむ。全て口に出さなくても、その辛さをわかってもらえる。わかってもらえる方がいいに決っているのです。受け入れ共感してもらうこと、それが最も心を癒し、慰めてくれる方法なのですから…ジュリアス様も全て話す必要はないでしょう、ただ、わかっていると…皆まで言わずともわかっていると彼女に告げれば、彼女も『辛かった』と言えるようになるでしょう。それだけで…いえ、それこそが、救いになると俺は思うのです。彼女はそれを今までは俺にしか吐き出せなかったが…ジュリアス様が受けとめて下さるのなら、その方がいいにきまっている…俺はそう思うのです。」

「そう…か、そうかもしれぬな…私が知っていると…無理に隠さなくていいのだとわかれば…あれも気が楽になるか…そうとわかれば話しやすいかもしれぬな…そうすれば、私も、あれをもっとはっきりと気遣ってやれる…」

「ええ、その方が…俺はいいと思います。彼女のために…それに、ジュリアス様、考えてみてください。愛する男性が…自分の最も愛する男性が苦しみや痛みに怯まず直接自分を支えてくれるのと…いくら彼女を傷つけないためとはいえ…傷に手を触れて痛がる事を怖れるあまり自らは退きそれを他人に託されてしまうのと…彼女にとってはどちらが本当に嬉しいのか…結果としてどちらがより幸せなのかを…」

ジュリアスがはっとしたようにオスカーをみやり、直後に何かを決めたように静かに嘆息した。

「ああ…ああ、そうだな…傷つけぬことと守ることは似ているようで非なるもの…考えてみる…どのように切り出すのが良いのか…すべてはこの地から無事に生還してからだが…」

「はい、そのためにも、あと1歩、画竜点睛を欠くようなことにならぬよう、コレットを力づけなくてはなりますまい。では、俺はそろそろ失礼します。陛下がお目覚めになる前に…」

「ああ、彼女の容態は私が見ている。オスカー、いろいろ済まなかった…礼を言う…心から礼を言わせてもらう…ありがとう。」

「いえ…」

オスカーは重い甲冑をつけている身で音もなく立ちあがり流れるような動作で一礼し、退出した。

 

仮宮を出たオスカーを静謐な夜が出迎えてくれる。

『よかった…』

オスカーは心の底からそう思っていた。

ジュリアスがアンジェリークに起きた悲劇を知っていてくれたことも。アンジェリークの精神は、ジュリアスから見ても安定してきているようだとわかったことも。何より、これからはジュリアスがはっきりとアンジェリークを気遣い支えていくという決意を聞けたことを。

あの時、ジュリアスが己の信条への迷いを口にしているのを聞き、思わず声をかけてしまった。見てみぬ振り、聞かなかったことにして立ち去ることもできたのに、そうしなかった。ジュリアスに迷いなど抱いてほしくなかった。ジュリアスが揺らいでしまったら、アンジェリークの決意が、あの決断が無為になってしまうような気がした。アンジェリークは…ジュリアスも感じとっていたが、身体の消耗と裏腹に精神はかなり安定してきている。自分が突然執務室を訪れても、自分とランディが目の前で会話をしていても、あからさまな動揺はもう見えなかった。せっかくアンジェリークの精神が安定しつつあるのに、それは皆ジュリアスを哀しませない為にアンジェリークが選んだ行為の結果なのに、なのにジュリアスが迷いを抱いてしまったら、その結果アンジェリークを手放すようなことになってしまったら、彼女のあの必死の決心が無駄になってしまう。その憂慮がオスカーを突き動かしたのだった。

だがジュリアスの迷いが、アンジェリークの身に起きた悲劇を知っている故だとは、オスカーも想像していなかった。しかし、すぐに、その方が良いのだと気付いた。

ジュリアスがアンジェリークの身に起きた事を知っており、それをアンジェリークに知らしめられれば彼女も遠慮なくジュリアスに助力を仰ぐことができるようになる、弱さを見せられるようにもなる。たまさか弱音を吐いても、心が不安定に揺らいでも、思いきり泣いても訝しがられることなしにそれを受けとめてもらえる、彼女は自分の感情を何も糊塗する必要がなくなる。何も隠さなくていい、何の説明もいらないというその事実は彼女の心を確実に安らげるはずだ。

どれほど心の強い人間でも辛いとき、苦しい時はある。そんな時、それを分かち合える相手がいれば、理解しまっすぐに受けとめてくれる相手がいれば、一時しゃがみこんでも、人はまた立ちあがって歩きだせるものなのだ。特に彼女のような健やかなにしなやかに強い心を持っている人間ならば…

そして、それは本来ジュリアスの役目なのだ。ジュリアス本人もそれを願っていたのだし…アンジェリークにとってもそれが一番いいのだから。

でも、ジュリアスは…アンジェリークの身におきた悲劇を知ってしまった事を彼女には知らせず、しかし彼女を癒したいと思い、オスカーにアンジェリークへの慰めを託そうとした。意外なようで、ジュリアスなら当然の結論かもしれないとオスカーは思った。自分もまた、彼女の傷を少しでも癒せる行為があるのなら、それは自分自身が行うものでなくてもいいと考えていたことがあったから。彼女が少しでも楽になることが大事であり、それを誰が行うかなど問題ではなかった。だから、自分一人しかこの事実を知らなかった時から、オスカーはジュリアスには事実を打明けた方がいいと考えていた。彼女が本当は誰に理解してもらいたいか、誰に受けとめてもらうのが最も幸せなのかはわかりきったことだった。しかし、最も近しく愛しく思う相手だからこそ、言えない、言いたくないという彼女の心情もまた等分に真実だったから、オスカーはジュリアスには何も言わずに一人で彼女を受けとめ支えてきた。

だが、そうだ…ジュリアス様が俺の許に、彼女のことで何か思い当たることはないかと訪ねていらした時、俺は彼女の問題を言うに言えない事が心苦しくてたまらなかった。とにかく彼女を楽にしてやりたかったことに加え、ジュリアス様の真剣な想いがわかったから、余計に申し訳なかった。そして、俺はその時…いつか適当な「時」が来たら…話してもいいと思える時が来たら、きっと相談すると約束したのだ。ジュリアス様は覚えていないかもしれないが、約束したなどという認識はないかもしれないが…その時、俺は確かに自分自身にそう誓ったのだ。そして、その時から、俺はアンジェリークが誰より頼みにし信じているのは、そして、アンジェリークの側で彼女を支え守るべきはジュリアス様であると思っていたのだから。そして、俺は自分だけが知っている約束であっても、それをなんとか果したいと無意識に思っていたのかもしれない。だから、ジュリアス様に思わず声をかけてしまったのかもしれない。こんな風に話せることを心の底で願って…

でも、あの時、声をかけて本当によかった。これで俺の為すべきことは全て為した。今、本当にそう思える。俺にできることは、俺のすべきことは今はもう何もない。

だが、そう思っても寂しくはない。むしろ、喜ばしいことだ。

後は…そう、後、俺にできることは祈ることだけだ。2人の人生ができる限り重なっていくように、オスカーは坦懐に心からそう願った。

こればかりは、自分たちの意志や努力ではどうにもならないことだったから…オスカーは願うことしかできなかった。

天に神というものが真におわすなら、どうか…と願わずにはいられなかった。

これほどの困難に苛まれ、それでも常に自分自身より愛する存在を互いに大切に守ろうとしていた比類なき愛深き恋人たちに…どうか、祝福と加護をと願わずにはいられなかった。

もう、俺が相談相手になぞならずに済む方が絶対に喜ばしいのだから…そう考えながら、オスカーは静かに天を振り仰いだ。

 

暇乞いを告げる低く抑えた声。僅かに触れ合う金属音。人の出ていく気配。

ドアの閉まる音の微かな残響が納まると、静かな衣擦れの音が聞こえてきた。その衣擦れの音が近づいてくるようだ。

アンジェリークは滂沱と頬を伝う涙を慌ててぬぐい、瞳を閉じて呼気を整えた。目覚めていたことをジュリアスには気付かれたくなかった。今、2人の話を聞いてしまったことをジュリアスには気付かれたくなかった。


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